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ニューディール期における大規模公共事業の展開 : 開墾局による水資源開発を中心にして

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ニューディール期における大規模公共事業の展開

―開墾局による水資源開発を中心にして―

二 橋   智

目   次 Ⅰ はじめに Ⅱ ニューディール以前の開墾局の活動とその政治的・経済的背景 Ⅲ ニューディール政策と開墾局事業の変容 Ⅳ 結びに代えて―事業拡大の法的裏づけと自然保護との摩擦

Ⅰ はじめに

 本稿の目的は、1902 年の開墾法(Reclamation Act)の成立により活動を開始した合衆国内務 省開墾局(United States Department of the Interior, Bureau of Reclamation. なお、開墾局となっ

たのは 1923 年(1))のニューディール期にいたる活動と大規模公共事業の事業主として展開してい

く過程を考察することである。開墾局は第 2 次大戦後のダム建設ブームの時期、連邦機関のなか で陸軍工兵隊(Army Corps of Engineers)とともにその担い手として活動した組織である。し かしながら開墾局は発足当初から大規模公共事業の推進機関として設置されたものではなかった。 第 1 次大戦後はその活動が低迷する中でニューディールというアメリカの政治・経済制度の大き な変革により生き残り、やがて巨大組織として君臨していくことになったものである。本稿では、 1920 年代までの連邦による開墾事業を取り巻く状況と、大恐慌を契機とするアメリカ社会の変容 の中で、開墾局が本来の設立目的からの乖離を余儀なくされながら、巨大連邦機関としてその事 業を拡大していく過程を跡付けてみたい。

Ⅱ ニューディール以前の開墾局の活動とその政治的・経済的背景

 世紀転換期のアメリカは、革新主義の時代であった。独占の形成やそれに伴う富の不平等な分配、 密集した都市生活と貧困、さらに天然資源の過剰利用など、経済発展至上主義に対するに弊害が 広く国民に認識されるようになっていた。この時代はまた自然保護運動の興隆期でもあった。アメ リカ人の中に自然に対する新たな価値観が生まれ国立公園の設立・整備をはじめ、自然保護の運 動が起こってきた。「フロンティア・ラインの消滅」はそうした動きを促進することになった。行き 過ぎた産業化に歯止めをかけ自然環境を保全するために連邦政府への期待が高まっていったので ある(2)  こうした時代、共和党のセオドア・ローズベルト政権の下、西部諸州における自営農場創出のた

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めの灌漑農地の整備を目的とする開墾法が制定された。その背景として、フォークナーがいう以下 のような状況をあげることができよう。すなわち、「20 世紀の開幕とともに、アメリカの農業はそ の歴史上、以前とはすっかり違った新時代にはいった。すぐに耕作できる土地の大部分は、1900 年までにすでに占有されていたから、耕作可能な土地の拡大は、乾燥地農法、灌漑や排水、もし くは森林その他、農場の未改良の土地の活用によっておこなわれる」ようになっていた(3)。「耕作 可能な土地」を拡大するため水需要は増大し、川の分水や貯水池の建設が必要となっていたが、 そうした施設の建設費用や技術は個人や私企業はもちろんのこと州政府にとっても大きな負担とな り、西部諸州の議員からは連邦政府による灌漑事業への投資が求められるようになった。一方、自 然保護運動の高まりは森林資源の保全を求めるようになったが、西部乾燥地帯では森林保護だけ では水の管理や保全には十分ではなく、貯水池のためのダム建設や州際河川の水利権の調整、運 河建設など多目的な水資源開発が必要であり、それらもやはり私企業はもちろん州政府の事業規 模をも超えた連邦政府の役割と考えられるようになっていった。このような状況の中、環境問題に 強い関心を持っていたローズベルト大統領は、森林や水資源などの自然保護と西部における灌漑 とを政策的に結び付けるべく、開墾法の制定に尽力したのである(4)  開墾法が制定されるとローズベルト政権時代に 24 のプロジェクトが開始され、灌漑事業に伴う ダムや導水路の建設、そして水力発電施設を伴う事業が進められた。しかし、それらの多くは計 画通りには進まず停滞してしまった(5)。開墾局が西部開発において再び重要な連邦機関としての 役割を果たすには 1930 年代まで待たねばならなかった。その大きな要因としては、第 1 次大戦期 の農業ブームの反動により 1920 年代に農業が慢性的な不況に陥ったことがあげられるが、開墾局 の活動が低迷したのはそれだけではなかった。  その第 1 の理由としてあげられるのは、同法に対する政治的支持基盤の弱さである。開墾法制 定のため設置された上下両院合同委員会は 17 の西部の州ならびに準州の議員から成っていたが、 それぞれが多様な利害と自州の利益を代弁したため開墾事業に対する合意点を見出すことは困難 であった。主要な対立点は開墾事業推進の際、州あるいは地域主体の灌漑地区を基礎とした分権 的手法を取るか、それとも連邦機関主導による中央集権的手法をとるかにあった。前者を主張する のはワイオミング州選出の共和党議員フランシス・E・ウォーレン(Francis E. Warren)、コロラ ド州選出のジョン・F・シャフロス(John F. Shafroth)、そして彼らのアドバイザーで 24 年から開 墾局長を務めたエルウッド・ミード(Elwood Mead)であった。他方、後者を代表したのは同法 の推進者であるネバダ州選出の民主党議員フランシス・G・ニューランズ(Francis G. Newlands)、 ノース・ダコタ州選出のヘンリー・クレイ・ハンズボロー(Henry Clay Hansbrough)、そして開 墾部の主任技師であり 07 ~ 14 年まで部長を務めたフレデリック・H・ニューウェル(Frederick H. Newell)であった。結局この対立点はウォーレンが重要な会議を欠席したためニューランズ派の

法案が議会に提出されることになったのである(6)

 しかし、中央集権的手法は西部の人々の反発を招くことになった。開墾法制定の背景に自然保 護運動があったことはすでに述べたが、当時主流を占めたのは、ジョン・ミューア(John Muir)

