ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典
ゲルトルート児童教育法の考察
~民衆の自己解放の真の学力を求めて~
黒
澤
英
典
はじめに
この書は、ペスタロッチーの生涯の全著作のうちで最も重要な教育学的著作である。この書によって、教育思想 家 ・ 教育実践家としてのペスタロッチーの名声は初めて確立したといってよい。ヘルバルト( J, F Herbart : 1776-1841 ) も フ レ ー ベ ル( F, W, A Fröbel : 1782-1852 ) も こ の 書 に よ っ て 初 め て 教 育 思 想 家 と し て の ペ ス タ ロ ッ チ ー を 評 価 し た こ と は 明 ら か で あ る。 彼 ら は ペ ス タ ロ ッ チ ー が こ の 書 に お い て 示 し た 教 授 理 論 や、 そ の 後 の 実 践 に 学 び、 こ れ と 対 決 し な が ら、 彼 ら 自 身 の 教 育 思 想 や 教 授 理 論 を 形 成 し て い っ た の で あ る。 そ の 意 味 で 本 書『 ゲ ル ト ルートはいかにしてその子を教えるか~わが子を自らの手で教育しようとする母親たちへの手引書・・・手紙によ る 一 つ の 試 み~』 ,, Wie Gertrud ihre Kinder lehrt, ein Versuch den Müttern Anleitung zu geben, ihre Kinder武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号
selbst zu untrriechten, in Briefen.
,,( 『ゲルトルート児童教育法』 )(以下『ゲルトルート』と省略)は、 やはり近代 の 教 育思想 、とくに科学的な教育理論の成立史の上で記念すべきモニュメントであるといわなければならないであ ろ う 。 し か し、 そ れ 以 上 に ペ ス タ ロ ッ チ ー が、 こ の 書 簡 で 最 も 言 い た か っ た こ と は、 後 に『 わ が 生 涯 の 運 命 』( ,, Meine Lebensschicksale als Versteher meiner Erziehungsinstitute in Burgdorf und Iferten ,, . 1826 )のなかでも言ってい る よ う に、 「 民 衆 教 育 の 単 純 化 」「 民 衆 の 自 己 解 放 の た め の 生 き る 力 」 と し て の 学 び で あ っ た。 ま た、 『 シ ュ タ ン ツ 便り』 ( ,, Pestalozzi , s Brief an einen Freund über seinen Aufenthalt in Stanz ,, 1799 )のなかでも、その萌芽をみる こ と が で き る。 彼 の 最 大 の 課 題 は、 最 下 層 の 子 ど も た ち や 戦 争 で 親 や 家 を 失 っ た 孤 児 た ち が、 い か に し た ら「 学 ぶ」ことに、興味・関心を抱き得るかの探究であった。 この子どもたちが学ぶことによって、それぞれの子どもたちの潜在的可能性を開花させ、自己解放の学力を身に つけることによって、近代社会を担う民衆の育成を目指す近代教育の実現をめざしての一四通の書簡である。
一、この書簡の歴史的評価
こ の 書 簡 に 示 さ れ た ペ ス タ ロ ッ チ ー の 教 育 思 想 や 教 授 理 論 は、 ノ イ ホ ー フ( Neuhof ) で の 体 験 や『 隠 者 の 夕 暮 』 ( ,, Die Abendstunde eines Einsiedlers ,, . 1780 )以来の生活圏の思想やきびしい政治批判の姿勢が本書を根底におい て支えていることは明らかである。 ペスタロッチーが新しい教授理論を開拓したというのは、 具体的には彼が当時支配的であったザルツマン( C, G. Salzmann. 1744 ~ 1811 ) な ど に よ る 教 育 内 容 お よ び 方 法 の 合 理 化 な ど 大 胆 に 主 張 し、 実 践 し た 汎 愛 派 的 教 授 理 論 や ( ) 1ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 教授法に対する不信であった。それに代わる直観教授を提唱したことを意味している 。 さらに、この新しい教授方法の開発が、学びからとうざけられ虐げられていた民衆の不幸な生活に触発されたも のであったということを忘れてはならない。 当時一八世紀の社会は輝かしい啓蒙時代で新知識の普及によって上流階級の人々は華やかな生活をしていた。し かし、民衆は決して幸福になっていないという認識と、多くの民衆は学びから疎外されている現実に対して、この 不幸にあえいでいる民衆のために、彼らの不幸の源泉をつきとめ、民衆に学びを通して生きる希望と力を育みたい というペスタロッチー特有の正義感から民衆の向上のための知育論ないし、学力論についての新しい理論を開発に 向かわせたのである。この事実はペスタロッチーの教授理論を歴史的に評価する場合決して忘れてはならないこと である。 君主や国王に、より忠実に奉仕するための知識とか、産業社会の要求に効果的に応ずるための学力とかいうよう なものではなく、民衆が自らの力で幸福になりうるような知識や学力をペスタロッチーは求めたのであった。 時代は啓蒙の世紀であり、社会は産業革命の前夜であった。スイスの純朴な山村まで商品経済の浸透にともなっ て民衆の生活は急激に変化した。 この生活の急激な変化に対処するために民衆は新しい知識、新しい学力を必要としていたのであった。ところが それを学びたくとも学び得ないのが、当時の民衆のおかれている実状であり、それを学び得たとしてもそれは不毛 の知識の断片でしかなかった。これでは民衆は幸福になれない。この危機的な事態の認識が、ペスタロッチーを新 し い 知 識 観、 学 力 観 の 探 究 へ と 立 ち 向 か わ せ た の で あ る。 『 ゲ ル ト ル ー ト 』 は、 そ の 探 究 の 成 果 で あ る と 言 っ て よ い。それゆえ、この書は、存命中のペスタロッチーの存在を有名にし、当時においてすでに重要な文献であっただ ( ) 2
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 け で な く、 二 一 世 紀 の 今 日 に お い て も、 将 来 に お い て も、 子 ど も 愛 し 子 ど も の 健 や か な 成 長 を 願 う 人 々 に と っ て、 さらに虐げられている民衆の自己解放の真の学力を求めようと願う人々にとっての永遠の教育書であろう。 第 二 次 世 界 大 戦 後 ド イ ツ の お い て ペ ス タ ロ ッ チ ー 研 究 の 新 し い 領 域 を 切 り 拓 い た ケ ー テ・ ジ ル バ ー( Käte Silber )は、 その主著『ペスタロッチー』 ( ,,
Pestalozzi, Der Mensch und sein Werk
,, 1959 )のなかで、 『ゲルトルー トはいかにその子を教えるか』について、冒頭この書の教育学的意義を次のように述べている。 「 同 時 代 の 人 々 が あ る 作 品 に つ い て 下 す 評 価 は、 し ば し ば 後 世 の 人 々 の 評 価 と は ひ ど く 異 な る も の で あ る。 『 探 究』は今日ではますます重要さを増しているが、それが出版された当時から一九世紀の終わりまでは、ほとんど注 目されなかった。むしろ存命中のペスタロッチーの名声は、 『ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか』 ( 1801 年)という書物にもとづいていた。なぜならこの書は、幼児期の教育の領域において根本的に新しいものを含んで い た か ら で あ る。 す な わ ち そ れ は、 す べ て の 人 間 の 精 神 活 動 が《 私 自 身 か ら( von mir selbust )》 出 発 す る、 と い う『 探 究 』 に お け る《 巨 匠 の 真 理( Meisterwahrheit )》 を 教 育 学 的 に 拡 張 し た も の で あ っ た。 ・・・・・ す な わ ち 「 私 が現にある一切、私が欲する一切ならびに、私がなすべき一切は、私自身から出発する。この発見を教授法に応用 す る こ と は、 学 校 教 育 に お け る コ ペ ル ニ ッ ク ス 的 な 方 向 転 換 を 意 味 し た。 ・・・・ 本 書 の な か で 提 起 さ れ た 本 質 的 な 諸 原 則 は、 教 育 学 の 歴 史 に 極 め て 深 い 影 響 を お よ ぼ し た の で あ る。 」 教 育 に お け る コ ペ ル ニ ッ ク ス 的 転 換 と は、 学 習者主体・子ども中心の教育を提唱しているのである。やがて、二〇世紀の子ども中心主義の教育思潮の源流とな るのである。 ( ) 3 ( ) 4
