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ヒュームにおける功利思想とモラル・センスの問題

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(1)

ヒュームにおけ る功利思想 とモ ラル ●セ ンスの問題

1.二

つ の根拠 の問題

2.ハ

チ ス ンの功利思想 とモ ラル・ セ ンスの独 自性

5.ヒ

ューマニテ ィの原理 と功用性

4.功

用 の感 と道徳的是認

5,結

論 筆者 は前 に

,「

ヒュー ム道徳論 における ヒューマニテ ィの原理 について」 と題す る小論で

,道

徳 原理研究 の ヒューマ ニテ ィ

(humanity)を

初期 の同感

(Sympathy)と

対 比 させて考察 した こと が あるが

,(1)そ

の末尾で ヒュー ムの功利思想 について簡単 にふれ

,

ヒューマニテ ィとの関連で功 利思想が更 に今後 の課題 と して残 る旨をつけ加えて おいた。本稿 はいわばそ こで残 された問題 を更 に堀 り下 げて見 よ うと したもので ある。ハチスンとの比較 も加 え

,や

や批判的 に考察 しようと した もので あ るが

,以

前 の問題 も合 めて全般 的に再考 された形 とな って

,重

複 して い るもの

,或

は修 正 されてい るもの もあることをお ことわ りしておきたい。 ( 1 ) 以前述べ た ところと重複す ることにもな るが

,

ここで先ず

,

ヒュームの考え方の根底 に功利思想 と

,い

わばモ ラル・ セ ンス ともいえ る道徳感情 の立場 との二 つ の根拠 が存 す る事実 を確 かめて お き たい と思 う。 周知 の よ うに

,

ヒュー ムにおいて

,特

に道徳原理研究 の立場 において功利思想の存す ることは否 定すべ くもない事 実で あるが

,た

,そ

れ にも抱 わ らず ヒュー ムの立場 を直 ちに功利主義 と規定 し えないのは

,何

よ りも ヒュー ムは基本 的には

,或

は少 くとも形式的には道な感情の立場

,い

わば上 述 のモ ラル・ セ ンスの立場 に立 っているとい う事情 があるか らで ある。人間本性論第二巻で

,「

道 徳 的区別 はモ ラル・ セ ンスか ら来 る」 と明確 に規定 され た立場 は

,道

徳原理研究 に至 って も

,少

く とも形式的 には余 り変 っていない。道徳原理研究第一章 で道徳 的区別 は理性 に基づ くか

,感

情 に基 づ くかの問題 を提起 し

,そ

の正式な解答 は結論部 と付録 に うつ ったとい う迂遠 さはあるに して も, 作 但

)思

索第二号 (東北大学哲学研究会)

(2)

兼 横 道 徳的区別 の根拠 がゎれ われ の感情 にあるとす る立場 に変 りはないわ けである。 それが ヒュー ムの ヒューマニテ ィの原理 で あ り

,シ

ンパ シ ィの原理で あ った。否

,そ

の道徳感情は

,人

間本性論 の場 合 とやや違 って ゎれ われ に本源 的 (Original)に存 し

,直

接 的 (direCtly)に 道徳 的是認 をなす あ る内的なセンス

(internal sense)で

あ るとされ る限 り では

,人

間本性論 よ りも一 層 モ ラル・ セ ンスの立場 に近 づいたよ うにも見え る。 これ については前 にふれ た と ころであ った。 その限 りで は

,「

功用性 」 (utillty)はいゎばその根源的道徳感情 の原理 を見 出すための

,わ

れ わ れの「 人 格価値 」 (perSOnal merit)1こ 「 共通す る事情 」

(COmmOn circumstance)に

す ぎなか った と もいえ る。その点か らすれば

,人

格 価値 に伴 うその感 じの探究 が ヒュー ム道徳論の主題 であ った こ とにな ろう。

これを今少 し補足 して見 る。 い うまで もな く

,

ヒュー ムは決 して道徳 の懐疑 家ではない。 ヒュー

ムによれば

,あ

らゆ る性格や行為が等 しく人 の愛情や尊敬 に価 いす るとは考えがたい ことで

,個

人 間 にお けるその差 は歴然 た るものがある。 そ して又

,正

(Right and Wrong)の

区 別 は万人 の な しうるものであることは厳 然た る事実で ある。勿論

,功

用性 が是認 され る以上

,そ

の区別が後天 的 に

,例

えば教育な どの影響 を受 けることは当然であるが

,

しか しあ らゆ る道徳的区別 が人為 に由 来 す るのではな い。「 この教訓や教育 とい う原理がた しかに強力な力を持つ ことは認 めねばな らな い。………が しか し

,道

徳 的好感や嫌悪 のすべて (α′ι

)が

これ か ら生ず るとい うことは

,賢

明な研

究 者な らいかなる人 も決 して許 しは しないで あるろう。 そのよ うな区別力劫心に生来 的に備 わ ったも の (fOunded On the original constitution of mind)に よ って 自然 にな され るものでなか った な ら

,<立

派な と恥 ずべ き

>(ん

ο″οク物うルand∫力,知ヵ′

),<愛

すべ きとい とゎ しい

>(′

ου

and

ο励 ″∫

),<気

高 い と卑 しい

>(2ο

う力

and滋

ヮ ιαう′♂

)と

い う言葉 は決 して見 ら れ な か ったであろ う。仮 りに政治家たちが それを発 明 したのだ と して も

,そ

の言葉 を理解 させ ることも

,又

それで聴 き手 に何 らかの観念 を伝え ることも決 して 出来 るものではない。(1)」 ヒュー ムの これ らの表現 に関 す る限 りでは

,人

間はすべ て生れなが らに して道徳的存在 であるとい って も過 言 で は ないであろ う。少 くとも

,道

徳 的善悪 を区別す る素地 は人 間本性 に本来 的 に備 わ ってい るものとい うことにな る。 ヒュームの内的なセ ンスがいゎゆ るモ ラル・ セ ンスと全 く同 じか どうかは これか らの問題 であ るけれ ども

,

ヒュー ムの道徳論がそれ に基 づ く限 りでは

,そ

の功利思想 にも抱 わ らず

,ベ

ンサ ムや ミル と同 じくしえないゎ けである。周知のよ うに

,ベ

ンサ ムや ミルの立場 はそれを根拠 とす るもの で はなか ったか らで ある。ベ ンサ ムはその「 道徳 と立法の原理序説 」で功利主義に反す る三つの原 理 の中に同情

,反

感 の原理 (Sympathy and anti‐

pathy)を

お き

,

それ についての註のは じめに モ ラル・ セ ンスを位置 させ

,

しか もヒュームを もそ こに入れて批判 してい るのである。(2)

ミル も又

,モ

ラル・ セ ンスは道徳の究極 的根拠 とはな りえない と して その「 功利主義」で次のよ う

Enquiry.(,大 T, E。 とBIst')P, 214. (Selby― Bigge,ed.)

