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滋賀県金融史の一側面 : 政府金融との関連を中心として

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滋賀県金

融史の一側面

一政府金融との関連を中心として一

噛 は し が き  特定の府県を対象とする、地方金融史においては、 一般に地方銀行を中心とする金融諸機関の制度的変遷や、預金、貸出 しを通ずる地方経済との関連が取り扱われるのが普通である。筆者は金融史を専攻する者ではないが、たまたま滋賀県か らの依頼で、滋賀県史・昭和篇の作成に関与し、滋賀県金融業について執筆する機会を持ち、前記のような観点から若干 の作業を進めてきた。この過程において、とりわけ興味を抱いてきた問題は、地方金融の展開過程において、とくに第一 次大戦期以降、政府の金融的活動が地方財政や地方金融に、多様な形態で重要な影響をもたらし、また地方金融機関と中 央・地方財政との関連が、次第に密接となってきている史的経過であった。わが国における、前述のような内容に基づく 地方金融と公的部門との関連は、日本資本主義の歴史的展開と対応するものであり、またとりわけ財政金融政策のあり方 と密接な関連を有するものであった。本稿においては、主たる対象を滋賀県におき、同県下における第一次大戦以後最近 に至るまでの金融の動向を概観し、とくに前述の意味での、地方金融と公的部門との関連について検討を加えることを目 的としている。小論の題目を滋賀県金融史の一側面とした理由もまたここに存する。      滋賀県金融史の一側面       一

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滋賀県金融史の一側面 二 二 昭和初年における滋賀県下の金融機関  滋賀県においても、明治期から各種の金融機関が設立されてきているが、その数において、また預金、貸出し等を通ず る地方経済との関連において、とりわけ重要な地位を占めてきたのは、普通銀行、貯蓄銀行、農工銀行等、各種の銀行で あった。滋賀県下においても他府県同様、明治二〇年代に普通銀行の濫設をみたが、三〇年代後半期より、合併、解散等 により次第に減少し、明治末年には一七行となっている。大正期においても普通銀行は漸減しているが、昭和初年に至る まで、比較的多数の、経営基盤の不安定な小銀行が存続せしめられていた。大正一四年末現在、県下に本店を有する普通 銀行として、百量三、八幡、二十一、伊香、蒲生、淡海、高島、栗太、甲賀、江北、江州、江頭農産、寺庄、柏原の 一四行があり、貯蓄銀行として、滋賀合同貯蓄、近江貯蓄、長浜貯金の三行があり、特殊銀行として滋賀県農工銀行が存 立せしめられている。また県外に本店を有し、県内に店舗を設置していた銀行として、近江、明治、浅沼、共栄、島本の       ユ  五行があった。  大正期から昭和初年にかけて、滋賀県金融界に大きな地位を占めていたのは、県内に本店を有する八幡銀行、百計三銀 行と、大阪に本店を有する近江銀行の三行であった。八幡銀行は明治一四年近江八幡に設立され、創設以来近江商人が経 営に関与し、地場産業への融資とともに、とくに商業金融に密接な関連を有してきたところに特色があった。 一方、百岩 三銀行は、明治一二年に国立銀行として彦根に創設され、同三二年国立銀行の存立期間満了にともない、株式会社百光三 銀行と改称、維持されてきた銀行であり、湖東地方における中心的な金融機関であった。これに対し近江銀行は、明治二 七年、近江商人の機関銀行として設立され、大阪に本店をおき、県下に支店網を配し、大正末年当時、滋賀県内の同行の 支店、出張所、派出所は、合わせて三七店舗︵八幡、百冊三の二行は、いずれも一〇士力店︶に達し、預金、貸出しともに県内

