南アジア研究第27号(2015年)
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本年4月、そのお人柄を偲ばせる穏やかな春の陽射しのなかで柳澤悠 先生のご葬儀が営まれた。昨年の夏に先生のご病気が伝えられて僅か半 年余り、お元気に活躍されていた記憶がまだ新しいなかでの早すぎるお 旅立ちだった。 私が初めて柳澤先生にお目にかかったのは、おそらく1970年代初頭、 当時本郷学士会館で開催されていた「インド史研究会」の席だったと記 憶する。あるいはほぼ同じ時期に、当時は毎年戸隠や白馬など長野で行 われていた「インド研究合宿」の宿だったかもしれない。いずれにして も、学士会館のドア近くの席でぼんやり議論の様子を眺めているのが精 一杯だった学部女子学生にも、いつも丁寧に対応してくださったご様子 を今も覚えている。この時期には柳澤先生はすでに、若手研究者として 日本の南アジア研究の中心のおひとりであり、その後の日本南アジア学 会の設立、重点領域「南アジアの構造変動とネットワーク」や人間文化 研究機構「現代インド地域研究」など大型研究プロジェクトの企画や運 営にも大きな貢献をされてきたことは、あらためて書くまでもない。と くに日本南アジア学会では、長らく事務局を担当された。2009年から 2012年までは理事長として学会の充実に努められ、文字通り日本南アジ ア学会を体現する名理事長として学会を牽引していただいた。この長い ご活躍の間にはご苦労の多い時期もあったのではないかと拝察してい るが、先生はいつも変わらぬ穏やかな口調で、若い研究者や学生にも分 け隔てなく接してくださった。研究会や会合の席で柳澤先生のお姿を見 つけると少し安心した気分になっていたのは、おそらく私だけではない だろう。 ただ、私が先生と研究やインドをめぐってゆっくり議論する機会を得 ることができるようになったのは、ごく最近のことである。南インド農柳澤悠先生を悼む
押川文子
柳澤悠先生を悼む
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村社会研究や経済史研究に関する多くの業績については折に触れて勉 強させていただいてはいたものの、門外漢の私にとっては議論できるよ うな分野ではなかった。幸いなことに、2008年から2009年にかけて、人 間文化研究機構「現代インド地域研究」の東京大学拠点(TINDAS
)で の活動や、水島司さんを研究代表者とする科研(S
)「インド農村の長期 変動の研究」が相次いで開始され、研究会で頻繁にお目にかかるように なった。ちょうどその頃から、先生は最後の大著となった『現代インド 経済―発展の淵源・軌跡・展望―』を構想されるようになり、独立以降 のインドの経済社会変動について様々な場で発言されるようになって いた。TINDAS
や科研(S
)の研究会でお目にかかると、先生、宇佐美 (好文)さん、水島さんを中心に、農村の社会経済変化の方向と程度を どのようにみるか、とくに農村下層~中層はどういう道筋で「力をつけ」 どこに向かおうとしているのか、が話題になった。 後に『現代インド経済』にも結実するように、先生の議論のポイント は、たとえ様々な制約があるとしても農村中層~下層は着実に力をつ け、独立前から徐々に蓄積されてきたローカルな市場と技術を基盤に非 農業部門にも進出を図っている、つまりインド経済は、農業と農村を基 盤に内生的な発展を遂げつつあり、弱者層は意識変化を梃に経済機会も 確実に拡大させている、というものだった。この時期、先生は狭義の経 済研究というよりも社会や意識の変化にも大きな関心をもたれていたよ うで、研究会でお目にかかると、「押川さん、Chari
のティルプル、とても面 白いと思うんですよね!」などと、楽しそうにお話されるのが常だった。 このSharad Chari
の新興綿業都市ティルプルを形成した農民カースト を対象とする人類学的研究だけでなく、例えばFilippo Osella
とCaroline
Osella
の消費研究、さらに経済ジャーナリストHaris Damo daran
の農民南アジア研究第27号(2015年)
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カースト集団を多数含む新興企業家層のマッピングなど、当時先生が 「面白い」と挙げられた本からも、先生の関心の在処を推察できるよう に思う。 ただ、この先生の「内生発展論」をめぐっては、科研(S
)メンバー の間にもいろいろと異論があった。近年の経済成長を農村・農業を中心 に説明することは難しいという議論は当然あり、経済自由化の評価の違 いにもつながった。農村下層の上昇の可能性についても議論が分かれ た。後者については、とりあえずいくつかの条件を整理した「地域類型」 やコミュニティごとにパターンを考えるような作業もしたが、おそらく 先生の議論はもう少し深いところで「視座の提案」をされていたのでは ないか、と今になって強く思う。議論のなかでの先生は確信的に楽観的 で、雑駁な議論しかできない私の目からみても「先生、それは飛躍して います!」と思わず言いたくなることもあった。もとより、ある社会の大 きな変動を総体として俯瞰するといった作業では、資料の隙間をつなぐ 合理的「推論」は時として必要である。膨大な文献や統計に目をとおし て緻密な議論を組み立ててこられた先生であればなおさら、いくつかの 点で、とくに意識や社会変化と経済発展との関わりに関する議論におい て、若干の飛躍や推論が混じっていることは誰よりも認識されていたは ずである。先生はそのことを重々承知のうえで敢えて、インドをみるご 自身の視座を提示されたのではないだろうか。 その「視座」の性格を如実に示しているが、『現代インド経済』の最 後の文章「インドの経済発展への制約条件はなお大きいが、長期にわた る経験と蓄積にもとづき、インドの人々がその制約を超えて新たな持続 的発展への道を切り開く可能性を注視することが重要である」であろ う。そしてこの文章は、「あとがき」においてご自身が「インフォーマル柳澤悠先生を悼む