Benmam:艶

躍 鴻

!吼

i怒

毛器

ipleS d M°rЛs and Le邸醜

On,μ

缶 ば he WOrる

d

側 切

(3)

ヒュームにおける功利思想 とモラル ●セ ンスの問題 に批判 して い るのを見 る。「 (上の

)困

難 は

,ゎ

れ われ に正邪を告 げるあるセ ンス又 は本能 とい う 自然 的能力が あるとす る通俗論 に訴 えて見て も決 して避 け られは しない。 とい うのは

,そ

の よ うな 道徳的本能が あるか どうかが先ず疑 ゎ しいのに

,更

,そ

うぃ うものを信ず る者 で少 しで も哲学 に 心 す る者 な らば

,問

題 とな る個 々の場合 に

,ゎ

れ われ の他 の感覚 が 目前 の景色や音を識別す る場合 の よ うに何が正 しく

,何

が あや ま りかを識別 出来 るとす る考え方 は捨て ざるを得 なか ったか らで あ る」(3)と と ころで

,

このように

,や

や一方 的に ヒュー 本の道徳感情の立場 を確かめて来 たゎけで あるが, 甚 だ複雑 な ことは

,は

じめに述べた功利思想が

,

これ と必 らず しも相容れ がたい形で その他方 にあ るとい うことで ある。問題点を明 らかにす るためにその面 を少 しく補足 して お きたい。道徳原理研 究 において「 功用性」はいゎば主導 的原理 と して強調 され

,善

悪 が問題 とな るときの拠 りどころ, 徳 の明確 な「 標準」

(Standard)と

もい われてい る。更 には

,功

用性 の区別 と道徳 の区別 はあ ら ゆ る点で全 く等 しい

(4)と

までぃゎれ るとき

,功

用性 は先 の単なる人格価値 に共通す る事情を越え て道徳 の究極 的根拠 と して説 かれてい るかのよ うで ある。功利思想は ヒュームにあ って既 に人間本 性論 の立場 に も存す るものではあるが

,

しか しそ こではまだぃゎば底流 と して あるもので あった。 それが道徳原理研究 で表面 にひ き出 された形 である。結論部でも

,道

徳 的 区別

,道

徳 的是認 と功用 の 区別 は殆 ん ど同一視 され

,そ

の功用性是認 の原理 がひたす らに帰結 され よ うと して い る の を 見 る。 もっとも

,

ヒュームにおぃて道徳 的区別 と功用 の区別 とが同一視 されていると して も

,そ

の表 現 には甚 だ注意 は嬰 しよ う。なん となれ ば

,

ヒュームにおぃて

,功

用性 が必 らず しも徳 の全てでは な く

,功

用 とは別 に

,他

人又は当人 自身 に 「 直接 的に 快 適 な 性 質 」

(Immediatly agreeable

qualities)も認 め られて お り

,

これが徳 の四つの標準 のいわば半分 をな してい るか らで ある。 こに ヒュームの問題点 があ り

,後

に改めて取 り上 げたいが

,た

,

ヒュームによれば

,功

用 を是認 す るとはい って も

,そ

れ は功用 自体では必 らず しもな く

,そ

れ の 目的である幸福を是認 して いるの で あるとい う。

(5)功

用 その ものは幸福 の手段 と して是認 され るにす ぎないゎ けで ある。 そ こで も

,直

接 的 に快適な性質はむ しろ直接 的 に幸福の内容 を成す と見なす ことも出来 るとすれ ば

,

これ が広い意味で功用性に合 まることも或はあ りえよ う。 とにか く

,

ヒュームはその道徳原理研究 の結 論部 で この直接 的に快適 な性質を功用性 に合めて しまい

,或

は軽視 し

,徳

と功用性 は同 じもの とさ れて い るわけである。か くて幸福 の道徳 が唱え られ

,或

は徳 の幸福が描かれ る ことにな り

,逆

に 自 他 の幸福 に何 ら資す るところのない ものはむ しろ積極 的に悪徳の系列 に入れ られ る ことにな った。 以下 はその幸福 の倫理をよ く示 した もの といえ よう。「 ここで述べ られた こと

,即

,徳

をその真 実 の姿 におぃて

,

しか も甚 だ魅惑的に描 き

,ゎ

れ われ に気 やす く

,親

しく

,い

と しい気持で近づか MilI:Utilitarianism,P.2.(Everyman′s Lib.)

E.P.235-6

E, P. 286 俗 は G

(4)

兼 山 横 しめ る こと

,

これ以上 に社会 にとって有益 な哲学 的真理 が どこにあろ うか。多 くの神学者 た ちや あ る種 の哲学者 たちが彼女 にかぶせていた陰 うつな衣服 はみな脱 ぎ去 られ

,現

われてい るのはただ, 優 しさ

,人

間愛

,仁

,温

和 のみ。いや

,適

当な間隔で遊 戯

,ふ

ざけ

,お

祭 りさゎ ぎもあろ うとい うもの。 この徳 は無用 な厳粛 さや厳格 さ

,苦

痛 や 自己否定を 日に しない。彼女 の唯― の 目的は彼女 の信奉者たちや全人類 を

,出

来 る ことな らその全生 涯 に亘 って朗 らかに

,幸

福 にす るに あ る。 いつ か又十分 に償 え る希望 のない限 り決 して快 を手離 す ことはない。(6)」 も し

,功

用 或は幸福が徳 の全てであ り

,そ

れが道徳性 の究極 の根拠 であるな ら

,先

の ヒュー ムの 強調 に も抱 わ らず

,ゎ

れ われ に根源的な道徳感情或はモ ラル・ セ ンスは結局副次的な原理 で しかな い ことになろ う。否

,む

しろ不要 とな るのではあるまいか。 ヒュームのその道徳感情 の立場 と

,功

利思想 とはいかに して統一 され得 るのであろ うか。

(2)

以 前 の報告 の末尾で も一言 したよ うに

,

この問題 は単 に ヒュームに止 ま らず

,実

は最 もそのモ ラ ル・ セ ンスの独 自性を強調 したハチス ンで もいえ る もので ある。 気 高 く

(nOble)崇

高 な (Su‐

perior)感

におぃて道徳的是認をなす原理 と してモ ラル・ セ ンスを説 く一方で

,「

最 大多数 のため

に最大幸福

(the Greatest Happiness for the Greatest Number)を

もた らす行為 が最 も善 く

,同

様 に

,不

幸 をひ き起 す行為 が最 も悪 い(1)」 とす るのもハチス ンその人 だか らで ある。否

,あ

る意味では

,

これは シ ャフッベ リーやバ トラーにも見 られ る

,マ

ング ロサ クス ン共通 の傾 向で ある ともいえ よ う。 そ こで

,

ヒュームの上 の問題 をよ り粥 らかにす るために

,少

し迂遠ではあ るが

,先

ず ハ チス ンのその二 つ の原理 の関係を少 しく堀 り下 げて見 る ことに したい。特 に

,そ

の二 つ が果 し て統一 せ られ得 るもので あるか どうかを見 よ うと思 う。ただ

,ハ

チス ンの立場 には しば しば変化 が 見 られ るので それ に注意 しつつ

,

ヒュームと関係 の深 い初期 の ものか ら見てい くことに したい。 ハ チス ンにおいて最 も早い「徳や道徳的善 の観念 の起源に関す る研究」

Om lnquiry conce‐

rning the Original of our ldeas of Virtue or A/1oral Good)(1725)は

,そ

の 「 序文 」

に も示 されてい るよ うに

,二

つ の 目的を もった もの

,即

,「

この崇高 なセ ンスによ る是認 の感 の 無 私性 」 および

,「

有徳 な行為 の動機 は決 して利 己的な ものではない」 とい うことの探究 をその 目 的 と した もので あるが

,全

篇 を通 じて

,モ

ラル・ セ ンスの存在 が強調 されてい るのを見 る。 ところ が問題 は

,ハ

チス ンのその強調 にも抱 らず

,モ

ラル・ セ ンスの独 自性 は必 らず しもっ まび らかにな って いな い とい うことで ある。ハチス ンのモ ラル・ セ ンスの証 明の骨子 は

,わ

れゎれ の道徳 的是認 は無私的で あること

,わ

れわれは無私的に上述 した社会 の

,或

は他人 の幸福を是認 して い ること,

(6)E.P, 279

(5)

