銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦
はじめに
過去百年の間に、日本人の食事方法は大きな変化を遂げた。即ち、銘々膳での食事から、ちゃぶ台への食事、そし てダイニング・テーブルでの食事へ、という変化がそれである。このうち、ダイニング・テーブルへの移行は、畳や 板の間の上に平座して食事をする様式から、椅子座への移行に連動するものであり、日本人の生活史にとっても一大 変化であった。この重要性はいくら強調てもしすぎるということはない。しかしながら、食事方法、とりわけ食物の 分配方法や座順という点では、銘々膳からちゃぶ台への移行の段階において、大きな変化が起こっていた。ダイニン グ・テーブルでの食事は、座法を別にすれば、ちゃぶ台での食物の分配方法や座順をそのまま受け継ぐものでしかな かった。しかしながら、こうした過程を克明に記録し、その意味するものを分析した研究というのは、それ ほ どない。 本稿は、銘々膳からダイニング・テーブルへの移行過程のうち、特に銘々膳からちゃぶ台への移行にともなう、食物銘々膳からちゃぶ台へ
西
澤
治
彦
─
日本人の食事方法の歴史的転換点─
の分配方法や座順、食事作法、家庭内の人間関係の変化などについて論じるものである。 なお、私がこの主題で論文を書くに到るまでの、経緯について簡単に述べておきたい。私の食事文化に対する関心 は、中国人の食事方法について書いた学士論文まで遡る。その後、筑波大学大学院に進み、一九八一年に提出した修 士論文では、中国の事例に、朝鮮と日本の事例を加え、広く東アジアの食事方法を論じた。さらに、同時代だけでな く、歴史的な変遷の再構成をも試みた。日本の事例を加えることができたのは、大学院にて日本民俗学を学ぶことが できたことが大きい。文献研究に加え、調査実習や市史編纂の一環として、複数の地域で食習慣に関する調査をする ことができたのは収穫であった。また、韓国を訪問し、そこで目にした食事方法も修士論文に反映させることができ た。 その後、南京大学に留学する機会(一九八五─八七年)を得、私の関心は中国社会の人類学的な研究へとシフトし ていった。しかしながら東アジアにおける食事文化に対する興味が消えることはなく、中国食事文化に関する論文も 書き続けた。そして、博士論文を執筆するに際し、再び食事文化を主題に選んだ。二〇〇二年に提出した博論では、 修論のなかの中国の部分をさらに発展させ、中国における食事方法の歴史人類学的な研究を行った。この博論では中 国 が 主 題 で あ る た め、 日 本 や 朝 鮮 の 事 例 は 比 較 の 対 象 と し て 言 及 す る に と ど め た。 そ の 後、 博 論 に 手 直 し を 加 え、 二〇〇九年になって博論を出版することができた。これにより、中国食事文化の研究に一つの区切りがついた感があ るが、やり残してきた問題もある。その一つが、未発表のままとなっていた、日本における食事方法の歴史的な研究 というわけである。
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦
問題意識
このように、私の食事文化への関心は、中国から始まっている。従って、日本における食事方法を調査、分析する に際しても、常に中国での研究で得られた知見が念頭にあった。中国の食事方法を歴史的に概観するならば、古代は 「席」に平座し、 「案」と呼ばれる銘々膳で食事をしていた。ところが魏晋南北朝のころから、西アジアから椅子と卓 がもたらされ、宋代には ほぼ平座から椅子座への生活に移行する。これにともなって、案から卓での食事に変化して いき、今日、我々が知る中国料理の食事方法の基礎が確立される。 椅子は平安時代に貴族の間で使われたし、鎌倉時代の日本にも禅僧を通してもたらされるが、定着することはなく、 日本人が椅子座の生活に移行するのは明治以降のことであった。もっとも、現在も日本人は平座を完全に放棄はして おらず、平座と椅子座の併存期間のなかにある。 明治以降、食事方法にも大きな変化が起き、銘々膳からちゃぶ台を経て、ダイニング・テーブルでの食事へと変わ っていった。ところでこの変化は、実はすでに宋代の中国人が経験したものであった。逆に言うと、日本人が経験し た椅子座への移行にともなう食事方法の変化を知ることは、宋代の中国で何が起こったのかを知る手がかりともなる。 このように、過去百年間の日本における座法と食事方法の変化は、東アジアの歴史地理的な視点から見ると、非常に 興味深いものなのである。 こうした視点は、修論を執筆した時点から持っていたが、博論では中国が主題であったため、この点を十分に論じ ることはしなかった。そこで、修論以来、気にかけていたこの問題をとりあげ、改めて論じてみたいと思う。 修論を執筆した段階では、青森県下北郡脇野沢村、新潟県岩船郡山北町、茨城県古河市及び福井県坂井郡丸岡町で聞き書き調査を行っていた。これらの調査では、それまでの民俗誌に記述されることの少なかった、食物の分配方法 や、座順、食事作法といったものが、銘々膳からちゃぶ台に移行するに従って、どのように変化していったのか、と いう問題意識から話をうかがっている。 分配方法の中で特に私が確認したかったのは、第一に、箱膳などの銘々膳で食事をしていた当時、家庭の日常の食 事 に お い て、 取 り 分 け て 食 べ る と い う こ と が 本 当 に な か っ た の か、 と 言 う こ と で あ っ た。 と い う の も、 日 本 で は、 銘々膳の段階では各自の膳や器にあらかじめ食器と料理が盛られていて、ちゃぶ台やダイニング・テーブルに移行し たことによって、取り分けて食べる様式が可能となった、と一般に考えられているからである。規範としては確かに その通りであるが、家庭における日常の食事でも果たして本当にそうであったのか、ということに疑問を持っていた。 第二点は、二つの分配方式が併存している場合、どのような時にどちらの方式にスイッチするのか、という疑問で ある。これはフォーマリティーの問題でもあり、日本民俗学の概念でいうと、ハレとケの問題と言うことができよう。 第三点は、銘々膳からチャブ台、テーブルへと移行していく過程で、座順にどのような変化が起きたのか、という 問題である。これは家屋の構造とも関係してくるが、座順の変化はそのまま家庭内の人間関係の変化を表している。 第四点は、食べ始めと食べ終わりに、どの程度、同時性が求められていたのか、という問題である。これもフォー マリティーの問題ともかかわってくるが、この問題意識には、厳格な同時性(特に食べ終わり)が求められていない 中国での食事方法との比較の意味合いがある。 第五点は、食器に関わる問題である。即ち、食器に男女の区別があったのか、子供用の食器があったのか、食器の 個人所有はあったのか、という問題であるが、これも男女や子供用の食器というのがなく、且つ、個人所有もない中 国との比較が背景にある。
