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経済教育の新しい地平を求めて(シンポジウム 経済教育の新しい地平を求めて)

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Academic year: 2021

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Ⅰ.テーマ設定の背景

 学術学会が開催する年次大会での共通論題テーマは, その年度の学会の存在意義を直接にアピールするもの であり,その学会の知の水準を示すバロメーターでも ある。  この学会がかつてどのようなテーマに取り組んでき たか,なぜそのテーマであったのかを総括的に考察す ることは,学会活動の連続性,継続性,体系性,批判 性,公開性,歴史性の観点から不可欠な問題関心でも あるだろう。とりわけ,学会活動に衰退の気配が顕著 に現れて(大会報告エントリー数の減少,報告者の常 連化,研究活動成果の玉石混淆,会員数の減少)いる 現状のなかで,「何が問題なのか」を学会に内在する 問題と学会が置かれている時代状況の変化との両面か ら問い詰めてみることが急務になっている。こうした 問題意識から,今大会の共通論題テーマが決定された。 このテーマは,当学会の現在と将来における存在意義 を問うことでもあり,まさに存在意義を見出せない学 会の存続は「百害あって一利無し」,「速やかに解散す べし」との勧告をも覚悟してのぎりぎりのテーマ設定 でもあった。  これまでの 31 回(学会前史を含む)にわたる経済 学教育研究会・経済(学)教育学会全国大会の共通論 題のテーマは,次頁の通りである。  これらのテーマは,経済(学)教育学会の「学会会 則」で定められた「目的」の範囲以内で,その時々の 全国大会準備委員会なり,プログラム委員会,または 学会役員会での協議によって決められてきたものだが, そこには,長期的な研究展望に裏付けられて体系的に 決められてきたものではないことは一目瞭然である。 それは一見,乱雑であり,全く無秩序なテーマの羅列 に過ぎない様相を呈している。学会前史の 4 回のテー マを含むこれまでの 31 回のテーマは,おおよそ次の ようなジャンルに分類することが出来る。①経済 (学)教育の理念,②経済学教科書 ③教材,④授業 実践,⑤小・中・高校と大学での経済(学)教育,⑥ 学習方法,⑦教授理念と方法,⑧目的・課題,⑨教育 改革,⑩歴史的現実問題,⑪社会問題との関連。こう して整理してみると,1 つのジャンルが欠落している ことに気が付く。「経済(学)教育の科学」という視 点からの学問論である。  当学会員の中には,「経済学」「経済」をプロパーと する研究者・実践家と「教育学」「教育」をプロパー とする研究者・実践家はいても,「経済教育の科学」 を専門とする研究実践者は現れてこなかった。伝統的 な「経済学」や「教育学」という既存のディシプリン に従順な研究者からは,新しいディシプリンの構築に 挑戦する真の勇者が現れるはずもなく,したがって 「経済教育の科学」という独自な発想自体が正面きっ てこの学会で取り上げられることはなかった。このシ ンポジウムにおいて,教育学や経済学の既存のディシ プリンにとらわれることなく,この学会に独自な, 「経済教育の科学」という新しいディシプリンの構築 に向けての議論をスタートさせることが,このシンポ ジウムのテーマを「経済教育の新しい地平を求めて」 としたいまひとつの狙いであった。

Ⅱ.問題の所在

 経済教育学会第 28 回全国大会におけるシンポジウ ムのテーマに,「経済教育の新しい地平を求めて」と いう,いわば方法論的な,あるいは哲学的な根本問題 を取り上げることになった背景には以下の 3 点がある。 第 1 は,当学会の存立にかかわる諸事情によるもの。 第 2 は,現代経済社会状況における歴史的な質の変化。

