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<研究論文>戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入-「善福寺子供の家」を事例として-

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Academic year: 2021

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(1)研究論集 第 2 号;3 − 15 , 2015. 【研究論文】. 戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入 ─「善福寺子供の家」を事例として ─ 竹田 恵(大阪芸術大学短期大学部・非常勤). はじめに 本論文の目的は、戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入の諸相の一端を、 「善福寺子供の家」の創設を 手掛かりにして明らかにすることにある。善福寺子供の家は、イタリアに留学し、モンテッソーリ教員国際デイ プロマを取得した後、1967 年(昭和 42)3 月に帰国した松本尚子(1930 年(昭和 5)生)が東京都杉並区善福 寺に創設した幼稚園類似施設である 1。 本論文の対象とする「善福寺子供の家」は、モンテッソーリ教育のためにモンテッソーリが設立した「子ど もの家」の一つとして設立されたものである。モンテッソーリによれば「『子どもの家』というのは、子どもた ちに、より活発な活動の機会が与えられるために創られた環境」のことを指し、 「そこでは子どもたちが主人」 であり、「決まったタイプのものでなく、資力とか環境とかの諸事情によって変わり得るもの」である 2。環境 内の設備は、全てが子どものサイズに合わせて整えられ、子どもはその中でくつろぎながら自由に作業をするこ とができる。また、室内には知的発達を促す教具とともに家庭の中にあるものと同じ、本物の道具(子どもサイ ズのアイロン、箒、バケツその他)が備えられている 3。 善福寺子供の家は、 鼓常良の「月見ケ丘保育園」 (1964 年にモンテッソーリ式保育に切り替えられ、1965 年に「月 見ヶ丘子供の家」と名称変更) 、 「上智大学附属保育所うめだ『子供の家』」(1965 年創設)とともにモンテッソー リ教育の実践現場の草分けとして位置づけられている。「幼児教育に具体的に興味を持つようになったのは、モ ンテッソーリを知るようになってからで、…中略…イタリーでの実習が実際にはじめて子どもに接するチャンス になった」と自身で記している通り、主宰者の松本は日本における保育経験を有していなかった 4。松本は、イ タリアの国際モンテッソーリコース 5 における学びや実習をもとに、試行錯誤しながら子どもの家の環境を整え、 日本の幼稚園教諭及び保母資格を有する保育者の協力を得ながら保育実践を行ったのである。さらに、松本は「日 本モンテッソーリ協会」および「上智モンテッソーリ教員養成コース」の創設にあたり、発起人として準備段階 から関わり、特に教員養成コースでは、創立された 1970 年から実践科目担当の講師を務め、2000 年(平成 12) までの 30 年間モンテッソーリ教師の養成に関わった。さらに松本は、1974 年(昭和 49)4 月に教員養成コース の主任に就任し、以来幹部として重責を負うこととなった。創設当初から善福寺子供の家は上智モンテッソーリ 教員養成コースの実習園として実習生や見学生を毎年受け入れてきた。特に毎年、教員養成コース入学後間もな い時期(5 月)に 1 年生全員の見学実習を受け入れるなど、善福寺子供の家は実習園として中心的な役割を担っ たのである。その他、創設当初から同子供の家には多くの研究者や保育関係者が見学に訪れた 6。 先行研究において善福寺子供の家が中心的に取り上げられることはなかったが、戦後のモンテッソーリ教育 再導入の展開過程を明らかにするうえで、同園の創設に至る経緯、及び主宰者である松本尚子の教育観に着目し 検討することは、意義のあることだと考えられる。. ─3─.

(2) 竹田 恵. 1.松本尚子―モンテッソーリ教育との出会い 吉岡剛らの先行研究で指摘される通り、マリア・モンテッソーリ(Maria・Montessori 1870-1952)が提唱し たモンテッソーリ教育は、1912 年(明治 45)に日本に初めて紹介され、その関心は幼稚園および小学校現場に 広がったものの、戦前の日本においては定着することなく衰退し、戦後 1950 年代に再評価されるまで影を潜め ることとなった 7。1952 年(昭和 27 年) 、モンテッソーリの逝去を契機に、日本においても再導入に向けてのさ まざまな動向が展開されることになる。まず、1962 年(昭和 37)カトリック教育協議会内に「モンテッソーリ 研究会」が立ち上げられ、実践家と研究者が共に切磋琢磨しながらモンテッソーリ教育研究に取りくんだ 8。こ の動向はペトロ・ハイドリッヒ神父の上智大学社会福祉構想 9 とともに戦後モンテッソーリ教育運動組織化の端 緒に位置付けられる。 竹田(2013)で指摘した通り、松本は家族ぐるみで親交のあった至光社の武市八十雄(研究会の運営委員) に誘われてカトリック教育協議会内「モンテッソーリ研究会」に参加し、モンテッソーリ教育を知ることとなっ た 10。松本は当時を振り返り、研究会で「若い先生方が楽しそうに教具に触れておられるのを見て、関心を持つ というより、何が面白いのか不思議な気持ちだった」と記している 11。また、松本は「幼児教育に無関係な私が、 ひとりの人間を見つめる時、過ぎ去った幼年時代の教育がいかに大切であるか、思いめぐらしているような折に、 …中略…カトリック研究会にモンテッソーリ教具が紹介された」と述べている 12。ここでいうひとりの人間とは、 聴覚に障がいを持った松本の親族を指している。松本は自分自身の体験を通して、幼児期に適切な教育を受ける ことの重要性を実感しており、そのことがモンテッソーリ教育を学ぶ一つのきっかけとなったと考えられる。 松本は研究会に出席して関連する文献 13 を読む中で、モンテッソーリ教育に関心を持ち、本格的に学ぶため にイタリアに留学することを決意した。当時の日本にはこの教育法を学ぶ術がなかったからである。イタリア留 学は、武市の紹介で実現することとなった。やがて、ドイツの国際コースで日本人で初めてモンテッソーリ教師 国際デイプロマを取得した赤羽恵子と、イタリアの国際コースで国際デイプロマを取得した松本尚子、それに松 本静子(松本尚子とは血縁関係はなし)の 3 人が実践担当講師として上智モンテッソーリ教員養成コースの創設 時に尽力することになるのである。 1963 年(昭和 38) 、イタリアに留学した松本はペルージアにあった 3 歳から 6 歳対象のコースとベルガモの 6 歳から 12 歳対象のコースで学び、2 種類のモンテッソーリ教師国際デイプロマを取得した。松本によれば、3 歳 から 6 歳対象のコースを修了後、音楽を勉強をしたい気持ちがあり、6 歳から 12 歳対象のコースに入学するつ もりはなかった。しかし国際コース総監督 14 のマリオ・モンテッソーリから、日本に帰国後「子どもの家」を 主宰した場合、 「その先がどのようにつながっていくか、いろいろな質問や要望が出るだろう、そのときに、あ なたがもう1ぺんイタリーに勉強にくることは不可能だろう」と助言されて、3 歳から 6 歳対象のコース修了後、 引き続いて小学校課程に進んだのである 15。 ペルージアのコースで、松本を指導したのはアントニエッタ・パオリーニであった。現「東京国際モンテッ ソーリ教師トレーニングセンター」所長で、自身も 1967 年(昭和 42)からイタリアで学び国際デイプロマを取 得した松本静子 16 は、恩師であるパオリーニを以下のように紹介している。1907 年にイタリア・マルケで生まれ、 学生時代をローマで過ごしたパオリーニは、女子師範学校卒業後間もない 1930 年に、ローマのモンテッソーリ コースを見学に行き、 モンテッソーリから直接この教育法の勉強に誘われた 17。やがてパオリーニはモンテッソー リに同行して、スペイン、イギリス、オランダ等の国々に行き、モンテッソーリ教育の教師養成の仕事を手伝う ようになった 18。1950 年(昭和 25)に、モンテッソーリはペルージア市からの招聘により外国人大学で国際コー スを開講し、パオリーニはアシスタントとして働いた 19。その後 1951 年以降は、パオリーニが国際コースを引 き継ぐこととなった 20。 松本尚子は、1963 年に日本人として初めてペルージアの国際コースに入学し、続いて 1967 年 7 月に松本静子、 その後も野村緑、福田真弓、高橋公子、野口君子、石井昭子、南郷治代等が同コースに入学した 21。同コースでは、. ─4─.