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 と こ ろ で、 銘 々 膳 か ら ち ゃ ぶ 台 へ の 移 行 の 問 題 に 関 し て は、 修 論 執 筆 以 降 に、 新 し い 展 開 が あ る。 一 つ は、 一 九 九 〇 年 に、 『 日 本 の 食 文 化 ─ 昭 和 初 期・ 全 国 食 事 習 俗 の 記 録 』 と 題 し て、 昭 和 初 期 の 調 査 記 録 が 公 開 出 版 さ れ た こ と で あ る。 こ れ は、 昭 和 一 六 年 か ら 一 七 年( 一 九 四 一 ~ 二 ) に か け て、 「 民 間 伝 承 の 会 」 が『 食 習 採 集 手 帳 』 の 質 問項目に従って、全国五八カ所で、聞き取り調査をおこなったものの報告書である。 もう一つは、石毛直道(一九八四・一九八九・一九九一・二〇〇五)や井上忠司(一九八八)らの研究がそれであ る。 特 に 石 毛 直 道・ 井 上 忠 司 編 の『 現 代 日 本 に お け る 家 庭 と 食 卓 ─ 銘 々 膳 か ら チ ャ ブ 台 へ 』( 一 九 九 一 ) は、 こ の 問 題 を 正 面 か ら 扱 っ た 調 査 研 究 で あ る。 こ の 報 告 書 に 収 め ら れ て い る 聞 き 取 り 調 査 の「 資 料 編 」 の 情 報 は、 『 日 本 の 食 文化─昭和初期・全国食事習俗の記録』同様、非常に貴重である。これは共同研究のメンバ ーが関係する大学の学生 ら に 依 頼 し て 行 っ た も の で は あ る が、 『 食 習 採 集 手 帳 』 よ り は 調 査 項 目 が 食 事 方 法 に 特 化 し て い る こ と に く わ え、 調 査を行った学生も実家や地元の親族に聞き書きをしているため、多くの情報を引き出すことに成功している。事例は 日本各地に及ぶが、どちらかというと西日本に偏りがあるこれらの資料を踏まえて、本書では数量的、質的な分析が 試みられている。 この二冊の刊行によって、この問題は大きな進展を見せたことは間違いない。しかしその一方で、まだ研究の余地 は残されているようにも思える。というのも、質問票による調査は短時間で日本各地で調査を行うことができるとい う利点があるが、質問者は与えられた項目を埋めているだけで、個人的に知りたいこと、確認したいことがあって聞 いているわけではない。その結果、話者とのより深い質問の応酬に欠けるきらいがあり、物足りない部分もあるから である。特に話者の生業や、社会的地位とか家庭内の人間関係などと食べ方との関係などといった問題への展開が少 ないように思われる。
とはいえ、この二冊の資料は、現在となっては極めて貴重な資料である。というのは、もやは誰も聞き出すことの できない内容だからである。これらの資料が提供している情報量は膨大な量になり、詳細な分析には多大な時間と労 力がかかる。従って、この作業は今後の課題とし、これらの新しい展開を視野に入れつつも、本稿ではその前段階と して、主に私自身の未公開の調査資料をもとに、私なりに問題点を改めて整理しておきたい。考察の部分は、博論執 筆によって得られた中国での食事方法の知見を生かしながら、修士論文で書いた内容を大幅に書き改めている。
調査から
( 1 )青森県下北郡脇野沢村 調 査 地 は、 脇 野 沢 村 の 九 艘 泊、 芋 田、 蛸 田 な ど の 漁 村 部 で、 調 査 は 一 九 七 九 年 一 二 月 に 行 っ た。 従 っ て、 文 中 の 「今」は調査時の一九七九年を指す(以下、他地域での調査も同様) 。 〈食台について〉 箱膳からちゃぶ台へ移行したのは、大正から昭和にかけての頃で、箱膳はもう誰の家にも残っていないと言う。当 初のちゃぶ台は折りたたみ式の円形で、近くの大工に作ってもらったもので、後に売り物の四角の食台が入るように なった。 食事は、炉(といっても一九六五年頃より、薪ストーブに改造されているが)のあるダイドコロで、ちゃぶ台を使 って、平座してなされていた。ダイドコロに畳が敷かれるようになったのは、やはり大正から昭和にかけてであり、 それまでは板の間にクラ ゴ ザを敷いていた。銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 〈食器について〉 陶器の食器が入るようになったのは、大正の初め頃で、それ以前は木製であった。現在使われている基本的な食器 には、各人用のものとして、ご飯茶碗、三平皿、小皿、共同のものとして、どんぶり、大皿などがある。三平皿は深 めの中皿で、鮭などの魚のアラと野菜を塩味で煮た三平汁などを盛るのに使うが、今ではどんぶりを使う家が多くな ってきているという。汁碗が各人の食器に加えられていないが、これは味噌汁を作らなくても、三平汁などの汁気の ものがあり、三平皿が汁碗の役目を果たしているからだという。 漆塗りの椀を使ったのは、祝い事の時か、特別の来客があった時のみであった。もちろん、今日では汁椀も普及し ているが、まだ家によっては、汁椀を使うのは朝食のみで、あとは三平皿を使っている例もある。魚が入っている汁 だと、椀では小さすぎるとのことであった。 子供用にと、小さなご飯茶碗を買い与えることはあるが、こうした子供用を除いては、食器の個人所有は一般に見 られない。但し、家によっては主人だけが大きめのご飯茶碗と長めの箸を使っている例がある。また一般に、茶碗、 箸とも、男もの、女ものの区別も見られない。 〈食べ方〉 朝食は、家族全員が揃って一緒に食べることは少ない。特に漁の忙しい時は、家を出る時間が家族まちまちなため、 一同揃うことはまずない。昼食は、各自仕事場や学校で食べる。夕食は、一緒に食べる機会が多いが、子供など腹が 減っていれば先に食べることはある。また、一緒に食べていても、人よりも早く食べて、先に席をたっても構わない という。 主婦の仕事は、家事の他、男と同じように力仕事もするし、婦人会の仕事もあり、多忙を極める。従って、食事に
関する主婦の仕事というのは、主に料理を作るまでで、食べる段階まで皆の世話をしなければならない、ということ ではない。漁などで忙しい時は、子供でも自分で料理を温めるし、主婦が忙しい時は、主人が自分で盛りつけもする。 ちゃぶ台での食事は、取り分けが基本であり、各自の食器に主婦があらかじめおかずを盛りつけてから皆が席につ く、ということはない。汁物などは、昔は(家によっては今も)鍋のまま、鍋台の上にのせて食台の上に置いた。ま た、昔は大どんぶりというのがあって、これに漬け物や酢の物などを盛った。刺身なども各自の刺身皿に盛りつける こ と は せ ず、 大 き な 刺 身 皿 に 盛 り、 中 央 に 置 く。 ( 各 自 の 皿 に 分 け た 場 合、 食 べ な い の に 醤 油 を か け た り し て も っ た いないとのこと)但し、焼き魚の場合は、大皿に重ねて盛ると、取るときに皮がはげるので、これは各自の皿に盛る。 角形の皿は新しい形で、昔は楕円形であったという。 このように、家庭における日常の食事は、取り分けが基本であるが、但し、数人の来客があった場合と、手伝い人 ( 一 ~ 二 月 の 鱈 漁 の 時 な ど に 頼 む ) に 食 事 を 出 す 時 は、 客 扱 い し て、 各 自 の 小 皿 に 盛 り 分 け る。 そ の 際、 家 族 の 者 も これにならって、各自の小皿に料理を盛り分ける。客に対して小皿に盛るのは、大皿やどんぶりからの取り分けでは、 客が遠慮するからだという。 なお、配膳の際、魚の頭は向かって左に向ける。ご飯茶碗は汁椀の左側に置く。またちゃぶ台の上に食器をずっと 置 い て お く と き は、 ( 埃 で 汚 れ な い よ う ) 碗 類 を 逆 さ に す る が、 食 べ る 直 前 に 配 膳 す る 時 は、 逆 さ に し な い。 こ れ は 逆さにすると、口を付ける部分が食台に触れて汚いからだという。 家 族 だ け の 食 事 で は、 【 図 1 】 の 如 く、 ヨ コ ザ と 主 婦 の 座 と の 間 に ち ゃ ぶ 台 を 置 き、 主 人 は ヨ コ ザ に 座 っ た ま ま 向 きを変えるだけでいい。これは、朝夕の食事の支度をする時にだけ薪ストーブを使う、夏場でも同じである。