経済教育の新しい地平を求めて

Economic EducationThe Journal of

No.32, September, 2013

A New Approach for Economic Education

Usami, Yoshinao

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第 3 は,わが国の学校教育が直面している諸問題がこ れまでの制度枠組みや理念では解決できないところま で煮詰まってきていること,これである。  第1の理由に関しては,当学会がその設立以来28年 の間に知らず知らずのうちに蓄積させてきた学会とし ての「疲労感」(教育実践という日常性への埋没)か ら生じてくる「マンネリ化した意識と感覚」(この感 覚はしばしば社会科学方法論の欠落から生じる)。こ うした感覚による内向きで気だるい閉塞感。経済 (学)をプロパーとする会員にとっても,教育(学) をプロパーとする会員にとっても,経済学,ないしは 教育学の「専門家・研究者・実践家」を自認する多く の会員は,この学会での活動を二次的な活動とみなし, 当学会を補助的学会と位置付けてしまうことからくる 思考の弛緩性。さらに,「経済」と「教育」という当 学会の学際性から生じる本質的学問論の欠落。すなわ ち「経済教育学会」とは,経済学の範疇なのか,教育 学の範疇なのか。  第 2 に関しては,1990 年代から続くわが国経済社会 状況の質的変化(経済長期停滞の恒常化,少子高齢社 会,本格的な IT 社会の到来)と東日本大震災と東電 福島第一原発事故による歴史的な状況変化(人々の価 値観を含む)に,当学会がもつ「思考の射程」では到 底届かないことが明確になったことである。いわゆる 先が見通せない。  第 3 に関しては,わが国の学校教育の理念と制度の 形骸化と固陋化。大学教育に関していえば,大学のユ ニバーサル化による入学者の意識・学力格差の拡大か ら,大学を「大学」として一律に論じられなくなって きたこと。高校教育に関していえば,すでに義務教育 化(高校への進学率は 95%以上)しているにもかか わらず,「義務教育としての高校教育」の議論と実践 は少なく,高校教育は,相変わらず大学に向かっての 進学校・中堅校・底辺校に分かれて混乱の渦中から抜 経済学教育をめぐる研究・討論集会 1981 年 大会テーマの設定はなく,以下の二本の報告があった。『現代社会』の検定問題と 大学の経済学教育(藤岡淳)/経済学教育の改革論議とその周辺(米田康彦) (北海道大学) 1982 年 社会科教科書の検定問題と大学の経済学教育 (一橋大学) 1983 年 大学における経済学教育と教科書 (日本福祉大学) 経済学教育研究会結成準備会 1984 年 これからの経済学教育 (中央大学) 経済学教育研究会 1985 年(創立大会) これからの経済学教育 (立命館大学) 1986 年第 2 回大会 これからの経済学教育 (駒沢大学) 1987 年第 3 回大会 いま現代経済をどう教えるか (金沢大学) 1988 年第 4 回大会 現代経済をどう教えるか (静岡大学) 経済学教育学会 1989 年第 5 回大会 現代経済をどう教えるか (日本大学) 1990 年第 6 回大会 経済学教育の制度化と「二つの経済学」 (関西大学) 1991 年第 7 回大会 日本の経済学教育─回顧と展望─ (福島大学) 1992 年第 8 回大会 大学設置基準大綱化と経済学教育 (神戸商科大学) 1993 年第 9 回大会 経済学教育への期待と提言 (千葉商科大学) 1994 年第 10 回大会 経済学教育再設計の理念を求めて (高知大学) 1995 年第 11 回大会 経済学教育の再設計─家族・環境・人権の視点から─ (中京大学) 1996 年第 12 回大会 小・中・高等学校の経済教育と大学の経済学教育 (札幌学院大学) 1997 年第 13 回大会 社会体験にねざし進路を拓く経済学教育 ─「教え」と「学び」の結合をめざして─ (広島女子大学) 1998 年第 14 回大会 時代閉塞を打開する力とは何か,これをどう育てるか (早稲田大学) 1999 年第 15 回大会 学生と地域の実態から出発し,経済問題を解決する力を育てる ─ 21 世紀の課題に応える経済学教育の再設計をめざして─ (富山大学) 2000 年第 16 回大会 学びの創造─学生主体の経済学教育─ (松山大学) 2001 年第 17 回大会 新しい世紀の経済学教育─主体的学習と分析力の獲得─ (中央大学) 2002 年第 18 回大会 真に社会に役立つ経済教育とは─学生たちの力を引き出す実践に学ぶ─ (京都大学) 2003 年第 19 回大会 大学激変時代における経済教育のあり方 (中京大学) 経済教育学会 2004 年第 20 回大会 学生・地域・社会の期待と経済教育─理想の学び舎を求めて─ (松本大学) 2005 年第 21 回大会 何のために何を─エコノミック・リテラシーの内容を問う─ (弘前大学) 2006 年第 22 回大会 経済教育のいまを問うー大学運営と経済教育─ (嘉悦大学) 2007 年第 23 回大会 よりよく生きるための/よりよい社会のための経済教育 (福岡教育大学) 2008 年第 24 回大会 まちづくりの経済教育 (亜細亜大学) 2009 年第 25 回大会 21 世紀恐慌と経済教育の課題 (関西大学) 2010 年第 26 回大会 今日の厳しい状況のもとで働く意味・意義をどう捉えるか (京都橘大学) 2011 年第 27 回大会 今こそ生きる力を育む経済教育を─震災を乗り越えて─ (椙山女学園大学)