(3) 戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入. 前期に理論(モンテッソーリの心理学、教育原理等)、実技(教具の扱い方)、教材等の製作、教具アルバム製作 などの 3 カ月間のトレーニングを受け、理論と実技の試験を受験し、その後、後期のコース(6 ケ月)では午前 中に「子どもの家」での実習を行い、午後は講義(進んだ教具の扱い、子どもの観察、モンテッソーリの子ども の見方)を受講し、最終的に、国際モンテッソーリ協会本部から派遣された試験官による総合試験を受け、本部 から国際モンテッソーリ協会発行の証書が発行されることになっていた 22。松本静子によると、実習先の「クラ スの熟練した先生から朝から昼食後までの教材準備と子どもの活動の記録、小さな援助、教材の補修、クラスの 片づけかたに至るまでいろいろと」教わり、「このときの実習記録、観察記録はその後大変役に」立ったとのこ とである 23。 松本静子がペルージアの国際コースで受講した純粋理論講義の目次は以下の通りである 24。. 目次(純粋理論の目次) 1.マリア・モンテッソーリの生涯 . 16.モンテッソーリ子どもの家と小学校. 2.肉体的胚子Ⅰ . 17.0 歳~ 6 歳、6 ~ 12 歳の子ども. 3.精神的胚子Ⅰ . 18.モンテッソーリ教師. 4.正常な子ども、吸収精神、集中現象とは . 19.環境(構成された環境の要素. 5.モンテッソーリ教育法 . =自由・秩序・魅力的要素・運動・年齢). 6.観察:目的と方法 . 20.子どもの生命(正常な働きの促進). 7.マリア・モンテッソーリの子ども観 . 21.人間の基本的要求と子どもの精神的素質. (発達の四段階) . 22.肉体的胚子Ⅱ. 8.人間の基本的要求 . 23.精神的胚子Ⅱ. 9.運動力と秩序感 . 24.吸収精神. 10.静粛(静寂) . 25.敏感期. 11.言語の発達 . 26.言語(発達のメカニズムと環境の重要性). 12.幼児と児童 . 27.運動の分析と統合 逸脱発達. 13.想像力 . 28.環境における秩序と知性. 14.環境(人格的・物理的) . 29.想像力. 15.大人 . 30.発達の四段階(教育的対応). コース終了後、松本尚子は、 「モンテッソーリ教育に関する特徴のある施設を探し、3 才児未満教育、宗教教育、 アトリエ、精薄児(ママ)の施設、小児病院、乳児院等、見学に歩き、時には聴講生になり、貪欲に求めた」と述 べている 25。さらに松本はフランス、アメリカの施設の見学をして、19 67 年 3 月に日本に帰国した。帰国に際 し松本は 7 ~ 8 歳児位までの子どもが使用できる教具を 2 セット購入し、船便で日本に送った。松本は当時を振 り返り「モンテッソーリ教育はすばらしいが、始めるにあたって慎重に事をすすめないと…中略…性急に物事の 真をみきわめず、表面的にこなすなら、冷たい知性教育になるのではないか」と慎重な姿勢を取っていたことを 明かしている 26。. 2. 「善福寺子供の家」の創設 帰国後、松本は「日本の幼児教育の現状を知ること、モンテッソーリ教具、教材を全般にわたって紹介、資 料の整理で秋まで過ごした」という 27。具体的には、幼稚園や保育園の見学をしながら、 「新潟教区幼児教育者. ─5─.

