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讃岐に於ける住民住地の變遷と産業との關係概觀-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

貞一次

寺 田

苗代民族の遺物遺跡の調査に伴ひ、自然、に考へ及ぶものは住民の任地であり、其の時代により欒化した形跡を

個ふそとが出来るものである。自分も此の調薬を始めた結典、だいぶん住民任地の欒遽を伺ひ得た感にうたれて

お驚然し遺跡の調査はたとへ掌の如き狭糧な讃岐の地であるとは云六、理想的に調教しっくすことは到底田楽

る業で敵いから、従って此の問題の如きも、完全な結論に到達すること・は困難である。現今の虚で曙∵徒釆﹂般

陀考へられてゐる任地の撃蓮が寄賛であることを裏書する程度に過ぎす、何等新蟄見も出来てゐな.いの.ではある

けれども、兎に角今日までの経験に基いて、畜岐に於ける住民任地の欒遽を考察して見ようと思ふ∵

ヤヨイ

分って時代を囁別tてゐる?・縄紋土器が苗Yて摘生式五経が之れに次ぐと聞いてゐる。然るに営地の遺物を朝る 讃岐軋於ける健康任地の欒遷と産発との開係概観

讃岐に於けろ住民任地の欒遷ミ

産業ミの閲係概観

︵五﹁︶ 土工

(2)

と、地紋土器紅塵するものがどうも後見されてゐない。阿波の如き、単に阿蔚山脈五こつ越したのみの魔である

が、徳島宙附雷於て、立派な触紋土讐驚されて居急用掛︶、菅野川をめぼつた計警・蓬の中堺校の 敷地から莞せられて居り︵飢朋那畢︶妄西偶の伊預に於ても雷の聾が一つの小岬で隔てられ雷けの今治

附近にも蔑見せられてゐるのである。封岸の岡山願にも其の遺跡を聞てゐるが、岡山まで行かなくても亦山脈で

隔てられね阿波まで観なくても、同じ内海に渡し望遠の嘩岸で、夫も散り距離の遠くない伊漁の梅澤附近で牽

見せられてゐるにむ傭はらす、畜岐に於て其の遺跡の蟄見されないのは不審である。然し遺憾ながら未だ蔑見階

乗ないのである。

吾人の後見する土誰のやで、稽古そうなものに遭遇する時、成蛛其の系統でないかと注意してゐるのである

が、未だ確饗と云ふ遺物を後見しない。尤も、兜年徳島の森啓介氏が釆願の際、氏は鎌由共済禽郷土博物館所蔵

の縄紋土誰が、坂田懸田開設の際額見せられたとなつてゐたのを胡、讃岐にも縄紋土絡が蔑見されてゐるものと

海へ、大に讃岐人の迂潤を安められたのであつたが、後東京の杉山薄紫功氏が郊解同品を観、同氏の経験上より

して此の土器の確に関東方面土終の特徴を備えてゐることを確知し∵博物館主任に確められた結果、此の土終の

出土地に就いては不明であつたのを、偶々坂出鹿田出土品中忙脱衣してゐた関係ヒ他の出土品と共に陛田出書m

と記されてゐたことを敬乱するに至り、こゝに森氏の断奄は根底から覆へされることになつたのである。果してこ

の土器にして嘗地肌土品でないとするならば、讃岐には未だ穐紋土器の費見時ないと云ふことになるわけである。

発十一′巻 弟一癒 ︵五二︶ 五二

(3)

〓 然し、讃岐の摘生式土詩中には、縄紋土葬系に非すやと考へられるものは必ずしもないのではない。自分が綾 歌那加茂川騨前の隔の官境内溝境地で蔑見した土器の如きは蒲生式ではあるが縄紋土器類似の紋様を有し、曹見 督御には直覚的に縄紋土器と舞いた程であつた。然し眞の細紋土器でないことは明である。叉三豊郵仁尾の富岳 や仲多度部頗飽本島の痙塚から峰粒状を乗回に印せる一種の滴生式土絡が我見される。此等も精考へさせられる 遺跡1であるが、これとても眞の感紋土韓とは考へられてゐない。 然し、大に不思議なのは、仁尾の遺跡から黒曜石片が多少とも蔑見されることである。自分が直援蔑見したの ではないが単組村洲崎寺の御城俊繹師が此の遺跡より後見せられたことは革質である。血の黒曜石は本邦東北地 方から北海道にかけて、縄紋土絡と共に後見される石辞原料石であり、常地には何磨にも見ないものである。今 迄の躇査では富岳以外には未だ蟹見してゐないのである。此黒曜石片の存在より観ると、此の鷺島は縄紋土辞と 重く無関係の土地とも考へられないのであるが、さりとて虞の縄紋土界時代の遺跡として戟るペき造物も硬見さ れセゐない。凌は錦上申探く難波してゐるために蟹見されないのであるかも知れないが、避憾ながら未だ蟄見た 至つてゐない、故に讃岐には未だ縄紋土器時代として考究すべき材料が全くなく、讃岐の遺跡は弼生式土器使用 時代として考究するより造がないのである。 讃岐に於ける億艮任地の攣遷2産発との開係概覿 ︵五三︶ 五≡

(4)

三 繭生武士辞は讃岐では至る朗畿見される。自分の靭蒸した節用だけでも飴程の多数に達してゐる。而この土器 偵石器と共に任属居住地を談る唯忘資料であるから、磯風地をその地形上から観察して見やうと鳳ふ。 ⊥、癒岐は地構上花崗岩質の地腰をなしてゐるので、安山岩質の土地もあるが、その基層は何虚も花崗岩質地 で漆り、義に綬傾斜の快阜を呈し、水蝕の作用を受けて長い丘陵がよぺ敬遠してゐる。而してこの丘陵の背部並 忙斜面は任地上して使用されたやうであり、礫に日光のよくあたる斜面が利用された形跡を示してゐる。例へぼ ︵イ︶大川郡濃度町津村稲荷趨の上池西側斜面︵三〇−川○米︶ カベシタハル ︵P・︶大川部鴨部村下張敢︵式内︶丘陵︵三〇米︶ ︵ハ︶木田郡牟縫村六萬寺後方丘阜南端︵ニ汽丁由○溌︶ ︵一︻︶木田郡二呑村桃山丘陵、・同村字竹林の丸山蘭斜面︵五〇−六〇米︶ ︷ホ︶香川郡安原下村字鮨瀧田岸の丘陵︵一八〇米︶ ︵へ︶香川郡風塵村大字山崎、網引天満宮丘陵︵六〇1七〇米︶ ︵ト︶綾歌郡昭和村大字千匹竹谷丘︵約咄 叫○米︶ ゥーエ ︵チ︶綾歌都岡田村字間紳祀の丘陵︵九〇−二〇米︶ 第十一巻 第一渋 ︵五四︶ 五四

(5)

