は し が き
此一語ほ昨年公刊ぜられ圭T・FりK宴OCh−=S⋮xEコ隻sh Ec。コ○ヨ落s。の第四畢ミ£弼、第六畢マーシャヤ論の邦繹で ぁる。経済蟄史或ほ経済思想史の叙述に、央れ夫れり時代を彩ろべさ代表的意想家を捕へ来つて、之に代り誹らしむる方 按托、従来に於ても試みられて来た。手近に例ね求むれば、レザインスキーの﹁挫折蓼の建設者﹂の如与\プヲイスの﹁来観 脛班聾課小史﹂¢如き、暑が既に於てほ河上薪博士の﹁資本主義燈折撃の史的顔展﹂の如さ之である。KiコーOChの此の沓も 亦其¢企てにこ於て之等ミ趣きを一にする。其来鰹.℡、示†如く異観経滑撃の代表者六人ね撰んで之.か評論を試み㍗もので、 兜づスミスに筆ね起し、マルサス、ぢカード−、、、、ル、汐エグォンスな経てマーシャ〝に鮮る。仝啓通じて僅かにこ七†三富。 僅少冤る紙幅の申にこ、流題潤連の筆致を以て、帝尊者み穿髭王らしめんミサる手際け楯岡に燈する。殊にマーシャルね加 へたるこミが、喉=¢一番ね以ても.uP tOdaⅣeの鮎に於て類書の聞に位すろ理由はあらう。固より斯ろ小者圧搾きね求 め得べきではない。唯一個り入門番ミして評傾さるべきであろこミ托言ふを得れの。 琵lこ繹戟するミル論ミ、管って各にしたろ拙稿﹁人ミしてのジョン○スチ∴山71ト●ミか﹂︵商撃討究第三巷下肪︶ミね併 ぜ頭よるl特志家があれば望外の夢びでぁる。 マーシャルに嗣する著名の叙述li其¢主賓なろ部分ね、最近公にせられたる.羞eヨOr致s O﹁⊇fredヨarsha〓ed話d ジエ。エス●ミルミアル.ブレッド●マーシャルジエ。エス・ミ、ルヾしアルフレツド・マーシャル ︵〓
︵小五︶一玉 布 雄ジョン◎スチ立アート⋮、ル
叫 ﹁其の智力の旺盛にして且つ透徹せる鮎に於て、彼は人類思想史上、殆ど其の知を見す﹂。之はジョン。スチュ アート。ミルが、其の父を叙述するに常り用ひ孝叫百薬である。此の言葉が、縦し批評家としての彼の才能を高く 評慣せしめることは無いとしても、少くとも彼が、斯くも惜し気なき柄讃を輿へた其の人に裁ての興味は惹き起 される。ジェームス◎ミル︵一七七三 − 皿八二天︶は蘇稀蘭人で、其他の教禽の牧師として教育せられた。天資 冷静にして銃鉾、而も想像力と同情心に乏しかつた彼は、牧師としての経歴を躇むことを拗.ったことは、致脅の 馬めにも亦彼自身のためにも共に好郡合であつたのだ。東印度政令に奉職し、﹁検閲官﹂に昇進したが之は年俸二 千拶を興へられる印庶政麒の主要なる官吏であつた。彼の最大の著作は﹁印度史﹂︵エistOryOf夏iaこ00︼Jである が、其の﹁経済螢網野﹂︵E訂ヨeコtS。fP。︼it巨EcOコ○ヨyこ∞N︼︶及び﹁人間心理の分析﹂︵碧a官sO〓he〓uヨaコヨi阜 /第四巻 弟︼携
︵−六︶一大 byコ・∩・Pi習u。︵邦繹、マーシャル脛洛撃論集麿島籾男彗に得て居る。従つて、︰の小筒ほ着メモりアかへの先達み 承ろものミして︼膵に位Lや、つ。 著しそれ、之撃示筋の鐸出によつて、覇者の何びどかミ、かへの興味ねそゝられ、或ほマーシャルへの傾倒ね戚じた りミすればごれlこよつて繹者の使命托追憶なく果されたり孟叫口ひ終ろのであろ。ー00Nり︶は極めて重安なものであり、大英百科辞典に寄稿された政府諭は﹁常襲的急進葺盛者﹂の教典となづたもの であつた。彼竺八=三年にその最高調た達した選拳法改革運動の速進に努力し、叉マンチェスクーやバーミン
ガムの如き工菜中心地に住む中産階級の上に影ぜを及したと云はれて居る。然れども、人生の神秘に放て何等の
感情も持たす、その伶埋単及び心理畢上の理論は、虞埋と和するには飴りに単純であつた。純然たる無神論者で
ぁった彼は、すべての感情を故難し、詩歌をば尻目にかけた。﹁彼はその顔に仮面をかぶつて居空︵ベンザム︶、 ﹁彼は自分の教義について、猫断とも云ふペきものを固持して居空︵ブラハムJ、﹁彼は人間中での最も気短かな 人であつ空︵ジエ。エス。ミル︶。歴史家として、韓触家として、紋所拳者として、勝た心理聾者として更に叉役人として及び巧な座談家としてジェームス⋮ルはその常時に於て、決して感銘鴎きものではなかつ莞而も傭、