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らに代表される自然をありのままに残そうとする preservationist(=自然保存あるいは自然保護) の運動ではなく、ローズベルトにより森林管理部長に任命されたギフォード・ピンショー(Gifford Pinchot)に代表される conservationist(=自然保全あるいは資源保護4 4 4 4)たちの考え方であった(7) それは林学や水文学などの新たな科学的知見や技術を結合し、資源の無秩序な開発を抑え、経済 発展にあわせて資源を合理的・計画的に管理・利用していこうとするものでり、専門家による官僚 的計画や政府機関の機能・権限の拡大を伴うものであった(8)。しかしこうした連邦機能の拡大は国 民全体に受け入れられていたわけではなかった。すなわち、「ほとんどの西部人にとって、保護管 理(彼らはそれをしばしば『ピンショーティズム』と呼ぶ)は、西部の必要や要求に理解のない俗 物的な東部の官僚の勝手な非アメリカ的な政策であった。まだ残存しているフロンティアに近づい てみれば、無尽蔵という神話はまだ生きており、西部の資源利用者にとって森林などの公共保留 とか限定というものはすべて、原料をしまい込んで、個人の経済活動を制限することを意味した(9) のである。水資源の開発を望む西部諸州においてさえ、開墾法に対する支持は強固なものではな かったのである。  他方、東部や中西部の農民組織は政府による西部の灌漑農地の急拡大が 1890 年代のような農業 不況を再び引き起こすのではないかと恐れ、全国農民共済組合(National Grange)は、連邦によ る開墾計画に抵抗していた農務省と共に反対した。また、開墾法は灌漑施設の建設費用を、公有 地の売却代金と水利施設の受益者が支払う料金で賄うことを規定していたが、東部諸州の議員は それを一般財源から支出しなければならなくなる日が来るであろうと危惧していた。さらに開墾法 による事業が処女地に入植する者たちのためというより、すでに農場として成功した土地所有者 の利益となり、やがて彼らのために便宜をはからざるを得なくなるのではないかとの懸念を持って いた(10)。こうした危惧や懸念はやがて 1930 年代以降、開墾局がその事業を拡大していく過程で 現実のものとなっていく。  このような政治状況の下、ローズベルトはその支持基盤を拡大すべく同法が成立した 2 週間後、 突然事業計画の変更を内務省に提案した。すなわち彼は、「少数の大規模事業を行うよりもできる 限り公平にそれぞれの州に事業を分配することが最良である」と考え、完成が早く、連邦の開墾 事業の恩恵を受けやすいよう小規模事業を対象諸州に割り振ったのである。西部諸州における共 和党支持勢力の一層の拡大と(11)、アリゾナ、ニューメキシコ、オクラホマなどの準州での支持基 盤を固めることを目論んだのだった(12)。こうしてローズベルトが政権を去る 1909 年までに 24 の プロジェクトが開始され、開墾法対象のすべての州ならびに準州に少なくともひとつの事業が割り 当てられたが、その在任中に完成したものは一つもなく、幾つかの事業は田園をスラムのようにさ えしてしまったのである(13)  開墾事業が上記のように上手くいかなかった第 2 の理由は、開墾部による事業計画の見通しの 甘さにあった。開墾部の技師たちは全ての荒野は肥沃な土地であると考え、実際に事業が開始さ れるまで土壌検査も行わなかった。またほとんどの荒野は年に 1 エーカー・フィートの水があれば 灌漑に十分であると考えていたが、実際にはその 3 ~ 5 倍の水が必要であり、多くの事業で農民

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たちは水不足を訴えた。そのため多くの土地が放棄されることになり、入植した農民にとっても国 家にとっても大きな痛手となった。資源は連邦機関の科学的・効率的・計画的管理のもとで開発さ れるはずだったが、灌漑事業においてはその科学的知見が十分に活用されることはなかったとい えよう。  しかし、開墾部はそれを自らの責任とは考えていなかった。その背景には部長のニューウェルの 思想があった。彼は前述したように開墾部による中央集権的事業を主張した人物であるが、ピン ショーのような科学的知見に基づく価値観や効率性といった考え方を共有してはいなかった。連 邦の開墾事業への最初の入植者の 75%以上が入植後数年で消え去り、ほとんどの者が 10 年年以 内に失敗したことに対して、ニューウェルは、そのことをむしろ彼らの経験不足と甘い見通しのせ いにした。すなわち、「現今の入植者の特徴はかつて開拓時代にコミュニティーを構成した人々と は多くの点で全く異なります。ここにはかつての開拓者たちを支配していた協同の精神がありませ ん」と。さらに彼は、灌漑農地への入植者たちが「成功するか失敗するかは気候、土壌、市場な どによるのではなく、むしろ土地所有者の特性、すなわち経験や耐久力や健康状態、そしてなに より開拓者たちを特徴付ける資質である『打ち勝とうとする意思』をもつかどうかにある」と考え ていた(14)。ニューウェルにとって開墾部の活動とは灌漑施設を建設ことであり灌漑農民を育成し ていこうとするものではなかったのである。  灌漑事業が順調に進展しなかった第 3 の理由は、水利権などを定めているいる州=州権限との 整合性を見極めながら開墾部(局)の事業=連邦権限を行使しなければならなかったことである。 『森林と灌漑』誌(“Forestry and Irrigation”)が「開墾法ほど一人の政府官僚の手に制限のない

支出権限を与えている法律は恐らくないであろう」と記したように(15)、開墾法は内務長官に対し、 事業の選択、農場規模の決定、農場および町が必要とした公有地への入植の取り消し、既存のダ ムならび運河の買収および収用、建設契約の承認、各農民に義務付けられている政府への返済な らびに灌漑施設の運用維持費負担額の決定、などを行う大きな権限を与えていた。T・ローズベル ト政権時代には重要な決定は、実際には内務長官に代わって大統領自身か開墾部によってなされ たが、しかし、ローズベルトといえども州の権限に関連する事案については慎重にならざるを得な かった。ローズベルトは議会へのメッセージで、複雑に入り組んだ西部諸州の水利法や水利権に 配慮して、水の分配は州法に従って入植者自身に委ねるべき事を述べたうえで、「州および準州に おける灌漑事業を支援するための政策は、地域コミュニティーを構成する人たちが自らの利益にな るような方法で、そして州法ならびに灌漑事業に適用される諸規則の必要な改正を促す仕方で行 われるべき」ことを強調しなければならなかった(16)  また 1904 年、ニューランズらは開墾部の基金を補充する手段として、公有地での連邦政府の 灌漑事業を行う機会がほとんどなかったカリフォルニアのような州での「灌漑地区」(irrigation district)の活用を提案した。「灌漑地区」とは州によって認可された組織で、地区内の土地に対す る課税権や水力施設のための債券発行が認められていた。彼らは灌漑地区のこうした資金を利用 することにより、開墾部の事業費負担を抑制しようと考えたのである。しかしながら開墾法はこの

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ような連邦と州による混合事業を認めていなかったし、東部や中西部の議員は開墾法の適用が一 層拡大されるとしてその提案を無視した。さらに、多くの西部人は連邦の灌漑事業に組み込まれ ることは彼らの水が連邦の統制下に入ることを意味するものであると反対した(17)。そのため開墾 局が 1910 年以降慢性的な資金不足に陥ったときに州への支援を求めても、たいていの場合、協力 を得ることはできなかったのである。  さらに農業不況下にあった 1920 年代、開墾部(局)は西部諸州に対して灌漑事業での一層の役 割分担を求めたが、州の政治家たちは、「灌漑農地を供給することは国の責任である、もうこれ以 上灌漑農地に対する需要はない、混合事業は水利権に対する州の管理を脅かすことになる、州は 負債に関する法的制限により土地を購入したり、耕作のための土地を用意したり、灌漑・排水施 設を建設することはできない」などと言ってそれを拒否した(18)。このように連邦主導の灌漑事業 に対して州からの積極的な支援や協力は得られなかったのである。  最後に、開墾事業低迷の第 4 の要因として、開墾法の規定自体の問題点があげられる。同法は 事業基金として公有地売却代金があてられることになっていたが、それぞれの州ならびに準州で 売却された公有地代金の少なくとも 51%はその州・準州の事業に充当しなければならなかったた め、売却可能な公有地を十分に保有する州とそうでない州とでは事業費に格差が生じることになっ た。また灌漑事業の水を利用できるのは 160 エーカー以下の土地所有者に限られ、事業に投じら れた連邦資金はその便益を受けた水利用者が事業開始後 10 年以内に返済すべきことが定められて いたが、この規定は入植者にとって非常に大きな負担となり、先に述べたようにほとんどの入植者 が去っていくことになった。この面積制限と事業費返済の規定は開墾事業推進の桎梏となり、次 第に事業費充当のための措置と返済規定の緩和が講じられていくことになった。まず、1906 年都 市用地ならびに電力開発法(1906 Town Site and Power Development Act)により、開墾事業 で建設されたダムによる発電事業の中から余剰電力の販売収入を事業費の返済に充てることが認 可された。1911 年のウォーレン法(Warren Act)では開墾事業対象外の土地所有者に対しても 余剰水の販売が認められることになった。さらに、1914 年の開墾拡大法(Reclamation Extension Act)では返済期限が 20 年に延長され、さらに 1926 年の一括調整法(Omnibus Adjustment Act)では、農産物価格に連動して返済能力に応じた金額が設定され期限も最大限 40 年にまで延 長されることになったのである(19)。しかしこうした措置のもかかわらず、20 年代に開墾事業が進 展することはなかった。連邦による灌漑事業の推進は未だ広く受け入れられる状況にはなく、また その条件も整っていなかったのである。