ヒュームにおける功利思想 とモラル ●センスの問題 従 ってゎれゎれにモ ラル・ セ ンスの存す ることを認 め ざるをえない

,と

い うにある。「 われゎれ の 是認す る行為 は人類 に とって有用 な行為で あって

,必

らず しも是認す る人 にとってではない。(2)」 「 自利 (Self‐

interest)を

考えず にゎれゎれに是認 をな さ しめ るある内 面 的 な セ ンスのあること は明 らかである。 も しそ うでないな ら

,ゎ

れゎれは徳を顧慮せず に有益 な側 に味方すべ き で あ ろ ぅ(3)。 」ハ チス ンのモ ラル・ セ ンスの証 明は大体 これ の繰 り返 しといえ る。 もっとも

,ハ

チス ンに とっては

,ホ

ッブ スや マ ン ドヴ ィル のエゴ イズムの論駁が最大 の課題で あ った とも考えれば,(4) 肯づ けないで もないが

,そ

れに して も

,

これではモ ラル・ セ ンスの十分 な証 明 とはな らないで あろ う。勿論

,そ

れ は決 して理性でない と加 え られ ることにな るがそれに して も

,社

会 や他人 の幸福 を のぞむ仁愛

(beneVOlence)の

原理 との区別 は明 白であるか。モ ラル・ セ ンスを「 公共 の福祉 の欲 望 」

(5)(deSire Of public good)と

云 いかえて い る場合 な ど

,

表現 上 も仁愛 とまざらわ しい こ

ともあるので ある。モ ラル・ セ ンスその ものが仁愛ではないと して も

,モ

ラル・ セ ンスの是認 の根 底 に

,実

は幸福価値

,功

用性 が考え られて いることがないか

,ど

うか。「 このモ ラル・ セ ンスの普 遍 的根拠

(universal Foundation)を

なす もの

,

即 ち仁愛 につ いて どこまで人類 の間で一致す る かを示すためにゎれゎれが既 にのべた と ころは

,あ

る行為 の是認 の理 由を求 め られた とき

,ゎ

れ わ れは常に公共へ の有用 さを主張す るのであって

,

本人へ の利益 で はない とい うことで あ った。(6)」 ここでは功用性 は道徳的是認 の理 由で あるよ うにも見 え る。 もっとも

,

このよ うにその証 明が不十分で

,甚

だ暖昧な ものが見 られ ると して も

,

しか しその故 に

,ハ

チ ス ンにおいて モ ラル 。セ ンスの存在 そのものを否定す るわけには勿論 いかない ことであろ う し

,そ

のモ ラル・ セ ンスを直 ちに全 く自然的原理 と して の仁愛 と同一視 して しま うわけに もいか な いで あろ う。 それ は何 よ りも

,「

研究 」冒頭か ら述 べ られて い る「 自然的善 」 (natural good) と「 道徳 的善 」

(mOral good)と

の区別 か ら来 るで あろ う。 その概念規定 には甚 だ暖昧な ものは あ ると して も

,「

道徳 的善悪 の知覚 は

,

自然的菩 や利益 とは全 く別 で ある」。

)と

せ られ る限 り, モ ラル・ セ ンスは単 な る自然的原理で はあ りえない。 いゎゅ る「 自然的才能」(natural abilities) が

,道

徳 的菩 と区別 され るのもその故で ある。

(3)又

,仁

,社

会 的功用 を是認す ると して も

,そ

の表現 に注意 して見 るとき

,必

らず しもその功用或 は幸福 それ 自体 の故 で はな くて

,む

しろ行為 に つ いて の美感 において と らえ られて い るともいえ よ う。 そ こか ら

,美

,特

に全体的調和

,秩

序 の 感 に合致 しない ものは仁愛 と雖 も斥 け られ

,逆

,ハ

チス ンで は一般 的には軽視 され がちで ある自 愛 で も時 には有徳 とされ るわけで ある。「 実際的には甚 だ有用 な行為で も

,も

しそれが他人 に対す (2) Hutcheson :Inquiry, p. 82 (3' HutchesOn :Inquiry, p. 76

(4)Cf.D.Di Raphael:The Moral Sense,p.30

(5) HutchesOn :Inquiry, p. 119 (6) H,tChesOn ,Inquiry, p. 118 (7) HutchesOn i lnquiry, p. 69

(6)

作 兼 横 る親切心か らのものでなか った ら

,道

徳 的な美 しさを欠 いてい るとうつ るで あろ う し

,反

対 に親切 や

,公

共 の福祉 を促進 しよ うとす る企てが失敗 に終 って いると して も

,そ

れ が強 い仁愛心 か ら出て い るのな らば

,最

も成 功 した もの と同 じよ うに愛 ら しくうつ るで あろ う(。)。 」「 ゎれわれ 自身 の幸 福 を放棄す ることは道徳 的に悪で あ り

,全

(the wh01e)に

対 す る仁愛 の欠 除 を示 す も の で あ る(10)。 」 先 に ヒュームで見 た行 動 についての

amiable,odious,beautifulな

ど の 感 は全てハ チ ス ンの もので あるが

,

この特殊 な

,不

可恩議 な性質(11)(OCCult quality)或 は本能 は

,教

育や習 慣 に由来す るものでない。

2)こ

とは勿論

,神

の意志か らさえ も独立 した もので あるとい う。「 神 に つ いて何 らの考え ももたず

,来

世 の報 いの考えが全 くな くて

,名

誉 や敬虔 深 さ

,仁

,正

義 の高 い 観念 を もって い る人 は多 くい るもので あ り

,来

世 の罰を全 く考え ることな しに裏切 りや残酷 さや不 正 やを忌み嫌 う」(13)か らで あ る。 モ ラル・ セ ンスの独立性 は

,ス

コ ッ ト(14)のいゎゅ る第二期 に当 る「 感情 の本質 と処 し方」

(An

Essay on the Nature and COnduct of the Passions and AffectiOns)と

,「 モ ラル・ セ ンス

イこつ いて」

(InustratiOns upOn the WIoral Sense) (1728)と

こな ると, 次第1ことまっきり して く

る。

Essayで

ハ チ スンは

,セ

ンスを五つ に分類 し

,1.外

的 セ ンス

,2.想

像 の快

,或

は内的な セ ンス,5。 社会的セ ンスと し

,そ

れ に続 いて モ ラル・ セ ンスについて次 のよ うに説 明 している。 「 第

4類

をゎれわれ はモ ラル・ セ ンスと呼 び

,

これ によ って筵ゎれわれ 自身や他人 の徳や悪徳 を知 覚 す る≫ ので あ る。 これ は上 のセ ンスとは明白に異 な った もので ある。 とい うのは

,

自分や他人 の 徳 や悪徳 につ いて殆ん ど考えないで も

,他

人 の運命 につ いてひ ど く影響 され る人 は 多 い か らで あ る」(15)と モ ラル・ セ ンスは分類上 も「 他人 の幸福を喜び

,

不幸 を厭 う」社会的セ ンス乃至同感 や

,第

5類

の名誉心 とも明確 に区別 され ることにな ったゎけである。 ここで も注 目され ることは , 上品 さ

,威

厳 のある こと

,人

間性 に適 って いること

,そ

の他 自然的才能が高 く評価 され なが ら

,道

徳 的善悪 の知覚 とは違 うとされて いることであ る。(16)11lustratiOnsにおいてハテス ンは

,行

為 の是認 と選択 (electiOn)と を区別す るよ うにな ったが

,

そ こで

,行

為 の理 由づ けに関 して次 のよ うにいゎれているのが何 よ り注 目され る。「 行為 に駆 らせ るどのよ うな理 由

(reasOn)も

そ こに既 に本能や感情を前提 してお り

,正

しい となす理 由はモ ラル・ セ ンスを前提 してい る」(17)と モ ラ ル ●セ ンスは道徳的理 由づ けの根拠 とな った。 ヒュームに深いかかわ りを もつのは以上の二期 のも の といえ よ うが

