244
比
二
十
執行嵐先生の最終懇話(録音テ
l プ よ り ) 名誉教授・故人 執-
-f丁 嵐 一卜-( * 一 九 八
0
年 代 の 教 養 部 で 、 二 一 月 の 最 後 の 教 授 会 の 開 催 日 の 牛 前 中に、その年度末で定年を迎える先生方の談話を拝聴する懇話会と いう行事があった。とこで紹介するのは、一九八八(昭和六三)年 = 一 月 三 三 日 に 行 わ れ た 社 会 学 担 当 教 授 ・ 執 行 嵐 先 生 の 談 話 で あ る 。 と の 懇 話 会 は 、 何 故 か 、 改 組 委 員 会 が 世 話 す る 慣 例 に な っ て い て 、 当時改組委員であった福留が、経済学担当で、執行先生と同じ社会 科学教室に属していたこともあって、司会役を務めた。当時、執行 先生は多少とも緊張する場に臨む際には、事前にお酒を召し上がる 習 慣 を 持 っ て お ら れ ま し た 。 当 日 も そ う で し た 。 ) 執行嵐いこの前は学生さんにはたしか社会学という話をいたしま したけれども、今の社会学の中でも、どうして家族社会学を選んだ かですね。聞くも涙、語るも涙なんです(笑)。というのは、実は 私 は 複 雑 な 家 庭 に 育 っ て い る 、 大 家 族 な ん で す 。 私 は 大 正 一 四 年 一 一 月四日生まれなんですけれども、実は生まれたのは、実際に世の中 に出たのは大正二二年一三月四日なんです。七カ月で飛び出したん ですね。慌て者なんです。これじゃ、まあ、とにかく小さくて、生 きるか死ぬかわからんから、昔は大まんだった、届けたってしょう がないんです。やっとこれ、生き延びれたというので翌年の二月四 日に届けが出ているんですよ。その聞に母親はもう離婚しているん ですよ。それで、私の母ちゃん、また次をはらんでいるんですよ。 私 は 大 正 一 四 年 一 一 月 四 日 生 ま れ で す け ど 、 私 の 妹 は 大 正 一 四 年 一 一 月 三 目 、 紀 元 節 で す ︹ * 一 一 月 三 日 は 明 治 節 。 紀 元 節 は 二 月 一 一 日 。」
「
︿ に 執行先生が錯覚されたものと思われる)。そして、郷里にもらわれ ていってですね、両親が別れて、もう父方は相手にしないから、母 方にもらわれていったんですよ。それで苦労した。そこは大家族な んですよ。もうとにかく後家さんとオールドミスばっかりなんです ( 笑 ) ロ 二 一 人 ぐ ら い お っ た で す 。 人 聞 が 二 一 人 も お る と 、 み ん な が 仲ょくできない。必ず派閥ができるんですな(笑)。大体五人ぐら い で ま と ま る ん で 、 五 、 六 人 で 。 そ れ で 、 派 閥 が で き る ん で す ね ロ あ っ ち行ったり、こっち行ったり、御愛想笑いしとかないかんわけです よ。それで私は本当に家族というのは無くさないかんと思ったんで す よ ね 。 それで、大学に入って家族社会学をやったのは、家族を無くすた めにまずやったんですよね(笑)。との家族主義が日本を悪くした ん で す 。 そ れ で 、 私 は マ ッ ク ス ・ ウ ェI
パ ー を や っ た の も 、 日 本 だ けやったってだめだから、ドイツ語でやってみようというわけで、 マ ッ ク ス ・ ウ ェ1
バ
l
の ﹁ テ ィ1
ペ ン ・ デ ア ・ ヘ ル シ ャ フ ト ﹂ と い う の を で す ね 。 ﹁ 支 配 の 諸 類 型 ﹂ 、 こ れ を 理 解 し な い と 、 家 族 主 義 は 解 け な い の で す よ 。 こ れ を 勉 強 し た わ け で す よ 。 ところが、やっぱり彼女ができるんですね(笑)。それで、仲よ くしたいというので、まだ結婚する前だったですけど、今度はいか にして夫婦は幸福になれるかですね(笑)。夫婦の幸福度の予測研 究です。そして、その次からは夫婦関係のダイナミクス、子供なん か構わんから、ダイナミクスですね。俗に、私はインターツ1
リ ズ ム で や っ て い た ん で 、 イ ン タ ー ッl
リズムというのはですね、結局 集団としてモノをとらえないで、人間と人間の関係としてとらえ る 考 え 方 で ご ざ い ま し て 、 心 理 学 の 人 は よ く ご 存 じ で し ょ う け ど 、 ジ1
・ テ ィl
・ ニ1
ド で す ね 、 シ カ ゴ 学 派 な ん で す よ 。 そ れ で や っ て 、 そ れ は フ ァ ミ リ ー ・ デ ィ ス オ1
ガ ニ ぜ1
シ ョ ン ・ ア ン ド ・ オ l ガ ニ ゼl
ションですね。日本で俗によく﹁雨降って地固まる﹂と言ート-十
て
川
245————●第 3 章 記憶に残るできごと
比
二
十
一卜-いますけど、あれは全く嘘なんです。もともと好いやつは壊れても よ く な る け ど 、 悪 い や つ が 壊 れ た ら だ め で す ( 笑 ) 。 そういうものをやりながら、それでまた婚姻というもの、家族と いうものを、考えれば考えるほど、またさっぱりわからなくなりま した。考えんやつはすぐわかったと言うんですよ(笑)。勉強しと るとわからなくなる。昔、田んぼに水を入れるために、足踏みを踏 んでいましたよね。学問の道はいつまでも無限の足踏みですよロ賓 の 河 原 の 石 積 み で す よ 。 積 ん で は 壊 れ 、 積 ん で は 壊 れ 、 業 で す ね 、 人間の。知恵があったぽっかりに、ばかだったらよかったと思うん で す よ ( 笑 ) 。 も う 業 を 踏 ん で い る よ う な 気 持 ち で す よ 。 し か し 、 選 ん だ 道 、 行 か な い か ん で す わ な 。 最 後 ま で 足 踏 ん で い こ う と 思 う 。 過去を語りたくないんです。私にはまだ未来がある。前を向いて進 もう。振り返るな。それで過去を諮りたくないですけどね。ま晶、 そ ん な 風 に や っ て き ま し た 。 それで、婚姻というのも、なかなかはっきりしないけれども、た だ一言できるんですよね、私は。というのは私にとっての命なんで す、婚姻は。婚姻というのは親を決める制度である。なかんずく父 親を決める制度なんです。だから皆さん婚姻というのは、女の人は 女性を束縛する制廃だと言うかもしれない。それは嘘なんです。男 を縛る制度なんです。おまえが父ちゃんや、逃げちゃいけないとい うのが婚姻なんですよ。だから、父親がいない社会には婚姻という も の は な い ん で す よ 。 そういう例があります。それは南インドのナl
ヤル族です。タ ラ バ1
ドというんです。シプリング・ハウスホールド ( * ω 号 宮 田 町O E
O E
O
-e
と 言 い ま す け ど 、 同 胞 世 帯 で す ね 。 そ れ は 、 兄 弟 姉 妹 、 それから姉妹の子供で世帯を持っているんですね。男は、種付け男 で 、 と れ は ラ バ1
(
*
F
O
話 吋 ) な ん で す 。 日 本 に も あ っ た ん で す よ 、 か つ て は 。 か つ て は ﹁ お ん じ ﹂ 、 ﹁ お ん ぼ ﹂ と い う 存 在 が い ま し た 。」
「
例えば白川村ですね。そこでは長男だけが結婚できるんですよ。次 三 男 は 結 婚 で き な い 。 女 の 人 も 、 長 男 の 嫁 に な れ ば 結 婚 で き た わ け 。 それ以外は結婚できないロしかし、人聞はそれじゃすまんから、適 当にやりますし、ラバーができるんですね。しかし、結婚とは言わ ないで、生まれた子供はどっちにつくかといったら、母親のほうに つ く 。 乙 れ は ﹁ お ん じ ﹂ 、 ﹁ お ん ぼ ﹂ な ん で す 。 宮 崎 に も あ り ま し た 。 福 岡 県 に も 大 分 と の 境 に あ り ま し た 。 あるいはとういう制度がある。アフリカのヌアl
