教養部廃止 と今後の「一般教育」のあ り方について
武 田 修 志 (平成 5年 6月18日受理) 鳥取大学教養部 は,今
回の,平
成3年
(1991年)初
頭 に始 ま り, 2年
余 りを経た現在 もなお続 い ている大学改革論議の過程で,ま
ず,改
革の1つの大 きな方向 として,教
養部 を廃上 し新学部 を創 設す る構想 を打 ち出 し,全
学の合意 を得た。 その後,文
部省 との折衝 を重ねる中で,新
学部構想 は 破綻 したが,し
か し,教
養部廃止の方針 はその まま定着 した。 その結果,未
だ部局 としての教養部 は存続 しているものの,既
に平成5年
4月 入学の学生か ら一― これ までのように最初 の2年
間 は教 養部 に所属す るとい うことをせず一-1年
次 よ りそれぞれの専門学部 の学生 として,一
般教育科 目 の単位 を大幅 に削減 した新 カ リキュラムの下で,学
び始 めている。 私 は昭和50年 (1975年)4月
か ら18年間 この教養部で ドイツ語教師 を務 めて きた者であるが,大
方の同僚諸氏の「研究第1,教
育第2」 の姿勢 とは逆 に,終
始,「教養部 にあっては教育が第一義」 との考 えでや つて きたので,今 ,教
養部「解体」の時 を目前 にして,感
慨 なきを得 ない。 この機会 に,自
己の体験や見聞 をも交 えなが ら,こ
れ までの大学 における教養部教育 を反省 し,同
時 に,こ
れか らの「一般教育」のあ り方について考 えてみたい。 今 回の教養部廃止の方針 を打ち出す までに至 った,わが大学 における改革論議の中で,印象 に残 っ た ことが1つある。それは,「教養部教育 はそれな りにうま く行 っているのだか ら,教
養部 は存続す べ きである」 とい う意見が全 くどこか らも出て こなかった ことである。学内の他学部 の教師あるい は学生か らは もとより,教
養部所属の教師の誰1人
か らも,こ
の方向での強い意見 は全 く開陳 され なか った。 この ことは,わ
が大学で も20年余 り行 われて きた教養部教育が,学
生 あるいは部外者 の みな らず,部
内で これを責任 を持 って遂行 して きた者 にまで,う
まく機能 していない,意
味が ない と認 め られていた1つの証 とい うことがで きよう。 しか し,こ
こで更 に私 に とって印象的,
とい う か,「なるほ ど」 と頷かれた ことは,教
養部教師の大半の者が,教
養部教育の終 り,「一般教育」の 縮小 を一一大学人 としての地位が現在程度 あるいはそれ以上 に確保 され さえすれば(/)一
― いさ さか も残念 に思わないように見受 けられた ことである。(少な くとも,教
授会でそうい う主 旨の発言をす る人 は誰 もいなかった。)教養部教育 の意義 を信 じて
,こ
れに身 を捧 げて きた人 は,本
当の とこ ろは誰 もいなか ったのか もしれない一一私 にはこの こと力ゞ確認 された ように感 じられて印象 に残 り,
これ までの教養部 のあ り方 を思 えば,「なるほ どJと
頷 けるものがあったのである。 私 自身 は一―先 に も少 し触れた ように一一研究が第1,教
育 は2の次 と考 えている大多数の大学 教師 とは違 って,教
養部 を,大
学生 になったばか りの青年が,様
々の分野の勉学 を通 して「自己形 成」への手がか りを得 る大事 な場所 とみなして,「教育第1」 の姿勢で長年 自分な りに奮闘 もし,楽
しんで もきたので,「一般教育J遂行 の責任部局である教養部 の廃上 を,あ
る意味でたいへん残念 に 思ってい る。(たしか に,教
養部がな くなって も,「一般教育Jは
縮小 された形で残 るわけである。 しか し,そ
うは言 って も,教
養部がな くなれば,「一般教育」の意義 をどこに求 め,そ
して,そ
れを 自分 の授業 の中で どう実現 してい くかを真剣 に考 え続 けてい く人 は,ま
す ます少な くなってい くで あろう。) しか し,そ
うい う私 も,今
回教養部の存続 を主張す る気 には全 くなれなかった。確実 な知識 を身 につ けなが ら,そ
の中で「 自己発見」「 自己形成」の手がか りを得 ることがで きるような「一般教育」 の必要 は,初
めて教師になった17, 8年
前 よ りも,近
年 ます ます強 くそれ を感 じているが,そ
れに もかかわ らず,現
在 の教養部教育 は様々な意味で行 き詰 っていると,認
識 しているか らにほかな ら ない。 今回のわが大学 における改革論議 を,教
養部廃止の決定 にまで至 らしめた最大の動因は,言
うま で もな く,平
成3年
(1991年)2月
及び 5月 に出された,大
学審議会か らの文部大臣への一連 の答 申であ り,そ
れ に基づ く関係法の改正,施
行である。この一連 の答 申の中で,「大学教育の改善 につ いて」と題 された一文が,「大学設置基準の大綱化」を謳 っていて,当
時話題 を呼んだ ものだが,こ
の答 申は「一般教育」 に関 して,次
のように述べている。 「一般教育 の理念・目標 は,大
学 の教育が専門的な知識の修得だけに とどまることのないように, 学生 に学問 を通 じ,広
い知識 を身 に付 けさせ るとともに,
ものを見 る目や 自主的 。総合的 に考 える 力 を養 うことにあ り,入
学 して くる学生や諸科学の発展 の現状か ら見 て,
このような理念 。目標 を 実現す ることが一層重視 され る必要がある。」 平板 な言葉 によってではあるが,こ
の答申において も,ひ
とまず,は
っき りと「一般教育」の必 要 は解かれていることを確認 してお こう。 ここに挙 げ られている「一般教育」の目標,(1)広
い知識 を身 に付 けさせ ること(2)も
のを見 る目や 自主的・ 総合的に考 える力 を養 うこと については,あ
とで検討 してみることにして,続
けて,
この答 申の,「一般教育」の問題点への言及 部分 を見てお きたい。 「(…)一
般教育 の理念・目標 と授業の実際 との間 には,
しばしば乖離が見 られ,専
門教育 との関教養部廃止 と今後の「一般教育」のあり方について
373
係で も,有
機的な関連性が欠如 している傾 向 も見受 けられる。」 つ まり「一般教育」の問題点 として,(D
一般教育の理念 と実際の授業 の乖離(2)一
般教育 と専門教育 との間の,有
機的関連性の欠如 の2点
が指摘 されているわ けであるが,こ
の指摘 は大方の教養部教師 も首肯す るところの ものであ ろう。 しか しなが ら,こ
れが教養部教育 の内に在 つたすべての問題 で もなければ,ま
た,こ
ういう 問題点が常 にあ りなが ら少 しも解決 され ることのなかった,そ
のそ もそ もの原因について も,答
申 は,少
しも言及 しようとしていない。昭和24年 (1949年)に
新制大学が発足 して以来,戦
後の大学 教育の 1つ の柱 ともみなされて きた「一般教育」の行 き詰 りを招来 した真 の原因は,い
ったい何だっ たのか,も
う少 し具体的,詳
細 に検討す るところか ら,本
格的な論議 を始 めてみたい。 1 今回の大学審議会 の答 申は,今
