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ハンス・フォン・ビューローの生涯――1830年~1855年誕生から成年まで(1)――-香川大学学術情報リポジトリ

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ハンス・フォン・ビューローの生涯

―― 年∼ 年 誕生から成年まで( )――

マリー・フォン・ビューロー

ハンス・フォン・ビューローが生まれ育った環境は,表面的に見ると,きわめて優 れた条件が整っていたように思われる。善良な妖精がお気に入りの子供に与えようと 夢みるようなものは,何ひとつ欠けてはいなかったように思われる。誕生の地は,美 しい芸術の都ドレスデンで,街全体が芸術作品のように陽気に晴れがましく目に映る ようだった。芸術と知的活動に従事する高貴な家系に生まれ,同時代人に対して,デ モーニッシュな力で,その時代に強い影響を与える高貴で強力な個性を持っていた。 独自の素養と才能に恵まれ,若い頃から夢遊病者のような確信をもって,熱望する目 標に向かって努力した。すべてのこうした境遇との出会いが,調和のとれた幸福な, そしてきわめて高いレベルの完成度に楽々と到達する芸術家としての存在の誕生に 影響を与えたのではなかろうか。しかしこうした人生の歩みは,まさに苦難の道,初 めから終わりまで勇敢に立ち向かうことが必要な闘いであった。そしてまさに,ビュ ーローには幸運の星として前途有望に輝いているように見えたものが,状況の不思議 な連鎖によって運命となったのである。運命と呼ぶとすれば,それを克服して初めて 完全に開花させるために,才能がその障害を取り除くだけの個性を伸ばすことが前提 条件であった。 両親の性格はとても対照的だった。エドゥアルト・フォン・ビューロー⑴は 年,

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アイレンブルクの山城で生まれた。将校の息子として生まれ,気難しい父⑵により,商 人になるよう進路を定められたが,書店業で失敗したあと作家になり,ルートヴィ ヒ・ティークとの密接な交友により,多方面の文学研究,外国文学の翻訳や編集の仕 事への刺激を与えられた。この分野でエドゥアルトは,水を得た魚のように むこと なく熱心に仕事し,文献学的な才能を伸ばし,きちんとした貢献を果たし,相応しい 地位を得た。残念ながら,安定した収入が得られなかったのは,放浪したがる衝動, 魅力的だが落ち着きがなく,熱しやすく冷めやすい性格,身体的にあまり健康ではな かったことなどが原因だったのかもしれない。日々の生活で実際に必要なものを正当 に判断する能力が欠けていたこと,お金や収入の問題をおざなりにしてきたことも⑶, フランツィスカ・シュトル⑷との結婚にすぐ暗雲が立ちこめ, 年の激動の生活のあ と,離婚にいたった理由のひとつだったのであろう。 フランツィスカは 年にライプツィヒで生まれ,宮廷顧問官フレーゲ⑸の夫人と なった 歳年長の姉の家に住んでいた。華やかな交際にも慣れ,才能にも恵まれ, 外国語も巧みだったが,政治的には家族全員と同様に保守的だった。魅力的なエドゥ アルトが作家になる専門教育を深めるためにライプツィヒに滞在中,彼女に求婚した ときには,彼女はすでに最初の苦い人生経験を経ていた。 二人が 年に結婚したあと, 年 月 日,長男ハンスが誕生した。 年 後,妹のイジドーレが生まれた。それから最後の女児オーダが〔 年に〕生まれた が,知的障害があり, 年に亡くなった。一見して才能や教養,あちこちでいつ もえり抜きの交際,素晴らしい人物との交友を結ぶ能力を有していたにもかかわら ず,絶えず波乱に満ちた雰囲気を生み出していたのは,フランツィスカの頑固で強情 で激しい性格だった。それに彼女の家族はひどく悩んだ。一番悩んだのは,感受性が 強く,早熟で聡明な少年〔=ハンス〕で,健康回復がしばしば疑われるようなたび重 なる病気によって,彼の神経の過敏さは,さらに強まった。