族というのは人 類学でよく取り上げますけどね、ゴーストマリッジ、死霊婚という のがあるんですね。ここでは父親、結婚した男が、子供がないうち に死んだら、どういうことをするか。その兄弟、または従兄弟に よって子供を生ませる、嫁さんに。それで生まれてくる子供が誰の 子になるかというと死んだ夫の子になる。旧約聖書にもあるんです よ。創世記の三八章。ユダヤ人の長老、ユダがですね、長男が死ん だときに、次男のオナンに﹁汝、兄嫁のととろに入りて、兄のため に 子 供 を 生 め ﹂ 。 そ う い う 言 葉 が あ る ん で す ね 。 そ し た ら 、 オ ナ ン は 、 生まれる子が自分の子ではないから、兄嫁のテントに入る前に地に 漏らしたりですね。これはオナニズムの語源なんです。そのことが 神 の 自 に 悪 け れ ば 、 オ ナ ン も ま た 死 ぬ ん で す 。 あ る い は ま た 、 イ ン ド の マ ヌ の 法 典 に も あ り ま す よ 。 サ ピ ル ナ 婚 。 夫によって子供を生むととができなければ、兄弟、または従兄弟に よって、夫のために子供を生め。ただし、そのことで用事が済んだ ら、相手との関係は嫁と男のような間柄でなければならない。田辺 繁子さんが訳した岩波文庫の﹃マヌの法典﹄にちゃんと書いてあり ま す よ 。 奇 々 怪 々 で す よ 。 それで自分の生活からそういうのを、それで私はそういう家族主 義に対してあれでしたから、じゃ、日本の社会もそうだから、やく ざの世界も勉強しました。それからテキ屋も研究しました。例えばート-十
て
川
246
比
二
十
一卜-皆さんたちが、寅さんというのはですね、一匹オオカミのテキ屋で すが、こういうのは殺される、成り立たない。テキ屋は親分子分関 係がなきゃ、親分を持たなければ、絶対生きていけないんですよ。 疑わしい人はここに本を持っていますから読んでください。特にこ れはいい本ですよ。特に福留さんみたいに、僕とどっちこっちの音 痴はですね、歌が歌えんからですね、これを読んで口上ですよ、テ キ屋のですね、これをやると余興になりまずから、ぜひ読んでくだ さ い 。 そ し て 、 皆 さ ん た ち は 、 演 歌 師 な ど と い う の は 結 局 テ キ 屋 の 世 界 、 や く ざ と 違 う ん で す よ 、 や く ざ は た だ 何 と か で ﹁ ご ざ ん す ﹂ と 、 ﹁ ご ざんす﹂を下げる。テキ屋は﹁ござんす﹂と上げないかん、語尾を ですね。それですぐわかるんです。例えば、石田一松、参議院議員 にもなったことがある演歌師ですね。とれも結局飯島一家の涜れで すよ。実は岡晴夫もそうですよ。パタゃんもそうですよ、田端何と かというのがおるでしょう。演歌師の中にずっとそういう流れがあ る ん で す よ 。 何 で そ う い う の を 知 る か と い う の は で す ね 、 親 分 で す 。 親分、子分というのは日本だけじゃないんですよ。カトリックの 影響のある社会にも相当ありますよ。ジャマイカ、コンパレド制、 だいふ コンパレド制というのは結局、代父制なんですよ。代用のダイ、チ チ で す よ 。 結 局 命 名 、 洗 礼 の で す ね 。 親 に な っ た ら 子 分 に す る 。 フ ィ リ ピ ン に も あ り ま す よ 。 カ ト リ シ ズ ム { * 口 同 居 。 ロ 己 盟 国 -が あ り ま ず から。日本の隠れキリシタンにもありますよ。代父のことを何とい うか。日本の古来からの言い方で、﹁へと親﹂と言います。で、何 で も く っ つ い て い く ん で す ね 。 余 り 言 つ で も あ れ で す か ら 。 言 い 出 し た ら 止 ま り ま せ ん か ら ね 、 早 く や め ん と ︹ 笑 ) 。 皆 さ ん が 本 当 に 立 派 な 話 を 長 々 と さ れ た ん で 、 私は早く止めようと思つんです。それで、老兵はただ消えていくの みなんです。一生懸命勉強したことは勉強しましたけれども、私の」
「
如きは大したことはできませんでしたし、世の中に貢献する己とも な か っ た と 思 い ま す 。 た だ 、 [ 聴 取 不 能 ] さ ん じ ゃ な い け ど 、 ま あ 、 母ちゃんを大事にしたことだけが私のあれです(笑)。これまでの 人生も、子供は信用できませんわ(笑)。いかに残された老夫婦が 仲よくやっていくか、そういう研究でもしようかなと(笑)。結局 は威張らんこと、﹁うん、うん﹂と言っておけばいい。あせらんで すなロ腹立ちます、僕は痢癒持ちですからねロただ、私は感情家で す け れ ど も 、 ま た す ぐ 忘 れ る 。 そ う い う 育 ち な ん で す よ 。 小 さ い こ ろ 、 親がいないですからね、婆やたちに育てられた。婆やというか女中 で す ね 。 二 、 三 年 す る と 、 ﹁ ね え や は 嫁 に 行 く ﹂ で 行 っ て し ま う ん で すよロ僕は泣いて追っかけていきょったですよ、一里、二里、走っ て 追 っ か け た こ と も あ り ま す よ 。 し か し 、 も う あ き ら め る ん で す ね 。 それを繰り返していくうちに、一つも私は別れがあんまり苦になら な い ん で す よ 。 も 、 こ れ で 止 め ま し ょ う 、 一 番 短 い 話 で 御 免 な さ い 。エ
ニ
ユ
ケ
l
シヨン・プリ1
ズ ( * 自 ︺ 主E
g
号
p
M
-O E
O
-) (
笑 ) 。 家族についてはいろいろ学者が多い中で、私がいろいろ本当はでき る。開発したことはないけど、人のやったととは大抵記憶していま ずから。いろいろな家族がありますよ。今言ったように婚姻がない 社 会 も あ っ た こ と は あ る ん で す ね 。 そ し て 、 最 初 に 言 い ま し た よ う に 、 私 も 一 二 人 く ら い 家 族 が お っ た ん で す け ど 、 分 裂 が 起 こ る 。 大 体 い ろ ん な も の に お い て で す ね 、 適正規模というのがある、と私は思うんです。家族は四、五人が精 いっぱいです、情動的な結びつきをしようと思ったら。学校で、人 格 教 育 し よ う と す れ ば 二O
人までですよ。大学で人格教育、馬鹿な こ と を 言 う な と 、 百 人 も 集 め て 。 こ れ で は 知 識 の 切 り 売 り し か な い んですよ。それを嘘八百言って人格を何とかと言うから、間違いが 起 と る ん で す よ ( 笑 ) 。 国 で も 、 日 本 み た い に 一 億 ぐ ら い だ っ た ら 、 民主的な総理大臣、竹下の馬鹿、中曽根の馬鹿と言ってもいいですート-十
て
川
よ 。 人 口 一
O