など其の例は多いa −一て∬陵埠ではあるが、山の尾の性質を有せず、孤立丘陵をなせる虚、か1る丘陵地にも遺跡は段々費見され る?ノ例へぼ、 カシザキ ︵ィ︶′ガ川部紳前村、股井の天神山︵囲○米︶ ︵P︶大町郡造田村†諏訪山︵亙○米︶ ぺハ︶木田郡庵治村字丸山の小丸山︵三〇1洞○米︶ ︵・ニ︶永由郡伸添村山崎叫︵五〇米︶ チギリ ︵ホ︶番両部俳生山町め豚山︵三方・1三七米︶ 讃岐忙於け亀倖艮低地の攣遷と産発との関係概親 スナゴ ︵デ︶三選郡上勝間砂苗の鬼ケ白山蔑利達谷︷秒北山の尾︵四〇−二〇米︶ ︵ワ︶三鳶郵萩原村の池畔の丘陵ハ十00米︶ ︵カ︶三豊郡笠田柑字七尾︵四ヅ壌と科する山の尾︶︵八〇米︶ ︵毒︶三豊郡賽井村藤目山北饗め丘陵︵んル0−七〇米︶†−† ︵ル︶き藤郡詫間村浪打八幡宮の丘陵ふ四?1計○洗︶ ︵ヌ︶仲多度郡吉野村満濃池常北の丘陵︵一三〇−∵六〇米︶ ︵サ︶綾歌郡山内村橘池畔丘陵︵六〇米︶ ︵五五︶ 五五

(6)

︵へ︶香川郡簡酋間芝山︵二五米︶ ︵†︶綾歌郡坂本村宇久保の大塚山︵ニ5米︶ ︵チ︶綾歌郡坂訊町の南茶臼山︵閥○米︶ ︵ヮ︶仲多度郡善通寺町甲山︵冗○−八〇米︶ ︵ヱ仲多度郡埋簡村船岡山︵四〇米︶ ︵ル︶三豊郡骨盤村流問丸山︵四〇米︶ ︵ヲ︶ニ塵郡笠田村・比地二村の境天神山︵六〇米︶ の如き其の例は少くない。 三、相常の高さを有する山塊地、か1る性質の魔をも利用した形跡がある。例へぼ、 ︵イ︶木田郡の五剣山附近︵ニー七米︶ ︵こ木田部屋島町屋鳥山︵二九二米︶ ︵ハ︶香川部下笠居柑峯ノ出︵黒幕︶︵最高三関叫米︶ ‘ィハセサ ︵ニ︶高松市Å驚田村・政打村の石碑尾山及び浮燐寺山︵二三二米︶ ︵ホ︶綾歌郡飯山︵讃岐富士︶鉄面 ︵へ︶綾歌郡坂出・〃宇多津両町の囁梁通寺山︵叫二叫米︶ 第十一巻 東 血 験 ︵五大︺ 五六

(7)

︵ト︶仲吸塵部如瀞山︵一恵八米︶ ヘチ︶仲多度郡善通寺町の磨自由、鶴峰︵二ニ○米︶ ︵リ︶≡豊郡観音寺町朔晋寺山︵五八米︶ ︵ヌ︶≡鹿部豊田村、・組伊村・稗田村境の鱒神山︵九二米︶ の如き此例である。 四、基地性並に綬斜面件の地を利用したもの、例へば ︵イ︶犬川郡石田村の養殖 ︵P︶木田郡三谷村並た十河村の基地 ︵ハ︶香川郡池西村の基地 ︵−一︶綾歌郡開脚村の基地 ワユウリ ︵ホ︶仲多度郡富野材ご肉屋原・龍頭︶基地︵血七〇米︶ ︵へ︶三豊郡辻村の毒地 の如き是である。 五、内海申の島喚、例へ1ぼ、 ナホシて ︵イ︶香川都女木島北部山頂、同部徳島 讃岐に於ける住民任地の麺避と産米との細係概観 ︵五七︶ 五七

(8)

︵.P︶仲多度郡砂繭島予韓飽本島、向島、輿島、小輿島、楷石島、長嶋 なぜ、内韓の繹島疫は大抵その遺跡を有して居り、小豆島の如きは地積が大であるから、島喚の部類に属せしめ るよりも﹂前め諸例にあてはめて考へる方が重富であり、小豆島では禰生武士器は山梵の山の尾や丘単性の地よ り耳後見するが、又屠舞城山頂よりも蔑見されてゐる。 廟生式遺跡の簸属地は爽接右の如くであつて、、その地形を観ると、何れも高燥な桝であり、中には随分高い朋 美りも蔑見′せもれてゐる.乙とが知れる。 然らば朝生式時代の遺跡は低い土地には無いのであろうか。イ否決して無いわけではない。例を奉げるならば ︵イ︶義邦灘驚個対地出席の、瀾地︵九−⋮○米︶ 、 ∴・P︶ ︵〇香川都止鮭堀村偲料ヤ佐料城址の少し上の方︵二〇米︶ ︵ニ︶凝帝都西庄村研官並転天皇の新選畔︵五ト⊥○米︶ ︵ホ︶仲多度邦書通寺吋緋典場附簸.︷二五米︶ ︵・へ︶三紫郎高安村南蛮小峯校数地︵五−二〇米︶ 弟サー琴∴∴第一躾L一 省五入︶ 五紙

(9)

︵ト︶三豊郡稗田相棒由小串校連︵〓川米︶

の如きは其の例と申すこ上が田凍る。然し嘉に観ると少くと濁自分の躇杏だけで申せば、弼生式遺跡はその大

部分が高批の地であつて、、土地の低い方に在る例は至つて少いのであり、今奉げた例位しか之を認むることが出

来ないのであ

勿論︳箇ヰ二簡ぐらいの石鉄が賛見された例は低地にも決して少くない。例へぼ木田郡牟祓の御城俊躍師は庵 治村新開暦天紳紋の北の細流畔︵T二米︶や、卑蔭村の審問城畔の田地申︵五米以下︶の鋳で蟄見され、自分もlニ 豊郡の上高瀬村田井の田圃中︵6米︶で之を蟄昆したことがあるが、此等は何れも溝染申の顎見であつて、自分 が三豊郡で蔑見したもゐ1如きも、餞河床飽から蔑見したのであるから、或は上流より流下したものとも限らな

い、従って此の地を以て直に石綿時代常時の遺跡と考へるわけには参らぬかも知れぬし、叉前述の低い土地に於

ける遺跡の如きも例へば木田郡林村の追跡の如き寧日川支流畔ではあるが、土地としては太田柑か.ら表に蟄達

せ局梢高放のよ地であり、二〇米の高さを示して居り、三豊郡高彙村貝塚の地も今でこそ立派な田園地ではある

が、遠来が壷の斜面を開墾した虎で、高さは矢張り一〇米内外を示して居り、善通寺練兵窃の地も平由ではあ

るが、低地から観れば飴程高昧になつて居り、棟高二五米であり、綾歌郡西庄村別官並に天皇の遺跡の如きも、

低地畔の斜面に沓サ、高さは矢張り叫○米内外、香川郡上笠居村の佐料も同様斜面で高さ二〇米を示して屠り、

眞の低地と観るわけ把は参らないのでるる。 讃岐に於ける住民鹿北の欒逮と産米との闘係概数 ︵五九︶ 五九

(10)

弟十剛巻 第 州 張

︵六〇︶ 六〇

然らば弼生式遺跡はどの位の高さを有するものであらうか。山の尾の場合は大抵擦高手四〇米より草六〇米

が多く、高い魔では一〇〇米以上青草六十栗、孤立丘陵の場合些ニ・四〇米よh二〇〇米以下であり、山塊地に なると、倫高く啓示〓00米以上三〇〇米に及ぶ虚もあり、偽造に高い虚にも蔑見されることもあろうが、央等