若し彼が向後永久記憶さる呈すれば一旗もなく彼は記憶せらる1であらうがjそれは主として議の敦へ 手とLて、而も、汎ゆる時代を通じての食も単級せる数へ手の叫人としてゞある。彼は寸暇無きにも不拘、天分 豊か誉彼の子息の金管羞て宅ジョン。スチ言−ト・ミル竺歳の時より希望の研究姦め篭八歳の頃迄には、ギボンやとてムの如き英園の著者には少しも触れす、ゼノフすン、ヘロドクス、プラトーを多数
に読んだ。八歳にして、薙此ハ語を始め、間もなくヴアージル、ホーレス、リグイを読んだ。十歳の時には、高等
の敷革に進んだ。十二歳にして、論理畢及び経済拳の研究を始め、十三歳に達するまでに、常時知られたる汎ゆ
る鮭臍理論妄岳待した。彼が﹁此の如き早期の且つ高度のやり方﹂は推粥すべきものではないこと、仮令少数の例
ジエ○エス●ミ山〝ミ↓′かブレッド●マーシャル ︵︼七︶−七︵︼八︶ ︼入
弟四巻 第一兢
外的勘合に於てすらも、これは、﹁少年の爛漫さを大人の成熟を以て壇きかへることだ﹂と感するやうになつたと しても、殆ど怪しむに足らぬことだ。彼は云って居る﹁自分には嘗って少年の日といふものがなかつた。自分は クリケットをしたこともなかった。自然にまかせる方が造かに良い﹂と。十四の時、ミルはミサふエル。ベンザ ム夫妻とその三人の令嬢に伴って南隣蘭四に行った。そこで山年間を造った。彼は、彿蘭西語、希臆語、羅興語 及び教堕に潜心し、経済蓼者セイに脅ひ、外囲の政治に興味を感することを革び、二図に戯て何事かを知る者は 唯二囲のみについて知る者よりも誤を犯し難⊥と感する様になつた。叫八二三年に彼は印度政臨に奉職し、次第 に昇進して劃八五六年には年俸二千礎の﹁検閲官﹂に任命された。東印度昏敢が印度の政樺を皇帝に放めた時、ミ ルは温職し年千五百膀の年金を給せられた。之に先立って、仙八二二年哲学を入念に読み始め、叫八二三年には 功利主論者協禽を作り、叉同年思索的討論愈に加入し、こゝで彼は指導者となるに至つた。かくて彼は着々とし て父の希望を賓課して行つた。新督拳的急進主義の花形として、彼はその頃餞別されたウエストミンスクー評論 の主たる寄稿家であつた。﹁今や自分は自家の見解なるものを得た。叫偶の信條、薫義、哲輿む得た。最も良き意 味に於ける宗教を得た﹂︵ミル自叙俸︶。 〓 此の垂暇なる状態は永く披くペき運命を有たなかつた。一八二六年に彼は自ら犬れを罪憩の確信の下に立つメソヂストになぞらへた別の鰻験を苛めた。彼は云ふ﹁自分は生き永らふべき望の一つもない様に思はれた﹂と。彼 は思索的討論倉で、モーリスやスクーリングに禽ひ、之等の人々によつてワーズワァースやコールリツヂ、カーラ イルやゲーテの著作に近づかせられた。彼は憎った、理性偏重の父が夢想した朗のものより以上のものが、天界及 び地上に存在することを。彼はこう感する様になつた﹁分析的慣習は、情感と徳育の根源を絶えまなく枯らすべき 品である﹂と。かくして彼とその暫友と“の闇に疎隔の生じたことは怪しむに足らぬ。﹁彼は誤りなく有力国鰹の指導 者となることを掛ってまでも眞理のための軍勢の剛兵卒となることを叫盾の光栄と考へたのであつた﹂スターリ ングはこう云って居る。ワーズワァースの詩の中に、彼は慰粋を求め之を見出した。其の問、重患に促され、印 度政應の激務に軟葦し、且つは新聞雑誌に幾多の論文を畿表する側ら、彼は其の初めの大著逓に薔念した。ミル の論理畢は叫八四三年に公刊せられ、忽ちにして、常然なる成功を放めた。是に於てか、世人は始めて、一般村 塾の方法の明瞭なる分析、殊に賛験的研究方法が係る部分の方法分析が輿へられることになつた。グロート日く ﹁ジョン・ミ≠の﹃論理畢﹄は余の蔵書申の白眉である﹂と。コートニーの、此書に劃する卓抜なる批評によれぼ﹁ミ ルの形而上拳は過度的.である﹂。﹁彼は或種の教義についてヒユームとスペンサーの中間に位する。他の鮎に勤し ては、彼はデカルトとロックを調和せしめんと試みた様に見える﹂。彼は其の全生涯を通じて、他人の富を悪かん と勉め、猫断誼を嫌恵し、﹁他人の見解を極力受容せんとした﹂。而して彼の好んで用ひたる格言は、虞埋は二伯 の反剖詭の間に培って居るといふことであつた。けれども、之等級ペての寄は、彼の頭脳に勤してよりも、その 汐エ●エス●ミルモアかフレツド●マーシャル ︵一九︶一九