億になってごらんなさい。毛沢東の馬鹿と言ったら殺 されますよ。権力持たないかん。馬鹿と言えるのは一億までですよ。 適正規模があるんですよ。ただ大学は、だから多くていいんですよ、 知識の切り売りと思えば。そうしたら、スタッフをたくさん持つこ とができるから、いろいろの知識を得ることができますよ。このあ たりを考えて、今の大学で人格教育ができると思うのが、そもそも 私は間違いだと思う、はっきりあきらめましょう。できゃしないん ですから。こういう錯覚なんですよ。人格教育はまた別の場、かあり ますよ。こういうところが頭の悪い奴には││(笑)。私は人にす ぐそういうことを言うて、やりそこないましてね。私はこれから浪 人ですよ。決して好んで浪人になったんじゃないんですよ。誰も呼 んでくれないから浪人なんですよ(笑)。考えてみれば論語の為政 編に、これは子張という人が、禄を求むるを学ぶ。どうしたら就職 できるか、孔子に聞いたんです。孔子が﹁多くを聞きて疑わしきを 快き、その余を言えばとがめ少なし。多くを見て疑わしきを映き、 その余を行えば悔い少なし。言(げん)とがめ少なく、行い悔い少 なければ禄その内にあり﹂。そうしたら向こうから就職を言うてく る。考えてみれば私は、言とか行いに悔い多し(笑)。これはやっ ぱり無理ですわ(笑)。人生というのはそういうものです。 それで私も、今度は宴会(*午後教授会の終了後に開催される送 別会を指す)のときはもう言いませんけどね、しょうがないから。 けれど、私は案外運がいいんです、育ちは悪いけれども、大金持ち にもらわれて、ずっと養子、養子で来て、銭をためてる、銭がある ところにだけ養子に行っているんです(笑)。今度また養子に行く んですけどね、そこは不動産業ですよ。不動産業というのはですね、 このごろの言葉です。(*昔の言葉で言えば)地主です。不動産業 の手代でもちょっとしながら、郷里(くに)と博多を行ったり来た り。しかし、博多からは去ろうと思わない。サミュエル・ジョンソ ン、ドクター・ジョンソン(*ωmgc 巳 ] O F ロ ω o p u 吋 ・ ] O } 5 8 ロ ) の 言葉を借りれば、博多に飽いた人聞は人生に飽きたのであ!る。で、 博多で生活はしようと思います。 どうも失礼しました、要らぬことばかり言って。(拍手)。 ありがとうございました。しかし、(笑)。流れる涙は隠すことで き な い 。 ∞ 君 。 2 Z E ∞ 印 ︿S
一 回 。 毛 色 0 4 ︿ ロ ω o 邑 可 江 口 目 。 ロ 己B u
、 ω O D ∞ -麗しの樋井川よ、優しく流れよ、我、か歌の尽きるまで。ちょっと 街 学 的 や け ど 、 お れ 。 ( 拍 手 ) 。 し 福 ご 留 ざ 久 い 大 ま・・ す 大 の 変 で 愉 、快 何 な か お 執 話 行 で 先 生 あ に り 質 が 問 と が う あ ご れ ざ ば い o ま し が す き に こ ま 懇 す 教 で ざ か い し た と o た さ こ す 親 し 授 す い そ o か た o う ど い せ で の 会 、 会 の ま れ が G ご う と て 打 で も そ も で せ で で 時 翌 ざ も 思 い ち 、 ご の あ 、 ん は し 間 否 い あ い た 切 ー ざ 後 り ま よ 、 ょ が O ま り ま だ り 応 い の ま た う ご う 少 Y亙払 後列左から執行嵐(社会学)、横田耕一(日本国憲法)前列左から大西孝子(祉 会科学教室事務)、福留久大(経済学)1970年代初め、社会科学教室にて。 旧社会科学教室アルバムより 247一 一 → 第3章宏震に残忍できごと248
比
二
十
鳴
呼
、
わ
が
青
春
﹁
六
本
松
﹂
町 内
田 町
1
0
円 四m
g
。
同
同
町
﹃
E
R
巳
可
。
。
=
童館大型毛誉重二見剛史
一卜-教育学部の平塚益徳教授が私の母校加治木高校で謹開演されたのは 昭和三四年、その内容に感銘された久保平一郎校長が溝辺のわが家 に来られ﹁小原因芳・鯵坂二夫先生らのよき理解者でしたよ。ぜひ 息子さんには九大受験を﹂と言われたらしいのです。 鹿児島師範で小原先生と机を並べた間柄の父、末っ子老教育界に 進ませたいのが本心の様子でした。当時一浪中の私は英数学館で受 験勉強の仕上げに励んでいましたロ幸い成績も九大ラインに達して きたので、父の勧めに従い九州大学一本に絞りました。五倍の難関 を越えて﹁オヤジヨロコベタケシ﹂の電報に家族は小躍りした そ う で す 。 六本松でのクラスは﹁文一の三﹂、文学部の一部と教育学部をま と め た 約 五O
名、その八割は福岡県出身、鹿児島県からは私一人で し た が 、 五 月 に は 早 く も 親 睦 会 を 結 成 し 仲 間 づ く り に 精 出 し ま し た 。 大学生になった実感は時間割の自主扇成、教養科目全般に加えて語 学では英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語までびっしり、ノー トの何冊かは日記と共に保存しています。 サークルは弓道部・茶道部・ ESS そして結局落ち着いたのが教 育研究会でした。河合栄治郎著﹃学生に与ふる書﹄をテキストに読 書会、学園祭では旧制福岡高校の寮を改造した部室に泊まり込みま した。フアイヤ1
ストームの思い出も過ぎります。箱崎キャンパス から見学に来られた先輩に﹁大学生活の道のりは長いんだヨ。ゆっ くり遊んでから学部に来なさい﹂と言われたのを覚えています。」
「
世相は安保反対の頃、学生運動でボイコットを受け教室に入れな か っ た り 、 天 神 周 辺 の 電 車 道 で ジ グ ザ グ ( 問 問 N m 凹 ) デ モ を や っ た の も遠い思い出です。明善の二人と加治木の二人計四人で六畳二聞 を借りカーテン間仕切りの生活も貴重な体験です。部屋代は一人 千五百円、学食だと朝二O
円、昼三五円、みんな質素倹約の生活で した。でも、博多名物﹁山笠﹂を見学したり、小旅行やキャンプ、 映画にはちょくちょく出かけました。﹁勝利なき戦い﹂もその一つ で す 。 ソ連のロケット月面到着やロI
マ五輪等で世界への夢を描いた 日々でもありました。イラクから医学部に来た留学生に乞われ、図 書館で英字紙の社説を解説したのは満二O
歳の頃、私は英文日記を 楽しんでいました。語学力を伸ばしたいという気持と、青春の悩み や自分の理想を外国語の世界で表現したかったのかも知れませんロ 春夏秋冬それぞれの長い休暇には必ず帰省し農業の手伝いをして います。あれから半世紀、父母の齢に達した今、﹁親もきっかった ろうナ、でも息子が手伝ってくれた時は嬉しかったかもナァ1
﹂ と 思うことです。大学進学記念の池に寄せて父は詠んでくれました。 コニ四の夏、皆で造りしこの紫泉、永遠に清水を湛へてしがな﹂﹁努 力 し て 事 の 成 る 日 の 嬉 し さ は 、 わ れ 一 人 知 る 神 の 面 影 ﹂ 。 わずか一年半の時空なのに、たくさんの出会いがありました。初 恋は実りませんでしたが、のちに良き伴侶を私に紹介し月下氷人の 大役を引き受けて下さったのはラテン語の先生でした。六本松は﹁人 生劇場﹂の濫筋でもあったのでしょうか。懐かしい故郷・ハイマ l ト2
E
旦です。E H a
官E
m
自己主
E
E
可2
・ 色 四 国O B
n z
このたび、わが青春﹁六本松﹂を振り返る機会を与えられ、私は 何たか今、夢の世界にいるような気がしてなりません。 宮 司 ロF O
E n
E
司 ・ート-十
て
川
249————●第 3 章 記憶に残るできごと
比
二
十
六本松学生時代の思い出
福岡市博物館館長西
憲一郎(昭型プ七年入学) 一卜-昭和三七年春、私たちは大分上野丘高校を卒業し、九州大学に入 学しましたロ同じ九州であっても大分の言語文化は瀬戸内海を向い ていたようで、方言ものんびりしています。しかし大都会福岡に出 てきて、まずコはってんがくさ﹂など今まで聞いたこともない強烈 な 方 言 に 驚 き 、 ま た ど こ ま で 乗 っ て も 料 金 ( 一 人 二 ニ 円 、 往 復 三 五 円 ) が変わらない市内電車にピックリし、﹁さすが福岡じゃのう﹂と感 心したものです。当時六本松の校舎は古めかしい旧制福高の木造の 建 物 で 、 風 格 の あ る 本 館 を 通 り 抜 け る と 学 生 控 え 室 ( ミ ル ク ホ ー ル ) があり、その先に新館と呼ばれるコンクリート三階建ての教室棟が ありましたが、両側に並ぶ教官室などは昔のままの木造でしたロ仲 間の半分は田島寮に入れたのですが、私は大濠公園近くの下宿屋に 入りました。木造モルタル造りの家で私の部屋はトイレの横の四畳 の 部 屋 で し た が 、 九 州 各 地 か ら 一O