見た ように,「一般教育」の問題点 として,ま
ず,「一般教育の理 念 。目標 と授業の実際 との (…)乖
離」 を指摘す るわけだが,
この短い表現の中に,既
にい くつ も の困難 な問題が包含 されている。 今「一般教育の理念 。日標」の方は,ひ
とまず,今
答 申に述べ られている内容で よしとしてお こ う。(これについて も,あ
とで検討 されねばな らない。)そ して,「授業 の実際」の方に目を向けてみ ると,「現場」に長年いる者 には具体的にこんな問題がす ぐに思い浮かぶのである。つ まり,教
養部 所属の何割かの教師は,自
分の担当す る授業科 目の内容が,そ
れ を受講 す る学生の4年
間 (あるい は6年
間)の
勉学生活の中で,
どうい う位置 を占め,ど
うい う意味合 を持 ち,ど
ういう点で「 もの を見 る目や 自主的,総
合的 に考 える力 を養 う」 ことになるのか といった ことを,全
く,あ
るいは, ほとん ど考慮 しないで,た
だ漫然 と,自
分 に都合 のよい内容や領域 を中心 にして講義 していたので はないか,ということである。(教師 に都合が よい というのは,た
とえば,今
自分があるテーマにつ いて研究 しているので一― それが多 くの学生 にとって どんなに関心のない ことで も一一 そのテーマ を講義や実験 としてやっておれば「都合が よい」 ということであった り,そ
の内容 な ら教師 とての 自分 は何 も準備 した り,新
たに勉強 した りす る必要がない,
とい う意味で都合が よかった り,と
い うことである。)ある種 の,学
生か ら総スカンを喰 っているような教師 においては,講
義や演習の内 容 を決 めるときに,そ
れが,受
講学生の知識欲 に応 えるものであるか どうか とか,彼
らの視野の拡 大や精神的成長 に どのように寄与す るものであるか とか,そ
んな ことを真剣 に考 えてみない とい う より,そ
うい う教師 においては,学
生の存在 とい うものが,そ
もそ も全 く念頭 になかったのではな いか とす ら想像 され る。そうで も考 えてみなければ全 く理解で きないほど,多
くの学生か ら一一感謝 され るどころか―一 ただただ我慢 され続 けて きた教師が
,現
実 に我々の身近 にいるわけである。 それではなぜ,
どれほ どかの教養部教師 は一― それは決 して1人 2人
に留 まるもので はない と思 う一一 自分の責任で行 う講義や演習内容決定の際 に,そ
れが学生 に対 して持つ意味合 を真剣 に検討 す ることをなおざ りにして きたのか,こ
の理由を次 に考 えてみたい。 まず最 も根本的な理 由 として,教
養部教師のみな らず大学教師一般 に広 く見 られ る「教育者 とし ての資質の欠如」とい うことが指摘 されなければな らない と思 う。「教育者 としての資質」といって も,こ
こで何かハイ・ レベルの ことを考 えているのでは全 くない。つ ま り,そ
れが欠如 していると いうのは,学
生 に厳密な知識 を授 けるとか,彼
らの知的視野の拡大 に資す るとか,思
考力 を鍛 える といった,学
生のいわば1個の青年 としての知的・ 精神的成長 に寄与す ることに何 の関心 も持たな ければ,そ
ういうことに特別 の喜 び も感 じない といったたちの人間,と
い うくらいの意味である。 そして実際,そ
ういうたちの人間が これ までず っ と教養部教師の過半 を占めて きたのではなか ろう か。 それだか らこそ学生たちは,逆
に彼 らの知識欲 を喚起 した り,「自己認識」を深 める契機 となる ような,よ
く配慮 された授業 を行 う教師に出会 うと,「大学 にはまれな先生」とか「大学教師 として は珍 しい」 という言い方 をして,そ
うい う教師達 を称賛 してきたのであろう。 今言ったような意味での「教育者 としての資質」を欠いた者が,教
養部教育 を担当 した とした ら, 「一般教育の理念 。目標」 な ど顧慮す るはず もな く,彼
の講義や演習が,学
生 を無視 した,自
分 に 都合のよい,手
軽 な,あ
るいは,独
善的な内容 になることは自明の理であ り,そ
こに,答
申の指摘 す る「理念 と実際の乖離」も出 来す るわ けである。そ ういうわけで,教
養部教育が行 き詰 って しまっ た大 きな理 由の1つ として,「一般教育」にぶ さわ しい人 を得 なかった, とい うことが,ま
ず,言
わ れ得 ると私 は思 うのである。教養部の教師 としては,学
生の知的視野の拡大,思
考力の養成・ 鍛練 といった,青年の知的・精神的成長 を,自 己の本質的関心,深い心の喜び とす る者がぶ さわ しい一―。 もう少 し具体的に言 えば,学
生の立場 に立 って授業 内容,授
業方法 を,広
く深 く勘案す ることので きる者が適任である一一 この教養部教師 としての「資質」 を,大
学関係者 あるいは教養部 の構成員 が一一嘘のような話であるが一一 これ まで全 く無視 し続 けてきたのである。 そして,こ
の ことを最 もよ く示 しているのが,教
養部教師の採用時の応募条件である。 そ こでの 主要案件 は学歴 と研究業績であつて,そ
の人が教養部教師 として今言った ような「教育者 としての 資質」 を持 っているか どうか ということが,研
究業績 と同等あるいはそれ以上 の比重 を持つ大事 な 要件 として正面か ら問題 にされた ことは,少
な くとも我々の教養部 においては,か
つて1度
もない のである。(そして,こ
れ はおそ らく全国の他の大学の教養部 において も同様であろう。) これは誠 におか しな事 と言わなければな らない。 しか しなが ら,教
養部教師採用の要件 として, この「教育者 としての資質」 を全 く問題 にして こなかった ということに対 しては,常
に持 ち出され る「弁解」があるのである。つ ま り,仮
にその ような「教育者 としての資質」 を持つ者の採用が望教養部廃止 と今後の「一般教育」のあ り方について
375
ましい として も,ど
の応募者がそういう資質の持 ち主であるか を見抜 くことは極 めて難 し く,そ
れ をまちがいな く知 る具体的手段・ 方策がない,
と。た しかに,提
出された論文 によって応募者の研 究業績 を知 ることに比べれば,「教育者 としての資質」 を見抜 くことは,何
らかの手段・方策 を用い た として も,容
易ではないか もしれない。しか し,上
の言分 は,私
には,真
の理由を背後 に隠 した, 文字通 り表向 きの「弁解Jで
あるように思われ る。 た とえて言 えば,医
者 になるのにふさわ しいのは決 して高校 にお ける成績優秀者であるとは限 ら ないのに,将
来の医師 としての資質 を全 く無視 して,成
績優秀者 の多 くが医学部 に殺到 しているの と相似た事態が,実
は大学教師採用の場面で も起 こっているのである。心ある医学者 を擁す る医学 部が,受験生の学力だ けでな く,彼らの将来の医師 としての資質 を知 ろうとして,様々な試 みを行 っ ているように一一教 養部教育行 き詰 りの1つの原因が,教