Ⅲ ニューディール政策と開墾局事業の変容

(1)ニューディール政策の始まりと開墾局  ニューディール政策のはじまりは、開墾局をとりまく政治的・経済的状況を大きく変えた。大恐 慌による景気の急激な後退と、それまでにない社会不安が増大していたアメリカにおいて、関与 の仕方に様々な議論があったにせよ、連邦政府が経済復興のため何らか形で積極的な役割を担う

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べきだとする認識は実業界、労働界、知識人をはじめ多くの国民により共有されつつあった。そし て連邦権力拡大の容認は、開墾局のような連邦機関の活動にも新たな役割を与えることになった。  緊急事態に対処するための政府支出の拡大は、それまで事業資金の枯渇に脅かされ組織の生き 残りに喘いでいた開墾局に事業拡大の機会を与えることになった。こうした動きの契機になったの が、31 年から建設が始められていた当時世界最大のダム、ボルダー・ダム(1947 年にフーバー・ ダムに改名)であった。それは景気回復ばかりでなく将来の経済成長基盤となる水力発電を伴い、 さらに失業救済のための大量の雇用を提供ものであった。また、1933 年 6 月に成立した全国産業 復興法(National Industrial Recovery Act)第 2 部は公共事業について規定し、公共事業局(Public Works Administration)の設置と 33 億ドルの支出が認めていたが、そのうちの 1.03 億ドルが開 墾局に割り当てられることになった(20)  これにより開墾局の中心組織でありプロジェクトの立案や設計を行うコロラド州デンバー事務所 の職員は 200 人から 750 人に増員され、その活動領域を急速に拡大していくことになった。新た な事業拡大の中心はダム建設であり、34 年はじめまでに小規模なものから大規模なものまで 15 の ダム建設に着手した。そして 35 年、開墾局長ミードは事業の拡大に対応して局再編のための指示 を発した。ミードは開墾局の使命として「乾燥諸州の土地と水資源の最も有効な保存と利用」を あげ、水資源事業の企画・建設にあたる技術者集団と、水資源利用者組織と共にそれらの事業を 運営する管理者集団とに分離し、前者をデンバー事務所で、後者をワシントン事務所で統轄し連 邦議会との交渉や政策決定機能を担わせようとした。この再編は 36 年のミードの死去によりほと んど進まないうちに終わってしまったが、その指令の中でミードが開墾局の基本的使命が家族農 場であることを是認しつつも、デンバー事務所にはニューディール政策により高まってきた多目的 ダム建設の要請にこたえるべく、その計画立案と技術的課題に集中させようと目論んでいたことが うかがえる(21)  こうして開墾局は主に西部と中心として農村や都市への利水、発電、貯水、治水、水運整備な ど多目的な水資源開発を行う機関として登場することになったのである。開墾局の事業の拡大は、 独立自営農民の創出を目的とした開墾法の趣旨と次第に齟齬をきたすようになり、その理念や役割 を変質させていくことになった。以下、ニューディール期の主要な事業を取り上げ、その過程をみ ていくことにしよう。 (2)コロンビア川流域事業―大規模公共事業の展開 ① コロンビア川流域の開発計画  ワシントン州中部、コロンビア川流域最大の峡谷に建設され 1942 年に完成したグランド・クー リー・ダムは高さ 168 メートルを誇り、フーバー・ダムやシャスタ・ダムとともに 1930 年代に開 墾局が建設に携わった大規模ダムの一つであった。このコロンビア川流域事業(Columbia Basin Project)においては、開墾局の活動が都市や工業のための利水、水力発電、水運整備、そして治 水も含めた多目的大規模公共事業へと展開していく一方で、灌漑事業については時代が要請する

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状況にそぐわなくなっていく姿を見ることができる(22)  コロンビア川流域の灌漑については、早くも 1902 年の開墾部の最初の報告書で触れられ、08 年には陸軍工兵隊がグランド・クーリーにおける水運や灌漑、発電についての調査を開始してい るが(23)、実際にダムを建設しようとする動きは 1920 年代になってからのことであった。1925 年、 連邦議会は工兵隊に全国の主要河川について、治水、灌漑、発電、水運などを統合した多目的利 用と開発の可能性を調査するよう命じた。工兵隊は当初洪水に見舞われたミシシッピー川やミズー リ川の調査を優先させていたが、ワシントン州の上院議員ウェズリー・L・ジョーンズ(Wesley L. Jones)がコロンビア川にも特別の注意を払うよう求めた(24)。同州では乾燥したコロンビア高原の 灌漑について議論されていたからである(25)。そこでは、その後の大規模ダム建設でも問題となる 発電事業をめぐる問題がダム建設手法をめぐる利害対立となってあらわれていた。  ひとつは「揚水プラン」と呼ばれるもので、新聞編集者ルーファス・ウッズ(Rufus Woods)や 法律家のジェームズ・E・オサリヴァン(James Edward O’Sullivan)らワシントン州中部の小さ な町ウィナッチ(Wenatchee)のグループが唱えていた。それは、グランド・クーリーと呼ばれる 幅およそ 1,300 メートル、深さ 180 メートルの谷にダムを建設し、その貯水池からさらにポンプで 水を汲み上げ天然の貯水池に水を送ってグランド・クーリーの段丘地を灌漑しようとするもので、 そのために大きな発電能力を持つ大規模ダムの必要性を主張した。同プランは州や連邦などの公 的機関による発電事業を唱え、同州の産業界にも広く支持されていた。新たに灌漑された広大な コロンビア高原とともに低廉な電力が工業化を促進し、経済発展を刺激すると考えたからである。 もう一つはワシントン州東部のスポーカン商業会議所(Spokane Chamber of Commerce)とワシ ントン電力電灯会社(Washington Power and Light Company)によって提唱された「重力プラン」 と呼ばれるものである。それは、幾つかの小規模ダムと導水管を用いてアイダホ州のポンダレイ川 の水をスポーカン川に分水しコロンビア高原に送ろうとするものであった。彼らが公的資金による 大規模ダムの建設に反対したのは、それが余剰電力を生み出し、未だ工業化が進まずに電力市場 があまりない太平洋岸北西部地域において電力価格の低下をもたらすことを懸念したからである (26)  このダム建設をめぐる論争に終止符を打ったのは大恐慌であった。31 年、開墾局のミードは揚 水プランによる大規模ダムに関心を寄せていることを表明し、翌 32 年、大統領候補だったローズ ベルトも太平洋岸北西部を遊説したとき大規模ダムによる発電を支持した。さらに陸軍工兵隊シ アトル地区技師のジョン・S・バトラー(John S. Butler)少佐を中心にして行われたコロンビア川 流域の調査報告書「308 レポート」も、揚水能力を備えたグランド・クーリー・ダムの建設を答申 した(27) ② グランド・クーリー・ダムの建設  33 年、連邦議会はグランド・クーリー・ダムや同じくコロンビア川で工兵隊が建設を担うことに なったボンネヴィル・ダムの建設を認可し、コロンビア川流域事業は、ミズーリ川やテネシー渓谷

