鴻域立憲政党の成立過程(その2) : 反民権派豪農の政治路線
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(2) . 第 19 巻 第 2 号. 3年12月 昭和4. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 鴻城立憲政党の成立過程. その(2). -- 反民権派豪農の政治路線 -- 田. 村. 貞. 雄. 北海道教育大学釧路分校社会科史学研究室. 6(鴇城) Ri Sadao TAMUR△ : Formation of Ko kken Party (No.2) i. 次. 目. 第2節 自由民権論者との論争(以上前号) 第3節 反民権的政治路線の形成(本号) 第2章 鴨城立憲政党の成立 (以下次号). はしがき. 第1章 吉富簡一の政治思想 第1節 幕末維新期の吉富簡一. 第3節 反民権的政治路線の形成 9年頃までの政治活動を とりあげ, 政治情 ) 年から7 本節においては, 吉富簡一の18 77(明治10 勢の推移と吉富派のヘゲモ ニー確立過程を考察 したい. 1 ( ) 吉富簡一の諸論稿 最初に分析の対象とする吉富の諸論稿を掲げる. ) 1 ( ) 「団結之主旨其他」 と題された綴 じ込みに収められたもの. 全文紹介ずみ1 . 回 「咳語」 末尾に 「丑ノ 三月上旬」 と記されており, 77年3月上旬に執筆された, 旧 ) 「五月後墜語ヲ続為スル処左ノ如 シ」 表題から77年8月頃と推定される. 以下たんに 「続噛語」 とする, ◎ 「旧友数人来訪一日激烈国事談二及フ」 「豊語」 と同 じ 「丑 三月上旬」 すなわち77年3月上旬の執筆である. 同年5月下旬の藤 村淳一意見書、 同年6月中旬の美禰龍彦意見書とともに前節でとりあげた. ( D ) 「豊語」 およ び井上馨宛書翰 文中に 「明治 4十一年」 の語があり, 書翰末尾に 「十月念八」 とあるので, 78年10月18日 執筆と推定される, 「警語」 は書翰に付された 「別紙」 である, 以下た んに 「新墜語」 と す る.. ◎. 無題 政府高官にあて施政改革を要望Lたもので, おそらく78年4月の第2回地方官会議直前 ) に提出された ものと思われる. 以下たんに 「陳述」 とする2 .. ◎. 井上馨宛書翰 一 98 -.
(3) . 鴻城立憲政党の成立過程 (その2) 80年 1 月16日 付,. 2 7 「協同会社存廃論其他」 と題された綴 じ込みに収められたもの 末紹介3 { ) , , 燈 ) 「協同会社存廃 論」 文中に 「今十二年」 の語があり, 末尾に 「八月初一日」 とあるので, 7 9年8月1日付と 推 定 さ れ る,. 回. 「山口県協同会社弁二就産所ノ 間ト土民ノ間二背離ヲ生シタル原因ヲ論ス」. 文中に 「今日ノ ・明治十年」 の語があるので, 77年執筆と推定され る, の 「山口県ノ原況二付瞳語ヲ左二陳述ス」 末尾に 「明治十年季秋」 とあるので, 77年秋の執筆である, 4 ) ( } 本間家文書所収のもの, 3 ) 「協同会社二付各大区代議人山口へ出頭, 会議ヲ催サルル事ヲ闇キ代議人各位へ婆心ノ ( J 野 芋 ヲ陳 ソ ト欲 ス ル 事 左 ノ 如 シ」. 77年9月11日より18日迄開かれた協同会社第4回臨時「社会」の直前に執筆された もの , 区 ) 「代議人中心得之要件覚」 )に同 じ, ( J. 以上11点の論稿は, 執筆時期が次の三つに区分される, 1 ( ) 77年3月上旬執筆のもの, A. C,. 2 ) 77年9月の協同会社第4回 「社会」 前後に執筆されたもの, { B. 日, 1. J. K,. 圏 7 8~80年に執筆されたもの. D, E, F, G,. 以下時期を追 って順次諸論稿をとりあげてゆ きたい, 註 1) 田中彰o田村貞雄 「吉富簡一 『団結之主旨其他』」(『史潮』6 8・70号) )のほか, . なおこの綴 には, 仰~@ 前節でとりあげた藤村意見書, 美称意見書, 鴇城立憲政党「団結之主旨」 , 同党員名簿が収められている, 山ロ県文書館所蔵. 2) 冒頭に次の文がある, 「我日本従来外国ト交際ナカリ シ国ュヘ税則法律等国民各人ノ間ニ於テ大ニ幸不幸ナシトシガタク 然 , ルニ王政復古明治元年ヲ以 、テ大二一洗ナリ外交モ随テ旺盛二極キ苗緒改定ト相成朝威益盛ソ, 国民ノ権利 モ幾分力相進ミ万民喜悦ノ眉ヲ開クノ時タル事ノ ・世人ノ知ル所ナリ, 然ト雄トモ今日ニシテ願力欠々ナシ トシカタク, 漸次政府ノ恩情ヲ以テ施政相模ラハ国民一般ノ焼倖ナラソ故ニ左ノ件々ヲ陳述セリ」 3 ) 山ロ県文書館所蔵, 4 ) 「協同会社会議一件物入袋 明治十年丑九月」. 2 ( ) 地方制度改革論 まず77年3月上旬執筆の論稿 (A. C, ) からとりあげたい. 二つの論稿のうち, (C) n日友 数人来訪一日激烈国事談二及フ」 は, 前節でとりあげ, 吉富の反民権的 な政治思想の輪郭を明ら かにした, 藤村および美禰の反論は, この (C) を対象としたもので, 同 じ時期に執 筆 さ れ た (A)「堕語」 には, 全くふれていない, この時期 (A) には直ちに公表 されず, 億底に歳されたまま であ ったのであろうが (C) に , おいて全く触れられなかった山口県下 の状況に言及 し, より撤密な論理構成をもっ て政府擁護論 を述 べ るとともに, 地方制度の改革案を打ち出 してい ることが 注目される その後展開されてゆ . -9 9-.
