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HOKUGA: 平安貴族の山里(山荘)について : その3 山里の建築と庭

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タイトル

平安貴族の山里(山荘)について : その3 山里の建

築と庭

著者

小野, 恭平; ONO, Kyohei

引用

北海学園大学学園論集(169): 1-10

発行日

2016-09-25

(2)

平安貴族の山里(山荘)について

その⚓ 山里の建築と庭

目次 その⚑ 山里のイメージ・風景・四季・眺望(166 号) その⚒ 山里の自然美・音楽・田舎暮らし・閑居・恋・修道(168 号) その⚓ 山里の建築と庭(本号)

は じ め に

⽛山里(やまざと)⽜は,現代では山中あるいは山がちな場所にある鄙びた村里を意味するが, 平安時代の文学作品では,東山・桂・小野・宇治・須磨といった京の郊外や地方,あるいはそこ に営まれた山荘を意味していた。前稿ではこの山里が閉塞的な社会や変わり映えのしない日常か ら,眺望や自然美,遊びや閑居,恋や修道などによって,美的な,あるいは物語のような別世界 へ連れ出してくれたことを指摘した。本稿では山里の建築と庭の特徴とその理由について考えて みたい。

12.端近な空間

山荘は廊のような造りになっていた。すなわち源氏の須磨の山荘が⽛葦ふける廊めく屋⽜(源氏 物語,須磨)だったし,清少納言が訪ねた高階明順の山荘も⽛廊めき⽜たる造りだった(枕草子, 95 段)。ちなみに廊とは⽝和名類聚抄⽞によれば⽛保曽止乃⽜とあり,⽛殿下外屋也⽜とされてい る。意味がはっきりしないが,⽛保曽止乃⽜と訓じられているところから⽛細長い建物⽜であり, ⽛殿下外屋也⽜とあるところから⽛御殿の下にあって,庭などの外部空間に建つ屋⽜をさしていた のではないかと考えられる1)。例えば寺院の回廊などがその典型的な例であろう。廊はまた⽛廊 などほとりばみたらんに住ませたてまつらむも,飽かずいとほしくおぼえて⽜(源氏物語,東屋) とあるように,貴族の女性が住むには気の毒なほど⽛ほとりばみた(端近な)⽜建物だった。つま り廊は,母屋の周りを庇や孫庇が囲う奥深い空間ではなく,細長く奥行の浅い,したがって蔀な どを開放すれば外から丸見えとなり,中に居ても端近に居るように感じられる開放的な空間だっ たであろう。したがってそれは女性にとっては明け透けで身の隠し所がないような⽛はしたない⽜ 空間だった。