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の開発と並ぶ、ニューディール期における水資源開発のための大規模公共事業となっていった(28) しかし、グランド・クーリーでは最初から大規模ダムの建設が進められたわけではなかった。北西 部地域においてローズベルトの勝利に貢献したワシントン州上院議員クラレンス・ディル(Clarence Dill)が提示したグランド・クーリー・ダム関連の事業費は 4 億 5000 万ドルでパナマ運河よりも高 額であったため、ローズベルトは議会の承認を得るために低いダム low dam を提案し、33 年 7 月、 そのための建設費として、とりあえず4 44 4 4 6300 万ドルの支出が承認されたのである(29)  ニューディール期には都市ばかりでなく地方や農村の電化も政策課題として浮上し、それは電 力生産の公営と民間電力会社の規制を伴うものであったため、大きな政治的争点となったが(30) グランド・クーリー・ダム建設の意義が、20 年代からワシントン州において論争になっていた問題、 すなわち、灌漑にあるのかそれとも発電にあるのかという問題については多くの者が発電事業の即 効的な利益を認め、内務長官ハロルド・イッキス(Harold Ickes)も水力発電に強い関心を寄せて いた。34 年 3 月、開墾局がダム建設のための入札を行ったとき、事業内容として示されたのも高 さ 290 フィートの低いダムと発電施設についてのものであり、灌漑事業に関する要件は含まれてい なかった。6 月、4 社が応札したが、大方の予想はボルダー・ダム建設ですでに実績を上げつつあっ た 6 社連合(31)が落札するであろうというものであった。しかし、実際に落札したの 3,456 万ドル

を提示した 6 社連合ではなく、2,934 万ドルを示したサイラス・メイソン社(Silas Mason Co.)、ア トキンソン・キーア社(Atkinson-Kier Co.)、そしてウォルシュ建設会社(Walsh Construction Co. of Davenport)からなる企業連合、MWAK であった。8 月、早速工事が始められた(32)  しかし、開墾局は低いダムを作るつもりなどなかった。グランド・クーリー・ダムの高さは建設 途中から 550 フィートへと大幅に高いものに変更されたのである。34 年 12 月 4 日、ミードは開墾 局の幹部技師と協議し、高いダム high dam の建設とコロンビア川流域灌漑事業の開始を内容とす る報告書をまとめた。その見積り額は、ダム建設費 1 億 1400 万ドル、発電施設 6700 万ドル、そ の他 1500 万ドルと灌漑事業費 2 億 900 万ドルの総計 4 億 500 万ドルに達するものだった。ミード は 12 月 27 日、その内容をイッキスに送付し、計画変更とできるだけ早い4 4 4 4 4 4 4高いダムの建設開始を公 式に要請した。建設変更は低いダムが完成する前に行われなければならなかった。なぜならミー ドらによれば、第 1 に、ダムサイトは低いダムでは経済性に乏しく、第 2 に、低いダム完成後にそ の上に高いダムを作ると安全性に問題があり、そして第 3 に、発電のための低水圧(落差)ター ビンは高水圧になった場合、効率が悪くなるというものであった。つまり、最初から高いダム建設 を前提とした変更であった。これはローズベルトも承知していた開墾局の計略であっといわれる。 議会の承認を得るため最初は低いダム用の低い費用を提示し、事業を開始してしまった後しかる べき時に計画を変更するというものであった(33)  同じ頃、高いダム建設を援護する論調も出始めた。『エンジニアリング・ニュース・レコード』 (“Engineering News-Record”)誌は「より多くの金がこの危ない投資に注ぎ込まれる前に、低い ダムによる発電計画を放棄して代わりに高いダムを建設しこの大失策を正すべきである(34)」と論 じた。中西部を襲った前例のない大旱魃により行き場を失った農民たちを定住させる灌漑農地の

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必要を言うものもあった。しかし、多くの者は灌漑や発電そして雇用のためにも多目的ダムが有益 であることは容認しつつも、高いダムの発電能力に見合う電力市場がないことも認めざるを得な かった。こうした懸念に対し、ワシントン大学電気工学教授のカール・E・マーグヌソン(Carl E. Magnusson)は灌漑事業が州の人口を増加させ、新たな電力市場を生むとして高いダムの必要性 を訴えた(35)  35 年にはいるとすぐに MWAK は一時的に水を締め出すための締切(cofferdam)の工事を始め、 4 月には最後の土止め板を打ち込むなど、工事は進展していた。7 月 7 日、イッキスは高いダムへ の建設変更を承認し、MWAK の業務は低いダムのための基礎とダム本体の建設から高いダムの ための基礎工事へと変更された。10 日後、公共事業局はそのために 2300 万ドルを割り当てた。そ して 8 月下旬、連邦議会は河川ならびに港湾法(Rivers and Harbors Act)を通過させ、ついに グランド・クーリー・ダムを完全な多目的構造物として建設する認可を下したのである。高さ 550 フィート、幅 5673 フィートの世界最大のコンクリート構造物の建設である(36)

 ダムの基礎作りを含めた MWAK の工事は 38 年初めには完了したが、そのための費用は入札価 格よりもおよそ 1000 万ドル多い 3900 万ドルに達していた。一方、開墾局は 37 年 11 月に高いダ ムのための最終プランを提示し、12 月 10 日そのための入札を開始した。その前日、最初の入札で 競合した 6 社連合のヘンリー・カイザー(Henry Kaiser)は MWAK のガイ・アトキンソン(Guy Atkinson)と会談し、両者は合同で入札することで合意した。新たに合弁事業、統合建設業者会 社(Consolidated Builders Incorporated:CBI)が組織され 3440 万ドルで落札した(37)

 ダム本体の工事は 38 年 3 月に始められ、7 月下旬にはコンクリートが流し込まれ始めた。「高く なる壁、ほとばしる水、鋼鉄の構脚が見せる全体の情景は壮観であり、世界最大のコンクリート 構造物が立ち上がろうとする原野に何千もの訪問者を引き寄せた(38)。」40 年 9 月にはコンクリー トの流し込みはほぼ完了し、41 年 2 月、最初の発電タービンの組み立てが始まり、10.8 万キロワッ トの発電機 6 基と 7.5 万キロワットの発電機 2 基が据え付けられることになった(39)。42 年 6 月 1 日にはグランド・クーリー・ダムにより誕生したフランクリン・D・ローズベルト湖は満水となり余 水路から水が流れ落ち始めた。翌年の初め、CBI は開墾局にこの事業を引き渡した。実際の事業 費は 4140 万ドルに上昇したが、グランド・クーリー・ダム関連の総事業費は、政府が割り当てた 1 億 7950 万ドルを下回る 1 億 6260 万ドルであった(40)。このようにローズベルト政権の電力政策 の形成とともに、開墾局の事業も大規模化していったのである。 ③ 灌漑か発電か  しかし、開墾局の中には、本来の任務である灌漑事業が発電事業よりも下位におかれること に抵抗感を抱く者もあった。コロンビア川流域事業の技師、フランク・A・バンクス(Frank A. Banks)は、水力発電事業の収益が事業資金の返済を容易なものにすることは認めつつも、36 年 のワシントン州立大学での農業関係者への講演で、同事業は「本質的には灌漑のための事業であり、 副産物として発電事業と水運開発のための流水調整を伴うものである」と主張した。彼はグランド・