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 「いただきます」 「ごちそうさま」という言葉は、今も昔もあまり使わない。 そ の 代 わ り、 主 人 が 子 供 ら に「 メ シ 食 え 」 な ど と 言 う。 「 い た だ き ま す 」 な ど と言うと、何となく気取っているようで、照れくさいとのこと。 〈来客がある場合〉 来 客 が あ る と、 【 図 1 】 の 如 く、 キ ャ ク ザ 側 に 客 用 の 食 台 を 置 く。 客 が 一 人 で、親しくしている人であれば、家族と同じ食台で一緒に食べることもあるが、 普通は別々の食台を用い、一つの食台に家族と客が同席することはない。これ はあくまで客を客として扱うためであり、家族と同席して食べるのはかえって おかしいという。来客があると、主人は客用の食台の方に向いて座る。客用の 食台がキャクザ側に置かれるのは、そうすれば客もわざわざ反対側まで歩いて いかなくても、食台につけるからだという。主婦は客の食台におはちを出すだけでよく、客の接待は主人がやる。な お、時間によっては、客に先に食事を出し、家族が客と食事を共にしないこともあるという。 〈共同飲食〉 部落の者が集まって共同飲食するのは、結婚式、葬式、新築祝い、船の新造祝いなどである。こうした振る舞いの ため、九艘泊には、部落共有の什器がある。二〇〇年は経っているという本膳のセット二〇人分と、補充した二の膳 セット二〇人分で、 ババ ドの小屋に保管され、婦人会を引退した ババ さんらが管理している。使用料は二~三〇〇円 だが、近年は膳を使う代わりにちゃぶ台を用いることもあり、利用は少なくなってきている。また膳を使う場合でも、 自分の家のや、近所から借りてきた会席膳で済ませることもあり、最近の使用状況は年に一~二回程度であるという。 イロリ 主婦の座 主人 流し ダイドコロ 家族用の飯台 来客があると客 用の飯台をここ に出す 入口 主婦 キャクザ 客 キノシリマ ヨコザ 【図1】ちゃぶ台の配置と座順
( 2 )新潟県岩船郡山北町 調 査 地 は 山 北 町 の、 半 農 半 林 で あ る 山 村 の 中 継 で、 一 九 八 〇 年 の 二 月 と 七 月に行った。 〈調理、及び食事の場所とちゃぶ台〉 戦 前 は ジ ロ だ け で 料 理 し た が、 戦 後 に な っ て カ マ ド が 入 り、 現 在 は プ ロ パ ン ガ ス が 普 及 し て い る。 日 常 の 食 事 は ジ ロ の あ る ダ イ ド コ ロ で 平 座 し て 行 わ れ た。 板 の 間 の 上 に ウ ス ビ を 敷 き、 オ ゼ ン( 膳 ) で 食 べ て い た。 オ ゼ ン は 昔 は足が高かったが、後に低くなったという。 昭 和 三 〇 ~ 三 五 年 を 境 と し て、 板 の 間 に 膳 を 並 べ る 様 式 か ら、 ち ゃ ぶ 台 が 普 及 し 始 め る。 ち ゃ ぶ 台 は 当 初 は 近 く の 大 工 に 作 っ て も ら っ た も の で、 丸 形 だったという。ちゃぶ台の普及と前後して、 ジロが薪ストーブに改造され、 ダ イ ド コ ロ の 板 の 間 に 畳 を 敷 く よ う に な っ た。 但 し 薪 ス ト ー ブ と い っ て も 調 理 も 可 能 で あ る。 こ う し て、 薪 ス ト ー ブ と 畳 と ち ゃ ぶ 台、 と い う 組 み 合 わ せ が 誕 生 し て い く。 も っ と も 現 在 で も 畳 を 敷 か ず、 う す び を 敷 い て い る 家 も 多 い。 こ う し た 変 化 は 日 本 全 国 で 起 こ っ た も の で あ る が、 中 継 ぎ で は こ の 変 化 は 比 較 的 遅 く 起 こ り、 調 査 当 時 で も、 年 寄 り の 中 に は オ ゼ ン で 食 べ て い る 人 が 数 人いた。 昭 和 四 五 年 頃 よ り、 新 築 の 家 で は 石 油 ス ト ー ブ が 普 及 し て い く が、 多 く は オゼン(昔は高足) ちゃぶ台(当初は丸型) ジロ 板の間+ムシロ ウスビ タタミ 薪ストーブ 石油ストーブ テーブル(村で4 ∼5戸) 30∼ 35 昭 45∼ 50 昭 【図2】ジロと食具の変遷
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 薪ストーブである。昭和五〇年頃より、ダイニング・テーブルが、やはり 新築の家で食事の時に使われ出しているが、約一〇〇戸ある村で、五~六 戸であるという。ダイニング・テーブルの場合を除き、畳のある奥のチャ ノマで食べるのは、正月や盆、結婚式、葬式などの振る舞いの時に限られ る。 〈座順〉 ダイドコロにおける各人の座るべき位置は、昔も今も厳格に守られてい る。 主人は常にヨコザに座る。ヨコザに座れるのは、神主や本家のオヤジを 除いては、主人しかいない。うっかりとヨコザに座るべきではない人が座 ってしまうと、周りの者が冗談で「サー、オラ知らネード、米持って来な きゃ」などと言ってからかう。 ジロにおける座位決定のメカニズムであるが、ダイドコロのジロの座位 は、普通、チャノマでの座位と並行関係にある。そこでチャノマにおける ヨコザの決定法であるが、ヨコザは神棚に背を向けたり、面と向かったり はしない。そして残された二つの座のうち、どちらがヨコザになるかは、 ダイドコロ、出入り口との関係で決まる。即ち、ダイドコロと反対側(ダ イドコロからみて奥)の方が、ヨコザとなるようである。 【図3】間取りの一例と座名 イロリ チャノマ (畳) イロリ ババザ ダイドコロ (板の間+ウスビ) 流し 神棚 キャクザ ヨコザ ヨコザ シタザ
〈オゼン・ハコオゼンについて〉 話者が子供のこと(昭和の初め)は、タカオゼンで食べていた。当時は黒塗りのオゼンが多かったが、後に朱塗り になったという。 分家の時に、普段自分の使っていたオゼンを分けてもらうが、本膳は分けない。嫁が嫁入りの時に自分のオゼンを 持 参 す る こ と は な い。 「 嫁 を 送 る と き は、 オ ゼ ン、 ツ ギ カ ゴ ( 裁 縫 箱 ) を つ け て や ら な い も ん だ 」 と よ く 言 う。 そ の 理由は、嫁がこれらを見ると実家に帰りたくなってしまうからだという。 一人前になると、親がいいオゼンを買い与えたりするが、子供のオゼンはあり合わせのオゼンを修理して与えた。 足のもげたオゼンもあった。子供用には、三本足の丸いオゼンもあったが、轆轤物ではなかった。丸いのは全て子供 用だった。このように、オゼンはそれぞれ買う時期が異なるので、それぞれ形、模様などが違っていて、各人のが決 まっていた。 ハコオゼンは見たことのない人が多いが、ある話者は、親がタカオゼンで食べていた当時、子供らがハコオゼンで 食べていたという。またある話者は、自分が子供の頃、おじいさんがハコオゼンで食べていたという。ハコオゼンと いっても、ケヤキの溜塗りの高価な物で、はじめは引き出しのついている物を使っていたが、次に、これに飽きたの か壊れたりした後に、引き出しのない物を買ったという。おじいさんは村でも物好きな人だったようで、町ではやっ ていたのを買ってきたらしく、家の中ではおじいさんだけが、ハコオゼンを使っていた、とのことであった。その話 者 は、 子 供 心 に、 「 じ い や に な っ た ら こ ん な い い オ ゼ ン で 食 う の か な 」 と 思 っ た と い う。 当 時、 中 継 ぎ で ハ コ オ ゼ ン を使っていたのは、 2 ~ 3 人だったという。
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 〈堀の内の漆屋さんの話〉 山北町に一軒だけあり、町中の什器を供給してきた、堀の内の漆屋さんの話を紹介したい。先代が子供の時に、会 津若松に修行に出て、山北で開業、話者も親から習ったという。オゼンは自分で作り、漆を塗っていた。 バ アさんが 注文を取りに歩いていたが、この 2 0 年くらい前からオゼンは作らなくなった。仕事もなくなったし、オゼンという のは全く手間のかかるもので、たとえ今、一〇や二〇の注文があっても忙しくて作れないと言う。但し、今でも大工 の作ったオゼンを持ち込まれ、漆を塗ることはある。今は、建築材料(科学塗料)の仕事が多いという。 会津あたりから売りに来ていたオゼンは、安いので売れるが、そういうのは二枚板物が多く、長く使っていると塗 りがはげてきたりした。うちは地元なので、変な物はつくれなかった、という。 今まで作ってきたオゼンの種類をあげてもらった。 本膳─一尺一寸~五分。黒の花漆。本来なら結婚式用は内が朱。二の膳、椀付き。本膳は、結婚式、葬式のみに使う もので、これを持てる家は、本家というよりは、財産家に限られていた。 会席膳─一尺二寸が上限。本膳よりは低く、客膳よりは高い。ケヤキの花塗り。 客膳─一尺一寸。朱の花塗り。 普 通 膳 ─ 一 尺 五 分。 五 葉 松 の 地 肌 を 出 す 溜 塗 り で、 サ ツ キ の 時 の 振 る 舞 い に よ く 使 わ れ た。 ( 昭 和 二 五 年 当 時 で 二八〇円、今の一万円に相当)中継ぎにはこの膳が多く残っているはずだという。これは飽きたら、花塗りに変える こともできた。 吸い物膳─曙塗りなどの模様塗り。会席膳の二の膳として使う。従って、会席膳よりは低い。客に酒の肴など簡単な ものを出すときにも使う。