(4) 竹田 恵. 研究大会」や上智大学の「幼児教育研究会」で実践科目の講師を務めていた。このように過ごす中で、松本は講 習をしても実践の体験がないために、 「教具の説明の切り売りになってしまう」ことを痛感した 28。そうした理 由から松本は、1967 年 10 月に自宅で「寺子屋式」を標榜する「善福寺子供の家」を開設した。開設時の様子に ついては、松本の実践報告に記されている。 5 才男児、4 才男児、3 才半男児、2 才半女児の 4 人が、10 月 14 日に初登園をした。自宅の居間「八畳の日 本間と六畳の板の間の一部、幅四尺に長 3 間の廊下、それにポーチを加えたもの」が子供の過ごす場であった。 週に 2 日、火曜日と土曜日の午前中朝 9 時半から 12 時まで保育をした。 子供の登園する日は教具を並べ、帰れば片付けなければならなかったため煉瓦と板を使い三段の棚を合計 3 間の長さで準備した。感覚教育、言語、数、指先の筋肉訓練のための教材は室内に、イーゼル、家事訓練 のためのものは廊下へ、ポーチは清水用と汚水用のバケツを準備した。お手洗いに関しては場所が離れおり、 保護者(母親達)に手伝いを頼んでいた 29。 (以上要約) 松本は、実践を始めてから 2 カ月半後に感想として「新しい子供が入ってきても、あまり目立つ乱れもなく」 自分を助けてくれる事もあり、子供同士の年令を越えたいたわりを見出した時は感激して、これこそ子供の家の 良さなのだと勇気づけられたと記している 30。また、「子供にふさわしく構成された環境で自由に仕事が選べる 事が、子供の心のよりどころとなり、目立った変化を見せたようだ」と考察している 31。自宅における少人数の 保育実践を通して自信をつけた松本は、本格的な子どもの家の創設に向けての 1 歩を踏み出したのである。 そして 1968 年 9 月に、松本の自宅近くに「善福寺子供の家」32 が開設された。開設時の様子は、松本自身に よる実践記録( 『モンテッソーリ教育』第 2 号)に記されている。以下に要約を記す。 東京都杉並区、善福寺公園の緑地帯につながる住宅地の中にあり、500 平方メートル余りの敷地に 105 平方 メートルの園舎が建ち、都心としては珍しく園庭に恵まれていた。4 月になると庭でたけのこを掘ることもで きた。保育室には 70 平方メートルの部屋をアコーデイオンドアで仕切り、作業の中心となる部屋には、将来 台所コーナーになるような流し場を作った。室内には、アイロンコーナー、感覚教具を置く棚、手先の訓練 に役立つ教材を置くための棚などを取り付け、外のポーチには洗濯場も作った。もう一方の部屋は子どもた ちの出入り口として使われ、ロッカーが設置されていた。リズム活動もできるスペースになっており、年長 児用に準備された教材を置く教具棚も設置された。食堂としても使え、合せて 24,5 人まで収容できる予定だっ た。参観者の見学用にマジックミラーも用意した。全ては、子どもに活動を充分にさせるという目的からあ みだされたものだった 33。 開設後 3 年目には、 「完全な縦割り編成となり、表札には、 『モンテッソーリ研究室』の看板を掲げ」た 34。子 どもたちも「落着きをみせながら、すすんで作業に取り組む」ようになり、松本は「ヨーロッパで見ていた子供 達の姿が、現実に、落着いた、しかし充実した雰囲気の中で、子供達によって再現される。あまりに静かな作業 ぶりに、喜ぶべきなのが、逆に、 『少し騒いでくれないかしら』と陰で話すこともある…」と記している 35。また、 松本は 3 才から 5 才までの 3 年間の子どもの成長を観察し、初めは良い状態を示していた子どもにも、満 4 才の 誕生日を迎える頃になると逆戻りしたような停滞した現象が起こることを発見する。しかし様子を見てしばらく 忍耐すれば、5 才の誕生日を前に(大人の手助けをする、積極的になるなど)良い変化が起こることに気が付い た。このような経験から松本はモンテッソーリ教育にとって「待つ」ことが重要であることを確信した。イタリ アで勉学中に、松本が恩師のパオリーニから「待っていますよ」と励まされ、その言葉が深く心に刻まれたこと がその原点にある。 「モンテッソーリ教育を求め、なんとかしなければならない焦りに駆られていたわたくしに. ─6─.

(5) 戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入. は、その一言に、はかりしれないなぐさめ、期待、信頼をずっしり感じ取ることができたのです」36 と語る松本 は、その後、善福寺子供の家の保護者会、母親講座、家庭訪問、あるいは個人面談などの折に、子育てに悩む保 護者に向けて「待ちましょう」としばしば語りかけた。 また、雑誌『世紀』の誌上で、子供の家の見学者の感想 (1970 年 ) が下記の通り紹介されている 37。 (良い点) (問題を感じる点) ・こどもたちが落ち着いている ・好きなことばかりやっていて、わがままになるので ・みんな、一生懸命何かやっている はないか ・教具を手で触れながら扱うことは良いことである ・何もしない子供がいるが、放っておいてよいのか ・使ったものをちゃんと片付けている ・男の子も洗濯をするのか ・こどもたちが明るく、のびのびしている. ・年齢が混合で年長のこどもが遅れないのか. ・ガリバーの小人国みたいである ・良い教育と思うが小学校ではどうなるのか ・こどもたちの会話がほほえましい ・宗教教育はどう取り扱うのか ・本当にこどもの世界だ ・みんな、個性がある ・先生がかすんでみえる 善福寺子供の家で、子どもたちが落ち着いて個性豊かにのびやかに過ごしている様子に対して好意的な感想 が寄せられている一方で、自由選択、縦割り保育、就学後に関する疑問点について率直な意見が示されている。 見学者は当子供の家の良い点として「子どもが落ち着いている、みんな、一生懸命何かをやっている」というこ とを挙げている。モンテッソーリ教育では、「整えられた環境」の中で子どもが、自ら選んだ作業に繰り返し集 中して取り組み、我を忘れるほど没頭する体験をすることの重要性が強調されている。このような体験は「集中 現象」と呼ばれ、モンテッソーリ教育の中心的概念に位置づけられている。子どもは集中することにより情緒が 安定し、落ちつきと秩序感を伴った明るい性格に変わり、探究心に燃えて前進を続ける子ども本来の姿に戻ると 考えるのである。子どもの人間形成に関わるこのような現象を、モンテッソーリは「正常化」と定義した。以下 の松本の文章には、 日々の保育実践の中で、 「正常化」した子どもの姿を自ら見出した時の思いが表現されている。 家庭での誤った扱いにより、何らかの障害を得た子供は、忍耐強く接するうちに、集中することができる ようになり、見ちがえるように立ち直ります。子供が自ら立ち直るという事は、観察者として見守るのに、 やはり忍耐と希望を捨てない事でしょう。「子供の家」での活動が治療として子どもを癒す、集中できるとい う接点にぶつかるまで、どの位、良い状態、悪い状態の内を交互に示すかという事です。…中略…心の底か ら清められ、表情のなごやかな、子供らしい子供の姿を見出した時は、この教育法「子供の自発性の活動を 尊重する」の鍵に触れた思いでした 38。 さらに松本は「正常化」について「一人ひとりが正常化の過程を辿ると、クラス全体にたしかに落着いた雰 囲気がみられるのです。…この正常化した子どもが、よりよい発達の出発点、教育の出発点といえるかもしれま せん」と述べている 39。一人ひとりの子どもが「正常化」の過程を辿るために、創設当時、松本が大切にしてい たことは、1.子どもをよく観察し、子どもに合わせた環境を作ること、2.子どもが自由に選択できるように することの 2 点であった。また、子どもの家では、子どもたちの自発性、意欲を尊重するという意味において、 子どもが主人公であり、全てのことは子どもから始まると考えられていた。子ども達は園生活を楽しみながら自 分を知り、社会に適応してゆく準備をし、無理なく自然に自分を創っていく。子どもを信じ、一人ひとりの個性. ─7─.

