芥川竜之介﹃西方の人﹄注解︵五︶
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中
野田
孝次郎
恵 海
27@イェルサレムへ
クリストは一代の予言者になった。同時に又彼自身の中の予言者は、 ① ほんろう 1或は彼を生んだ聖霊はおのつから彼を翻弄し出した。我々は蝋燭 なか の火に焼かれる蛾の中にも彼を感じるであらう。蛾は唯蛾の一匹に生 まれた為に蝋燭の火に焼かれるのである。クリストも亦蛾と変ること ② か はない。ショウは十字架に懸けられる為にイェルサレムへ行ったクリ ストに雷に似た冷笑を与へてるる。 しかしクリストはイェルサレム ③ろば か へ騙馬を駆ってはひる前に彼の十字置を背負ってみた。それは彼には どうすることも出来ない運命に近いものだったのであらう。彼はそこ つひ でも天才だつたと共にやはり畢に﹁人の子﹂だった。のみならずこの ④ 事実は数世紀を重ねた﹁メシア﹂と云ふ言葉のクリストを支配してゐ し たことを教へてるる。 樹の枝を敷いた道の上に﹁ホザナよ、 ホザナ 西 方 の 人 注解 よ﹂の声に打たれながら、験馬を走らせて行ったクリストは彼自身だ ⑤ あと ったと共にあらゆるイスラエルの予言者たちだった。彼の後に生まれ ⑥ たクリストの一人は遠いロオマの道の上に再生したクリストに﹁どこ なじ へ行く?﹂と詰られたことを伝へてるる。クリストも亦イェルサレム へ行かなかったとすれば、やはり誰か予言者たちの一人に﹁どこへ行 なじ く?﹂と詰られたことであらう。 ︵注︶ ①彼を生んだ聖霊⋮⋮本篇﹁2、マリア﹂及び﹁3、聖霊﹂参照。 ②ショウは十字架に⋮⋮じσ①ヨ。乙ω冨≦︵一QQ㎝①∼H㊤㎝O︶イギリスの劇 作家、批評家。小説家。現実主義的で既成秩序や因習に強く反発し た。クリストへの冷笑云々の作品は﹁バック・ツウ・メスウズラ﹂ ︵切OO脚 けO ヨΦけげd[ωΦ一釦ゴ︶ ③駆馬を駆って⋮⋮予言者は騙馬に乗って現われるという言い伝えが 13西方 の 人 注解 あった。 ④﹁メシア﹂日①ωω冨げ︵英語︶もとはヘブライ語で ﹁聖油をそそがれ た者﹂の意。 古代ユダヤ人が待ち望んだ救世主。 ギリシャ語訳は o犀ユの8ωでクリストという名はこれに由来し、キリスト教ではイエ スが救世主たることを表わす尊構となった。 ⑥﹁ホザナよ⋮⋮﹂げ。ωop口9︵英語︶救い給へ吾等は祈り奉る、の あと よび 意。マタイ伝、第二十一章・九﹁前にゆき後に従ふ人々呼いひける こ しゅ より さいはひ いとたかきところ はダビデの商ホザナよ主の名に託て来る者は福なり至上盧にホザナ よ﹂とある。 あと ⑥彼の後に生まれたクリストの一人 キリスト十二使徒中花も有力な一人でペテロ”o霞。ωを指す。キリ ストの死後迫害に耐えず、ローマを去ろうとする途上、キリストの 幻影に会い、再びローマに引き返したという伝説がある。 ⑦﹁どこへ行く?﹂Oβo<9巳ωゆ︵ラテン語︶ポーランドの作家シ エンキェピッチ︵寓Φ口qωδ昌置Φ乱oN一。。A①∼お一〇︶の歴史小説に この題名の小説があり、彼は、ネロのキリスト教徒弾圧の史実に照 らし、迫害される自国民族の命運を暗に託そうとした。ノーベル賞 受賞作。 ︵解︶ クリストは当時最高の予言者になった。それと同時に彼自身の中の デしモン 予言性は、一あるいは彼が父からうけついだ聖霊性は自動的に働き ろうそく だして彼をもてあそび出した。我々は︹自分からとび込んで︺蝋燭の 火に焼かれる蛾の中にも︹自身の中の前記の質に支配される︶クリス トを感じるであろう。 ︹すなわち︺蛾はただ一匹の蛾に生まれた︹だ けの︶ために︹蛾というものの性質で︶蝋燭の火に焼かれるのであ る。クリストもまた︹持って生まれた性質に支配されている点で︺蛾 と同じである。 ︹それを考えずに︶ショウは︹わざわざ︺十字架に懸 けられるためにイェルサレムへ行ったクリストに対してひどく冷笑し ている。しかし︹それは酷な批判で︺、 クリストはイェルサレムへ ろ ば つた 近辺に乗って入る︵救世主は騨馬に乗って現われるとの伝えあり︶前 に︹すでに性格的に︺彼は十字架をになっていた。それは彼にはどう することもできない運命に近いものだったであろう。彼はそこ︵自分 の運命に従った点︶でも、予知しつつ死地に赴く天才だったと共にや はり、運命に支配される﹁人の子﹂だった︵﹁神の子﹂の否定︶。そ れのみならずこの︹上記の天才だったという︺事実で数世紀このかた 待望されて来た﹁メシア﹂という言葉がクリストを支配していたこと が知られる︵もしそうでなかったなら、 ﹁メシア﹂の言葉に動かされ なかったとも考えられるが︶。 ︹すなわち︺樹の枝を敷いた道の上を ﹁ホザナよ、ホザナよ﹂の︹期待の︶声にしめつけられながら、騙馬 を走らせていったクリストは彼自身だったとともに又あらゆるイスラ エルの予言者たち︹の天才性︶の姿だった。彼の後に生まれたクリス ト︹的天才︺の一人ペテロは︹イェルサレムには︺遠いローマ︹で、 迫害にたえかねての脱出︺の途上に再生︵復活︶したクリストから ﹁︹一体︺どこへ行く?﹂となじられたということである。クリスト デ モン もまた︹自己の中の聖霊の声にそむいて冒 イェルサレムに行かなか
つたとしたら、やはり予言者の誰かかり﹁どこへ行く?﹂となじられ たことであろう。 ︵要旨︶ 天才にとって、その天才の発揮は同時に運命的な意味をもってその 人生を狂わすものである。たといその為に破滅に到ろうともそれから 離れたり引き返したりすることは出来ない。ただもう前進あるのみで おの あって、結果の成否を打算して己が行動を左右することは出来ないも デーモン ゆえん ゆえん のなのである。それが聖霊の子たる所以であり、天才の天才たる所以 であり、彼らの性格乃至運命なのである。もしも周囲の事情や自分の都 合のためにその道を棄てようとする心が生じても、 彼の中の天才は せんだつ 先達の声によって天才の道に自分をのせることになるというのであ る。先達・天才のその声を聞き取り本来の自己︵天才︶に立ち帰らせ デ モン ずにはおかないものが、天才に生れたものの性質で、あり、聖霊の血 をうけたたあであることを、芥川が火中に自らを焼く蛾を引き合いに 出して力説するところに此の章の主眼があり、その立場から、クリス トのイェルサレム行きを冷笑したショウに対して、彼こそ天才のいか なるものかを解せざるものではないかとの冷笑を押さえている気配が そこに感じられる。芥川はすでに﹁運命は性格の中にある﹂という言 葉を肯定していた。 ︵﹁傑儒の言葉﹂の中の﹁運命﹂︶ ﹁君は僕の言 葉を信用することは出来ないであらう﹂と思いながらも﹁唯ぼんやり とした不安﹂ ︵いずれも遺書﹁或旧友へ送る手記﹂︶のためにあえて 自らを滅せずにはいられない彼は、季節柄、灯火を慕いだした蛾の上