第四巷 第 仙 兢 ︵二〇︶ 二〇 心情に勤してせ人の信頼を沫くした。此の場合にも、他の場合と同じく、彼は二偶の反封的立場︵此の場合には 理想主義的と経験主義的︶を結合せんとし、而もそれ等の調和に英癒してゐるのである。多年ミルの書は諸大挙 に於て多く読まれた。その理由の劃つは、疑もなく、彼の著作なるものが、鋭敏な畢生をして、その著作に多分 に含まれてゐる矛盾をぼ後見せしむる幾多の横合を輿ふる夙にあつた。昔のウヰスト︵トランプ遊戯の一方準︰ ⋮⋮ 繹者謹︶にはこういふことが云はれて居る﹁疑はしい時は、トランブをリードせよ﹂と。畢生の格言はこうで あつ挺.疑はしい時はミルを攻めてみよ﹂。 叫八開八年に﹁経済拳原理﹂が公にせられた。この書は洗く期待をかけられたものであつた。蓋しミルは、その 幼少時代から経済革を拳んだことが知れ渡って居りヾ彼自身、既に経臍車上の盈安なる緒論文を書いて居たから である。且つ叉常時はシジサイツクが指摘した如く、穀物法が拍厳された後に於て共闘は⋮大隊感を極めた時代 であつた。人々は屡々陥る様に、原因と結果とを顕倒して考へ、硯苦が古典畢沢経済単著の自由貿易論を賓讃す るものであると考へた。ミルは其の序文の中で云ってゐる﹁其の目的及びこ鱒思想に於てはアダム●スミスの著作 に相通ふが、更に贋汎なる智識と現代の進歩せる思想とに相應すべき書物が、現代経済壌の垂求する一種の貢献 であると自分には思はれる﹂と。是にミルは、アダム。スミスが十八世紀の薦め忙なしたる朗を、十九世紀の蔑め になさんと欲したのであつた。ミルの此の大著の功績に就ては、私達は通常の横倉に之を述べやう。先づそれま ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ では、ジョン・スチユーア一三ト由︰、、ルは要するにアダム。スミスでは無かったといふ事驚に注意を惹くだけに止
めておこう。
三
島に我々は、ミルが外部的影響に封し極めて敏感であつたことを明かにした。彼の父は、彼をぼ自己自身の型
に飲め込み、能ふ限り、感情を拍てゝ、考ふる械擁たらしめんと力を喝ぐした。我々は叉、彼の﹁精細的危機﹂に
於て彼の餞えたる情感が如何に強烈に其の充足を求めたか、そのために、少くとも仙時は、彼が猫逸理想主義及
びワァーズワァースの藤によつて洗く影響せられたことも之を明かにした。我々は今や、彼の心情に探測なる而
も永久的なる印象を残した他の三つの影響を考ふペき時に到達した。
︵こ、仙八三七年に、コムトの賛鐙哲学初め二番が英国に渡った?而して叫八二大年の初頭に、ミルは之を読 み、探き感銘を受けた。天竺年より望ハ年にかけて、ミルはコムトと文通した︵コムトの私的生活は、其の著書が想像せしめる程高潔なものではなかつ告。﹁自分は資方の書雪質に智的熱情を以て〓潰し亦再試した﹂。
ミルは嘗って、コムトに言及して日く﹁余が最高の尊敬と種畜とを以て崇敬する現代偉人中の一人である﹂と。形
而上拳を嫌ったコムトは、経済蓼を以て単なる抽象に過ぎすとなし、斯る料率は不可能である、何者、人間行動
の全禁単なる叫斑に非す︶を取扱ふ配合の科禦敢合螢︶は唯血つのみ可能なれぼであると主張し宅加之、敢命単に於て、コムトは、結巣は、演繹法即ち仮定せられたる心理革的原理の推理によつては拉得せられすして、歴
汐エ●エス●ミルせアルブレッド●ムージャか ︵こ叫︶ こ︼︵二二︶ 三﹄﹀
第西巻 弟J妨
史上の︼時代を他の時代と比較することによつて得られるとカ詮し宅彼に従へぼ、敢愈に就ては二偶の異なる
メタテイクク 群論が存在する。∵は静的なものであつて、特定の時代に於ける叫定の状態︵例へば英図といふが如き︶の上にダイナミンク 作用して居る絶べての力を慣東面検薪することに係はる。他は動的のものであつて、此の歴史上に於ける特定