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関係の金融機関中最高の地位を占めていた。  県下における貯蓄銀行としては、明治二八年に、近江貯蓄、近江貯金の二銀行が設立され、ついで同三八年に長浜貯金 銀行が設立されている。大正︸○年、貯蓄銀行法の改正にともない、県下の銀行で貯蓄業務を兼営せるものが、その貯蓄 部のみを合同し、これに近江貯金銀行が加わり、新たに滋賀合同貯蓄銀行が創設され、大正一四年末には、同行と近江貯 蓄、長浜貯金の三行が存立せしめられていた。  前述の普通銀行、貯蓄銀行と並び、県下において重要な地位を占めていた銀行として、滋賀県農工銀行をあげることが できる。同行は明治三一年、大津市に本店をおく特殊銀行として設立され、農工両部門に対する長期資金の供給を目的と する特殊銀行であった。資金吸収においては、預金の吸収とともに農工債券の発行を行ない、その消化に際しては、市中 消化とともに、大蔵省預金部による債券引受けが行なわれ、後述のように、農業恐慌期を中心に、増大する預金部地方資 金の経由機関として重要な役割を果している。  後述のように、これらの銀行の多くは、昭和二年における金融恐慌や、その後に続く経済恐慌の過程において、経営基 盤の脆弱さを露呈し、政府による銀行合併の方針と相まって、次第に整理、統合が進捗し、やがて一期一行主義が県下に おいても実現されることとなった。またこの間銀行組織の近代化が進行し、経営内容にも著しい改善をみることとなった のである。  一方、銀行以外の金融機関も、第一次大戦以後、著しい発展を実現せしめられている。大正一一年の信託法・信託業法 ︵銀行業における信託業の兼営禁止、大正一二二・︸施行︶の公布、同︼二年の産業組合中央金庫の設立等を契機に、産業組 合︵後の農業協同組合︶、市街地信用組合︵後の信用金庫︶、無尽業︵後の相互銀行︶等の、農業金融機関や中小企業金融機関が 拡充強化されるとともに、信託業、保険業等においても急速な発展がみられることとなった。滋賀県についてもかような      滋賀県金融史の一側面      三

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     滋賀県金融史の一側面      四 動向を明確にうかがうことができるのである。  わが国の産業組合は、明治三三年に制定された産業組合法に基づき設立されたものであり、販売、購買、利用、信用等 各種事業の兼営が認められており、信用組合は産業組合の一種として、農業金融における重要な組織となっていた。滋賀 県においても明治四四年に八八組合が設立されており、大正一四年までに二一〇組合に増大、昭和初年以降における産業 組合事業の拡大過程に、産業組合中央金庫を頂点とする農村金融組織として確立されることとなった。 一方、大正六年、 市街地信用組合制度が創設され、県下においても大正六年から七年にかけて、大津市、彦根町、長浜町等に市街地信用組 合が設立され、さらに大正=年には近江八幡にも市街地信用組合が設立されている。  営業無尽は明治三〇年代に設立され、その後激増するに至ったが、大正四年に無尽業法が制定され、無尽業の内容を確 定するとともに、事業の堅実化がはかられている。滋賀県においても、同法制定にともない、四業者が営業無尽の免許申 請を行なっているが実現されなかった。大正一四年に至り、蒲生郡金田村に華実無尽株式会社が設立され、さらに同年大 津市に興業無尽株式会社が創設されている。︵これら無尽会社は昭和一七年に合併し、さらに第二次大戦後、滋賀相互銀行に転換、 現在に至っている。︶  前述のように、近代的な金融機関が次第に設立され、発達してくる過程において、県下においては、多数の庶民金融機 関あるいは非機関貸し手が存在していた。大正一四年当時、滋賀県内には、金銭貸付業四二二、質屋二二三、無尽講およ び頼母子講三九三一などが存在し、またとくに農村地方においては、地主、米穀商、肥料商量、個人的な貸し手が多数存       ︵2×3︶ 在していたことを看過することができない。産業組合事業の拡大や政府金融の進展にともない、これら未組織金融のウエ ートは次第に後退してくるが、なお第二次大戦期に至るまで、多数存続せしめられているのである。  昭和初年当時、各種金融機関の、県内における資金吸収の動向をみると、預貯金の金融機関別シェアーにおいて、銀行

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とくに八幡、百光三、近江三銀行のウエートが高かったが、同時に郵便貯金や産業組合貯金もまた大きなウエートを占め ていた。第1表は県下における銀行預金、産業組合貯金、郵便貯金の動向を示すものである。表示期間を通じ預貯金残高 では銀行預金がつねに最重要な地位を占めているが、その預金残高の伸びは相対的に小さく、とくに昭和初年においては (第1表)滋賀県における預貯金残高の推移(単位=千円)