西方の 人 注解
に、生得のものの恐しい力 ︵UpΦ§o昌︶ を深く観じたろうこと、そ デ モン してあえて死地に赴く聖霊の子﹁わたしのクリスト﹂ ︵第一章︶への 感銘と理解を、ショウの冷笑を引き合いにして記さずにいられなかっ たであろうことが思いやられる。 28@イェルサレム
クリストはイェルサレムへはひった後、彼の最後の戦ひをした。そ か れは水々しさを書いてみたものの、何か烈しさに満ちたものである。 ① いちじく のろ 彼は道ばひの三軒花を呪った。しかもそれは無果花の彼の予期を裏切 いつくし って一つも実をつけていない為だった。あらゆるものを慈んだ彼もこ はくわい こで半ばヒステリックに彼の破壊力を揮ってみる。 ② かへ ﹁カイゼルのものはカイゼルに返せ。﹂ ふくしう それはもう情熱に燃えた青年クリストの言葉ではない。彼に復讐し 出した人生に対する︵彼は勿論人生よりも天国を重んじた詩人だつ ひそ た。︶老成人クリストの言葉である。そこに潜んでみるものは必ずし も彼の世間智ばかりではない。彼はモオゼの昔以来、少しも変らない あいそう つ 人間愚に愛想を尽かしてみたことであらう。が、彼の苛立しさは彼に ③みや うりかひ みや おひ りょうがへする エホバの﹁殿に入りてその中にをる売買する者を殿より逐出し、見銀 だい はと うるもの こしかけ たふ 者の案、鵠を三者の椅子﹂を倒させてみる。 ④ みや ζは ﹁この殿も今に壊れてしまふぞ。﹂ ⑤ 或女人はかう云ふ彼の為に彼の額へ香油を注いだりした。クリスト 15西方の 人 注解
とが は彼の弟子だちにこの女人を慰めないことを命じた。それから一十 字架と向かひ合ったクリストの気もちは彼を理解しない彼等に対する、 やさ げ 優しい言葉の中に忍びこんでみる。彼は香油を匂はせたまま、 ︵それ つちほこ は土埃りにまみれ勝ちな彼には珍らしい出来事の一つに違ひなかっ た。︶静かに彼等に話しかげた。 ほうむ そそ ﹁この女人はわたしを葬るたあにわたしに香油を注いだのだ。わた しはいつもお前たちと一しょにるることの出来るものではない。﹂ ⑥ かんらん ⑦ ゲッセマネの堅肥はゴルゴタの十字架よりも悲壮である。クリスト うち は死力を揮ひながら、そこに彼自身とも、1彼自身の中の精霊とも 戦はうとした。ゴルゴタの十字架は彼の上に次第に影を落さうとして つく るる。彼はこの事実を知り悉してみた。が、彼の弟子たちはーペテ ロさへ彼の心もちを理解することは出来なかった。クリストの祈りは 今日でも我々に迫る力を持ってるる。1 ⑧ さかづき はな ﹁わが父よ、若し出来るものならば、この杯をわたしからお離し下 し おつしゃ さい。けれども仕かたはないと仰有るならば、どうか御心のままにな すって下さい。﹂ あらゆるクリストは人気のない夜中に必ずかう祈っている。同時に ⑨ うれへ 又あらゆるクリストの弟子たちは﹁いたく憂て死ぬばかり﹂な彼の心 かんらん ねむ もちを理解せずに撤樟の下に眠ってみる。⋮⋮ ︵注︶ ヘ へ ①道ばたの﹁道ぱひ﹂は﹁道ばた﹂の誤り。 あくる みやこ かへ うえ ﹁マタイ伝﹂第二十一章・十八一十九に﹁翌あさ都城へ返るとき飢 みち ほとり ひとつ いちじく き そのところ ほか ければ路の労にある一の手馴花の樹を見て其処に来りしに葉の他に何 みえ いつまで これ いひ も見ざりしかば今よゆのち永久も果を結ぶことを得ざれと之に日たま たちどころ かれ ひければ無憂花立刻に枯ぬ﹂とある。 ②﹁カイゼルのものは⋮⋮﹂マタイ伝第二十二章十五一二十二。 ﹁⋮ いひ さら もの かへ ⋮イエス彼等に日けるは然ばカイザルの物はカイザルに帰しまた神の かへ さり 物は神に帰すべし彼等之をき\奇としてイエスを去ゆけり﹂パリサイ 人たちがイエスをわなにかけようと納税の可否を質問したところ貨幣 にカイゼルの肖像と記号があるのを見てカイゼルに返せ、そして神の 物は神に納めよと巧妙に答えられてひきさがった。 みや ③﹁殿に入りて⋮⋮﹂マタイ伝第二十一章十二。 ④﹁この殿も今に⋮⋮﹂この言葉は聖書には見当らない。 をんなろうせき ⑤或女人は⋮⋮。マタイ伝第二十六章・六一十三﹁⋮⋮ある婦蝋石の うつはもの あたひ にほひあぶら もち かうぺ そそむ 器物に価たかき香膏を盛てイエスの食する所に携来り其首に斜し まっしきもの なんぢら とも なんぢら とせ かば⋮⋮貧者は常に爾曹と借にあれど我は常に笹身と僧に在ず彼が にほひあぶらわがみ そそぎ はうむり なせ この混播を我体に固しは我の葬の為に行る也⋮⋮﹂ ⑥ゲッセマネの撤櫨Oo爵器ヨp口Φエルサレム近郊の地。イエスが処 オリ プ 刑の前日、その撤掛商に赴いて祈祷したと伝える。 はりつけ ⑦ゴルゴタ Oo茜。§9エルサレム近郊にある丘。イエスが篠の刑に 処せられた地。マタイ伝・第三十七章 わがちぢ ⑧﹁わが父よ⋮⋮﹂マタイ伝第二十六章・三十九1四十二﹁⋮⋮吾父 もし このさかづき はな され わがこころ まま なさ よ若かなはゴ此杯を我より離ち給え然ど我心の従を成んとするに非ず みニころ わが もし さかづき のま はな あだは みこニろ 聖書に任せ給へ⋮⋮我父よ惑われに捨杯を飢さで離つこと能ずぱ聖旨 まか に任せ給へ﹂⑨﹁いたく憂て死ぬばかり﹂マタイ伝第二十六章三十六−三十八。 ﹁ うれ かなし もよほ ︵イエス︶ペトロ及びゼベダイの二人の子を携へ憂へ哀みを催し彼等 いひ わがこころ うれへしぬ なり に日けるは我心いたく憂て死るばかり也⋮⋮﹂ ︵解︶ クリストは︵そこが自分の処刑の地となることを知りつつ︶イェル サレムへ入った後︹自他に対して︶最後の戦いをした。その戦いぶり は若々しさを失なっていたけれども、何となく烈しさに満ちたもので ある。 ︹まず︶彼は道ばたの無花果を呪った。しかも︹意外にも︺そ れは︹空腹の︺彼の期待にそむいて一つも実をつけていないためだっ た。 ︹それまで︶あらゆるものに慈愛をかけて来た彼であるのにここ では半ばヒステリックに︹その無花果を呪い枯らすという︶破壊力を 発揮している。 ﹁カイゼルのものはカイゼルに、 ︹神のものは神に︶返せ﹂ ︹パリサイ人たちがクリストをわなにかけようと、納税の可否を 質問したところ、こうソツなく答えられ、驚歎して引きさがったと いう。︶ これはもう情熱に燃えた青年クリストの言葉ではない。 ︹彼が軽蔑 していたこの世の人生が︶彼に仕返ししはじめたのに対する︵彼はも ちろん人生よりも天国を重んじた詩人だった。︶分別じみたクリスト の言葉である。この言葉に潜んでいるのは必ずしも彼の世渡りの才だ けではない。 ︹何百年も前の︶モオゼの昔から少しも変らない人間の こ 愚かしさに愛想をつかしていた︵その気持も篭められていた︶ことで