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典
二、一四通の書簡の構成
この書は、親友ゲスナーに宛てた一四通の書簡なら成っている。刊行は一八〇一年一〇月、悲嘆のうちにシュタ ン ス( Stans ) を 去 っ て ブ ル グ ド ル フ( Burgdorf ) に 移 っ て か ら 二 年 余 の 歳 月 が 流 れ た。 新 し い 土 地 で 元 気 を 取 り 戻したペスタロッチーは、五五歳の働き盛りであり、民衆教育へ情熱が次第に高揚してきた。 ペスタロッチーが、一七九九年に初めてブルグドルフで学校を開いた建物が今も残っている。下町の一角に、今 はかなり老朽した建物になったが、町の人々はペスタロッチー ・ ハウス( Pestalozzihaus )と呼んでいる 。 その建物の外壁にある記念額には、次のような言葉が刻んである。 この家でハインリッツヒ ・ ペスタロッチーが一七九九年に初めて公教育に携わった。 「 私は私の古い日々にまず底辺の人々に奉仕することができたことを、私の人生の王冠だと思っている。 」 この額は一九二四年に、ペスタロッチーの偉業をたたえるブルグドルフ市民によって掲げられた。ここでシュタ ンツ以来の新教授法の実験がようやく成果を挙げ、これを本格的に実施する新学校や、これを普及するための教員 養成所の開設を目前にしていたからである。 そして、この新学校がよりどころとするところの教授原理を広く人々に広めることも、またペスタロッチーの長 年の希望である下層民の人間的解放のために是非とも必要なことであった。 ともあれ、ペスタロッチーは 「 いまこそ民衆教育についての君の理念を公表しなさい 」 というゲスナーの勧めに ( ) 5武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 応えて筆をとったのである。 こ の 書 は、 彼 自 身 の 内 面 か ら わ き で る 言 葉 に よ っ て 語 ら れ た 彼 自 身 の 思 想 で あ る。 こ の 書 を 見 る と わ れ わ れ は、 彼の《内的直観》の充実に心を奪われるのである。だから、この書は近代国民教育の礎石であり、永久に学びによ る民衆解放の民衆教育のバイブルであると言える。 この書の構成は、次のようになっている。 第一 ・ 第二 ・ 第三の書簡 ・・・・ 序論~回想と協力者の紹介 第一の書簡では、ペスタロッチーは、ノィホーフ以来シュタンツを経てとブルグドルフに至るまでの生活と思想 の 遍 歴 を、 彼 の「 メ ト ー デ( 教 育 法 )」 の 発 生 と 発 展 の 由 来 と し て 説 明 し て い る。 貧 し い 子 ど も た ち を 教 育 し、 そ れを通して国民を救済したいという意欲とそのための苦闘が「メトーデ」に結実したと言える。そして彼の苦難に 充ちた生活と思想の足跡を回想している。第二 ・ 第三の書簡では、彼がブルグドルフにおいて三人の助手たちの協 力を得るに至った過程と、それぞれの助手たちの特色が、感謝をこめて紹介されている。 第四 ・ 第五 ・ 第六の書簡 ・・・・ 総論~知識の陶冶 ここでは、彼の教育の一般的な原理を説明している。当時の学校教育への鋭い批判の上に人間の自然的発達の法 則にしたがい、 「直観」を基礎として明瞭な概念へと、 「数」 「形」 「語」の能力を介して進められる教授の方法とし ての「メトーデ」の説明である。 第七 ・ 第八の書簡 ・・・・ 各論~知識の陶冶 こ こ で は、 い わ ば 各 論 と し て、 上 記 の 一 般 的 原 理 を 教 授 の 各 部 門 に 応 用 す る 試 み が 説 明 さ れ て い る。 つ ま り、 「 語 」 の 教 授、 「 形 」 の 教 授、 「 数 」 の 教 授 の 手 続 き が、 「 直 観 の イ ロ ハ 」、 単 純 で 容 易 な 初 歩 か ら 出 発 し て 次 第 に 対
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 象を正しく把握させる筋道として、具体的に例を挙げて説明しているのである。 第九 ・ 第一〇・第一一 の書簡および 第一二 の書簡 ここでは、上記の自分の思想の特色をその歴史的意義について評価し、さらに反省を加えるものである。とくに 直 観 を 人 間 の 認 識 の 基 礎 と し て 認 め た こ と、 自 然 に よ る 人 間 形 成 の 根 本 を 発 見 し た こ と、 教 授 活 動 の 全 体 を「 数 」 「形」 「語」の三つの基本手段に還元して、さらにそれを調和的に組み立てることによって、人間の自然の歩みに一 致する教授方法を工夫したことを強調している。さらに、残された課題を指摘して、民衆の不幸を救おうという大 望を抱きながらも自分が無能であったことを自省し、これまでのことを助手たちの協力を得て成し遂げたことにつ いて、神に感謝している。 第一三・第一四の書簡 ・・・・ 道徳と宗教の教育の問題 ここでは、人間における神への愛、信頼、感謝、柔順などの心が、もっぱら自然の本性にしたがって幼児と母親 と の 関 係 か ら 生 ず る こ と を 指 摘 し て い る。 こ う し て、 母 の 存 在 と 過 程 と、 そ こ で 自 然 的 に 育 つ 感 性 的 な 諸 力 と 心 情、およびそれらがやがて真の理性と道徳性との基礎となると言うことを強調している。 以上のような構成になっているが、具体的にどう展開されているか、見ることにしたい。その前に参考まで、先 にあげたケーテ・ジルバー( Käte Silber 1902-1979 )は、この書の構成について次のように述べている。 「 こ の 書 は、 友 人 の 出 版 者 ゲ ス ナ ー( Ge β ner, Heinrich ) に あ て た 一 四 通 の 書 簡 か ら な っ て い る。 ゲ ス ナ ー は ペ ス タ ロ ッ チ ー の 諒 解 な し に、 『 リ ー ン ハ ル ト と ゲ ル ト ル ー ト 』 に な っ て、 そ の 表 題 を 選 ん だ が、 こ れ は 内 容 に 少 し も 一 致 し て い な い。 も と も と そ の 表 題 は、 副 題 に あ る よ う に、 『 わ が 子 を 自 分 で 教 え よ う と す る 母 親 た ち に 手 引 き を与えようとする試み』と呼ばれるはずであった。しかし、この意図にも、その書物は一致していない。母のため
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 の 手 引 き と し て は あ ま り に も 難 し す ぎ る の で あ る。 そ の 散 漫 な 叙 述 形 式 は 整 っ た 構 成 か ら は 程 遠 い も の で あ る。 整った構成が見出され得るとすれば、次のような順序になるであろう。 す な わ ち、 メ ト ー デ を 発 見 す る に 至 る 過 程 と 助 手 た ち に つ い て の 見 解 と に 関 す る 歴 史 的 - 伝 記 的 な 紹 介( 第 一 ~ 三信)ののち、大多数の書簡(第四 ~ 一一信)は知育を取り扱い、一通の書簡(第一二信)のみは 「 体 」 育を、最 後の二通の書簡(第一三 ~ 一四信)は道徳 = 宗教教育をとりあげている 上 記 の 主 要 部 分( 第 四 ~ 一 一 信 ) で は、 メ ト ー デ の 一 般 的 な 原 則 と 教 科 へ の そ れ ら の 適 用 と が 述 べ ら れ て い る。 知的メトーデはここでさらに三つの細目、すなわち《語》 《形》 《数》の教授に分けられる(第七 ~ 八信) 。 し か し、 『 ゲ ル ト ル ー ト 』 は 必 ず し も 「 方 法 論 的 」 で は な く、 著 者 の 感 情 の 爆 発 は し ば し ば 彼 の 説 明 の 過 程 を 中 断する。それゆえ彼の思想を再現するためには、もっと理解しやすい順序と、できるだけより現代的な表現法とが 見い出されねばならない。 」 と述べている。 なぜ、 ペスタロッチーが何に動かされて新しい教授法を展開するに至ったかを、 見ておきたい。彼が当時の人々、 彼らの教育、彼らの市民的な境遇を観察して、そこに皮相的なものの考え方、非能率な仕事、劣悪な社会関係を見 出したことがわかる。ペスタロッチーは、無知と貧困と革命がそれらの欠陥にもとづくことを認めた。 こうした社会矛盾の害悪の原因を、彼はこれまでの《教育の指導》が、個人とそのより優れた本性に向けられる 代わりに、群集(