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山荘がこのような開放的な造りにされていたことは文学作品からも推測できる。例えば⽝蜻蛉 日記⽞の作者が天禄二年夏に訪れた藤原師氏の宇治川べりの山荘が,鵜飼漁の様子が間近に見え, 川風が強く当たって頭痛がするほど風通しのよい開放的な造りだったし,宇治十帖の八宮の山荘 も,宇治川を行きかう柴舟や宇治橋が見える開放的な造りになっていて,⽛あまり川づら近く,顕 証にもあれば⽜(源氏物語,宿木)と言われるほどだった。 ではなぜこのような造りにされたのか。 それは第一には,眺めのためであったろう。京の邸の寝殿や対のように奥行の深い建物では庭 まで距離があり,軒の出も深いから,視界が限られ,端近な所まで出ないと庭がよく見えない。 しかし奥行きの浅い建物では居ながらにして外の自然を間近に,また広々と眺めることができる から,眺めを愉しむ建物に相応しい造り方であったろう。 ちなみに山荘は軒の出も浅くされていた。そのため紅葉や雪が舞い込んできた。 ・風のさと吹たるに,木々の木末ほろほろと散りみだれて,御琴にふりかゝりたるやうに,散 りおほひたる(夜の寝覚,広沢の山荘) 御簾を巻き上げて管弦の遊びをしていると,さっと吹き込んできた風に山の紅葉がはらはらと琴 の上に散るという絵のような場面である。屋内に居ながら野外で音楽を演奏しているような感じ であろう。清少納言も細殿での体験ではあるが2),同様な体験を次のように記している。 ・細殿,いみじうをかし。上の蔀あげたれば,風いみじう吹入れて,夏もいみじう涼し。冬は, 雪あられなどの,風にたぐひて降り入たるもいとをかし(枕草子,73 段) ・暁に格子妻戸をおしあけたれば,嵐の,さと顔にしみたるこそ,いみじくをかしけれ。(枕草 子,188 段) 荒々しく侵入してくる自然に顔を打たれていると,まるで野外に立っているようで⽛をかし⽜かっ たのであろう3)。清少納言は次のような例もあげている。 ・七月ばかり,いみじう暑ければ,よろづの所あけながら夜も明かすに,月のころは寝おどろ きて見いだすに,いとをかし。闇も又,をかし。有明はた,言ふもおろか也。(枕草子,34 段) 夏の夜,あちこち開け放したまま寝て,夜中にふと目が覚めると皓々たる月光の中に居た,とい うのはたいへん趣があるという。漆黒の闇に包まれているのも面白いし,有明の月の光なら言う もおろかだという。山荘の奥行や軒の出が浅くされたのは,屋内に居ながら大自然の中に居るよ うな感覚を愉しむためであったろう。 一方,平安時代の文学作品には山荘の軒先から月光が射しこむ場面がよく登場するが,この美 的な情景のために軒の出を短くするということもあっただろう。 ・月,隈なふ澄みわたりて,霧にも紛れずさし入りたり。浅はかなる廂の軒は,程もなき心ち すれば,月の顔に向ひたるやうなる,あやしうはしたなくて,紛らはし給へるもてなしなど, 言はむ方なくなまめきたまへり。(源氏物語,夕霧,一条御息所の小野の山荘)

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・有明の月も出にければ,格子の隙どもより,ところどころ漏り入りたるが,いと心づくしな るに,思し侘びて,格子のもとのかき金を放ちて,押しやり給へれば,残りなうさし入りた るを,女君,いとゞ侘しうて,引き被き給へるを,とかく,ひきあらはしつゝ,見たてまつ り給に(狭衣物語,亀山の山荘) ・山里の月─しばの戸をあけながらにぞ伏しにけるさしいづる月のかげにまかせて(中務集) ・絵に,山里なる女の,つらつえをつきて人待つかたかきて侍しところに ─すみしれる月と見つるにことゝはん人待つよひの秋の山風(源兼澄集) 前の二例は逢瀬の官能的場面,後の二例は訪れがなくなった男を待ち続ける女の悲劇的な場面で ある。いずれも美しい恋の場面だが,特に後者は歌や屏風絵に繰り返し描かれており,清少納言 はその魅力について次のように述べている。 ・九月二十日あまりのほど,長谷に詣でて,いとはかなき家にとまりたりしに,いと苦しくて, たゞ寝に寝いりぬ。夜ふけて,月の窓より洩りたりしに,人の臥したりしどもが衣の上に, 白ふて映りなどしたりしこそ,いみじうあはれとおぼえしか。さやうなるおりぞ,人歌詠む かし。(枕草子,211 段) 夜更けに目がさめると,有明の月が衣を白く照らしていた。彼女はそれを見て,こういう時こそ 人は歌を詠むのだ,と感動している。ちなみに月は男女の結びつきを促す存在だったというが4) 清少納言がこのとき思い浮かべたのは次のような歌だったろう。 ・今こんと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな(古今集,素性法師) ⽛またすぐに来るよ⽜という男の言葉を信じたばかりに,結婚の季節とされた秋5)の終わりを告げ る長月の有明の月が出るまでむなしく待ち続けてきたことだ,という哀切な心情を詠んだもので ある。清少納言が泊まった家は⽛いとはかなき家⽜だったから軒の出が短く,それゆえ中まで射 しこんできた有明の月に物語のヒロインになったような気分を味わうことができたのであろう。 月光が深々と射しこむ情景は,見る者を瞬時に⽛あはれ⽜な物語の世界へ連れ出してくれたよう である。 要するに山荘は開放的な造りにされていたが,それは都の貴族にとっては別世界と言ってもよ い山里の自然を,まるで野外に居るかのように愉しむためであり,また月光の中で⽛あはれ⽜な 物語の世界にトリップするためであったろう。