(4) . 田. 村. 貞. 雄. く彼独特の論理の萌芽がみられるのである, 彼の地方制度改革論は, 次の二 点から成 っている. すなわち, 民費の改革, 区戸長の改 革であ る,. 第一の民費改革論は, 従来の民費がす べて地租割とな っている 点を改め, 地租割は井手費堤防 費など農業関係費のみに充当し, あらたに戸数割を賦課 して, 行政費の一切を支弁せよ, という ものである, 戸数割の新設は, 地方税規則で実現するが, それ 以前に彼が強く主張 していること は, 地主豪農層の要求を代弁 したものであり, 注目される. また山口県の民費が規定の最大限額 ) にも不満をもち, これを土地所有 者の過重負担, 山口県 のみの 「弊風」 と断 じ を徴収すること1 て い る,. 第二 の区戸長改革論は, 区戸長の任免方法, 給与の改革, 人事一新を要求したものである, 区 戸長は, 人民の総代人 (代議人) でありながら, 正副戸長は 「区長ノ独撰」 で任命されているこ とは, 「山口県二限ル事ニテ 一般ニ例ナキ事」 である こと, 県会, 区会 が 「甚シキニ至テハ会議 説教 ト化 シ有名無実」 であること, 区戸長が n日藩吏ノ心得」 で執務 し, 人民との間に 摩擦が多 くそのため 「県庁小官吏区戸長ノ失瑳墳末ノ事件等総テ長次官ノ承認シ之ヲ施行スルモノ ト見認 メ日別俗壕喧ク, 加之或 ・開明進歩ヲ妨害スル土民 一般ノ公敵タル賊起ヲ慕フノ弊風」 が人民の ・雄トモ下情 風潮となっていることなどをその理由としてあ げている. そして 「県庁多劇ノ秋 トノ と区戸長 バ トモ言カタク」 洞察セラレ, 早ク区戸長 以下ヲ一洗, 事ヲ未発二断ザレ 噛膳ノ場ナキ の刷新を緊要時としている. これらの要求は, 必ず しも当時の農民闘争の要求をそ のまま代弁したものではなか った. む し ろ農民の不満の原因を, もっぱら山口県政の特殊性に帰 し, 県政批判を政府 批判に発展させない よ う歯止めを施 しつつ, 地主豪農層の利 害を巧み に代弁している のである. そ して緊急な改革と しての区戸長改選を, もっぱら反対闘争の拡大に対する危機感から提唱 しているのである. 地租改正反対闘争の高揚, 士族反乱 の頻発とい う危機的な情勢に対しては, すでに見たよ うな 強硬な政府 擁護論を繰り返している. すなわちこれら の一撰や 反乱は, 頑士, 頑民 の所業であり その原因を 「悉皆政府上ノ其当ヲ得サルヨリココニ至ル」 とす るのは, 「頑土民ノ僻論」 であり 「一新後未曽有ノ 編革中」 という, 明治政府に課せられた課題 の大きさを, これに対置す るので ある, 自由民権論も彼によれば, 政府批判を目的とする一部不平分子の暴言暴行であり, 真の自 由, 真の民権興張をめ ざしたものではない. それでは, 真の自由, 真の民権興張 とは, 何であろうか, 「真ノ 自 由 タ ル ノ 道 ャ 人 々ノ 開 明 二 随 ヒ ュ ル ス 事 ニ テ 不 開 人 一 般 二 之 ヲ 賃 ル 時 ハ 己 し自 由 ト. 弁へ不識不知其ノ 度ヲ失シ只暴動暴行二出ル弊ナキニシモアラ ズ」 「真二民権興張何 レニ在ル ヤ則チ政府ノ威権立ツニアリ, 政府ノ威権 不立内ハ貴二民権立不 立 ト謂ツヘケソヤ, 由テ民権ヲ憂ル者ハ漸次政府ノ威権 ト共二民権 興起ヲ謀り己 レノ進歩ヲ以 テ一般ノ進歩ヲ謀ル事ナク議 者賢クモ夫 し是ヲ頒セズソバアラ シ」 要す るに自由も民権 も, 人民の開明ニ従って, 政府が恩恵的 に付与するも のであり, その前提 として政府の威力・威権の確立と人民の開明化 が必要なのである. 「一新後未曽有ノ編革中」 と は, まさにこの前提条件の確 立過程である. 彼自身か って抱懐していた漸進主義的な民権 興張論は どこに消えた のであろうか. 贋エシト雌 トモ 世間同体ノ民権論トハ少シク都見ヲ 「斯ク言フ我モ世人二連 し民権興張論ヲ1 異 ニ セ リ,. コ コ ニ 深 ク 諸 県 ノ 有 様 ヲ 察 ス レバ 大 二 悟 ル 処 ア リ, 今 日 二 熟 考 ス レハ ー ト向 二 民 権 -100一.
(5) . 鴻城立憲政党の成立過程 (その2). 而己ノ主張スル場二至り兼, 是迄ノ考へ上甚タ粗漏二出タ ル事ヲ大二恥タリ」 民権論の 「理論上二陥ル弊」 は, 「府下ヲ視テ民権ヲ1 昌へ,叉ノ ・己レノ幾分カノ開進 ヲ以テ一般 ヲ謀ル」 点にあるのであり,「府下ノ開化ヲ以テ諸県ヲ比シ難ク,己レノ進歩ヲ以テー様二難論シ, ココニ至テ ハ紙上言語二難陳,其処此処二就テ熟慮心学ノタ トナシ」 と述べている. ここに 「府下ノ開化」 と対比される 「諸県ノ 有様」 とは,. 「頑士族ャ下等会社ノ土百姓商人ヲ. 以テ何 トセソ口 論エハ眼鼻アル迄ニテ人間ノ 数二入レガタク嵯歎ニ堪エズ」 という言葉に示される ように, 「不開化」, 人民の 「無学無識」 であ った. 当面の施策として彼は教育の晋及をあげている, 「今二至り土民愚ヲ脱セザルノ所以ハ, 畢覧不学ノ 為ス所ニシテ自今ノ急務ノ ・学校設立,人々 ラ シテ真理研窮ノ道二誘ノ 外ナシ」 こうして人民の開化を第一次的課題とし, 民権の興張を第二次的課題とする時, 結局専制政府 の諸政策を 「自今相応ノ適宜タル施政」 と評価せざるを得なかった, 「斯ク論ズルモ整末政府二煽ルニ非ス, 将タ民権ヲ厭フニアラ ズ, 本心′ ・弥民権真立ヲ憂ル ノ 真意故サラニ立髪翼望二堪エザルナリ」 だがこの民権真立論が, 結局政府擁護の硬直 した姿勢と結合していることを見落してはならな い, 志士, 官僚, 実業家という彼の多彩な経歴の過程で形成された漸進主義的民権興 張論が, 所 詮 「府下ノ 開化」 を基礎としていたとすれば,. 「諸県ノ 有様」 との大きな落差が, かかる変化を. 生みだしたのであろう, ) のなかで, 「是迄薩長土肥四藩ノ 偏固有之, この頃東京日々新聞主筆福 地源一郎宛てた書 翰2 之力為一般之不平均ヲ謀り居候」 と述べ, この 「偏固」 「門閥」 が, 人民の 「開化」 に反対して 士族反乱が起こったと し,. 「今日之災害第二ノ 維新ト相成」 と把えている, さらに次のように述. べて, 人民の 「開化」 の緊要性を強調 している, 「何様土民ノ内ニモ何ラ上中下有之事ニテ頑土 民多キモ閉口仕候, 御紙上御筆鋒ニテ世上ノ ・人智ノ ・ 迷夢ヲ覚シ候様只々希望二不堪候, 劣生モ三年振り之山口へ帰り県下ノ景況ヲ見候得ノ 進歩二至り候得共県官等ノ ・藩政依然ト相残随分歎息ノ情勢モ不少,人民未タ是ヲ論破スルカモ無 之欄 然ノ情叉不少候,追々長次官ヘモ論談シ且々世上並二土民ノ権利相定テカツト切二渇望罷在 候, 総テ在官モ多クハ尊王機夷之四字ヨリ官二就キタルモノモ不少,進歩ノ ・名而己, 其実際ノ ・事 務揚り兼候弊モ各府県多力ラ ソカ,政事ノ是非ヲ世人へ為相知候事モ急務二可有御座候へ共土民 ノ義務ノ尽サル事モ責サ レハ我国先途開明上 モ思ヒ遣ラ レ候事ト奉存候」 ここでは, 一定の政府批判を内在させながら, 「第二ノ維新」 という危機意識と, 「政府未曽 有ノ改革中」 という状況認識とが交錯して, 「政事ノ是非」 に対する 「土民ノ義務」 の優先する 論理が示されている. だが彼が 「人間ノ数二入レガタク」 と軽悔 した 「頑士族ャ下等会社ノ土百姓商 人」 の動向は, 士族反乱, あるいは士族民権の反動性を今問わぬとしても, はげしい県政反対闘争を展開してい るのであり, そこに 「真ノ民権興張」 の担い手を見出すことは至難であ ったのだろうか. これをも 「頑民」 とみなすところに, 豪農民権成立の岐路 があ ったよ うに思われる. そ して県政反対闘争に対抗する地方制度改革の先き取りによ って, ともかく県政の安定を実現 し, その過程でたくみに豪農層の利益を実現しようとしたのである. 彼の当面の活動の重点は, 77年9月の, 協同会社第4回 「社会」 のヘゲモニー奪取に向けられ た. 次にその過程をみよ う, -101-.