西方の 人 注解
みや あろう。が、そのいらだたしさはエホバの﹁殿に入りてその中なる凡 かい おひだ りょうがえするものだい はと こしかけ たお ての売買する者を逐出し克銀者の案、鵠をうる者の椅子﹂を倒した行 みや 動と、 ﹁この殿も今に壊れてしまうそ﹂という叫びとなって現われて いる。 ある女人はこういう︹いたわしい状態にある︺彼のために彼の額へ そそ ︹高価な︺魂迎を注いだりし︹て彼につくし︺た。クリストは弟子た ちが︹その代金で貧しい人たちが救えるといって︶彼女をとがめる のを制止した。 ︹上記の言動にこめられたクリストの気持は︺それか ら1十字架と向い合った︵死刑に直面した︶クリストの気持は彼を 理解しない弟子たちに対する︹つぎの︺優しい言葉の中に忍びこんで いる。 ︹すなわち︶彼は香油を匂わせたまま、 ︵こんなことは︹常 に︺土埃にまみれ勝ちな彼には珍らしい出来事の一つに違いなかっ た。︶静かに彼らに︹こう︺話しかけた。 ﹁この女人はわたしを葬送 するためにわたしに香油を注いだのだ。わたしはいつもおまえたちと いっしょにいることの出来るものではない。﹂ ゲッセマネのオリーブ山におけるクリストはゴルゴダ︹刑場︺の十 字架︹上のクリスト︶よりも悲壮である。クリストは死力を揮いなが デ モン ら、そこ︹のオリーブ山︶で彼自身とも1彼自身の中の聖霊︹の子 たる質︶とも戦おうとした。ゴルゴダの十字架︹による死︺は彼の上 に刻々と迫ろうとしている。彼はこの事実を知りつくしていた。が、 彼の弟子たちは、1︹彼をクリストといい現わした︺ペテロ︵マタ イ伝第十六章∼十七章︶さえ彼の心持を理解することは出来なかった。 クリストの祈り︹にうかがえる彼の心もちロは今日でも我々にひしひ 17西、方の 人 注解 しと掌る力を持っているσ デコモン ロ ドきかづき ナ ﹁わが父︹聖霊︶よ、もしできるものならば、この杯︵親子の誓 の風あの意︶をわたレからお離し下ざい◎けれども、︹なうVしかだ, はないとおヴ.しゃる底らぱ、どうか御心のままになすっ下さい。﹂、 デ をン あ渉ゆるクリストは戸聖霊の子たるゆえに破滅に直面しで︶人の寝 静まつた夜中に必ず乙ヶ祈っている。.同時に玄たあちゆるクリストめ 弟子たちは﹁いたく憂えて死ぬばかり﹂な彼の必もちを理解せずにオ リレブの下に︹ずやすやと︶睨?ている︹ばかりな冒のである。⋮⋮ ︵要旨︶ 死地イエ、ルサレムにおけるクリスト最後の戦いぶりを叙して、その 内面の考察に及んでいる。 その戦いぶりは、 ζれまでと趣を異にし. てガ 瘁Xしさに欠けているが、何か烈レさに潜ぢたものだとの総括に. わへい 始まり、話柄を聖書の贋によらないでその視点を外から吋に移して.い っているようである。世の一切を愛して来たクレストではみったが、 自分の予期に反した無花果には、これを呪い志すという破壊的行動を わな とっている彼は、自分に対する復讐忍業のために用心深くソツのない 老成ぶりを身につけざるを得なかったが、それだけに馬少しも改まら ない人間愚に愛想がつき、一面では焦らだたしさのあまり、エホバの 神殿を生活の場にしている人々を追い出し怒号するすさまじさを示し たの﹁である。 クリストは十字架の死を間近かにひかえたその別れの気持を、彼の 額に香油をそそいだ女人にことよせて、弟子たちにやさしくほのめか しているが、彼らはぐの場にならなければ理解できる彼等ではなかっ たのだ。 弟子たちの中にさえ一人の理解者も持たないタリストの心中は、・十 二架上の苦レみよりも悲壮なものであった。死が浅々に迫まるのを知 計つくしていた彼は必死になって彼自牙の中にある、父か・ヴケげつい だ献言︵自身をいやおうなく死地に越がしめるもの︶ども戦おうとさ えしたのだ。父に解放を願わずにはいられなぐなつだ彼の切ない祈戦 は、あらゆるクリストたちが分かちもつものであり、又あらゆるク墾 あんかん ストたちの師の、死ぬほどの切ないその心もちを理解せずに安閑と眠 デ モン っているものなのである。聖霊の子はついに府外にわたっ、て孤独なる 人生の悲劇を免れないのだ。 四① ダ 後代はいっかユダの上にも悪の円光を輝かせてみる。しかしユダは 挿しも+二人の弟子たちの中でも特に祭った講ではない一6ペテ。さ たび たび へ庭石の声を挙げる度に三度クリストを知らないと言ってみる。ユダ のクリストを売ったのはやはり今aの政治家たちの彼等の局笠を売る ③ と同じことだったであらう。パピニも亦ユダのクリストを売ったのを 大きい謎に数へてるる。が、クリストは明らかに誰にでも売られる危 さいし をさ ほか 機に立ってるた。祭司の長たちはユダの外にも何人かのユダを数へて ④ みた筈である。 唯ユダはこの道具になるいろいろの條件を具へてる