は特殊の場合と観ることも田釆るから例外とす驚

此鮎から観ると、弼生式時代の遺跡曙普通が草六〇米で、高い虚で些コニ00米と云ふことになり、〓常に

此の時代の住民は高地に居住したと云ふことになり、現今の居住地とは全く別の地域の利用されてあたことが領

つかれるのである。従って常時の住民居住地の両横の如き現今の居住地に比すると随分鋏くなるわけであ告

然らばかゝる地形の所に居住せる常時の住民は如何なる生活をしてゐたものであろうか。生柴は何であつたで

あらうか。それは央張り居住地の地鋭から考究する要がある。

第−の丘陵地の上にある場合に於ては、丘陵の下方は大抵の場合が渓流になつて居牒、丘阜は此の渓流に滑ふ て蟄達してゐるのが普通である。木田郡奉祀村六寓寺の後丘の如きも、漁民が寒から蓼瀕する渓流がこ1に流下

してゐる朗であり、志度町津村稲荷越の丘陵地の如きも、志度町字末から流出する細流の南側に構って居少、香

川郡安原下村鮎瀧西岸の丘陵の如きは、壷東川上流鮎瀧清流の側に費達してゐるのである。此他紅於ても大抵此

(11)

の地形を呈してゐるのである。 撃一の孤立丘陵の場合、これには鯨岸に接した虚と、然らざる鹿とがある。前例によつて敬ると、聴治村字丸 山の小丸山、香川郡香酉町の芝山などは何れも海岸に接したものであり、他は然らざる場合に営てるのである。 チキリ 然し此の方は何れも細流を掩えてゐる。木田郡川添村の山崎山は新川に接して居び、彿生山の膵山もその東側に 森白川支流に潜る細流があり、三豊新盤田村と比地二村の境なる天神山も傍に財田川に流入する浮川上流に苦る 細流があり、仲多度郡善通寺町の甲山もその東側に弘田川の細流を軽えて居り、綾歌郡坂出町の南方茶臼山︵今 水道用地︶も同様である。何れも水に関係ある地位に在ることは充分に認めることが田楽るのである。 第三の相恩に高い山塊地を観るに、何れも渓谷を利用した場所に遺跡が我見されてゐる。石清尾山の如きも、 摺鉢山の渓谷たる摺鉢谷の水源に常る小盆地に後見されて居り、ト木田郡牟磯村の五剣山の如きは漁民ケ峯の分水 界によつて形成せられてゐる渓流の水源に常る、小盆地を利用して居住した形跡が歴然として.ゐる。屋島山め如 ウp きも南北開嶺の聞に位せる涌生の渓谷の頂鮎に常る南嶺の卒亜地が利用されたのであり、この場合は鵬般に俗に 云ふ瀧︵ねき︶の畿漁地濫普ってゐるととが其の特徴である。 ソ.コウ ∴第週の基地性又は綬斜面の邁跡を観るに、木田郡三谷村並に十河村の基地、大川郡石田村の叢地、綾歌都岡田 の基地、仲多度郡菅野村の基地、三豊郡辻村の番地主玄ひ﹁何れも地形は比較的に高煉ではあるが、附近は河川 の倭蝕を受けて居る桝が多く、水渓と無関係とは考へられない。 讃岐陀於ける住民臨地の欒遽と産弟との闇係概観 ︵﹂ハニ 六劇

(12)

彙十︼巻 鱒﹁溌 へ六こ︶ 六こ

第五の内海の諸島に於ける遺跡の如きは、相葛の高所にあつてむ水の便がなかつたと考へるわけには参らぬ〇

斯く通観して見ると摘生式時代の遺跡は何嘩の遺跡を問はで何れも水利の便ある桝で奉ることば諒賢であ驚

これは全く飲料としての水の利が主瀕凶をなすものではあるが、叉生糸上にも無関係であるとは考へられない。

然らばその生柴は何であつたであろうか。従来の詮によれぼ、原始の生柴は勿論狩撤並に漁拶となつてゐる。

経済蟹達の液初はハンチングとなつてゐるのである。硯に此の避跡から鬱見する遺物は何魔でも同棲石器と土静

芝であり、去器は石斧の類や特殊な石器もあるが、最も普通なのは石鉄であるり而して石鎮はその形態並肛石質

は朗によつて異つてゐるが、要するにその用途は狩瓶用と云ふことになつてゐる。勿論石鉄の用途に就ては異詮

がないでもない。由り化その分布が廉く、逸物の数盤が多いために、威は狩瓶用のみではなく†常時に於ける二

粒の貨幣的性質を有してゐたものではなかろうかとも考へられてゐるのであるが、普通は狩瓶用具として取扱は

れてゐる。

されば此等遺跡を残した位民は兜づ狩猟を生発としでゐだと考へねばならぬ。且つその潰跡たゑ肛蓮の如く、

何れ㊨丘陵性の地であり、綬斜面の地でせ附近に山岳のある夙であるから、充分た之を信すかことが田狙計ので

ある〇

(13)

相思大きな河畔や海に渡してぁる輿で蜂凍狩汲と共に漁務をも潜んでゐたことも察せられる。常地には之を立 謹する唯十め遺跡たる貝塚は至つ七少ない。磁嘗な逝跡と鬼ふもの蟻媒準よく知られ七釆た三豊部仁庵の蔦鳥貝 クル・ヽ 凝、三豊部高望村の貝塚を始め、自分の兵藤と考へてゐる綾歌郡酉庄村の貝塚、∵香川郡下笠居村垂水の・貝塚なぜ 匿過ぎない、然し内海の諸島や、庵治の小丸山、庵治村竹居観音崎の後丘、三愛郡常盤柑流問丸山ヽ.香川郭香西 り芝山など、は必ず梅を利用したこ去は療後に.難くなり沌殊に鞄飽本島の北に植し、i小水道を以竃隔れる向島の 海岸遺跡には土誰の他に、漁拷用錘石が多数敬見され、其ゐ他に於ても朗々同種の錘石を姿見することがある。 例へば三豊郡比地二村にて〓箇、仲多度郡菅原村大字菅原曳茶薙帝我藤師山の北斜尚にて土簡後見し養ことた昇 クても知られるのである。廃し常地の兇変時什住民は単に狩狼・漁拶昭.みが生活の粂餞であつたであろうか。、由 分の考では決して夫だけではなかづたP卑く既に耕作をも合せ螢んでゐたと考へ、たいめである。 その理由は自分も久しく耕作について確たる断賽を磯点することが川釆ずに過したのであつたが、先年偶然遺 物の後見から之を覚るやうになつたのである。その敬見と申すのは億年三豊郡財田村躇癖の際同村財田中字音田 の高とう原と栴すあ山の尾に於ける石鉄散在地で、病然にも俗に云ふ暁光を敬見した。即ち教化した穀粒を後見 しねのである。嶽かもこの焼米墜北沢な弼生式土洛中忙充満し.たまゝ蔑見されたので驚や勉、、土絡は中年破壊し 焼米は幾分洗出Lモゐたので、土器と共に鄭蚤に採集して辟った。之により自分は従来聞いてゐたところの所謂 焼米なるものが、僅に数百年前の城砦旛溶の遺物とされてゐるのに不審を鞄し、癌内に於ける他の焼米我見地を 讃岐忙於ける住民任地の欒遽と産米との禍係概胡 ︵六三︶ 大蓋