二枚足膳─下駄のように、足が二枚の板でできている。旅館などでよく使われていた。 丸膳─子供用。修理を頼まれたことはあるが、作ったことはない。 中継で見られる昔のオゼンの殆どは、普通膳であり、漆屋さんの話と一致している。 〈オゼンでの食べ方〉 オゼンは、各自のご飯茶碗、汁椀、小皿などとともに、ダイドコロの隅にある戸棚にしまってある。オゼンを並べ るのは、嫁か バ アチャンの手の空いている方がする。男衆は並べないが、食後、オゼンを戸棚に上げるときは、人に やってもらう主人を除いて、男衆もする。 オ ゼ ン に あ ら か じ め 盛 り つ け る の は、 魚、 煮 物 ぐ ら い で あ っ た。 母 親 が「 マ マ で き た が、 た べ れ ー」 と 言 っ て、 皆 が 集 ま っ た。 ご 飯、 味 噌 汁 は 主 婦 が 盛 る と は 決 ま っ て お ら ず、 主 人 で も、 近 く に お は ち や 鍋 が あ れ ば、 自 分 で 盛 る。 お は ち や 鍋 を、 盛 り 終 わ っ た 人 が 隣 へ 滑 ら す、 と い う や り 方 も あ っ た。 子 供 も、 小 学 校 に 入 れ ば、自分で盛る。小さい子供は母親が世話をする。 「 い た だ き ま す 」 な ど と は 言 わ ず、 自 分 の 食 器 が 盛 ら れ た ら、 自 然 と 食 べ 始 め た。 食 べ る と き は、 男 は 正 座 か あ ぐ ら、 女 は 正 座 で あ っ た。 食 事 は、 今 の よ う に 話 を し な い 分 だ け 短 く、 二 〇 分 ぐ ら い で 済 ま せ た。 親 に「 メ シ 食 ら う と き は 話 せ ず、 い っ し ょ う け ん め い 食 え 」 と 言 わ れ、 「 仕 事 と 同 じ だ 」 と も 言 わ れ た。 そ れ で 主人 息子の嫁 ダイドコロ(板の間) 主人はヨコザに座ったまま 主婦 息子 ナベシキ ナベ,オハチ 孫の嫁 戸棚 ジロ 【図4】オゼンの並べ方の例⑴
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 も多少は話をしたが、別にママ食ってても、楽しみではなかったという。 箸の握り方は特に親から言われなかったが、ギッチョは直された。 オゼンと食器は、月に二~三度、女らが洗った。また節句前にも「明日 は○○だからオゼン洗おうか」と言って、洗ったりもした。食器を毎日洗 わないため、小皿などはペロリと舐めたもの。その習慣が残っていて、今 でもサラダの皿などをペロリと舐めると、子供に汚い、といわれるとのこ と。 〈ちゃぶ台での食べ方〉 ち ゃ ぶ 台 を 使 う よ う に な っ て か ら の 食 べ 方 も 再 現 し て も ら っ た。 【 図 6 】【図 7 】はちゃぶ台での座順の例である。 この場合、ご飯、おかずを盛るのは妻と息子の嫁の二人が協力してやる。 母は、腰が曲がっていて、ちゃぶ台では高すぎるというので、ジロに座っ たまま食べた。主人はヨコザから移動した。 この場合も、主人はヨコザから移動する。ご飯や味噌汁を盛るのは、孫の嫁か、息子の嫁どちらかのうち、先に席 についた者がする。 ちゃぶ台になってからの食器には、話者の家の場合、個人所有、男物、女物の区別は、子供が使う絵入りのご飯茶 碗を除いて、ないという。なお、昭和三〇年頃まで、箸は自分の家で竹製のものを作っていた。これらは振る舞いの 時に、親戚などに配ったりした。この箸は 2 ~ 3 年はもった。この頃より、箸の個人所有が見られるようになったと ヨコザ 主人 息子 主婦 孫 孫 孫 息子の嫁 ナベ台,ナベ,オハチ 主人がヨコザから移動する イロリ 【図5】オゼンの並べ方の例⑵
いう。 〈振る舞いについて〉 振る舞いは、昔は本膳を使い、二の膳までつ いた。結婚式の時など、三〇~四〇人集まるが、 本家ではそれだけの人数分の什器を持っている。 二〇年 ほ ど前、ある家の一の分家が二〇客の 本膳を作ったが、二の分家でも、互いに貸し借 りができるようにと、同じ膳を作ったという。 分家で本膳を持っていない家は、本家から借り たりする。しかしやはり二〇年 ほ ど前に、会席 膳が流行し、各家庭でもこれを二〇~三〇人分 は持つようになった。しかし揃えている食器は、 吸い物椀だけが漆塗りで、あとは陶器のものを使う。この膳は、年に一度、会津若松から漆屋が見本を持って注文を 取りに来る。もっとも、最近では、振る舞いは公民館や開発センターで、飯台を使ってやることが多くなったという。 山北町の中でも、北黒川では部落共用の什器を持っているということであるが、中継にはそういうものはない。 ( 3 )茨城県古河市 調査地は古河市の鳥喰、鴻巣地区の農家、及び市内(商家)にて、一九八〇年四月、八月に行った。これは『古河 主人 主人 主婦 ナベ オハチ ナベシキ 母 孫 息子の嫁 息子 飯台 ジロ 【図6】ちゃぶ台での座順の例⑴ 主人 主人 主婦 ナベ カマ 孫 息子の嫁 息子 飯台 ジロ 【図7】ちゃぶ台での座順の例⑵
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 市 史( 民 俗 編 )』 編 纂 の 一 環 と し て 行 っ た 調 査 で、 私 の 担 当 し た 食 生 活 の 部 分 は、 そ の 後 刊 行 さ れ た 市 史 に 収 録 さ れ ている。 A 農村部での食べ方 〈食器具〉 昭和初年当時、食事は箱膳、もしくは膳で行われていたが、三杉町では大正の初めぐらいに箱膳からちゃぶ台に移 行している農家もある。家の建て替えなどの時期の前後とともに、地域や家によって多少の差が見られるようである。 鴻巣の農家の話によると、大正年間に話者が嫁入りした時、主人より大きい箱膳を婚家からあてがわれた。これは後 述するように、子供と一つの箱膳をしばらくの間、共用するためであった。おばあさんもやはり大きい箱膳を使って いたという。この箱膳の正確な大きさは分かぬが、一尺(約三〇センチ)以上はあったとのこと。時代が下り、話者 の年齢が若くなると、箱膳は、近所の家に行った時に、板の間の隅に積み上げられてあったのを見たことはあるが、 使ったことはない、というふうになってくる。 鳥喰の農家の場合、昭和初年ころは、箱膳ではなく、膳を使っていた。話者の家では、昭和五三年(一九七八)こ ろまでこの膳で食べていたが、その後、ちゃぶ台に変わった。膳は客膳の使いふるしで、溜塗りの安物だったという。 普段の食事は膳でしていても、各戸では、オヒマチ(お日待ち)の時の会食のために、箱膳を一つ持っていた。ハル ビマチ(二月)やナツビマチ(八月)などのモノビ(物日)には、三軒で一つの世話人の組をつくり、そのうちの宿 の家で飲食をするが、この時、一軒から一人の若衆が箱膳を持って宿に集まっていた。しかしオヒマチの会食も、昭 和五三年ころより、老人福祉センターなどで行うようになり、丼物を取るようになった。