数名の学生が来ていて、朝晩締 麗な女主人の作ってくれる食事を食堂で一緒にとるのが楽しみでし た。夜は誰ともなくどこかの部屋に集まり、天下国家のことから人 生 論 ま で 硬 軟 と り ま ぜ て の 先 輩 た ち の 話 に 目 を 輝 か せ た も の で す 。 六本松教養部の授業は、学部専門課程に進む前の一年半外国語科 目や基礎教育科目を受けるのですが、当時の日記を見ると第二外国 語(私はドイツ語)に悩まされたこと、また何といっても前期と後 期 の 試 験 が 最 大 の 苦 し み で あ っ た こ と が 分 か り ま す 。 そ れ を 除 け ば 、 自分自身で時聞を自由に使うことのできる真に貴重な時期でした。 大 学 に は 文 化 芸 術 、 体 育 系 な ど 六O
近 く の サ ー ク ル が あ り ま し た が 、 私 は ま じ め に ﹁ 法 律 研 究 部 ( 法 研 ) ﹂ に 入 り ま し た 。 入 部 早 々 か ら ﹁ 権」
「
利 の た め の 闘 争 ﹂ 、 ﹁ 国 家 と 革 命 ﹂ な ど の 洗 脳 的 読 書 会 が つ づ き 、 段 々 と政治的なイデオロギーに親しんでいったものです。当時の九大生 は我々に限らず皆政治的な関心も高く、デモにも多く参加していま し た 。 n 米軍板付基地へのF
一O
五 配 置 反 対 u など叫んで束中洲で 機 動 隊 と 採 み あ っ た り も し ま し た ロ 学生はよく引っ越しをします。引っ越しは簡単、リヤカー一台に 荷を乗せ友達が加勢してくれてすぐ終わります。半年ほどで浜田町 の二階に引っ越しをしました。隣の住人は壱岐からの医学生で、彼 とよく市街ウオッチングに出かけました。との頃は旧博多駅の時代 で 、 古 色 蒼 然 と し た 駅 舎 の プ ラ ッ ト ホ ー ム に 、C
五 七 蒸 気 機 関 車 に 引っ張られて入ってくる特急あさかぜの雄姿を胸躍らせて見物して いました。移動はもっぱら市内電車ですが、城南線は道路の中央が 電車専用軌道となり、舗装していません。とこは運転手も気持ち良 いらしく、大正時代の木造電車などが左右に車体を激しく揺らしな がら猛スピードで練塀町の坂を六本松へ下っていました。天神町に も よ く 出 か け ま し た 。 我 々 の 定 番 コ1
ス は セ ン タ ー シ ネ マ で 三 本 立 て 一OO
円の映画を見、味のタウンのナイルカレーで食事をして帰 る と い う も の で す 。 食 事 と い え ば 日 常 は 大 学 内 の 生 協 食 堂 で 定 食 ( 朝 四 五 円 昼 夜 六O
円)と時々豪華にトンカツ(八O
円 ) を 食 べ て い ま した。また呉服町の日立ファミリーセンターや電気ホ1
ル で の ス テ レオコンサート(生演奏ではない、音響機器のみ)は金の無い芸術 的 学 生 の 楽 し み で し た 。 テレビも冷暖房器もパソコンも無いこの頃の学生生活は、今思え ば奇蹟の様な一時期でしたが、情報氾濫の嵐に探まれ、就職戦線に 苦労している今の学生たちに一度味わせてやれたらなと時々思うも の で あ り ま す 。ート-十
て
川
250
比
二
十
六本松の想い出
福岡市総合図書長植木とみ子(昭和四四年法学部幸) 一卜-その年大学紛争のあおりで東大の入試が中止になり、急逮変更し てトライした九大の入試もまた、全共闘の学生の妨害を避けて、直 前に試験場が学外に移された。入学式にもヘルメット集団が闇入し て 一 悶 着 あ り 、 始 ま っ た 学 生 生 活 ロ オリエンテーションで同じクラスの人たちと自己紹介しあい、誘 わ れ て 何 度 か 街 頭 デ モ に 参 加 し た ロ 間 も な く 教 養 部 全 学 集 会 が あ り 、 無期限ストに入った。学校に行っても豊南はないし、机や椅子のバ リケードで封鎖された教室に入ると、いろいろ落書きしたヘルメッ ト を 被 っ た 何 人 か の 同 級 生 が 、 所 在 な く 本 を 読 ん だ り し て い た 。 ともかく暑く、無気力な夏だった。私はこの夏、岩波新書の心理 学関係のほとんど全部を読破した。記録によると一O
月 一 四 日 に 、 機動隊による封鎖解除がなされている。私は電車道の向乙うから、 催 涙 ガ ス 、 高 圧 放 水 と 火 炎 瓶 の 攻 防 を 見 て い た 。 全学集会を聞いてストを終結させたのは、その前だったはずだ。 スト解除のための差事開催させるために、私は全共闘の各会派の リーダーを訪ね、説得して回った。一人一人の王宿を訪問し、部屋 に上がり込んで同意を取り付けたのだ。初めて男女の学生が同棲し ている部屋に入って、不思議な気がしたことを今でも鮮明に覚えて い る 。 六本松の後半は、前教養部長の川口武彦先生との出会いから始ま る 。 授 業 が 再 開 さ れ て す ぐ に 、 ど ん な 経 緯 だ っ た か 定 か で は な い が 、 川 口 先 生 か ら 呼 ば れ 、 ﹃ 堺利彦全集﹄の出版のお手伝いをすること になった。明治・大正時代の堺利彦の著述を集めて、現代仮名遣い」
「
に 書 き 改 め る 仕 事 で あ る ロ こ こ で 同 じ く お 手 伝 い を し て い る 文 学 部 の 助 手 や 、 新 聞 記 者 や 、 数人の先輩と知り合い、また竪削の社会主義関係の新聞などを丹念 に読む機会を得た。原稿の締め切り間際になると、近くの旅館にみ んなで泊まり込んで、徹夜に近い作業もしたロ届屋物を取って食べ る こ と を 覚 え た の も 、 こ の と き で あ る 。 教 養 部 の 表 門 の 真 ん 前 に あ っ た 、 そ ば 屋 ﹁ 大 江 戸 ﹂ の ﹁ 天 と じ 井 ﹂ が お い し か っ た こ と 。 先 生 の 関 わ っ て お ら れ た 組 合 運 動 の 学 習 会 に も 何 回 か 出 席 し て 、 その後の懇親会にも加わり、国鉄や郵政の労働現場の人たちとも懇 意 に な っ た 。 し か し 、 先 生 は ﹁ あ な た に は あ な た の 本 分 が あ る ﹂ と 、 私に運動への参加は要請されず、むしろ幅広くマスコミや山川菊栄 さ ん な ど 当 時 の 著 名 な 方 々 を 紹 介 し て く だ さ っ た 。 本学に進学するに当たっては、﹁法学部では、有地教授が柔軟な 考え方を持っているので、君に合うのではないだろうか﹂と、貴重 なアドバイスもいただき、私はその通りにした。有地亨教授には、 学問の師としてそれ以来ずっと今日までお世話になった。私の今日 あ る は 、 こ の お 三 人 の 先 生 の お 陰 で あ る 。 も ち ろ ん と の 問 、 家 庭 教 師 の ア ル バ イ ト を し 、 恋 を し 、 旅 行 を し 、 つまり普通の大学生活を目一杯楽しんだが、しかし、何と言っても 私の六本松は﹁大学紛争﹂と﹁川口先生﹂、乙の二つを抜きには語 れ な い 。ート-十
て
川
251————●第 3 章 記憶に残るできごと
ι
六
本
松
、
九大物理研究部の想い出
田中卓史(昭和三八年入学・九州大学工学部電子工学科卒) 昭和三八年(一九六三年)五1
六月頃、六本松の九大教養部正門 前で撮った物理研究部のメンバーの写真です。左から田中卓史、柴 田洋二、三角修一、有馬さん、長沢勲、奥田秀夫です。私、田中は 九大で助手をした後、国立国語研を経て福岡工大の教授に、学生運 動で活躍した柴田君は日立製作所に、三角君は三和銀行を経てソフ トの会社に、一年先輩の有馬さんはどうされたかな?学生服の長 沢君は九大の講師を経て九工大の教授に、背の高い奥田君はシャー プに就職しました。皆、定年退職の年齢になっているので、既に 退職されているかも知れません。下駄履き、学生服、か時代を感じさ せますね。後ろには二階建ての木造校舎も写っています。J
