法華経については、今までに多種多様な研究がなされてきて いる。それだけ我とに深く関り合っているということができ る。この書では、法華経について古来の本迩二門に区分する考 えではなく、近代の仏教研究の成果の上に立ち、経典が歴史の 流れとともに仏滅後に成立したものと捉えて論を進めている。 法華経の方便品に説かれている一仏乗と如来寿量品における 久遠実成を一本の柱と倣し、この久遠実成という仏身観の説示 という大目的の達成とそこから始まる救済の論理樹立のために 法華経は秘だの説示を展開するが、その第一として五種法師を 挙げている。そしてこの五樋法師の行の示されるあり方の根底 には法華経に対する信がなければならないとし、信をぬきにし て法華経を理解することはできないとしている。 次に妙法華経の中で降色呂冨をある時は信と訳し、ある時 は信解と訳し、また逆に信解が酔い且颪の場合でもあり、 呂冨日烏感と野呂号幽との両語に対するものであることを指 摘し、信と信解に差異があるのかどうかを検討するために、 ﹁信﹂に関する原語として野凹呂薗.冒儲豊画・且冨ョ晨建の ︻書評︼
望月海淑著
﹁法華経における信の研究序説﹂
山喜房仏書林
三語を挙げている。この中で、法華経の﹁信﹂に関して語られ たものは殆どが酔画呂冨と且冨目鼻昼の二語で、それらの意 味するところは、野画呂冨は慾をともない三宝に対する﹁信﹂ であり、且ご日禺威は慧の上に立ち信じたものを更にゆるぎな いものにする﹁信﹂だと性格付けている。 以下﹁信﹂について、どのような意味合いをもち、どのよう な役割を負わされているかを章を追って述べている。第二章で は、・ハーリ四部経典すなわち長部、中部、相応部、増支部の各 経典について、それぞれ閏邑薗.冨の目色、且三日巨再津の三語 の使用例を具体的に挙げ言及している。第三章では、倶舎論及 び唯識論における信について述べている。倶舎論では特に根品 における信に関する表現を、唯識論では三十論頌に見られる信 の表わされ方について梵文と漢訳を対照させて記述している。 第四章では大乗経典のなかで一番早く成立した般若経をとりあ げ、なかでも早期に訳出されたとされる﹃八千頌般若経﹄に ﹃仏母出生三法蔵般若波羅蜜多経﹄を対比させて、信の使用例 を見ている。第五章では、大乗経典の最古層に属し、大乗仏教 哲学思想の展開過程においてもっとも中心的な役割を果した ﹃十地経﹄について、﹃十住経﹄﹃大方広仏華厳経﹄等を参照 しながら、前章と同様に論述している。次の第六章でも、同じ 華厳経に属する﹃入法界品﹄を取り上げ、現在刊行されている の②且豊首冒︲”具園召に比較的よく符合する﹃八十華厳経﹄の 訳を対比させて信の三語について述べている。第七章では、法 (2麺)華経の中で使われている信について、﹃妙法華経﹄℃﹃正法華 経﹄の両漢訳と斎﹃ョと恩昌ざによる静&冨吋昌昌眉念︲ 昌冨とにより検討している。第二節以下、序品、方便、警嚥、 信解、薬草職、化城職、五百弟子授記、法師、見宝塔、勧持、 安楽行、従地涌出、如来寿量、分別功徳、随喜功徳、常不軽菩 薩、嘱累、妙音菩薩、妙荘厳王本事、提婆達多品と順を追って 信の使用例を挙げ記述している。第八章では、法華経の成立に ふれ三期に分類している。第一期成立は序品第一から授学無学 人記品第九までと随喜功徳品第十八、第二期成立は法師品第十 から如来神力品第二十一までの提婆品第十二を除いた十品、第 三期成立は嘱累品以下最後までと提婆達多品第十二の順である とする。そして、酔騨呂冨.且冨昌烏夢胃儲幽忌の使用回数 を各品ごとに整理し、方便品を中心として讐噛、信解品のグル ープと如来寿過品を中心として従地涌出、分別功徳品のグルー プとの二つがあることを述べている。前者の中で方便、瞥職品 は印画呂冨が多く使われ、それは方便品で説かれる仏の本意 をあらわす一仏乗を信じ、仏となるための唯一の目的として、 どこまでも信じ続け歩承続けることを意味しているとする。こ れに対し良冨日匡鷺一は衆生らの心の状態、あり方を示してい るとし、信解品では且三ョ匡鷺一が多く使用されるが、それは 声聞が求めているものは劣ったもので仏への道でないと否定す るためのものであり、仏の覚りにむかおうと目覚める時に初め て釈尊が求める信解となりうることを強調したものであると述 べている。後者では、従地涌出、如来寿量品の野呂呂幽は仏 の説かれた教え、言葉、法に対しての信であり、久遠実成とい う釈尊の寿命の未曾有の説示をそのまま受入れる状態がそなえ られていなければならないとしている。口呂冨ョ烏監は前者の 場合と同じに心の状態、あり方を意味しているとする。分別功 徳品では野呂烏倒は、寿斌品の法門を聞いてという型で説か れ、画呂冨ョ烏盆は疑惑、不安、疑悔を捨てて信解するならぱ と説かれていると述べている。最後の第九章では、法華経は実 践を強調した経典であり、信の展開として信成就して不退にな るには種含の行が必要だし、信の上にたつ厩願によって仏とつ ながるのが人の生命であるならば、そこでは自然と信は行に転 ずべきものであるとしている。ついで五種法師について、梵文 法華経において法華経を受持し、その心からこれを広宣流布す るための行いが強調されて来たものが、妙法華経では多岐にわ たる法行を、最初からその種類を考えて五種法師として簡明に 表現したものであると述べている。そして塔礼拝にふれ、釈尊 を塔にシンポライズすることは、仏陀観の発展と相俟って、釈 尊の教えたる経典の中に釈尊を見ようとする経典即釈尊の見方 を発生せしめたし、この釈尊即経典の立場に立って、信を基盤 として経典の説示に対する如説修行、五種法師の行の実践を求 める展開をしていると論述している。終りに、法華経に説かれ ている浄土と信について、方便・唇職・従地涌出・如来寿斌品 を見て、質直意柔軟な心での信に立って、法華経の如説修行は (と2匁)
浄土への道、信仰者の道として提示されて来たものであると結 んでいる。 この様に、信あるいは信解と訳される酔い呂冨︾且冨日屋︲ 汽昼ゞ胃陽画目の三語について、広い範囲にその概念を求め、