(6) . 田. 村. 貞. 雄. 註 1) 民費が地価1% 以下という規定にもかかわらず, 最大限額の1%が徴収されてきたことを指す, 小林茂氏 「山口県地租改正における民費問題」(『山ロ県地方史研究』12号) 2 )77年3月14日付福地源一郎宛吉富簡ー書翰.. 圏. 協同会社第4回 「社会」 の意義. 協同会社第4回 「社会」 は, 地租引当米の存廃, 会社の存続可否の最終決定を行なうため開催 された. 協同会社は別稿で詳述したように, 民間会社の外観をとりながら地方行政機構と密着し 各種修甫米金を資本としつつ, 地租引当米の運用 による納税請負, 物産専売, 金融等の業務を行 な っ て き たD, 7 4年に県勧業局を解体 し, 授産局 (のち士族就産所) とともに創立され, 田地所 )(県令) ) ) 有者全員を株主とし, 脱退を禁止し2 , 頭取勝間田 , 副長中野梧ー4 , 主宰木戸孝允3 ) が指揮を ) ) の陣容で出発, 77年段階では, 社長欠員のまま副社長吉田右一7 稔5 , 副頭取林勇蔵6 ) とっていた8 , 協議機関として 「社会」 があ り, 「県会」 と同 じ代議人が 議員を兼ねた, ところで第4回 「社会」 は, 従来の 「社会」 と異なり, 76年10月布告第130号各区町村金穀公 借共有物取扱土木起功規則, 77年5月県布達甲121号代議 人仮規則により新たな機能を付与され ている. すなわち前者によっ て各町村の総代の選任が許容された, この総代の容認こそ, 町村会 ) が, 山口県の場 合さらに総代人の互選により, 各大 区代議 設置に道を開いたものとされている9 人を選任することとし, 協同会社 「社会」 が, 「各大区代議人ヲ以テ成ル者ニシテ, 協同会社営 業ノ事務, 社中共有財産ノ取扱ノ 議処スルノ 会」(「社会規則」77年6月) とされたのである. もちろん従来の県会 (後述) はそのまま存続 し, 民費問題な どを審議したが, この議員も右代 議人が そのまま任 じられている. 協同会社の場合, その資本金である各種修甫米金の取扱が, 76 年布告第130号の対象とされたため, これらの新たな法的規制を受くるに至 ったものである. 町村総代人と大区代議人の関 係について, よ り詳しくみておきたい, 77年 3 月2 0日県 布達甲62号で総代人選挙方, 同日県布達乙34号で選挙投票手続が制定されてい 他 る, それによれば町村総代人は, 「金穀公′借共有物取払等ノ場 合ハ勿論町村公費遣払之検査其・ ・総テ」 委托されるものとされ, 「男子二十才以上/ 戸主ニシテ該 各自之利害得失二関スル事件ノ 町村内二不動産ヲ有 シ且其他二本籍ヲ定ムル者」 が選挙権を有 し, 10名に1名の割合で 「町村本 撰者」 を互選 し, さらに本撰者中について復選 して総代人を選任するものであ った. さらに次の ように, 将来の町村 会, 大小区会, 県会の各 レベ ルにおける総代人会議が予定されていた. 「町村会区会等開設ノ 機二至 レハ則其議員タルラ得 ベ シ」 「時宜二依り県庁へ召集シ人民ノ利害得失二関係スル事二付 下問スル コトア ル トキハ詳ニ之 レラ 開 陳 ス ベ シ」 「大 小 区 扱 所 ヨ リ モ 胆 時 二 協 議 ス ル コ トア ル ベ シ」 さ ら に 3 月3 7号は, 従来の 「私ヲ以テ依頼候総代」 をすべて否認 し, 町村寄合の 1日県布達乙4. 1号はすでに述べたよう に代議 人仮規則 自主的機能を形骸化せしめている. 5月21日県布達甲12 1万人に1人の割合で各大区代議人を選 各村総代人の互選により人口 したものであ て を公示 っ , 任する こと とし, 同日県布達乙112号で従来の代議人 (区戸長より成る) を廃止し, 乙113号で新 6号は, 協同会社の臨時 「社会」 が新代議 代議人の一斉選挙を命 じたのであ った, また同日乙11 人によ って行なわれることを告示 している. なお 協同会社は, 6月19日付で新たな 「社会規則」 を決定 し, 以上の改革を織り込んだ, さらに7月11日には, 県布達乙177号によ って, 区会町村会議員仮規則, 区会議事章程が布達 -102-.
(7) . 鴻城立憲政党の成立過程(その2) ) 0 され1 , 町村本撰者が町村会議員化 し=) , 町村総代 人が区会議員を兼掌するものとされた. かく して町村会 (町村会議員=町村本撰者)-÷→区会 (区会議員=町村総代人).÷→県会およ び協同会社 「社会」 (県会議員, 社会議員=各大区代議人) という系列化が一応完成 した 。 これ が, 地方自治制の成立過程における一定の前進を意味した ことは云うまでもない, 協同会社第4回 「社会」 が, 「姶テ公撰ノ 代議 人ヲ以テ会議ヲ開設」 したとされる意味は, ほ ぼ以上の如き代議 人公選制の確立を指しているのである, 次に, 従来の県会および協同会社「社会」との対比において, この改革の意義を考えてみた い , 山口県の民会については, しばしば 「県 会」 との混同が生 じている. しかし, 府県会規則以 前 の県民の代議機関を地方民会と把える場 合, 山口県の民会は, 「県 会」 と協同 会社 「社会」 の両 者から構成されていたと考えざるを得ない. 両者の議員は, 同一人物であって, 県令を議長とし 民費問題を主要な議題として開かれる 「県会」 終了後 (または開会前) , 協同会社 「社会」 が開 か れるのが通例であ った. 県民の代議機関として, 同一議員から成 る二つの会議があ った ことに, 山口県の民会の特殊性があ ったのである, では何故このよ うな特殊性が生まれ, どのよ うな役割を演 じたのであろうか. 詳細 については 他日を期するほかはないが, 一応経過の概略と問題点を指摘しておきたい, まず 「県会」 につい て 述 べ た い,. 「県 会」 の 創 設 に つ い て, 『山 口 県 会 史』 は 次 の よ う に 述 べ て い る.. 「明治六年十二月区戸長士族神官僧侶等ノ総代ヲ県庁二会シ会議ヲ開キ, 窮民救徳二関スル ) 2 件外七件ヲ論決シタル以来, 毎歳官民協同会 (県会ト称セリ) ヲ開ケリ1 」 ) 3 この第一回県会は, 当初 「各区長弁正副戸長等議事集会1 」 として企画されている, これが地 1 4 ) 租改正における区戸長会議 に起源をもち, その常設化を目指したことは疑いない. ところが, 5 )されるとともに,73年11月7日付で 「会議 地租改正事業の延引との関連で,約1か月開催が延期1 章程」 およ び 「会議の弁」(山口町堅小路留寓雪村樹史による解説書) が布達され, 会議の性格, 機能が詳細 に規定されるとともに, 構成員の内容が区戸長以外に拡大された. これによ れば, 会議は 「当管内ノ 人民一般二関係スル事ノ軽重ュ依り其実地二施行スヘキ適宜 ノ法ヲ議定セソカ為」 設けられるものであり, 議員は各大区の正副戸長から選ばれた 「地下惣代 人」 を中心とし, 区長全員, 本支庁の属官, 萩, 岩国, 豊浦, 徳山, 清末など 「士族集居ノ 地」 より選ばれた士族総代, 医師・桐官・僧侶などの総代から成 っていた, 会議の決定は, 多数決によ るのではなく, 議長である県令が 「同意不同意ノ多 寡ト論ノ 当否ト ラ熟察」 して可否を決定するのであり, 県令の諮問会議に過 ぎなかったと云えよぅ, さて73年12月の会議においては, 8件の議題が審 議されたが, 窮民数通, 緯租 (民費) 徴収方 法, 普請費用, 国幣官社費, 小学校費, 民費会計表の公表など, ほとん ど民費の徴収と使途に関 ) 6 するものであり, 民費審議権が委譲されたかに見える1 . この決議は布達の形で公布されたが, そこには 「此箇条を変革する時は, 更二会議を開き論決す へし」 という権令の但書が付されてい る,. ・モ入々申合当年ノ しか し, のちに中野権令は 「一昨年之会議ノ ・官員計り去年ノ ・各区‘ ・余程会議 7 ) 之肺二相成先頗母敷1 」 と語 っており, 雪村樹史の 「会議ノ弁」 と題する説明書の布達とあわせ 考えるならば, 当初は啓蒙的性格が濃厚であ ったと思われる, 8 )」 は, 7 74年6 月 の 第 2 回 「県 会1 3年度分地租引当米代金の処理と防長協同会社の設立を決議 9 ) している1 地租引当米代金と民 費との精算勘定が前者の内容であ り, 後者は, 県勧業局の資本 . 金とされ てし ・る旧藩時イヒ以来の諸修甫米金の活用をめぐる問題であった, そ して同年10月末から -1 0 3- ‐.