話者の妻の実家である北河辺町(埼玉県)では、昭和三〇年(一九五五)ころまで箱膳を使っていたが、その後、 膳に変わり、続いてちゃぶ台になった。また、皆が膳で食べるようになっても、祖父だけは箱膳を使っていたという。 新久田でも、皆が膳やちゃぶ台で食べるようになっても、年寄りだけは箱膳で食べていたと、という話を聞いた。箱 膳は今日では ほ とんど残っていないが、その一つの理由として、年寄りが亡くなると、生前使っていた箱膳の蓋を葬 式の日のお供えに使うからとのことである。 話者の家には、本膳が二〇客、吸い物椀が四〇人分あり、足りない場合、膳は本家から借りる。鳥喰では昭和五三 年 こ ろ、 ム ラ の 者 が 組 を つ く っ て 本 膳 を 購 入 し た が、 全 戸 の う ち、 話 者 の 家 も 含 め、 四、 五 戸 は こ の 組 に 加 わ ら な か 【図8】箱膳 蓋をした状態 蓋を取った状態(中に食器を収納する) 蓋を裏返して食事をする状態 この箱膳は、鴻巣の農家の軒下にあった もの。箱の部分の大きさは縦横 25.5 センチ、 蓋をした状態、及び使用時の膳の面までの 高さが 9.5 センチ、使用時の膳の縁の高さ までが 12 センチある。大きさや作りから して、マチで流行った引き出しのあるよう な高級品ではなく、普及品であろう。
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 ったという。 〈食べ方〉 先に挙げた鴻巣の話者の話をもとに、まず、大正年間当時の食べ方を再現してみたい。食事は板の間のメシクイ バ (飯食場)で行なわれたが、嫁は子供が生まれるまでは、夏の忙しい間は土間側の板の間に腰掛けて食べた。食事中、 流しにすぐに行けるようにということと、当時は主人も含めて四~一〇月中旬まで皆裸足であったが、特に嫁は夕食 の後も機織りの夜なべが残っており、床につくまで足を洗うことができなかったためである。 話者は二〇歳で嫁ぎ、大きめの箱膳を買い与えられたものの、八年間子供が生まれず、二八歳まで食事の時はメシ ク イ バ に 上 が ら し て も ら え な か っ た と い う。 「 腰 掛 け 三 年 」 と い っ て、 普 通 は 三 年 も す れ ば 子 供 が 生 ま れ、 夏 で も メ シクイ バ に上がらしてもらえるようになるが、話者の場合はそうではなかった。冬は子供を生む前でも、メシクイ バ に上がって食べることができた。 食 事 の 時 は、 【 図 9 】 の 如 く、 お 鉢、 鍋、 お 総 菜 や お 新 香 の 丼 を 囲 む よ う に 箱 膳 を 並 べ た。 お 総 菜 と お 新 香 は、 そ れぞれ丼二つずつに盛ることもあった。鍋の下には、ワラで編んだナベシキを置いたが、丼は直接板の間の上に置い たという。メシ、オミオツケは嫁が盛りつけたが、お総菜とお新香は各自でとる。はじめは丼を端から回してとるが、 おかわりの時は各自が丼を引き寄せたり、渡してもらってとる。この際、取り箸はなく、各自の箸で直にとっていた。 前述のように、嫁に子供が生まれると、夏でもメシクイ バ に上がって食べられるが、子供の世話をしなければなら ない母親には当然のことであった。特に子供が小さいときは、背負うか、前掛けで体の前に抱きくるんでいたため、 姑が代わりに給仕をしてくれたという。食事が済むと、後片づけは嫁が行った。 箱膳は嫁が盆、正月の前などに洗った。大晦日の時などは水が冷たく、皆の分を洗うのは大変だった。普段の時も
自 分 と し て は、 食 べ 物 に よ っ て は 食 器 が ベ ト ベ ト し て い る の で 洗 い た か っ た が、 「 百 姓 だ か ら き れ い に す る 必 要 は な い 」 と し か ら れ た。 だ か ら 流 し に 水 を 飲 み に 行 く ふ り を し て 洗 っ た と い う。 当 時 は そ れ が 当 た り 前 だ と 思 っ て い た の で、 何 と も 思 わ な か っ た。 今 の 生 活 は お 大 名 に な っ た よ う な 気 分 で あ る と い う。 な お、 膳 の 木 目 は 横 に な る よ う に 置 く。 縦 に 置 く と「タテゼンはいけない」といって叱られたという。 次 に、 や や 時 代 は 下 っ て、 昭 和 一 五( 一 九 四 〇 ) 年 当 時 の 膳 を 使 っ て の 食 事 を、 先 の 鳥 喰 の 農 家 の 話 を も と に 再 現 し て み た い。 そ の 時 の 家 族 構 成 は、 当 時 小 学 校 四 年 生 の 話 者 と、 二 人 の 妹、 両 親、 父 方 の 祖 父 母 の 七 人 家 族 で あ っ た。 そ の 中 で、 祖 父 だ け が、 箱 膳 を 使 っ て い た。 話 者 は 小 学 校 に 入 学 す る 六、 七 歳 の 頃、 皆 と 同 じ 大 き さ の 自 分 用 の 膳 を 与 え ら れ た。 メ シ や オ ミ オ ツ ケ は 小 さ い う ち は 母 親 が 盛 っ て く れ る が、 お かずはこの歳になると自分で盛る。おかずの丼には取り箸があり、それで取り分けた。 当時、妹(長女)はまだ幼く、自分の膳を持っておらず、母の膳で食べていた。自分の小さいご飯茶碗を母の膳に 置かしてもらい、小皿、味噌汁碗は母と兼用だったとのことである。下の妹はまだ乳飲み子で、母に背負われていた。 妹が成長するとやがて自分の膳を与えられるが、その際、しばらくの間、下の妹と共用していたような気がするとの 嫁 どま どま どま ざしき(畳) ここに箱膳を 重ねて置く 入 ▼ ▲ 入 うちながし へっつい めしくいば(板の間) 【図9】部屋の間取りと箱膳の並べ方
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 ことである。概して男の子の方が、膳を与えられる歳は女の子よりも早く、一つの膳を子供同士で共用する時も、男 女は一緒に座らなかったと思うとのこと。食器は、ご飯茶碗、汁碗、小皿、箸などに個人所有がみられた。祖父のみ 大きいご飯茶碗を使っていた ほ かは、男物と女物の区別はなかった。 夕食は家族そろって食べたが、朝食は、冬なら学校に行く子供らが先に食べ、夏なら仕事で忙しい親が皆の後で食 べるというふうに、一緒に揃って食べることは少なかった。野良仕事の日の昼食の場合、親は土間側から板の間に腰 掛けるか、椅子に座るかして、靴を脱がずに食べた。 食 事 の 時 間 に な る と、 母 が 板 の 間 の 隅 に 積 ん で あ る 膳 を、 父 や 母 の 座 る 位 置 に 重 ね て 置 く。 そ こ か ら 話 者 も 含 め 回 り の 者 が 自 分 の 膳 を と っ て 各 自 の 位 置 に 置 く。 祖 父 の 世 話 は 祖 母 が み て い た よ う だ っ た と の こ と。 ご飯を盛る順番は、やはり年をとっている者からだった。 「 い た だ き ま す 」 と は 言 わ ず、 盛 り 次 第、 勝 手 に 食 べ 始 め る。 食 事 中 は 子 供 が 多 い せ い か、 色 々 と 話 を し て 賑 や か だ っ た が、 食 事 に か け る 時 間 は 短 く、 一 五 分 ぐ ら い だ っ た。 お か ず は 自 分 で 盛 る の で 食 べ 残 す こ と は 希 だ っ た が、 残 っ た も の は 馬 に や っ た り し た。 も ち ろ ん、 怒 ら れ は し た が。 食 べ 終 わ る と( だ い た い 同 時 に 終 る が )、 ポ ツ リ ポ ツ リ と 席 を 立 っ た。 あ と は 母 が 片 付 け た。 ご 飯 茶 碗、 箸 な ど は 一 日 一 回、 朝 食 前 に 洗 っていた。 【図 10】メシクイバの膳の配置 なべしき なべ おはち 漬物 煮物 父 妹 母 妹 自己 父の父 父の母