た。勿論それ等の條件の外に偶然も加はつてみたことであらう。後代 はクリストを、﹁神の子﹂にした。それは又同時にユダ自身の中に悪魔 を発見することになったのである。 しかしユダはクリストを売った ⑤はくよう いし 後、・白楊の木に絡死してしまった。彼のクリストの弟子だつたことは 一神の声を聞いたものだったことは或はそこにも見られるかも知れ かか ない。ユダは誰よりも彼自身を憎んだ。十字架に懸ったクリストも勿 をさ 論彼を責めたであらう。しかし彼を利用した祭司の長たちの冷笑もや いきどほ はゆ彼を憤らせたであらうゆ ⑥ よ ﹁お前のしたいごとをはたすが善い。﹂ ⑦ れんびん かう云ふユダに対するクリストの言葉は軽蔑と憐欄とに溢れてみる。 ﹁人の子﹂・、.クリストは彼自身め中にも或.ユダを感じてみたかも知れ ︸ ⑧ ないρしかしユダは不幸にもクリストのアイロニイを理解しなかった。 ︵注︶ ㊤ユダ,・冒山、9ωHω8二9十一.一使徒のひとり。金銭に目がくちみ。銀三 い し 十枚でイエスを祭司に売ったという。後に悔悟して客死℃背信の徒 としで聖書にのせられている。・イスカリオテの.ユダ。.・ @ペテロさへ置注の⋮⋮﹁マタイ伝﹂第二十六章・六十九−七十五。 ③パピニ 90毒口巳勺9国巳ジオヴアンニ︵一八八一1一九五六︶イ .タゆアめカトリック作家。 ﹁キリスト伝﹂︵二一︶は﹁信仰の否定﹂ とくしん と.﹁濱﹁神﹂.に対する彼の挑戦の書。.同書に・﹁ユダの神秘は賄罪の神 秘に一一重に結いつけられて居り。我々最も小さき者にと.っては、、二 つの神秘として残るだろヶ﹂とある。・ 西方 の 人 注解 ④いろいろの二尊 ユダひとりが十二人の使徒の中で異種族だったと いわれていることもその一つか。 ⑤白楊の木 はこやなぎ︵和名︶。.﹁セイヨウハコヤナギ﹂の類を総称 して﹁ポプラ﹂という。、.﹁マタイ伝﹂第二十七章・一一五にはユダが 後悔してイエスを売って得た銀三十枚を祭司に返へそうとしたが受け ぎん みや そ こ さり みつか くびれ 取って貰えず、 ﹁その銀を殿に投棄て其処を去ゆきて自ら絡たり﹂と あるが、白楊の木のことは見えない。 ⑥﹁お前のしたいことを⋮⋮﹂ ﹁マタイ伝﹂二十六章二,一十1二十 わた わぢはひ かな 五の中には単に﹁⋮⋮人の子を売す者は禍なる哉その人生れざりし かえづ さハはひ わた こたへ いひ ならば反て幸なりしならん彼を売すユダ穿て噴けるはラビ︵わが主︶ われ これ いひ なんぢ いへ 我なるや之に日けるは爾の量る如し﹂とあってこの語はない。 ﹁ヨ ひとつまみ うげ その バネ伝﹂第十三章・二十七に﹁彼が一撮の物を尊し其時サタン彼に いれここ い・ な昏なさ すみや な ㎎ 入り是に於てイエス彼に日けるは爾が為んとする事は速かに為せ﹂ とある。 ⑦軽蔑と憐欄、ユダの裏切りに対する解釈は近代作家の間に著てもさ まざまで、例えば、モーリヤックは、ユダが愛されていなかった為 にキサストを売ったどいう解釈である︵モーレヤツク・﹁そエ.ス伝﹂︶ が、遠藤周作はひたすらにユダの人間性の弱さにあるという解釈で 初期の作品.﹁白い人﹂︵昭ポ三〇︶でば女学生﹁.マリー・テレ臥ズ﹂ ゐワく に後期の代表作﹁沈黙﹂では﹁キチジロー﹂に托して弱き人間ユダ を描き聖書にあるこの言葉は弱き人間の代表者.ユダに対する溢れ.る 様な愛の言葉であけ、弱者である人間にとづての最高の救いの言葉 と解している。.
西方 の 人 注解 ⑧アイロニー 皮肉。謁刺。元来、偽装、仮装、ごまかしの意で転 じて真の認識に達するたあにソクラテスの用いた問答法をいうが、 ここでは言外に含まれているキリストの真意とでも解するがよいで あろう。 ︵解︶ 後代はいっからかユダを極悪の象徴にまつり上げている。然しユダ は必らずしも十二人の弟子たちの中でも特に悪かったわけではない。 ︹弟子たち仲間で常に代表的立場にあった︶ペテロでさえ︹クリスト にわとり の捕縛のとき自分への危険を逃れるため︶庭鳥が鳴く前に三度︹も︺ クリストを知らないと言っているのだ。ユダがクリストを裏切ったの はやはり今日の政治家たちが彼らの指導者を裏切るのと同じことで︹ 珍らしくないことで︺あったであろう。 ︹それなのに︶パピニもまた ユダの背信行為を大きい謎にあげている。が、クリストは明らかにだ おさ れにでも寝返られる危険な場に立っていた。 ︹それゆえ︶祭司の長た ちはユダのほかにも第二第三のユダを考えていたはずである。ただユ ダはこの裏切りの道具になるいろいろの条件を具えていた。もちろん それらの条件のほかに偶然も加わっていたことであろう。後代はクリ ストを﹁神の子﹂にした。そのことは同時にユダの中に悪魔を発見す ることになったのである。しかしユダは︹そんな悪魔ではなく︺クリ ストを裏切った後、ポプラの木に総死してしまった。彼がクリストの 弟子︹らしい弟子︺だったことは、1︹クリストの︺神の声に接し たものだったことはあるいはそこ︵自殺︶にも見られるかも知れない。 ユダはだれ︹を憎む︺よりも自分自身を憎んだ。 ︹自分ゆえに︶十字 架に懸ったクリスト︹を思うこと︺ももちろん彼を苦しませたであろ おさ う。しかし彼を利用した祭司の長たちの彼への冷笑もやはり彼を憤ら せたであろう。 ﹁おまえのしたいことをはたすが善い。﹂こういうユダに対するク リストの言葉はあなどりとあわれみとに溢れている。 ﹁人の子﹂︹で あり、神の子ではない︺クリストは彼自身の中にもあるいはユダに通 じるものを感じていたかも知れない。 然しユダは不幸にもクリストのこの言葉に含まれる言外の真意を汲 みとれなかった。 ︵要旨︶ つい 本章以後数章はクリスト処刑の周辺に照明を与えることに費やされ ていて、まず本章はクリストを裏切ったユダ問題をとりあげることで らくいん お はじめる。彼はいっからか極悪人の烙印を捺されているが、弟子たち の中で特に悪かったのでもないし、寝返りは今日の政治家にだって珍 しいことでもない。クリストは誰にでも売られ易い立場にあったのだ から、ユダの裏切りを大きな疑問とするパピニの考えは当たらない。 祭司の長たちがまずユダを選んだのは、いろいろな條件と偶然のため からだと考えられる。それなのに後代が彼を極悪人ということにした のは、クリストを﹁神の子﹂に仕立てたのでそれに対して悪魔的人間 を仕立てる心理が働いたためである。しかし彼が極悪人どころか、い・ かにもクリストの弟子としてふさわしかったことは自害したことから