13.田 舎 風

⽝枕草子⽞95 段に登場する高階明順の山荘は⽛田舎だち,ことそぎて,(中略)ことさらに昔の ことをうつし⽜ていた。すなわち⽛田舎風⽜で,⽛簡素⽜で,ことさら⽛古めかしく⽜されていた。 以下(13,14,15)ではその理由について考えてみたい。 まず山荘は⽛三間の茅屋,残生を送る⽜(本朝文粋,山家秋歌,紀納言)とか⽛中に茅茨,松柱 三間⽜(本朝文粋,山亭起靖,前中書王),あるいは⽛茅屋ども,葦葺ける廊めく屋⽜(源氏物語, 平安貴族の山里(山荘)について(小野恭平)

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源氏の須磨の山荘)のように田舎風の茅葺屋根にされていた。また調度類も田舎風にされており, 薫が宇治で建て替えた山荘では敢て網代屏風のような⽛山里めきたる具ども⽜(源氏物語,東屋) にされ,源氏の須磨の山荘では碁双六の盤や弾棊の具まで⽛田舎わざ⽜にされていた。 また山荘では垣根も卯の花垣,柴垣,竹垣のような田舎風の垣にされていた。 ・山里の夏の垣根はおぼつかな雲のゆかりにみゆる卯の花(源順集) ・山里は柴の囲ひのひまを粗み入りくるものは木の葉なりけり(散木奇歌集,源俊頼) ・山里は竹のす垣に風さへて寝覚めがちなる冬ぞ来にける(出観集,覚性法親王) このように山荘が田舎風にされたのは,源氏の須磨の山荘が⽛所につけたる御住まひ,やう変 りて,かゝる折りならずは,をかしうもありなまし⽜(須磨)とあるように,都人にとっては田舎 らしいところが⽛やう変わり⽜,⽛をかし⽜かったからであろう。また前稿(⽛その⚒⽜)で指摘し たように,田舎風の住まいが隠遁や隠遁を演じる遊びのために必要だったからでもあろう。すな わち隠遁とは官を辞して田舎へ退居することだが,役人生活のことを⽛代耕⽜と言うように6),人 間本来の生き方は農耕生活と考えられており,隠遁はその本来の生活に帰ることだったから,住 まいも─隠遁遊びの場合も含めて─農家風にされたのだろう。なお山荘生活を詠んだ漢詩で は村人との分け隔てのない付き合いがしばしば語られるが7),それも,住まいだけでなく生活そ のものまでも農夫になりきった境地を伝えるためであったろう。また須磨に退居した源氏は衣装 まで田舎風にしていたが,それも同じ趣旨からであろう。 ・山がつめきて,ゆるし色の黄がちなるに,青鈍の狩衣,指貫,うちやつれて,ことさらにゐ なかびもてなし給へる(源氏物語,須磨) なお山荘の垣が田舎風にされたのは美的な理由,すなわち田舎風の垣の鄙びた味わいと可憐な 草花の取り合わせが⽛をかし⽜かったからでもあろう。じっさい⽛ゆへある様にしなして,かり そめなれどあてはかに住まひ⽜(源氏物語,夕霧)なされた一条御息所の小野の山荘では⽛はかな き小柴垣⽜に撫子が植えられ,秋風に靡いて⽛をかしう⽜見えていたし,浮舟が隠れた洛北小野 の山荘でも垣ほに撫子・女郎花・桔梗などが植えられ,⽛をかしう⽜見られていた(源氏物語,手 習)。ちなみにこのような取り合わせが山里らしく⽛をかし⽜かったから,⽛山里めいた⽜造りに された京の六条院北東の町の庭でも⽛ことさらに⽜卯の花垣にされ,花橘・撫子・薔薇・くたん などの花が植えられていたのであろう(源氏物語,乙女)。 要するに山荘は田舎風に造られていたが,それは田舎風であることが別世界のようにめづらし かったからであり,また隠者の住まいらしかったからであり,さらには鄙びたものと可憐な草花 の取り合わせに山里ならではの美があったからであろう。