B 市内(商家)での食べ方 〈食事の時間〉 ここでは、商家(石町の金物屋問屋八百籐)の場合を例に、戦前の、主に奉公人の食事の仕方を、詳しく述べてみ た い。 大 正 二 年( 一 九 一 三 ) か ら 昭 和 一 五 年( 一 九 四 〇 ) 当 時、 こ の 家 で は 一 五、 六 人 ほ ど の 奉 公 人 を 使 い、 な か な か大きな商いをしていた。 夏の場合、朝食は七時ごろ、昼食は一二時ごろ、夕食は七時ごろで、冬になると農家と同じように、朝食は三〇分 ほ ど遅く、夕食は一時間 ほ ど早く取っていた。商家では、コジハンというのはなかったが、得意先の農家がサツマイ モを店に持ってきたりすると、これをふかし、午後三時ごろに奉公人に食べさせることはあった。これは別にオヤツ とは呼んでいなかった。 初市(旧暦一月一二日)や暮れの売り出しの前日など、年に数回、夜なべをすることがあったが、この時はお夜食 を出していた。また初市の日はご馳走を作り、午後にはあべかわとお茶を、顧客や奉公人にオヤツとして出していた。 〈調理〉 当時の奉公人の身分と人数は次のようであった。 大番頭 二、三人 中番頭 二 、 三人 小僧 二 、 三人 じいや 二人 仲働き 三人 ご飯炊き 一 、 二人 小間使い 一 、 二人 ばあや 一人 小 間 使 い は 親 戚 や 相 応 の 小 作 の 娘 が、 二、 三 年 の 間、 行 儀 見 習 い と し て、 奥 の 人( 主 人、 オ カ ミ サ ン、 ご 隠 居 さ
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 ん)の仕事を手伝ったり、世話をしたりしていた。もちろん、食事の準備も手伝った。仲働きのうち、年配の女中頭 が料理の献立や、買い物の指図をした。ばあやはヘッツイ番や、下ごしらえをし、ご飯、オミオツケ、お新香はご飯 炊きが受け持ち、おかずは仲働きの女たちが作った。女中頭がいない時には、オカミサンが直接、ご飯炊きたちに指 図した。金物の包装用としてのワラが多量に出たので、ワラの処分も兼ねて、普通、ご飯は裏庭にあるヘッツイで炊 いた。ワラで炊いたご飯はうまかったという。 野菜などは縁台を置き台にして井戸端で洗い、泥を落とした。井戸は車井戸だったが、後にポンプに変わった。手 桶で、井戸の水を流しの水ガメに運ぶのも女中の仕事であった。魚を焼くときは、コンロを井戸端まで持っていきそ こで焼いた。調理は流しで行い、煮物やオミオツケなどはダイドコロのヘッツイで作った。 〈食器具〉 食事は、ばあやが黒塗りの会席膳を使っていた ほ かは、あとの奉公人は男女とも溜塗りの箱膳を使っていた。箱膳 の形や色は皆同じようだったが、戸棚の上段は女中頭というように、どの位置に自分の箱膳を入れるかは決まってい た。奉公に上がると、店から箱膳と塗り物の椀、ご飯茶碗、小皿の三つの食器を与えられた。 〈食べ方〉 奉公人の食事は、四畳の板の間であるダイドコロで行われた。男子が先に食べ、その後に女子が食べ、決して男女 が 同 席 す る こ と は な か っ た。 男 の 奉 公 人 ど う し で も、 普 通 は 皆 が 一 同 に 食 べ る こ と は な く、 手 の 空 い た 者 か ら、 「 ご 飯たべといで」と言われて、三人ずつぐらいで食べた。食べる順番は別に決まっていないようだったが、大番頭は後 の方だったという。その点、わりと思いやりがあったという。女どうしの場合も、互いにご飯やオミオツケなどをつ けあっていたという。食べるときは、男女とも次の間の方に向かって正座した。箱膳を二つ以上横に並べた場合、店
側の方が上座であった。食べ終わったらすぐに席を立った。主人に見られていることもあったし、食後の休憩は裏庭 でとっていたからである。大人数になる時は、次の間に向かってコの字の形に箱膳を並べて食べた。 昼頃になって在から店に買い物に来ているお得意さんなどがいると、よく「ご飯でもたべていったら」と言って食 べさせていた。この時は、お客がいちいち履き物を脱がなくてもいいように、板の間の揚げ蓋をはぐ。客はこの中に 両脚を突っ込んで、次の間に背を向けて座るわけである。 食べる時には、戸棚から自分の膳をおろし、ご飯、お新香がそれぞれダイドコロの中央に置かれているので、そこ から各自自分でつける。お新香は取り箸で小皿にとる。オミオツケは、ヘッツイに鍋がかかっており、一段低くなっ ている土間に立っている女中につけてもらう。オミオツケのおかわりの時もそのようにする。 おかずのうち、焼き魚などは、箱膳を入れる戸棚の最上段に並べられており、箱膳をおろす時に各自一皿ずつとる。 煮物など、おかずを温かくして食べさせようと思うときには、つけずにおいて、ヘッツイの所で一人一人つけてあげ る。箱膳を置いたら、各自ヘッツイの所まで行って、オミオツケと 温 かいおかずをつけてもらうわけである。寒い時 には、皆、暖かいヘッツイの近くに座った。カレーライスなどの時も、ヘッツイのところで一人一人受け取っていた という。 箱膳は月に数度、各自で洗った。この場合、食器ばかりでなく、膳も洗い、ショウギ(大ザル)の上にのせて乾か した。なかにはまめな番頭さんがいて、茶碗を毎回洗っては布巾で拭く人もいたという。時には女中が洗うこともあ っ た。 「 箱 膳 を 出 し と い て い い よ 」 と 女 中 が 食 事 の 終 わ っ た 男 た ち に 声 を か け る の は、 箱 膳 と 食 器 を「 洗 っ と い て あ げるよ」という意味だった。しかし自分からすすんで人の箱膳を洗う女中は少なく、全体としては各自が自分で洗う ことの方が多かった。また、梅雨時は戸棚も湿るので、中のものを全て出して洗った。
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 一方、奥の人はチャノマで食事をしたが、少なくとも大 正の初め頃からすでにちゃぶ台を使っていたという。食器 や料理は女中が運んで持ってきていた。食事中は行儀見習 いの小間使いが、たすきをはずして正座し、皆の給仕をし た。来客にチャノマで食事を出す時は、子供が多く騒がし いので、別なちゃぶ台を出した。小間使いはこの二つのち ゃぶ台の間に座って給仕をした。 次に、以上の記述を補足する意味で、同時期のお茶屋の 事例を簡単に述べ てみたい。当時、主食は奥の人も奉公人 も、米七分、麦三分の混ぜご飯だった。食事は家族の者、 奉公人とも膳ではなく、四角いちゃぶ台でなされていた。 主人が出張で留守の間は、いつものように主人に盛りつけ をし、ちゃぶ台の上に「陰膳」として朝昼晩供えた。家族 の者が食べ る部屋の隅に大きな四角の火鉢があり、そこで 汁を 温 めたり、餅を焼いたりしていたが、これは家族の者 専用であった。 奉 公 人 に 対 す る 振 る 舞 い は、 正 月、 盆( 夏 祭 り )、 え び す講と年三回あり、この時は客膳が使われた。正月には酒 風呂 ながし 水がめ 戸棚 上段(神棚・おかま様)下段(箱膳を入れる) 流し (土間+スノコ) へっつい コンロ 戸棚 長火鉢 家族 主婦 主人 ちゃぶ台 客 客 お小間使い (給仕) 次の間 店 戸棚 台所(奉公人の食べる所) 茶の間(奥の人の食べる所) 上段(食器を入れる) 下段(調味料・漬物・材料) 【図 11】部屋の間取りとダイドコロでの箱膳の配置
や刺身、酢の物、焼き魚、煮魚などが、盆にはおはぎやちらしなどが振る舞われたという。 ( 4 )福井県坂井郡丸岡町 調査地は、坂井平野の農家で、調査は一九八〇年一月に行った。但し、短期間の調査であったため、十分な資料を 得ることはできなかった。ここではそれまでの調査では聞くことのできなかった諸点についてのみ、記したい。 〈食台の変遷〉 昭和二三年の福井地震で家屋にも被害を受けた平野部では、家の建て直しに際し、イロリやわらぶきの屋根の家が 姿を消した。話者の家では、昭和三二年頃まで箱膳で食べていたが、以後、ちゃぶ台(四角の売り物だった)になり、 昭和三七年頃に椅子とテーブルで食事をするようになった。 箱膳は皆同じ形だったが、個人所有があり、フロ(戸棚)に入れておいた。食器には男女の区別があり、主人だけ は九谷焼のいい碗を使っていた。箱膳にはふきんがつけられていて、蓋をこれで拭いた。食器類は汚くなったら洗っ ていた。水道設備の整っていなかった当時は、水を汲むのも重労働であり、 (食器類を)毎日洗う必要のない箱膳は、 主婦の労力を軽減する上で合理的であった。 式膳は部落で購入していたが、自家で膳を持っている旦那衆はそれが自慢の種であった。それでも終戦後には、皆 の家で会席膳を買いそろえた。 〈箱膳での食べ方〉 箱膳で食べるときには、よそうのは母がし、自分で勝手によそった記憶はないという。父親が座る前に子供らが座 らされ、食前に「いただきます」と言わされていた。また下にこぼした物も食べさせられるなど、躾は厳しかったと