も考えられてよかろう。すなわち彼は誰よりも自分を憎み、裏切りを 後悔し、自分を利用しながら冷笑している祭司の長たちに憤ったので れんびん ある。ユダの裏切りを予知したクリストのユダへの言葉に軽蔑と憐欄 とがこもっているのは、クリスト自身の中に人の子として、それも仕 ヘ へ 方がないと、理解できるだけの覚えがあってのせいかも知れない。ク リストもユダも共に人の子である以上、そう隔たりがあるはずはない からである。が、ユダはそこまではこの言葉のもつ言外の真意を理解 でなかったのである。 30 @ビ ラ ト つひ ピラトはクリストの一生には唯偶然に現れたものである。彼は畢に ② 代名詞に過ぎない。後代も亦この官吏に伝説的色彩を与へてるる。し かし麺ナトオル●アランズだけはかう云ふ色彩に欺かれなかった・ ︵注︶ ①ピラト ユダヤ、サマリヤ、イドマヤを治あた第五代ローマ総督。 イエスを十字架にかけるよう命じた。 そのころ うち ②伝説的色彩 ﹁ル二丁﹂第十三章・一に﹁当時あつまりたる者の中 びと そのぞなへもの まぜ にビデトがガリテヤ人の血を其供物に議し事を⋮⋮﹂とあり、ピラ トの性格の残忍性を思わせる。又、 ﹁ヨハネ伝﹂算十九章・十二に こののち ゆる り はか しかれ いひ ﹁此後ピラト彼を釈さんと謀る然どもユダヤ人さけび日けるは若し
西方の人 注解
ゆる すべ みつから これを釈さばカイザルに忠臣ならず凡て自己を王となす者はカイザ ルに叛く者なり﹂とあってピラトがイエスを処製したはの、ユダヤ おもわく 人やカイザルの思惑を恐れだという風な劇的な記述になっている。 ③アナトすル・フランス ︾昌昌。δ閏冨昌。Φ︵一八四四−一九二四︶ フランスの小説家・批評家。彼の作品に﹁ユダヤの代官﹂があって、 イエスを処刑したことを忘れ去って巨る老年のピラトが描かれてい る。 ︵解︶ ︹クリストを処刑した︺ピラトはクリストの一生に対してはただ偶 然に現われたものである。どう考えても彼ば︹偶然現われたものを意 味する︺代名詞にすぎない。 ︹新約聖書のみならず︺後代もまたこの 官吏にさまざまの伝説的色彩を与えている。しかしアナトオル・フラ ンスだけはこういう色彩に欺かれることなく真相を見抜いていた。 ︵要旨︶ ピラトはクザストの処刑者として有名で、それだけ新約聖書︵注参 照︶をはじめ、後代も﹁ピラト書伝﹂などがあって、このローマの第 五代総督にさまざまの伝説的色彩︵残忍苛酷な性格だとか、クリスト の無罪を認めておりながら処刑したのは、ユダヤ人の強い要求に屈し てとか、皇帝の反感を恐れてとか、また彼の最期についても、自殺説、 皇帝による斬首説などがみる︶を与えているが、さすがにアナトオル ・フランスだけは鋭くもその著﹁ユダヤの代官﹂において、ピラトが 21西方の 人 注解
クリスト処刑後、年を経て友人と話が当時のことに及んだとき﹁イエ ス?ナザレびとのイエス? 覚えがないなあ﹂といい放つ場面を書い ている。これが真相を伝えるものである。ピラトのクリスト処刑は彼 の意識的行為ではなく、たまたまクリスト処刑の命令者の立場にあっ たために事務的に処理したにすぎない。誰がその立場にあったとして もその処理は同じでしがなかったのだ。ゆえにピラトはクリスト処刑 の場にただ偶然に現われたと見るべきで、そのほかに彼にはいかなる 意味づけも色彩づけもほどこすべきではない。単に偶然がピラトをし て事務的に、偉大なる天才クリストを処刑させたのである。偶然なる ものの人生支配について芥川はすでに﹁5 エリザベツ﹂においても 深く感じているし、また﹁傑儒の言葉﹂﹁闇中問答﹂等の中にも記し ている。理智主義といわれた彼がいかに﹁偶然﹂の支配を痛感してい たかを知るべきである。 31 ①クリストよりもバラバを
クリストよりもバラバを一それは今日でも同じことである。バラ くわだ バは叛逆を企てたであらう。同時に又人々を殺したであらう。しかし しょげふ ② 彼等はおのつから彼の所業を理解してみる。ニイチエは後代のバラバ たと たちを街頭の犬に比へたりした。彼等は勿論バラバの所業に憎しみや 怒りを感じてみたであらう。が、クリストの所業には、1恐らくは 何も感じなかったであらう。若し何か感じてみたとすれば、それは彼 等の社会的に感じなければならぬと思ったものである。彼等の精神的 どれい たくま ③いばらかんむり 奴隷たちは、1肉体だけは逞しい兵卒たちはクリストに荊の冠をか ほう ④ むらせ紫の抱をまとはせた上、 ﹁ユダヤの王安かれ﹂と叫んだりした。 クリストの悲劇はかう云ふ喜劇のただ中にあるだけに見じめである。 ⑤ クリストは正に精神的にユダヤの王だつたのに違ひない。が、天才を セうす 信じない犬たちは一いや、天才を発見することは手易いと信じてい あざげ る煮たちはユダヤの王の名のもとに真のユダヤの王を嘲ってみる。 ⑥つかさ あや ひとこと ﹁七三のいと奇しとするまでにイエス一言も答へせざりき。﹂ーク もん リストは伝記作者の記した通り、彼等の訊問や嘲笑には何の答へもし なかったであらう。のみならず何の答へをすることも出来なかったこ とは確かである。しかしバラバは頭を挙げて何ごとも明らかに答へた であらう。バラバは唯彼の敵に叛逆してみる。が、クリストは彼自身 に、1彼自身の中のマリヤに叛逆してみる。それはバラバの叛逆よ ⑦ りも更に根本的な叛逆だつた。 同時に又﹁人間的な、余りに人間的 な﹂叛逆だつた。 ︵注︶ すぎこしのまつり ①バラバ 途越祭の恩赦の慣例行事により、ピラトが釈放した囚人。 その時のもう一人の囚人だったイエスは十字架にかけられた。﹁マ さハし をさとしよリ タイ伝﹂第二十七章・二十・二十一に﹁祭司の長長老たちバラバを ゆる ねがへ すす つかさ いひ 釈しイエスを殺さんことを求と民に唆む。方屋こたへて彼等に磨け いつれ わが ゆる るは二人のうち敦を我なんぢらに釈さんことを望むや彼等バラバと 答ふ。﹂とある。他に﹁マコ伝﹂第十五章・十一。 ﹁ルカ伝﹂第二十三章・十八一二十三。又﹁ヨハネ伝﹂第十八章・三十九一四十に﹁ ここ なんぢら ひとつ すぎこし いはひ めしうど なんぢら なんぢら 愛に二曹に一の例あり我輸越の節に一人の囚人を五重に釈す爾曹ユ びと ゆる ねが ひとびとさけび このひと ダや人の王を釈さん事を欲ふや衆人馬引いひけるは工人に非ずバラ ぬすびと なり バを釈せバラバは盗賊なる也﹂とある。 ②ニイチエは後代の⋮⋮﹁これをもて彼らは狼を犬となし、人間その ものをも人間のいと善き家畜となしき﹂ ︵.