師 に人 を得なかった ところにある と認 め るな らば一一大学教師の条件 として これ まであま りに学歴 と研究業績だけに重 きを置いてきた こと を反省 して,「教育者 としての資質」あるいは教育業績 を,採
用要件 の 1つ として,是
非 とも加味す べ きなのである。 これが承認 され さえすれば,や
り方はいろいろに考 えられるように思 う。 まず何 よりも先 に,大
学教師の応募要項 の中に,採
用する側 としては,学
生の立場 に立 って授業 計画 を深 く勘案す ることので きるような,「教育者 としての資質」を持つ者 を求 めているのだ,
とい うことを明記すべ きであろう。そうするだ けで も,現
在既 に大学内に少なか らず存在す る,あ
の, 昇進のための研究業績 をあげることばか りに熱心で,学生の教育指導 を全 くなおざ りにしている「唯 我独尊型」教師の,大
学内への更 なる侵入 を,い
くば くか防 ぐことがで きるであろう。 その上で, た とえば,応
募者の大学教育や授業方法 についての見解 を問い,こ
れ までの教育実績 と採用 された 場合 の授業計画 を書面で提出 して もらえばよいであろう。あるいは,従
来同様 の書類審査 によって, 応募者の中か ら採用予定者 を2, 3名
にしば りこみ,そ
ののち面談 を行 って,そ
の場で大学教育一 般や具体 的な授業計画 について,考
えを疲涯 して もらって もよい。 それに加 えて,学
生や教授会構 成 メンバーの前で実際に1, 2度
公開講義 を行 って もらえば,更
にはっきりと応募者の「教育者 と しての資質」を見定 める機会が得 られ るであろう。(大学受験生 には小論文,面
談 あるいは実技が課 せ られ らることがあるのに,そ
の大学受験生 を審査す る大学教師採用時の審査 は,単
に書面 の上だ けで行われるというの も,考
えてみれば妙 な ものである。) このように,す
ぐれた研究者であると同時 に,立
派な「教育者」で もある人 を大学教師 として採 用 したい という気持 ちさえあれば,研
究業績 と同様 に,教
育業績や「教育者 としての資質」 を見定 める手段や方策が全 くない とは言 えないのである。 それ故,こ
れ まで研究業績や学歴だけを重視 して,「教育者 としての資質」を問題 にして こなかっ たのは,そ
れを見定めるすべがなかったか らだ,
というのは,実
の ところ表向 きの言訳であ り,そ
の背後 に「本根Jが
隠 されている。 この「本根Jを
私 はうま く表現す ることができないが,つ
まるところ
,現
在 の大学教師の過半の者が「そ うい う 〈教育者 としての資質〉 を持つような者 を,自
分 の仲間内に招 き入れた くない」 と考 えているとい うことである。 この心情 は一種の防衛機制であろ うが,そ
れはおそ らく,自
分 自身が教師 として格別 す ぐれた資質 を持つ者ではない とい う,多
くの 場合漠然 とした,時
に明確 な,自
己認識 に基づ くものであろう。つ ま り,大
学で仕事 を始 めてみれ ばす ぐに,大
学教師が研究者であると同時 に「教育者」で もあることは,自
己の役割 にどんなに無 自覚 な者で も気付かないわ けにはいかないのであ り,
とりわけ教養部 においては,実
の ところ,誰
が どんな研究 をしていて,
どの程度の業績 をあげてい るかな どとい うことは,そ
の人 の昇任が審査 され るとき以外,ほ
とん ど問題 にされることはなかったのである。 そ こでの日常の大半の「公的業 務」は,「教育者」としての仕事なのであ り,そ
れ故,自
分が授業 に情熱 を持てなかった り,学
生 を 内心で うとまし く思 っていた りすれば,自
分が「教育者 としての資質」 を持ち合わせぬ大学教師で あることを, どうして も多少な りと自認せず には済 まないのである。 しか し,ま
さに自分が「教育 者 としての資質」 を欠いた大学教師であることをい くぶんで も自覚 しているが故 に,自
分 とは異質 の,そ
ういう資質 を持 った者 を,自
己防衛のために,己
れの仲間 として迎 え入れ ることを,多
くの 場合,嫌
が るのである。 しか しなが ら,こ
の,大
学教師の多 くが,大
学教師採用の条件 として「教育者 としての資質」 を 問題 に しようとしない ことに対 しては,も う少 し違 った,別
の要素 も作用 しているように思われ る。 それは,端
的に言 えば,「教育者 より研究者の方がエ ライ」という一種 の職業意識であ り,価
値感 で ある。大方の大学教師 は,大
学 における業績評価がほ とん どすべて研究面でなされ,教
育面 の業績 が取 り上 げ られ ることはまれにしかない ことに,さ
した る疑間を感 じていない力S,そ
の理 由の1つ は,根
底 に,「研究」の方が「教育」よ り上,
とい う価値意識 を持 っているか らであろう。 この要素 も作用 して,教
育面の比重が最 も大 きい教養部 においてす ら,創
設以来ずっ と,採
用条件 として「教 育者 としての資質」 を問 う項 目が全 くなかったので はないか と思われ る。 「教育者」(あるいは「学校 の先生」)よ
り「研究者J(あ
るいは「学者」)の
方が上,
とい う大学 教師の多 くに見 られ らる職業意識が,いつ ごろか ら,ど
うい うふ うにして生 じてきたのかについて, ここで詳 し く論 じる用意 はないが,こ
の点 に関 して,私
の考 えを簡単 に述べてお くと,私
は見方 に よつては,人
間にとって「教育」の方が「研究Jよ
りはるかに根本的な事柄ではないか と思 う。 そ れは,「教育」が人間の「生 きる」 ことに関わ るのに対 して,「研究」 は人間の「知 る」 ことに関わ る行為だ とみな しているか らである。そして,人
間 に とって窮極 の課題 は,言うまで もな く,「知 る」 ことよりむ しろ「生 きる」ことである。「知 る」ことは所詮「生 きるJこ とに奉仕すべ き事柄で ある。 「研究」 は,そ
れが どんなに人間に とって大事 なテーマを取 り扱 っていようとも,最
終的 には人間 の「生 きる」 ことをサポー トするものでなければ無意味である。 この考 えか らすれば,人
間 に とっ ては明 らかに「教育」の方が第一義的な事柄 である。教養部廃止 と今後 の「一般教育」のあ り方 について
377
さらにもう1つ,自
分 は「研究者Jで
あるとの自負に支 えられて,目
前の学生の教育 を平気でな いが しろにしている大学教師 とい うのは,そ
もそも本人が 自認 している通 りに優れた「研究者」な のであろうか。それ と言 うの も,も し本当に彼が意味 ある研究,重
要な研究 を行 ってい るとすれば, その内容 を,情
熱 を持 って,日
前 にいる学生たちに伝 えたい とは思わないであろうか。常 に学生 を 目前 にしなが ら,「教育」 を最小限の労力で片づけて,「研究」 に没頭す ることので きる大学教師に 対 して,そ
の,彼
の自負する「研究者」としての能力 にも,時
に疑間を呈 してみた くなるのである。 さて,
ここまで,教
養部教育行 き詰 りの原因の1つを,「一般教育」にふさわ しい人 を得 なかった とい う点 に求めて,大