(6) 竹田 恵. を見つめ、子どもの立場に立ち、心の触れ合いを大切にしながら子どもの成長を援助する。松本は子どもの家を そのような家と捉えていた。また、一人一人違う個性を持つ子どもの立場に自分が降りてゆき、自分が小さかっ た時のことを思い出しながら、良かったと思うことを環境に生かしていくことが大切だと考えていた 40。同様に 行事についても松本は、子どもと生活をしていく中で、良いと思ったものを、徐々に導入していった。行事中心、 教師中心の日本の保育に疑問を抱き、ヨーロッパに留学した赤羽恵子とは違い 41、松本は行事保育に対する強い 批判意識は持っていなかった。松本は子どもたちと過ごす中で、「幼稚園の行事は、日本の気候風土にぴったり 適している…〝行事″ は民族の心、生活の智恵から生まれ育ったもの」だと思い至り、 「日常の保育を生かし、子 どもの進歩にあわせて企画する」ことが大切だと考えた 42。例えば善福寺子供の家では入園式を行わなかった。 子どもが初めて足を踏み入れる場所で、緊張の伴う式典を行うことに松本が意味を見出せなかったからである。 4 月の入園時には時差登園と短時間保育を組み合わせて、自然に園生活になじめるようにする一方で、3 月の卒 園式には保護者らとともに子どもたちの門出を盛大に祝った。このことは、松本が園行事に対して、既成概念に とらわれずに、自由に実践を行っていたことの証左と考えられる。 さらに、 松本は、 卒園児が進学した小学校を訪ねて追跡調査を行った。その結果が季刊『ひろば』冬季号(1971 年)に掲載されている。松本は追跡調査を通して「一般のこどもたちの中に小学校 1 年生になっても、学習以前 のことが、幼児期になされていない子どもがいるという悩みを先生方が持っている」ことを知り、「小学校課程 をよく知らなければならないこと、そして小学校側にも、幼児期についてよく知ってほしい」ということを感じ たと誌面で述べている 43。. 〇少人数の「子どもの家」から、大勢の小学校のクラスへどのように適応していったか ・自然に新しい環境にとけこんでいて、なにも問題は感じない ・ふつうの幼稚園保育園から進学してきた子どもたちより適応が早い 〇子どもの内面性の方向づけに集中したために、体育面がすこしなおざりにされたのではないか ・問題はない 〇小学校への教科課程への適応はどうか ・非常に積極的である ・進学当初は欠席が多かったために、すこし遅れる傾向があったが、2 学期に入って目覚しい理解 力を示しはじめている 〇小学校側からの指摘 落着きがある。理解力がある。集中力がある。協調性がある。マイペースの活動ができる。 多角度から細かく指導されてきた良さが感じられる。子どもらしい。発表なども、よく考えて自己 主張をする。社会性のルールが身についている。絵画方面に個性がある 44. 以上のように松本は、モンテッソーリ教育法の原理に基づき、子どもの自己形成への援助、環境の整備を柱 としながら保育実践に取りくんだ。特に、子どもの自発性を重視し、一人ひとりの個性を尊重する子ども中心の 保育を試みた。そのために松本は子どもの観察を重んじ、自由の保障を何よりも大切にした。保育室に年齢の異 なる子どもたちそれぞれの発達段階に合わせたモンテッソーリ教具(日常生活の練習、感覚教育、数教育、言語 教育、文化)を準備し、異年齢保育を行った。そのような松本の教育実践は、常に子どもの立場に立ち、心の触 れ合いを大切にしながら子供の成長を援助したいという思いに支えられていたのである。 松本の仕事は、自分の園の運営だけにとどまらなかった。1970 年(昭和 45)夏、松本は三原市の市立聖心保 育所に招かれて、モンテッソーリ教育導入の手助けをしている、保育所への実践導入については職員の石原淳子. ─8─.