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け出せないでいる。その影響は,大学本来の教育に致 命的な負荷(高大連携・接続,リメディアル教育・入 学前教育・初年次教育)をかけ日本の大学の質の低下 に拍車をかけている。  以上の 3 つの状況認識の上で,これに対する本質的 で効果的な対応を議論することにより,「経済教育へ の新しい地平」を獲得する手がかりを得たい。

Ⅲ.基調報告とパネラー 3 名の論点をめ

ぐって

 さて,基調報告の飯田泰之氏は,従来の経済(学) 教育が座標軸としてきた「何を」「どのように」教え るかというアプローチを捨てて,「経済(学)教育」 を,「思考法を訓練する」ための手段として考えるこ とを提示した。学生は,経済(学)を単に知識として 学ぶのではなく,経済(学)の学びを通じて,つまり 「経済の問題を練習問題として思考法を訓練」するた めの教育においてこそ,「経済(学)教育の最大の意 義がある」と言う。  飯田氏によれば,従来の知識としての経済(学)が, 学生の間で消化不良をおこし,しかもそれらの知識そ のものの内容にしても,「生徒・学生の生活や今後の ビジネスにおいて何らの有用性をもたないのではない か」と疑念を示す。学生にとって本当に必要な知識と はかけ離れて,経済教育の知識内容が独りよがりに学 生の前に立ちはだかっている。こうした教育現場にお いて,授業の荒廃(私語,居眠り)が進むが,教員は この問題を単に学生の質が落ちたとしか認識できない でいる。経済(学)教育は,知識としての「経済」 「経済学」を教えることにとどまっていてはならない。 その先にあるもの,それこそが経済(学)教育の本来 の課題なのではないか。知識としての「経済」「経済 学」は,刻々と変化していく事態の中で,すぐに陳腐 化して現実には使いものにならないほど古くなってし まう。そうであるならば,経済(学)教育が本来追求 すべきは,「思想の型であり,思考の型」ではないの か。例えば,「経済学の出発点が功利主義と労働価値 説から方法論的個人主義と主観価値説に移行していっ たかを追うことは,価値とは何か,そして現代経済学 は何を見落としているか,さらに難問に直面したとき にそれを迂回することがプラグマティックな思考方法 として有用であることを理解させることが出来る」と いった道筋の経済(学)教育である。知識としての 「余剰分析と厚生経済学」「比較優位説」「計量分析」 などを使って「思想の型」「思考の型」を伝える,そ のための経済(学)教育を本格的に開発していかなけ ればならない。これこそが拓かれるべき新しい経済 (学)教育の地平なのではあるまいかというのが飯田 氏の論点である。  藤岡惇氏は,経済教育の課題について,「自己と社 会の進路を拓く力」を育成することであると報告した。 経済学を学ぶことは,単に経済(学)知識を習得する ことではなく,人生の目的を探り出すことであり,弁 証法的な「ものの見方」を習得することでもある。そ うした行為(経済学習)が,どれほどの醍醐味をもっ たものであるか。そのこと自体をどのように伝えてい くかも経済教育の重要な課題であると藤岡氏は考えて いる。  「社会の進路を拓く力」とは,藤岡氏によれば,具 体的には「志が高い」「考える範囲,行動する範囲, 助けてくれる友人の範囲が広い」「システム思考がで きる」「上から目線ではない」「愛嬌のある人」「幼児 期欲求段階を卒業した人」「ボランティアマインドの ある人」によって示される力である。一見,破天荒に 思えるこの文言・文脈は,藤岡氏の人柄から滲み出た ものであり,これを意味不明,支離滅裂と読んではな るまい。藤岡氏をこのシンポジウムのパネラーの 1 人 としてお呼びした意味は,まさにここにある。藤岡氏 の長年にわたる学問研究と経済(学)教育の実践が, 藤岡氏自身の化身として,こうした表現,文言に統一 されている。  今回の報告において,藤岡氏は,①自然と社会の大 恩を前に謙虚に成熟し,②経済正義を具現化した「よ り良い社会」を見出し,そこへ平和的に移行するため に必要な「エコノミック・リテラシー」の中身を再吟 味・再編・再体系化するという試案を提示した。さら に,経済学習の課題としては,児童期・中高・大学・ 大学院・社会人教育における「経済教養」の区別と接 続をどのように定めるか。児童期から社会人までの一 貫した経済学習の在り方を区別と接続の観点から体系 的に構築していく必要性を訴えている。また,新しい 学びのシステムとして,「松下村塾の先例,学びと実 践の期間を有機的につなぐ教育プログラム」「共通普 遍教育の拡充,学部・教科の壁を下げる,教養専門の 自在な学び」への追求が,経済(学)教育に新しい地 平をもたらす有力な切り口となるというのが藤岡氏の 主張である。  八木紀一郎氏が提示する経済(学)教育の地平は, 「良く生きる(ウェルフェア)・良く働く(ワークシェ ア)」ことに役立つ教育である。もちろん,この教育