14.簡

山荘は⽛ことそぎた(簡素な)⽜造りにされていた。 ・これは川面に,えもいはぬ松陰に,何のいたはりもなく建てたる寝殿の事そぎたるさまも,

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おのづから山里のあはれを見せたり(源氏物語,松風,大井の山荘) ・ここは又,さまことに,山里びたる網代屏風などの,ことさらに事そぎて,見所ある御しつ らひ(源氏物語,椎本,宇治の八宮の山荘) 山荘が簡素な造りにされたのは,人工的な巧みを尽くした家より自然美に優れた家の方が⽛あ はれ⽜も興も勝ると見られていたからである。 ・松が﨑の小山の色なども,さる巌ならねど秋の気色つきて,宮こに二なくと尽くしたる家居 には,なをあはれも興も勝りてぞ見ゆるや(源氏物語,夕霧,一条御息所の小野の山荘) ・四方の山の鏡と見ゆる汀の氷,月影にいとおもしろし。京の家の限りなくと磨くも,え,か うはあらぬはやとおぼゆ(源氏物語,総角,八宮の宇治の山荘) 一方,山荘が簡素な造りにされたのは,自然美を優先するためだけでなく,先に見た明石の上 の大井の山荘が⽛寝殿の事そぎたるさまも,おのづから山里のあはれを見せたり⽜(源氏物語,松 風)とあるように,そうした造りが⽛あはれ⽜な山里に相応しい風情をかもしだしていたからで もあった。⽛あはれ⽜とは美しい自然や佳人が不遇な環境に堪えている状況に対して抱かれる深 い愛惜の情を主とした美的感動だが,簡素な山荘は広壮・豪華な建物に比して頼りなく寂しげで あり,そうした姿が山里の寂しさに堪えているようで⽛あはれ⽜だったのである。 山荘が簡素な造りにされたのは,そこが隠遁の場所だったからでもある。すなわち隠遁を説く 老荘思想は作為や技巧を否定するから,隠遁のための場所である山荘もまた簡素なものにされた のだろう。しかも我が国の隠遁は中国の隠逸を真似る遊びだったから,彼の国の隠逸たちが素朴 で簡素な住居に住むことよって都市の住まいの豪奢や虚栄を否定したように8),それを模倣した ということもあっただろう。 山荘はまた仏道修行の場でもあったが,仏法ではあらゆる世俗的なものへの執らわれから去る ことを求めたから,住まいもまた⽛いと仮なる草の庵におもひなし,事そぎた⽜(源氏物語,橋姫) 造りにされたのだろう。 要するに山荘は簡素な造りにされていたが,それは山里の自然美や⽛あはれ⽜な情趣を愉しむ ためであり,また簡素な造りが俗世からの離脱をめざす隠遁や仏道修行の場に相応しかったから であろう。

15.古めかしさ

山荘には先に見た高階明順の山荘や⽝蜻蛉日記⽞(天禄二年)に登場する藤原師氏の山荘のよう に,古めかしい調度でしつらわれたものが多かった9) ・馬の絵かきたる障子,網代屏風,三稜草(みくり)の簾,ことさらに昔のことをうつしたり (枕草子,95 段,高階明順の山荘) ・三稜草簾,網代屏風,黒柿の骨に朽葉の帷子かけたる几丁どもも,いとつきづきし(蜻蛉日 記,天禄二年,藤原師氏の山荘) 平安貴族の山里(山荘)について(小野恭平)