,

因 み に 後 の「 道徳哲学」

(A System of MOral Philosophy)(1755)に

(9)HutCheson:Inquiry,p.98-9

11111 11utcheson :Inquiry, P. lo4

111) HutchesOn :Inquiry, P, 156

1121 11utchesOn : Inquiry, P. 82 1131 HutchesOn : Ittquiry, p. 79 11al scott : Francis Hutcheson, P. 198

Q51 HutchesOn:Essay,P.394(BtttiSh MOralists,Selby― Bigge,ed.) 仕O IIutChesOn : Essay, P. 394

(7)

ヒュームにおける功利思想 とモ ラル ●セ ンスの問題 れ てお どと

,そ

のモ ラル・ セ ンスは多 く「 道徳的能力」(mOral faculty)と も呼ばれ

,バ

トラーの 影響 もあって著 しく権威 あるもの

,威

(dignity)の

あ るものと して高め られて来 てい るのを見 る。 それに伴 って

,功

用 か らの独立 もよ り明確 に うたゎれて来 ている。ハチス ンによれば

,ゎ

れゎ れ に とって

,否 ,社

会全体 に とって有用 な気質や行為で

,

しか も崇め られないよ うな ものが沢 山あ るとい う。(13)美 感 が全て功用性 に帰着 され るものでないよ うに

,(19)道

徳 にお いて も

,「

その も のが よい

(eXCellent)か

らそれを眺めて心地 よ く感ず るので あ って

,

それがゎれゎれ に 快 を 与 え るか らよい と見 な されてはな らない(つ。)」 ので ある。つ ま りわれゎれは幸福 におぃて道徳 的 に 善 い とい うよ りも

,道

徳 的善 におぃて

,或

はモ ラル・ セ ンスにおぃて

,幸

福 にな るとい う べ き で あ る。('つ 例 の 自然的才能 について もいわれてい るが

,

注 目され ることは

,

それ は品位

(grace),

威厳

(dignity)あ

るものとまで賞讃 されなが ら

,

しか し

,「

道徳的是認 とは全 くちが った感 じで あ る」。

2)と

して斥 け られ るので ある。 モ ラル・ セ ンスは

,そ

の特殊 な感 じに

,本

質 を もつ といわ ねばな らない。 ところで

,上

におぃてゎれわれは

,ハ

チ ス ンのモ ラル・ セ ンスの独 自性 を可能 な限 り確 かめて来 たわ けで あるが

,注

意 され ることは

,独

自な原理 とはいって も必 らず しも

,絶

対 的

,固

定 的で ある ことを意味 しない ことである。ハ チス ンはその初期 か らモ ラル・ センスの普遍性 (universality) を強調 してい るが

,(23)し

か しこれ も絶対的な意味でいわれてい るものでな く

,モ

ラル・ セ ンスは む しろかな り変化 し

,啓

発 され うるもので あ り

,(24)ぁ

る程度 の相対性 を もつ ことも必 らず しも否 定 され て はいないので ある。(2め しか し

,そ

れで も

,他

の五 官 よ りは

,は

るか に普遍的で あるとい ぅ。(26)ハ チス ンによれば

,道

徳 的是認 が違 うのは

,実

,モ

ラル・ セ ンスの相違 とい うよ りむ し ろ

,セ

ンスに提示 され る観念

(nOtiOn)ゃ

,

意見

(OpiniOn)の

違 いによるもので

,「

道徳哲学 」 に よ ると

,主

には

,幸

福 につ ぃて の観余や

,行

為 の及 ぶべ き社会 の範囲につぃての考 え方

,更

には 神意 につ ぃて の観念 の相違な どによって違 って来 るのだ とい う。(27)そ のことか ら直 ちに

,モ

ラル ・ セ ンスに既 に理性 が先立 ってぃ ると見 る必要 は必 らず しもないゎけであるが

,

しか しそ こにおぃ て ともす ると

,功

用や神意がモ ラル・ セ ンスの独立を侵 し

,更

にはモ ラル・ セ ンスの根底 の原理 と して働 らいてい るか のように見え るものがあ る。例えば

,「

父親 にその子供 を確 認 させ る ことを有 益 な ことと思 わず

,又

,そ

れを望 まれ ない国が も しもある と した ら

,父

親 どもは

,

もつ と文 明国で 鰯 HutChesOn i system,p. 191 HutChesOn : System, P, 1201 HutChesOn:System,P.

9, HutChesOn:system,p.

1221 HutchesOn:system,p. 1231 HutchesOn:Inquity,p. 囲

HutChesOn:system,P.

2rDI HutchesOn:Inquiry,p。 961 Hutcheson:Systen,p. 閉 HutChesOn i System,p. 81 18 19 27. 55 27--8 127 60 150 89 92--5

(8)

作 兼 横 な ら社会 に とって 破滅 的な ことと思 ゎれ ることを して も

,

少 しも道徳 的 に悪 い こととは思 わない で あろ う。(28)」 神 意 につ ぃて の観念 の相違がいかにモ ラル・ セ ンスを 狂 わす ことか。(29)初 期 の Illustrationsな どにおぃて も

,

モ ラル・ セ ンスの普遍性

,そ

の正 しさにつぃて様 々の問題 が出 さ れてい るが

,そ

の際 のそれ らの拠 りどころ

,あ

や ま って い る場合 の訂正 の根拠 は

,や

は り

,社

会へ の功用 であ り

,功

用 を基準 とす る多数 の判断で あ り

,神

意 で ある。(30) ハ チスンのモ ラル・ セ ンスの独 自性 につぃては多 くの問題点が指摘 されているところであ り

,わ

れ ゎれ の考察 も決 して十分 な もので はないが

,上

に見 るよ うに

,モ

ラル・ セ ンスに立 ってぃ る筈で あ りなが らいつ の間にか功用 を更 に究極 の根拠 と してい るかに見え るとき

,

しか し/Fら その功用 に も帰 して しまえない何かが常に残 るのを見 るとき

,わ

れ ゎれは これをそのまま

,ハ

テ ス ンにおける 二 つ の根拠 と見 る しかないのではあるまいか。ハチス ンにおぃては勿論 モ ラル・ センスと功用 は密 接 な 関係を成 してい るもので あるが

,

しか し

,あ

る意味では ヒューム以上 に相容れがたい別 々の根 拠 と して並列 してい ることにな らないか。実践 に関 してそれが よ くあ らゎれて来 るよ うで あ る。ハ チ ス ンは時 々

,モ

ラル・ セ ンスを道徳的実践 の能力 とも見 な してい るが,(3つ しか しその徳 のすす めにな って結局

,何

よ りも当人 の幸福を語 るとき

,(32)ゃ

は り

,そ

の二元性 があ らゎれて くるのを 見 る。ただハチス ンにおいて

,ぃ

ゎば互 い に独立 してぃ るその二つ の根拠 の間 に統一 が あ るとす れ ば

,そ

れ は結局神学的解決 による以外で はないのではなかろ うか。「 われゎれ のモ ラル・ セ ンスは, 優 しい情 をすべて是認す るよ うにつ くられてい るが