( )Ernst von Bülow( − ) ザクセン宮廷軍の少佐を務めた。

( ) 原注:「どうか教えてください。僕はどうやって靴屋,服屋,楽譜店に支払えばいいのでしょ う。パパは支払いはすぐに済ませ,遅くならないようにと望んでます。伯母さんにお願いしても いいでしょうか。でもどうやって?」〔 年 月 日付母宛書簡〕。

( )Franziska Stoll( − )

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フランツィスカは,ライプツィヒの貴族フレーゲの快適な家とは絶えず密接な関係 を保っていたが,ハンスとイーザの兄妹には望ましい目標となった。そこには,豊か さ,友好,劇場,商店,小旅行など,あらゆる種類の気分転換があった。とりわけ ビューローには必要だった家庭的安らぎがあった。詩人ヘルヴェークがかつて子供の 頃,自分の健康状態を安定させるため,両親から離れなければならなかったように (両親の不和が原因で死にそうになった),フランツィスカの親戚のこの家は,一種の 隠れ家と見なされるようになり,彼女の子供たちは,いつでも歓迎される客人だっ た。 駅前通り 番地の立派な建物は,二世帯住宅で,宮廷顧問官フレーゲとひとり息子 で大学教授のヴォルデマル,その若き妻リヴィア・ゲルハルトが住んでいた。彼女は 歳の誕生日に結婚し,夫妻には息子アルノルトがいた。リヴィアは結婚する前は 人気歌手で,この家 ― もともと伝統的に街の著名人が集う場所ではあったが ― にラ イプツィヒの偉大な音楽関係者をも結びつけた。まず,みんなに尊敬される特筆すべ き人物はフェーリクス・メンデルスゾーンで,作曲や音楽教育の大家,過去の巨匠の 再発見者,ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者として,ライプツィヒの名声をドイツ 国内はもとより,ヨーロッパ全域に高めた。さらにローベルト・シューマンとクラ ラ・シューマン,ピアニスト・作曲家・教師のモシェレス,楽長のユリウス・リーツ, 他にもライプツィヒで教職に従事する一流の音楽家たちがいた。フレーゲ家がこうし たグループに心酔していたこと,そして政治と同様,芸術においても保守的であった ことは当然である。ビューローの「革命家思想」が彼らから是認されることは不可能 であったから,若いビューローには,早い段階から彼らが「反動的」に思えたに違い なかった。 歳のビューローは,自分でも後年に報告しているように,「長期間の病気のあと, それまでは才能も音感もなかったのだが」,最初の音楽のレッスンを受けた。「この最 初の時期の急速な上達で,ライプツィヒの音楽学校に通う希望を抱いたが,幸いなこ とに,それは途中で中断した」⑹。音楽教育を受ける前に,ずっと両親の家で普通の教 ( ) 年 月 日付の宛先不明の書簡に,誕生からこの時点までの自伝的記述が書かれている。