(7) 戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入. の実践記録に状況が記されている 45。環境設定、教材準備等に取りくみ、試行錯誤を重ねた石原は「かつては、 子どもを軽くからかったり、おどかしをいって、いうことを聞かせようとしたことがないとはいえませんでした が、次第に、もっと誠実にまじめに子どもに接するようになってきました。子どもとの人格的なふれあいは、目 だけで話しあうことを可能にします。 」と報告している。さらに、いつの間にか、指図したり許可を与えたりと 自分が中心になって子どもを動かそうとしていることに気がつき、そのことは石原の反省につながった。既存の 保育現場にモンテッソーリ教育の実践を導入する過程で、石原は、教具を導入することにとどまらず、モンテッ ソーリ教育の精神に真摯に向き合い、保育観の転換を余儀なくされたと考えられるのである。このように、松本 は、他の園がモンテッソーリ教育を導入する際に、直接現場を訪ねて手助けもしていたのである。 . 3. 松本尚子の教育観 武市八十雄の主宰するカトリック幼児教育雑誌、季刊『ひろば』 (至光社)に、1969 年 4 月から 1974 年 9 月にわたっ て、松本のモンテッソーリ教育に関する記事が連載された。松本は保育実践の傍ら、1 年に 4 回の頻度で執筆を 続け、さまざまな角度からモンテッソーリ教育についての紹介をおこなった。 <松本尚子連載記事 季刊『ひろば』至光社(1969-1974年)> 1.春季号41 1969年4月号 子どもの家 2.夏季号42 1969年6月号 ≪子どもの家≫モンテッソーリ教育と家庭 3.秋季号43 1969年9月号 ≪子どもの家≫モンテッソーリ教育と活動 4.冬季号44 1969年12月号 ≪子どもの家≫モンテッソーリ教育と教師 5.春季号45 1970年4月号 ≪子どもの家≫よい子・わるい子 6.夏季号46 1970年6月号 ≪子どもの家≫幼児期の感受性 7.秋季号47 1970年9月号 ≪子どもの家≫成長の停滞と回復 8.冬季号48 1970年12月号 ≪子どもの家≫英才教育とモンテッソーリ教育 9.春季号49 1971年4月号 ≪感覚教育≫モンテッソーリ教育に魅せられて 10.夏季号50 1971年6月号 ≪感覚教育≫子どもの中にある自発性 11.秋季号51 1971年9月号 ≪感覚教育≫ことばと数 12.冬季号52 1971年12月号 ≪感覚教育≫ほんとうに心配しなければならないこと 13.春季号53 1972年4月号 ≪感覚教育≫子どものいのち 14.夏季号54 1972年 6 月号 ≪感覚教育≫泣き声の意味 15.秋季号55 1972年9月号 ≪感覚教育≫感覚的な活動 16.冬季号56 1972年 12 月号 ≪感覚教育≫ 満一歳のころ 17.春季号57 1973年 4 月号 ≪感覚教育≫歩きはじめる子ども 18.夏季号58 1973年 6 月号 ≪感覚教育≫手が動くにつれて 19.秋季号59 1973年9月号 ≪感覚教育≫ことば 20.冬季号60 1973年 12 月号 吸収するとき 21.春季号61 1974年4月号 ≪感じる子ども≫新学期 22.夏季号62 1974年6月号 ≪感じる子ども≫心の大掃除 23.秋季号63 1974年9月号 ≪感じる子ども≫子どもの家での活動 24.冬季号64 1974年12月号 ≪感じる子ども≫子どもの家の行事. 季刊『ひろば』に松本の文章が載ったのと同様に1949 年(昭和 24)に創刊された、カトリック系月刊誌『家庭の友』46 にも松本の記事が数編掲載されている。この雑誌は、1949 年 1 月に創刊されたカトリック系の雑誌であるが、 モンテッソーリ関連の記事が、 初めて当雑誌に掲載されたのは、1971 年 1 月号のことであった。上智モンテッソー リ教員養成コースの創設が 1970 年であるので、これとほぼ同時代のスタートといえる。当雑誌でモンテッソー リ教育が取り上げられるようになったいきさつについて、当時の編集スタッフは、 「1970 年代は、幼児教育の重. ─9─.

(8) 竹田 恵. 要性が説かれ、 それに一番適していると思われたのがモンテッソーリ教育だった。サンパウロ(当時は中央出版) の経営母体である聖パウロ修道会はイタリアで創立された。雑誌がこの教育をとり入れたのも頷ける。そしてこ のページを設けることにより、モンテッソーリ教育が日本の中で福音となり、全国的に広がっていくことを願っ て」いたと語っている 47。松本は『家庭の友』にモンテッソーリ教育に関する一連の記事を寄稿した。松本は、 現場で保育者や保護者が、子どもの適時期を大切にしないことから起こる様々な問題に直面し、子どもが落着き を取りもどすまでに長い時間がかかることを憂いていた。松本にとって「子ども不在」は重要な視点の一つであっ た。松本はそのジレンマについて「子どもを中心にして考えなければならないことが、子ども不在の場で、教師、 又は親が中心になっている。目ざめた時は、すでに被害をうけているのは子どもで、その傷をいやし、もとに立 ちかえるには大変な時間がかかるのですがそれがなかなか理解していただけない」と記している 48。 また、松本は教師の枠に子どもをはめこみ、画一的で個人が尊重されない当時の教育の不備を指摘し、人間 のあり方を深く考える場が必要なのではないかと述べている 49 戦後、1956 年(昭和 31)に「幼稚園教育要領」 が刊行され、幼稚園の教育課程の基準として明確に位置づけられた。幼稚園は小学校の前段階として位置づけら れ、教育内容についても小学校との一貫性が図られるようになった。具体的な教育内容が 6 領域に分類して提示 されたが、「6 領域を教科的なものと解釈し、領域別に指導計画を立てて指導するのが望ましいといった誤解が 保育者の間に生じるほど、保育内容は系統性、一貫性、基準性の強いものであった」50。1964 年(昭和 39)に 改訂され国の基準として告示された「幼稚園教育要領」においては、 「望ましいねらい」が精選され、 「取り落と しなく指導すること」と記されるなど、基準の徹底化が図られた。また、戦後の混乱期に教育の基準を下げるこ とによって幼稚園の量的な拡大を図った 51 ことは、その後の保育の質に影響を及ぼした。経営効率を最優先さ せて幼稚園経営を行う場合には、保護者の人気を集められるようなサービス面の充実や見栄えの良い行事に力を 入れることが予想される。また、一人の教師が受け持つ園児数は多ければ多いほど経営は安定し、人件費を抑制 するためには保育者の勤務年数の長期化を避けなければならない。そのような状況では、保育現場全体としての 質的な向上を求めるのは難しいと思われる。以上のような多面的な理由により、教師中心の画一的な保育が広く 行われていたのではないかと考えられる。この問題については、今後の課題としてより実証的に検討してゆきた い。 さらに、松本は、成長過程にある子どもにとって五感を使い、体全体を使って経験したものこそが本物であり、 「知的な発達と精神の発達のバランス」を取りながら育つことが大切であることを強調した 52。また、子どもが 自発的に活動するためには、抑圧された心の状態を解放することが何よりも重要であり、 (心を)「解放するため には活動を自由にする」ことが大切だと考えていた 53。そこから「我我ママの目に見えない抑圧によって起きた 障害がだんだんとほぐれていく」のだと述べている 54。松本は、モンテッソーリ教育を「科学的でありながら、 同時に子供に本来的に備わっている自然性に親和的な教育法」であると考え、この教育の根本を「人間として生 きて行くための調和のとれた生活ができるための助け」として捉えていた 55。以上のように、松本は掲載記事の 執筆等を通して自身の教育理論を形作り、深めていったと考えられるのである。 . おわりに 松本は、戦後のモンテッソーリ教育再導入初期において、先駆者的な役割を期待されたものの、当初は、現 場経験を有していない素人同然の保育者であったことは明らかである。松本は、モンテッソーリ研究会及びイタ リアの国際コースにおける学びと実習を手掛かりにして、日本の保育資格を有する保育者の協力を得ながら、言 わば手探りでモンテッソーリ教育の実践を行った。逆説的になるが、そのことの故に在来の保育の先入観に囚わ れることなく環境を構成し、実践と省察を繰り返しながら、独自性を有した現場を構築することが可能になった のではないかと考えられる。イタリアで学んだモンテッソーリ教育のプログラムには、そのことを可能にする具 体的な実践方法が示されていた。さらに、松本は、モンテッソーリ教育を実践する過程で子どもから学んだ事実. ─ 10 ─.