時代︵例へ低英国史︶の状態が、前時代の状態より如何に誘導せられたるかを諭するものである。コムトの教義がミルの念入りに数へ込まれたる教義と如何に異なるかは仙日瞭然であらう。
︵二︶、影響の第二は、彿蘭酉配合主義審サン。シモン、フーリエ、ブルードン及び猫逸のラツサレルによつて 興へられたものである。政府に閲する自F日放任論は、大部分、純然たる否定的のものである。即ち政府の干渉すること少なければ少ない程よろしと質すものである。然るに、図家を強大にし、少くとも偶人を犠牲にして敢倉
を強大にせんとする政争重義は、明らかに良由放任の反封である。且つ又、敢倉主義者は主張する、鷲沢経済革
老は﹁自己自身の状態を改善﹂するための個人的努力なるものを梯皮に重要純するけれども、個人的利得の欲求は
決して経済行動の展の動械ではないと。かくて、ミルが祀脅主義的影響をうけた範因に於てはー固より紋は固
有なる意味に於ける敢倉主義者には決してならなかったが王彼は、初期の経臍的信仰の基礎から離脱したので
あつた。
︵三︶、然乍、コムトやコールリツヂよりも、叉ワァーズワァースや彿蘭四祀愈主義者よりも造かに優って溌き影響をミルに及ぼした∵人がある。これこそ、遽には彼の夫人となつた叫女性せある。ミル妓二八二二年初めて
テーラー夫人に合ひ、忽ちにして両人の問には暖かき友情踊係が生れてきた ー この友情紺係は、彼の父及び友
人達に深甚なる撰惑を惹き起したものであつた。彼は一八五叫年た彼女と結婚し、彼女が鵬八五八年アヴイ一;ンで他界した後は、彼女の基近く居らんがために、此の地に居を定めた。彼は常鱒主張して居った余の経済単に
判する主要なる貢献は、生産を支配する法則と分配を支配する法則との問の差別を明かにしたことであるとっ而
して此の寄は、サン◎一シモン派の人々から教へられたものではあるが、﹁余が妾の鼓舞によつて、之が著書を貫流
し其の筈をして活気あらしむる朗の生命ある原理とならしめられたのである﹂とミルは自ら談って居る。﹁﹃労働
者の慧然的将来﹄なる二軍は各く彼女に依るものである﹂。︵ミル原論、第凶銅第七栄なり⋮⋮澤者註︶。仙八五七年に至り、東印度合祀は消滅せしめられんとするの危僚に遭遇した。そこで、劇八重ハ年以降印度政酷の首位に
在つ琴、、ルは、旗印度合敢の馬めに、譲合に向つて請願書を草案しなけれぼならなかった。グレー卿によれば此
の請願書は、彼が従来目にしたものゝ申で、最も卓越せる閥務畜類であつたと言はれて居る。
夫人の死後、ミルは彼の大論文﹁自由論﹂、﹁功利主義論﹂−彼の倫理畢盆である − ﹁サごt・めウイアヤム。ハミルトンの習単に封する検討﹂﹁議脅改革論﹂及び﹁代議制濃論﹂を公にした。ミルの﹁自由論﹂は個人性のための高速
なる擁護である。多数の彼の苔と同じく、﹁自由論﹂も亦容易く批評の的となり得るものであり、十九世紀に啓示
せられた斬らしき眞現に探く恩ひを潜めつゝも、結局十八世紀に根を下ろして居る人の著作なのである。彼の﹁功
利主義論﹂に就ては世評は散り香ばしくなかった。ベンザムは、行為の識別擦準が、それによつて作出せらるゝ
汐エ○エス○ミルヾこJかフレけ二ド●マーシャル ∵ ︵二三︶ 二三第四懸 第一購
︵二四︶ 二四 快楽の量にあると主張した。彼は、端的に唱へた﹁快楽の蚤が等しけれぼ、留針を作ること1、詩を作ることは 其の菩の程度に於て同叫である﹂と。然るにミルは、快欒は恩的にも亦質的にも興ることを力詮せんと努力した。 零れぼコートニーは言ろて居る﹁鼓でも亦、我々は、∴、、ルがベンザミズムの古き枝に、全く育ちの違ふ花を結び 附けんとしてるのを見る﹂と。三十年前には、英閣の大挙に於て、倫弼革研究の畢生にして、党づ此の矛屑せる 吾の容易き批評より若手せぬものは無い位であつた。 仙八六五年から叫八六八年まで、ミルは下院議員となつた。彼は其の選螢置の有横着を勧誘したり、選蓼に関 して何等かの費用を負揺することを経絡した。彼は故初から、自分の時間を地方的奉仕には喝くさぬことを明言 し、その選撃匿の如何なる布横着に封しても、決して請ふことがなかつた。