die Masse der Menschen
)とその《堕落》 ( Verderben )に向けられていた点にあるとみた。 な ぜ な ら 「 文 化 」 は、 彼 が『 探 究 』 の な か で 詳 し く 述 べ て い る よ う に、 個 人 の《 醇 化 》( 手 厚 い 教 え で 感 化 す る こと)によってのみ達成され得るからである。 ペスタロッチーの思想の展開は、論理的に秩序立った論述を求めることができない。彼は感激する心のほとばし ( ) 6
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 りのままに語り記述している。 この書は内容からみて、知識陶冶の方法論が本書の根幹であり、特色であって、その歴史的評価もこの部分の評 価をめぐって争われている。この意味において本書は、コメニュウス( Johann Amos Comenius 1592-1670 )以来 の近代の教授理論史のなかに位置づくものであり知的陶冶の完璧を期することによって道徳的 ・ 宗教的陶冶の充実 を 目 指 す 立 場 に 立 つ 著 作 で あ る と 言 え る。 本 書 が、 ヘ ル バ ル ト( Johann Friedrich Herbart 1776-1841 ) や フ レ ー ベル( Friedrich Wilhelm August Fröbel 1782-1852 )を経てデューイ( John Dewey 1859-1952 )、ケルシュンシュ タ イ ナ ー( Georg Kerschensteiner 1854-1932 )、 モ ン テ ッ ソ リ ー( Maria Montessori 1870-1952 ) な ど に 至 る 新 教 育運動史上のもっとも重要な先駆的モニュメントであるといえる。 とくに注目すべきことは、この書は感性、感情の陶冶の人間形成における絶対的な優先をはっきりと主張してい ることである。 「 子 ど も に と っ て 最 初 の 教 授( Unterricht ) は、 決 し て 頭 や 理 性 の 仕 事 で は な く、 つ ね に 感 覚 の 仕 事 で あ り、 心 情の仕事です。つまり母の仕事であります 」 (第一三の書簡) さ ら に 最 も 注 目 す べ き こ と は、 こ の 書 に 示 さ れ た ペ ス タ ロ ッ チ ー の 教 授 理 論( Unterrichtstheorie ) が、 《 学 問 を 民衆の手の届くところに置き、民衆自身の力による民衆の真の解放をめざすもの》であったということを、われわ れは深く心に刻まなければならない。 人間の生まれつきもつ潜在的な無限の可能性と、一人ひとりの人間のもつ能力の発達の基本的メカニズムを追求 し、これに従う教授理論の構築に取り組んだペスタロッチーが、人間の能力の発達を妨げてきた社会的諸条件を見 逃すことなく、これと対決することなしには、民衆の真の解放はあり得ないとした洞察の鋭さを現代に生きるわれ
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 われも学びたいと思う。彼は、第七の書簡のなかで次のように述べている。 「 私 は 世 間 の 人 々 に、 技 術( Kunst ) と か 学 問( Wissenschaft ) と か を 教 え よ う と し た の で も な な け れ ば、 教 え ようとしているのでもありません。…私はそのようなものは知らないのです。…ただ私は、あらゆる技術やあらゆ る 学 問 の 発 端( Anfangspunkt ) の 学 習 を 民 衆 一 般 に と っ て、 も っ と や さ し く す る こ と、 ま た 国 内 の 貧 し い 人 々 や 無 力 な 人 々 の、 顧 み ら れ ず、 育 て ら れ も せ ず に 打 ち 捨 て ら れ て き た 能 力 に、 教 育 の 技 術 を 適 用 す る こ と、 つ ま り、 人間らしい人間になるための道を拓くことを望んできた。 」 そ れ で は、 ま ず『 一 四 の 書 簡 』 を 第 一 の 書 簡 か ら ペ ス タ ロ ッ チ ー 自 身 の 印 象 的 な 言 葉 を 通 し て 考 察 し て お き た い。
三、
『ゲルトルート』の考察
この一四通の書簡の中で述べられている教育学的ないし教授学的部分では、彼は何よりもまず今までの国民教育 の欠陥ないし罪悪を指摘し、かつそれを粉砕しようとする鋭い洞察力と逞しい意気とを示しているが、こうした息 吹はもちろん全一四通の書簡に一貫している。ペスタロッチーは、この書において何よりもまず国民教育の解放の ために戦った。わたくしたちは、この一四通の書簡を通して古代ギリシャに伝統を持つ西洋教育史上の階級的特権 を打破して、教育の門戸を広く国民一般に、下層階級に解放しようとするまったく近代的な、かつまた民主的な精 神の逞しい息吹を感ずることができる。 さて、一四通の書簡は、すべて親友のゲスナーに宛てたものである。彼の言わんとする民衆の陥っている不幸の 源泉は、民衆の無知から生ずるもので、これを解決するには民衆の無知を教育によって克服することが大前提であ ( ) 7ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 ると、彼は考えてのことである。 そのためには、民衆の子どもたちに教育をすることの必要性を強く感じていた。民衆教育の根本思想について述 べ、大切なのは一般民衆の子どもたちへの教育をどうするかであった。 「 ペ ス タ ロ ッ チ ー の《 民 衆 教 授 の 単 純 化 》 を 求 め る 衝 動 は、 す で に 萌 芽 と し て は 非 常 に 早 い う ち に 抱 い て い た。 『 シ ュ タ ン ツ 便 り 』 の な か で も ま だ 十 分 に 展 開 さ れ て い な か っ た が、 今 や 彼 は 教 育 学 的 行 為 を 真 に ソ ク ラ テ ス 的 な 意 味 に お い て、 こ の 書 簡 の な か で 試 み よ う と し て い る の で あ る 」 と、 シ ュ プ ラ ン ガ ー( Edeard Spranger ) が 指 摘 しているように、民衆の基礎陶冶をどのようにしたら自然の途に沿って分かりやすく教えられるか、その教授方法 がペスタロッチーの焦眉の課題であった。 第一の書簡~回想その一、ノイホーフからブルグドルフまで~ この一四通の書簡では、ペスタロッチーは何よりもまず、今までの民衆教育の欠陥ないし罪悪を鋭く指摘し、か つそれを粉砕しようとする鋭い洞察力と逞しい意気とを示している。この書の序論にあたる部分が、第一・二・三 の 書 簡 で あ る。 こ れ ら の 書 簡 は、 主 と し て ノ イ ホ ー フ か ら ブ ル グ ド ル フ ま で の 回 想 と、 そ の 間 の 協 力 者 に 対 し て、 感謝の心をこめて紹介している。では書簡を見ることにしよう。 先ず最初に、この書の冒頭で、ペスタロッチーは新しい知識観 ・ 学力観の探究へと立ち向かう決意を明言してい る。 ( ) 8
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 (一)ブルグドルフの庶民学校の創設 ペ ス タ ロ ッ チ ー は、 ブ ル グ ド ル フ で 新 年 の 挨 拶 を 親 友、 ゲ ス ナ ー に( Ge β ner, Heinrich ) 次 の よ う な 手 紙 を 送 っ て い る。 「 民 衆 教 育 に つ い て の 私 の 見 解 を で き る だ け は っ き り と 申 し 述 べ よ う。 あ あ、 思 え ば 長 い 道 の り だ っ た。 青年時代からずっと私の心は強い一筋の流れのように、ただひとつの目的に向かって脈打ってきた。私のまわりの 民 衆 が 陥 っ て い た、 あ の 不 幸 の 源 泉 を 塞 ぎ 止 め る と 言 う 目 的 に 向 か っ て い る の だ。 」 と、 さ ら に 「 私 は 何 年 間 も 五 〇人以上の乞食の子どもたちといっしょに暮らした。乏しいなかで私のパンを彼らと分かち合った。乞食に人間に ふさわしい生き方をさせるにはどうしたらよいかを学ぶために、みずから乞食としての生活をしたのだ。この子ど もたちに対する教育理想には、農業、工業そして商業が含まれていました。 」 ペスタロッチーはこの子どもたちの自立のために農業、工業、商業の職業訓練をして、彼らを立派な専門的職業 人として世に送りだすことを願っていた。 しかし、ペスタロッチーに細かいことを処理する能力や心構えとが欠けていたため、このペスタロッチーのノィ ホーフの計画は彼を支える部下もなく結局挫折してしまった。 彼 は、 自 ら の『 ノ ィ ホ ー フ の 挫 折 』 を、 次 の よ う に 回 顧 し て い る。 「 私 は こ の 試 み を 進 め る た め は か り 知 れ ぬ 努 力のなかで、奥深い真理を学んだのだ。そして、この試みが正しいのだという私の確信は、この試みが挫折したと きに、却って以前よりもまして高まったのだ。わたくしの心は、試みの失敗にもかかわらず、動揺する事なく、ひ た す ら 同 じ 目 的 を 目 指 し て 意 気 高 ら か な も の が あ っ た。 そ し て つ い に、 民 衆 の 不 幸 な 生 活 の た だ 中 に 身 を お い て、 民衆の不幸と、その原因を、いよいよ深く知ったのだっだ。それも幸福な人々が、決して知り得なかったような知 り方で、それを知ったのだ 。」 ( ) 9 ( ) 11