(9) 戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入. を基に考察を重ねていった。同時に実践研修会の講師、教員養成コースにおける指導者としての役割、教育雑誌 への定期的な投稿等を通して、実践に裏付けられた理論を徐々に形作り深めていった。後年、クラウス・ルーメ ルは「毎日幼児と接する先生が、実践・実技を担当する」ことを上智モンテッソーリ教員養成コースの特徴とし て挙げている 56。松本と同様、日々の保育の中で、子どもから学び、省察を重ねながら環境を再構成する実践者 であることが、実践担当講師の条件として定められていたのである。 松本は、保護者や教職員に向けて「子どもから学ぶ」 「待つ」「五感を用いて体全体を使って経験する」 「知的 発達と精神の発達のバランスがとれてこそ育つ」等の考えを保護者会、職員会議、面談等の様々な場面で繰り返 し述べていた。松本のこうした精神は善福寺子供の家に関わる人々に深く浸透していったものと考えられる。ま た、松本はモンテッソーリ教育を早期英才教育という捉え方ではなく、子どもの心の問題という視点で捉えてい た。同時に「心というのは目に見えない。目に見えないものをとらえるというのは非常にむずかしいものです。 幼い子供の心の動きを見つめて行くのは、モンテッソーリ教育だけの問題ではなくても、同じですよ。その辺に 気がつかず、あいまいな見方をしているということは、日本の保育者を育てる側に何か欠陥があると思うのです。 教育をする人を育てて行く場にひっかりますね(ママ)」と語り、一般の保育者養成に関しても厳しい指摘をしたの である 57。 このようにモンテッソーリ研究会がきっかけとなって生まれた善福寺子供の家は、うめだ「子供の家」や月見ヶ 丘子供の家と共に、戦後のモンテッソーリ教育再導入の草分けとして、モンテッソーリ教育の実践現場を牽引す る役割を担ってきた。この動向の歴史的役割は、これまでの先行研究においては十分に注目されてきたとはいえ ない。しかし、戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入を捉える上で、善福寺子供の家の果たした役割に対 してより適切な評価が与えられるべきではないだろうか。 本稿においては、善福寺子供の家の事例を手掛かりにして戦後の日本におけるモンテッソーリ教育再導入の 諸相の一端を明らかにした。今後の課題としては、松本が「子ども不在」と指摘していた当時の在来の幼児教育 の状況について、実証的な検討をしてゆきたいと考えている。. 注 1 本論文では, 「子ども」の表記について以下のように定める。園名の場合は「子供」「子ども」「こども」等, 実際に使用されている表記で表す。一方でモンテッソーリ式の「子どもの家」一般を表すときには, 「子ども」 と表記する。 「善福寺子供の家」の表記について,園の刊行物や松本が寄稿した雑誌記事を見ると「子供の家」 「子どもの家」の両方が使用されている。本稿では,刊行された名簿の表記及び開設後数年の時期の門の表 札の書き方に従い「善福寺子供の家」と表記する。なお,当園は,2012 年 3 月にその歴史を閉じている。また, 幼稚園類似施設とは,幼稚園教育を行なうことを目的として設置され,都知事が認定した幼稚園類似の幼児 施設のことを指し,在籍する子どもの家庭には就園にあたって公的な補助金も支給される。善福寺子供の家 の近隣の幼稚園類似施設として「立教女学院短期大学附属愛児研究所天使園」(現在は立教女学院短期大学 附属幼稚園天使園) , 「国際基督教大学教会幼児園」等の名前を挙げることができる。モンテッソーリ教育を 行なう子どもの家の中で, 幼稚園類似施設として認定されていた園はごく少数であった。(大田区にある「わ かば園」 (現在の社会福祉法人「そらのいえ保育園」),「代々木モンテッソーリ子供の家」等) 2 モンテッソーリ著平野智美・渡辺起世子訳『私のハンドブック』(エンデルレ書店,1989 年)。 3 同上,11 頁。 4 松本尚子「モンテッソーリ教育について」(『世紀,240』1970 年)32 ~ 38 頁。 5 外国人を対象にモンテッソーリ教育を担当する教員を養成するために,イタリアのペルージア及びベルガモ. ─ 11 ─.