(14)

弟十仙巻 第 ︼ 鍍 ︵六四︶ 六四 も躇斉した結果、愈々城始遺物詮の不常なるを知少、所謂焼米なるものは鰯生式時代の遺物なることを確信する 比重ったのである。 此の後見により、自分は輌生式時代住民は取して狩瓶・漁拷のみを以て生発としたのではなく、既に﹂暦進ん で不完全ながらも農耕を合せ営んでゐたことを察するめである。 七 故に禰生式時代住民は轟称殊に米をも耕作したのであると倍するのである。而して此の時代性民の遺跡は比較 的低い土地にも教見せられてゐるが、畢忙丘陵性の高燥な地ぬ後見するのであるから、楢の耕作は不可能のやう に考へられるのではあるが、その丘陵性基地又は揆斜面¢地たる、何れも渓流と関係を有して薄諸 適わであるから、此の渓永を利用する時、稲の栽増は必ずしも困難の発でない。従って眉然的漑沌に適する土地 が最初に耕作地として使用せられたに相超ない・のである。∴現今から観察する時、平甜或は随分靡いのであるか ら、最初から利用致したならばよさそうに息はれるのであるが、常時の状態竺止ちかへって考へる時、夫は決し て容易の菜ではなかつたのである。自分は先に常地の漑藤翔溜池を調査Lて大に此の環を覚ったのである。現今 め立沢な田園地は決しで叫朝叫夕のものでない▲。此鹿に住む住民の遠組が多大の且不断の努力を以て漸くにして と1忙至ったものであることを感じたのである。

(15)

果せるかな先史時代の追跡を通観すると、常時住民の追跡は内海の島喚・山塊地・琳立正陸地乃至は山岳の尾に

潜れる丘陵又は斜面と、その下方の趣く少許の土地のみに限られ、極く稀に河痺の締高燥な地にも費見せられる

るた過ぎないのであり、殊に讃岐の南部に位せる山岳地で厄、その谷間の奥地に放て多くの遊跡を後見するので

あ′る。

か1る山南の奥地に於て省き追跡を畿見することは.現今の如き時代から考へると、全く不審を抱かしむる番

セあぢ、自分も故初は不審の眼を以て之を軌察したのであつたが、多くの遺跡を通徹するに及んで始めてその常

感なるを覚ったのであを。

先史時代に於ては、現今の・低地は所謂原生の森林又は沼津地せ﹁到底鹿のふみ入れやうもない庭であつたので

ある。中之に反し丘陵地、殊に常地の如き花崗岩砂質より成る丘阜恍地になると、樹林も比較的少くあつたであろ

うし、高燥であり見晴しもよく、往来にも便利であり、外敵に射する防禦も容易であり、未開の佳民に牲好展性

地であつたに相違ない、従・つて兜変位民蛛此魔を任地と⊥、狩瓶を潜み、河海近接の地では漁撥を彙ね、叉前述

の如き水の便ある場研を選んで、新作をも潜ん.だのである、而し七日岳谷間の奥地はこの催件に適するので、か 1る土地は最初に利用され、従って造物の如きも多くか1る土地に我見されることにな.つたのである。 讃岐忙於ける住民任地の欒速と産発との摘係概観 ︵六五︶ 六五

(16)

第十劇稔 男山渋

○ハ六︶ 六六 =盛郡胱村下肺事前側に、はヤクラグチと稲する渓谷があり、此の地方では早く開けた朗と伴へられて居り、兜

真の谷の産下で郊生式土阻が畿見せられÅ鍼闇租哲が如き㍍綾歌郡叢望遠至芸裟の谷の斜

面に於て銅盤式並に石森時代の追跡を牽見したが如き、何れも之を物語る資料たるむ失はないと思ふ。

斯くして稲が趣く渓流を容易に利用し得る魔のみに栽培せられたのであるが、栢以外に於て水を多く嬰せざる

作物姓勿論早くから栽増されたことは考へられることで、遺物上からは確設を得ないにせよ、讃岐には早く阿波

より移住した俸説のあること、而して此の阿波は菓に通じて、畑作を早くから営んだことが想像され、讃岐の地

名にも三豊郡の粟井村、′粟井紳敢、肺村、肺部紳敢、仲多度郡の大肺机、大姉紳祀など之を物語るものが少くな

いのによつても知られるのである。

此等の鮎から推して、先史時代の住民は狩瓶と共に河畔の居住者は漁務をも常み、島唄の仕民は漁拷を主とし

夫と共に耕作をなし、栄の如き食料品を栽培すると洪に、衣服の料として肺なども栽培し、其の上に河畔で自然

的沌漑に適する桝で比水稲をも作ったものと考へられるのである。然し勿論狩瓶漁拷乃至は耕作などむ営むには

その用誰を必要とする、叉日常の飲食にも食器を必要とする、此等の用品は早くから考案せられ作製せられたに

相違ない。木器の和もあつたに相違ない。此等は常時の遺物たる銅鐸の綺で察することが出来るのであるが、普

通に知られるのは石器と素焼の土終である。常時の追跡は之れが後見によつて知られる位であるから、その道物

も決して少くない。従って常時に於ては此等の絹物を製作することも営まれてゐたと云ふことを考へねぼなら

(17)

ぬ。庸是のみでなく、各所の遺跡から銅鐸の如きも敬見され、これも常時の造物と云ふことになつてゐるのであ るから、常時の住民は或る仙部では叉銅の鋳造をも知ってゐたものと考へねぼならぬ。して見ると此の時代は単 に狩猟漁拷並に農作のみを営んだのでなくして、その以外に叫麓のエ菜をも営んでゐたものと見な骨れぼならな いのである。遺物によつてみれぼ少くとも石製品︵石斧・石鋳の類︶の製・作、土器の製迫並佐一部には銅鐸進も営 まれたと観なけれぼならぬのである。 而して石鉄製作にせよ銅の鋳造にせよ、をの原料は必ずしも地方産とのみ限ってゐないのであるから、何虎か 他に之を求めたに相違ない。或は既に製作した究製品を他から取りよせたかも知れない。此の鮎を思考すると、 成る程度までの交換も常時既に行はれてゐたと考へてよいことになる。 九 而して此の兜史時代は年代に於て何時頃に常るか。その最後の時代は何時頃であるか。却々困難な問萌せある が、自分は次の時代の古墳を営む風習の起った時代と紺適して、次のやうに考へたいと息ふのである。 党史時代妃次で時代を劃する現象は何と申しても音域と云ふ遺物を奉げざるを待ない。境取の時代灯あつてほ 墳墓は高大ではなかつた。後朝鮮文化の影響を受けて墳墓を批大にする風習が生じ、叫般に五規模な墳塚を営む ヰうになつて釆た。現今各地に観る古墳は常時の造物である。然らば捕生式時代と者墳の時代とは如何なる閥係 讃岐忙於ける佳辰任地の襲迩上座発との励係概親 ︵六七︶ ﹂へ七