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高階明順の山荘の⽛馬の絵⽜はおそらく唐絵だろうが,それは 10 世紀中頃には既に四季の景物や 各地の名所を描いた倭絵にとって代わられた流行遅れのものであった10)。⽛網代屏風⽜は竹や檜 の薄板や葦を編んだ網代を張った屏風で,⽝源氏物語⽞では都の邸では一例も見えず,宇治川べり の八宮の山荘とその対岸に新造された因幡守の山荘にしか登場しない。つまり田舎のものだった が,田舎のものは流行から遅れたものだろうから,これも古めかしい印象を与えるものだったで あろう。⽛みくり(三稜草)の簾⽜は具体的にどのような簾だったか不明だが,⽛みくり⽜は茎が 三稜形で長さが五,六尺の水辺の植物で,これを編んだ簾が⽛みくりの簾⽜だという(枕草子集 註11))。したがって一定寸法の竹ヒゴを編んだ簾とは異なり,細い茎をそのまま使ったものだろ うから太さが不揃いで,古代の素朴な印象を与えるものだったのではないかと思われる。一方, ⽝蜻蛉日記⽞の作者が訪れた藤原師氏の山荘の黒柿の几帳も古代のものだった。⽛黒柿⽜は,かつ ては玉座にも用いられた最高級の銘木だったが,この頃には黒柿の骨に黄色い紙を貼った扇が⽛ま づしきもの(みすぼらしいもの)⽜の代表的な例としてとりあげられているように(枕草子,176 段12))既に時代遅れのものになっていた。ちなみに⽝大鏡⽞に大宅世継という百九十歳の老人が 登場するが,彼が持つ黒柿製の扇も老人の驚異的な古老ぶりを伝える小道具として使われたもの である。 ・⼦されば,老いたるはいとかしこきものに侍り。若き人たち,なあなづりそ⽜とて,黒柿の骨 九あるに黄なる紙はりたる扇をさし隠して,気色だち笑ふほども,さすがにおかし。(大鏡, 序) では山荘が古めかしい調度でしつらわれたのは何故か。 一つの理由として,⽛古き物こそ,なつかしう⽜(源氏物語,梅枝)とあるように,使い馴れた 物が持つ親しみやすさ・安らかさが愛されたからであろう。後世,兼好も⽛うちある調度も昔覚 えて安らかなるこそ心にくしと見ゆれ⽜(徒然草,10 段)と述べ,ボルノウ13)も安らかな住まいの 条件として使い馴れた家具をあげている。 また古めかしいものには⽛今めかしいもの⽜にはない落ち着きがあった。⽛今めかし⽜とは⽝古 語大辞典⽞(小学館)によれば⽛華やかな,あるいは陽気な感じのものを表現することが多い。⽜ とある。そして⽛浅薄な面が強調されると,浮薄な落ち着きのない状態を示し(後略)⽜ともいう。 つまり⽛今めかしいもの⽜には旧弊なものから解放された屈託のない明るさ・華やかさがあるが, その半面,浮ついた浅はかな感じもあるという。言いかえると,古めかしいものは古色をおびて 地味だが,落ち着いた着実な感じがあるということであり,それが華やかだが浮ついた都風に馴 じめない者には好ましかったのであろう。 一方,⽛今めかしいもの⽜には奥深い雰囲気も欠けていた。次の一文は⽛今めかしいもの⽜を好 む右大臣家の宴について述べたくだりである。 ・そら薫もの,いとけぶたうくゆりて,衣のをとなひ,いと華やかにふるまひなして,心にくゝ 奥まりたるけはひはたち遅れ,今めかしき事を好みたるわたりにて(源氏物語,花宴)