或る集合に於て、ミルは、﹁費下は、 英国労働者階級に就て、彼等は他観の労働者に比すれぼ関り宣告ふを恥とするけれども、狛概して嘘つきなりと 一言ひたることありや﹂と詰問せられた。﹁余墜票養﹂此の答は竃々たる拍手を以て迎へられたのであつた。彼の 試合生活が短かったことは造憾な寄であつた。人は皆彼の高潔なる人格を認めた。ダラツドストーンはミルを弼 して﹁合理主義の染着﹂と言つたが、而も庸﹁天は明かにミルを討論豪又は演詮者たらしめんとはしなかった﹂と一 般に言はれ、ダラツドストーンも亦、彼の演詮が﹁彫像から﹂来る様に思はれたことを認めざるを得なかつた。叫 八六七年、ミルは婦人の隷従に関する書を公刊したー彼は熱烈なるフエ、、=三トであつたのだ。叫八七三年五 月八日に、、、ルは他界した。彼が常に変調した一句は﹁夜が来る。何びとも働けなくなる凌が来る﹂︵Theコi讐cOヨethwheココ○ヨaコ︹aコWOrk.︶といふのであつた。彼がその臨終近きを談られた時、静かに答へた﹁自分の仕事 は残し経へね﹂︵言wOrk.訂dOコe︶と。彼の死後遺稿二冊が公にせられた。⊥つは﹁自叙偉﹂で、彼の前年生に踊す る魅惑的記述が盛られ、二は﹁宗教論文集﹂で、之に裁てはコートニーが巧みにこう言ってる・﹁或る人々には此の 書は失望の的となり、他の人々には救ひとなり、漁ペての人々にとつては∴つの驚欺となつた﹂と。ミルは食後 まで矛盾の人であつたのだ。 四 大拶赦の経済書は何れも忽ちにして読者を失ってしまふっ然し叉我々は、永く其の生命を支持し行く幾多の書 物を指摘することも容易である。此の撰ぼれたる〓凶の中に、ミルの﹁経開塾慮由﹂も正しく其の地位を見出すも のである。之に封しては凡そ三偶の理由があげられる。兜づ第∵はミルが経済単著として、アダム◎スミス以来 の能文家であつたこと之である。優れたる達文の士は、その劣れる同輩連よりも、造かに大なる利益を享けるも ヽ︳ のだ。多くの場合、否大多数の場合に於て、或る人が人々の記憶に積るのは、彼が何を言ったかといふことに撮 ︳ヽヽヽヽ るよりも、彼がそれをどんな風に言ったかと冨ふことによるものであるゥミルを以て大思想家なりと主張する人 は殆んど無いかも知れないが、偉大なる説明者であることは何びとも否定することを得ない。彼の堂々たる句読 彼の清澄なゐ国語は、正しき文馨を愛する放べての人に愉悦を典へ、叉向後永く之を典へるものであらう。彼の 汐エ●エス○ミルミアかプレ⋮/ド●マーシャル ︵二五︶ 二五
第四怨 第一兢
︵二六︶ こ六 見解に就ては殆んど之を理解せす、叉共鳴もしなかつたかも知れぬけれども、労働者連は、恰も後に彼等が其の 盟友としてアルフレツド・マーシャルを有ってると感する様になつた如く、その濾構ある友としてジョン。スチュ アート。ミルを有ってる イワァム。アッシnレーは云ふ﹁これは高き水準に立って思索し、連行せしめられ、崇高友る精榊を呼吸して居る 朗の大論文である﹂と。ミルが書いた放べてのものと同じく、之は、少くとも叫時代を深く影響したものであつ た。思想家としてのミルの絹鋸を最もよく白骨してる人々さへも、コートニーと共に次の様に云ひ得るのである ﹁論理輿た於て、倫甥単に於て、政治邸に於て、我等はミルの躍進により、我等自身を成長せしめたのだ﹂と。 既に明らかにせる如く、アダム。ス、、、スは﹁闊富諭﹂中に、彼以前の汎ゆる経済論を要約し、以てこれ等を無用 に蹄せしめたが、島にも云へる如くミルは叉、アダム。スミスが十八世紀になせる朋を十九せ紀になさんと克明 に企てたものであり、而してミルは速にアダム。スミスたり得なかったことは我々の既に言及した朔である。それ にも不杓、ミルの﹁経済鍵慮頭﹂には彼に先立つ人々に依って焉されたる著作が、巧みに要約せられてる番賓は厳 として動かされない。彼の智識は贋汎に渡り、その公堰感は厳然たるものあり、清澄なる図譜支配力峰極めて探 かったが故に、彼は蔑も術語すべき解説者となつて居る。例へぼ、多くの人々は、リカードーそのものを読むよ hて亀、ミルのリカードー紹逮を読む方が、容易く、且つ理解し易いことを知る。