学教師採用 に関わる問題点 をい くつか指摘 してきたが,こ
うい うふ うに,い
わぼ大学の入 口に,大
学 における「教育」軽視 の考 え方が表われているとすれば,大
学 の内部 に這 入 って も一一 当然の ことであるが一一 同 じ「教育」軽視の傾向は見て取れ る。 それ を如実 に示 して いるのは一―すでに先 に少 し触れたが一一教 師の昇任 の際の業績評価の仕方である。 そ こで問題 と され るのは,主
に研究業績 (論文の数)と
勤務年限であって,教
育面での働 きぶ りが評価 され るこ とはほ とん どないのである。なぜ こうい うふ うになっているか とい うことについては,教
育業績 は 評価 しに くい といった,教
師採用時 と同様 の「弁解」があるのだが,根
本の理由は,大
学 における 「教育」の重要性 の認識がはなはだ しく欠如 しているか らであろう。そして,こ
の昇任人事 の際の 教育業績 の軽視 ない し無視 も,教
養部教育 の行 き詰 りを招来 した原因の 1つ に挙 げな けれ ばな らな い。 そ もそ も採用条件か らして,大
学生の知的・ 精神的成長 といった ことに本質的関心 を持たぬ者 が大学教師 にな りやす く,そ
の上,大
学内では,「教育」を無視 して己の「研究」のみに専念すれば するほど,昇
進 に有利であるとすれば,限
りな く時間を要求 される教育面の仕事 に,力
を傾注 し続 ける教師が,少
数派 になって しまうのは,当
然 の成 り行 きであろう。そして実際,
この採用制度 と 昇任制度の下で,「教育」に心か らなる情熱 を抱 き続 けている大学教師は,私
の見 るところ,本
当に 少ない。 ここで,大
学 における「教育」の貧困の,直
接的ではないか もしれないが,間
接的 にはその原因 となっている事柄 を,更
に2, 3取
り上 げてみたい。 その1つは,大
学教師の採用 において も,昇
任 において も,研
究業績が最重要視 され るわ けだが, その研究業績 のレベル,論
文の質の問題である。私 は ドイツ語教師であ り,い
わゆる文科系の人間 なので,理
科系の事 晴はよく分か らないのだが,少
な くとも哲学,文
学,社
会学 といつた人文 。社 会分野の論文 に関 して言 えば,日
本 の大学教師が 日々執筆 し,そ
して,昇
任 のための業績 とみなさ れ る論文の10篇の うち9篇
が,実
は学問的にはほ とん ど無価値 な ものなのである。 その論文が書か れ ようが書かれ まいが,そ
の分野の学問の進展・ 動向に何の影響 も与 えない といっただ けでな く, そもそ も同僚 の2, 3人
,知
人 の2, 3人
以外 にそれ を読 む者がいないのである。 また,読
んでみ て も,何
をテーマ とし,何
を言お うとしているのか,意
味不明の論文 も決 して まれで はないのである。 それではなぜ
,
こういう論文が俗 まず弛 まず生産 され続 けているか と言 えば,大
部分 はこれが昇 進 に関わ るものであるか らであ り,一
部 は ともか く研究が好 きだか らである。つ ま り,
これ らの10 に9の論文 は,少
し厳 しい見方をすれば,純
然た る学問的研究の成果 とい うよ り,い
わば実利 と趣 味の産物,そ
れ も未だ素人 の域 にある産物,に
す ぎないのである。勿論,ど
んなす ぐれた学問的研 究 といえども,そ
のほ とん どが大いに実利 に駆 り立て られ,多
分 に趣味性 を基 として行 われている ことは言 うまで もない。 しか し,そ
の質,レ
ベルが問題である。その研究が単に趣味の域 を出ず, ひたす ら昇進 に必要な論文の数 を揃 えるために行われているとした ら,なぜそのような研究業績 を, 教育面での働 きを無視 して,大
学教師 としての唯―の業績 としなければな らないのか,大
いに疑問 である。 それで は,
こうい う研究 は全 く無駄か と言 えば,私
はそうは思わない。 この ような低 レベルの研 究 も,い
わば「学問」 とい う山の裾野 を形成 しているものであ り,山
は高 くあるためには広 い裾野 を持つ必要が あるという意味で,必
要な ものであると,ま
ず言 うことがで きよう。 しか しなが ら, 私 は何 よ りも,大
学教師には一一 それが高い学問的意味合 を持つ持たぬは別 として一一生 き生 きし た教育活動 を持続す るために,研
究 は欠かせない と思 うのである。私 は今,大
学教師が教育者であ ることを力説 しているわ けだが,そ
れで も大学教師が また一方で研究者であることも,ま
ぎれ もな い事実である。その研究者で もある大学教師が研究 をまった く放棄 して しまっては,教
育者 として もどこか 自信 を欠 き,余
裕 を持 って学生の前 に立 てないのではなか ろうか。 また,ど
んな低 レベル の研究 といえども,そ
れな りの問題意識 の持続,資
料 の収集・ 選択,論
文 としてまとめる工夫・ 苦 心,そ
のための意識の集中 といった ものを伴 い,こ
れは,い
ささかな りと教育者 としての視野 を広 げ,そ
の資質・ 能力 を向上 させ ることに寄与す るであろう。 そして,実
の ところ,大
学教師の行 っ ている「研究」 と称 され るものの9割
方 は,何
よりもこの意味 においてその価値が認 め られ るので あ り,純
粋 に学問的価値 という観点か らすれば,そ
れ は行われて も行われな くて もよい ものなので ある。 そ こで,私
の提案 したい ことは,世
界 の学問界 の動向に影響 を与 えるといったハイ・ レベルの研 究成果 は格別 として,並
の研究業績 は,教
育業績 と同等,あ
るいは,教
育活動 を背後で支 えている もの といった観点か ら評価すべ きだ,
とい うことである。 それが実情 に合 った評価 の仕方 とい うも のであろう。 大学 における「教育」の貧困に関係す ることとして,こ
こで更 に次 の点 を指摘 してお きたい。 そ れは一―先 にひ とこと触れたが一―授業の準備・ 工夫 とい うものはこれ と本気で取 り組 んでみよう とすれば,限
りな く時間を必要 とす るものだ とい うことであ り,そ
して,こ
の ことを過半の大学教 師はほ とん ど理解 していない,と
いうことである。た とえば,日
本の大学の中で何割 くらいの教師教養部廃止 と今後の「一般教育」のあり方について
379
が,毎
年 4月 に講義や演習 を始 めるにあたって,年
間計画や授業 目標 (目的),教
授法(授業の進め 方),評
価法等 を厳密 に再検討 し,新
たな工夫 をこらす とい うような ことをや っているであろうか。 大学 において も「授業案」 を作成せ よとい うことが折 に触れ言われているけれ ども,大
学教師の過 半は相変 らず,授
業計画,教
育 目標,評
価法等の何1つも受講者 に明示す ることな く,漫
然 と講義 や演習 を行 っているのではあるまいか。 こういうことの どれ1つを取 つてみて も,そ
れを本気で立 案,計
画 してみようとす ると,
とて も片手間にで きることではな く,「研究」と全 く同様 に,多
大の 時間を要す る難 しい仕事 になるのである。(私自身,た