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弟十.忘Ⅴ ∴悠〝 仙 舵 ︵六入︶ 六八 を有するか、嵩墳と山概に糾してもその造営された時代は素より同一でないのであるから、摘公式ゐ時代を知る 庭疫、古墳との闘係を考究する要を生する。 こゝに於て考へ浮ぶのは、古墳中敷も請いものとされてゐ冴桟右前方後園墳中に於て、往々禰生式土器や計器 イハイペ の磯見されることである。岳墳よりの出土品は普通税部土器と科する各標土鰭である。・然し之は寧ろ新しい方の 古墳で、古い方の古墳即ち前方後風域には此の棒大器は汐見されないで、反つて支那の製作品で木邦への輸入品 である鑑鏡・銅剣の類や、或る程の銅絡などが後見され、夫と北ハに獅生式土器も蟄見されるのである。而して親 部土器出土の古墳には弼鋏式土器の併出は殆ど無いと考へてゐる。して見ると覇生式時代は古墳時代の前期の鬼 で登り合つてゐるやうに思はれるのである。而し草笛墳時代前期と申すの既発づ前方後胤由の盛んであつた頃、 即ち叫般に開化天畠噴から應紳・仁徳天皇頃と考へられてゐるのであるからVその鼓も古い開化天爵頃までと考 へたならば大なる誤はなかろうと恩はれる。著しこれが間違ないものとすれぼ、開化天皇頃奏での静岐に於ける 仕民居住・の兢態並にその生業は前逓の如きものであつたと想像L得ることになるのである。 一〇 攻埠墳墓を高大に東進する時代収入る。墳墓を大規模にする風習の盛んであつたのは、今並の開化天皐前後の 好から奈良勒を控て平安朝の初頃までの問である。而して此時代に於ける仕民の状態を槻るには、先づ高域の桝

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本地を調べる婆がぁる。 讃岐絃残存する古墳を調べて見ると、その数は音外の多数に達して居るのである。今之を朗赤地の地形によつ て分類Lて湿ると次のやうに誓Q。尤も之を統計的に調べる必黎もあるのであるが、夫は今後の報告に譲り、こ 1でほ単に地形上より考究することにする。即ち、第仙が花崗山石砂野の段丘阜地、硲に山の尾と稲する地形の 朗。第二は姦地。琴こは都立の丘陵地。第凶は粕炭大な山塊地。第五は谷間の斜面地︶撃ハは平地に接せる顔料 両地などやある。就中第一叫と第二とほ絶封に多数を占めて居り、第六は比較的少ないのである。 洗兇の時代にあつて嘩墳墓を高大にする風習はなかつた。然し常時の墳墓が寄賛如何なるものであつねか、未 だ溌分正知ることが出水ない。九州遼では各桝から後見される塊根と云ふのがあり、之を以て常時の追風と考へ セゐるのである?讃岐忙も比較的大型の蘭生式惑の我見は決して少く庵いので透るが、九州遮で混鳥が如く、灘 が観ても墳基用と覇かれる程度のものが見苦らない。此め斯からして白分は宋ガ確言するの自信をもつ.てゐ及心 のである。然し遺物が知れない程であることば、墳墓迫螢の大規模でなかったことを詑明するものと考へてよい と恩ふ。 斯く先史時代にあつては墳墓を旗大に築通する風習はなかったにも係はらす、俄に大域棋な墳墓を治督する風 習を生じたことは如何にも不思議である。然し流行と云ふものは東西請今相同じで、時代濫よつて署七く摩るも のであるから、・韓牛島との関係が密接になり、疲の他に簡達した墳壕辻皆の慣習が直接又は間接に輸入せらるゝ 汚岐佗於ける住民倭弛の舜濡と産米との調係概観 ︵六九︶ 六九

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第十﹁谷 井一渋 ︵七〇︶ 七〇 や、此の風習は昔時庖風靡し、少くとも彼地と紺係を有する地方では此の慣習が牽達した寄は決して不思議でな uのである。殊に讃岐の如き.その位置上近畿に近く、叉常時の交通路たる内海に濱せる地方に於ては此の風習 の早く凍ったことは督然であり、多数の追跡を見るやうに洩ったのも不思議でない。 l l 而して古墳遭螢地を観るに、前に述べた軸生式時代性民の邁跡と合致してゐるのである。茸例を詳細に奉げて 之を詮明するの暇をもたないけれども、同遺跡の合致してゐるのが多いことは事饗である。念のため㌻二の例 だけを挙げて見る。 第一の援丘陵地︵山の尾︶の場合 ︵イ︶木田郡田植田村南中原はげ山 ヒガミ ︵ロ︶木刑部氷上和上高岡諏訪敢後丘 ハリユウ ︵ハ︶大川郡津由町羽立岩崎山 カベ ︵lこ大川郡鵬郵相下張、下張紳敢の山尾 ︵卒︶綾歌郡山内村大字両家字坂顔の山尾 ︵へ︶綾歌郡飯の山西幾日崎︵眈に取除、登山道となる︶

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︵ト︶綾歌郡岡田上津森猫谷︵猪谷川束側仙の尾︶ ︵チ︶仲多度郡大麻山来駕︵大姉政商丘陵、殿林︶ ︵リ︶仲多度郡善通寺町字有岡︵御館軋の四ハ丘陵︶ ︵ヌ︶三豊郡財田財田中字菅田高とう原 ︵ル︶三豊郡笠田村大字笠岡字七尾鎚ツ塚山の尾 第二の基地の例 ︵イ︶大川郡石田村 ︵P︶木田郡三谷柑 ︵ハ︶香川郡池西村 第≡の孤立丘陵地の例 ︵イ︶木田郡石高位相小山 ︵ロ︶香川郡大野柑船岡山 ︵ハ︶徽歌郡坂本村久保大塚山 第也の山塊他の例 舟カ′ハナ ︵イ︶大川郡鵜飼村岡墟の北丘陵 潜岐に於ける撞艮任地の攣邁と産染との闘係概観 ︵エ︶綾歌郡瀧官篤塚、岡田萬塚 ︵ホ︶仲多度那吉野村 ︵へ︶三豊郡辻村附近 ︵七こ 七一

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︵こ木田郡川橋柑両峰山 ︵ハ︶木田部屋鳥山︵屋島町︶ ︵lこ二脊川部石渚尾山︵高稔市、驚田村、弦打村囁︶ ︵ホ︶香川郡堂山六ツ烏山の連禁固庄村、檀紙村、山内村境︶ ︵へ︶綾歌郡横山︵瀧宮村、府中村、富熊村境︶ ハザマ ︵ト︶綾歌郡岡餌付西山︵親閲大池の附近︶ ︵チ︶仲多度部大麻山 tつ・1 ︵リ︶ニ忘且郡母紳叫