昭和38年5・6月頃の六本松教養部正門 に 三 場 は こ て い に た 験 の 験 と 研 し ー 外 動 は 年 だ ク の し 方 あ 。 な 実 、 、 究 た 部 れ 場 当 模 下 つ ラ 時 ま を つ 物 ど 験 偏 真 発 手 を の の 時 擬 の た ブ 代 し マ た 理 を 、 光 空 表 園 借 物 手 の ! 吉 弟 の の の 本 ス 旋 の や 無 と 放 を 依 り 理 前 部 か の で 発 学 ま タ 盤 実 り 線 光 電 や 宅 て 教 一 、 室 雪 時 宗 表 園k
l
も 験 ま の 弾 の ろ 色 い 室 東 は り 代 、 の 祭 Oし 使 室 し 実 性 実 う 々 ま の の 運 学 園 祭 が 次 第 形 を 治苛 5ζ え て 千丁 き ま し た IfII"" 新しくできた学生会館の屋上 (1964年秋) 昭和三九年(一九六四年)の三月には一年間の活動の研究成果を まとめるため、ガリ版刷りの部誌を創刊しました。その効果、かあっ てか、四月には新しい部員が沢山入ってくれました。研究以外に遠 足をやったり合宿をしたり、楽しいことを沢山しました。紅一点の 桑野幸子さんは薬学部に進まれたけど、その後、どうなされたかな? 同年秋は東京オリンピックが行われました。ちょうど同じ頃、学 生会館が完成して、部室は学館に移動しました。同時に私達も六本一
252
ι
松を去り、箱崎の本学へと移りました。 人生を振り返ると、六本松で過ごした一年半は受験勉強から開放 され、自由を満喫できた充実の期間だった気がします。クラブで直 接知り会えた先輩、後輩はわずか一年に過ぎませんが、物理研究部 の O B 会はインターネット、か普及する以前のパソコン通信の時代か ら、メーリングリスト(心七円)ができていて、私の時代から現役 の学生まで百数十名、世代を越えてネット上での会話が成り立って い ま す 。」
真空放電の実験器具製作中の田中、長沢「
文芸部部室と無邪気な夢
昭和四三年入学 文部科学省主任教科書調査官白石良夫
クラブのトランプミーテイング(鈴木俊雄、桑野他) 昭和四二年のたしか五月から、わたしの福岡生活が始まった。下 宿のあった堤からパスで六本松を通過して、天神の予備校に通った。 パスの窓から見た六本松教養部は、新築の本館のこちらがわに、ま だ木造の建物のある風景であった。 堤は福岡大学の学生の下宿がおおかったが、七隈キャンパスはま だ、いかにも丘陵を切り拓いたばかりといった雰囲気を醸していた。 福大だけでなく、下宿の周辺、か田園地帯だった。最寄りのバス停ま では切通しを抜けて、両側が田んぼの田舎道を歩いていた。 その年の暮れから正月にかけて、福岡の町は騒然としていた。ア メリカ原子力空母エンタープライズの佐世保入港が決まり、全国の 反戦運動家が福岡を前線基地として結集しはじめた。羽田事件直後 の、反日共系学生の重点闘争であり、ベトナム戦争ともからんだ 七O
年安保闘争が本格的に始動しはじめた事件であった。空母入港 は一月一九日であったが、年末年始から、市内のあちこちで機動隊 と学生とのあいだでこぜりあいが繰り返された。 翌四三年四月、九大に入学したとき、本館前の木造はなかった。 わたしの六本松での生活の中心は、文芸部の部室にあった。本館 のほうから学生会館に行く道の右手に、木造平屋のサークル棟が あった。みじかい廊下をはさんで、コ一部屋、ずつ、都合六つのサーク ルが、オンボロ長屋と通称される建物のなかに同居していた。その 裏には、水泳部のプ l ル が あ っ た 。 入学して一と月にもならないころ、学生会館の食堂から教室にむ かうわたしに声をかける者、かあった。文芸部の窓がおおきくあけら253————●第 3 章 記憶に残るできごと
比
二
十
一卜-れていて、そこから、オリエンテーションの世話をしてくれた文科 二 年 一 組 の 赤 塚 正 幸 と 蒲 池 信 義 が 笑 い な が ら 、 手 招 き し て い た 。 ﹁ い ま か ら 授 業 ? ﹂ ﹁ い え 、 四 時 限 固 ま で は 空 い て ま す ﹂ ﹁ ち ょ っ と 話 し て い け よ ﹂ そう言われて、わたしは、たまたまそこにあった椅子に足をかけ て、窓を飛び越えて部室に入ったロぞれがわたしの文芸部入部の儀 式だった。大きな机と、どこからもってきたのか、頑丈な木の椅子 だ け の 、 何 も な い 部 屋 で あ っ た ロ 赤 塚 は 、 机 の 上 の 紙 包 み か ら 、 ﹁ 出 来 立 て の ホ ヤ ホ ヤ ﹂ と言って、一冊の小冊子をわたしに手渡した。それが教養部文芸 部 の 雑 誌 ﹃ 壇 ﹄ で あ っ た 。 ﹁ な ん と も 、 こ の 意 匠 は セ ン ス が な い ね え ﹂ と 蒲 池 は 、 冊 子 の 表 紙 を 見 な が ら 言 っ た 。 ﹁ お ま え 、 え ら そ う に 言 う だ け で 、 作 品 も 書 か な い く せ に ﹂ ﹁書いてると、おまえの詩みたいなおセンチなものになって、な ん と も や り き れ な く な る ﹂ そのときどんな話題がでたのか、記憶にない。それほど話がはず んだわけでもなかったが、といって、気まずい沈黙に悩まされると と も な か っ た 。 部 室 の 窓 か ら は 、 サ ッ カ ー の ゴ1
ル ネ ッ ト と ま だ 木 湾たった体育館が眺められた。赤塚はときどき、﹁花の首飾り﹂の フ レ ー ズ を 口 ず さ ん で い た 。 そ の 日 、 結 局 、 四 時 限 目 の 霊 歪 は 出 ず 、 夕 方 ま で 部 室 で す ご し た 。 ﹁ 晩 飯 は 、 生 協 に す る か 。 お れ の 下 宿 の 近 く の 定 食 屋 に す る か ﹂ そ う 蒲 池 は 言 っ て 、 わ た し も 誘 っ た 。 ﹁ す み ま せ ん 。 飯 付 き の 下 宿 な も ん で 、 も う 帰 ら な き ゃ ﹂ わたしは、入学を機に、堤から鳥飼一丁目の下宿に移っていた。 堤のときとおなじく賄い付きであった。とれは予備校生には最湾た」
「
が、自由気ままな大学生生活では、朝食を食いはぐれないために寝 坊 は で き ず 、 夕 食 も 八 時 ま で 帰 ら な け れ ば な ら な か っ た 。 そ の プ レ ッ シャーに耐えられなくなって、わたしは七月に、教養部の裏の谷二 丁 目 の 、 間 借 り だ け の 下 宿 に 越 し た 。 その翌日から、わたしは文芸部の部室から授業に行って、終われ ばまた部室に帰ってきた。あのころ、日がな一日、なにをして暮ら し て い た の だ ろ う 。 文 芸 部 と い っ て も 、 隅 の 本 棚 に 、 数 冊 の 文 芸 雑 誌 と 売 れ 残 っ た ﹃ 壇 ﹄ のバックナンバーがあるだけの部屋であったロ部室には赤塚や蒲池 の友人と称する三年生が出入りしていたが、だれが文芸部員である の か 、 よ く わ か ら な か っ た 。 そ う い う わ た し -も 、 正 式 に 部 員 に な っ たのかどうか、暖昧なままであった。部費をとられるでもない、こ れ と い っ た 活 動 を す る わ け で も な か っ た 。 そ の う ち 、 わ た し の 友 人 の 一 年 生 も 部 室 に 出 入 り す る よ う に な っ た 。 か れ ら も 部 員 か ど う か 、 本 人 さ え は っ き り し た 自 覚 が な か っ た 。 わたしにとっての六本松キャンパスのはじめ半年は、文芸部以外 では、エンタープライズ事件の余韻ただよう政治の季節であった。 一 年 上 の ノ ン ポ リ 学 生 た ち か ら は 、 佐 世 保 で の デ モ 参 加 の 得 意 げ な 話を聞かされた。もっとも、政治問題に関心のふかかった当時の学 生とはいえ、安保条約やベトナム戦争、原子力空母入港は、学園生 活とは直接の関係がない。デモに参加したり議論したりしても、ど こか観念的な世界のことであった。ところが、入学後二か月たった 六月二日、われわれ九大生が無関係でいられない、とんでもない大 事 件 が 起 こ っ た 。 板付米軍基地のジェット戦闘機が夜間飛行訓練中、とともあろう に理学部構内に建設中の大型電算機センターに墜落したのである。 エンプラ闘争後いまひとつ盛り上がりに欠けていた九州の反戦運動 に恰好の火がつき、墜落現場の周囲には、反日共系学生たちがパリート-十