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過剰で派手やかなものを好む右大臣家の今めかしいやり方は,品の良い奥ゆかしさに欠けている と批判的に述べたものである。今めかしいものが必ずしも劣っているわけではないが,表面的な 派手さより奥ゆかしさこそ格式ある貴族に相応しい,と考えられていたのだろう。 上記と関連するが,山荘に古風な調度が用いられたのは,家の歴史の奥深さ,つまり家柄の古 さ,由緒深さを誇示したかったからでもあったろう。上坂信男氏は貴族が古式を評価する理由に ついて⽛形成の基盤を父祖伝来の社会的地位に置く貴族社会であってみれば,物心両面にわたっ て古来の儀式慣習,生活態度を踏襲あるいは尊重するのは当然のことで,ここに⽛古めかしさ⽜ の美点である理由が見出される。⽜14)と述べている。由緒深さは彼らの権威や存在を根底で支え てくれる価値だった。だから新興貴族は宮家の,例えば末摘花邸(故常陸宮邸)の古めかしい家 具などを欲しがったし,没落貴族も敢えて古めかしいものに執着したのだろう。明石の上が上京 後の住まいを定める際,父入道の財力をもってすれば豪華な御殿を新築することなど容易なこと だったが,敢えて母方の祖父中務宮が建てた大井の山荘に住むことにしたのも,この山荘が⽛ゆ へあるさまの⽜(源氏物語,松風)山荘であり,明石一族の由緒深さを証してくれるものだったか らであろう。 ところで古めかしいものには⽛うるはし⽜と称される美もあった。 ・いと古体に馴れたるが昔やうにてうるはしき(源氏物語,蓬生) ・あやしうものうるはしう,さるべきことのおり過ぐさぬ古体の御心にて(源氏物語,行幸) ⽛蓬生⽜の引用文は⽛たいそう古めかしく使いこんだ末摘花邸の調度類が昔風でうるはし⽜と言っ たもの。⽛行幸⽜の引用文は⽛常陸の宮の御方(末摘花)は,おかしいほど何かにつけて几帳面で, 行事などの際も決して疎かにしない古めかしい御性分⽜と言ったもの。いずれも⽛こたい⽜であ ることが⽛うるはし⽜とされている。ちなみに⽛うるはし⽜とは⽛①端麗である。つやつやと美 しい。②きちんとしている。きちょうめんである。③心が誠実である。④交際がきちんと整っ て,りっぱである。親密である。⑤正式である。⑥正しい。まちがいがない。⽜(古語大辞典,小 学館)などの意味をもつ。要するにきちんと整っていて乱れたところのない美─刺激的な面白 味はないが,非の打ちどころのない,折り目正しい美である。それは目先の新しさのために伝統 を無視する今風のやり方に対して批判的な貴族の美意識に相応しい佇まいだったであろう。 要するに山荘は古い調度でしつらわれていたが,それは親しみやすさ・安らかさ,落ち着き, 奥深さ,由緒深さ,格式ある美といった,⽛今⽜の時代にはない心休まる世界がそこにあったから であろう。なお山荘では⽛もてなし⽜も古風だった。例えば八宮の宇治の山荘を訪れた薫は,ど こからともなく参上した王孫めいた上品な老人たちから⽛さる方に古めきて,よしよしゝう(由 緒深げに)⽜(椎本)もてなされ,八宮からも⽛いと物深くおもしろし⽜(源氏物語,椎本)と感動 するような古風な琴の演奏でもてなされている。薫にとってそこはタイムスリップした古代の別 世界だったであろう。 平安貴族の山里(山荘)について(小野恭平)