ナッソー。シー一−ヨアがリカー フィロソフィカル.チーネンス ド一に封して﹁嘗って拳間的優位を占めた人の中で、最も不正確なる著者﹂と云った攻難の中に、若干の眞甥の在ることを憶ひ起すならば、右の叙逓は敢て之を怪しむに足らぬのである。この事は叉他の寄嘗に我々の注 意を頂けさせる。即ち菅の緒姫鱒単著の拳詮に関するミルの解詮は、それ等が初めに畿表せられた膠式よりも造 かに優って衆口を惹きつけるといふことである。ミルは、自由貿易及びレツセ・フエールが永久の泰山として不 故に建設せられたと人々に思はれたる時代、叉英囲の政治家は、団居に向つて、保護主義は腎に死せるのみなら ず、地獄に陥りたるものなりと断言せる時代、且つ又隣困の〓嬰撃は、等しくきつぱりと、佃且つよろこばし気 に﹁今日赦命主義に就て云々するは、弔群を叔ぶるが如し﹂と云ひ得た時代、我々はかくの如き渇断的時代にミル が生活したことを想ひ起す時、右の如き確信、即ち控開塾上の主要問題は解決せられたりとの確信が、ミルに於 ては甚だしく少いことを感するのである。尤も彼は償値諭を叙ぶるに雷り、誤って﹁幸にも、憤借の法則に関し ては、硯在及び将来の論者が開拓すべき飴地は何物もなし。此れに閲する理論は完備せり﹂との失言をなした。 マンステリアル ポンチイフィカル 然し、時折は﹁法王的﹂︵マーシャルの語︶に叉﹁樵柄的﹂になり得たが、叫般的には、甚だ之と異なる色調を以て 書いて居る。彼の心に溢れたる、不睾なる者への憐憫、不遇なる男女への同情は、殆んど三男既に歴然庭るもの がある。惟ふに、彼が、ベンザムの教義を改修せんとし、快楽の質も亦其の克と同じく考慮せらるべきであると 言って之を破壊した如く、彼は前人達の冷酷な経済難論に、時には倫規約、時には感情的攣革を導入し.、斯くて 自ら解詮せんとした先蓼者達の数量をぼ、他の人々にも劣らぬ程に之を不信望たらしめたのである。然乍、この ことが尿苦なりや否やに就ては、我等はサー。ウイリアム◎アッシふレイの言葉に倍ヰペきものあるを感するっ日 ジエ●エス●ミルビアルブレッド●マーシャル ︵二七︶ こ七
多四巻 茅一班
︵こ八︶ 二八 く、、、、ルは鷲沢経済理論の賛鰹は其のま1之を保持してゐたけれども、云はゞ、新らしき環境を以て之を固揺せ しめんと欲したのであつたと。往々にして我等は、リカードの苛酷なるに不快を僻すことがあり、之はマルサス にすらあるが、ミルに在っては其の冷酷なるが故に不快となることは決してない。彼の鋼鮎は賓にそれとは反封 の瓢に存するのである。彼は幾分センチイメンタリストなのである。それは兎も角、﹁古典嬰沢の敷設﹂に関する 論述の申で、ミルよりも葡アトラクティブなもの1ないことは等質である。 五 ヘーゲルの﹁膵変哲蓼し中に達意の一節ありて云ふ﹁ミ、ネルヴアの轟は、夕晴が訪れるまでは飛び立たない﹂と。 仙洞の大曹聾者が、宇宙を詮明すべき思想鰻系を構成した時には、それまでに、せ界は前進して、彼の理論を後 ろに置き去りにしてしまつた。﹁勝利を拉待した慣系は殆ど布衣しないのである﹂。この事蜂、他の瘍合に比し、 経済顔た於て最も着るしい。生産方淡、交通運輸の態様、政府の国内的干渉、国際関係等其他経酒興稟が考慮せ ねぼならぬ百般の寄項は不断に攣化して居る。今日の経済敢禽を如何に巧妙に叙述し、分析し、詮明するとして もその叙述、分析、詮明は何れも立ち朗に啓式わものになつてしまふ。時代が磨り の事物と同様に欒化して行く。されば、近き将来に、第叫流の経済聾者が絞臍科挙の仝鰻を取放つ衆論文む書く といふことは殆ど考へられないことである。少数の教科書は絶えず印刷せられて行くであらうが、教科書は論文ではない。思ふにマーシャルの﹁経済笹原埋﹂のみが唯仰のものであらう。経臍革は飴りにも炭汎なる課題なるが 故に、一個人が其の全般を取扱はんとすることは出来ないヶ 叫人は叫偶の主題を把えて、その研究を録し、他の 人は又経済塾の他の部問を取扱ふ。趣く少数の才能ある人のみが全館として此の科挙を収故ふであらう。 