て
川
254
比
二
十
一卜-ケ1
ド を 築 い た 。 文芸部という姿かたちがわたしに見えたのは、入部して半月後、 ﹃ 九 大 文 学 ﹄ の 合 評 会 の と き で あ っ た ロ ﹃ 九 大 文 学 ﹄ は箱崎の学部の 文芸部の機関誌で、去年進学した狩野博幸や津上直樹・碇浩一・諸 熊勇助などが執筆していた。東中洲のレストランの一角を借り切っ て、近辺の大学の文芸部員が集まった。狩野や津上とはそれが最初 の出会いだった。それからしばらくして、﹃壇 ﹄ の合評会が教養部 正 門 前 の 喫 茶 底 ﹁ 琉 拍 ﹂ で お こ な わ れ た 。 守 九 大 文 学 ﹄ の 執 筆 者 も や っ て来て、後輩の作品を遠慮なく斬った。 その﹃九大文学﹄に載った津上の﹁ロビンソンの島﹂が﹃文学界﹄ の﹁同人雑誌評﹂で批評されたロわたしたちにとって、中央の専門 の文芸雑誌、しかも芥川賞・直木賞にいちばん近い雑誌に取り上げ られるのは、至上のととであったロ狩野が前年の ﹃ 文芸﹄の学生小 説コンクールの最終選考まで残ったということを知ったのは、﹃九 大文学 ﹄ 合評会のあとの懇親 γ 会の席だったと記憶している。何々大 学文芸部のだれそれが何々新人賞の一次選考を通ったとか、九大新 聞主催懸賞小説﹁松原賞﹂の入選作の出来がいまひとつだとか。そ ういった話題が、わたしの耳にさかんに入ってきだしたころ、わた しも作家になるんだ、と漠然と思っていた。 わたしが現代小説ばかり読んでいたからなのか、戦後日本文学史 のなかでも、このころが﹁小説の時代﹂であったような気がする。 大江健三郎の﹁万延元年のフットボール﹂が話題になり、大江 の最初の全作品集が出た。小説中心の文学全集花盛りのころであ り、集英社の日本文学全集が安部公房集を一冊にするという英断 で、それに﹁第四間氷期﹂と﹁他人の顔﹂および短篇数本が収まり、 二 九O
円。当時でもとれは文庫本より廉価感があった。重厚さとは ほどとおい赤い表紙のこの文学全集を、おそらくおおくの文学青年 が、持って歩くには恥ずかしく、こっそり下宿で読み耽ったのでは」
「
ないかと思うロ大正・安部のほか、遠藤周作・石原慎太郎・開高健・ 安岡章太郎といった、油ののりきった作家が、新潮社の書下ろしシ リ ー ズ を 精 力 的 に 書 い て い た 。 箱崎の理学部構内の建物に突き刺さったファントムの残骸は、九 大学生運動のシンボルとなっていたが、それが年末のある夜、忽然 と 姿 を 消 し た 。 見張り役の活動家たちが全員、現場を離れたすきのできごとで あったという。だが、わずかの時聞に、だれにも気づかれず、どう やってあの巨大な機体をおろし、だれがどとに運んだのか、謎が謎 をよぶとはとのことで、さまざまな憶測がとびかつて、無責任な小 説もあらわれた。東京では、例の三億円強奪事件があった。 さきの松原賞は、その選考委員が毎回交代していたが、かつて高 橋和巳が務めたこともあると聞いた。もっとも、高橋が委局たった のはまだ駈出しのころであって、わたしの六本松時代には、前途有 望な新進気鋭の涜行作家であったロ 前途有望といえば、庄野潤三の小説﹁前途﹂が出版されたのもそ の と ろ だ っ た 。 庄 野 は 戦 時 中 、 九 大 文 学 部 東 洋 史 の 学 生 で あ っ た 。 ﹁ 前 途﹂は、おなじ東洋史の一年上の島尾敏雄らとの交遊を、日記形式 で綴った作品である。平尾の下宿をでて歩くところから小説は始ま り、庄野らしい抑制された語り口で戦時中の学生生活が綴られ、島 尾の出征を見送る場面で終わる。わたしの自には、まさに古きよき 時代の九大文学部の青春がそこにあった。 わたしの文学への憧れは、プロの作家になるという夢想に育って いった。わたしが松原賞に応募したそのときは、選考委員が小川国 夫であった。乙の無名作家(当時は)に、﹁読み手に理解してもら おうという底意が見え透いている﹂という一言で、わたしの作品は 切り捨てられた。はじめて活字になったのは、教養部一年の終わり、 三月発行の﹃壇﹄一四号に載せた二篇の小説である。題名からしてート-十
て
川
255————●第 3 章 記憶に残るできごと
比
二
十
一卜-セ ン ス を 疑 う ( だ か ら 、 己 こ に は 出 さ な い ) 。 若 さ が 空 回 り し て 、 わたしの過去から消し去りたい出来であった。大江健三郎を気取っ た と い う 己 と が す ぐ わ か る 。 そのころすでに、学生たちは政治問題から冷めていた。九大闘争 のシンボルが神隠しにあったように撤去され、反日共系学生たちの 内 ゲ バ が た び か さ な っ て 、 共 有 さ れ た 連 帯 感 も な く な っ て い た 。 一 般学生はかれら過激派を見離し、見離されたかれらは尖鋭化して いった。わたしの関心は、半年後にひかえた学部進学にあった。国 語国文教室を第一志望にしていたが、成績できめられるなら、とう てい無理たとはわかっていた。そして、事務室の掲示板に貼りださ れた名簿に、わたしの名前は第一志望にも第二志望にもなかった。 一 年 で そ ろ え て お く べ き 単 位 の 数 に 満 た ず 、 成 績 じ た い が つ け ら れ なかったのである。わたしの進学先は、半年後、教養部通過の単位 を満たしたうえで決定するということになって、宙ぶらりんのまま 二 年 生 を む か え た 。 わ た し は 今 で も 、 と き ど き 夢 を 見 る 。 時 間 割 を 埋 め る の は い い が 、 い っ こ う に 単 位 が 取 得 で き な い 、 こ の ま ま で は と て も 進 学 で き な い 、 卒業できない、こんなことを妻に知られてはマズイ。えっ?おれっ て結婚して仕事もちゃんとしてるじゃん、いまさら大学なんて卒業 しなくても、と思いつつ、何度も見ているから、﹁ああこれは夢な ん だ ﹂ と い う と こ ろ で 日 が 覚 め る 。 それはともかく、いまにして思えば、とれが幸運であった。もし 所定の単位に足りていれば、人気のたかい第一志望には行けなかっ た。わたしは決定を留保されたのであるが、その決定されなかった ととが、ある事件によって、わたしに幸いした。などというと、不 謹 慎 の そ し り を う け そ う で は あ る が 。 その事件とは││。新学期が始まってすぐ、教養部の本館が過激 派活動家に占拠された。事務室と教官研究室の入る本館が封鎖され」
「
たことによって、大学事務は完全に麻揮し、以後、教養部の授業は おこなえなくなった。わたしたちは、サークル室や開放状態の別棟 の 教 室 の 窓 か ら 、 占 拠 さ れ た 本 館 を 見 上 げ る と い う 日 々 を お く つ た 。 そのころ、九州一円の大学・短大の文芸部を糾合した、九州学生 文芸連盟、略して﹁九文連﹂というのがあった。大会を聞いていた の だ が 、 こ れ が 年 に 一 回 だ っ た か 二 周 た っ た か 、 よ く 覚 え て い な い 。 わたしがはじめて参加したのが熊本大学での大会、このときはたし か冬休みの前だったように思う。西南大学で開催されたときは、徹 夜で文学論を戦わせて、みんなで未明に櫛田神社に界き山を見に 行った。もっとも、記憶が希薄になって、おまけに錯綜混乱してお り 、 熊 本 も 山 笠 も 九 文 連 の 大 会 と は 関 係 な い の か も し れ な い 。 そんなことより、との九文連でどんなイベントをやっていたのか さ え 、 わ た し は 覚 え て い な い 。 ただ、これだけは確実といえるのは、連盟が﹃九州学生文学﹄と いう機関誌を発行しており、わたしの手元にその第二号がある、と い う こ と だ け で あ る 。 昭 和 四 四 年 二 一 月 の 刊 行 。 そ れ に 、 わ た し の ﹁ 春 が来て夏が来て秋が来て﹂という小説が載っている。たしか二日か 三日で書き上げた。自分でいうのも何だが、肩の力が抜けた、秀逸 な小説だった。わたしのもっとも好きな作品である、などというほ ど 出 来 の い い も の を 書 い て い た わ け で は な い が 。 機 動 隊 導 入 で 占 拠 学 生 が 排 除 さ れ た の は 、 一O