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16.荒

山荘は荒れていた。 ・主なくて荒れのみまさる山里にさかりと見ゆる花桜かな(六条修理大夫集,藤原顕季) ・山里はまばらの軒の茅間よりもりくる秋の夕月よかな(出観集,覚性法親王) ・荒れたる山里に紅葉ひまなく散りたるところをよめる─ふるさとは散るもみじばにうづも れて軒のしのぶに秋風ぞふく(散木奇歌集,源俊頼) 山荘が荒れていたのは,一つには荒廃そのものに魅力があったからであろう。すなわちそれは 見る人を懐古的・感傷的にし,過去に連れ戻してくれた。 ・昔見し妹が垣根は荒れにけり茅花まじりの菫のみして(堀河百首,藤原公実) ・河原の院にて,荒れたる宿にて月見る心を人々詠むに─草しげみ庭こそ荒れて年へぬれ忘 れぬものは秋の夜の月(恵慶集) また山荘が荒れていたのは,そうした場所が魅力的な男女の出逢いの場所だったからでもある。 じっさい⽝宇津保物語⽞(俊蔭)の若小君(兼雅)が俊蔭女と出逢ったのが⽛蓬,葎さへ生ひ凝り て,人めまれにて,たゞ明け暮れ眺むる⽜のみといった廃園だったし(宇津保物語,俊蔭),⽝源 氏物語⽞の雨夜の品定めでも次のように語られている。 ・世にありと人に知られず,さびしくあばれたらむ葎の門に,思ひの外にらうたげならむ人の 閉ぢられたらむこそ限りなくめづらしくはおぼえめ。いかではたかゝりけむと,思ふよりた がへることなむあやしく心とまるわざなる。(源氏物語,帚木) 山荘が荒れていたのは,住まいにこうした恋の風情を添えるためであったろう。 ところで,山里の風情のなかで最も好まれたのが,荒れた山荘で来ぬ人を待つという⽛あはれ⽜ 深い恋の情趣である。 ・山里に荒れたる宿を照らしつゝいくよへぬらん秋の月かげ(小町集) ・ひとりのみながめふる屋のつまなれば人を忍ぶの草ぞおひける(古今集,貞登) ・わが宿は道もなきまで荒れにけりつれなき人を待つとせしまに(古今集,遍昭) こうした場面は美しい場面として絵でも繰り返し描かれていた。 ・扇の絵に。心細げなる山里に女のながめたるを人の見れば─この葉ちり寂しさまさる山里 におとなふものは峰のまつ風(兼澄集) ・御障子の絵に。山里なる女,鹿のねを聞きて─つま恋ふとしかなくときになりにけり我が ひとりねを誰に聞かせむ(西本願寺本三十六人集⽛たゝ見⽜,壬生忠見) 清少納言も次のように述べている。 ・女のひとりすむ所は,いたくあばれて築土なども全からず,池などある所も水草ゐ,庭など も蓬に茂りなどこそせねども,ところどころ砂子の中より青き草うち見え,さびしげなるこ そあはれなれ。(枕草子,171 段)

(10)

寂しげに荒廃した住まいは,女がひとり来ぬ人を待つという⽛あはれ⽜深い恋物語を連想させる ので心惹かれるというのだろう。 だから貴族たちは山荘のように遊びのための日常を離れた住まいでは敢えて庭を荒らすことも あった。 ・任和のみかど,みこにおはしましける時,ふるの滝,御覧ぜむとておはしましけるみちに, 遍昭が母の家にやどりたまへりける時に,庭を秋の野につくりて,おほむもの語りのついで に詠みたてまつりける─里は荒れて人はふりにし宿なれや庭もまがきも秋の野らなる(古 今集,僧正遍昭) 遍昭のこの歌は,親王だった頃の仁和の帝(光孝天皇)が布留の滝を見に行く途中,遍昭の母の 邸に立ち寄ることになったとき,庭を荒れた秋の野の風情にしてもてなしたことを詠んだもので ある。ちなみに遍昭の母は平城天皇・嵯峨天皇の異母兄弟である良峰安世の未亡人であり,仁和 の帝は在俗時の遍昭が仕えた仁明天皇(嵯峨天皇の皇子)の第三皇子である。つまり三人は旧知 の間柄だったが,久方ぶりの対面だったのだろう。だから遍昭はできるだけの趣向を凝らし,母 を⽛荒れた庭の秋草をながめながら男の訪れを待ち続けた女⽜に擬えるという機智的演出で迎え たのだろう。おそらく庭の門には葎を生い茂らせ15),垣根には秋風に揺れる薄や可憐な草花を植 え,遣水や簀子の辺りには紅葉も散らされていたかもしれない16) 山荘が荒らされていたのはこのように,それが見る人を懐かしい過去や恋物語の世界に遊ばせ てくれたからであろう。