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 彼 が 心 か ら 愛 し 同 情 も し た 貧 し い 人 々 を 救 お う と す る 彼 の 生 涯 の 願 い は、 第 一 の 書 簡 か ら 切 々 と 述 べ ら れ て い る。 ペスタロッチーが一七九九年にブルグドルフに開いた学校は、下町の一角に今はかなり老朽化した建物になって 残 っ て い る。 そ の 建 物 の 入 り 口 の 外 壁 に は「 私 は 私 の 古 い 日 々 に ま ず 底 辺 の 人 々 に 奉 仕 す る こ と が 出 来 た こ と を、 私の人生の王冠だと思っている」と書かれた額が掲げられている。この記念額は、ペスタロッチーへの感謝の意味 をこめて一九二四年にブルグドルフ市民によって掲げられた。下層階層の子どもたちのための学校である。そのほ かペスタロッチーのブルグドルフ滞在は一七九九 -一八〇四年であったが、一八〇〇年にはこの城に師範学校を開 設し、自ら校長を勤めた。 ブ ル グ ド ル フ と は 文 字 通 り「 城 の 村( 町 )」 と い う 意 味 で あ る。 見 方 に よ っ て は 小 さ な 町 が、 城 に 押 し 潰 さ れ そ うにも見える。 この城の建設は一二世紀末ツェーリンゲン家によるものである。 現在は歴史博物館 ( Schlossmuseum Burgdorf )になっている 。 城は丘の上にあって周辺をくまなく見渡すことができる。下町から坂道を登り詰めると、城の入り口の右側に前 庭があり、そこにペスタロッチーの記念碑が刻まれている。エメン川を見下ろす眺めのよい前庭である。ベルン州 の紋章を大きく描いた広大な壁の右下の隅に記念碑がある。記念碑には次のような言葉が刻んである。 ハインリッヒ・ペスタロッチー( 1799-1804 )記念 一 八 八 八 年 に ブ ル グ ド ル フ 市 が 感 謝 を も っ て 奉 献。 そ れ は い ま ま で も 我 々 の 中 に 神 の 言 葉 と し て 語 り か け て くる。 “汝のみに生きるなかれ、兄弟として生きよ” ( ) 11
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 『ゲルトルートはいかにその子を教えるか』より。一八〇一年 城の内部の博物館には、小さいがペスタロッチーの部屋もある。陳列してあるのは、授業中のペスタロッチーを 描いた版画とその下のガラス箱の中には一八一九年に出版されたペスタロッチー全集、一八〇一年元旦の自筆の手 紙、ノイホーフで子どもの使ったタオル等が収められている。 さて、人々が注目したのは、この新しい学校がいったいどんな原理に乗っ取り、どんな教授法で子どもを教える のであろうかということ、さらに学習効果をあげられるかということに向けられた。ペスタロッチーは、自らの教 授法(メトーデ)の原理とその実際とを世界に向かって明らかにする必要があった。そこで、彼は一八〇二年の暮 れ、パリーに滞在していた折りに彼の教授法について一論文の起草を約束していた。ブルグドルフに帰って、この 要 請 に 応 え て 一 八 〇 三 年 一 月 に パ リ ー の 友 人 に 送 っ た 論 文 が『 メ ト ー デ の 本 質 と 目 的 』( Wesen und Zweck der Methode )である 。 こうした時、親友のゲスナーから「いまこそ民衆教育についての君の考えを公表したまえ」と勧められた。 (二)ノィホーフの挫折の回顧~貧民学校の失敗とその教訓~ ペスタロッチーは過ぎ去った苦難に充ちた日々を回顧している。 「 あ あ 、 思 え ば 長 い こ と だ っ た 、 青 年 時 代 か ら ず っ と 私 の 心 は あ た か も 激 流 の よ う に 、 た だ 一 つ の 目 的 に 向 か っ て 脈 打 っ て き た 。 私 の ま わ り の 民 衆 が 陥 っ て い た あ の 不 幸 の 源 泉 を せ き 止 め た い と い う 目 標 を め ざ し て ・ ・ ・ ・ 。」 ここで彼が言っているのは、ノィホーフにおける貧民学校のことである。一七七七年から七八年にかけて、彼の ( ) 12 ( ) 13
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 学校には三〇数名から多い時には八〇名にものぼる子どもたちが収容されていた。 基 礎 学 習 の 指 導 に あ た る 教 師、 織 り 方・ 紡 ぎ 方 の 教 師、 実 技 の 指 導 者、 農 民 な ど の 協 力 者 と 共 に、 ペ ス タ ロ ッ チ ー 夫 妻 は 懸 命 に 努 力 し た。 悪 い 馬 鈴 薯 は 自 分 が 食 べ、 で き る だ け 良 い も の を 子 ど も た ち に 食 べ さ せ た。 「 私 は 何 年間も五〇人以上の乞食の子どもと一緒に暮らした。乏しいなかで私のパンを子どもたちとわかちあった。乞食に 人 間 に ふ さ わ し い 生 き 方 を さ せ る に は ど う し た ら よ い か を 学 ぶ た め に、 み ず か ら 乞 食 と し て の 生 活 を し た の だ っ た。 」と、彼は当時を振り返って述べている。 彼のノィホーフの貧民学校の構想は、農業・工業・商業の三分野によって構成されていた。しかし、彼自身が反 省しているように、これらの仕事について全くの素人であった。 破綻は、決してたんに経済的側面においてだけ見られたのではなかった。ペスタロッチーは、多くの子どもたち やその親たちからさえも手ひどい仕打ちを受けた。 乞食生活に慣れた子どもたちは、働くことを嫌い、学園の粗食を嫌がった。乞食をしていた時にはもっとうまい ものにありつけたと言うのである。子どもたちの「物乞い」によって暮らしていた親たちもまた、子どもをペスタ ロッチーに奪われて不満であった。 親たちは、子どもたちに不満をあおり学園からの脱走を勧めた。親たちのたてる根拠なき悪評が学園の支援者た ちにも及び、ペスタロッチーは、やがて物心ともに孤立することになった。こうして、一七八〇年希望に充ちて始 まったノィホーフの学園の計画は、完全に挫折した。 しかし、彼はこの挫折から多くのことを学んだ。何よりも彼は民衆を知った。そして、民衆のあるがままの姿を 知ることによって、ペスタロッチーは自分の試みの正しさを知りその必要性を深く確信したのであった。これが彼 ( ) 14
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 にとっては大きな収穫であった。 「私は失敗することによって、ますます私の目的の正しさを知りった。 ・・・私はこの計画を進めるためのはかり 知れない努力のなかで、底知れぬ真理を学んだのだ。この挫折によって、この計画は正しいのだと言う確信をます ま す 持 つ に 至 っ た の だ。 ・・・ そ し て 不 幸 な 生 活 の 真 っ た だ 中 に 身 を お い て、 私 は 民 衆 の 不 幸 と そ の 原 因 と を、 い よいよ深く知ったのだ 。」 さらに、ペスタロッチーは、当時民衆の置かれている状況を次のように回顧している。 「 私 は ま わ り の 民 衆 を 誰 ひ と り と し て 知 ら な か っ た が、 次 第 に 民 衆 の 真 の 姿 を 知 る こ と が 出 来 る よ う に な っ た。 彼らが木綿織物で多くの収益を得て挙げる喜びの声、だんだんと金持ちになり、新しい家を新築し、彼らの豪勢な 収益などに私はだまされなかった。また、民衆学校の教師たちが、ソクラテスのやったような産婆術を試みている とか、村役人の子どもたちや、床屋仲間たちが読書会を開いているとかと言う話を聞かされても、そんなことには 決してだまされはしなかった。 」 ペスタロッチーは、こうして当時の民衆生活のみせかけの繁栄や、民衆の暮らしのなかのみせかけの啓蒙の姿に は、決してだまされなかった。そして、ペスタロッチーにとって明らかなことは、このみせかけの繁栄や軽薄な啓 蒙のもとにおいて民衆は決して幸福になっていないという事実であった。こうした事実を気づけば気づくほど、彼 は自身の無力さを感じ得なかった。 ところで、当時ヨーロッパ世界を激動させたフランス革命に対してペスタロッチーは、あくまで冷静に、しかも 深い洞察心をこめて見守っていた。革命の動向は、彼自らの正義感や真理感には違和感を感じながらも、しかし自 ら求める理想の幻滅に耐えかねて、旧体制の崩壊による新たな人権思想の台頭に期待を寄せるのであった。 ( ) 15 ( ) 16