月 で あ っ た 。 そ れ からしばらくして豊采が再開されたのだが、年内に前期のすべてを 消 化 し て 、 一O
月一日付の名目で学部に進学させるために、あらゆ ることが慌しかった。慌しさのなかで、わたしの単位は満たすとと ができた。もう時効だから言うが、白紙だった進学先を届け出よと いわれ、﹁国語国文﹂と記入したら、なにも言われず許可された。 本 館 封 鎖 が わ た し に 幸 い し た と は 、 そ う い う こ と で あ る 。 年があけて、晴れて箱崎の文学部に行ってみると、当時一五人定ート-十
て
川
256
比
二
十
一卜-員のはずの進学生が、正確な数字は忘れたが、オーバーしていたこ とだけは覚えている。わたしと同類の国文進学生が、どさくさに紛 れて混じっていたロ﹁春が来て夏が来て秋が来て﹂を発表したのと 前 後 し て 、 ﹃ 壇 ﹄ 一 五 号 か 発 行 し た 。 ﹁ カ イ ン と ア ベ ル の 息 子 た ち ﹂ ﹁ 置 去り﹂を載せた。わたしの記憶では、箱崎の下宿に完成品が印刷屋 か ら 届 け ら れ た 。 二篇のうち、﹁カインとアベルの息子たち﹂を、わたしは太宰治 賞に応募した。同賞は、生原稿以外に同人誌掲載のものも受け付け ていたのである。五篇前後を最終候補に絞って、それをプロの評論 家や作家の委員が選考するのであるが、その前段階の、編集者の選 ん だ 四O
数篇の題名と作者名が主催雑誌 ﹃ 展望﹄に載る。そのなか に わ た し の 作 品 も あ っ た 。 後年、もう四O
代の終わり、学位論文の口頭試聞が終わって、居 合わせた大学院生を誘って中野三敏教授と懐かしの箱崎で夕食をと もにした。そのとき、わたしがむかし小説を書いていたという話題 になったが、教授は例によって、﹁直木賞候補になったんだぜ﹂と 話を大きくした。わたしは苦笑いしながら、しかし、はっきり杏定 し な か っ た 。 六 本 松 で は 、 わ た し の 生 活 は 文 芸 部 の 部 室 と と も に あ っ た 。 だ が 、 箱崎のキャンパスに、わたしが六本松で馴染んだような文芸部の部 室はなかった。コンクリートの床に、薄い板のデスクとスチール製 の椅子だけの、殺風景な部屋であった。開け放す窓さえなかった。 なにより、そこに一日いても、やって来る人間などいなかった。 留年してわたしと一緒に学部進学した赤塚は、永遠のボヘミアン を気どって放浪の旅に出、大阪から長い手紙を寄越した。わたしの 足は、部室からも教室からも国文研究室からも遠のいて、箱崎の町 を 俳 網 す る よ う に な っ た 。 そのころ、﹁よど号事件﹂があった。日本園が遭遇した最初のハ」
「
イジヤツクである。物見高い友人たちは板付の福岡空港まで見に 行ったが、わたしは箱崎の定食屋のテレビでちょっと見ただけで あった。野次馬の友人のうちのひとりは、米軍機墜落に抗議して板 付基地前で勇敢に機動隊にぶつかっていった元ノンポリ活動家で あった。事件は三月=二日に起こっている。六月の安保闘争の本番 をひかえていたが、わたしもそのノンポリ学生も、もう完全に政治 の 熱 か ら 冷 め て い た 。 よど号事件への無関心は、六本松での政治の季節と作家への無邪 気な夢がわたしのなかでとっくの昔に終わっていたことを、わたし に自覚させた。文芸部の部室によくやって来た反帝学評の石井とい う青年が、某人気歌手の別荘での内ゲバで死んだ。だが、新聞でそ れを知ったときも、もはや身近な事件ではなかった。 陳腐な言い方だが、若いということはけっして美しくない。どこ か狼雑で、それでいて底抜けに無邪気で、なのに存在することじた いが恥ずかしく、それをひとに覗かれることの恐れがつねに付きま とっていた。懐古して、自己嫌悪が襲ってくる。 わたしもいまでは、世間的にまっとうな暮らしをしている部類に 属する。だから、どこかで人生を軌道修正させたはずである。おそ らく、軌道修正したときが、六本松の青春との遅すぎる訣別であっ た の だ ろ う 。 ート-︹ 付 記 ︺ 文 中 、 敬 称 は 略 さ せ て い た だ い た 。 も は や 四 O 年 も 前 の こ と で あ る 。 わ た し の 周 辺 に お と っ た 出 来 事 の 記 述 に は 、 記 憶 遣 い が 多 々 あ る と 思 わ れ る 。 確 実 な の は 、 エ ン プ ラ 入 港 や よ ど 号 事 件 老 手 元 の 日 本 史 年 表 で 確 か め た ぐ ら い 、 米 軍 機 墜 落 の E 確 な 日 付 に い た っ て は 、 当 時 白 新 聞 で 確 認 す る し か な か っ た 。 年 表 者 め く り な が ら 、 新 聞 の 縮 刷 版 を み な が ら 、 わ た し の 六 本 松 時 代 は す で に ﹁ 歴 史 ﹂ の な か に あ る こ と を 実 感 し た ロ十
て
川
257————●第 3 章 記憶に残るできごと
比
二
十
「
六本松時代の
﹁
日
記
﹂
か
ら
元 九 州 大 学 教 授井田好治
( ー )ー
ト
( 昭 和 四 六 年 七 月 五 日 よ り ) ﹁ わ が ハ ン ス ト の 弁 ﹂ 私はなにも自己犠牲や自己純化を目的として、ハンストを始める わけではない。七月三日(土)のいわゆる団交の席上で私が﹁教養 部長室前でハンストを行なった学生の行為はかれらの生命を尊重す る立場で、との段階で止めてもらうために、自分もハンストをした いくらいだ﹂と言ったところ﹁学生がハンストを止める時期でそん なととを言うとはそらぞらしい﹂﹁卑怯だ、やれるものならやって みろ﹂という掌& -の 非 難 の 声 が 起 こ っ た 。 私は心にもない嘘を言うつもりはないので、私の 言 葉の鉦しとし て、ハンストをやっている学生の休験を遺体験するために、七五時 間のハンストに入るとととした。そして教養部の現状について、言 い た い と と を 言 っ た 。 第一に、七月一日(木)第三時限に起とった英語科教官に対する 暴行事件は一体いかなることか。学生は言う、乙とに至るまでには 根深い原因が在るのだと。然しこのことの放に、恥ずべき行為を犯 し た 者 の 違 法 性 は 断 じ て 正 当 化 さ れ る も の で は な い 。 (ハンスト二日目。帰途志々目内科に寄る。床並先生 一 緒 に 行 っ てくれる。ご好意有り難し。七月八日(木﹀ハンスト第四日目、午 後七時をもって終了)一
(一
一
)長
時
事
き
罪
あ あ e s v s 帰 ら ず ば 恩 愛 の 僻 甘 い か に 断 ち け む い ひ と と せ た め び ひ て も そ 巨 峰 鷲 と 誠 間 逝 の 争 き 術す F て も ぺ 言ぁ 埠
らE
ぽ 「 や ν と 枢3
にー 対E
ひ わ が 肩 ゆ ら ぐ 帰 ら ず 君 に し あ れ ば や ひ そ と し て 逝 く 生E
人 死主み の と な 理5&
タ旨し ...b貴 か
歩 ゅ に諾
3
警
ポ
E
ち 去 る や と ち ・ a ' a 一 日 に し て 壷 中 に 在 は す と 吋 虚仮のごとくにわが立ちすくむ (一
一
)ート
平 成 二O