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クーリー・ダムによってできた貯水池により、乾燥した大地が 20 万の人々の生活を潤すようにな ることを構想していたのである(41)。バンクスは同事業が灌漑農業の発展を促し、そこに限界農地 からの多くの農民が更生のため再定住することを期待し、そのための補助金も必要であると考え ていた(42)  コロンビア川流域事業に農民の再定住を推し進めようとする動きは農務省内の首脳にもみられ た。1933 年 11 月イッキス内務長官が限界農地農民の再定住を促進するため公共事業局内に自給 農場部(Subsistence Homestead Division)を設置したとき、その部長に任命されたのが M・L・ウィ ルソン(M. L. Wilson )であった。モンタナ州立大学教授、農務省農業調整局小麦課長を歴任し、 その後農務次官まで務めた人物である。そのウィルソンによれば貧窮した農民は開墾局の灌漑事 業に参加できるような状況にはなかった。なぜなら、灌漑農地に入植するには 2000 ドルの自己資 金が必要だったが、そのことが彼らのほとんどを排除することになったからである。20 年代末の 大旱魃(ダスト・ボウル)と大恐慌によって疲弊していた大平原からの移住民にコロンビア川流域 事業に入植する資金を準備することなどできなかったのである。また、乾燥地農法を行ってきた彼 らのほとんどは「灌漑農業や特定の農産物生産の経験を持っておらず、彼らが成功の機会をつか むためには彼らの訓練と管理が必要であった(43)。」  ウィルソンは、コロンビア川流域事業に特別な関心を払い、ホワイト・ハウスに対して開墾事業 に関する次のような変更を提案した。①必要資金 2,000 ドル規定の廃止、②灌漑農業と特定農産 物生産の十分な育成、③農場の生産能力に基づいた利水分担金の算定、④過剰生産によって利益 を損なわないような農産物の植え付けを指導するための市場調査、そして⑤特にグランド・クーリー における発電、水運、洪水管理、灌漑などの各種事業間での事業費の割り振り、などである。最 後の事業費については灌漑事業以外への割当てを多くし、農民たちへの分担金が、彼らに利益が もたらされるよう十分に低いものとなるよう求めた。しかし、こうしたウィルソンの提案に対して、 関連する連邦機関の対応は冷淡なものであった。内務省も開墾局も、農務省が西部諸州の安定と 困窮した人々の避難場所として灌漑事業の価値を認識していることには励まされるとしながらも、 「現在、ホームレスの再定住者に利用可能な土地はほとんどない」と答えるのみであった。同事業 は最終的に 43,000 家族分の土地が用意されるはずであったが、5 年以内に定住できたのは 13,000 家族に過ぎなかった(44)  グランド・クーリー・ダムは大戦中の軍需を満たすための電力を豊富に供給し、太平洋岸北西 部のアルミニウム、航空機、造船などの諸産業の発展に寄与したが、新たな農家創出には十分な 成果をあげられなかった。 (3)開墾局による灌漑事業と再定住問題  もちろん、コロンビア川流域事業以外でも開墾局は灌漑事業を推し進めようとしていた。前に 述べた自給農場部の設置は、貧窮農民を多く抱える西部諸州の連邦議員の間に灌漑農地への関心 を高め、開墾局にも多くの照会が寄せられた。開墾局も自給農場部の財源を活用できる機会とと

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らえたが、同部の対象としていたのは主に南部地域であり、同じ内務省管轄の機関とはいえ、事 業内容は連携したものとはいえなかった。はたして同部は 35 年になると農務次官であるレックス フォード・タグウェル(Rexford Tugwell)が長官を務める独立行政機関、再定住局(Resettlement Administration)に吸収されることになった(45)

 しかしミードは再定住事業が内務省の管轄から離れた後もそれ関心を寄せ、タグェルとの協議を 続けた。ミードはサウス・ダコタ州のベル・フォーチェ・プロジェクト(Belle Fourche Project)、 ワイオミング州のリバートン・プロジェクト(Riverton Project)、そしてアイダホ州とオレゴン州 にまたがるオウワイヒー・プロジェクト(Owyhee Project)の広大な土地が事業対象になりうる と考えていた。ミードは両機関の協力により 37 年までには多くの灌漑農地を生み出すことができ ると考えていたのである。ミードとタグウェルとの話し合いにより、再定住局はリバートン・プロジェ クトの 3,000 エーカー、コロラド州アンカンパーグリ・プロジェクト(Uncompahgre Project)の 1,600 エーカーと同州のグランド・ヴァレー・プロジェクト(Grand Valley Project)の 2,000 エーカーに ついて再定住事業を開始する事を決定した(46)  しかしながら、開墾局と再定住局との連携による再定住事業は十分な成果を上げることはでき なかった。再定住局は「48 億ドルという巨額の資金の裁量的支出を大統領に認めた 35 年緊急救 済支出法(47)」に基づいた大統領行政命令によって設置され、「窮乏した農民から限界以下の農地 を買上げ、彼らをよりよい土地に再入植させて生活の安定を図ったり、普通の金融機関から融資 を受けられない貧農の生産力や生活条件改善のために資金援助を行った」のであるが(48)「タグウェ ルが主たる目標と考えていた大規模な土地購入と休耕化および再入植事業などは、実績を上げる のがきわめて困難で(49)」あった。  再定住事業で開墾局が積極的な役割を果たせなかった第 1 の要因は、まず、再定住局の活動の 多くが開墾局の事業地域ではない南部を対象としていたことである。それは自給農場部時代から のことであったが、最も貧窮していた農民は南部の小作農やシェアクロッパーであったからである。 実際に再定住したのは 4,441 家族にとどまり、そのほとんどは南部地域のものであった(50)  第 2 に、開墾法が定める入植資格の問題があった。同法は灌漑事業に参加するための資格とし て 2,000 ドルの自己資金を求めていたが、貧窮した農民にそのような余裕はなかった(51)。開墾局 のエコノミストであった L・H・ミッチェル(L. H. Mitchell)は、「移住者が連邦の開墾事業地に 入植する際、開拓事業のコストを負担しなければならない事を明確に認識させないことは危険で す。今現在、政府に対してその義務を誠実に遂行し返済しようとしている人々に悪い影響を与え ます」と述べている(52)  第 3 に、両機関の局長とも家族農場や小規模農場の育成には積極的ではなかったことである。 タグウェルが当初構想していたのは土地改革事業であり家族農場の創設ではなかった。久保文明 によれば 35 年当時、(農務長官ヘンリー・A・)「ウォーレスの方は依然伝統的な家族農場や土地 所有農民を信奉していたが、タグウェルは土地政策・土地所有そのものを検討しており、家族農4 4 4 場は過去の遺物であって大規模経済における構造的欠陥であるとさえ考えていた4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」(傍点筆者)の