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 (三)シュタンツの孤児院の回想 シュタンツの孤児院へのペスタロッチーの赴任は、決して容易に決まったわけではない。孤児院の設置場所にし ても地元との混乱があった。結局最終的にペスタロッチーに決まったのは一七九八年一二月五日であった。ペスタ ロッチーは早くも一二月七日に着任した。約半年孤児たちと共に、苦闘に充ちた生活が始まったのである。 「 私 が シ ュ タ ン ツ を 去 っ た の は、 私 自 身 瀕 死 の 状 態 で あ っ た に も か か わ ら ず、 決 し て 私 の 勝 手 な 決 断 に よ る も の で も な く、 む し ろ 軍 の 措 置 に よ る も の だ っ た。 ま た そ の 結 果、 私 の 試 み の 続 行 が 一 時 ま っ た く 不 可 能 に な っ て し まったという事情によるものだった。しかし、人々は私がシュタンツを去るや、私には粘り強くことを運ぶ才覚や 才能が無いという昔ながらの評判をまたもやたて始めたのだった。 ・・・ 」 ペスタロッチーはこのような辛い経験を経て、彼自身多くのことを学んだ。このことはわれわれにとっても重要 な意味を持っている。 シュタンツでの彼の実践は、やがてブルグドルフでの教育事業に継承され発展するのである。 ペスタロッチーが、シュタンツにおける孤児たちと共に生活した経験から学び取った確信は、要約すると次のよ うであった。 ① ペスタロッチーは一人で数十名の子どもたちを教えなければならなかったが、学級の秩序を保ち、学習効果を 挙げるための工夫として、書いたり描いたりしながらの一斉復唱、石盤の利用、相互学習(教え合い学習)な どが有効であるということ。 ② 伝 統 的 な 学 校 教 育 は、 言 葉 や 文 字 を、 理 由 な く 不 当 に 重 視 し て き た。 言 葉( 文 字 ) 本 位 の 学 習 は、 事 物 認 識 (直観)の能力にとって有害であり、子どもを消極的にする。それは真の民衆陶冶にとって無縁である。 ( ) 17
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 ③ 単純化された教材に即して、基礎的な認識能力を育て、これを確りと身につけさせることが大切である。それ が子どもに生きる力(自信)を与え、学習への興味・関心を喚起し積極的な意欲を育てた。 ④ 教え方の工夫(技術)によって、誰でも学ぶことができ、向上することが出来るのであって、誰でも人は、内 面に無限の可能性を秘めているのであって、決して民衆に能力が欠けているのではない 。 ペスタロッチーは、シュタンツでの苦悩に充ちた経験によって、民衆の向上への無限の可能性を信ずることがで きた。これがシュタンツにおける最大の収穫であった。民衆を軽蔑しばかにし民衆の教化を嘲笑した人々への憤り を感じ得なかった。またそのような主張を裏付けてきた古き伝統的学校教育への弾劾の叫びを、ペスタロッチーは 挙 げ ざ る を 得 な か っ た。 だ が し か し、 ペ ス タ ロ チ ー が 民 衆 教 化 の た め の「 術 」( 方 法 = Kunst ) の 可 能 性 を 少 な く ともその脈絡を捉えたと自覚し始めたとき、彼はシュタンツを去らなければならなかった。 (四)ブルグドルフでの教授法の原則の確立 ペ ス タ ロ ッ チ ー の 親 友 フ ィ ッ シ ャ ー( Fischer, Joh, Rudorf. 1772-1800 ) は、 ペ ス タ ロ ッ チ ー の 方 法 の《 基 本 原 則》は、おおむね次の五点である 、と指摘している。 第一に、彼は精神の諸能力を内容的に高めようとしているのであって、単に外延的に表象を増やそうとしている のではない。 ペ ス タ ロ ッ チ ー は、 こ れ を さ ま ざ ま な 方 法 で 達 成 し よ う と 望 ん で い た。 単 語、 説 明、 命 題、 や や 長 い 文 な ど を、 大声で繰り返して子どもに言って聞かせ、それから子どもたちにそれを復唱させることによって、彼は子どもたち の器官を発達させ、子どもたちの注意力や記憶力を訓練しようとしていた。 ( ) 18 ( ) 19
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 第二に、彼はその教授を完全に言語に結び付けていた。 ペスタロッチーは自然の実際の直観だけでなく、言語もまたわれわれ人類の基本的な認識手段であると考えてい た。 第三に、ペスタロッチーは精神のあらゆる作用に基本事項か、分類項目か、それとも指導理念かを与えるように 努力していた。 第四に、彼は教授( Lehren )と学習( Lernen )のメカニズムを単純化しようとしていた。 第五番目の原則は、この原則と関連している。つまりペスタロッチーは学問を民衆に広めようとしていた。 つまり彼は、自立的で賢明な生活をするために、万人が必要とするところの洞察力と思考力の基本を全面的に追 求 し よ う と 努 力 し て い た。 学 問 を パ ン に 飢 え た 貧 し い 人 々 の 見 せ か け ば か り の《 お も ち ゃ》 と す る の で は な く、 《 学 問 》 を パ ン に 飢 え た 貧 し い 人 々 に、 真 理 と 知 恵 の 最 初 の 基 礎 を 与 え る こ と に よ っ て、 学 問 が 彼 ら の 無 知 ( Unwissenheit ) 及 び 他 人 の 悪 知 恵( 狡 猾 さ )( Schlauheit ) の 不 幸 な《 お も ち ゃ》 に な る 危 険 を 取 り 除 く こ と を ペ スタロッチーは望んでいたのである。 この目的は。教科書を用意することによって、果たされるべきものであった。ペスタロッチーは彼の著述からの 収入を、彼の計画の実現ために、立案中の研究所、学校、孤児院建設の具体化のために向けた。 以上、五点についてフィッシャーは、ペスタロッチーの教育事業について述べている。 ペスタロッチーは、次のようにフィッシャーに感謝の念をあらわし、彼の死を悼みつつ新たに未来への出発の決 意を示して、第一の書簡を終わっている。 「 彼 の 手 紙 は、 全 体 と し て、 彼 が 真 理 を 尊 敬 す る、 た と え そ れ が 夜 の 衣 を つ け て い よ う と も、 ま た そ れ が 実 際 に
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 陰で包まれていようとも、真理を尊敬する立派な人物であることを示している。彼はシュタンツで私と子どもの姿 を 見 て 感 動 し た。 そ の 光 景 が 彼 に 与 え た 印 象 以 来、 彼 は 私 の 一 挙 手 一 投 足 に、 真 剣 な 注 意 を 払 っ て き た の だ っ た。 し か し、 フ イ ッ シ ャ ー は、 私 の 試 み が 成 果 を 挙 げ る 前 に 他 界 し て し ま っ た。 も し も、 こ の 成 果 を 彼 が み て お れ ば、 私のこの試みについて多くのことを認知したであろう。悲しみのなかで、彼の死が私に新しい時代を創出する勇気 と希望を与えてくれたのだ 。」 フ イ ッ シ ャ ー の 人 柄 を 讃 え、 そ の 死 を 惜 し む 言 葉 で も っ て、 ペ ス タ ロ ッ チ ー は、 親 友 フ イ ッ シ ャ ー の 死 に よ っ て、ブルグドルフにおける彼の仕事は新しい局面が拓かれるのである。ここで、第一の書簡は終わっている。 第二の書簡~回想、その二、協力者たち~ 第二の書簡で、ペスタロッチーがまず紹介する協力者は、クリューズィ( Krüsi, Hermann ・ 1775-1844 )である。 こ の ク リ ュ ー ズ ィ を 通 し て 彼 は ト ー ブ ラ ー( Tobler, Joh, Georg. 1769-1843 ) や ブ ー ス( Buss, Joh, Christoph. 1776-1855 )とも知り合い、緊密な協力関係を結ぶことになる。 とりわけ、クリューズィのペスタロッチーへの傾倒は深まっていった。 〈クリューズィがペスタロッチーから学んだ教育原理について〉 ペスタロッチー自身は、次のように語っている。 (一) 決 し て 忘 れ ら れ な い ほ ど 印 象 づ け ら れ、 よ く 配 列 さ れ た 語 彙 集 を し っ か り 覚 え 込 ま せ れ ば、 あ ら ゆ る 種 類 の 知 識 に 対 し て も、 一 般 的 な 基 礎 と な り、 こ れ に よ っ て あ ら ゆ る 知 的 分 野 に お い て も、 明 確 な 概 念 に 達 す ることができる。 (二) 線( Linie )、 角( Winkel )、 弧( Bogen ) を 書 く 練 習 は、 事 物 を 正 確 に 見 た り、 描 い た り す る の に 役 立 つ、 これを何度もやれば、子どもたちのすべての物に対する直観( Anschauung )は確かなものになる。 ( ) 21