,神

は この ことが彼 の被造物 の幸福 に向 うとい うことを知 って居 られ るに違 いない。従 ってそれ は神 の優 しい情や仁愛 の証 しで あ り

,そ

こか らわ れ われ は神 を是認す るもので ある。(33)」 ここには

,モ

ラル・ セ ンス と

,全

体 の幸福 と

,神

の意志 とがいわば二つ 巴にな ってい るともいえよ う。 後 の 「 道徳哲学」 の立場 に至 るとこれ は更 に進 ん で

,

神 の善 さを確 かめ

,

愛 す る ことな しには

,

ゎれ われ に真 の幸福 も

,

道徳 もあ りえない とされ る。(34)

(3)

さて

,わ

れ われ は

,

このハ チス ンか ら再 び ヒュームに戻 らな くてはな らない。 ヒュームの先 の二 つ の根拠 の問題 を

,ハ

テス ンを も背景 と しつつ

,考

えて見 るとどうなるか。 ところで

,

ヒュームにおけるその問題 の解決 は

,結

,

ヒュームのいゎゆ る内的なセ ンス

,い

ゎ 1281 HutchesOn 99 HutchesOn 80 HutchesOn ell Hutcheson 32 HutChesOn ω HutChesOn 90 HutchesOn System, P,92 System, p` 95 111ustrations p. Inquiry, p. 106. Inquiry, p. 155 11lustratiOns P. System, P, 204. 413ff System, p. 61∼2 412cf. Inquiry, p. 175 217.

(9)

ヒュームにおける功利思想 とモ ラル ●セ ンスの問題 ばモ ラル・ セ ンスにあた る ヒューマニテ ィの原理 の性格 にかか ってぃ るとい って もいいであろ う。 そ こで先ず

,そ

の ヒューマ ニテ ィの原理 と功用性 との関係 を

,ハ

チス ンを念頭 において見直 して見 る必要が 出て くる。 結論的 にぃ うな らば

,甚

だ驚 ろ くことに

,

ヒューマニテ ィは

,ハ

テス ンにおいて正 に功用性 との 関係で問題 とな った治の原理 で あるとい うことになる。つ まり

,

ヒューマニテ ィは功用性 と一体的 な原理

,或

は功用 のセ ンスそのもので ある

,

とい うことも出来 よ う。 ヒューマニテ ィにおいて

,モ

ラル・ セ ンス はいゎば功利主義 の方 向にス ッキ リと整理 された感 じで ある。 この原理 そのものについては以前 の小論でやや くゎ しく検討 してあ るので

,そ

の詳細 は省 き

,次

の三点においてそれ を簡単 に指摘 してお こうと思 う。

a)ヒ

ューマ ニテ ィは仁愛 の原理であること。 改 めて述 べ るまで もな く

,

ヒューマニテ ィは概念的 には

,人

間本性 論 の場合 と違 って人類愛で あ り

,仁

,友

,思

いや り (fellOW‐

feeling)と

同 じもの とされ てい るもので ある。仁愛 が果 して 真 に道徳 的区別 の原理 た りうるか どうかは勿論問題 であろ うが

,ハ

チス ンにおいて見 たよ うに

,他

人 や社会 の幸福 を選択 し

,不

幸 を厭 うには問題 はないで あろ う。 そ して又

,

ヒュームが ヒューマニ テ ィにおいて道徳飽区別 をなす とい うとき

,

それ は

,

この幸福 の選択

(preference,choice)以

上 の意味を もった もので は必 らず しもないのである(1)。 も しそのよ うに

,ゎ

れ われ に本来的に備 ゎ る道徳感情或はモ ラル・ セ ンスが実 は仁愛 の原理 に他 な らない となれ ば

,そ

のよ うな本来 的モ ラル・ セ ンスを認 めない功利主義 の立場 と決 して相違 うも のでない とは

,

ミル が

f功

利主 義」で言 明す るところであった。「 (義 務 の念 が先天的な ものか, 後天 的な ものか とい う

)問

題 で も し何か先天的なものがあると した ら

,私

はその先天的感情が他人 の快苦 に対す る配慮 のそれ で あ ってはな らない理 由はない と思 う。 も し

,直

覚 的に義務 的であるよ うな道徳 の原理 が あ ると した ら

,そ

れ は きっとこのよ うな他人へ の配慮で あるに違ぃない。 も しそ うな ら

,直

覚 的倫理学 は功利主義 の考 え と一致 し

,両

者 の間 には 最 早 や

,

争 うことはな いで あろ う。(2)」

b)ヒ

ューマニテ ィは実際は同感であるが

,

ヒュームはそれを仁愛 と見な した こと。 ヒューマニテ ィは上 に見 た よ うに概念的にはた しかに仁愛 の原理 ではあるが

,「

一 般 的 仁 麦 (

general benevolence)と

も呼ばれて友情 な どと若子 の区別 も見 られないではない。(3)そ して又 実 際

,

ヒュームの ヒューマニテ ィの現実 と しているものは

,

初期 の同感 原 理 に他 な らないので あ る。 ところが

,人

間本性論 の同感 はエゴイズムの原理 ではない と して も仁愛 の原理 で もなか った。 それはあ くまで も

,情

緒 の無私 的な コ ミュニケー シ ョンにす ぎない ことは以前述べた と こ ろ で あ (1〕 Eo p。 235.271 (2)Mill:Utilitarianism,p.28(Everyman′ s Lib) (3)Eo p.298.f.n

(10)

作 兼 横 る。

(4)道

徳原理研究 の ヒューマニテ ィも時 には同感 とよばれ

,殆

ん ど両者 区別 な くつかわれてお り

,そ

の説 明例か らして も

,初

期 の同感 と余 り違 った ものでない ことも前 の小論 で述べた。 しか る に ヒュームは

,そ

の同感或は ヒューマエテ ィを

,以

前 のよ うに必 らず しも快苦 の コ ミュニケーシ ョ ンではな く

,幸

,不

幸 の コ ミュニケー シ ョンにおいて と らえ

,幸

福 のセ ンス

,仁

愛 と見 なそ うと し てい るわけである。 これは何を意味す ることにな るか。前に

,

これは

,道

徳 的判 断 の無私性

,快

楽 主 義 の克服 を意味す るものであろ うととらえたが

,そ

れ もさる ことなが ら

,そ

の微妙 なニ ュア ンス が示 す よ うに

,む

しろ同感を功用性

,幸

福 と結 びつ けよ うとす る意図を表 ゎ した もの ととるべ きで はなかろ うか。 もともと

,人

間本性論 の同感 は

,仁

愛 で はないが

,

しか し

,功

用性 と全 く相`容れない もので もな か った。 そのことは以前指摘 した ところで もあるが

,そ

れ は人間本性論 の公刊前 にハ テス ンに宛 て た 次 の書簡が簡潔なが らよ く示 してい るよ うに思 う。「 ついては

,公

共 の福祉

(publiC good)ゃ

個人 の幸福本 の傾向な しに有徳 であるよ うな性質が一体 あるか どうか

,考

えて戴 きたい。 も しこれ らの傾向な しにはあ りえない となれば

,ゎ

れ ゎれはそれ らの価値 が同感か ら来 ると結論 していい と 思 う。(5)」 ここには

,

ヒュームの功利思想がかな り早 い時期か らのものであ る ことも示 されてい る わけである。 ヒューマニテ ィにせ よ

,同

感 にせ よ

,ハ

チス ンのセ ンス の分類 か らすれ ば

,モ

ラル ・ セ ンス とは全 く異 ったもので ある ことはい うまで もない。

C)ヒ

ューマニテ ィの導入 において功用性 と一体 であること。 そもそ も

,道

徳原理研究 において ヒューマニテ ィを は じめて導入す るとき

,実

はそれ は功用性 か ら導 かれた ものである ことに留意す る必要があろ う。 ヒューマニテ ィの独 自性 はいわばその後か ら つ け加 え られた ものなのである。 その次第を もう少 し敷行すると