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である(53)。実際ミードはタグウェルに対し、多様な農業実現のためコロンビア川流域事業の土 地購入を勧めたが、再定住局はそれに応えることはなかった。タグウェルには、大規模な市場と 規模の経済の中で非効率な農村部の定住と小規模生産を促進することへの躊躇があったのである (54)  一方、大規模公共事業としての多目的ダム建設が軌道に乗ってくると、灌漑事業はミードの中 で次第にその比重を低下させていった。ミードは全米農務局連合、農民共済組合、 農務省などか ら灌漑事業についての批判を受け、「限界農地 10 エーカーが取り除かれるごとに 1 エーカーの新 たな(灌漑された)土地が加えられるということは、……新たな農産物の過剰をもたらす」との懸 念を持つようになっていた(55)。もちろん、開墾局内には前述したバンクスのように、灌漑事業を 開墾局の中心事業と考え、小規模農場育成の構想を検討している者もあった。しかしミードは小 規模土地所有では「望みがない事を確信」しており、その構想を実行に移そうとはしなかったの である(56) (4) カリフォルニア・セントラル・ヴァレー事業 ① 州から連邦への事業主体の変化

 続いて、カリフォルニア州のセントラル・ヴァレー事業(Central Valley Project)についてみて

みよう(57)。ここでは水資源開発の主体が州から連邦へと変化していった過程をみてとることがで きる。  セントラル・ヴァレーは太平洋岸の低い海岸山脈とシエラネヴァダ山脈に挟まれた地域で農地に 向いていたが、その南部は年間平均降雨量が 5 インチにも満たない乾燥地帯であり、シエラネバ ダ山脈がカスケード山脈と接する北部は 30 インチ以上の豊富な雨が降る地域であった。カリフォ ルニアではゴールド・ラッシュの頃から金採掘に大量の水が必要だったため水の流れをせき止め たり、迂回させたり、新たな流れを作ったりしてきたが、そうしたことが農業にも応用できるとみ た人の中に、セントラル・ヴァレーの灌漑を構想するものも現れてきた(58)  1873 年には陸軍工兵隊が調査に乗り出し技術的な実現可能性を示したが、その事業費は利水の 恩恵に預かる土地所有者が支払うことのできる範囲をはるかに超えていた。20 世紀に入って環境 保護と都市への利水で大きな論争となったヘッチ・ヘッチイ・ヴァレーやオーウェン・ヴァレーの 利水事業が成功するとセントラル・ヴァレーの灌漑事業が再び議論されるようになり、1915 年に は州の利水事業の検討が始められたが、その実施にはまだ時間を要した(59)  1920 年代には、後にシャスタ・ダムとして実現することになるサクラメント川ケネットでの大規 模ダム建設が計画されたが、ここでも電力開発を公営にするか民営にするかという問題と莫大な 事業費が障害となった。しかし1929 年、フーバー大統領は開墾局が州や地方自治体と目的を共有し、 最終的には州が事業を管理する道もあるとの見解を示した。  連邦機関としての存続が危ぶまれていた開墾局のミードにとって、これはまたとない機会であっ た。1920 年代にカリフォルニア土地入植評議会(California Land Settlement Board)議長として

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セントラル・ヴァレーの灌漑や水問題に携わってきたミードは、開墾局がセントラル・ヴァレーの 調査に関心を持っている事を表明した。開墾局の計画にはサクラメント川のケネット・ダム(後の シャスタ・ダム)やサンウォーキン川のフライアント・ダムの建設、そしてセントラル・ヴァレー 両端の大規模貯水池の建設などが含まれていた。

 こうしてカリフォルニア州議会は 1933 年、ローズベルトが大統領に就任する直前に総合開発的 なセントラル・ヴァレー事業法(Central Valley Project Act)を成立させ、その資金として州債 発行を承認した。それは「大胆どころか、ほとんど想像を絶するものだった。完成すれば、それ

はかつてない史上最大の利水事業」となるものだった(60)。しかしながら同事業は資金調達でつま

づき、結局カリフォルニア州は連邦の救済・復興のための資金に頼らざるをえなくなった。開墾局 は 1935 年の緊急救済支出法(Emergency Relief Appropriation Act)に基づき、カリフォルニア 州の同意を得て同事業を受け継ぐことになったのである。1920 年代まで、州の水が連邦の統制下 に入ることに反発していた気運が大きく転換し始めていたのである(61) ② 事業の拡大と 160 エーカー規定の形骸化  開墾局にとって「不毛の地を開拓する事業費の増大に対する解答は、農村地帯だけでなく都市 部の多様な需要に応えるためのより大規模なプロジェクトを立ち上げること」であった(62)。ニュー ディール政策により開墾局の活動が次第に多目的事業に移っていき大量の連邦資金が投じられる ようになると、事業費の多くは治水や水運のための費用として計上され、都市住民への電力と水 の販売収入が建設費を賄うことを期待されるようになっていった。ここに開墾局の役割や原則の変 質がみてとれる。そのことは 160 エーカー・ルールの形骸化に顕著にみられた。1902 年開墾法は、 1862 年に制定された自営農地法(Homestead Act)の趣旨に沿って、160 エーカーを超える土地 所有者に連邦の灌漑事業による水を供給することを禁じていた。しかし、開墾局はその規定を厳 密に適用してきたわけではなかった。1934 年、イッキスが開墾法の面積制限の問題を取り上げよ うとした際、開墾局の幹部は同規定がすでに「何年もの間死文化」しているとして、その問題を 蒸し返さないように忠告した。この時までに私有地への水供給制限規定は抜け穴だらけになって いたのである。しかし、面積制限問題は連邦の利水事業にとってずっと厄介な問題であった。開 墾局がセントラル・ヴァレー事業を引き継ぎいだときも 37 年セントラル・ヴァレー事業法が制定 されたときも、160 エーカー規定は解除されなかった。しかし、何世代にもわたって土地を所有し ているものは 160 エーカーよりもはるかに広大な土地を有していた(63)。ライスナーは次のように 述べている。「セントラル・バレー事業は、ひと言でいえば、それ以前の開墾局のどの事業とも根 本的に違っていた。それは新たに多くの灌漑農地を作り出すことではなかった。すでにそこにある 多数の農地を救うものであり、その中には法が許すよりもはるかに大きなものが相当含まれていた (64)。」従って法的には、そこの大規模農園が同事業の灌漑用水を受け取るためには、160 エーカー (夫婦所有の場合は 320 エーカー)以上の土地を売却しなければならなかったが、彼らは「明らか なペテン」により、水を受け取ることができたのである。それは開墾局も承知の上であった。「開

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墾局は、そのような不人気な法律を執行しようとするより、ダム建設の方にはるかに強い関心を抱 いていた」からであった(65)