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 (三) 子 ど も た ち と 共 に 初 期 の 計 算 練 習 を す る 場 合、 実 物 な い し 実 物 に 代 わ る 物 を 用 い て 練 習 を さ せ る こ と は、 計算の基礎を一般的に確実なものにし、それ以後の計算の進歩を過ちや混乱から守ることになる。 (四) 歩 く・ 立 つ・ 横 た わ る な ど 具 体 的 な こ と を 暗 誦 さ せ た り、 記 述 さ せ た り す る こ と に よ っ て、 あ ら ゆ る 概 念 を 次 第 に 明 瞭 に し て 行 く こ と、 ク リ ュ ー ズ ィ は 悟 っ た。 経 験 に 基 づ い て 言 い 現 す 力、 子 ど も た ち が 自 分 の 直 観 的 認 識 に よ っ て、 統 一 的 に、 確 実 に、 簡 潔 に 総 合 的 に 捉 え る た め の 能 力 を 獲 得 出 来 る に 違 い な い と い うことに、彼は気づいた。 (五) 直 観 か ら 湧 き で て く る 真 理 は 、 偏 見 や 誤 謬 が 人 間 の 魂 に 対 し て 苦 し い 弁 解 や 種 々 の 雑 多 な 策 動 を 無 用 に す る、というのは、そのような真理は、偏見や誤謬が人間の魂に侵入するのを、多くの面で自力によってく い止める力を人間に与えるからである。 (六) わ れ わ れ の 感 覚 を 通 し て 生 ま れ る 認 識 の 全 領 域 は、 自 然 に 対 す る 注 意 深 さ と、 我 々 が 認 識 し た も の を 熱 意 を持って採取し、保持しようとする熱意にかかっているものである 。 彼 は、 自 分 の 教 育 方 法 が、 《 自 然 と 調 和 し て い る こ と 》 を は っ き り と 認 識 し、 次 の こ と を 彼 に 完 全 に 確 信 さ せ る に至った。 「 す べ て の 知 識 の 基 礎 は 教 師( Schulmeister ) が、 た だ そ れ ら の 手 段 の 使 い 方 さ え、 学 ぶ な ら ば そ れ を 手 引 き と し て 自 分 自 身 も、 ま た 子 ど も た ち を も、 教 育 指 導( Unterricht ) に よ っ て 目 標 と さ れ て い る あ ら ゆ る 知 識 へ 高 め る ことができるように、それらの教育方法を結合することである。従って、このやり方によれば、子どもたにあらゆ る 知 識 の 基 礎 を 得 さ せ る た め に も、 ま た 両 親 や 教 師 を、 彼 ら に こ れ ら の 教 育 方 法 を 共 に 練 習 さ せ る こ と に よ っ て、 彼らに十分な内心の独立を得させるためにも、学識は必要ではなく、ただ常識とこの方法に習熟することだけが求 ( ) 21
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 められるだけだ。 」 さらに、このことに関連して、クリューズィは、学識ではなくてむしろ《健全な思慮分別》を持つことと、さら に子どもをあらゆる知識に導き得るような教育方法に習熟することである、という確信を持つに至ったのである。 クジューズィは、 ペスタロッチーに出会う前、 六年間も村落学校の教師(
sechs Jhre Dorfschulmeister
)として、 年齢も違う多くの子どもたちを指導してきたが、ペスタロッチーの学校のように、子どもたちが、その能力を確実 で柔軟に発達させる事例を知らなかった。 そこでクリューズィが気づいたことは、次の二点であった 。 第一に、最も簡単なことから始めて、これをわかり易く子どもたちにマスターさせ、徐々に前進させながら付け 加えていく、という原則は子どもたちの内面に、学びの喜びを目覚まさせ生き生きとさせるものなのだ。 第二に、読み方授業のさいにペスタロッチーが子どもたちに示す 「 ことば 」 や 「 絵 」 は、子どもたちにすぐ理解 できる単純なものであるからこそ、将来の判断や推理の確かな手かかりとなるということ。 《トーブラーが、ペスタロッチーから学んだこと》 トーブラーはバーゼルある名門の家庭で五年間も家庭教師していた。彼のこのような経歴と関連させて、ペスタ ロッチーの事業の状態に関して次のように語っている。 「 私 は 六 年 間 の 努 力 に も か か わ ら ず、 私 の 教 育 の 成 果、 自 分 の 期 待 し て い た と こ ろ ま で 達 し て い な い こ と に 気 づ い た。 子 ど も た ち の 内 的 な 諸 能 力 は、 私 の 努 力 の 割 り に は 向 上 し て い な か っ た。 ・・・・ 私 は こ の 時 代 の 最 善 の 教 科 書を用いた。それにもかかわらず、子どもたちの理解を越える言葉や概念に埋められていて、とうてい子どもたち の 力 と は な ら な か っ た。 ・・・・・ 私 は 自 分 の 幼 い 生 徒 に は 直 観 的 表 象( 例 え ば 絵 や 実 物 ) を 示 す よ う に、 ま た 年 長 の ( ) 22 ( ) 23
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 生 徒 に は 産 婆 術 的 方 法( durch Sokratisiren ) で 彼 ら に 明 瞭 な 概 念 を つ か ま せ る と い う 試 み を し て み た が、 言 語 認 識を着実に育てる本がないため、結局、両方とも成功しなかった。そして彼は、この自分の悩みや困惑が、決して 自 分 ひ と り の も の で は な い こ と を 知 り、 と く に 熱 心 な 下 級 学 校 の 教 師 た ち が、 こ の 点 に つ い て 感 じ て い る 困 難 さ は、二倍も十倍も重く彼らにのしかかってくるに違いない、と私は感じた。 」 トーブラーは、教育制度全体に及ぶこの欠陥を埋めるための方策を追求しようとするが、やがて彼が一生かかっ ても目標を達成する事は出来ないと感じていた。そんな時、彼はフィッシャーとの文通によって、ペスタロッチー の方法を知るのである。 そしてトーブラーはペスタロッチーが、自分のような体系的で学問的な方法によることなしに、自分の求めてい る目標に到達するかもしれないと感じた。それはペスタロッチーが既成の方法や技術には全く拘束されていないよ うに思われたからである。 とりわけ、トーブラーはペスタロッチーの方法における次の原理、すなわち「母親が、自然によって明確に定め られているその使命を再び果たせるようにと、母親を教育するというペスタロッチーの方法の原理が、彼を引き付 けたのである。彼自身の仕事もまた、まったく同じ原理から始められたものであった。 」 バ ー ゼ ル( Basel ) に 来 た ク リ ュ ー ズ ィ( Krüsis ) の 説 明 を 聞 き、 ま た そ の 実 地 の 授 業 を 見 る こ と に よ っ て、 そ れからまたクジュージが持参した若干の教材類に接することによって、トーブラーは、ペスタロッチーの方法が卓 越しているという信念をいっそう強くしたので、彼はためらう事なくペスタロッチーの申し出に応じた。ブルグド ルフに来て、トーブラーはやはり来てよかったと思った。 彼 は 言 っ て い る。 「 私 は ブ ル ク ド フ に 来 た。 そ し て 着 い た と た ん に、 こ の 始 め ら れ た ば か り の 仕 事 が 私 の 期 待 に ( ) 24 ( ) 25