以上の地方には古墳が多数に竣存してゐるので、最鱒の問埠帯域にのみ苦して躇茶したのであつ票、古墳

と琴に蒲生式土器が蔑見されるので、漸く不審を抱くやうになり、殊に此の感を探からしめたのは前表潰跡中の

綾歌部坂本村久操の大塚山であつた。此鹿は飯の山の東梵に放してゐる小都立丘陵で、規模の大きい苫墳があ

ったので大塚山の名を生じたのである。赤土質の段丘陵である。古墳は眈基部取除かれ発掘の際には遺物が豊

富に肇見料られたもので、立派票窒填でぁつたらし芸である。今も尚丘陵の頂上の各中央に普つて古墳址と

考へられる封土地が残存し、基地になってゐる。此の托陵は既に開墾畑作地とならてゐるが、朝生式姦片が多

数に牽馨られ、殊に丑の中央に穫存してゐる封土は古墳封土の常である朗謂ねり士で、人馬的に盛り嘗た土

濁十﹁巻 ′ 無 †酵 ︵克こ︶ セ二

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放で之が固着のため一軒の粧着性液を混じたものと考へられて居り、土質は極く堅質になつてゐる。此の封土中

に温水⊥て摘生式土器の小片が多数散見されるのである。是が自分をして大に不審を惹起せしめた材料であつた

ので透る。然し今日では誠に何等不審はない。此の禰生武士碍片の混在は偶以て、此地が弼生式時代の遺跡であ

診、古墳造営頓には既に稲生式時代性民の遺跡たることは忘れられ、全く不用の均になつてゐたので、此廃を請

蛾払僚地として使用し、封士には翔生式土器包含主嘉其健利用したものである七云ふことを餐如したので率局p

これ

るもので、.これによつて吾人は弼生式時代に居住地として使用せられてゐた比較的高燥の地は、古墳時代には既

に居仕地としての慣値を失ってゐたことを譜明するものと考へるのであ

選んで居住してゐた住民が、次第に劇檜低い土地に下り属性するやうになつてゐたことを察し得るのである。

t〓

然らばどの桂皮にまで低地に移ったものであろうか、索より内海の島唄の場合と島唄に近き性質を保ってゐた

土地と、並に内陸の土地とにようて大に典ってゐたでぁろうが、概観すると、丘陵又は山塊の麓愛で下り住ん澱

てとは軍資と考へられる。然し現今吾人が見藩やぅ庵桝謂低地、即ち平原の中央までは未だ及んでゐたので忽い

と思ふのである。何を以て之を託するか。自分鱒古墳踏泰の結果次の如き結兼を我見し得磨からである。

讃岐に於ける住民任地の欒遷と産業との関係概親 ︵七三︶ 七三

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などの如き、現今から観る時、低地に存在するもの1如く考へられるのであるが、事蜜上その標高を調べて見る

と仲多度郡白方や多度津附近を除いては、他は可なりの高さを示して望のである。鬼無の奥紳高は約四〇米で カシダカ

ぁり、綾歌郡の東坂東は二・三〇米、善通寺町の西方は約三〇寒、三豊郡の辻村約掴○米、同大野原約三由○米

である。

して見ると、高燥地から低地に移住したと申しても、現今吾人の考へるやうな純低地まで下ったものとは考へ

︵イし香川郡檀紙村大域附近 シラカタ ︵ロ︶仲多度郡白方村白方小啓校附近 位なものであり、此の他 キナシ ︵ィ︶香川郡鬼無の奥、離剛地方 ︵P︶綾歌部束坂本村附近 ︵ハ︶仲多度郡沓通寺町の西方

第十姦 策血醍

︵七四︶ 七四 讃岐に於ける古墳の所在地む通観すると、その丘陵上にあると、山塊他に在ると、婦斜面地に在るとを間はす 古墳の残存は所謂低地には之哀塵見することが少ない、勿論平地は利用上早く開拓の手にか1つて取除かれ霊 であるかも知れないけれども、寄賛上低地には殆ど之を見ないのである。柁低地に存する遺跡と考へられるもの は、 ︵三三豊郡辻村附近 ︵ホ︶三豊郡粟井村附近 ︵へ︶三盛郡大野原村附近 ︵ニ︶仲多度郡多度津町附近 ︵ハ︶ニ盛郡神田村附近

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られない、殊に苗墳の追跡を見ると、随分幽谷の奥地まで攫存してゐるのである。現今から考へると、どうして

かゝる谷の奥深き慶に造営されたものかと、不審に思ふやうな操谷地にまで築造れさてゐるのであり、極く住民

の多かったことが誰にでも額かれる朗以外では、即ち現今から考へても住民衆落地としては常然と思はるゝ土地

例へぼ木刑部で申せば前出村附近、香川郡の俳生山附近、鷺田村附近、大川郡の蓮田附近、津田町附近、石田村

附琴綾歌郡の坂本附近、岡田附近、仲多度郡の如意山周囲の地、期間附近、大肺山麓、三豊郡の母神山附近、

チギヤウジ 財田川上流︵知行寺山逸︶などの如き地を除いたならば、意外な谷の奥地まで邁跡を哉見するのである。念のため などで、随分山奥までも遺跡を教見し駕いてゐる次第である。 前例中井戸村白羽の如き、造田村の西北に探く入り込める狭長な谷地であるからよもや遺跡はなかろうが、念 一二の例を拳げんか、 ヨミrノ ︵ィ︶大川那智水村風呂、宮内 ︵ロ︶木田郡井戸村白粥 ︵ハ︶木田郡奥鹿村脇座 ︵ニ︶木田郡田中柑朝倉 ジンサイ ︵ホ︶木目郡西根田村面内 リユウリ ︵へ︶仲多度郡富野村龍頭 讃岐忙於ける住民任地の欒速と産染との鏑係概勒 ︵ト︶仲多度郡善通寺町有岡 ︵チ︶三豊郡膠問村肺坂遼 ■ ︵リ︶三豊郡肺村埠原 ︵又︶三鹿部財田村 カウチ ︵ル︶三豊郡河内村 ︵七五︶ 七五

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罪十一巻 第.仙 渋 ︵七六︶ 七六 のためと思ふて躇査した廃藩外にも遺跡の如いどころではなく、谷の最奥の朗まで多数の琉跡七凝点して磨い たっ又綾歌郡報熊村の畦出の如きも、琴高電車異熊停留研から南方猫山秀峯の川麓で、陸離に於ては差程洩くは ないけれども、之れも奥谷で普通にほめつたに用向のない避地であるが、常叫を考渡して踏査し窓外にも追跡を 切ウチ 覆見、是亦少なからす驚かされたのである、三豊那の財Hはま.だしも、河内村の如きも辻村から徐程前に入り込 んだ細長い谷間であるにも係はらす、その南端の囲まで遺跡を見る かく谷の奥探くまで遺跡の存することば如何にも不審であり、最初は朝か解し得なかったのであるが、讃岐園 内に分海せ孝遺跡を隈なく踏査するに及んで、此の現象の坪を解し待たのである、可lすまでもなく爾壁式時代に 於ては丘陵地の如き高煉地に居住してゐた住民が、古墳の時代になつて漸く低い方に移り住むやうになつたので あゃ、然も現今吾人の考ふるが如き純低地までは下らなかつたのであるから、常然谷の奥吏つた虎までも遺跡を 竣すことに及り、然かも此奥まれる魔に於て相首多くゐ遺跡を存することは、高燥他に居住した伍民の低地へゐ 移動が非常に遠くなかった。即ち純低埋まで遠く移住しねのではなかつた寄を物語るものと考へられるのであ る0 以上の諸鮎より考究して、古墳造営の風習を有した時代に於ける住民は、以前の禰年式時代咤比すると居住地 は低くなつたに相違ないけれゼも、その低地と申すの嶋現今こ鱒讃岐に於て見るが如き、所謂低地、即ち仲多度 布野とか香川平野とか云ふ大卒野にまで下つたのではなくtて、高燥他のすぐ下方を過す渓流の形成する狭小な