(10) 竹田 恵. に設けられた国際コースのこと。本文の,2 頁 23 行目から 3 頁 10 行目を参照。 6 善福寺子供の家の見学者の実態に関する研究はないが,松本や研究者及び保育関係者の聞き取り調査等か ら,多くの見学者が訪れたことがわかっている.実態については今後の課題として,より詳細に調査し明ら かにしたいと考えている。 7 吉岡剛「わが国における Montessori Method の移入―その歴史と現在の動向」 ( 『聖母女学院短期大学家政 学会紀要』第五輯,1973 年)70 ~ 91 頁。 8 竹田恵「戦後日本におけるモンテッソーリ教育の展開過程に関する研究―カトリック教育協議会内『モンテ ソーリ研究会』の活動展開を手掛かりにして」(『モンテッソーリ教育』第 46 号,2013 年)。 9 竹田恵「戦後日本における社会福祉構想とモンテッソーリ教育再導入―ペトロ・ハイドリッヒの動向を中心 として―」 ( 『横浜国立大学教育学会研究論集』第 1 号,2014 年)13 ~ 24 頁. 10 前掲 注 8 竹田論文,63 頁。 11 前掲 注 4 松本論文,32 ~ 38 頁。 12 藤永保,波多野誼余夫編著『幼児の知的教育』(チャイルド本社,昭和 51 年)222 頁。 13 参考にした文献とは,マリア・モンテッソーリ著,鼓常良訳『子どもの秘密 幼少年期の心の解剖と育て方』 (日本教文社,1957 年)松本は出版社名を理想社と誤解した。 14 松本尚子が著書の中で総監督と表現。 15 前掲 注 12 藤永編書,223 頁。 16 松 本静子は,1970 年にイタリア・ペルージアで 3 ~ 6 歳,1973 年ローマで 0 ~ 3 歳,1974 年イタリア・ ベルガモで 6 ~ 12 歳対象のモンテッソーリ教師デイプロマを取得し,1975 年アメリカ・ロサンゼルス のモンテッソーリ・センターにて教師養成者インターンを修了した.AMI(Association Montessori International 国際モンテッソーリ協会 ) より日本初の国際モンテッソーリ教師トレーナ―として認可を受け, 1975 年,「東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンター」を設立した人物である.松本静子『喜びの 中に生きるモンテッソーリ教育』 (学苑社,2013 年)著者紹介より.現在もトレーニングセンタ―所長, 「日 本モンテッソーリ協会」 (学会)常任理事を務めている. 17 前掲 注 16 松本書,191 ~ 192 頁。 18 同上書,192 頁。 19 同上書,192 頁。 20 高橋公子「イタリアのモンテッソーリ教育の現状」(日本モンテッソーリ学会編『総合人間の研究』ブレー ン出版,昭和 61 年)109 頁。 21 前掲 注 16 松本書,197 頁。 22 前掲 注 12 藤永編書,224 頁。 23 前掲 注 16 松本書,194 ~ 195 頁。 24 1967 年に同コースに入学した松本静子が学んだモンテッソーリ教育理論講義の目次.同上書 188 頁。 25 松本尚子「上智モンテッソーリ教員養成コースのはじまり,そして今」(『上智モンテッソーリ教員養成コー ス創立 30 周年記念誌』2000 年)17 頁。 26 前掲 注 4 松本論文,32 ~ 38 頁。 27 松本尚子「モンテッソーリ式寺子屋」 ( 『モンテッソーリ教育』第 1 号,1968 年)。 28 前掲 注 16 松本書 224 頁。 29 前 掲 注 8 竹田論文。松本尚子「私の体験 モンテッソーリとの出会い」 ( 『家庭の友』昭和 46 年)16 頁。 前掲 注 4 松本論文。市丸成人・松本静子編著『モンテッソーリ教育の理論と実践』下巻(エンデルレ書店, 昭和 62 年) 。. ─ 12 ─.

(11) 戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入. 30 前掲 注 27 松本論文。 31 同上。 32 「善福寺子供の家」の住所:東京都杉並区善福寺 3 - 5 - 14 33 松本尚子「善福寺子供の家」 ( 『モンテッソーリ教育』第 2 号,1969 年)91 頁。 34 松本尚子「東京・善福寺子供の家」 ( 『モンテッソーリ教育』第 3 号,1970 年)101 ~ 106 頁。 35 同上,101 ~ 106 頁。 36 松本尚子「 《感覚教育》モンテッソーリ教育に魅せられて」(『季刊ひろば』春季号 49,1971 年)26 頁。 37 前掲 注 4 松本論文。 38 前掲 注 33 松本論文,91 頁。 39 前掲 注 12 藤永編書,243 頁。 40 2007 年 (平成 19) 3 月 6 日, 筆者が松本尚子氏にインタビューした記録から。場所:善福寺子供の家 1 階ホール。 2007 年 8 月に行なわれた第 40 回『日本モンテッソーリ協会(学会)』全国大会のパネル展「日本のモンテッ ソーリ園―北から南―」に「善福寺子供の家」が出展することになり沿革等を作成するために創設時の子供 の家について筆者が松本尚子にインタビューをした。 41 赤羽恵子「モンテッソーリ教育との出会い」(『モンテッソーリ教育の道』学苑社,1993 年)。 42 松本尚子「子どもの家の行事」至光社『季刊ひろば』冬季号 64,1974 年,78 頁. 43 松本尚子「ほんとうに心配しなければならないこと」(『季刊ひろば』冬季号 52,1971 年)。 44 同上。 45 石原淳子「子どもの家での実践」 (西本順次郎編『モンテッソーリ幼児教育入門』福村出版,1975 年)166 ~ 183 頁。 46 クラウス・ルーメル監修『モンテッソーリ教育用語事典』(学苑社,2006 年)。 47 同上,34 ~ 35 頁。 48 松本尚子「モンテッソーリ教育の現状と今後の見通し」(『家庭の友』6 月号 1973 年)23 頁。 49 松本尚子「モンテッソーリ教育の原理を考える」(『家庭の友』8 月号 1973 年)21 頁。 50 大岡ヨト「 「幼稚園教育要領」 (1956 年)作成の政策的背景とその特質」 (『早稲田教育評論』第 26 巻第 1 号, 2012 年)156 頁。 51 法律第 270 号「私立学校法」 (抄)第 4 章第 102 条。「私立の盲学校,ろう学校,養護学校及び幼稚園は,第 二条第一項の規定にかかわらず, 当分の間,学校法人によって設置されることを要しない」。個人経営を認め, それによって当分の幼稚園不足に対応しようとした。 52 同上,22 頁。 53 同上,23 頁。 54 同上,23 頁。 55 同上,23 頁。 56 クラウス・ルーメル「上智モンテッソーリ教員養成コース」 (『モンテッソーリ教育』第 32 号,1999 年)125 頁。 57 前掲 注 49 松本論文。. ─ 13 ─.