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 添うものであることを知った。子どもたちの見るからにすばらしい、そして全面的に発達した能力、この能力を生 み 出 し た 教 育 方 法 の 素 朴 さ と 多 様 さ、 そ れ が 私 を 驚 か せ た。 こ れ ま で の 伝 統 的 な 教 授 法、 い っ さ い に 対 す る 彼 の まったくの無関心さ、彼が子どもに示す絵の素朴さ、彼の教育方法の内容はいくつかの部分にはっきり分かれ、そ れ が 別 々 の 機 会 に 積 極 的 な 方 法 に よ っ て 習 得 さ れ て 行 く よ う に 仕 組 ま れ て い た。 彼 の 教 育 方 法 の 内 部 分 類 の 見 事 さ、 複 雑 な も の、 混 乱 し た も の す べ て を 避 け、 あ ら ゆ る 力 の 強 化 を ひ た す ら 目 ざ す 彼 の 無 言 の 働 き か け、 ・・・・ と りわけ彼の教育方法のいくつかが、あたかも新しい創造物のように、人為的技巧と人間の本性という源から自然と わき出てくるように、私には思われたあの力強さ、これらすべてのものが、ひときわ強くわたくしの注意をひきつ けた。 」 ペスタロッチーが、このように多くの試みによって、子どもの内面に秘められている無限の可能性を開花させる こ と や、 こ れ ら の 方 法 の 実 施 を 促 し た と こ ろ の 根 拠 や 原 理 を 解 明 す る こ と を、 ひ た す ら 求 め て い る と い う こ と を、 とりわけ子どもの受容能力(感覚能力)一般の育成に係わって居るのだということが、トーブラーには深く理解出 来たのである。 さ ら に、 ト ー ブ ラ ー は「 彼( ペ ス タ ロ ッ チ ー) の 試 み が、 秀 れ て い る と い う 私 の 確 信 は、 日 毎 に 強 ま っ て き た。 ・・・・ 母 親 た ち が 自 然 に よ っ て は っ き り と 定 め ら れ た 使 命 を 再 び 果 た す こ と が で き る よ う に 教 育 す る こ と は、 実 際 可能であるという確信を持つに至ったのだ。 要 す る に、 私 は、 私 が 教 職 経 験 の 初 期 に 非 常 に 熱 意 で も っ て 私 の 内 か ら 培 っ た と こ ろ の、 経 験 を 重 ね る う ち に、 現代風の教育技術やら、教具、教材やらに圧倒されてほとんど失いかけていたところの信念を、つまり人類を高貴 なものにすることは可能であるという信念を、ここでの全体の印象によって、一貫して変わらなかったここでの見 ( ) 26
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 解 の 結 果 に よ っ て、 再 び 私 の 心 の 中 に 打 ち 立 て る に 至 っ た の で あ る。 」 と、 述 べ こ の ト ー ブ ラ ー の 言 葉 で も っ て、 第二の書簡は終わっている。 第三の書簡・・~回想、その三、 (一)有能な協力者たち 第 三 の 書 簡 で は、 親 友 ゲ ス ナ ー に 対 し て、 主 と し て ブ ー ス( Buss, Joh. Christoph ) の 紹 介 を し て い る。 ま ず、 ペスタロッチーは、冒頭次のように述べている。 「 今 度 は ブ ー ス の 意 見 を お 伝 え し よ う。 ゲ ス ナ ー 君 よ、 下 層 階 級 の 人 々 の な か に 潜 ん で い る 諸 能 力 に つ い て、 私 がどのように評価しているかは、あなたもご存じだ。ブースはまさに私のこうした意見を正当づけてくれる生き証 人だ。 」 さらに続けて、ゲスナーに語りかけている。 「 愛 す る 友( ゲ ス ナ ー) よ、 世 界 は 有 能 な 人 に 満 ち て い る。 だ が 有 能 な 人 間 を 掘 り 出 す 人 々 を 欠 い て い る の だ。 人間の有能さについての考えを自分自身の心のうちに閉じ込めてしまっているのだ 。」 つまり、ペスタロッチーは、恵まれない家庭の子どもたちや、間違った教育のためにせっかくの素晴らしい才能 を 発 揮 す る こ と の で き な か っ た 多 く の 人 々 の 上 に 思 い を 馳 せ て い る の で あ る。 ク ル ュ ー ズ ィ( Krüsi, Hermann ) やトーブラー( Tobler, Joh, Georg )、そしてブースの成長ぶりをみるにつけても、ペスタロッチーは古き教育の誤 りを痛感しないわけにはいかなかったのである。この彼の気持ちが第四の書簡以下における激しい旧教育の批判に つながってゆくのである。 ( ) 27 ( ) 28 ( ) 29
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 トーブラーは、少年時代、家が貧しくて勉強する機会がなかったが、二二歳のとき、突然、神学を志し、熱心に 書 物 に 取 り 組 ん だ。 生 活 の 糧 を う る た め に 家 庭 教 師 を し て 学 問 を 続 け た。 し か し、 彼 は や が て 身 に つ け た 知 識 が、 彼の人間としての発達にとっていかに無力であるかということを悟ったのであった。 そして、ペスタロッチーは、もしトーブラーが困難な初歩の基礎的学習さえやれば、彼が身につけている知識と 相俟って、上級学年の学習指導法の開拓に進む可能性があると、その才能の開花に期待しているのである。 さらに、クリューズィについては、ペスタロッチーは、その卓越した能力が 「 方法 」 を身につけることによって 初めて発揮され、申し分のない教師になったことを認めたのである。 (二)ブースの紹介 ブ ー ス は、 ド イ ツ の チ ュ ー ビ ン ゲ ン( Tübingen ) 生 ま れ、 父 は 神 学 校 に 勤 め 校 内 に 住 ん で い た。 す で に、 三 歳 の こ ろ か ら ラ テ ン 語 学 校 に 通 い、 八 歳 の 時 に ピ ア ノ を 習 い 一 二 歳 の と き に は 教 え ら れ る く ら い ま で 上 達 し て い た。 一一歳の時には絵を習いめている。こうして彼は一三歳になった時、進路を決めなくてはならない年齢になってい た。 両 親 の 希 望 は、 シ ュ ツ ッ ト ガ ル ト( Stüttgard ) に 新 設 さ れ た 学 芸 ア カ デ ミ ー か、 チ ュ ー ビ ン ゲ ン 大 学 に、 入 学をさせることであった。ブース自身も強始く進学を希望していた。ブースは当時のことを次のように回顧してい る。 「 こ の ア カ デ ミ ー は、 あ ら ゆ る 階 層 の 出 身 者 が、 有 料 で あ る い は 授 業 料 免 除 で、 入 学 を 許 可 さ れ て い た の だ。 し かし、私の両親の資力では、私の授業料を払うことはできなかった。そこでアカデミーに授業料免除で入学許可を 求 め た が、 こ れ は 学 長 自 身 の 署 名 入 り の 拒 絶 の 通 知 と 一 緒 に 送 り 返 さ れ て 来 た。 そ の 拒 絶 の 通 知 は、 中、 下 層 市
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 民、農民層子弟をすべて大学進学から締め出す規定だった。それと共に、私は大学進学の意欲もすっかり消滅して しまった。そして私は自分のすべての力を絵画に注いだ。しかし、それも半年あまりで出来なくなった。製本工場 の徒弟として働かなければならなかった。一生懸命手仕事に打ち込んだ。私は少年時代の夢にまつわる思い出の一 切を、私自身の心から消し去るために、夢中で働いた。それは、言いようもなく悔しく不満だった 。」 ブースは、下層階級の出身だからという理由だけで、教育を受ける道を閉ざされ、少年時代の大部分をその実現 のために費やした希望や抱負を彼から奪い去った権力の横暴に対する激情が募ってくるのを、ブース自身どうしよ うもなかった。 彼は旅に出た。しかし、彼の心は少しも癒されなかった。転々と仕事を変えるなかで、音楽や絵をもっと練習し た い と 思 っ た。 そ う し た 時、 「 私 は ト ー ブ ラ ー と 知 り 合 い に な っ た。 ペ ス タ ロ ッ チ ー が 新 し く 構 想 し て い る 教 授 方 法には、図画と音楽の分かる人間が必要だと、クリューズィが言ったとき、トーブラーはすぐに私のことを思い出 してくれたのだ。 」と 、ペスタロッチーとの出会いを述べている。 (三)ペスタロッチーとの出会い ブースは、ペスタロッチーがどんな人であるのか、自分で確かめようとして、ブルグドルフにやってきた。ペス タロッチーに始めて会ったときの印象をこう語っている。 「 初 対 面 の ペ ス タ ロ ッ チ ー は、 や は り 私 の 想 像 し た 通 り だ っ た。 ズ リ 落 ち た 靴 下・・・ そ れ は 見 る か ら に 埃 っ ぽ く、ひどくほころびてた・・・、彼は二階の部屋から私の方に降りて来た。この瞬間に私の受けた感じは、それを 表 現 す る 言 葉 を 知 ら な い ほ ど、 彼 の 姿 は い た わ し い と い う 感 じ だ っ た。 ・・・・ こ の 人 が ペ ス タ ロ ッ チ ー な ん だ、 目 ( ) 31 ( ) 31