(8) . 田. 村. 貞. 雄. 11月初の第3回 「県会」 で, 木戸孝允, 井上馨の介入のもとに, 勧業局資本金を分割 して, 授産 局と協同会社の設立が決定され, 士族総代人, 農民総代人の連署により, 士族給禄米の確保が協 定されている, これらはいずれも木 戸・井上の指揮によ るものであり, 直ちに 「県会」 の自主性 を云々することはできない. しか しこの会議において, 民費課出法 が審議されたさい, 第11大区 の地下総代人から強い反対 が打ち出されたことは, 「県 会」 が 啓蒙的な県令諮問機関から脱 して 一定の自主性を獲得してゆく 萌芽であ った, もっ とも, その先頭に立っ た林勇蔵が, 協同会社副 頭取に任命され, かえ って戸長層と県当局の癒着を生みだ したのであるが. ところで議員構成は, 第1回以後次のよ うな推移を辿っている, 0 ) まず, 医師, 桐官, 僧侶の総代は, 姿を消していく2 . ” 地下総代人は, 73年12月の第1回 「県 会」 の直後と思われるが, 「各大区二於テ従来事務二賜 し, 各村之情状ラモ致熟知居候者 一二名」 と改められ, 「平常会議所出勤庶事為取扱」 と大区行 1 ) 政の掌握が強調され, その地位は 「戸長ノ筆頭」 とされた2 . 事務熟練の古参者が, 選ばれるこ とは, 行政の円滑化にはなっても, 代議制の前進を意味 しない. ついで74年2月, 従来の規定が 2 ) す べて取消され, 改めて総戸長代議人章程が布達された2 , これによれば, 正副区長を補佐する 総戸長の新設, 各大区2名 の代議人の任命 (総戸長の兼任可) , 士族集居地から2名 の士族代議人 の任命 が行なわれるもので, 大区代議人は, 大区行政から分離され, 「区内土民ノ総代」 である ことが強調され, その任命は, 「官ヨリ可申付筋二無之」 と一応各大区の自主性に委ねられた. しかし, 各大区の自主性と云っても, 区長の権限が強い以上, 形式的なものに過 ぎない. 吉富で 3 ) すら, 戸長の任命も含めて 「区長ノ独撰」 と非難 しているのである2 . 一定 「 県会 」 の機能に の変化をもたらした. すなわち協同会 協同会社およ び授産局の設立は, 社 「社会」 が 「県 会」 と同 じ構成の区長, 大区代議人の出席で開催されるようになり, 他方授産 局( 75年より士族就産所) においても, 78年以来士族代議人によ る 「総会」 が開かれるようにな っ た.. 士族就産所についてはここで措くとしても, 協同会社が, 「田地所有者」 全員を株主とし大区 代議 人がその代表 として, 地租引当米, 修甫金穀の運用 に参画 したことにより, 従来の 「県会」 の権限の一部が 「社会」 に委譲されたことを示している. も っとも当初は, 主宰木戸孝允, 副長 中野梧 ー (権令) とい う陣容であり, 中野が 「社会」 においても議長を務めたから, 実質的な差 は な か っ た, しか し, 7 5年に入ると, 地租引当米反対闘争の拡大に対応 して, 「一旦会議ヲ経候 事件ハ全ク. 土民一般二折合訳」 と 「県 会」 決議の強 制力が強化され, それを保障するた めに, 「各大区各村 ・士族中重立候者四五名乃至十数名) ヨリ雛形ノ 内証人百姓, 十人頭井地下重立候 (士族代議人ノ 通代議人へ対 シ委任状差出 シ, 左候テ小前末々ノ 者ヘハ右証人百姓其外ヨリ最寄々々ニテ無洩様 4 ) 」と,村内有力農民の同意を求める形式が採用 されている, ここでは 前条兼テ申論シ置候様可致2 ・即チ土民ノ議スル道理」 代議人は 「土民二代り出頭協議」 するもので あり, 「其人ノ議スル所ノ が推 し出されており, 一見 「県会」 の権能の拡大, その啓蒙的性格を見ることができるけれ ども 実はこの年春以来の熊毛郡民 の闘争に対 し,. 「畢覧客冬会議ノ趣了解セサルョリ 起りタル儀 ト相. 見ェ候間, 余ノ 各六区素ヨリ無 疎儀 ・存候得共為念及達条, 村々小前末々 迄右決議ノ 主意寄二 ) 5 」 と, 「県会」 による決定を楯とする闘争 の鎮圧策の一環として打ち出さ 及理解置候可致 候事2 れてきたことを見逃 してはならない. 地方民会の開設 が, 県令の側から啓蒙的に行なわれたと し ても, その民主化の背後には, こ うした県民の闘争 が存在 しているのである. -104-.
(9) . 鴻城立憲政党の成立過程 (その2). 委任状形式の採用にもかかわらず, 依然として代議人は, 区長の任命, 戸長の兼任の域を出な か った, 区長 が代議 人を 「委任」 された例も少なくなかった. そこで, 76年9月には, 区戸長の 7 その手続は明らか 2 ) ) 6 兼職を禁止し2 , 「真正ノ代議人ヲ公撰 」 することを命 じている, しかし, で は ない.. 75 すでにのべたように, この代議人は, 協同会社 「社会」 の議員でもあ った, しかし同社社則( 年6月決定では, 「社中協議」 「毎年集合」 の規定はあるが, 具体的な運営規則, 「社 会」 の権 限についての規定はない. 同社は 「県庁ノ 保護」 の下に置かれ, 区戸長の指揮下にあ ったから, 「人民二於テハ会社ヲ見ル事秦人ノ越人ヲ見ルガ如ク」 「何ニー ッ公議ヲ尽サ ザルト人民二参与 ) 8 」 に原因が求められるのは当然であ った, 吉富自身も 「是迄代議人ヲ以テ協 セサザルトノニッ2 、会議 ト雄 同会議ヲ開ケトモ, 総テ説法会議 ニテ民情ヲ代議人ヨリ訴レトモーッモ採用ナク其名ノ ) 9 」 と批判している, モ総テ社員井県官ノ存慮ニ出ッ2 戸長層 が農民側の意向を代表する側面は, もはやほとん どなかったと云 ってよい. 地租改正段 階で県当局 と強く対決 した彼らの姿勢は, もはや形骸と化して しまっている, たとえば地租改正 段階において, 農民的な プランを案出 したとされる林勇蔵は, 今や協同 会社副頭取 として, 県当 局と完全に一 体化している. 農民闘争の拡大に対 して治安政策の見地からともすれば妥協的にな 0 ) ことは, 戸長 りやすい県当局を引きずって, 地租引当米および協同会社 の存続に狂奔 しているヲ 層の変容, 転回を象徴的に示したものと云ってよいのではないだろ うか, 76年から77にかけての区戸長糾弾闘争の拡大の一半の理由は, 以上のような点に求 めることが できよう. 以上の経過をみるならば, 77年9月の協同会社 第4回 「社会」 は, 間接選挙 制ではあるが, 最 I ) 初の公選代議人の出席による会議 でありS , 「社会」 が 「県会」 とともに民会の役割を果た して おり, また農民闘争の高揚という緊迫 した情勢の下で開かれた決戦の舞台でもあっ たという意義 を見出すこ とができよう. 重大な危機感を以 って山口県政に登場 した吉富簡一は この第4回 「社会」 に向けて, 積極的な 言論,組織 活動を展開したのである. ここで彼は, 地租引当米制度の廃止を唱える農民的な主張 に積極的に同調 しつつ, 独自の地方制度改革論と政府擁護論を以 って, 多数派工作に 熱中 し, そ れを一つの政治的潮流 とするべく最大限の努力を払 っ ている, 次にその過程をみよう, 註 1号) 1 ) 拙稿 「地租金納化をめぐる山口県民の動向」(『史潮』9 . 0月の改正により, 土地所有者全員に拡大された, これは, 後述 6年1 75年6月) 2) 「協同会社社則」( , なお7 0号各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則と関連し, 協同会社をもっ 0月太政官布告第13 6年1 の如く7 て共有物取扱機関とする意図が生まれてきたことを背景と している, 3 ) 協同会社の創立が, 木戸孝允, 井上馨の指導によって行なわれたことが注目される. 彼らの介入は, 協同 会社とともに創立された授産局を以って, 士族対策機関と し, あわせて協同会社の取扱う地租引当米を士 族給禄米に振替え, かつ井上の先収会社に安く売却するためであった. 1月山口 4) 旧名斎藤辰吉. もと幕府勘定方の役人. 字は茅長, 箱館戦争敗北後許されて大蔵省に入り, 71年1 県参事に任命された. 72年8月権令. 9月以後全国に先駆けて地租改正を実施. 75年8月県令, 大蔵大輔 井上馨の直接指揮下にあった, 同年12月退官して藤田伝三郎とともに商社を興 し西南戦争で巨利を得た. これがのちの藤田組である. 五代友厚とともに大阪商法会議所を設立 して副会頭に就任, 大阪実業界の中 心となった,79年藤田組贋札事件に連坐, のち五代とともに関西貿易商会を興 し, 開拓長官黒田清隆と結 んで開拓使官有物払下事件を起こした, 83年自殺. 5) もと長州藩士, 山口県の属官であったが, 協同会社頭取, 社長をへて内務省権小書言ご官警保局長となり, のち愛媛, 宮城, 新潟の県知事をつとめた. 6) もと小郡宰判大庄屋. 幕末の動乱期に討幕派を援助し, 小郡庄屋同盟を結成したことは著名. 維新後山口 一105-.