年四月二一日(月)の﹁朝日新聞﹂朝刊の(二九面)、 九州大学総長梶山千里氏の﹁脱﹁横並び﹂へ妙手次々﹂という取材 記事が人目を惹きつける程の広いスペースで載りました。 との中に﹁福岡市の中心部から西方約二O
一 キ ロ に 伊 都 キ ャ ン パ ス が 関 学 。 ニO
二O
年までに医・歯・薬・芸術工学部以外の七学部が 移 る 見 込 み ﹂ と 明 々 白 々 な 記 事 も 載 っ て お り ま し た 。 昭 和 四 八 年 八 月 に 、 故 郷 の 横 浜 国 立 大 学 に 転 じ た 私 に は 、 ﹁ 伊 酔 ﹂ という地名は耳にしたことがありません。既に九大関係の方々には 分かり切った名称かも知れませんが、私は周辺の辞書・事典を引っ 張 り 出 し て 、 次 の よ う な 事 実 を 知 り 一 得 ま し た 。0
怖 か 福 岡 県 糸 島 郡 南 部 の 旧 郡 名 。 ﹁ 和 志 蛇 位 凪 ﹂ の ﹁ 供 耕 民 ﹂ ( と み な さ れ て い る 。O
﹁貌志倭人伝﹂中国の正史﹁三国志﹂の貌志(競 書 ﹀にある﹁東 e a 凶 " ん 夷 伝1
倭 ﹂ の 通 称 。 晋 の 陳 寿 国 調 。 魚 準 の ﹁ 刻 略 ﹂ に よ り 、 三 世 紀 前ト
て
1
258
比
二
やまたいと︿ 半における邪馬台固などの日本の地理、風俗、社会、外交などにつ い て ま と ま っ て 記 し た 最 古 の も の 。 ││以上二項目は ﹃ 国 語 大 辞 典 ﹄ ( 小 学 館 、 昭 和 五 六 刊 ) に よ る 。O
﹁町軒毘﹂について、もう一冊の辞書の説明を加えれば、﹁伊酔 の ︿ に 固﹂三世紀頃、北九州、現在の福岡県糸島郡地方にあった困ロ﹁貌 志倭人伝﹂に、帯方都使が駐在し、また一大率長官が常置され、邪 馬 台 国 以 北 の 諸 国 の 検 察 に あ た っ た と い う ロ ﹁ い と ﹂ ││﹃大辞称﹄(松村明編三省堂、 一 九 八 八 年 刊 ) 博 酒 多 に の文主 町 に は 廿 な 四 つ 年 か を し す き ど か し な て し ( 前 川 俊 一 先 生 の 歌 )一卜-九州大学六本松地区毒タレ斗争のこと
一 九 七 四 年 入 学 、 九 大 生 協 勤 務柳
修 僕が入学した一九七四年の春にも、六本松地区の化学実験廃液処 理について大学の在り方を問う学生運動が行われました。その前か ら問題になっていたはずですが、との年、授業中に押しかけて教官 に疑問を投げかける、つまりは授業妨害という形にまでなったわけ で す 。 三O
年 以 上 経 つ と 、 人 物 や 事 実 関 係 は 殆 ど 忘 れ て し ま い ま し た が 、 気分だけは未だに忘れていませんロざつくりとまとめると︿自分の 目 指 し て 来 た 科 学 は 、 人 の た め に な る の か ﹀ と い う こ と に な り ま す 。」
十
「
勉強するぐらいしか取り柄のなかった僕は、大学行くなら一番近 くて安い九州大学と決めて、中学の図書館で読んだガモフ全集が面 白くて物理に入りましたロ目指していたのは、宇宙開発か原子力利 用の分野です。普通に卒業したなら、原発の技術者に就職というと こ ろ で し ょ う か 。 もう一つ、大学に行きたいと思ったのが東大安田講堂の攻防戦で す。大学っちゃ面白い所だ、とテレビを見ながら思ったのを覚えて います。何が問題で立てこもっているのか知りませんでしたが、大 掛かりな文化祭に見えて参加したかったなあロ 社会では公害とか食品汚染という毒物を出すことによる被害が問 題になっていて、その中で、自分の利益、つまり卒業して条件の良 い会社に就職することや希望する分野の研究者になること、のため に毒物を流出させていいのかという疑問がきっかけで、僕はとの運 動 に 参 加 し ま し た 。 当時の九州大学は、箱崎地区の農学部に特殊排水処理施設を作っ て、学内の毒性排水の処理をしていたわけですが、実験で使われる 薬物の廃液、器具を洗浄した排水がすべて確保されて移送されるの か、排水処理の能力は大丈夫なのか、そもそも、たかが知れた学生 の実験が必要なのか。問題になる所は数々あったのですが、大学を 問うことが、その中にいる自分の生き方を闘うことになりました。 自分なりの考えを書いたピラを作って配布したり、皆で考えよう という集会の案内をする看板を建てたり、あるいは、との排水問題 とは別の運動に参加したりするうちに、僕には大学にいる意味が薄 れていきました。望んでいた宇宙開発や原子力は、多量の資金と危 険性が必須なもので、にもかかわらず僕には魅力的でした、犠牲の ない開発なんであるものかつてね。教養部から本学へ進学する単位 数まであと語学一単位までとって迷っていましたが、進学すべきで な い と 考 え ま し た 。ート-十
て
川
259————●第 3 章 記憶に残るできごと
一
人それぞれの考えで決着をつけることですから、参加したメン バーの行く末もそれぞれで決めました。大学を卒業する者、大学か ら去る者、どちらも自分で決めることでした。僕は、課題を与えら れると何でもやってしまう質なので、科学技術の現場はまずいなと 思い、大学を去ることにしました。やはり︿これはやって良いこと か悪いことか、と悩む人﹀が科学に携わってほしいものです。 一九七八年の秋、福岡市内在職探しに散歩して、従業員募集の張 り紙をつけた看板取付け会社に入社、九州大学には教養部まで、つ まり高校卒の看板屋となりました。ということで僕の九大六本松時 代は終わった、はずだったんですが、看板屋を辞めた後に九大生協 にバイトで入ってから六本松書籍に最早二O
年以上勤めてしまいま した。こんなに縁のある九州大学六本松地区が消えてしまうのは寂 しい限りです。ま、人生至る所に青山あり、これは親父のよく使っ た言葉ですが、どこで生きても幸せはあると曲解して、今後も生き て い き ま す 。六本松の出会いに感謝!
一九七五年入学、長崎市長田
上
富
久
昭和五O
年に入学してすぐ住んだのは、六本松ではなく箱崎だっ た 。J
F
私のふるさとは長崎県五島市。父がそこにある小さな郵便局に勤 めていた関係で、当時、箱崎松原にあった郵政省の子弟寮に入れて もらったのだ。まだ西鉄の路面電車が走っていた頃で、二両編成や 三両編成の満員電車での通学は、田舎出の私にとっては毎日の小さ な 旅 だ っ た 。 六本松には、懐かしい思い出がたくさんある。 法学部五組、通称 n エ ル 五 μ の仲間たちと食堂に集まって、卵入 りのカレーを食べながらワイワイと話したこと。法律が苦手なのに、 なぜか法研というサークルに入り、九大祭で甘酒の模擬屈を出した こと。大濠公園が大好きで、ときどき周囲をジョギングしていたこ と。教養部近くの喫茶屈で初めてデートして、ジュークボックスで ﹁裏切りの街角﹂を何度も聴いたこと。学生証を紛失して届けを出 したとき、﹁粉失届﹂と書いて、﹁粉じゃなくて紛でしょ﹂と事務の 方に注意されたこと:::。恥ずかしい思い出や甘酸っぱい思い出が 多いが、いろいろなシl
ン を 思 い 出 す 。 私の友人には、浪人経験がある個性的なメンバーが多かった。と いうより、彼らが自分のペl
スを持っていることに憧れて、私の方 か ら 近 づ い た の だ と 思 う 。 他の大学を退学して九大に入りなおした五歳年上の友人は、落語 研究会で六松亭兵五郎として活躍していた。彼の周りにはいつも面 白い人たちが集まり、浪人未経験組にはない人間的な魅力を放って い た 。 大分出身の二人組は、九大祭の開催をめぐる問題がこじれたとき、 階段教室で夜中に学生集会を聞き、議論を主導して解決に導いた。 まだ学生運動の残り火がくすぶっていた時代だが、彼らの社会的な ものの見方と行動力に大きなショックを受けた。 私自身はといえば、入学してしばらくして発病した五月病が三年 ほど続き、結局、三年から四年に進む時に一年休学して、時間稼ぎ1
260