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狩岸地を利尉し、そこまで移動したものと考へられるのである。 故笹原兜時代に於ける殊.に古墳時代に於ける訟岐の住民居仕宙域は大部分が、南部山脈地に按せる地方に潰達 せる河川並にその支流の極く沼岸に限られてゐたもので、弥岸平地までは未だ及んでゐなかつたものと考へるの である。 〓忘 然ら、ぼ此の時代住民の生産は如何なるものであつたか、勿論前の時代から営まれてゐた畑作の他に稲作む営ん だLとは明で、以綿よりも居住地の低くなつた掴係上低地の利用が以前より増大したことも認め縛らるゝめであ るから、椙作の範囲もだいぶん挟張Lたものと考へてよい。然し此の時代には尚現今吾人が見るやうな溜池など 人工的港漑設備はないのであろうから、その利用地は河水をその饉利用し得る精度であつたことは忘れることが 出来ない。漁摺の如きも同時に行はれ、叉州営に速い範尉貯交換の行はれてゐたことも察せられるのである。 その表として自分は古墳出土遺物について、之が感を探くしたのであつた、従妹古墳撥見品と軋せぼ何れも 疏部土器に限られ、傲り参考にもならない、のであり、・か1る扱けは何程蒐集して見た廃で何等新軍歴の哉見に資 する鹿もないのであるが、自分の従来智に望んでゐた鹿は土器そのものでなくしてその内容物であつたのであ る。然るに此の内容物は申すまでもなく有機物質に相違ないために、現今まで凍ることは望み得ないのである。.′ 讃岐陀於ける住民痩地の褒遷と薦発との関係概観 ︵七七︶ 七七

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第十︼巻 発 山 渋 ︵七八︶ 七八 然るに偶然にも後見されたのは、綾歌郡朋床村大字羽床上、中尾の古墳から蹴部土器中に貝殻を後見したこと1 今叫つは犬川郡井戸村かんかん山の古墳群から同紙部土器申に貝殻を蟄見したこと1であつた。此の雨墳は何れ も囲填で井戸村のは典梯図として開墾の際磯掘されたもので、小規模の石堂中から後見した土器内に於て蔑見さ れ鷲のであり︵閥酢舶飢鵬胴︶、諜の旨分の慧の際偶然にも園墳表酎に琵してゐ鷲ので、掛刀と共に 露出して居り、その一個の土器内に於て貝殻を発見したのである。井戸柑の分政貝殻が大部分破壊し、僅に小片 を残すのみであるが、それでも敬掘者によつて注意されたものであり、羽床の分は大形のもので、立派な原形の 告1残つて居た。貝は井戸の分は不明であらが、網床の分は螺に難した貝である。然かも此の貝は下方を平に切 断して置かれてゐた。従釆自分の大に望んで居りながら途に後見し得なかった土静内容品を蔑見したので、その 愴は山蘭でなかった。自分は之によつて祝部土器には畑物以外に輝度品をも盛ったものであると云ふことを覚っ たのである。然も古墳のニケ桝までが貝殻を残してゐる鋸より見て、此の貝殻を供したことは常時劇般に行はれ た風習であると云ふことをも察し得たのである。 此鮎よりして、常時の住民は畑作物以外に海床物をも食用に供してゐたことが知られ、海産物は内海に潰せる 地方又は内海巾ゐ島喚では素より今後見した古墳が遠く内陸にある粘から推して、単に拓に近き所許でなく、常 時は一般に農作物と共に水産物をも使用したことを知るのであり、従って常時と鋒も、交換は遠い範聞に於て行 はれてゐたことを察するのである。倫次に申すエ柴品を観るとご好此感を深くする。

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エ共晶としては古墳より蔑見する遺物から観ると土舘即ち前時代と興る蹴部式土器を容げねぼならぬ。此の土 器は何れの古墳にも後見されるから、此の土器製造は相常に廉く行はれたエ柴であり、次に刀であるが、之も斧 堅の斯と共に比較的多く敬見されるから、繊製品の製造も相嘗需要の多いエ柴であつたに相違ない。甥飾・腕飾 などの袈身用具として、勾玉、管玉などの蟹石細エも常時には忘るべからざる工柴であつたと申してよい。然し 野崎に於けるエ兼は決してこれのみで轟くしてゐるわけではない。今日に相称してゐない有機物質で作製された エ蛮品も少なからすあつたこと1考へられる。衣服原料を始め食苧家具などの木製品であるが、此等は造物と して著見し得ないのは遺憾である。 一四 吹は古墳時代の末期に入るのであるが、此.の時代になると韓牛島よりの文化の輸入も盛んになり革に自然のま 1の利用にとゞまらず、大に人為的に自然を征服して生活するまでに進んで釆たので、住民の如きも前時代に於 てよりも鵬暦低い土地を利用するやうになり、現今に於けると鼎近い居住地を現椚するやうに至つたものと考へ られる。 此の時代になると、畢に遺物のみによる必要はなく、記録が段々残って居るから、記録上から立讃することが 出水るので、讃岐と梢朔似した地形を和する河内蓮では、渾漑用溜池が迫られて漸次耕作地が疎張され、椚田収 讃岐に於ける住民任地の欒速と塵染との餉係概覿 ︵七九︶ 七九

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発十岬啓 発 加 東 ︵八〇︶ 八〇 授の法なども設けられて大々的に人馬的の工作を施して耕地盤埋をなし、その結果は漁岐に於ては珍らしい程よ く恍存せられて ㌃ことになり、居住地の如きも首班前期時代よりも壷低地に移動するやうになつたのである。従って今日から 申せば随分低い土地でも常時にあつては不要地となりて﹁古墳造営地として使用せらる1やうになつたものでヽ ミヤヤシ訂ガツ 例へぼ香川郡の槽紙村御厩、正勝並に大塚蓮の古墳鮮地や、綾歌郡岡田村大字岡田好事北山、前谷並新田の竃墳 クー︻ク 群地、三豊郡稗田村の古墳群地打如きは此関係を詮明するものと考へられ︹かくの如くして讃岐に於ては大河川 の哲拝は飴程糾い範囲に於て耕作に利用されることになり、古墳群地は山林として最近までも保有されて釆た。 此の古墳群地開教の歴史は偶々近時に於ける土地利用の欒遽を示すもので、夫の三豊郡大野原の開拓は徳川時 代に入り平田家によつて潜まれたものである。即ち生駒愛岐守の治世客臣酉島八兵衛の見立により井関池を築き 大野原を開墾せんとしたが、、生駒安岐守落去のため中止となつたのを、平田輿剛左衛門家に伐て閂び築造に着手 し、途に開警完成し雷ので、資に慧の頃から警てゐるので雪︵舶柑綱雛甑Ⅶ棚棚諸鵬諾憫酎鮎適 ㌶別封︶。此地は古くは竃壊時代に於て盛んに利用され蛋墳群讐雪たのであるが、此の時に至つて雷て 耕地として利用され古墳の重なるもの1みは開墾の常時取残されて、今や氏神赦として保存せらる1に至つたも ゐである。 又岡田村の苗壌群地俗に云ふ萬塚の如きも、最近に至って開墾せられ、如何にも多数にあつた古墳も今や併に