(10) . 田. 村. 貞. 雄. 県租税課改正掛に等外三等出仕と してつとめ, 地租改正に尽力, 蕨餅 榛光氏 『大庄屋林勇蔵』 参照, 7) もと長州藩士. 山ロ県参事をへて授産局長, 協同会社副社長を歴任, その後も県官の地位にあった. 7年5月で 8) この改正は, 76年10月第3回 「社会」 で行なわれた新 「社則」 によるもので, 吉田の任命は, 7 ある.. 9 )徳田良治・福島正夫 「明治初年の町村会」 (明治史料研究連絡会編・明治史研究叢書第2巻 『地租改正と 地方自治制』 所収) , 徳田良治 「我国における町村会の起源」「明治初年の町村会の発達」 (共に同上明治 史研究叢書第2期第1巻 『明治国家の法的構造』 所収) . 10) 山口県の場合, 区会町村会の議員と町村総代人の両者が, 制度上混清された点に特徴があるとされている (徳田・福島両氏前掲論文) . なおここで云う区会は大区会であって, 徳田・福島両氏の前掲論文で小区会 とされているのは誤りである. 「区会議事章程」 には、 「区会ノ権力ハー大区内ノ事ヲ譲スルモノ」 と規 定されている. 11) この点徳田・福島両氏が指摘する如く, 文意が明確ではない. 12) 『山口県会史』 上巻, 5頁. 13)73年1 0月 7 日付山口県布達第68号. 14)72年9月地租改正事業開始に際し, 区長, 戸長代表(48名) , 県租税課改正掛 (林勇蔵らを含む) の合同会 00名が県庁に召集されている. くわし 議が開催され, 73年6月地租改正終了段階においても 「頭百姓」5 くは拙稿 「山口県における地租改正」(『歴史学研究』302号) 参照. 15)13に同じ. 16) 「明治六, 七, 八年山口県会決議書」 , 1 7) 林勇蔵 「協同会社会議日誌」75年11月1 8日条. 18) 当初は, 「県庁大会議」 と呼称されていたようである. たとえば林勇蔵 「県庁大会議中日記」 , 「県会」 の 呼称が定着するのは, 76年頃と思われる. たとえば76年9月18日付県布達甲7 7号. 19) 以下地租引当米, 協同会社設立をめぐる経過については, 拙稿 (『史潮』91号所載) 参照, 2 0) 管見の範囲では, 73年1 2) の布達により廃 1月 「会議章程」,以後これらの総代についての規定はなく, 註2 止されたものと思われる. 21)73年12月 「議事章程中更正」 , 22)74年2月 7 日付県布達. 23) 吉富簡一 「唾語」 , 24 )75年5月 9日付県布達3 6号. 25 )75年5月3日付県布達. 26)7 6年9月18日付県布達甲77号. 2 7)76年9月18日付県布達乙1 03号. 28 ) 前掲藤村淳一意見書. 29) 吉富簡一 「山口県協同会社 洋二就産所ノ問ト土民ノ間二背離ヲ生シタル原因ヲ論ス」(H) . 3 0)75年の協同会社 「社会」 において, 中野県令は地租引当米の部分的廃止を提案するが, 林勇蔵はあくまで その存続を主張している, 75年協同会社は 「事務弁説」 を配布 し, その正当性を強く主張するなど, 県当 局の政治的思惑をこえて独走していることも, その一つの例証となろう. 詳 しくは, 拙稿 (『史湖』91号 所載) 参照. 31 ) 少なくとも公選制の樹立は, 地租改正段階における戸長層指導の農民闘争の延長線上においてではなく, 区戸長糾弾闘争の成果としてかちとられたものであることを注日する必要があろう. この点は, 山口県地 租改正の評価とも密接にからんでいるので, 今後一層深く考察する必要がある.. 引 協同会社第4回 「社会」 をめ ぐる吉富の言論活動 { さきにかかげた吉富の論稿のうち, この時期と目されるものは, 鰹 )「続璽語」 , ◎ 「山口県協 同 会社弁二就産所ノ 間ト土民ノ間二背 離ヲ生シタル原因ヲ論ス」 ( 工 )「 山口県ノ原況二付蟻語ヲ左 , 二陳述ス」 )「協同会社二付各大区代議人山口へ出頭, 会議ヲ催サルル事ヲ開キ代議人各位へ J , ( 婆心ノ野芋ヲ陳 ソト欲スル事左ノ如シ」,ほ め「代議人中心得之要件覚」 の五つである. まず旧 )「続警語」 は, 囚 「竪語」 に続くものであり, 「政府自今相応ノ適宜タル施政」 への支 持と, 県内の 「腐儒俗吏杯」 による県政の矛盾への批判が, 表裏一体となって展開されている. 吉富は, 代議人公選制の確立を 「政府ノ権利 ト人民ノ権利ト漸々区別スル始リ」 と して把え, その漸進主義の理由として 「自今時勢ノ シカラシムル処」 と述べ, 一般 人民は, 「右等ノ ・深ク相 一10 6-.