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理念は大学教育一般論として語られているわけではな い。八木氏の中で,こうした経済(学)教育がなぜ求 められるのかと言えば,八木氏が勤務する大学におい ては,「全人教育」と「より広義の知的専門職業人の 育成」という教育理念が掲げられてはいるが,実際に は,そのような抽象論で教育ができるはずがない。具 体的には「在籍する学生の実態」(学生の入学時にお ける学力が中位的水準なものであり,大部分の学生の 卒業後の進路が,「実地に役立つ現場で働くライン型 の専門的職業人」である)から,「社会を知り,年長 者(大人)の考え方を知り,仕事のルール・段取りの 組み方を学ばせる」,言い換えれば「就業力の養成教 育」という経済(学)教育の課題,目的が作られたと 推測できる。このことは,大学における経済(学)教 育が,「経済」ないしは「経済学」の知識から出発す るのではなく,学生の実態に即して,つまり学生の存 在を出発点として,その学生の成長に役立つ教育・授 業を積み上げていった結果であると言ってよい。従来 の多くの大学が実施している学問中心(したがって教 員中心)に学生を見下ろしていた教育とは,真逆にあ るという事になる。  さて,上記のような教育目的の達成のために,八木 氏の大学では,「実地に近い経済教育」として,「ゲス トレクチャー」「PBL 授業─都市と地方を結ぶツーリ ズム」の科目を設置している。要するに,一方通行の 座学中心の授業ではなく,「フィールドワーク」「イン ターンシップ」「アクティブラーニング」の手法によ る「学生主体」の教育実践である。八木氏によれば, 「経済教育の基本は,「エコノミック・シンキング」を 身につけさせること」であるが,この「考え方」を教 えることは難しい。そこで,「学生の実態」に即した 形での「生活」と「労働」に焦点を合わせた教育プロ グラムを,各教員それぞれの専門科目(八木氏の場合 は「経済思想」と「社会経済学」)の中で,新しい教 育方法を開発することが求められており,その開発と 実践が八木氏自身の今後の課題であると結んだ。  樋口雅夫氏は,現役の文部科学省初等中等教育局教 育課程課教科調査官である。樋口氏の報告は,新学習 指導要領(2013 年度実施の公民科)において強調さ れている「社会的な見方や考え方を成長させる手立て として経済学習を行うことの意義」に関しての報告を 行った。樋口氏が本題に入る前に文科省が「詰め込み 教育」の反省として導入した「生きる力」についての 再評価を試みていることは手前味噌のご愛嬌であるに しても,この教育理念としての「生きる力」を,その まま「社会的な見方や考え方」の土台に据えたことは, やはり卓見であるといってよいだろう。なぜ,「社会 的な見方や考え方」を育成する教育が必要なのか,そ のことが「生きる力」を一層強靭なものにするからと の論理は正しい。しかも,「社会的な見方や考え方」 は,経済学習を通じてこそ,その育成が確実なものに なるという。なぜなのか。いうまでもあるまい。「経 済が社会の土台にある」という社会観・歴史観の妥当 性は,今なお私たちの社会でも通用している。「経済 が社会の土台にある」という現実を踏まえざるを得な い現代教育の当然の帰結であるだろう。将来において, 「文化が社会の土台にある」現実を人類が作ることが 出来るまでは。  樋口氏は,「見方や考え方の習得と活用」について, 現行の中学校社会科公民的分野の学習の流れの中で, その十分な可能性を論じたうえで(八木氏がその難し さを嘆いた「教化」にならずに「考え方」を教えるこ との可能性),「社会的な見方や考え方」を経済学習を 通じて育成することは,「経済学習のパラドックス」 をも克服することが出来ると期待を寄せている。経済 学習によって,「社会的な見方や考え方」を育成する ことは,「日常生活や現代社会の諸課題に関わる社会 的事象に適用させて考察を深める,移転可能な知識」 とすることが出来る。  樋口氏は,今次学習指導要領全面実施に向けて 2 つ の課題を挙げた。第 1 点は,「見方や考え方」を成長 させるために使う諸概念の明確化。第 2 点は,初等・ 中等教育,高等学校,大学におけるそれぞれの経済教 育内容の振り分け,役割を明確にしていく課題である。 これは,そのまま,経済(学)教育の新しい地平を切 り拓くものとして受け止めることが出来るだろう。