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育を受け,特に記憶力の練習に力を入れた。これは父が自分の苦手意識を克服しなけ ればならなかったときの困難を考慮してのことだった。 両親とも言語の才能に恵まれ,それは子供たちにも幼少時から有用に作用し,とり わけフランス語を兄妹は完璧にマスターした。当時,特にドレスデンでは,ビューロー の属していた社会層にポーランドへの入植者がたくさんおり,外国語の重要性は当然 のことではあった。就学状況はごく普通で,片手間としてのギムナジウムも難なく 終えた。ほとんどの時間は音楽に費やし,ピアノ教師のシュミーデル夫人は, 歳 のビューローと別れる際にプレゼントしたアルバムで,「飽きることのない旺盛な熱 意と努力」を称賛した。母は大喜びしたが,ドレスデンでの交友関係が音楽関係者や 劇場関係者との付き合いをたくさんもたらしたとしても,音楽が将来の息子の職業に なるだろうとは,想像もしなかったからだった。交友関係には,同じ建物に住み宮廷 劇場でコンサートマスターを務めるリピンスキ,劇場総監督夫人のイーダ・フォン・ リュティヒャウ⑺などがいた。また,エドゥアルトのルートヴィヒ・ティークとのつな がりが,古典劇の感嘆すべき朗読者,作家,文芸愛好家たちによる文学的環境を子供 たちに開眼させた。それだけに,慢性の病弱が,周囲の注意をひいたとき,職業の選 択が話題になることは,ほとんどなかった。 歳か 歳のビューローが父に連れら れて出かける頻繁な湯治が目立つようになった。テプリツ,キッシンゲン,そしてラ イプツィヒでも,鉱泉水を飲み,頭痛が問題となっていた。知的活動や若者らしい行 動するときはいつも,何らかの身体的な疾患や障害を,意志の力で克服しなければな らなかった。こうしたすでにある大変な心配事に加えて,新たな頭痛の種も生まれ た,母のこの時点での天敵リヒャルト・ヴァーグナーである。親切な隣人リピンスキ から 歳のビューローはチケットをもらい, 年 月 日の《リエンツィ》の 初演⑻を観ることができたが,これが将来を決定する出来事になった。ライプツィヒで 劇場や音楽に慣れ親しんでいたとはいえ,それまで想像もしなかった素晴らしい世界 が開けたのだ。体験した者に与えられる輝きと力は,衝撃的な感動を味わった少年の ( ) ドレスデン宮廷劇場総監督のリュティヒャウ男爵は, 年の《リエンツィ》初演の翌年, ヴァーグナーを宮廷指揮者に抜 した。 ( ) マリーは 月 日と記しているが,一般の文献では 月 日とされている。

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心と頭にしっかりと刻まれた。そして,作品の創作者,小柄で細く,思想家のような 額をした敏捷な男がステージに登場し,聴衆の歓声に包まれたとき,ビューローは 永久にこの人物の虜になってしまった。ヴァーグナーの使徒ビューロー誕生の瞬間で ある。 年後,ビューローはリスト臨席のもとで《リエンツィ》を指揮したあと, 自分の音楽カレンダーに,「歴史上重要な日」と記した⑼。 このときから,音楽の勉強が重要な位置を占めるようになった。偉大な模範を模倣 したいと思う憧れが,作曲の試みとなって表面化した。とりわけ,ビューローが 歳のとき,ライプツィヒでモーリツ・ハウプトマンのレッスンを受けるようになり, 喜びと励ましを与えられるようになってからだった。ピアノ練習の理論や技術的な問 題については,手紙にいつもたっぷり書かれており,その綿密さは理解力や自分の力 量を母に巧みに証明するものとなっている。母との一体感を強く感じる心情は,ヴァ ーグナーを崇拝する気持ちにも共感を得たいという,おさえ切れない衝動となった。 「木曜日にドレスデンで《タンホイザー》がありました!」とビューローは母に書い た。「強い恍惚感と悲哀感に襲われました。上演に居合わせるためなら,何でもする でしょう。その可能性があるなら,タンホイザー自身がローマに巡礼したように,劇 場に巡礼するでしょう。自分をずっと元気づけ,高めるために」。数ヵ月後の手紙で は次のように書かれている。「母上も先日の《タンホイザー》の上演に居合わせたら よかったのに。それだけが気がかりなのです。気を悪くしないで欲しいのですが,母 上がまたそれを無視したら,僕は腹を立てるでしょう」。 ( ) ハノーファー宮廷楽長時代の 年 月 日。 年のドレスデンでの初演時にもリストは 客席にいた。ビューローは「ローマ,ペスト,ヴァイマルの魔術師〔=リスト〕のために今日, 娘婿二号のあの処女作を娘婿一号がハノーファーで指揮しました」と母宛に手紙を書いている 〔 年 月 日付書簡〕。

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