,

ヒュームは先 ず

,誰

で もが賞讃 す る徳 と して

,仁

愛 と正 義 の徳 を掲 げ

,そ

れ らの徳 において価値 と して共 通す る事情 を探 し求 めて 結 局

,仁

愛 の徳 の価値 は少 くともその一部

(a part)は

人 々にもた らす恩恵

,つ

ま り功用 にあると 見 出す。正義 の場合 は更 に仁愛 と違 って

,そ

の賞讃

,是

認 は全て (all)社 会 に もた らす功用 の故 で あるとい う。 このように

,ゎ

れ ゎれが社会的徳 を賞讃す るのは主 にその功用 の故である ことが明 らか にな ったが

,で

はその功用を賞護

,是

認す る気持 は一体 どこか ら来 るので あるか。 ヒュームに よれば

,そ

の功用 の目指す ところの ものが何程かゎれゎれにとって も快適 でな くて はな らず

,

自然 的 な感情 に訴えるものでな くてはな らない筈 とい う。従 ってそれは「 自利 の観点か らか

,或

は もっ と気前 のよい動機

,配

慮 か ら来 るものかの何れかに違 いない。

(6)J

ヒュ

_ム

は ここで それは決 し て 自利 によるものでない ことを数 々の例を上げて証 明 し

,結

,「

社会 の幸 福 に 資 す るものは全 て

,直

接 的 に

,ゎ

れゎれの是認 と好意を うける」

(7)と

結論 したので ある。 ヒュームによればその 拙稿「 ヒューム道徳感情 の一考察 」― 同感原 理を 中心 として一

Burton : Life and COrresPondence of David Hume, 11

E.p.215

E. p.219 , (鳥取大学教養部紀要第二号) P, 115 n 動 o η

(11)

ヒュームにおける功利思想 とモ ラル ●センスの問題

11

原理 が ヒューマエテ ィに他 な らない。ゎれゎれ は ここでハ チス ンの「 研究」での問題点を思い出す が

,

この限 りでは

,

ヒューマニテ ィの原理 はむ しろ

,

当初か ら

,功

用 を是認す るためのセ ンス

,功

用 のセ ンス と して導入 されていることになるわ けである。

(4)

と ころで

,

このよ うに ヒューマニテ ィは功用 のセ ンスであるとなれば

,

この ヒューマニテ ィにお いてゎれゎれの最初 の問題

,統

一 しがた く見 え る二つ の根拠 の間が

,少

くとも形式的にはつ なが っ た ことになろ う。 それは

,人

間本性 に生来 的に存 す る普遍的な原理 と して

,先

の内的なセ ンスを説 明す る もので もあ ったか ら。 しか しなが ら

,ゎ

れゎれが先 にハ チス ンを通 して確かめた と こ ろ で は

,モ

ラル・ セ ンス と功利主義 との統一 は甚 だむつか しく

,結

局は神学 的解決を必要 とす るものの よ うで あ った。 ヒュームの内的なセ ンスがモ ラル ●セ ンスに近 ければ近い程

,そ

れ と功利思想 との 統一 はむ つか しい筈であろ う。 ヒューマエテ ィによる統一 に果 して問題 がないで あろ うか。 ところが

,初

め にも述べたように

,

ヒュームは

,道

徳 的区別 と功用 の区別 は全 く等 しい と確信 し てい るので ある。「 さて

,

この (功用 の

)区

別 は

,そ

の あ らゆ る点 において道徳的区別 と

,そ

の根 樋 につ いて これ まで実 に しば しば探究 されて来 なが ら無益 に終 っているその区別 と全 く等 しいので あ る。 同 じ心 の資質が

,い

かなる場合 に も

,道

徳 の感情 とヒューマニテ ィの感情に心地 よいのであ

,同

じ気質が双方 の感情 に強 く訴え るので ある。接近や結合 によって様 々の対象 に同 じ変化が生 じると

,双

方共 に活気を呈 して来 るのである。 そ こで

,哲

学 のあ らゆ る規則 によってゎれゎれは次 のよ うに結論 しな くてはな らない。即 ち

,

これ らの感情はもともと同 じものなので あると。 とい う のは

,個

々の場合 に

,

しか も極 めて些 々たる点 においてす ら

,そ

れ らは同 じ法則 に支配 され

,同

じ 対 象 によ って動か され るか らである。(1)」 しか し

,果

して

,

ヒュームの確信す るよ うに

,道

徳 的 区別 と功用 の区別 は全 く等 しいか どうか。 も し

,両

者 の間 に くい違 いのあるとき

,

ヒュームは これ にいかに対す るか。

a)こ

れを

,先

,

ヒューマニテ ィ或は功用 の感 による区別 の性格か ら検討 していこうと思 う。 先 に も一 言 したよ うに

,

ヒュームにおいて ヒューマニテ ィによる道徳 的区別 とは実は幸福の選択 に 他 な らなか った。 ヒュームによれば人間は不決断の ロバ とちが って必 らず 有用 なもの と有害 なも

,幸

福 と不幸 の区別を し

,前

者 を選択す る筈で ある(2),とぃ ぅ。 ところで

,道

徳 的区別 とはそのよ うな幸福の選択 に他 な らないな らば

,逆

に幸福の イメー ジを起 す ものは一一 勿論

,

心 の性質

(qualities of mind)を

無私 的 に見て一― 全て徳 とい うことにな る。 も しそ うだ とす るな らば

,

これはハ チス ンのいわゆ る「 自然的善」ではあっても

,必

らず しも

E, P.235-6

E. P.235 ほ 鬱

(12)

作 兼 山 横 「 道徳 的善 」 とはな らないのでなか ろ うか。 も っとも

,ハ

チス ンにおいて も

,そ

の「 道徳的善 」の 概念 は必 らず しも明確 な もので はな か ったが

,

しか し

,そ

のモ ラル・ セ ンスは必 らず しも単 な る自 然 的感で はな く

,「

不 可思議 な本能 」による特殊 な感 じで もあ った筈で あ る。 それが もっともよ く あ らわれた ものが

,

しば しばふれた「 自然的才能 」で あった。 ところが

,

ヒュームでは

,

これを感 じにおいて除外す る理 由はあ りえないのである。「 言葉 につ いてか くも甚 だ しく神 経 質 に な った り

,そ

の感 じが徳 の名 に価 いす るか どうかを論議す る理 由が一体 どこにあ るのだろ うか。た しかに これ らの性質 の生 み出す是認 の感 じは

,正

義 や人類 愛 の徳 に伴 うもの よ りは劣 って い る

0カ

″力″) か も知れず

,更

に何 か しら異 っている 傲

"廃

)と

いえ るか も知れない。 で も

,

それが

,

これ ら の性質を他 の分類 や名称で括 って しま う十分 な理 由 とは思 われない。(9)」 価値 において劣 り

,何

か しら感 じがちが うことまで一応認 めなが らも

,そ

れを斥 ける理 由にはな らない とい うので ある。 初 期の同感が道徳原理研究で本源的 ヒューマニテ ィにな って一歩 モ ラル・ セ ンスに近づいたかのよ うに見 えたが