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溺塚と潤する大境を中心として、その附近に漸くその形跡をとゞめてゐるに過ぎなくなつてゐるのである。叉香 川郡弦打村飯田附近並に懐紙村大塚附近の如きも年代不明であるが、比較的近き時代に於て開墾され、普通車町 クヅカミ 附近の筆問射九頭紳遼にも官墳群地の遺跡があるが、此等も同様近き世に於て開墾されたものと考へられる。 ふくの如くして、.少くとも徳川時代忙入つては人口も多ぺなり、土地利用の必要が多くなつたので、人鶉的滑 池を諸方に法曹して耕地を疲張することにつとめ、古墳時代を通じて利用された地勢の梢高燥な古墳用地が兜づ 開拓せられて、掛図と化し、従来低きに移る傾向であつた住民の居住朗は今は反つて河畔の低地から柁高き此虚 に移.ること1なつた。三豊部大野原村の如き、綾歌那岡田萬塚の如き何れも此例で、香川郡弦打村飯田遼や、沓 通寺町の九頭紳の如きも比例に洩れないと思ふ、叉木四部三谷村の基地、香川郡併生山南方の萬場蓮の開墾の如 き﹂大川郡の十河避の基地の開墾も此の類に巌するものであり、古墳群地であつたか否やは不明であるが、今の 疇和柑の叫部なる畑田附近の開費や、陶村の萱好から瀧ノ宮馬堀にわたれる高燥地の開凌の如きも此の蘭と考へ るのである。 かく、徳川時代にわたつて従来古墳群地として利用されて釆た高煉平地が開墾せられ、そこに移住が始まつた と共に、叉鯨岸低地の利用が大に漁連した。殊に高松市を始め丸絶・多度寧字多呼香西・靖高抵・志度の諸郁揖 の如き、轟として樫序丘陵地の狭小地域を利用してゐたに過ぎなかつたのが、此の時代に入りて・は備庚き弾圧 の低地を利用するやうになり、之には人エを加へた形跡があり、高松城の如きは石清尾叫塊と宕高松の丘陵川と ヽ 讃岐忙於ける住民伴癒の弾濡と鷹巣との関係概観 ︵八こ 八一

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の問の香東︵郷東︶川口に常る低叫に入エを加へて或は河童を盤埋し、即ち現今の香東川の河道に移して、そのあ とに高松城地を定め、丸砲の如きも丸穐城跡となれる孤立小丘陵下の低地を利用し、人エを加へて城下町となし た。此等の関係からして鷹巣の奨拗と共に盟田の利用が考案せられ、久米粂方術門其の他の先賢により、海岸の 速躇を巧に利用して埋立を施し、至る鹿に陥肌田が築造せられ、かくて其の根源地たる坂田町の如きは−大飛躍を 読みて、現今の如く大郡市として教達した勢であり、海岸地の利用が益々餞達し、之に件ふて耕地整理も海岸近 くに於て行はれ、三豊郡の盛濱附近海岸より同郡の詫間以西の平地の如き、丸砲市附近、坂出如の附近、屋島・ 鴻元附近、奉祀附近、志度町附近の如き捕爪田以外にも新田が開語せられて、田園を増すに至り、居仕民の如きも 此.の低地に向って漸次移動するに至り、従来五陵下の河川滑岸に磯達した衆落は一般平地に分散すると共に術岸 低地にも進出する鱒至り、現今吾人が観るが如き盛な律宅の分布を現出するに卓ったのである。 一五 更に明治以後に以ては新文化の移入、人文の著しき敏速に伴ひハ、従来の椙作穿作のみに甘んぜす、出来得る瞑 牒副盛をも畳んするに至り、殊に故近果樹類乃至は各穫工柴原料品例へ埠繊維植物、除轟菊などの驚安堵加と共 笹、此等栽増が考察せられ、讃岐は地質上又は地形上之が栽増に適する吼で、到る魔栽増を試みるやうになり、 之に適する高燥の斜面が日に利用せらる\に至り、桝謂山林の開墾は著しく横取せられ、開聞以来古墳造営地止 弟十﹂食 滞 血 渋 ︵八土︶ 八二

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して利用せられ、地方に於ける住民遽租の唯忘遺跡として、こゝに二千数百年の聞手を賜れざりし帥聖なる丘

陵地山塊の頂上又は山岳の斜面などに至るまで、文化の鋤鍬は遺憾なく撰大せられ、幾千の昏ぶべき遺跡はため

に姦しく蟹掘せられ、日々にその蔭を汲しっゝある、此の勢にして進んだならばこゝ数年を出ですして、崇敬す

べき還組の遺物は殆ど之を見る能はぎるに至らんことは明な寄資である。

零するに讃岐に於ける住民屑任地は最初は高燥地が利用せられ、盲墳時代に入りて漸く山籠の低斜面又は渓谷

時に移り、以蹄打居住地堅心れられて古墳辻麿鹿と化し、吹で純低地の利用漸次に開け、徳川時代に至る頃まで

灯於て、低地の利凪が著しく敏速し、徳川時代頃よりは低地の利用以外に古墳時代に於て、古墳迫螢地として利

用せられた基地の開拓利用が行はれて屠頼も此方面に移り、徳川時代末期までに於て低地方南の利用も二謄教達

し、海岸の最低他に至るま℡利用しっくされ†今や将にその極に達した有様で、甥今に於ては新鹿菜即ち従来飴

り護達してゐなかつた風塾栽増などの進歩打結果、最省の時代に於て利用されたのみであつ允高燥地に向つ七再

進出するの現象を生じ、排作地のみでなく、居住地の如きも漸次丘陵地山塊地に向つて移動しっゝあるのであ

ゃヤて る?石清鳥山現に於ける摺鉢称衆落の如き、綾歌郡西ノ庄村城山山上の開墾地の如き、叉最近約≡年前よれ現今

一クル・と

済峨に於ける住民任地の攣遷と産発との関係概朝 ︵入三︶ 八三

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丘陵斜面ゐ目ヨ々禿化するのを観れぼ想像に難くないと思ふのである。 かくの如くして、讃岐に於ける丘陵は何れも禿化、将来に於て如何なる影響を蕨葉殊に農作笹没すべぎか。− 方に於て山林の砂防に努め、〓万に於て山林の禿化に努む、将に大に考施すべき現象と考へるのである。 余は讃岐に於ける住民の任地を、主としてその造物並に遺跡に敬して考究し、その結果現今までの攣遷の概要 む記したるに過ぎないのであるが、然し有史以後の攣遥については記録の鎖すべきものが漸次多くあるのである から、是非とも此等によつて詳細調沓する要があるのである。此等については紙数の関係もあり、こ1に記し得 な.いのは造撼であるから、好機史佐稿を放めて記載すること1し、こゝには有数以前より有史時代萬初の状況を 主として記し、以後の専管に就ては軍に欒遽の大要を示すにとゞめた次第であるっ御諒承たまはらぼ率甚であ る0 第十叫啓 発 T・渋 ︵八四︶ 八脛

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