とえば,未
だ にその通 りに実行で きる年間授 業計画 を立案で きずにお り,あ
るいはまた,学
生の勉学意欲 をもっ と引 き出す ことができるような 評価法 (試験 のや り方)が
あるはずだ と思 うが,自
分 な りの工夫 を加 えることがで きているわけで はない。)我々大学教師の多 くが,
こういう教育面での仕事 に本腰 を入れて取 り組 んでみた こともな ければ,取
り組 んでみようともしないので,い
つ まで も,「教育業績」 を,「研究業績」 と同様 に評 価 しようとい う気運が起 こらず,そ
れが,ひ
いては,大
学 にお ける「教育の貧困」 を もた らしてい る一因 となっているように,私
には思われ る。 2 さて ここまで,教
養部教育 の行 き詰 りの真 の原 因 を求 めて,主
に大学教 師 の採用・ 昇任制度,そ
して また,そ
の教育姿勢 について,反
省 点 をい くつか指 摘 し,若
干 の提 案 を行 って きたが,次
に, 「一般教育 の理念 。目標 」 に関わ る問題 に,日
を移 してみた い。 今回の大学審議会 の答 申は,「大学設置基準の大綱化」を提案 し,実
際上教養部解体の方向を打 ち 出 した ものであるが,し
か しなが ら,答
申は「一般教育」その ものを不必要 としているのではな く 一一最初 に見ておいた ように一一簡単で はあるが「一般教育 の理念・ 目標」 にも触れて,そ
の必要 をいささか強調 しさえしているのである。再度引用すれば一一 「一般教育 の理念・目標 は,大
学の教育が専門的な知識 の修得だ けに とどまることのないように, 学生 に学問を通 じ,広
い知識 を身 に付 けさせ るとともに,も
の を見 る目や 自主的・ 総合的に考 える 力 を養 うことにあ り,入
学 して くる学生や諸科学の発展の現状か ら見て,
このような理念 。目標 を 実現す ることが一層必要 となっている」 と。 ここに言われていることを表面の字義通 りに受 け取れば,だ
れにで もよ く理解で き,特
に何か異 論 をさしはさむ余地 はないように思われ る。中学・ 高校時代 を通 じて,受
験勉強 とい う狭 い枠の中 で,あ
る意味で極 めて現実離れ した特殊 な知識 を詰 め込 んで きた大学入学者 に対 して,現
在 の急速 に細分化 して行 く専門学科 を教授す るの と並行 して,「広い知識 を身 につけさせ る」 こと,あ
るは, 「 ものを見 る目や (…)考
える力 を養 うこと」 は,誰
にも是非必要 な ことと考 えられ るであろう。しか しなが ら,「現場」において「一般教育」を真 に実 りあるものにしようと日々腐心 している者 には
,こ
こにもまた, 1度
考 えてお くべ きい くつかの難 しい問題があるように思われ るのである。 答 申が述べているような「一般教育の理念 。日標」 を実現す るためには,実
際上の こととしてま ず何 よりも,す
べての大学教師の,授
業 に対す る積極的な取 り組 みが是非必要であることは既 に指 摘 した通 りだが,し
か し,
ここにはその前 に,次
のような,更
にいっそう根本的な問題が横たわつ ているのである。即 ち,そ
もそも人 は何 に促 されて「広い知識」や「考 える力」 を身 に付 けるべ く 励 もうと努めるのであろうか,ま
た,そ
の「広い知識」の具体的内容 はいったい どうい うものであ るべ きだ ろうか,
とい う問題である。 専門教育 はある意味で易 しい。なぜな ら,各
専門科 目をなぜ学ぶのか とい う動機付 けが学生 にお いてすでにで きているか らであ り,大
方の場合,各
専門科 目の具体的内容 も,さ
した る異論な く決 定 され得 るか らである。(教えることがた くさんあって,その うちか ら限 られた時間に何 を教 えるか とい う点で,し
ばしば,議
論 の余地があるとしても。)学生 は将来の就職 のために,あ
るいは,特
定 の学問分野 に対す る知的好奇心 を満足 させ るために,専
門科 目を学ぶ。つ まり,専
門教育 とは,大
多数の学生 にとっては実利 のための学であ り,一
部 の者 にとっては知的欲求 を満たすための学であ る。その教 え学 ばれ る内容 は,普
通の場合輪郭が はつきりしてお り,そ
の成果 も何 らかの形 を取 っ て外 に現われることが多い一―。 あまりにも単純化 した見方ではあるが,
ともか く,専
門教育 はそ の目的,そ
の内容 ともに槻 して理解 しやすいのである。 そして,そ
の意味では専門教育 は易 しい と いって もよいであろう。 これに対 して,「一般教育Jは多 くの場合実利 か ら遠 く,ま
たそれ は,単
に特定の分野 に対する知 的好奇心 を満足 させれば こと足 りるとされ るべ きもので もないであろう。 それは人間の知性的側面 に関わるだけではな く,感
性的側面 あるいは情念 といった ものにも深 く関わって行 こうとするもの でなければな らないであろう。別言すれば,「一般教育」は,単
に学生 の知的視野 を拡大す るという だけではな く,そ
の背後で, 1人
の人間 としての「 魂」の欲求 を見た し,癒
す ものでなければな ら ないであろう。そうでなければ,実
利 に直接つなが らぬ「一般教育」が,真
に生 きた形で行われ る ことは少ないであろう。 しか しなが ら,す
でにこの「 魂の欲求 を満た し,癒
す」といった言い方が, 大学教師の多 くにはいぶか しい ものであろうし,今
回の大学審議会の答 申にも欠落 している考 え方 なので,こ
の点 について,
ここで もう少 し言葉 を費 してみたい。 繰 り返す ことになるが,答
申が「一般教育の理念・目標」 として挙 げているのは,「広い知識Jを
身に付 けることであ り,「自主的・総合的に考 える力」 を養 うことである。 しか し,こ
れ も,実
の と ころ,大
学教育の中心 をまず専門教育 と見定 めてのち,専
門教育 において不足 しているものを補 う ものが「一般教育」であると理解するところか ら,主
張 されているので はあるまいか。大学教育の 目指す ところは,有
り体 に言 えば,あ
くまで も将来の有能な職業人・ 専門家 の養成 なのである。職教養部廃止 と今後の「一般教育」のあ り方について
381
業人・専門家 として有能た らん とすれば,狭
い専門的知識で は不足であ り,「広い知識」「考 える力」 が必要 なのだ一― こういうふ うに言い切 るのが多少の言い過 ぎだ として も,今回の答 申において も, また,大
方の大学人 にあって も,人
間 をあま りに社会 における役割でのみ捉 えた ところで,大
学教 育が考 えられているように,私
には思われ る。 結局,教
育 を論 じるには人間観 に触れ ることな しには済 まされないわけだが,私
は,人
間 は社会 の中で何 らかの「役割」を果た さなければな らない「機能的存在」であると同時に,独
自の「 魂」 の欲求 を持 ち,そ
れ を満たそうと努 めている「霊的存在」で もあると考 えている。 そ して,大