,

しか し

,必

らず しも

,そ

うで はない ことを これは よ く示 して い ると思 う。む しろ功 用 の感 とな る ことに よ って

,有

用 な るものは一層是 認 され る ことに もな り

,そ

こか ら身体的にす ぐ れ た もの

,財

富の あ るものの賞讃 まで殆ん ど

,同

じもの と して加え られ いて るのを見 る。

(4)こ

れ は もはや

,モ

ラル・ セ ンスではない。 ヒューマニテ ィの是認 が このよ うに必 らず しもハ テス ンの「 道徳 的善 」 とな らない ことは

,更

に 正 義論 において もよ く見 られ る。道徳原理研究 の正 義論 は

,人

間本性論の場合程

,そ

の人為性 が強 調 され てはいない が

,

しか しここで も

,正

義 の価値 は全 て それ の功用性 に ある とされ

,正

義は その 功用 の故に人為 的 ぃつ くられたものであことは否定 されたゎ けで ない。 そ こか ら

,

功用 の関知 し な い ところでは

,正

義 は意味をな さない。例えば

,「

船 が難破 した とき

,以

前 の所有 の制 限を無視 して掴み うる限 りの手段 や道具を奪 ったと して も

,果

して罪 とな るや?(5)」 正 義は

,

ヒュームに よれば

,社

会 にお いて最 も賞讃 され る徳で あるが

,

しか し

,そ

の賞讃

,是

認 の念 は

,決

して生来 的 に

,道

徳独 自のもの と してあるのではないとい う °

(6)も

しそ うな らそれは一般 的功用 に伴 ってい わば二次 的に生 じて来 る感情 で しかない ともいえ る。 既 に前章 で

,

ヒュームの ヒューマニテ ィの原理 と

,ハ

チス ンの モ ラル・ セ ンス の違 いは明 らかで あ ったが

,上

に見 たよ うな 自然的オ能や正 義の感において

,

ヒュームの ヒューマニテ ィ或は功用 の 感 と

,道

徳 的区別 を生来 的 の もの と見 る立場 との距離 は更 に明 らかにされ たわけで ある。

b)そ

もそ も

,現

実 に道徳 的区別 とされて い るものが果 して全 て功用 の区別 なので あろ うか。 も しそ うでない と した ら

,

ヒューマエテ ィは道徳 の根本原理 と して必 らず しも適 当ではない ことにな ろ う。 これを ヒューム 自身がその観察 の素材 と したものか ら敢 えて探 って見 よ うと思 う。

_

p p p p 0 囲 O ⑥ E. E. E. E.

(13)

ヒュームにおける功利思想 とモラル・ センスの問題

15

何 よ りも問題 とな るのは

,最

初 に述 べ たあの「 直接 的に快適 な性質 」で あることはい うまで もな い。 ヒュームもい うよ うに

,「

この是認 の感情 には

,功

用 或は未来 の有益 な結果 の考えは何 ら入 っ ていない」筈 だか らで ある。 しか しそれ にも抱 らず

,同

じ功用 の感によ って是認 され るとい う。 ヒ ュームによれば

,「

これは社会的

,個

人 的 な功用 の考えか ら生 じる

,あ

の別 の感情 と類似 した感情 で ある。人類 の幸福や不幸へ の同 じ社会的同感

,或

は思 いや りが双方を生 む ので ある。(7)」 ここ には表現上の曖昧 さもあると思 うが

,そ

れは ともか く

,い

か に して功用 と異 な るものを功用 のセ ン スで是認す るのであろ うか。 その統一 は結局

,初

め に述 べたよ うに

,

これ らの性質 はその快 におい て直接的 に幸福の内容を成 す と考 え ることによる しかないで あろ う。 ところが問題 は

,

これ らの性 質 の是認 の例 に注 目す るとき

,広

義 の意 味に とって も必 らず しも功用 の故 とのみいいがたい ものを 見 ることで あ る。「 ソク ラテスを尊敬 しない ものが一体 い るだ ろ うか。 ひどい貧乏 と家庭的な悩み の中で

,常

に静 かで

,満

ち足 りて お った ソク ラテ スを。彼 は友人 や弟子 の援助 を全 て断わ り

,恩

義 に頼 ることをさえiRIけて

,富

を軽蔑 し

,

自由を守 ったので あ る。(3)」 ヒュ

_ム

は これを 当人 自身 に直接快適 な性質 の例 と して あげているので ある。 ソクラテスの賞讃

,尊

敬 はた しか に事実 で あろ う。 そ して ソクラテス 自身

,あ

る意味では上 に述 べたよ うに快適で

,幸

福で あ ったか も知 れない。 しか し

,そ

の ソクラテスの快

,

ソク ラテスの幸福 の故 にのみ

,人

は皆

,彼

を尊敬 しているので あろ うか。 この直接 的 に快適 な性質 につ いては

,人

間本性論で も勿論述べ られてい るものであるが

,

し か し

,そ

の是認 の根拠 は

,む

しろ基本的 には

,観

察者 の側 の感 じにあ った といえ よ う。 つ ま り

,基

本的 には

,先

のハ テス ンの美的なモ ラル・ セ ンスの立場 に立 っているわ けで あるが

,こ

の道徳原理 研究 で も

,

自他 に直接快通 とされ る多 くの例 に

,む

しろ功用 の故 とい うよ りは

,そ

の立場 に近 いも のを見 ないで あ ろうか。「 礼儀正 しい こと

,或

は年齢や性や役割

,社

会 的地位 に適 ゎ しいよ うにつ とめ る ことは

,直

接 的 に他 人 に快適 な性質 とされ て

,そ

の故 に賞讃 され是認 され るで あろ う。男性 の女 々 しい振舞 い

,女

性 の荒 々 しい態度

,

これ らはそれぞれの役割 に不適 当で

,そ

の性 に期待す る 性 質 と違 っている ところか ら醜 いので あ る。 …… その不 釣合 が 目に さわ り

,眺

め る者 に不快な感 じ を与え

,非

難や否認 とな るので ある。(9)」 これ らはた しか に眺め る者 に快苦 を与え よ うが

,賞

や非難 はその眺め る者 の幸不幸 か らで は必 らず しもな く

,そ

の快苦 に既 に

,あ

る種 の評価基準

,或

は期待感が先立 っていないで あろ うか。「 動物 的な便宜や快楽 は次第 にその価値を減 じよ うが

,内

面 的 な美 しさ

(inWard beauty)ゃ

道徳 的優雅 さは

,

努力す る毎 に身 について

,精

神 は次第 に完 成 に向い

,理

性 的存在を美 しくしているので ある。(10)」 これを単 なる功用 の感 に基 づけるわ けに はいかないで あろ う。 道徳 的区別 の全てを

,功

用 の区別 と見 るには

,多

くの問題 がある ことが示 され たわ けで あ るが,

(7)E. p.260

(8)■, P・ 256

(9)Eo p.266

19 E.P,276

(14)

作 兼 横 しか し

,

ヒュームは

,あ

らゆる徳を有用 と快適に分類 し

,結

局は

,功

,幸

福に合めることによっ て

,道

徳的区別 と功用の区別は全 く等 しいと見 なすゎけである。 そこか ら例えば

,真

実 (truth) や正直なども社会や当人に有益 であるが故に是認 されるものとなり

,(11)逆

,

如何 に して も功 用

,幸

福に入 らないものは

,た

とえ事実 としてあるもので も

,

それは迷信

,

狂信 によるものと し て

,む

しろ積極的に悪徳の系列に入れ られることになった。そこには

,あ

る意味では

,か

なりの無 理があったといゎねばな らない。 これは一体

,何

を意味するものであるか。

(5)