(11) . 鴻城立憲政党の成立過程 (その2) 弁ェ弥以テ相励ミ業間ヲ以テ学二志シ漸次前顕ノ権利ヲ銘々了解シ, 人民ノ権利稲ャ服底スルノ 上ノ ・第一政府へ忠ニシ自治ノ道二志シ 事物二付テ錯雑ヲ生ゼヌコソ一大事ナラ ソ」 とその自主的 努力による 「開化」 , 政府への忠誠を強調 している, では, 「事物二付テ錯雑ヲ生」 ずるとは何か と云うと,. 「世間流行ノ自主自由杯ヲ解シ損 ジタ ル暴動暴言」 なのである, 彼の理想とするとこ (ママ). ろは, 「政府ノ保護ヲ以テ銘々ノ私有物他人ヨリ醒頒セラルルノ患モナク, 次二我ラツテ害シ癖 ヅクル者モナクシテ各其業ニ安 ジ生命ヲ終ルノ大恩ノ ・悉皆政府アル故ノ道理」 を人民が相わきま 幸戻セス, 令ス レハ必 ズヤ之ヲ固守シ政府へ忠 ・人民ノ政府ナレバ, 其政府ノ号令二一 え, 「政府ノ ナルノ 道ヲ念々研窮人民タルノ 義務ヲ失フ事ナキ」 状態である. ここには 驚くべき論理のすりかえ, 顛倒がある, 民権に対する政府の保護の優先, それを 「大 恩」 と して感謝する受動的な人民の忠誠, 政府の許容する範囲内での自主的な 「開化」 あるいは 「自治」 という図式は, 要するに政府の漸進主義的 「開化」 への卑届な期待であり, そこでは一 切の政府批判が保留されているのである. ただ山口県政批判のみは, かえ って強められる, 彼によれば, 政府の任務は次の二点にある, 「第一ノ ・人民保護ニシテ第ニハ勧導ニ出ルナラ ソ, 共第一段ノ保護ト云ハ則チ憲法ナラソカ 第二段ノ勧導トハ教科撫育ノ事ヲ都テ云ナラ ソ」 ところ が, この 「人民保護」 と 「勧導」 の相互関係 が重要であると彼は云う, 「然 しトモ勧導ヲ先ニス レハ真政ノ主意二梓ル事故 第二段二出ル者ハ則チ政術ナラ ソ……余 り世話過ギルト大二其青ト其権利 トラ束縛縄魔スル事二出テ其害極テ大ナリ…… 兎角腐儒俗吏 ・大区小区ノ間二於テ 杯ノ古令此点ヲ免 レガタキ重 病アル事人々ノ知ル処故髪ニ費言セス, 脈ノ ・ ・ 」 右 等ノ 弊 極 テ 多 ク …・. すなわち勧導の優先は, かえって人民の情と権利を束縛するのであり, 今日の山口県の区戸長 の施政の弊害は まさにこの点に発 している. しかしこの弊害除去は不可能ではない, 「一新後純粋タル人民ノ沸乱ノ ・政府県庁二向テ怨言ヲ陳タル事墓モ是ナク 大区小区ノ偏情ヨ ・大区以下ノ得手勝手ノ処分叉 リ人民従来屈伸ノ奮諺貫通セズ, 其情態ヲ中二鷹蔽セラ レ, 或ノ ノ言ヲ容 ノ点ヲ失 二民乱ヲ醸 ・己 し二俵スル者 し総テ公平 スル故終 スニ至ル, 其所謂ハ錯雑ア ノ ル毎県庁長次官之二臨テ説論ア レハ皆沸泣 シテ其徳二服ス, 是 し可権ニアラス下情 上二貫キ上 情下二通ズル故如斯頑土民ノ暴動 二至テハ論ナシ」 つまり, 農民の区戸長 糾弾闘争が, 未だ中央政府批判へ発展していない間隙に乗 じ, 県庁首脳 の積極的な慰撫策によ って切り抜けることが可能であると主張しているのである, この 主張とさ きの地方制度改革論を結びつけるならば, 大区小区制の諸矛盾の解決を先取りしてゆく姿勢が明 瞭となってくる, 彼にあっては, 西南戦争は小 事件に過ぎない, 「薩賊輪ノ ・五年ノ持久ヲ為シ, 八方二西郷ガ如キ賊党蜂起相続クト錐モ決テ恐ル事室モ之ナ ツ……政府ニハ海陸ノ常備兵アリ, 之ガ尽キ レバ国民兵アリ, 殊二蒸気電信兵器兵糧充満ス, 賊ノ日二兵ツキ糧ツクル事弁ヲ俣ザルナリ, 此上薩賊ガ如キ奴原二県三県一時二 蜂起スル トモ 政 府 国 ノ 九 歩九 厘 ヲ 占 ム, 心 ヲ 労 ス ル ニ及 パ ンヤ」. 政府の独占する近代的軍事力, 交通手段に対する絶対的信頼にも拘わらず, 彼の不安はなお残 ・籾置, 人心土崩瓦壊ニ至ル, 只恐ルル処ノ ・此一事ニテ余ニアラス」 という人 っている, 「薩賊ノ 心土崩瓦壊の原因は, 「政府公平ノ点ヲ誤ル」 か否か, ということであり, 人民に対する 「公平 ノ大綱」 の確立が要望されている, -107-.
(12) . 田. 村. 貞. 雄. 「公平ノ 大綱」 は, 云うまでもなく, 「人民保護」 と 「勧導」 の有機的配置であり, 当面の措 ) 」 である, 置は地方制度の改革= 「府県庁ノ弊害ヲ一洗スルノ術1 1 ( )「山口県ノ原況二付鴎語ヲ左二陳述ス」 においては, より具体的にそれが語られている. 「第一府県ノ 人 〔国〕 民ニラケル未 ダ 国民タルノ道理ヲ解セ ズ府県庁ノ外大政府内務省アル 事ヲ知ラス, 大政府ノ ・府県庁 ト而己見倣スノ弊害モ叉極テ多ク……」 )「続墜語」 の ここに至 っ て, 彼は, 「人民」 という言葉を抹消 し, 「国民」 に変えている, 鰹 後半部分からこの変更がは じまっている. そして, 「大政府」 という概念が登場する. 「大政府 アルノ 「道理」 の確立により, 「県官ノ我意」 の抑制, 「府県庁ト人 〔国〕 民トノ間ナル権利ヲ 分轄 スル 事」 が, 彼の主張である, 他方 「大政府」 は, 「日本人 〔国〕 民ノ政府」 であるべきで, 「道路ノ風説」 にある如く, 薩 長 土 肥 「四 藩 『コ ンペ ニ ー』」 で あ っ て は な ら な い,. このような主張は, 旧長州藩を基盤とする山口県の特殊な政治的位置, また県政の特殊性 (こ れらは, 「封建ノ余習」 に他ならない) を克服し, また 「大政府」 もその藩閥性を克服し, 威権 威力をもっ た 「大政府」 の出現と, そのもとでの地方自治の確立という政治体 制の構築を目指し たものと云い得る. 外見的な立憲制 (一定の限度内での地方自治の確立と, 漸進的な民権付与) という形態における, 集権的な専制政 治体制の樹立というこの構想は, ある意味では, 確立期明 治天皇制国家の原像を先き取りしている. これを実現する手段は, 一撲でも反乱でもなく, また 民権運動によ っ てでもなく, かえっ て四藩 『コ ンペニー』 との私的な連繋ルー トを通 じて可能と さ れ て い る こ と は, 後 に 見 る で あ ろ う.. さて, 吉富の政治的立場は, 以上でほぼ浮き彫りにされたと思われる. 彼は, 政府当局者 への 建言, あるいは県庁への要 望を一方で行ないつつ, 第十大区代議人として, 協同会社第4回 「社 会」 に出席しようとしている. 彼は, 県民の反対闘争 へ の同調をあえて行なっている, 協同会社廃止論がそれである, 「協同社タルヤ今日二テ真二賛物ニテ第一人心ノ孤疑氷解セサルノミナラス, 輪ヘハ火気ノ 側二火薬ヲ置クニ等 シキニ似タル故二神速解社シ 県内ノ安寧ヲ謀ル事政府上士民ノ 為メ抄カラ サル事」 「示後大政府 ト国民トノ 間二於テ, 右二局 (協同会社と士族就産所--田村) ノ事ヨリ災害 ヲ萌サ ン事 ヲ予防 シタキ事ヲ只々翼望シテ他ヲ望サルナリ」 このように彼の廃止論も, 大政府擁護のための政略にすぎない, しかもその廃止は, 大政府の 「権衡ヲ以テ御所分」 に期待 しているのであり, 県民の反対闘争に対する無条件の同調ではない. ) は, 公選代議人の責任を強調 し選出母体の大区人民から協同会社に対 一方, 代議人に対して2 し疑惑が生ずるならば, これはす べて代議人の責任であると し, 代議人を して県民の代表とする のではなく, 県庁の施策を人民に説 明 し, 納得させる派遣員の役割にすりかえようと しているの で あ る,. 各議案についての彼の主張も, あらか じめ代議人に ‐伝えられたようである. とくに第十一大区 代議 人の本間源三郎が, 吉富の政治路線に同調していることが注目される, 本間は, もと小郡宰 判大庄屋格の家柄で, 嘉川村庄屋を勤め, 幕末元治の内戦においては, 林勇蔵の指導する庄屋同 盟に参加 している, のちに, 県会議員(副議長) , 郡会議員, 衆議院議員を歴任するが, 鴻城立憲 政党にも参加 しており, 吉富派の重鎮であった. Q P「代議 人中心得之要件覚」 は, 吉富が本間にあてて, 各議題についての意見と, 議事の方向 -1OS-.