Ⅳ.「学びの主体性」から「学生主体の教

育」へ

 「経済(学)教育」に関する研究と教育の実践は, これまでは 2 つの座標軸をもって行われるのが一般的 であった。1 つは「何を教えるか」の「何を」(経済) の部分と,「どのように教えるか」(教育・学習方法) の部分である。しかし,これらの両者は共に,経済 (学)の枠組み(体系)と経済現象そのものの理解や 解釈を中心においたカリキュラム,授業内容・方法で あった。そこでは,「経済(学)」とそれを学ぶ学生と の関係性については,「灯台下暗し」状態で,問題の 所在さえも気が付くことのないままに,ただひたすら に,「何を」「どのように」の座標軸でのみ考えられて

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きた。これが,「経済(学)」に関する伝統的なカリ キュラムによる「経済(学)教育」であり,その本質 は,「教員中心」の教育に「ならざるを得ない」もの で,そこでの学生は「学びの主体性」を要求されても, 「学生主体の教育」が行われることはなかった。ここ での教育は,教員によって一方的に行われるのが原則 であり基本のスタイルであった。このことに教員も学 生も一切の疑問を持たない。教員によって一方的に作 られる教育・授業とは,「プロクルステスの寝台」そ のものであり,教員がしつらえた寝台(教育・授業) に学生の背丈を無理やりに合わせようとする。合わな い学生は,ベッドに合わせて手足を切られ,もしくは 引き伸ばされて殺されてしまう。