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 の前にいる人が! その人の良さ、初対面を喜ぶ彼の様子、その偉ぶらない態度、その素朴さ、そして、私の前に 立つそのボロ姿、これらすべてが、たちどころに私を魅了してしまった。今までこんな感動させられた人に会った ことがなかった。また、これ程私に信頼の気持ちを起こさせた人もなかった。 」 (四)ブースの学んだこと ペスタロッチーとの出会いによって、ブースは多くのことを学んだ。 「ペスタロッチーの《直観のABC》とは、 《線( Linie )、 角( Winkel )、 弧( Bogen )こそ、 図画の基本である》 、 と言ったとき、ペスタロッチーが何を言おうとしているのか、全く解らなかった。ペスタロッチーは、それを説明 しようとして、私にこう言った。 《人間の精神は図画においても、曖昧な直観から明瞭な概念へと高められなければなりません》 。」 この原則がこそが、ペスタロッチー教育方法の根本であった。 ブースは、また次のように述べている。 「 私 は、 自 然 の 歩 み と 完 全 に 一 致 し て い る と い う こ と、 ま た、 Kunst ( 方 法 ・ 技 術 ・ テ ク ニ ッ ク ) と 言 う も の が、 人間の素質の発展を本質的に促進する仕方で、人間の精神に対して働きかけるように、自然を仕向けるためのもの で あ り、 そ の 限 り に お い て 方 法( Kunst ) は 必 要 で あ る、 と 言 う こ と を 理 解 し ま し た。 《 直 観 の A B C 》 は、 直 観 の 対 象 或 い は 教 授 術( Kust ) の 対 象 に つ い て、 正 確 な 言 語 表 現 を 子 ど も に 与 え る も の で あ る と い う こ と、 そ し て この言語表現の習得に比例して、子どもは対象を正確に認識したり、比較することが、だんだんと厳密に出来るよ ( ) 32 ( ) 33
ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 うになることを私は知ったのだった。さらに、この方法が他の教科においても、算数や言語についても全く同じよ うに有効であることを知った 。」 ペスタロッチーの方法は、その効果を人間の精神に及ぼして、子どもに自助の能力、つまり自主的に学習して行 く能力を育むものであるという確信をブースは持つのである。 「 ペスタロッチーの《方法( Die ganze Methode )》の一切は、初歩点という糸口を握ってしまいさえすれば、誰 にとっても遊戯のようにやさしいもので、もう迷路に踏み込むことはありえないのだ。 」 さらに、ブースは、最後に言っている。 「 私 は こ の 方 法 を 知 っ た お 陰 で、 少 年 時 代 の 明 る さ と 力 を、 再 び 取 り 戻 し た。 そ れ に、 私 は ず っ と 以 前 か ら、 夢 と思っていたところの希望( Hoffnungen ) 、この私や、人類にとっての希望が再びよみがえってきた。 」 ペスタロッチーは、彼の弟子とも言えるクリューズィ、トーブラー、ブースと共に伝統的学校教育における階級 的特権を批判し打破して、教育の門戸を広く民衆一般に、解放し、下層階級の子どもでも学べる民衆教育の具体的 実現に取り組んでいったのである。 (五)新たな教授法の開発 その成果は、一八〇〇年の夏、大臣( Stapter, P. A. 1766-1840 )の肝入りで出来た「教育の友の会」は、ペスタ ロッチーの民衆教育の「方法」について調査し、その報告書を提出している。 「 わ れ わ れ が 第 一 に 気 づ い た こ と は、 ペ ス タ ロ ッ チ ー の 学 校 の 子 ど も た ち が、 驚 く ほ ど 速 や か に、 ま た 極 め て 完 全 に《 綴 る こ と 》《 読 む こ と 》《 書 く こ と 》《 計 算 す る こ と 》 を 学 習 す る こ と で あ っ た。 か れ ら は そ れ ら の 教 科 に お ( ) 34 ( ) 35 ( ) 36
武蔵大学人文学会雑誌 第 44 巻第 1・2 号 いて、どこの村の学校教師でも三年かかって彼等を高めうる段階まで、わずか半年で達することが出来た。 ・ ・ ・ ・ しかし、われわれは、教師その人がこの驚くべき現象を引き起こしたとは思わなかった。われわれは教授法そのも のに原因があると考えた。では、この教授法の本質は何か、それは自然にのみ援助を求め、自然を真の教師とする ところにある。いくらか学問的に表現するならば、こんなふうに言ってもよいだろう。すなわち、この教授法の本 質は、ただ直観のみから出発して、子どもを次第に、そして自ずから抽象概念に導いてゆくところにあると。この 教授法には、もうひとつの長所がある。どんな場合にも決して教師というものを優れたものとは認めさせないとい う 点 で あ る。 つ ま り、 教 師 は、 決 し て よ り 高 い 種 類 の 人 間 で は な く、 愛 す べ き 自 然 の ご と く、 子 ど も と 共 に 存 在 し、生活すること、あたかも自己の同輩に対するが如くであって、子どもに何かを教えるというよりも、むしろ子 ど も か ら 学 ぶ よ う に 見 え る、 と い う こ と だ。 」 と、 ペ ス タ ロ ッ チ ー の 愛 弟 子 で あ っ た ド ウ・ ガ ン( Roger de Guimps 1812-1894 )は、 『ペスタロッチ伝、その生涯と思想』のなかで述べている 。 さて、ペスタロッチーは、第三の書簡の終わりに次のように述べている。 。 「 わ た し は こ こ に 次 の 一 言 だ け 言 い 添 え て お か な け れ ば な ら な い。 こ の 方 法 を 知 っ て、 わ た く し は 青 年 期 に も っ ていたあの快活さと力強さとを大部分再び取り戻すことができ、わたくしが長い間かつ今日まで夢と考え、躍る胸 を抑えながら棄てさろうとしてきた希望、あのわたしと人類との希望もふたたび甦ってきたということだ 。」
四、
『知識の陶冶』その一、
(第四・五・六の書簡)
第四の書簡・・・・・・本論~その一~ 第四の書簡から第六の書簡まで、本書の総論であり最も重要な部分である。すなわち、ペスタロッチーはこの書 ( ) 37 ( ) 38ゲルトルート児童教育法の考察 黒澤英典 において何よりもまず民衆教育の解放のために全力を尽くしている。 (一)授業改革(教育改革) ペ ス タ ロ ッ チ ー の 直 接 見 た 当 時 の 学 校 は、 子 ど も が 入 学 す る と 同 時 に、 彼 ら を 文 字 の 世 界 に 引 き 入 れ、 そ れ に よって「直観なき概念」の世界に導き込み、しかも学校生活が終わるまでその中に閉じ込めて置くが、それがペス タロッチーには、許すべからざる犯罪だと思われた。教育は子どもたちにとっては苦心惨たんたるもので文字の学 習から始められ、最後にはキリスト教問答書の機械的な読みと無理解な暗唱とが強制される。それはまさに、わが 国の第二次世界大戦前の天皇制国家主義教育体制下における小学校で『教育勅語』を暗記したように、ペスタロッ チーはこの非教育的な学校を激しく呪った。 ここでは、彼の仕事を歴史的に評価するため極めて重要な叙述が含まれているばかりでなく、特に第四の書簡に は、この書で最も強く読者に感動をさそう部分がある。 彼は、まず自己自身の《授業改革》ということの歴史的意義を次のように説明している。 「 シ ュ タ ン ツ を 去 っ て か ら と い う も の、 あ ん な ふ う に し て 追 い 払 わ れ、 疲 れ 気 っ て い た も の だ か ら、 私 の 昔 な が らの民衆教育計画の理念( die Ideen meiner alten Volkserziehungspläne )さえ私自身のなかで萎縮し始めていた」 。 一 九 世 紀 初 頭 の こ の 時 代 は、 啓 蒙 思 想 の 影 響 の も と に 民 衆 の 間 に 教 育 へ の 期 待 が 溢 れ て い た。 し か し、 高 等 教 育、中等教育そして、初等教育さえも、民衆はひじょうな熱意でもってこれを支持し、推進しようとしていた。 ル ソ ー( Jean. Jacques Rousseau 1712-1778 ) の『 エ ミ ー ル 』( Emile ) や そ の 強 い 影 響 の 下 に あ っ た 汎 愛 派 の バ ( ) 39