(13) . 鴻城立憲政党の成立過程 をある程度予想した戦術を書き送っ たものである, (その2) 第4回 「社会」 の議題は次の10件である, 1 , 引当米方法廃存ノ事 2 , 諸修甫処分ノ事 3 , 囲穀処分ノ 事 4 , 積金処分ノ 事 5 , 各大区郷倉ノ事 6 , 修甫改正調査ノ際其事務ノ者専 断ノ 事 7 . 第二十大区第二十一大区義務救助ノ 事 8 . 各大区総代会社順番ノ 事 9 .,資本金運転区分ノ事 10 , 社則ノ 事 協同会社に対す る反対闘争の要求は, 引当米の廃止および積金 (引当米利益の一部を会社資本 金に繰入れたもの) の還付, さらに会社の廃止であった. しかし, さきに述べたように, 協同会 社 「社会」 は, 76年太政官布告第130号にもとづく各町村金穀公借, 共有物取扱等に関する権限 に委ねられた代議人会議でもあり, 修甫・囲穀の処理が, 議題のうちかなりの比重を持つに至っ て い る.. こ の こ と は, 会 社 廃 止 論 に 対 して ブ レ ー キ を か け る 役 割 を 果 た して い る,. 吉富は, その点を考慮 したためか, もしくは協同会社資本金をもって国立銀行を設立せんとす ) のためか, や 廃止論の主張を変えている, すなわち代議人に対しては, 議案が 「其体 る着想ヲ 裁ノ ・会社ヲ全ク維持保存ツタキ」 意図をもっていることを批判 して, 「此ノ会社タルヤ存廃 人民 中ノ権内二之有ル事」 と最初に存廃を決定するよ う呼びかけなが ら, 「弥是迄ノ如ク存シ置二決 ス レハ」 と存続決定を仮定 して, 各議題にってい ての意見を総々述べているのである. 本間に対 しても, 「此会社一応叩キ破テ各小区へ何モ角モ配附シ, 然ル後改テ代議総代ノ協 議ヲ以テ取計 モ有之事ナラシ」 と一且解体せしめ, その後の再建を示唆してし ・る. これにつ づけて 「此辺ヲ以テ代議人中下調へ御申合, 然ル後協議事御始メ可然候」 と戦術を指 示 して い る.. 事実第4回 「社会」 は, ほぼ吉富派, とくに, 本間源三郎のイニシアチ ヴによ って推移してい ) る4 .. 冒頭まず吉富が, 「小会議」 を提案 し, 第一日目は早 々休会に入り, 第二日目は, 本間の提案 -- 「営業ノ 目的アラハ存スルラ可トス」 --が最初に行なわれ, 存廃をめぐる論議がたたかわ された. これはあくまでも, 引当米の廃止を前提とし, 営業の変換によ る存続をはかる ものであ ったが, その具体的な見通しは何らこの段階では示されていない, のちの吉富の回想によ れば, ) 」 との ことである が 「自今会社ハ費物ナリ 之ヲ廃スヘク之ヲ解クヘキ トノ論説議場二充満セリ5 公表された議事録では 廃止論は少ない, 議事録の歪曲を考慮する必要があるが, 第1日目の 「小 会議」 における吉富派の活動が, 廃止論を孤立させ, 再建論へ転換させる役割を果た したのでは ない かと 思われる,. 8人の賛成を得て可決されている. 結局本間の提案は, 50人中3 次に引当米制度については, 本間がまず廃止を提案し, 可決されている. 積金の処分についてもやはり本間が 「会社営業ノ 目的確定スルラ得テ」 還付の可否を決定す べ しと提案し, 吉富も再建後の資本金としての活用 を主張 した, しかし, 積金は, 引当米処分に関 -10 9-.
(14) . 田. 村. 貞. 雄. 8人の賛成 しか得 られず, 大区への還付案が19人の支 係 して, もっとも疑 惑の多い問題であり, 1 ・断然割戻二決シ然ル上跡ノ 所分可然」 と主張していた 持を得て成立した. 当初吉富は, 「一応ノ のであるが, 国立銀行設立構想にしろ, 再建後の新 しい経営方針が, なんら示されないまま, 本 間提案が行なわれたため, いちじるしく説得性を 欠いたものとなっ た, 結局再建構想は具体化されず, 会社は 「一旦閉店ラナシ, 貸付等ノ連絡ヲ解キ公債証書買入ラ ナス」 と決定されるにと どま っ た. また修甫・囲穀等については, 錯綜している現状の調査を行 なうことになり, これは78年第5回およ び第6回 「社会」 において, 一応の解決がされた, そし て, 協同会社は, 修甫・囲穀の処分の後, 金融機関ならびに印刷業経営として再建されていっ た の で あ る,. さて, 第4回 「社会」 において, 引当米が廃止され, 積金が還付されたことは, 75年以来の農 民闘争の成果であ っ た, 山口県においては, ここには じめて地組の金納制が確立するのである, しかしながら, これによ って問題 が解決したわけではない. 73年度以来の引当米利益の完全な 還付は実現 していない し, 先収会社に対す る安価売却の補償も行なわれなかっ た. また, 民費不 正問題は, ほとん ど未解決のまま放置された. にもかかわらず, 当面の目標であ っ た引当米廃止 が実現し, 積金が 還付されたため, 農民の反対闘争は下降期に入っ た, 「依之ヵ人心へ直接ノ関 ) 」 と吉富は述べているが, 決して完全に消滅したわけで 係ヲ切断セシ故物情日ヲ追テ消滅セリ6 をまない.. たとえば第十九大区 (大津郡) 日置諸村の農民の闘いは, 第五大区 (熊毛郡) 田布施諸 村の闘 いと結合して, 全郡的・全県的闘争に発展していたのであるが, この年の5月に大弾圧を受けて ) す なわ ち, 3月に山口裁判所仮検事局に提出 した 「民費計算向不審御 吟味願」 が, 「検 い る7 .. ・務メテ足下等ノ願書ヲ賛成セシモ 木梨信 一 (県書記官) 等ヨリ内 事局長ノ 林三介ノ 如キハ当初ノ 情ヲ聞キ忽チ議ヲ変 シタリ, 其訳ハ若シ足下等ノ願意ヲ達セシメ ソトスル トキハ, 実二不容易大 トナシトノ隠策二内定セリ」 という事情によ 事ヲ引起ス可クニ付飽マテ圧制ヲ 以テ押附ヶ置クノタ って却下され, やむなく大阪上等裁判所へ出訴 しようとした. ところ が, 代表の町野周吉, 国光 1名の幹部 幸兵衛の二 人が大阪に到着した時, 山口県から追 ってきた捕吏に逮 捕され, 県内でも2 1月 に至って広島裁判所山口 支庁において行なわ が一斉検挙されたのである. これらの判決は, 1 れており, 9月の第4回 「社会」 前後には, いずれも拘留中であ っ た, 第4回 「社会」 が一方で は闘争の指導的 部分に対する弾圧, 他方では吉富一派の巧みな戦術の駆使という状況で開かれて いたことを注目する必要がある. 彼らは, 翌78年5月, 再び態勢を整えて闘争を開始 し, つ いに79年11月28日, 東京警視本署第 三課宛に 「諸修甫米金不正, 民費仕払不正, 馳走米延米仕払不正, 引当米仕払不正之御吟味願」 を提出 している. 町野周吉, 入江辰蔵, 福田伴蔵三名が, 「大津郡外六郡八拾二ヶ村四千三百六 十七名惣代」 として提出 したもので, 元県令中野梧 一, 現県令関口隆吉, 元協同会社々長吉田右 一, 前社長勝間田稔, 現社長高須正輔, 元第十九大区 (大津郡) 区長横山幾大の六名を訴えたも の で あ る,. この訴えも失敗したが, 大津郡民は, 町野周吉を二度も県会議員に当選させてお り, 吉富 をし 、 ス, 町野挙動若法律上二抵触スル事アレハ無 論縛スルノ 注意ノ て 「此清算勘定モ甚懸念ナシトセ、 8 ) ・亦法律ノ免ササル処致方 ナシ 」 と切歯拡 県庁二在テモ無疎事 ト確認候得共, 卒爾二着手難成ノ 捕され 4 年に至 しか し 8 て町野は遂に逮 腕させている. っ , 闘争は敗北した. , 引当米, 民費の精算問題は, 必ず元先収会社幹部としての吉富筒 一を捲き込まずにお かなかっ ー1 10一.