(12) 竹田 恵. (資料1)松本尚子の掲載記事および雑誌取材記事一覧 ☆は取材記事(季刊ひろばを除く) 1968年  8 月 「モンテッソーリ式寺子屋」 ( 『モンテッソーリ教育第1号』1968 年)67-70 頁。. ☆ 10 月 ヨーロッパから来たミニプロ教育−子どもの〝学校″ −『週刊朝日』10 月 4 日,7 頁。 1969年. 12 月「善福寺子どもの家」 ( 『モンテッソーリ教育第2号』)91-93 頁。. 1970年. 10 月「東京・善福寺子どもの家」 ( 『モンテッソーリ教育第3号』)101-106 頁。 1 1 月「モンテッソーリ教育について」(『世紀・240』)32-38 頁。. 1971年. 10 月「子どもの家」 『教育じほう 1971 年(5)』東京都立教育研究所,3 頁。 1 1 月「私の体験−モンテッソーリとの出会い−」『家庭の友 23(10)』サンパウロ。. 1972年. シンポジウムA初心者グループパネリスト(日本モンテッソーリ協会『モンテッソーリ教育第 5 号』). 1973年. 6月「モンテッソーリ教育の現状と今後の見通し」(サンパウロ『家庭の友,6 月号』)21-23 頁。 7月 杉原睦子(善福寺子どもの家保護者)「わが子とモンテッソーリ教育」(サンパウロ『家庭の友 7 月号』 )21-23 頁。 8月「モンテッソーリ教育の原理を考える」(サンパウロ『家庭の友 8 月号』)21-25 頁。. 1974年. ☆ 10 月「感覚教育で絶大な効果を上げている実例」アイロンかけや糸通しに夢中の子供たちーモン テッソーリ教育法を実践している善福寺子どもの家『主婦と生活 10 号』 ☆ 10 月「気ままで自由な幼稚園」モンテッソーリ教育・善福寺≪子どもの家≫の一日 『家庭画報創刊 200 号記念企画』第 1659 号。. 1976年. 1月「モンテッソーリ方式の教育<ゲスト>松本尚子」藤永保,波多野詮余夫編著『幼児の知的教育』 チャイルド本社,221 - 256 頁。. 1977年 「子どもが集中しているとき」 ( 『こどものせかい 9 月号』至光社) 1978年. ☆ 10 月「モンテッソーリ教育を訪ねて」『セサミNo 13』昭和 53 年.オープンスクールとモンテッ ソーリ. 1979年. ☆ 8 月「おもちゃ考察 ひろがる子供の世界」『Family Circle』取材協力. 1980年. ☆8月「子供を子供らしく『モンテッソーリ子供の家』とはなにか?」『クロワッサン』. 1982年. ☆3月「おかあさんのホームルーム第1回・手の働きと脳の発達」(『セサミNo 30』) 10 月「幼児教育におけるリトミックの重要性」『ムジカノーヴァ』第 13 巻第 10 号通巻 140 号 42 -. 46. 頁。 1984年  ☆7月「手先を使って本物の生活をするお手伝いを,子ども用の〝生活教具゛で育む」 『セサミNo. 42,第 10 巻 3 号』 . ☆ 10 月「おかあさんフォーラム④幼稚園,保育園をどう考える?モンテッソーリの感覚教育や生活 の基礎体験は、子どもの将来の大きな味方です。」『セサミNo 43』. 1987年. ☆ 5 月「のぞいてみました.善福寺子どもの家」(『セサミNo 57,第 13 巻第 33 号』). 1993年 「巻頭言激変する環境の中の子ども」 (『モンテッソーリ教育第 26 号』第 5 シンポジスト). 10 月「音楽」 (クラウスルーメル編『モンテッソーリ教育の道』)学苑社,232 - 241 頁。 1996年 「子どもに学ぶ―モンテッソーリ教育のこころ」 (『家庭の友』第 10 回,サンパウロ)32 - 33 頁。. 1 1 月「子どもに学ぶ―モンテッソーリ教育のこころ」 (『家庭の友』第 11 回サンパウロ)34 - 35 頁。 1997年. 7 月「子どもに学ぶ―モンテッソーリ教育のこころ」 (『家庭の友』第 19 回サンパウロ) 32 - 33 頁。 8 月「子どもに学ぶ―モンテッソーリ教育のこころ」(『家庭の友』第 20 回サンパウロ)32 - 34 頁。. 1999年 ☆2月 『報道ニッポン第 12 巻 2 号通巻 119 号』国際通信社グループ報道通信社 186 頁.幼くも真剣. ─ 14 ─.

(13) 戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入. に生きる姿に感動 子ども本来の個性を育む教育を(1998 年 10 月取材,ゲスト秋野太作) 2000年  7月「上智モンテッソーリ教員養成コースのはじまり, そして,今」 『上智モンテッソーリ教員養成コー. ス創立30周年記念誌』 )17 頁。. ─ 15 ─.

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参照

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