郵便貯金

貯金残高i指数 産業組合貯金 貯金残高i指  数

銀行預金

預金残高隔数 次 年 100. 0 129. 0 131. 1 134. 4 228. 5 325. 4 407. 3 421. 8 430. 1 478. 7 588. 3 9, 045 11, 670 11, 862 12, 158 20, 668 29, 430 36, 842 38, 152 38, 904 43, 297 53, 214   100. 0   179. 6   301. 9   533. 5   650. 9  737. 3  717. 2  781. 9  874. 6   986. 6 1, 457. 7 6, 191 11, 119 18, 691 33, 030 40, 297 45, 646 44, 403 48, 405 54, 146 61, 083 90, 244 100. 0 119.4 134. 0 155.6 177.5 175.0 153.0 137.1 152. 8 16e. 3 203.5 52, 226 62, 335 69, 990 81, 266 92, 720 91, 419 79, 914 71, 591 79, 806 83, 738 106, 262 大正8年    10    12    14 昭和2年     4     6     8    10    12    14 (出所)滋賀県知事官房編r滋賀県統計全書』により作成。ただし銀行預  金残高は年末,その他は年度末残高で示される。 滋賀県金融史の一側面 預金残高のかなりの低下がみられている。郵便貯金残高は全期間を通じ 安定的な増加を示しており、昭和初年の恐慌期においても増勢傾向が維 持されている。産業組合貯金残高は、第一次大戦後の伸びがきわめて大 きく、昭和一〇年代には銀行預金に迫るウエートを占めていることが注 目されよう。大都市を有する府県ないしいわゆる工業県においては、昭 和初年当時、すでに都市銀行が預貸両面において、大きなウエートを占 めているのであるが、滋賀県においては、資金吸収の面において、産業 組合貯金や郵便貯金が、銀行預金と拮抗する地位を占め、またその伸び 率がきわめて高いことが特色とされるのである。かような傾向は後述の ように、第二次大戦後にも持続されており、︵例えば第30表を参照されたい。︶ 滋賀県の後進的な金融構造を端的に示しているのである。  貸出しの面においては、工業生産のウエートが小さく、また大企業の 存在しなかった県下においては、貸出しの対象は自から制約されざるを 得なかった。昭和初期における滋賀県経済の基幹をなすものは、農業お よび地場産業であった。昭和二年において、米の生産量は一四九万石、        五

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      滋賀県金融史の一側面      六 生産価額四九六三万円、繭の生産量八三万貫、生産価額六四六万円であり、米・繭の生産価額合計で、農業総生産価額の       ︵4︶ 七七%を占めていた。工業部門においては地場産業が主体をなしており、昭和二年に、地場産業としての織物が、 ﹁工 業﹂のなかで最大の生産価額一九八六万円をあげている。同年の紡績糸、人造絹糸の生産価額は、合計で一七=二万円に 過ぎなかった。その後人造絹糸の生産価額は急増し、昭和五年に織物の生産価額を追いこし、同八年には四五七一万円と なり、織物の生産価額二二一八万円の二倍以上に達している。昭和初年以来県内にも東洋レーヨン株式会社、鐘淵紡績株 式会社等の工場が進出してきており、前述のような生産価額の急増がみられたのであるが、これら企業は県下金融機関と は殆ど没交渉であり、銀行の貸出しは、地場産業への貸出しや運転資金の供給、あるいは農地を担保とする農業関係への 融資に限定されていた。また銀行によっては、京阪神地方にかなりの貸出しがなされていたのである。後述の近江銀行の ごときは、滋賀県内支店において預金を吸収し、東京、大阪において貸出すといった傾向がとくに顕著であり、その一端 を後掲第3表にうかがうことができるのである。 ︵1︶ 滋賀県﹃滋賀県統計全書﹄︵大正一四年︶および増田源太郎編﹃滋賀銀行二十年史﹄四〇∼四一頁参照。 ︵2︶ 小平権一﹃農業金融論﹄六一四∼六一五頁。 ︵3︶ 滋賀県下においては、庶民金融機関として頼母子講が、市部、郡部を問わず数多く存在していた。明治四四年、農商務省は全国商業会議所に対   し、小商工業の資金融通状況に関する諮問を行なっているが、大津商業会議所は次のような調査結果を答申している。    ﹁大津市に於ける小商工業者が資金融通機関として頼めるは、同盟講と称する頼母子講なり。この同盟講は世間普通に行はるるものなれど、その   組織方法は左の如し。 ︵中略︶同盟講の銀行取引に就て調査するに、大なるは月掛金十一圓五十銭より、小なるは月掛金三圓二十銭に至るものを合   し講数百日ありて、最近一ケ年の取扱金高二十二萬圓に上れり。その他銀行に托せず経営せるもの亦甚だ多く、現在大津市の同盟講数は三百以上   あり。この他金銭貸付業より融通を是くる外、大方仕入問屋との商習慣により延買いの方法をとるもの多し。﹂︵西川小三郎編﹃大津商工会議所沿  革史﹄三八二頁。︶大津市のような市部においても、頼母子講が重要な機能を果していたことをうかがわしめるのである。 ︵4︶ ﹃滋賀県統計全書﹄︵昭和二年︶参照。