17.結

以上,本稿では山里の建築と庭が⽛端近な空間⽜⽛田舎風⽜⽛簡素⽜⽛古めかしさ⽜⽛荒廃⽜とい う特徴を有していたこと,そしてそれらが前稿までの⽛その 1⽜⽛その 2⽜で紹介した山里の魅力 に応じた造りであったことを見てきた。すなわち山里は眺望や自然美,遊びや恋,閑居や修道等 によって現実とは異質な別世界へ連れ出してくれる魅力的な場所だったが,建築と庭はそうした 魅力をより発揮できる造りにされていたのであった。 さてこれまでの三稿を通して言えることは,様々な魅力に富む山里は閉塞的な時代や住みにく い日常を生きる平安貴族にとっては束の間の解放感を与えてくれるささやかなユートピアのよう な場所だったのではないかということである。もちろん山里は何処にもない架空の場所ではな く,現実の,しかも日帰りさえ可能な身近な場所だった。だから日常の中の手頃な非日常的空間 として長く親しまれてきた。そして中世には遁世者たちの草庵の場所となり,さらには⽛市中の 山里⽜とも言うべき草庵風茶室の理念にも受け継がれていった。その意味で山里は単なる住まい にとどまらず,文化史的にも重要な場所であった。しかしこれまで建築史の分野で山里が研究対 象とされることは殆どなかった。建築遺構や史料もなく,わずかに和歌や物語の中に断片的に現 われるだけという研究上の限界があったためであろう。その意味では本研究も粗描の段階にとど 平安貴族の山里(山荘)について(小野恭平)

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まる不十分なものでしかない。今後は更に多くの資料にあたりながら考察を深め,中世の展開に も注目していく必要があろう。

1 ) 廊については下記の論文参照。 井上充夫:⽛廊について─日本建築の空間的発展における一考察─⽜日本建築学会論文報告集 54 号,1956 年 2 ) 細殿も奥行が浅い。なお⽝枕草子⽞73 段の細殿は女房の局用に登華殿の西庇に造られたものである。 3 ) 顔を打つ風や雪の冷たさに,室内生活で鈍くなった感覚がよみがえってくるような⽛をかしさ⽜を 感じたのかもしれない。 4 )⽝歌ことば歌枕大辞典⽞,角川書店 5 ) 西村亨:王朝恋詞の研究,慶應義塾大学言語文化研究所,1972 年 6 ) 例えば⽛代耕は本より望みにあらず,業とする所は田桑に在り⽜(陶淵明,雑詩,其の八)と言われ る。 7 ) ・膾もて水郎に課めて一箸を嘗めしめ 酒もて村老を微(メ)して三盃を勧む(⽝本朝無題詩⽞,⽛冬 日会小野山庄土俗⽜,藤原実範) ・樵を負ひし山客は朝に路に過り 榼(カフ)を挈(ヒサ)ぐ田翁は暮に門を叩きたり(⽝本朝無題 詩⽞,⽛暮秋城南別業即事⽜,藤原季綱) 8 ) 大室幹雄:⽝桃源の夢想⽞,三省堂,1984 年 9 )⽛古⽜と⽛昔⽜の違いについては⽛上坂信男・湯本なぎさ:⽝源氏物語⽞の思惟,右文書院,平成 5 年⽜ によれば,⽛昔⽜は現在と過去の間に断絶がある過去をさし,⽛古⽜は現在に連続する過去を示すとい う。しかし本稿では特に区別していない。 10) 家永三郎:⽝上代倭絵全史⽞,高桐書院,1946 年 11) 竹岡正夫:⽝古今和歌集全評釈⽞,右文書院,1976 年 12) 速水博司:⽝堺本枕草子評釈⽞176 段,有朋堂,1990 年 13) O. F. ボルノウ:⽝人間と空間⽞,大塚惠一他訳,せりか書房,1978 年 14) 上坂信男,湯本なぎさ:⽝源氏物語⽞の思惟,右文書院,1993 年 15) 今さらにとふべき人も思ほえず八重葎して門させりてへ(古今集,詠み人しらず) 16) 末沢明子氏は⽛水辺の追想─⽝源氏物語⽞の庭園⽜(福岡女学院大学紀要,10,2000 年⚒月)⽜で, 遣水が追憶・懐旧の場であり,荒廃の場であったことを指摘されている。

参照

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