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 いう。 〈テーブルへの変化〉 箱膳やちゃぶ台で食べていた当時のダイドコロは、立ちながら調理するというのではなく、ダイドコロには暗いイ メージがあり、料理を作ることも楽しいことではなかった。その後、立ちながら調理できるダイドコロに変わり、そ れにともなって、食台も歩調を合わせ、高いテーブルとなった。 家では昭和三七年頃にテーブルに変えたが、これは部落でも早い方で、当時、近所の人が見に来たという。村では 昭和四五(一九七〇)年頃より、ダイドコロ改善が行われ、今では ほ とんどの家でテーブルで食べているとのこと。 ちょっと前までは、 「あのうち、まだ座って食べるんや」などと言い合っていたという。 箱膳から初めてちゃぶ台になった時に、皆で同じものを分け合って食べるので、美味しくなったような気がしたが、 テーブルになった時も、やはりそんな新鮮な感じがしたという。
考察
以上、調査を行った四県の資料を紹介してきたが、これらは日本全土をカ バ ーするものではなく、調査地の選択も 恣意的、断片的である。しかしながら、全国の民俗誌の食生活の項にざっと目を通してみても、少なくとも食べ方に 関しては、地域によって根本的な違いがあるようには思えない。もちろん、さらなる調査と、既刊の民俗誌の記述の 分析を通して全体像を子細に再構成する作業は必要であるし、沖縄やアイヌ民族の事例なども考慮に入れるべきであ ろう。ここではそのための前段階として、得られた資料から食事方法の概要を分析してみたい。( 1 )銘々膳の時代 ( a )食物の分配方法─誰が盛りつけたか 銘々膳の時代、家庭での日常の食事で料理はどのように分配されていたのか、言い換えれば、誰が盛りつけていた のか、というのは私が最も関心のある問題であった。従って、この問題を明らかにすべく、初めて調査を行った青森 県脇野沢村(漁村)での話者の答えは、明快そのもので、やはりそうだったか、と思ったものである。そもそも朝食 は 家 族 全 員 が 揃 っ て 食 べ る こ と が 少 な い こ と( 特 に 漁 の 忙 し い 時 な ど )、 主 婦 の 仕 事 は 料 理 を 作 る ま で で、 食 べ る 段 階まで世話をする必要はない、というのも驚きであった。昭和初年当時までは箱膳で食事をしていたが、汁物は鍋の まま鍋台の上において各自取り分けていたし、漬け物も大どんぶりに盛り、刺身も大きな刺身皿に盛って中央におき、 各自が取り分けていた。もっとも焼き魚は大皿にもると皮がはげるので、各自の皿に盛っていた如く、料理によって 柔軟に使い分けを行っていた。 新潟県山北町(山村)でも、オゼンで食べていた昭和初年当時、オゼンにあらかじめ盛りつけるのは魚、煮物ぐら いで、ご飯や味噌汁は主婦が盛るとは限らず、主人や子供(小学生以上)であっても近くにあれば各自が盛った。盛 り終わったら、おはちや鍋を隣にずらすというやり方もあった。なお、オゼンを並べるのは嫁か バ アチャンだが、オ ゼンの後かたづけは主人を除いて男衆もやっていたというのも、注目される。 茨城県古河市の鴻巣の農家では、大正年間、箱膳で食べていたが、メシ、オミオツケは嫁が盛りつけていたが、お 総菜とお新香は、どんぶりを回しながら各自でとっていた。取り回しという点では青森や新潟の例と同じであるが、 メシとオミオツケは嫁が盛りつけていた、という点が異なる。鳥喰では嫁は子供が生まれるまではメシクイ バ に上が らさせてもらえず、土間側に腰掛けて食べなければならなかったぐらいであるから、嫁の立場は弱く、定められた仕
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 事は厳しく課されていたようである。とはいえ、全ての料理を嫁が盛りつけていたのではないことは、重要であろう。 鳥喰の話者は、昭和一五年当時、膳を使って食事をしていたが、小学生にもなるとおかずは自分で盛っていたとい う。なお、膳の上げ下げであるが、食事時間になると母が板の間の隅に積み上げている膳を父母の位置に置き、そこ から各自、自分の位置に置き直したこと、後片づけは母がした、という点も注目される。 一方、市内の商家では、大正~昭和一五年当時、奉公人に箱膳で食事をさせていたが、この場合は奉公人というこ ともあって、箱膳の上げ下げは当然のこと、おかずも、箱膳を入れる戸棚に並べられており、箱膳をおろす時に各自 一皿ずつとっていた。ご飯、お新香の盛りつけも、ダイドコロの中央に置かれているオヒツや丼から各自で行ってい た。オミオツケ(時に煮物も)はヘッツイのところまで行って、女中につけてもらった。この場合は、おかずはあら かじめ盛りつけられた小皿を各自がとっていくという様式で、やはり奉公人ということで、家庭での食事とは異なる ものとなっている。しかし、ご飯、お新香などはやはり取り回していた点が注目される。 福 井 県 坂 井 郡 丸 岡 町 の 話 者 は、 「 ハ コ ゼ ン で 食 べ る と き に は、 よ そ う の は 母 が し、 自 分 で 勝 手 に よ そ っ た 記 憶 は な い。父親が座る前に子供らが座らされ、食前に『いただきます』と言わされていた」とのことで、躾の厳しい家では、 このような食べ方もあったようである。もっともこれは昭和三二年ごろまでの話で、青森県脇野沢村や新潟県山北町 の事例は大正~昭和初年当時のものなので、あるいは時代による変化と考えられる。 このように、銘々膳で食べていた当時、ちゃぶ台やテーブルでの食事からイメージされるような、あらかじめ器に 全ての料理が盛られてから全員が席について食べ始める、というようなことは、漁村、山村、平野部を通して、なか ったことが明らかとなった。もっとも少ないながらも事例を子細に比較、検討していくと、細かいところでは多少の バ リエーションが見られる。例えば、オゼンや箱膳の準備は基本的に女性の仕事であったが、途中から各自も手伝う
場合もあった。後片づけも、女性がやるところもあれば、主人を除く男衆もやったところもある。また、奉公人の場 合は、箱膳の上げ下げは全て自分で行った。料理の分配も、嫁なり母がメシと味噌汁を盛りつけ、おかずやお新香は 丼を回して各自でつける、というパターンが多かったが、中にはメシや汁物もおはちや鍋を中央において、各自取り 分ける、というのもあった。時代が下る ほ ど、そして生活に余裕がでて、躾が厳しくなる ほ ど、嫁なり母が盛りつけ るものが増えていった、という傾向も読みとれる。 ( b )銘々膳の並べ方─家庭内の人間関係を読み解く 私の調査で銘々膳の並べ方を聞くことができたのは、新潟県の山北町(半農半林の二例)と茨城県の古河市(農家 の二例、商家の奉公人一例)の計五例である。 新潟県山北町の二例は、昭和初年当時、膳で食べていた頃の、話者の家の例を含む一般的な配置を思い出して再現 してもらったものである。注目されるのは、主人が向きをかえるだけでヨコザを離れない場合( 【図 4 】)と、ヨコザ を離れる場合( 【図 5 】)とがあったことである。当然、ヨコザを離れない方が主人の権威を維持できるし、イロリを 夾むため、他の者とも多少の距離が開く。また二つの例とも、息子の嫁、あるいは孫の嫁は主人から最も遠い席につ いている。 【図 4 】の場合、戸棚に近い席でもあり、食事の支度との関係もあろう。 【図 5 】の場合、主人がヨコザを 離れるにともない、本来はヨコザ近くの主婦の座に座る妻は、他の女性とともにナベシキの側に移っている。これは ちょうどイロリの下座に相当する席である。いずれの例も、膳は向かい合うように二列に並べられ、その中央に鍋や お鉢が置かれている。 茨城県古河市のうち、農家の二例は、鍋やお鉢を囲むように半円形になって膳を並べている。これには、メシクイ