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三 昭和金融恐慌と近江銀行の破綻  昭和初年の滋賀県金融界において、逸することのできない重要な問題は、昭和二年の金融恐慌と、それにともなう近江 銀行の破綻であった。後述のように、近江銀行はいわゆる近江商人の機関銀行として設立、発展せしめられてきた銀行で あり、県外に本店を有する銀行ではあったが、滋賀県経済とは終始密接な関連を有していた。近江銀行の破綻はそれゆえ に、当時の滋賀県経済に対し、あるいはさらに滋賀県民に対しても、甚大な影響をもたらすこととなったのである。  周知のように日本経済は、大正九年の反動恐慌以降、長期にわたる不況に当面し、経済活動の水準は全般的にみて低位 に維持されてきた。政府は大正九年の反動恐慌以後、財界救済に幾多の手段をこうじてきた。すなわち日銀による特別融 資、あるいは大蔵省預金部資金の放出による特定企業の救済などが、数次にわたり実施されてきたのである。そしてかよ うな国家による救済措置が、一面金融恐慌の発生を引延ばしてきたのであるが、昭和二年三月に至り、遂に宿弊を一挙に 爆発せしめることとなったのである。すなわち同年三月一五日、渡辺銀行が休業し、ついで中井、左右田、村井、八十四 等の諸銀行が休業して金融界に大きな打撃を与えた。さらに三月二七日に至り、台湾銀行が株式会社鈴木商店への資金的 援助を拒絶し、また台銀以外の債権銀行に対する、同店の取立猶予の要請も容れられず、遂に鈴木商店の破綻をみること となり、これが鈴木直系の神戸の六十五銀行の取付、休業を招き、さらに台銀の信用失墜へと進展し、平銀は極度の資金 難に陥り、休業の危機に直面するに至った。政府は市中銀行に対し、早掻コールの引揚げを一時中止すべく威嚇的に要求 したが効果なく、四月一三日台銀救済のため、日銀の非常貸出に関する損失補償緊急勅令案を提出し、翌一四日枢密院に 三儀されたが、同院はこれを違憲として否決、このため若槻内閣の総辞職をみるに至った。政府はやむなく日銀および民 間銀行の協力により事態の収拾に努めることとなり、 一七日には日銀の非常貸出は、東京本店約六〇〇万円大阪支店約      滋賀県金融史の一側面       七