学 に おける講義や演習の多 くが一一 自覚 してのことにしろ,無自覚での ことにしろ一一 あ ま りにこの「機 能的人間」としての欲求 に着 目す る形でのみ行われて きて,「霊的存在」としての人間の「 魂」の欲 求 に応 えるものを持たなかった ところに,実
は,教
養部教育 の行 き詰 り,ま
た,広
く現在 の 日本 の 大学教育の沈滞 の原因の1つを,求
めることがで きるように私 には思われ るのである。 「広い知識 を身 に付 ける」 あるいは「 自主的 に考 える力 を養 う」 と言 うけれ ども,そ
れが直接的 には実不Uにつなが らず,ま
た,何
らかの 目に見 える形 としてはす ぐに現われて こない とき,そ
うい う勉学への意欲 は,い
ったい どこか ら生 まれて出て くるのであろうか。 こうい うふ うに問 うと,ま
ず学ぶ側 の学生 に問題があるように受 け取 られそうだが,そ
うではな く,む
しろ,教
える側 の大学 教師にこそ,こ
の点で,重
大 な問題があるのである。 た とえば,大
学教師の中には教授 に昇任 した途端 に,全
く,あ
るいは,ほ
とん ど研究 をしな くな る者が少なか らず居 る。 これは,大
学関係者 な ら誰で も知 っているまぎれ もない事実だが,そ
の理 由 として, どうい うことが考 えられるだ ろうか。 この理 由は,実
の ところ,外
部 の者が推測す るほ ど単純ではない ことが多い。大方の場合 は,様
々なレベルの異なった原因 。理 由が複合 した結果だ とみなす ことがで きるのだが,し
か しそれで も,そ
の主だった理由の 1つ が次 の ことであるのは, 誰 にも推察で きることである。即 ち,そ
の大学教師が,主
に(大学人 としての最高の地位で もあ り, 社会的に も名誉 あるもの と見 られている)「教授」の称号 を手 に入れ るとい う実利 に励 まされて,そ
れ まで研究 をやって きたので,その目的 を達 した以上,更
に研究 を続 ける意味があ らかたな くな り, 研究意欲 を失 って しまったのだ,
と。 こういう大学教師が教養部 には少なか らず居たわ けである。 (勿論,専
門学部 にも居たであろうし,今
も居 るであろう。)つまり,実
利 に直接,あ
るいは,す
ぐ につなが っていかない「広い知識」や「考 える力」 を学生 に身に付 けさせてや るべ き教師 自身が, 多 くの場合,実
利 に励 まされなければ,日
頃わが本務 と言い言いしている研究す ら行 い得 ないので ある。 この点の深い反省 なしには,い
かに答 申において「一般教育」の必要が言われているとして も,今
後,大
学 において,真
に意味ある講義や演習が行われ るとは考 えられない。問題 はどこにあ るか と言 えば――少な くともその1つは一一研究や教育があ まりに,社
会 において有利 に生 きる手 だて 。手段 として利用 されすぎていて, 1個
の人間 としての,心
の深い所か ら発す る欲求 を満たすもの としては
,な
されていないか らであろう。人が教育や研究 を,自
己の心の深処か ら発す る促 し に従 つて行 うとき,そ
のエネルギーは社会的 にエライ地位 に就 いた,と
い うような ことで枯れ果て るものではないであろう。その「 魂」の欲求 を満た し,癒
す喜びが,お
のずか ら,教
育・研究への 情熱 を持続 させ るであろう。 それ故,「一般教育 の理念・ 目標」 として「広 い知識 を身 につ ける」「 自主的・ 総合 的 に考 える力 を養 う」 といつた ことが表向 きにはいつ も掲 げ られ るわ けだが,我
々 としては,む
しろ,そ
うい う 「理念・目標」 を達成す る教育の出発点 として,「教 える者である自己 と学ぶ者である学生 の, 1個
の人間 としての,心
の深処 にある欲求 をさぐり,こ
れを学問 を通 して満た し,癒
してい く」 とい う 基本姿勢がなければな らない とい うことを,忘
れないようにす ることが大切である。要す るに,「一 般教育」 を,学
生 に とって真 に生 きた知識 。知恵 を得 るきっか けの場,あ
るいは,
もの ごとを自主 的・ 根本的に考 える場 にしようと思 うな ら,ど
うして もまず,教
える者が己れの教育 。研究活動の エネルギー源 のいず こに存す るや を問い,繰
り返 し,自
身の人間 としてのあ りようを問い直 さなけ ればな らない とい うことである。 そこか らしか,日
々の講義や演習 を,絶
えず意味あるものにしよ うと工夫す る意欲 は湧いて こない し,他
方「学生の く魂〉を満たす」 とい う方向さえ定 まっていれ ば,お
のずか ら,自
分の専門 とす る学問の範囲内で,「教 える内容」 は決 まって くるであろう。 しか し,こ
の点 については,考
えておかなければな らない ことが もう 1つ あるように思われ る。 今,私
は,「一般教育」を担当す る者 には,「教 える自己 と学ぶ学生の,魂
の欲求 を満た し,癒
す」 とい う基本姿勢がなければな らない と言 つたが,こ
の「 魂の欲求 を満たす」とい うことに直接的 に 関わ る学問分野 は,哲
学,文
学,心
理学,社
会学 といつた人文 。社会系の諸学科であろう。問題 は まさに,
こうい う「精神科学」 を担当す る教師の中に,少
なか らず,研
究のみな らず教育 にも意欲 を失 って,無
気力授業 を続 けている者がいるとい うことであるが,そ
の原因は,し
か しなが ら,単
に個人的な理 由にのみ依 るものではないのではないか,
とい うことである。つ まり,
これ らの諸学 科がすべてヨーロッパか らの「直輸入品」であ り,そ
の結果,テ
ーマの選択,研
究方法,使
用専門 用語 あるいは論文の書 き方す ら,一
部の優れた例外 を除いて,相
変 らず「擬似西洋流」 とで もい う や り方 を続 けている一一 この点 に,こ
れ らの学問が,日
本人である我々に,心
の深い処で満足感 を 与 えることので きなかった,そ
の根本的な原因があるので はないか,と
い うことである。 これ は, これ まで繰 り返 し指摘 された ことであ り,ま
た,大
問題で もあるので,
ここで何が言 える とい うわ けの もので もないが,私
な りに少 し触れてお きたい。 先 に,「教授」になった途端 に研究意欲 をな くして しまう大学教師の ことに触れたが,そ
の理由 と しては,単
に所期の目的 としての「教授Jの
地位 を手 に入れたか ら,と
い うふ うに言 っただ けでは 済 まされない場合が多いのではなか ろうか。多 くの場合,そ
れ と並行 して,研
究 して きたテーマや 研究の進 め方 に,次
第 に,本
質的な意味 を見 い出せ な くなった り,違
和感 を抱 いた りして,研
究 を教養部廃止 と今後の「一般教育」のあ り方について
383
続行す ることが,いの喜び となるよ り,む
しろ,空
虚 さや苦痛 を感 じるものになった,と
い うことが あるのではないか と思われる。若 い盛 りには,そ
の激 しい知的好奇心か ら,自
己の生涯のテーマ と 思った もの も,年
を重ね るに従 って,日
本人 としての自己の 日常の生活 とは縁遠 い,心
の深処 の欲 求 を満たすに足 るものではな くな り,「教授」の地位 を得た り,そ