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 バ に、 青 森 や 新 潟 の 農 家 に あ っ た イ ロ リ が 存 在 し な い、 と い う 間 取 り と も 関 係 し て い よ う。 【 図 9 】 は、 鴻 巣 の 話 者 (女性)の話をもとに、大正年間当時の食べ方を再現してもらったものである。当時、家族の皆が箱膳を使っていた。 話者は二〇歳で嫁ぎ、大きめの箱膳を買い与えられたものの、八年間子供が生まれず、二八歳まで食事の時はメシク イ バ に上がらしてもらえなかった。従って、この配置は子供を産んだ後のものであろう。子供を産む前でも、この位 置に箱膳を置いて腰掛けていたものと考えられる。もちろん、この位置は、流しやヘッツイに一番近い席であり、嫁 の定位置でもあった。 【 図 10】 は、 や や 時 代 が 下 っ て、 昭 和 一 五 年 当 時 の 鴻 巣 の 農 家 の 例 で あ る が、 話 者 で あ る 自 己( 男 性 ) は 当 時 小 学 校四年生で、妹はまだ幼く、母と膳を共有していた。末の妹はまだ乳飲み子で、母の背中に負われていた。皆、膳を 使っていたが、祖父のみ、箱膳を使っていたという。この配置でも、男女が別れて座る規範が働いていたこと、母は 席を立ちやすい土間側に座ったこと、祖父母の座る中央が上位の位置であった、ことなどを読みとることができる。 【 図 11】 は 大 正 二 ~ 昭 和 一 五 年 当 時 の 市 内 の 商 家 の 奉 公 人 の 食 事 の 場 面 で あ る。 奉 公 人 は 皆、 箱 膳 で 食 事 を し て い た。男女が同席することはなく、数人ずつで、次の間に向かって箱膳を並べて食べた。人数が多い時は図のように、 コの字型に並べることもあった。次の間の方向に向いて食べたのは、奥の人や店側に背を向けないためであろう。 さて、以上の分析を補足する意味で、民俗誌の記述を見てみたい。一九九〇年代以前に刊行された民俗誌の食生活 の項目のなかで、膳の並べ方を具体的に図示したものは少ないが、全くないわけではない。その一つは、竹内利美の 『小学生の調べたる上伊那川島村郷土誌』 (一九三六)である。小学生による自宅での調査は、昭和八年に行われてい る。
これにはさまざまな膳の並べ方の バ リエーションが図示されており、現在ではもはや聞き出すことのできぬ、貴重 な記録である。これらを一見すると、実に多くの バ リエーションがあったように見えるが、実際はそうでもない。大 別 す る と、 ヒ ジ ロ か ら 見 て 左 手 に コ シ モ ト が あ る 間 取 り( 一、 三、 五、 七、 九、 一 一 ) と、 右 手 に コ シ モ ト が あ る 間 取 り ( 二、 四 、 六 、 八 、 一 〇 、 一 二 ) と に 分 け る こ と が で き る。 こ の 間 取 り の 差 に よ る 二 つ の パ タ ー ン を 並 び 替 え て み る と、膳の配置方にはそれなりの規則性があることが分か る (1 ( 。以下、これらの バ リエーションの中で共通している点を 【図 12】小学生の調べたる上伊那川島村郷土誌より
銘々膳からちゃぶ台へ 西澤治彦 抽出してみたい。 第一に、父(もしくはオジイサマ、一の兄)がヨコザに座ったまま向きを変えるだけであること、第二に、母(も しくはオ バ サマ、一の姉)は日常でも座るべきコシモトに座っていること(これは給仕のしやすい位置ということで も あ る )、 第 三 に、 子 供 ら が 並 ぶ 時 は、 多 く の 場 合、 男 女 が 別 の 列 を つ く っ て、 カ マ、 ナ ベ を 囲 む、 と い う こ と で あ る。但し、 (八、 一二)の如く、輪になったところで男女が合流することはあった。どちらかというと男の子が父に近 い位置を占めるが、父のすぐ隣に長兄が座るとは限らない。兄弟間での並び方は、兄弟や父による世話が必要な年齢 であるとか、仲の善し悪しなどによって、ある程度の柔軟性が許容されていたようである。 と こ ろ で、 ( 七、 一 一 ) の 並 び 方 は、 男 女 が 混 ざ っ て 座 っ て い る と い う 点 で 他 と は 異 な る。 ( 七 ) の 場 合 は、 九 人 と 家 族 数 も 多 く、 年 少 の 者 は ヒ ジ ロ の 近 く に し か ス ペ ー ス が な か っ た の で あ ろ う。 ( 一 一 ) の 場 合 は、 父 親 が お ら ず、 一の兄がヨコザに座り、男女に関係なく、年齢順に並んでいるようである。男女を規範通りに分けて座らせるには、 父の代役としての一の兄は若すぎたのかも知れない。ちゃぶ台を使っている(十)については後述する。 なお、共有の食具としては、ご飯はカマ、オヒツ、 ゴ ハン、メシと、汁物はナベ、シル、オツユ、ミソシルと、お かずはオサイ、オカズなどと表記されている。カマと表記しているのは九例、オヒツ・ ゴ ハン・メシがそれぞれ一例 しかないことから、ご飯はオヒツに移し替えることは少なく、 ほ とんどがオカマをそのまま出していたようである。 汁物はナベが四例、シルはミソシルも含めると四例、オツユが二例となっている。こうしてみると、やはり食具とし ては、 ナベ と カマ が最も重要なものであったことが分かる。オサイ、オカズを記しているのは(一、九 、 十)の三例 しかないが、これは表記上の揺れであって、他の家がオカズなしで食べていたわけではない。日常の食事では、オカ ズを入れた丼も、取り回していたものと考えられるが、ナベやカマに比べたら小さいので、省略したのであろう。
( 十 ) の ち ゃ ぶ 台 と な る と、 複 数 の オ サ イ が 台 上 の 中 央 に 描 か れ て い る の が 注 目 さ れ る。 こ れ は 明 ら か に 取 り 分 け られていたが、ちゃぶ台が入ったからといって俄に取り分けて食べるようになったとは考えられず、膳の時代から取 り分けていて、その習慣を踏襲しただけ、と考えるべきであろう。 な お、 ( 一 、 七 、 十 ) で は、 ナ ベ が ヒ ジ ロ の 中 に 置 か れ て い る。 こ れ は ナ ベ を 温 め る 意 味 も あ ろ う が、 よ り 古 い 形 式とも考えられる。 ( c )食べ始めと終わり方─同時性の度合い 食べ始めと終わり方にどの程度、同時性が求められていたのかであるが、そもそも毎回の食事で家族全員が揃って 食べていたわけではなかった。青森県脇野沢村では、漁の忙しい時は家を出る時間が家族まちまちであるし、昼は各 自職場や学校で食べていた。夜は比較的一緒に食べることが多いが、それでも腹の減った子供が先に食べることもあ り、 人 よ り 先 に 食 べ 終 わ れ ば、 先 に 席 を 立 っ て も よ か っ た。 当 然、 「 い た だ き ま す 」 や「 ご ち そ う さ ま 」 な ど と い う 言葉はあまり言わなかった。 新 潟 県 山 北 町 で も、 食 事 の 時 間 に な る と「 マ マ で き た が、 た べ れ ー」 と 皆 を 集 め、 「 い た だ き ま す 」 と は 言 わ ず、 自然と食べ始めた。 茨城県古河市の鳥喰の農家でも、食べ始める前に「いただきます」とは言わず、盛り次第、勝手に食べ始める。食 べ 終 わ る と( だ い た い 同 時 に 終 る が )、 ポ ツ リ ポ ツ リ と 席 を 立 ち、 あ と は 母 が 片 付 け た。 商 家 に て 箱 膳 で 食 事 し て い た男の奉公人どうしでも、普通は皆が一同に食べることはなく、手の空いた者から、 「ご飯たべといで」と言われて、 三人ずつぐらいで食べていた。