(15) . 鴻城立憲政党の成立過程(その2) た, さらに, 井上馨の政治的進退, 長州閥全体の浮沈にかかわる重大問題 に発展し か ね な かっ ) た9 . だからこそ, 吉富は, 県命に闘争の鉾先を外らせるべく努力 したのである. 註 1 ) 「山口県ノ原況ニ付墜語ヲ左に陳述ス」 ①, 2 ) 「協同会社ニ付各大区代議人山口へ出頭, 会議ヲ催サルル事ヲ間キ代議人各位へ婆心ノ野芋ヲ陳ソト欲ス ル事左ノ如シ」( J ) ,. 3 ) 「今般拾苗円ノ新資銀行創立二付概則左ノ如シ」(本間家女書) , 4 ) 以下 「第四回臨時社会日誌」 による. 5) 「協同会社存廃論」 ◎. 6)5) に同じ,. 7 係書類」 (井上馨文書所収三井文庫蔵写本) による. ) 以下の記述は「協同会社関 ,. 8) 井上馨宛吉富簡ー書翰83年3月14日付, 9 ) 藤田組贋札事件の発端は 「山口県石代米不正一件」 と云われており, 吉富宅の捜索すら行なわれている, その後もこの一件は, 長州閥攻撃の材料と してしばしば利用されている. 拙稿 「明治初年における農民闘 争の展開」(「山口県地方史研究」2 0号) 参照,. ( 5 ) 地方三新法公布前後の政治活動 77年9月● の協同会社第4回 「社会」 の結果, 吉富派のヘゲモニーがほぼ確立する. それは, 反 対闘争に対す る弾圧, 地租引当米問題の 一応の解決を通じて実現したのである, ここに至 って吉富は, 地方制度の改革を強く政府当局者に働きかけ, 大政府の確 立と地方自治 の容認を求めている. たとえば, 回 「陳述」 は, 78年4月の第2回地方官会議の直前に提出 され た建言書であるが, 「地方二坐シ目撃スルコ 状況を纏々述べ, 「追々輸出入ノ 税金改正セラ レ, 次二諸商税分頭税 ヲ 起サ レ, 地税今一般ノ 減略ヲ施行セラレナハ漸次地方焦眉ノ急務ヲ凌キ開化 モ漸進 シ目ラ物品モ繁殖シ, 政府二取りテモ往々却テ損益不砂」 と全面的な税制改革を要望して い る の であ る.. このような要求は, 一般的 には豪農層を先頭とする農民層の要求を代弁 しているの であるが, ただ吉富の場合には, 自由民権運動に敵対しつつ, 「大政府ノ恩威」 に期待するところに, 特徴 的な姿勢がみられる. 「是迄テハ兎角四方二於テ妖雲横タハリ朝憲ヲ犯ス等ノ 事アリ シカ, 今ャ維新ノ 第二維新ノ 時二出テ閣下各位ハ維新ノ元勲真二国家ノ柱石タル事各人ノ矢 ロル所ニシテ 国家御担任モ目スカ ラ深切且ッ厚広ナル炎」 この 「第二維新」 という認識は, すでに77年3月の西南戦争勃発期にもあっ た, す なわち士族 反乱の継起的勃発, 府県庁吏僚の保守性 (「総テ在官モ多クハ尊王穣夷之四字ヨリ官二就キタルモ ・名而己, 其実際ノ ノモ不少, 進歩ノ ・事務揚り兼候弊モ各府県多 力ラソカ」 「人智ノ ・進歩二至り候 県官等ノ ・藩政依然ト相残 得共 」) を指し, 「朝憲未タ不相立」 状況を 「今日之災害第二ノ維新 ト相 ) しかし 成」 と述べている1 今や反乱の鎮圧に成功し . , 大政府のイ ニシアチ ヴによ る 「第二維新」 の遂行を急務とするに至 っている, 彼の抱懐してい た地方制度改革構想に対し, 第2回地方官会議が打ち出 した地方三新法は, ほ ぼ期待に沿うものであ っ た. す なわち, 郡区町村編成法による大区小区制の廃止, 府県会規則に よる地方議会の公認, 地方税規則による民費の整理・統合は, いずれも吉富の満足するところで あ っ た.. 78年5月, 第11大区(小郡宰判, 吉敷郡)第3小区戸長松崎仙 之介は, 戸長の役割を 「県庁二対 シテハ人民ノ総代, 人民二対シテハ県庁ノ目代」 ととらえ, 「仮分官ノ布達スル所 ト難モ亦事ニ ) ョリ上申建言ヲ要スルモノアラ ソ」 として戸長会の設置を提案し, 廻文を各戸長に送付した2 . -111-.
(16) . 田. これに対 し吉富派の本間源 三郎は,. 村. 貞. 雄. 「職制上二於テハ即チ行放官ノ 一部ニシテ人民ノ 総代タル主. 、事ノ擦磯遷延 トナリ」 義ナク」 と批判 し 相互に 「商議ヲ遂ヶ数力ヲ要スル等ノ コトアリテ実際ノ 」 シテ事ヲ爽二施行スルコト 題がある として も 「 独立独断 し妨害を醸す以上 たとえ問 官民に対 , ) を主張 し, 戸長会の開設に強く反対 している3 . 松崎の場 合, 本間が指摘するよ うに, 県会, 区会に対する認識の不充分さ があるが, ともかく ・法ヲ以テ職 制 ヲ尽ス 戸長を 「人民ノ総代」 として把握しているのに対し, 本間が 「今日ノ 戸長ノ コソ緊要」 とその官僚化を支持していることは興味深い. 7年から78年にかけての, 旧戸長の改選, 粛正の過程 があったのであり, 大政 その背後には, 7 府・地方庁の施策に対する完全な忠誠と職 務の遂行が, か って区戸長の弊害を強く 論難した吉富 派から強調されているところに, 状況の変化と吉富派の体制への密着 が窺われるのである. 地方 ) 」)の基盤が, 反 三新法を含め, 78年 ごろより着手される諸改革 (原口清 氏の所謂 「体制的修正4 民権派豪農の政治路線の展開と表裏一体であっ たこと が知られるのである, )が, その 吉富は, 西南戦争後の紙弊濫発問題についても, 地方経済情勢の悪化を訴えている5 姿勢は, 長州間をルー トとする大政府 への 期待を一歩も出なかっ た, 「昨年ノ県会ニモ段々発議者モアッ テ, 県会ノ 決議ニョリ内務卿工上申云々ノ 議論モ数件ア リ, 叉 簡 (吉 富 の こ と - - 田 村) ハ 簡 タ ケノ 愚 接 モ ア リ 上 申 シ度ノ 事 件 モ ア レ ト, 山 口 県 ヨ リ. 云々上 申等ヲ為 スニ至テハ自然差響ヲ生スル事モアラ ンカト 先ッ始テ新法設立ナリ シ初会ノ事 故, 何事モ其会ヲ穏当二畢り度ノ 主義ニテ議員エモ相謀万事打過置キ, 叉然ルニ山口県 ヤ自然 諸県ノ誘フ処 トナリ其以来諸府県ヨリ種々商 会之文章数通二及 彼是於議 員ニモ憤然論判スル者 モ不少, 然 しトモ山口県二同意云々表スル 時ハ是ヲ口実 ト為シ諸府 県ヲ誘フノー ト手始 トモ相 ・無耳無眼愚鈍ヲ極ル人々 ト世間ノ 誹 成, 無何 ト影響モ来ラスヘキ事ト深ク 慮り, 山口県議員ノ )」 議 ヲ 受 ル モ 敢 テ 厭 フ 処 二 非 ス6. かく して 「農民民権」 への敵対と, 「大政府ノ恩威」 へ の期待をこめて成立した吉富派の政治 路線が, 79年以後の県会をリー ドした. 吉富の県会議長 当選, 協同会社々長就任 がそのことを何 よ りも示 している. この吉富派のヘ ゲモニーが, 自由民権運動の高揚と, 県民の闘争の不断の前 進によ って再び危機に陥り, 鴇城立憲政党を結成する過程を, 次章で考察したい. (未完) 註 4日付福地源一郎宛吉富簡ー書翰. 1)77年3月1 2)3) 「本間家文書」 . 4 ) 原ロ清氏 「日本近代国家の形成」 , 5 ) 回 「新鴎語」 および回 「無題」 . 0年1月16日付井上馨宛吉富簡ー書翰. 6) 奪 )8. -112一.
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