然れども小論文、特殊論文等は、それとして低値あるものであるけれども、之に甘んじられるものではない。 我等は組織的取扱ひを熱望する。而してミルは嘗に夫れを我等に提供しくれるものである。彼の﹁経済笹原理﹂の 中に、我等は全領域の鳥扱固が求め得られる。我々けT−−今日我等が陥り勝ちな 一 個々の樹木を見て、森林を 見失ふ様なことがないのである。 かくて、コツサの言葉を以てすれぼ﹁ミルの﹃経済笹原埋﹄は古典笹沢の螢詮の最良なる要約、即ち最も造憾な き、最も完備せる而も最も慮確なる解説﹂と云はれる。されば我等の先づ質すべき朗は、その拳詭が如何なるも のなりやを質す寄に在る。之をなすに常り、我等はジード教授の詮明に従ふに如くはない。ジードは猫特の明快 さを以て、之を七項に要約した。その各項を哲派経済単著は自然法と看撤したのである。 一、自利心の原則であつて、之は人も知る如くアダム。スミスに依り極めて明瞭に説かれたものである。﹁我等が 我等の食事を得るのは、肉屋や酒屋や麺鞄屋の慈善からではなくて、彼等自身の利益を考へることからである﹂ 二、自由競寧の原則であつて、﹁新卒の制限は何れも事態である⋮:ニ=⋮競季の擁張は放べて、常忙窮局的利益で ある﹂ 汐エ●エス●ミルモアルブレッド●マーシャル ︵こ九︶ 二九
第四巷 第一兢
︵三〇︶ 三〇三、第三にはマルサスに依り公表せられたる人口の原理であるも憩らくマルサスは、ミル以上に熱烈なる踏迷老
は途に持たなかつた。去乍、ミルはマルサス主義者であつて、新マルサス主義者ではなかった寄を明確に了解
しておかねぼならぬ。彼はマルサス以上に禁慾論者であり、例へば、結婚せる二人の問にも自制なかるべから
ざることを極論した。べーン教授は云って居る﹁.ミルは純棒な精神的愛情を飴りにも高く評惜したが、肉鰭的 情感は飴りにも低く詐慣L過ぎたとは多くの人々の意見である﹂と。四、次には、需婁供給の原則であつて、之に依れば、償格は琴要に正比例して攣化し、供給に反比例して欒化す
る〇
五、賃鎚の原則、ラツサルレの所謂﹁絨則﹂である。労働の偵格豊ハの労働を作出する費用に係はるC而して賃銀が支沸はるゝ濾泉となる覇は腋として制限せられて居る。
六、姓に親祭したる如く︵原著者は本書第三者にてリカードーを論じたれぼなり⋮=⋮恕者祁註︶リカードーの濃アビリ一アイ 系の基底には、地代の原則が構って居る。ミルは、之を域張して才能をも包含せしめた。
七、最後に、問際的交易の原則であつて、之はリカードが始めに拉唱したのであつた。コ一三−の指摘する夙によれば、ミルはリカードーの理論を獲展させ、骨格に肉をつけ、極端に抽象的なる原理をぼ、具鰻的表現に
翻案し、日常耳目にする寄蜜を以七之を詮明したものである。
外囲貿易論に於て、ミルの書豊ハの先人のなせる朗に改修を施して居るe依って我々は、その他の部間に就て彼が何等か確貰なる買献をなせりや否やを間はねばならぬ。之に封する答は凡そ次の如し。彼は需要供給論の論 議に於て、慣格は、供給せちれたる蚤が、需姿せらる1畳に等しき鮎に決定せらる1ことの理論を導き入れた。 換言すれば、彼は均衡理論を導き入れた。凡そ惜値には〓柾恕ある。一は不定なる憤値︵︵ぎs昏訂YaEe︶で、之 は供給及び需妥の欒化に依存する。二は永久的、自然的、或は正常的惜億︵Perヨ望e阜コaturai。rコ。rヨ監くal亡e︶ で、之は生産費によつて支配せらる1。例へぼ貨幣は二偶の要因、即ち︵イ︶繚適量と︵ヱ交換のために需要さ れる敦盛とによつて決定せらるゝ仙時的低値を有する。然乍、選に貨幣は放べての勤拓が停止せる時に達する永 久的横倍を有する。之は豪金嵐を採掘する費用によつて決定せらる1ものであるり第三にミルは、彼が賃銀基金 詮に就きて云った所を撤回して、完全なる欒詮を途行した。然しマーシャルは、ミルが貿銀基金詮に代へて提出 した賃鉄嘩論なるものは甚だしく不完全なものなること聖杯して居る。﹁ミルは慣倍論に到達せぬ内に賃銀を諭 ぜんと企てた。斯くて紋は、不完全なる詮明に陥り、第四編に於ける修正も山般に注意を惹かなかった。賃銀を 論ずるに苦り、経臍塾に多くの人間的色調を入れんとする熱心の飴少、仙厨よき判断が得られす、不完全なる分 析を以て進んで行かねばならなかつた?蓋し、彼が需要供給の詭明に先立ってその盤銀論の主要理論を提出した ことは、彼が見れを完全に取扱ふべき統べての横倉を断ち切つたこと1なつたからである﹂︵マーシャル、原理、 八二凶貢︶。 叫八三叫年へーリベリーのリチャード。ジョンズ︵劇七九〇 − 叫八五五︶は﹁富の分配と税瀕に摘する研究﹂を 汐エ○エス●ミルミ7ルブレッド○マーシャル ︵三こ 三一