れ を維持す るというほかには,そ
れを続行す るエネルギーを, どこか らも汲み取 ることがで きな くなって しまった一一 そんなケース が案外多いのではなかろうか。 勿論,こ
れ は日本 における学問の問題 として一般化 して見 る前 に,ま
ず は個々人の学者 としての 素質や勤勉 さの問題 として理解 され るべ きことか もしれない。た とえて言 えば,少
年野球で抜群 の 選手だったか ら,プ
ロの選手 になろうとしてみた ら,最
初 はそれな りにやれたけれ ども,つ
いに1 流の選手 にはなれなかった,
とい う例 と同様 の ことだ と考 え られ るわけである。 これはこの選手が 単にプロの選手 としては素質や努力が不足 していただ けの話 で,そ
れ を,い
や どうも野球 とい うも のはアメ リカ渡来の もので,そ
もそ も日本人の体質 にはそ ぐわない ものであろうなどと言 った ら, 笑止千万であろう。 昨年 (平成4年 )出
版 されて評判 を呼んだ,産
経新聞社会部編「大学 を問 う」(新潮社)も,冒
頭 に,早
稲田大学政経学部の,無
気力授業 を続 けている教師や,ほ
とん ど研究業績 のない古参教授 を 登場 させて,そ
の怠惰,無
能ぶ りを,大
学 における「知性 の荒廃」の例 として批判 している。そ し て,そ
の原因の1つが,早
稲田大学の教授陣 には,「OBば
か りが集 まり無競争,無
批判の世界 をつ くつている」(同書,11ペ
ージ)と ころにあることを示唆 している。私 はこうい う批判が当っていな い とい うので もなければ,そ
の原因の求 め方が まちがってい るとい うので もない。む しろ当然の批 判であ り,言
われている原因 も首肯で きる。 しか し,こ
うい う大学 にお ける「知性の荒廃」の生 じ てきた原因 を,単
に制度面の不備 にのみ求めるとした ら,そ
れは事態 をあまりに表面的 に見 ている ということになるであろう。 ここには 1つ,や
は り,日
本 にお ける明治以来の学問が,日
本人の発 粥 。発想 によるものではな く,そ
の大部分が西欧由来の ものである,つ
ま り,他
人か らの借 りもの であるとい う,我
々 日本人の今後 の生 き方にも深 く関わ る大 きな問題があることを,見
逃 してはな らない と思 う。 それ故―一繰 り返す ことになるが一一 これか らの「一般教育」,そ
の中で も特 に人文・社会分野 の 教育 においては,「広い知識 を身 につける」「 ものを見 る目や考 える力 を養 う」 とい う,
どち らか と 言 えば人間 を外へ拡張する方向での目標の定 め方 をす るよ り「学ぶ者 と教 える者 の,日
本 とい う風 土・伝統の中で生 きる人間 としての心の深処 の欲求 を満たす」 とい う,人
間 を内へ深める方向での 教育 目標 の設定が,む
しろ必要で はないか と私 は考 えるのである。換言すれば,「一般教育Jの時間 においては,教
える者 と学ぶ者が, 1個
の人間 としての「われに返 る」, 1人
の 日本人 としての「わ れに返 る」一一 そうい う瞬間がい くば くか必ずなければな らない, ということである。 そして,こ
こで
,そ
の具体的実践 の1つとして,我
々大学教師が,教
室 において,で
き得 る限 り自分の身 に付 いた言葉 を使 う,と い うことを提案 したい。そ もそ も,我
々の生の核心部分 を形造 っている言葉が, 自分 の身 に付いていない,人
か らの借 り物では,学
生の「 魂の欲求 を満たす」講義な ど出来 ようは ずがない。私 自身の大学生 としての体験か らして も,哲
学,文
学,歴
史 といつた人文系の学科 目は,1, 2の
ゼ ミナール を除いて,
どれ も印象の薄い,退
屈な講義 ばか りだったが,そ
れは何 よりも, そこで語 られ る言葉が,担
当教師の「個性」や「持 ち味」 とは何 の関係 もない,し
か も,真
に学問 的 とも言い難い,単
に専門性 を装 つた,無
味乾燥な ものであったがためであるように思い出され る。 自分の身 についていない,他
人か らの借 り物 の言葉で講義す る とい うこと,あ
るいは,そ
うい うふ うに講義がで きるとい うことは,つまるところ,その講義の内容が 自分 の心の深処 の問題 を捕 えきつ てはいない とい うことであろうし,また,そ
うい う行為 を無 自覚 に続 けてい るとい うことは,「真 の 自己」か ら我知 らず次第次第 に離れ去 っている,
とい うことであろう。 それ故,学
業 を授 ける我々 教師自身が まず,人
間 としての,あ
るいは,日
本人 としての「真 の自己Jに
立 ち返 らなければな ら ないのであるが,そ
のための最 も手近かで,最
も重要 な手掛 りこそ,教
室でで き得 る限 り自分 の身 に付いた言葉 を使 う,
とい うことだ と,私
には思われ るのである。 そうい う方向で「一般教育」の授業 の工夫がなされて初 めて,西
欧由来の諸学問か らも,我
々 日 本人の精神生活か ら遠 くかけ離れた空虚 な知識だけを受 け取 るのではな く,日
本人 として一―精神 的な意味で一一生死 に深 く関わ る独 自の問題が引 き出され,意
味 ある知識や生 きた知恵が得 られ る チャンスが生 じて くるのではなか ろうか。また,そういう方向で教育活動 を長 く続 けてい くことで, 日本人独 自の学問の方法や新たな学問分野が生み出されて くるようにも思われ るのである。 3 次 に,ド イツ語 とドイツ文学ゼ ミナール担当者 としての私 自身の,誠
にささやかな授業の工夫 と, そこにある問題点 について若千述べて,こ
の小論の締 め括 りとしたい。 最初 に「学生 による授業評価」 を取 り上 げてみる。 この件 に関 して我々の大学では未だ1度
の正式な議論 もなされていないが,私
自身 は3年
前か ら 実施 している。受講者か ら,自
分の授業 に対する感想・意見 を,中
間テス トや学期末試験の際 に, 答案の末尾 に書いて もらうとい うような ことは,教
師に成 り立 ての頃か らず っ とやってきたが,後
に掲 げるような (資料1)ま
が りな りにもアンケー トぶ うにい くつかの間を設 けて,試
験答案 とは 別紙 に,無
署名で行 い始 めたのは,今
言 った ように,未
だ この3年
来の ことである。 この「学生 による授業評価」 ほど,大
学教師の多数か ら (ほ とん ど蛇蝠の ごとくP)嫌
悪 され, 恐れ られ,敬
遠 されているもの もほかにないか もしれない。 それで,こ
の制度導入 に対 しては,た
教養部廃止 と今後の「一般教育」のあ り方について
385
ち どころにに百千の反対理 由が挙 げ られ るのであろうが,その中に1つ,「学生の評価 な ど当てにな らない」 とい うものが必ずあると予想 され る。 まず初 めに,こ
れに対 して答 えてお くと,私
の (わ ずかばか りの)経
験では, 1ク
ラスに例外的 に1, 2,そ
うい う トンチンカ ンな ものや,ふ
ざけち らした ものがない とは言い切れないが,全
体的には全 くそんな ことはない,
と主張す ることがで き る。私の場合,自