 開墾局の事業拡大に伴い、160 エーカーの規定は次第に解除されていくことになった。大規模土 地所有者が支配的なコロラド・ビッグ・トンプソン事業(Colorado-Big Thompson Project)でも、 38 年、連邦議会は旧来からの土地所有者については 160 エーカー規定を解除し、新規灌漑農地に ついてのみ同規定を課すこととした。さらに家畜用飼料穀物の栽培が広がっていたネヴァダ州の ニューランズ事業(Newlands Project)とハンボルト事業(Humboldt Project)については、イッ キスの反対にもかかわらず、それらの栽培を利益あるものにするには大規模農地が必要であると いうことから、1940 年、160 エーカー規定が解除された。また同年、ケース・ウィーラー法(Case-Wheeler Act)が制定され、旱魃地域の農民を更生させるため 39 年に制定された水保全ならびに 利用法(Water Conservation and Utilization Act)の対象事業については土地所有制限を適用し ないことが決められた。このように 160 エーカー規定の解除はより多くの大土地所有者に連邦の水 を供給する道を開くものだった(66)。それは独立自営農民・家族農場の創出という開墾局本来の使 命が次第に薄れていき、戦後は大規模農園の利害に沿うようになっていく過程でもあった(67)  こうしてニューディールは開墾局をそれまで縛り付けていた 1902 年開墾法の幾つかの制限を事 業によっては解き放つことになった。多目的事業の推進が、開墾局の活動を公有地の売却と灌漑 事業地に入植した農民からの事業費返済に依存する構造を大きく変えたのである。連邦からの豊 富な資金と、見込まれる電力販売収入から事業規模はどんどん拡大していった。そして、開墾局 の事業が水資源の多目的利用にその比重が移っていくとともに、160 エーカー規定も緩和・免除さ れていくことになった(68)。それは、開墾局の事業をさらに大規模かつ広範囲なものにすることを 可能にしていったのである。

Ⅳ 結びに代えて―事業拡大の法的裏づけと自然保護との摩擦

 1939 年、連邦議会は開墾局の事業に関して、それまでの原則を大きく変更することになる立法 措置をとった。開墾事業法(Reclamation Project Act)の制定である。主な変更点は、①開墾事 業の余剰水をすでに開墾済みの事業外の民有地へも水不足の際は供給する事を許可、②開墾施設 の建設費ならびに管理・補修費用の返済ついて、連邦政府は個人ではなく、灌漑地区あるいは水 利用者組織を通して交渉する、③灌漑事業費が水利用者の支払能力を超えた場合、過剰電力の販 売収入を貸越勘定に入れる、④開墾計画は小規模な灌漑事業から大規模な多目的事業へと拡大す る、⑤多目的事業のうち水運や洪水管理施設のための建設費用は水利用者の返済契約から除く、 ⑥事業費の返済については内務長官の裁量で、新規事業については返済期限を 50 年まで認め、返 済額も農業所得や土地の質に応じて決定する、ことなどであった(69)。その多くはこれまでの開墾 事業においてすでにとられてきた措置を法的に追認するものであったが、それは 1902 年開墾法の 趣旨を大きく転換することを意味した。開墾局の任務は灌漑のみでなく、発電、都市用水、水運、 洪水管理などの大規模な多目的事業を展開するものになった。これに伴い、それまでの開墾局の

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事業費用はその恩恵にあずかる者がすべて返済されなければならないとする原則がはずされた。 洪水管理や水運整備などは公共の利益に属するものであり、水資源利用者によるそれらの便益に 対しては事業費返済の必要がないとされたことである―ただし、洪水管理と水運整備を主な任務 とする陸軍工兵隊による水資源開発事業費は最初からその受益者に対して返済義務がなかったが ―。また灌漑農民はその返済要件が見直され、事業開始後 10 年間は利益があげれらるようになる まで支払が猶予され、その後の返済も農産物販売収入に応じて決められ、返済期間も 40 年に延長 されたのである。

 さらに同じ 39 年制定の水利用者救済法(1939 Relief to Water Users Act)が開墾事業法を補 足した。同法は先住インディアンのための灌漑事業も対象としたもので、それと一般の灌漑事業 との整合性を図るため、連邦議会は事業費返済事項の多くを内務長官の裁量に委ねることにした。 連邦議会は、農産物の不作や水不足あるいは水利用者の管理を超えた何らかの原因により開墾事 業費の返済が困難な場合、それを猶予するかどうかの判断の権限を内務長官に与え、長官が定め た期間内は水利用者の支払能力に応じるものとした(70)。   こうしたニューディール期の開墾局事業の展開についてライスナーは次のように述べている。「開 墾局の歴史を通じてもっとも幸運な出来事は、いくらでも気前よく金を使う貴族、フランクリン・ロー ズベルトが 1932 年の大統領選挙で選出されたことだった。2 番目に幸運な出来事は、ローズベル トからトルーマンに至る 5 期にわたる臨時政府時代に、いくつもの一括河川流域法案を通過させた ことだ。……フランクリン・ローズベルトと河川流域方式―これはダムや水路や灌漑事業を源流か ら河口まで、千数百キロにわたって即座に認可することができた―の働きにより、アメリカ西部の 自然の地形は、川も砂漠も湿地も渓谷も、これまでいかなる砂漠文明も経験したことがないような 人工的な変化をこうむることとなった(71)。」  だが大規模な水資源開発は、やがて大きな抵抗を生み出すことになる。20 世紀初頭の自然保護 運動とともに生まれた開墾局だったが、ニューディール末期には自然保護との摩擦が生まれ、第 2 次大戦後には公害問題を含めた環境保護運動とぶつかることになった。20 世紀初頭、幾つもの氷 河とテュオラムニ川による自然美を誇っていたヨセミテ国立公園内のヘッチ・ヘッチイ渓谷が、サ ンフランシスコの深刻な水不足を解消するためダム湖に沈むことになったとき、開発と自然保護を めぐる論争が、国民の注目を集めたが、その後国民の自然保護への関心は 1920 年代の急速な経済 発展と技術革新の下で薄れ、灌漑事業の停滞とあいまって開墾局の活動と自然保護が争点となる ことはなかった。しかし、水資源開発が活発化したニューディール末期には再び開発と自然保護 との関係が問われるようになったのである(72)  1937 年に連邦議会が承認し、第 2 次大戦による中断をはさんで 47 年に完成したコロラド・ビッ グ・トンプソン事業は、ロッキー山脈の西側の豊富な水を同山脈を貫く 13 マイルのトンネルによ り東側の農村や都市に送るための事業であった。しかし、北米大陸の分水界を変えるという、ま さに「自然を改造」する事業であることが、ロッキー山脈国立公園を管轄する国立公園局(National Park Service)との対立を招くことになった。ニューディール期、開墾局の活動が拡大するにつれ

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て、国立公園内の水の流れに影響を及ぼすような事業に対して国立公園局は異を唱えるようになっ ていた。これに対しミードの後任者である開墾局長のジョン・C・ペイジ(John C. Page)は、公 園局に対して公園内の地域を、資源獲得のためのいかなる進入も許さない厳密な自然保護を行う 地域と、規定を緩和して公共のために利用する地域の2つに分類することを提案した。公園局にとっ てその申し出は受け入れがたいものであったが、イッキスが両者の調停の乗り出し、結局 39 年か ら事業が開始されることになった(73)。しかし、こうした国立公園内への開発の拡大は第 2 次大戦 後一層大きな問題となり、自然保護運動の高まりとともに、連邦による水資源開発事業に対する批 判が強まっていくのである。

(1) 開墾法制定当初は合衆国地質調査局(U. S. Geological Survey)内の開墾部 (Reclamation Survice)として 設置され、07 年に内務省に移管された。William D. Rowley, Reclamation Managing Water in the West: The Bureau of Reclamation: Origins and Growth to 1945,(Denver: U. S. Department of the Interior, Bureau of Reclamation, 2006), p. 104; U. S. Department of the Interior, Bureau of Reclamation, Brief History of the Bureau of Reclamation,(Revised July 2000. PDF版http://www.usbr.gov/history/index.html), pp. 3-4. (なお、 以下に掲げる PDF 版の開墾局関連の資料については、 開墾局ホームページ http://www.usbr.gov/history/ index.html からのもの。)

(2) Benjamin Kline, First Along the River: A Brief History of the U. S. Emvironmental Movement, 3rd. ed., (Lanham: Rowman & Littlefield Publishers, Inc., 2007),pp.52-53.