第四巷 第一兢
︵三二︶ 三二公刊し其の中でリカードーを批評した。彼は、濁り英囲だけの状態から推論することは、正しからざる結論に達
すべき重大なる危険を胃すこと1なると主張し、夫々の図々を庶く親祭することによつてのみ、右の謬れる結論は避くることを得ると論じ宅換言すれば、彼はリカードーの演繹方法を攻撃したのであつた。琴荘彼は主張
して冨ふ、寄蜜に於て競争は地代を決意すべき唯一の要因でないと。地代は、我等が現賓の生活忙放て知る如く
歴々慣習によつて決定せられる。イングラムは言ふ、ミルは此の書物を読んだが﹁その功班は之をかすかに認め
たに過ぎなかった﹂と。その箇否は別として、ミルもジョーンズの如く、農薬地代をSeTf・reきヨetayer・re⊃tlyOT r2阜cO琵er・reコ︻た分類したことは寧はれぬ寄賛である。富嚢を換へて云へぼ、彼は硯密生括の領域忙於ては、経臍理論の閉域に於けると興って、地代は単に競争のみ
によらず、主として慣習によつて影響されることを認めた。﹁此認容は土地貸借問題に、全く斬らたなる光明を
輿へ、地主封小作人の契約に法律が容映し得るとの基礎を明白に拉供したものである﹂と。之ケルンズの言であ
る。ミルは、彼が経臍理論に鳴くした食も盈婁なる貢献と看撤すものは何であるかに裁て、我等に些の疑問も蔑
さなかった。彼は生産里又配する法則と分配を支配する法則との問に確固不扱なる境界線を引かんと努力した。
ミルにとつては二肌着琴封象の性質に依雇する虞の自然法﹂であり、後者は﹁剛定の傑件の下に人間意志に依零
するものなのである﹂。﹁経済革塀埋↑は、党人達が恨走した諮條件の下で、之等の原因の作用を料率的に認識せ
んと志した鮎に於て、侵入の何びとにも負ふものではない。それは、之等の諸傑件を政経のものとして取扱はぎ
ることの逼警嘉し居るのである。自然の必然に依らすして、現存酷骨組絨と結合せる必然に依る朗の経済上
の原則は、之、箪に蒜的なるものであ㌣敢合進歩によつて甚だしく欒化され勝ちなものとして取扱って居る
のである。﹁定に、余は此の見解を部分的にはサン。シモン次の考察によつて、余に呼び起された思想から教へら
れたが、、余が凄の鼓舞によつて、余の筆者鼠し、清気づける生ける原珊たらしめられた。﹂換言すれぼ、生産は
不易の原則によつて支配せられ、分配は祀愈内に繊起する攣化によつて攣史せらるゝことを、ミルは信じたので
ぁった。韮にも亦、他の場合と同じく、ミルの心裡に、琶き力と新らしきカとの域ひが哉はれて居る。リカード
1判コムト、或は若し諸君が欲するならばリカードー剖ミル夫人が、支配樺を寧ひ、而も何れもが完全なる膠利を拉て居ないのである。生産と分配との此の人為的糧削が、何等貰現方法を捉伏して居ないことは明白である。
我々は之が嘗硯のために僅かに、エ場法、最低賃鋭法案等を想ひ起すに止らねぼならぬ。
最後に、ミルはコ鱒臍の術﹂が直接に﹁経済科挙﹂から誘導せられぬことを主張する。サー。ウイリアム○アッシュ
レーが示せる如く、彼は﹁科単なる語を抽象的論議に限おし、之が驚際状態に劃する闘係の決定は、彼の所謂﹃推
測の梯敏﹄に任せた。﹂
斯くて、我々は次の事を知る。ミルの著述はヴイクt﹁¶ソヤ朝時代を措く扁の給であり、その中には十八倣紀の雰園気が多分に盛られてあることを。﹁コムト、融合主義考及び輿論の大勢の結合の下に、彼は、機械的要素
に反し・て経臍螢に於ける人間的要素を、挿著ならしめんと志したのであつた﹂︵マーシャル︶。 ジエ○ニス○ミルビアかプレ⋮′F●マーヤシル ︵三三︶ 三三︵三四︶ 三四