﹁ツァラトウストラ﹂︶ ③荊の冠をかむらせ ﹁マタイ伝﹂第二十七章・二十八・二十九に﹁ あかいろ うはぎ いばら かんむりあみそのかうべ かむら 彼の衣をはぎて経色の抱を着せ棘にて昆を編其首に冠しめ⋮⋮﹂、 うはぎ いばら かんむり あみ かむら ﹁マコ伝﹂第十五章・十七に﹁彼に紫の抱をきせ棘にて晃を予て冠 いばら かんむり あみ しめたり﹂、 ﹁ヨハネ伝﹂第十九章・二に﹁兵卒ども棘にて昆を編 かうぺ かぶら うはぎ き かれの首に冠しめ又紫の抱を為せて﹂とある。. ④ユダヤの王 ルナンの﹁イエス伝﹂に﹁イエス自身では決して称え ,−なかったのであるが、敵がイエスの役割と主張との要約であるかの 一ように称え立てたところの﹃ユダヤの王﹄といケ称呼は、おのずか 飼ヴ、ローマ官憲の疑惑を刺戟するのに列ばんよい口実であった。そ エスは、この方面から、反徒とし、国事犯どして、替あられはじめ たのである﹂とある。 ⑤精神的にユダヤの王 ﹁マタイ伝﹂第二十七章・十一に﹁さてイエ つかさ つかさ とふ いひ なもち ス方伯の前にたつ、方伯イエスに問て日けるは爾はユダヤの王なる これ いひ なんじ いへ かイエス之に画けるは爾が去る如し﹂、又﹁ヨハネ伝﹂第十八章・ かれ いひ され なんじ 三十七に﹁ピラト彼︵イエス︶に日けるは然ば爾は王なるかイエス こたへ なんじ いふ ・着けるは爾の言ところの如く我は王なゆ一これが為に生れこれが為 きた ’世に臨れり﹂とある。
﹁西方・の人 注解
つかさ あや つかさ ⑥方伯のいと奇し⋮⋮ ﹁マタイ伝﹂第二十七章・十四に﹁方伯のい あやし ひとこと こたえ と奇しとするまでにイエス一言も諭せざりき﹂とある。又、.﹁マコ あやし する こたへ 伝﹂第十五章・五に ﹁ピラトの奇と為までにイエス何をも答ざり ゆえ ことば も とひ き﹂ ﹁ルカ伝﹂第二十三章・九には﹁この故に多くの言を以て問け こたへ れどもイエス何をも答ざりき﹂とある。 ⑦人間的な、余りに人間的な ニーチェの著︵第一部一八七八、第二 部一八七九︶の題名。 ︿解︶ すぎニしのまつり ︹途越鎮め慣例で囚人が一人ゆるされることになったとき、群衆が︺ クリストよりもバラバを︹ゆるせと騒いだが︶li・それは今日でも同 じことである。バラバは叛逆を企てたであろう,同時にまた人々を殺 したでもあろう。が、しかし彼ら︵群衆︶は教えられなくても自然と 彼︵バラバ︶が何をしたかが分かっている。.ニイチエは後代のバラバ たと 的連中を町をうろつく野良犬に比えたりした。群衆たちは勿論バヲバ の所業に憎しみや怒りを感じていたであろう。ところで︹彼らの理解 をこえた︶クリストの所業には、−おそらくは何も感じなかったで あろう。もし何か感じていたとすれば、それは彼らが世間に調子を合 ヘ へ わせるために感じなければならぬと思ったものをである。 ︵つ.まり附 和雷同しているだけなのである。︶.彼ら民衆の精神的奴隷たちは、 一肉体だけたくましい兵卒たちはクリストに荊の冠をかむらせ、紫 ガタン の外套を着せた上、 ﹁ユダヤの王万才﹂と叫んだりした。クリスト処 刑の悲劇はこういう︹精神的奴隷がそれと知らずに精神的王者をひや 23西方 の 人 注解 かす︶喜劇のただ中で行なわれているだけにみじめである。クリスト は︹兵卒たちが叫んだ通り︶まさに精神的にユダヤの王だったのに違 いない。が、天才を信じない犬たちは一いや、天才を発見すること はたやすいと思いこんでいる犬たちはユダヤの王の名のもとに真のユ ダヤの王を嘲っているのだ。 ﹁つかさ︵総督ピラト︶が非常に不思議 に思ったほどにイエスは︹何を聞かれても︺一言も答えなかった。﹂ じんもん ークリストは伝記作者の記した通り、彼らの訊問や嘲笑には何の答 えもしなかったであろう。のみならず何の答えをすることも出来なか、 つたことは確かである。しかしバラバは彼らに向って何事も明らかに 答えたであろう。バラバはただ彼の敵に叛逆しているだけだ。が、ク リストは彼自身に、一彼自身の中のマリア︵守らんとするもの︶に 叛逆しているのだ。それはバラバの叛逆よりもさらに根本的な叛逆だ った。同時にまた﹁人間的な、あまりに人間的な﹂叛逆だった。 ︵要旨︶ えたいの知れないクリストよりも、たとい悪者ではあっても正体の 分かったバラバの方を助けたいというのは、今日でも変わらない。理 解できる所業にはそれなりの感じを持つものだが、クリストの所業は 彼らの理解を越えていたから何も感じなかったろう。がもし何か感じ たとすれば、それはせいぜい何の見識もない彼らが社会に調子を合わ せるために感じなければならぬと思ったものだけである。だから、た くましいのは肉体だけで精神的には奴隷同様の兵卒たちは周囲に支配 されて、精神的王者を弄び笑いものにしていい気になっている。目前 にいる天才を信じないくせに﹁自分では天才を見出すことはたやすく出 来ると信じている凡俗どもは情ない限りである。天才と凡俗とはこう かくぜつ も隔絶するものか。クリストは訊問に沈黙を通したが答えようもなか ったのだ。それというのは、はきはき答えたバラバの反逆はただ自分 の外にいる敵に対してであるが、ク暁ストは自分自身、すなわち彼自 身の中の母マリアからうけついだものへの反逆であるからだ。マリア 的なるものは、あらゆる男女に共通するもの︵第2章︶であるから、 クリストの叛逆はバラバの叛逆よりも更に人間の根本にかかわる叛逆 であり、同時にまた人間なるがゆえの叛逆だったのである。それにも かかわらず、クリストよりもバラバを助けたいというのは今日もなお 変わらないのだ。社会は依然として天才を理解できないし、そのため に反逆の囚人バラバを理解できるということだけで選ぶしかない状態 を続けている。人間は進歩しないのか。天才はついに永遠に孤立のう ちに葬られなければならないのか。芥川は天才クリストの悲劇のうち あきら に、現代への諦めるほかない、絶望を観じているのである。 32
@ゴルゴダ