分で この「評価表」を作 り,自
分で実施 し(いつ も学年末 の試験 の際),私
一人が 読むわ けであるか ら,学
生 の中には,無
署名である とはいえ,あ
まりに手厳 し く教師 を批半Jした ら, 逆 に自分 自身 に対す る教師による評価 に,悪
影響 を与 えるのではないか と心配す る向 きもあるので はないか と予想 したが,こ
れは全 く的 はずれの推測であった。少 な くとも,教
師 に迎合す るような 内容の ものは皆無であった。逆 に,敵
意や嫌悪感 をむき出 しにして,
どの質問事項 にもすべて否定 的 に答 えるといった感情的な ものに もまだお目にかかっていない。ほ とん どの学生が思 った ままに, 至極率直 に答 えているように私 には見 える。1年
間授業 を続 ける間に,過
半の受講生の信頼 を得て いる,
とい うことが前提か もしれないが,「学生 の評価 な ど当てにな らないJの
で,「学生 による授 業評価」の導入 には反対 す るとい うのは,全
く根拠 のない主張であるとい うことがで きる。 しか しなが ら,私
が今1人
でやっているの とは違 って,こ
の「学生 による授業評価」 を一学部全 体,あ
るいは,一
大学全体でいっせいに実施 し,そ
の上,そ
の結果 を集計 し,読
み取 り,評
価す る 者が,授
業 を行 った本人 とは別 の,評
価委員会 といった ものだ とす ると,学
生の回答の内容 に,多
少の変化が出て くるか もしれない。特 に,学
生の不評 を買つている授業の場合である。学生 は,当
然,
もう少 し遠慮 な く批判 を加 えて くるであろう。 さて,「学生 による授業評価」導入 に対す る反対理 由は今 はしばらく脇 に置 いて,こ
の制度 を取 り 入れ る利点 はどこに求め られるであろうか。 私の場合,第
1に 言 えることは,自
分の授業 を見 る私 自身の目が まちがないな く厳 し くなった, とい うことである。 この「学生 による授業評価」を取 り入れ る以前,私
は自分の教師 としての能力, 自分の授業 について,ほぼ次のように考 えていた と思 う。自分が ドイツ語教師 あるいは文学 ゼ ミナー ルの担当者 として,明
らか に実力不足であることはよく知 っている,ま
た,自
分 の授業 に十分 に豊 かな内容のないこと,深
い魅力 のない ことも承知 しているつ もりだ,し
か し,自
分 も既 に十年以上 教師 としての経験 を積 んで きた,人
か らも教 えを受 けようとして語学研修会 にも参加 して きた,自
分な りに工夫 もこらして きた,
ともか く常 にベス トを尽 しているつ もりだ,
と。 言 うまで もな く,本
当にす ぐれた教師な ら,自
分 の授業 について,あ
るいは,自
分 の教師 として の実力 について,学
生か らとやか く言われ る前 に,誰
よ りも厳 しくこれ を批判的 に見 る目を持 って いるはずの ものである。正直 に言 って,私
もそうい う自己批半J力な ら十分 に持 っているとうぬばれ ていた。 しか しなが ら,こ
の「学生 による授業評価Jを
取 り入れてみて,そ
うい う自己認識 の,相
当に甘い ものであることを思い知 らねばならなかったのである。た とえば
,私
は「 ドイツ語初級」1回
100分間の授業 を, 3区
分 して,「文法の説明,発
音練習, ドイツ事情紹介」あるいは「聞 き取 り,読
書案内,
ドイツ語の歌」 といったふ うに,様
々な要素 を 組み合わせて,授
業がで きるだ け1本
調子 にな らないように配慮 しているが,こ
うい うや り方 にも 長所があるとすれば,初
めて ドイツ語 を学ぶ学生 に,
ドイツ語の勉強の,単
に重苦 しい ものでない ことを知 らしめて,
ドイツ語や ドイツに対 して多少な りと興味 を湧かせ ることがで きるところでは ないか と思われ る。(そして実際,私
の授業 に対 して,非
常 に多 くの学生がそ うい う評価 を下 してい るわ けである。)し
か し一方,こ
うい うや り方 は,下
手 をす る と,雑
然たる情報・知識 のごった煮 と 受 け取 られ,何
をやっているのか分か らな くなるとい う大 きな落 し穴のあることは,私
自身 よ く承 知 していたつ もりである。そ して確かに,私
の授業 には,
ドイツ語学習 に向か う学生 の意識の集中 を,何
かさまたげるものがあった と思 う。 しか し,過
半の受講者の好意的な評価 に支 えられて,毎
年反省 の気持 ちは動 くものの何 とな く同 じや り方 を続 けて きたのである。ところが,昨
年度末の「学 生 による授業評価」の中に,こ
の点 を鋭 くす旨摘す るものが, 2, 3あ
ったのである。彼 らは「 この 授業 にはどこか詰 めの甘 さがある」 とい うような表現で,そ
れを指摘 し,批
判 していた。 そ して私 は,こ
れに接 して,自
分の授業の弱点 として 日頃何 とな く感 じていなが ら,実
際 に手 を力日えて改善 を試みるところまでは踏み込む ことので きなかった処 を,そ
れ と指 し示 された気が して,多
少 目の 醒 める思いが したのである。(それで,今
年度 は,各
クラス とも,何
かはっき りとした1つの「 目標」 あるいは「テーマ」 を定 め,こ
れを「核」 にして,多
様 な要素 をまとめあげ, 1本
心 の通 った授業 にしたい と考 えて,既
にスター トした ところである。)一
― このように,「学生 による授業評価」導 入の第1の利点 は,自
分の授業 を批判的 に見 る教師 自身の 目を,よ
り鋭 くし,実
際の授業 の改善ヘ 駆 り立てるところにあると思 う。(今私 は1例
しか挙 げなかった けれ ども,小
さい ことであれ ば,こ の「授業評価」 は,極
めて多 くの点 に気付かせて くれ る。) 第2の利点 としては,半
年 または1年
続 いた授業の最後 において,ま
さにこの「学生 による授業 評価」 を行 うということで,様
々の理 由をつけては授業 の準備 に手 を抜 くということがで きに くく な り,半
年 また は1年
を通 じてよ り内容 の豊かな,工
夫の こらされた授業が維持 され るようになる, ということがあると思 う。 先 にも述べたが,授
業の準備 とい うものは,こ
れを少 しで も本気でやってみようとす ると,限
り な く時間 を必要 とす るものである。た とえば,か
つては文献が読 めるようになることを教育 目標 の 中心 に置いていた ドイツ語 も,
この十年余 り(あるいは既 に20年来,と
い うべ きか),実
践的な会話 力の養成 とい うことが盛 んに言い続 けられて,私
な ども遅 まきなが ら,近
年,そ
うい う方面の工夫 にも取 り組 んでいる。 しか し,初
めて習 う外国語で,そ
れ も40人あるいは50人のクラスで,学
生同 士に対話練習 をさせた り,教
師 と簡単 な問答 をす ることがで きるためには一一私 自身 の会話能力が 不十分 なせい も大 いにあるが一― それ↑目当の準備が必要である。最初 に,そ
の「対話Jで
使用す る教養部廃止 と今後の「一般教育Jのあり方について