(3) ハロルド・U・フォークナー著/小原敬士訳『アメリカ経済史』(至誠堂、1971 年)501 頁。 (4) Rowley, Reclamation, pp. 94-98.

(5) Donald J. Pisani,“Federal Reclamation in the Twentieth Century: A Centennial Retrospective,” in U. S. Department of the Interior, Bureau of Reclamation, The Bureau of Reclamation: History Essays from the Centennial Symposium, Vol. I and I, (Denver: U. S. Department of the Interior, Bureau of Reclamation, 2008、PDF 版),p. 611. (6) Rowley, Reclamation, pp. 99-100. (7) この時代の開墾局の活動や自然保護運動、西部の状況などについては、楠井敏朗『アメリカ資本主義とニュー ディール』(日本経済評論社、2005 年);岡田泰男『フロンティアと開拓者―アメリカ西漸運動の研究』(東京 大学出版会、1994 年);岡島成行『アメリカの環境保護運動』(岩波新書、1990 年)参照。 (8) Pisani,“Federal Reclamation,”p. 613.

(9) Rederick Nash, The American Emvironment: Readings in the History of Conservation(London: Addison-Wesley, 1968), p. 64, resite from Kline. Environmental Movement, p. 58.

(10) Pisani,“Federal Reclamation,”p. 612. (11) Rowley, Reclamation, p. 94.

(12) Pisani,“Federal Reclamation,”p. 614. (13) Pisani,“Federal Reclamation,”p. 611. (14) Pisani,“Federal Reclamation,”pp. 615-16.

(15) “Forestry and Irrigation”12,(March 1906), p. 110, resite from Pisani,“Federal Reclamation,”p. 616. (16) Rowley, Reclamation, p. 99. (17) Pisani,“Federal Reclamation,”p. 617. (18) Pisani,“Federal Reclamation,”pp. 616-18. (19) Rowley, Reclamation, pp.112, 226, 258, 266. (20) Rowley, Reclamation, p. 312. (21) Rowley, Reclamation, pp. 351, 363. (22) 「フーバー・ダムは大きい。シャスタ・ダムはそれより 5 割方大きい。グランド・クーリー・ダムはその二つを

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あわせたものよりさらに大きい。」(マーク・ライスナー著/片岡夏実訳『砂漠のキャデラック―アメリカの水 資源開発』築地書館、1999 年、180 頁。)

(23) David P. Billington, Donald C. Jackson, Martin V. Melosi. The History of Large Federal Dams: Planning, Design, and Construction in the Era of Big Dams,(Denver: U. S. Department of the Interior, Bureau of Reclamation, 2005、PDF 版), p. 192.

(24) Rowley, Reclamation, p. 328.

(25) 「グランド・クーリーの周辺は驚くほど灌漑農業に向いていた。段丘には 40 万ヘクタールを超える良好な土地 があり、クーリーそのものには天然の貯水池があり、そして峡谷には良好なダム立地があった。きわめて大き なダムの適地が。」(ライスナー『キャデラック』、175 頁。)

(26) Rowley, Reclamation, pp. 329-30; Billington & others, Large Federal Dams, p. 206. (27) Billington & others, Large Federal Dams, pp. 204, 208; Rowley, Reclamation, p. 331. (28) Rowley, Reclamation, pp.332-33.

(29) Billington & others, Large Federal Dams, p. 208;ライスナー、177-78 頁。

(30) アーサー・M・シュレジンガー/中屋健一監修『ローズベルトの時代 Ⅲ 大変動期の政治』(ペリカン社、 1966 年)、320-24 頁。

(31) 6 社連合とは以下の 6 社である。Utah Construction Co., Morrison- Knudsen, J. F. Shea Co. of Portland, Pacific Bridge, MacDonald & Kahn, Bechtel- Kaiser- Warren Brothers. 鷲見一夫「アメリカにおけるダム建 設の歴史」公共事業チェック機構を実現する議員の会編『アメリカはなぜダム開発をやめたのか』(築地書館、 1996 年)所収、34 頁。

(32) Rowley, Reclamation, pp.333-34.

(33) Billington & others, Large Federal Dams, pp. 213-14. (34) Billington & others, Large Federal Dams, p. 214. (35) Billington & others, Large Federal Dams, pp. 214-15. (36) Billington & others, Large Federal Dams, pp. 215-17. (37) Billington & others, Large Federal Dams, pp. 218-19. (38) Billington & others, Large Federal Dams, p. 219. (39) Rowley, Reclamation, pp. 333-34.

(40) Billington & others, Large Federal Dams, pp. 221-22. (41) Rowley, Reclamation, p. 336. (42) Rowley, Reclamation, p. 350. (43) Rowley, Reclamation, pp. 357-58. (44) Rowley, Reclamation, pp. 358-59. (45) 同局はさらに 36 年 12 月には農務省に移管、37 年には農務省内の農場保障局に吸収されることになった (Rowley, Reclamation, pp. 315-16. 久保文明『ニューディールとアメリカ民主制―農業政策をめぐる政治過程』 東京大学出版会、1988 年、第 3 章参照)。 (46) Rowley, Reclamation, p. 316. (47) 久保『アメリカ民主制』、139 頁。 (48) 長沼秀世・新川健三郎『アメリカ現代史』(岩波書店、1991 年)、439 頁。 (49) 久保『アメリカ民主制』、141 頁。 (50) Rowley, Reclamation, p. 317. (51) Rowley, Reclamation, 357-58. (52) Rowley, Reclamation, pp. 316-17. (53) 久保『アメリカ民主制』、139-40 頁。 (54) Rowley, Reclamation, pp. 317-18. (55) Rowley, Reclamation, p. 319. (56) Rowley, Reclamation, p. 318) (57)セントラル・バレー事業について詳しくは、楠井『ニューディール』、286-93 頁参照。 (58)Rowley, Reclamation, pp. 339-41. (59)Rowley, Reclamation, pp. 341-42.

(18)

(60) ライスナー『キャデラック』、172 頁。 (61) Rowley, Reclamation, p. 343. (62) Rowley, Reclamation, pp. 343-44. (63) Rowley, Reclamation, pp. 344-46. (64) ライスナー『キャデラック』、376 頁。 (65) ライスナー『キャデラック』、377-78 頁。 (66) Rowley, Reclamation, pp. 366-67. (67) Rowley, Reclamation, p. 346. (68) Rowley, Reclamation, pp. 349-50. (69) Rowley, Reclamation, p. 366.「問題は水運、洪水管理の施設費を税業全体の中でどのように配分するかであり、 この 2 項目への割り振りが多くなれば灌漑事業の返済額は小さくなった。」(中澤弌仁『カリフォルニアの水資 源史―ニューディールからカーター水管理政策への展開』、鹿島出版会、1999 年、79 頁。) (70) Rowley, Reclamation, pp. 363-65. (71) ライスナー『キャデラック』、135 頁。

(72) Robert W.Righter, The Battle of over Hetch Hetchy: American’s Most Controversial Dam and the Birth of Modern Environmentalism,(Oxford: Oxford University Press, 2005.), pp. 4-7; Kline, Environmental Movement, pp.52-53.

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