つひ 十子架の上のクリストは畢に﹁人の子に﹂に外ならなかった。 ①﹁わが神、わが神、どうしてわたしをお捨てなさる?﹂ いはん 勿論英雄崇拝者たちは彼の言葉を冷笑するであらう。況や聖霊の子 供たちでないものは唯彼の言葉の中に﹁自業自得﹂を見出すだけである。 ﹁エリ、エリ、ラマサバクタ一こは事実上クリストの悲鳴に 過ぎない。しかし、クリストはこの悲鳴の為に一層我々に近づいた のである。のみならず彼の一生の悲劇を一層現実的に教へてくれた のである。 ︵注︶ ①わが神、わが神、⋮⋮ イエスが息をひきとる前に叫んだ言葉。 ﹁ マタイ伝﹂第二十七章、四十六に﹁三時ごろイエス大声にエリ、エ よばは これ とけ わが すて リ、ラマサバクタニと呼りぬ之を釈ば二神わが神なんぞ我を猛たま や いへ なり ふ呼と煮る也﹂とある。 この言葉をイエスが愛請していた詩篇の一節であり、﹁しかも、詩 篇の冒頭の一節を読むことはその詩全体を晶えることを意味していた のが、ユダヤ人の習慣であった﹂として﹁実は絶望を歌った詩ではな くて、神への全き信頼と、そこから生まれ出る希望を歌ったものであ る﹂とする説がある。 ︵佐古純一郎。旺文社文庫・西方の人巻未解 説︶その詩篇とは﹁旧約詩篇第二十二篇﹂のことで﹁あけぼのの鹿の しらべ うだのかみ 調にあはせて職長にうたはしめたるダビデの歌﹂として第一節﹁わが いか 神、わが神なんぞ我をすてだまふや、何なれば遠くはなれて我をすく なげ はず、 わが歎きのこゑをきき絵はざるか﹂に始まり二十八節より終 くに りの三十一節は次の如くなっている。 ﹁国はエホバのものなればなり、 エホバはもろもろの国人をすべをさめたまふ。/地のこえたるものは ちり おの ながら 皆くらひてエホバををがみ塵にくだるものと己がたましひを存ふるこ と燧はざるものと嵌そのみまへに禦晦かん/たみの徹⋮のうちにエホ 西方 の 人 注解 しゅ よ よ バにっかふる者あらん主のことは代々にかたりつたへらるべし/かれ こ ら来りて比はエホバの行為なりとてその義を後にうまるる民にのべつ たへん。﹂ 然し芥川は﹁続西方の人・20 受難﹂に於て更にここにふれて﹁彼 は﹃エリ、エリ、ラマサバクタ一こと云ふ必死の声を挙げた後も︵た とひそれは彼の愛する讃美歌の一節だつたにせよ︶彼の息の絶える前 に何かおほ声を発してみた﹂と述べている。ルナンの﹁イエス伝、第 二十五章﹂には﹁或る物語によると、彼は、一時、気力を失った。雲 が、父の顔をおほうた。彼は、いかなる苦悩よりも幾千倍も鋭い絶望 の苦悶に襲はれた。彼は、人間の忘恩をしか見なかった。彼は、おそ らく、卑しい人類のために苦しむことを悔いて叫んだ、 ﹃わが神、な にゆゑわれを棄てたまふや﹂。しかし、彼の神的本能は、ふたたび勝 つた。体の生命の衰へゆくにつれ、魂は、晴ればれとなり、すこしつ つ、その天の源へ戻っていった。﹂とある。 ︵解︶ 十字架の上のクリストはどうみても﹁人の子﹂以外の何者でもなか った。 ﹁わが神、わが神、どうしてわたしをお捨てなさる?﹂ もちろん英雄崇拝者たちは︹期待が裏切られた思いで︶彼のこの言 葉を冷笑するであろう。いわんや聖霊の子供たちでない︹俗︺人は彼 の言葉の中に﹁自業自得﹂を感じるだけである。 ﹁エリ、エリ、ラマ サバクタ一こは︹クリスト教関係者がどう考えようとも︶事実上︹人 25
西方 の 人 注解 面︺クリストの悲鳴にすぎない。しかしクリストはこの悲鳴をあげた ために一層我々︹人間︺に近づいたのである。のみならず彼の一生の 悲劇を一層現実的に教えてくれたのである。 ︵要旨︶ 十字架上で﹁エリ、エリ、ラマサバクタニ﹂と叫んだクリストは要 するに﹁人の子﹂だ。自分は何の実銭もせずただ観念的に英雄を崇拝 し、それをクリストに期待していた無国辱な人々は、これで失望して デ モン 冷笑するであろうし、聖霊の子でない俗物はそれを夢想家の﹁自業自 得﹂と思うだけであろう。彼らはいずれもクリストを誤解しているの である。これは実際、クリストの悲鳴とうけとるべきであり、前章で 叛逆の点で人間的な面を示した彼は、この悲鳴をあげたたあ一層、我 々に近い存在となったのである。 この悲鳴はそれのみか、 彼の中の デ モン 聖霊と彼の中のマリアとの一生にわたる戦いの悲壮さを一層現実に即 して、よく分かるように教えてくれた乙とになる。、 33
@ピ エ タ
クリストの母、年とったマリアはクリストの死骸の前に歎いてみる。 ① ②かならず 一かう云ふ図の曽甘①けと呼ばれるのは必も感傷主義的と言ふことは ③ 出来ない。唯ビテタを描かうとする画家たちはマリア一人だけを描か なければならぬ。 ︵注︶ ①p且傘 ピエタ宜Φ雷﹁敬度な哀悼﹂を意味するイタリア語。聖母マ リアがキリストの死体をひざの上に抱いて嘆ぎ悲しんでいる図また は像。十四世紀のドイツに始まるという。 へ ②必も 必しもの誤であろう。 ③マリア一人だけを﹁マタイ伝﹂第二十七章・五十五・五十六に﹁ このところ のぞみ をんな 比処に遙に卜えたる多くの婦ありし、彼等はガリラヤよりイエスに つかへ ものぎも そのうち をり 従ひ事し者等なり。弘仁に私し者はマグダラのマリアとヤコブヨセ こたち の直なるマリアとデベダイの子等の母と也﹂とあり、 ﹁マゴ伝﹂第 のぞみ をんな ら そのなか セをりコ 十五章・四十・四十一に﹁また遙に望みたる婦ありし其中に在し者 ちいさき はマグタラのマリアおよび年少ヤコブとヨセの母なるマリア又サロ つかへ もの メなり、彼等はイエスのガラリヤに居たまひし時これに従ひ罰し者 ども また ほか のぽ おほく をんぼ 等なり又この他にも彼と共にエルサレムに上りし多の婦みたりき﹂ しるべ とあり、 ﹁ルカ伝﹂第二十三章・四十九に﹁イエスの相識の人々お したが をんな たち これら よびガリラヤより随ひし婦ども遠く立て此等の事を見たり﹂とあっ て、イエスの母マリアが十字架のそばにいた記述はないがただひと り﹁ヨハネ伝﹂第十九章・二十五・二十六・二十七には﹁さてイエ しまい また スの母と母の姉妹およびクロバの妻のマリア並マグダラのマリアそ かたはらたて ところ かたはらたて の十字架の労に立り。イエス母と愛する所の弟子と労に弄るを見て いひ をんヰ これ いひ これ 母に受けるは婦よ歪なんちの子なり。また弟子に日けるは比なんぢ はは このとき おのれ つれゆけ の母なり是正その弟子かれを己の家に携往り﹂とある。ルナンは﹁イ.エズ伝・第二十五章﹂で次の様に述べている﹁第四 福音書を信ずるなら、イエスの母マリアも十字架の下にをり、イエ スは、母と愛する弟子との共にみるのを見て、母に、 ﹃見よ、汝の 子なり﹄といひ、弟子に、 ﹁見よ、汝の母なり﹂と言ったといふ。 しかし、ざヶすると、.共観福音書の記者たちが、他の女たちの名前 は掌げてるながら、.なぜ、 そこにるれば実に著しい特色となると ころのこの女性を省いてしまったか、 そのわけが分らなくなる。 イエスの至高の性格は、すでに自分のわざに没頭し、も早、人類の ためにのみ存在してみたに他ならないこの瞬間に、そんな尤もらし い個人的感激を示しはしないであらう。