結論 的 にい うな らば

,

ヒュームは この道徳原理研究 に至 って新 しい徳 の体系を

,

つ ま り功利主 義

,或

は幸福を究極価値 とす る新 しい倫理学を打 ち立 て よ うと してい るものではなかろ うか。われ ゎれの初 めの問題 は結局

,

ヒュームのその倫理学 の意図の問題 に帰着す るのではあるまいか。 このことは

,道

徳原理研究における立場の変化を考え合わせると更に明瞭になるようである。周 知のように ヒュームは

,道

徳原理研究 に至 って以前の徳 の解剖家の立場を捨てていゎば徳の画家と な った。徳の美 しさと悪徳の醜 さとを拙 くことによって人を前者につか しめ

,後

者を厭 うようにさ せるのがその倫理学のつとめとなった。

3)こ

れにはハチス ンの影響が甚だ大 きいものがあったこ とはよ く指摘 されているところであるが

,人

間本性論の立場ではかた くななまでその解剖家の立場 が固執 されていた。それは人間本性論の末尾でもヒューム自身によって述べ られているところであ るが

,ハ

チス ン宛の書簡に同じような表現ながら更によ くあらゎれている。

(2)と

ころで道徳原理 研究で徳の画家 としてそれをすすめるとき

,そ

の徳は当然に実践 しうるものでな くてはならない。 そ して実践的な徳 とはゎれゎれの感情に訴えるもので

,そ

れ 自体 目的であるようなもの

,(3)っ

りは

,「

徳がゎれゎれの幸福 となり

,悪

徳が不幸 となる」

(4)ょ

ぅなものでな くてはな らない。 ヒ ュームはこのようにもいっている。「 それが個人の利益になることを示 さない限 り

,い

かなる徳の すすめも無駄である」

(5)と

。けだ し

,幸

福を求め

,苦

痛を避けるのはわれゎれにとって最も根源 的な欲求であるか ら。(。) ところで

,功

利思想は

,既

に人間本性論の時にいわば底流として存 していたことは

,

しば しば述 べたところであるが

,道

徳原理研究に至 って ヒュームは

,

このような立場の変化と相 まって

,そ

の 底流 としてあった考えを

,む

しろ表面に出すべ き必要性を感 じたのではなかろうか。幸福が究極の

lo E.p.238

(1)E. p. 172

8:!∵

Ъ

jtte and CttwOnden∝

d Da

d Hum∵

μ■

2

(4)E. p. 173

(5)E. p. 280 (6)E, P, 293f

(15)

ヒュームにおける功利思想 とモラル ●センスの問題 価値であ ること

,社

会 的

,個

人 的幸福以外 に道徳 の根拠 はあ りえない ことを ヒュームは今

,は

っき りと確信す るよ うにもな ったのであろ う。 そ こで

,そ

れ に基づいて

,幸

福 の道徳を新 しい休系 と し て樹立 し

,そ

れを説 きすすめ ることを主眼 と したのではあるまいか。 それが

,最

初 われわれが見 た 幸福 の徳 なので あろう。 勿論

,

この ことは

,決

して事実を無視す ることを意味す るもので はない。む しろ ヒュームのその 幸福価値 はあ くまで事実 の観察 か ら

,つ

ま り経験 的確信 と し て 導 き 出されたものであ り

,そ

れ故 に

,「

ほんの一瞬 な りと

,

自分 の胸 に手を 当てて考えれば」

,(7)誰

で もわか ることなので あ る。 事実 と観察 に基づかない倫理学 は ヒュームの企 図す るところで は決 して ない。

(8)そ

して又

,そ

れ 故 に こそ ヒュームは幸福道徳是認 の原理を あ くまで人 間本性 に探 し求 めよ うと したわけで あ るが, ただ

,

この道徳原理研究 の ヒュームは

,必

らず しもその現実 の

,或

は事実 の原理 の分析

,解

明を そ の倫理学 の主眼 とす るものではな くなったのだ と思 う。 た しかに事実 に基 づ く価値靭ではあるけれ ども

,

しか しそれ も必 らず しも事実の全 てか ら来 た もので もな く

,事

実 を事 実 として忠 実 に 分 析 し

,完

全 な る帰納法で その価値 の根拠を導 出 したとい うよ りは

,事

実 の中の主 た る力を もつ もの の 発見で

,事

実 の分析 は中止 した とい うことで なかろ うか。 ある原理 が明白な場合 それ以上むつか し く考え る必要 もない し,(の どこかでゎれゎれの究極原理 の探究 は中止せねばな らない(10)と も云 う。道徳原理研究では

,人

間本性論 と比較 にな らない程 に多 くの事例が並べ られてい るが

,そ

れ も 決 して単 な る羅列ではな く

,

全 て ヒューム 自身 の理論 の裏付 けと して用 い られている(・

)こ

とはい うまで もな い。 しか し

,

その理論付 けその ものが実 は必 らず しも事実 の分析解 明のためだけで は な くて結局

,徳

の美 しさと悪徳 の醜 さを示す ことに連 な ってい ることが気付 かれ るのである。煩雑 な議論 と見 え るものが全て付録 に うつ されてい るの も

,議

論 のための議論 に近 い形 と見 えて徳 のす す め とはやや遠 くなることが

,そ

の最 も強い理 由で あ った と見 ることも出来 るのではあ るまいか。 道徳原理研究 の立場 が

,人

間本性論 の立場 よ りも思想的に進歩 した とは必 らず しもいえないで あろ うが

,

しか しヒューム 自身 に とっては

,ひ

たす らに

,モ

ラル・ セ ンス と して のいわゆ る「 特殊 な快 苦 」の解 明

,そ

の原理 の探求 に徹 した人間本性論 の立場 とはかな り違 って

,

この新 しい倫理 の体系 の建設 は大 きな意味を もったもの と思 ゎれ る。 ヒューマニテ ィの原理 は

,

ヒュームの この新 しい徳論 の方 向に生来 的 な原理 を統一すべ く

,そ

の 後 か ら求 め られ た ものではあるまいか。 それはた しかに

,い

かな る人 間 もが持つ普遍的

,包

括 的 な 幸福 の感(12)で あ るとされ る限 り

,幸

福道徳 と符号 し

,

これのみが幸福価値 と生来的な心情 を一元 化 しうるもの ともいえよ う。 その意味では

,

ヒュームの功利主義 は大 きな持徴 を もった もの といえ (7)E` p. 174

(8)E. p.175

(9)E. p.219

11111 E, p. 219-20fin

tD E.p. 177f

2 E, p.272

(16)

作 兼 山 横 1る る 。ただ

,わ

れゎれが最初 に見た

,根

源的道徳感情

,或

1ま内的セ ンスがこのヒューマエティと同じ ものと いえるかどうかは甚だ問題 であ ろう。既に人間本性論においても

,そ

の基本的道徳感情乃至 モ ラル・ センスの立場 と

,同

感の間にはかな りのギ ャップが見 られていたことであった。 しか しヒ ュームは

,そ

れを敢えて幸福 のセンスと見なそうとい うのである。 これは一面ではハチスンなどの 考え方を受 けつ ぐものであるが

,

しか し本質的イこはそれと全 く異質の道徳論を打ち出 したことにな るう。。そのモ ラル・ セ ンスの特殊な感 じとの決定的な距離 をゎれゎれは

,「

最近の哲学

,特

に倫 理学は全て神学 と結托 している」。

9)と

いう批判に見 るように思 う。 仕31 B, P, 322

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