Ⅴ.見えてきた経済(学)教育の新しい地平

 これまでの経済(学)教育は,経済(学)教育の原 点である思想としての「生き方」「働き方」の教育を ないがしろにして,その時々の教員の一人よがりの単 なる「知識教育」でお茶を濁し,学生一人ひとりの 「生き方」「働き方」に真剣に向き合ってこなかった。  その結果,何が起きたか。①受動的・消極的な受講 姿勢の学生,②授業内容に集中できない学生,③授業 中の私語,居眠り,携帯ゲーム・メール,内職,④出席 不足,⑤成績不振,⑥就職できない(卒業後の進路を 決められない)学生が,日常的に出現することになっ た。こうした学生の実態を土台にした経済(学)教育 の再構築こそが,新しい経済(学)教育の地平を切り 拓く有力な手立ての 1 つであることは間違いがない。  今回のシンポジウムの議論によって,私は,新しい 経済(学)教育の地平として,以下の結論を提示でき るのではないかと確信する。即ち,新しい「経済 (学)教育」に関する研究と実践の基本枠組みは,「学 生中心」「学生主体」を教育理念として,教育実践に おいては,学生が「経済(学)」を「学ぶ」ことを 「教育目的」とするのではなく,「経済(学)」を一人 ひとりの「学生の成長」のための「教育手段」「ツー ル」として位置付ける。 1.ツール・手段としての「経済(学)教育」  大学経済学部の教育において,一方で「経済学」と いうディシプリンを中心にしたカリキュラムを置き, 他方で,一人ひとりの学生を中心にした「マイ・カリ キュラム」を置く。前者は,従来型の「経済(学)」 の知識の体系としての教育プログラムであり,後者は, 「経済」という現実と「経済学」というディシプリン を,学生の「進路選択」にどのように利用するか,ど のように役立たせるかを考える教育・学習体系(広義 のキャリア教育)の教育プログラムである。 2.学生主体の教育  大学教育の目的が,一人ひとりの学生が卒業後の 「進路」を決定することができるようになるためであ るとすれば,教育・授業が「学生を主体」にして行わ れることが前提となる。なぜならば,学生が卒業後の 進路を決定するという事は,その学生が「主体」的で あることを抜きにしては成立できないからである。 「教員を主体」とした教育・授業では,学生は「自分 の立ち位置」を教育・授業の中に見出すことはできず に,ただひたすらに教員が提示する平均的な知識水準 の中で,「自己不在」のままに埋没せざるを得ない。 また,教員と学生の力関係から多くの学生は受動的学 習から抜け出すことが出来ず,その結果として,そう した学生の多くが教育・授業不信に陥り,教育・授業 から脱落していく。特に,大学進学の動機が曖昧で, 大学で学ぶモチベーションが虚弱な学生にとっては, 授業とは苦痛なものでしかない。 3.学生中心の教育  これまでの多くの大学で行われてきた「ディシプリ ン」中心の教育では,学生は教員に従属し,学生の主 体的・能動的教育・授業を作るにはどうしても破れな い限界があった。そもそも学問体系自体には,学生は 初めから存在しないのであって,そうした学生不在の 「学問」を,教育と称して「教える」という大学教育 の論理は,学生から授業料を徴収するという「ルビコ ン川」を渡った時点で,本来は,崩壊・破綻させなけ ればならなかった。それが今日まで,なぜ継続されて 維持されてきたのか。既得権益の何物でもない。日本 の大学教員の多くが陥っている「立ち位置」は,大学 教員は教育者である前に研究者であるという「研究者 意識」の「蛸壺」(丸山眞男)の中にある。その「研 究者意識」とは学生を疎外する所に初めて成り立つ 「立ち位置」で,そのエゴイズムを持って初めて研究 成果を上げることができる。そうであるとすれば,今 日の多くの大学においては,とりわけ,経済(学)教育 においては,明確に教育と研究を分離することが求め られているのではあるまいか。研究と教育を混同させ た教育実践からは,学生は教員の食い物にされるばか りで,そこからは創造的な真理は何も生まれはしない。

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