イエスは、遠くから彼の目 を慰めてくれるこの女たちの小さな群を別とすれば、眼前には、人 間の卑しい、あるいは愚かな光景をしか持たなかった。﹂と。 すなわちルナンによれば﹁ヨハネ伝﹂の記述は﹁感傷主義的﹂と いうことになろう。 しかし芥川のこの章の主旨よりすれば十字架の労に母のマリアが いたかどうかは問題でなく、ピエタなるものの本質にあるのである。 ︵解﹀ クゾストの母、.年をとったマリア.はクリストの死骸の前で歎いてい る。こういう図が甘Φ郎と呼ばれるのを感傷主義的な呼び方だと云う の.はあたらない。ただ.ピエタをその題名にふさわしく描こうとする画 家たちは︹クリス臨め死骸を除いて︶.マリア一人だけを描かなければ なら、ぬ。 西方 の 人 注.解 ︵要旨︶ 年老いた母がわが子の死体に対して十寸するというのは人情の自然 の発露であり、従って老婦マリアが処刑されたクリストの死体を前に 歎く図がピエタ︵敬度な哀悼︶と呼ばれているのを感傷主義的な呼び 方だとは云えない。ただこの場合、つぎの配慮が必要だ。クリストの クリストたる所以は父デーモンの血をうけついだ人の子である点にあ り、‘﹁守らんとする﹂生活者マリアにとってクリストは我が子ながら 全く理解を絶した﹁永遠に超えんとする﹂天才であり、クリストにと ってマリアは意志的に最後まで叛逆すべき対象の典型であった。両者 は母子であってもとうてい渾然たる一体となり得ない関係にあるのだ から、ピエタを描く画家は母マリアだけを描くべきであろう。
34
@クリストの友だち
クリストは十二人の弟子たちを持ってるた。が、一人も友だちは持 ① たずにるた。若し一人でも持ってみたとすれば、それはアリマタヤの ② ひく ヨセブである。 ﹁日暮るる時尊き議員なるアリマタヤのヨセブと云へ﹂ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ る者来れり。この人は神の国を望めるものなり。彼はばからずピラト ゆ かばね こ に往きてイエスの屍を乞ひたり。﹂iマタイよりも古いと伝へられ るマコは彼のクリストの伝記の中にかう云ふ意味の深い一節を残し た。この一節はクリストの弟子たちを﹁これに.従ひっかへしものども なり﹂と云ふ言葉と全然趣を異にしている。ヨセブは恐らくなクリス 27西方の 人 注解
トよりも更に世間智に富んだクリストだつたであらう。彼は﹁はばか らずピラトに往きイエスの屍を乞﹂つたことはクリストに対する彼の 同情のどの位深かったかを示してみる。教養を積んだ議員のヨセブは この時には卒直そのものだった。後代はピラトやユダよりもはるかに 彼には冷淡である。しかし彼は十二人の弟子たちよりも或は彼を知つ ③ てるたであらう。ヨハネの首を皿にのせたものは残酷にも美しいサロ はうむ メである。が、クリストは命を終った後、彼を葬る人々のうちにアリ マタヤのヨセブを数へてるた。彼はそこにヨハネよりもまだしも幸 福を見出してみる。ヨセブも亦議員にならなかったとしたらば、1 ひつきやうと ④よ それはあらゆる﹁若し⋮⋮ならば﹂のやうに畢尋問はないでも善いと いちじ一 ⑤ぞうがん こかも知れない。けれども彼は無花果の下や象嵌をした杯の前に時々 彼の友だちのクリストを思い出してみたことであらう。 ︵注︶ ①アリマタヤのヨセフ サンヒドリンの議員﹁マタイ伝﹂第二十七 いへ 章・五十七に﹁堅くれてイエスの弟子なるヨセブと云るアリマタ とめるひと ゆき しかばね こひ やの富人きたりてピラトに往イエスの屍を請しかば﹂とある。 ②日暮るる時⋮⋮ ﹁マコ伝﹂第十五章・四十三。 ③ヨハネの首を⋮⋮ ワイルドの戯曲﹁サロメ﹂︵一八九三︶の主人 公。﹁マタイ伝﹂第十四章。﹁マコ伝﹂第六章。などより取材。ワ イルドの作品ではこのバプテスマのヨハネはヨカナーンとして登場 する。 ヘ へ ④善いとこ 善いことの誤りであろう。 ⑤象嵌 金属・陶磁器・牙・木材などに、模様などを刻み込んで、そ こに金、銀その他の材料をはめこむこと。また、そのはめ込んだも の。 ︵解︶ クリストは十二人の弟子たちを持っていた。が、一人も友だちは持 たずにいた。もし一人でも持っていたとすれば、それはアリマタヤの ヨセブである。﹁日暮れるとき地位の高い議員アリマタヤのヨセブと いう者︹ピラトのもとに︺来れり。この人は神の国を待ち望んでいる 人であった。彼は大胆にもピラトに行ってイエスの屍の引取り方を願 った。﹂ーーマタイよりも古いと伝えられるマコは彼のクリストの伝 記の中にこういう意味の深い一節を残した。この一節はクリストの弟 子たちを﹁これ︵クリスト︶に従いつかえしものどもなり﹂という︹ 簡単な冒言葉とは全然趣を異にしている。ヨセブは恐らくはクリスト よりもさらに世才にたけたクリスト︵超えんとするもの︶だったであ ろう。彼が﹁はばからずピラトに往きイエスの屍を乞﹂つたことはク リストに対する彼の同情がどのくらい深かったかを示している。教養 の深い議員のヨセブではあったがこのとき︹だけ︺は卒直そのものだ った。︹それなのに︺後代はピラトやユダに対するよりもはるか、に彼 に冷淡である。しかし︹これは正しくない︶ヨセフは十二人の弟子た ちよりもあるいはクリストを理解していたであろう。 ︹というのは次 のことが考えられるからである。ロ ︹バプテズマの︶ヨハネは残酷に も美しいサロメによって首を皿にのせられた。が、クリストは自分の死後、葬ってくれる人々のうちにアリマタヤの二上ブを数え︹彼に期 待し︺ていた。クリストはその点ヨハネよりもまだしも幸福を見出し ている︹といえるし、ヨセブの行動は、クリストのその心中を理解して のものと考えられよう。︺ ︹ところで︶ヨセブにしても議員になって いなかったとしたならば一それはあらゆる﹁もし⋮・:ならば﹂のよ うに結局問題にしなくても善いことかもしれない。けれども︹議員で なかったらロ彼は無花果の下や象嵌した杯の前でときどき︹亡きΨ友 だちのクリストを思い出してい︹るしかできなかっ冒たであろう。 ・葬ってくれることを期待したクリストはやはり相対的な人の子であっ たことを思い、人の子である限り、絶対を志向する天才も究極的には 相対的な関係の上に成立する幸福を願わずにいられないものだという ことを芥川はしみじみかみしめているのである。 (短