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     滋賀県金融史の一側面      八 一、 宦宦尠怏に達し、危険地域と目される関西地方に対し、重点的に非常資金の放出を行なった。しかし時機すでに遅 く、四月一八日に至り、台湾銀行、近江銀行が休業を発表するに至ったのである。 ﹁台銀及び近江の休業に接した一八日 の金融市場は殆んど混乱状態に陥っていた。些々の休業は予測されていたところであったが、近江の閉店は意外の感に打 たれるもの多く、同行関係の大阪市江州地方京都市等は極端な不安に駆られた。殊に猛烈であったのは預金都市であり且       ︵1︶ つ村井銀行休業の苦をなめた京都地方で、一五銀行を始め東京に本店を有する有力銀行に取付けが始まったのである。﹂そ してやがてもたらされた近江銀行の破綻は、滋賀県経済に甚大な影響を与えることとなったのである。  近江銀行は明治二七年三月、滋賀県下の有力者、小泉新助、山中利右衛門、伊藤忠兵衛、下郷下平、中村治兵衛、堤惣 平、阿部周吉および田村正寛等が発起人となり、資本金五〇里門の株式会社として設立されている。前記発起入のうち田 村正寛を除き他はいずれもいわゆる近江商人であり、同行は金巾製織をはじめ、彼等の事業のための機関銀行的性格を付 与せしめられていたのである。近江銀行は本店を大阪市東区備後町三丁目におき、頭取に小泉新助、取締役として伊藤忠       ︵2︶ 兵衛、下郷傳平、中村治兵衛等が就任している。同行は支店を滋賀県愛知川に設置し、 ﹁江州商人本位ノ営業ヲ開始﹂し たが、翌々二九年、資本金を一〇〇万円に増資している。創設後戸式年の同行の経営は好調とはいいえず、日清戦争後の 財界反動、三四年の不況等に際し、業績の悪化をきたしているが、三〇年代後半期以降経営は漸く安定し、明治四四年、 さきに日銀より派遣され、支配人の地位にあった池田経三郎が頭取に就任し、積極的な経営方針を打出し、翌四五年五 月、資本金を四〇〇万円に増資し、近畿、中国地方に支店、出張所を開設して預金の吸収につとめるとともに、この時期 から全国にわたり為替取引先を開き、また手形ことに小額手形割引の利便をはかり、中小商工業者の金融機関としての地 位を固めるに至っている。  この間同行においてとくに注目されることは、明治三〇年代後半期以降、地方銀行合同の気運を背景に、滋賀県内の小

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銀行を対象に、積極的に吸収、合併を行なってきていることである。周知のように明治期におけるわが国の普通銀行は、 業態の不明確な小規模銀行が濫立し、明治二〇年代を通じてその数は急速に拡大し、ピークをなす明治三四年には一、八 六七行に達していた。しかし日清戦争後における増設は、漸く銀行乱立のそしりを受けることとなり、政府もその弊害を 重視し、明治二九年四月、 ﹁銀行合併法﹂を制定し、銀行合併政策が推進されることとなったのである。とくに明治三二 ∼三四年の恐慌は、地方小銀行の破綻を続出せしめ、これを契機に銀行の集中、合併が本格的に推進せしめられることと なった。近江銀行においては、明治三六年より滋賀県下の小銀行の合併を行ない、まず同年湖東銀行を合併、同三八年長 浜銀行を買収、同三九年には日野銀行および大津銀行を買収し、その都度増資を行ない、明治三九年に資本金二〇〇万円 となり、同四五年には四〇〇万円の資本金を有する有力銀行に成長するに至ったのである。明治四三年当時近江銀行の役 員は、頭取池田経三郎、取締役として前川善三郎、瀬尾喜兵衛、薩摩治兵衛、西田庄助、阿部房次郎里言名、監査役とし て伊藤忠三、北川与平が就任しているが、頭取を除きいずれも近江商人出身者であることがうかがわれる。  大正三年第一次世界大戦の開始とともに、日本経済は好影響を蒙り、近江銀行も綿業界好況の余波を以て、預金、貸出し とも著しく伸長し、大正六年資本金を一、○00万円に増加せしめ、翌七年には同じ江州系の東京銀行を合併して一、五〇 〇万円に増資、同時に関東地方への進出の足場を作るに至った。さらに大正九年に至り、資本金を三、000万円とし、 関西有数の銀行として認められることとなったのである。また大正六年、同行はシンジケート銀行団に加盟し、 ﹁内外国       ︵3︶ 債引受ノ要務二当リ一方外国為替業務ノ新設ト同時二信託業務ノ兼営ヲモ開始シ同業者間二漸次重キヲ為ス﹂に至ってい る。第一次大戦期におけるシンジケート銀行の年末預金残高の推移をみると、とりわけ有力銀行の預金吸集の伸びには顕 著なものがあったが、とくに近江銀行の場合、大正三年末の預金残高に比し、同八年末の預金残高は九倍近くの伸びを示 し、シンジケート銀行中最高の伸びを実現していた。貸出金についてもその伸びは著しく、大正八年末に一億四、九一〇      滋賀県金融史の一側面      九

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     滋賀県金融史の一側面       一〇 万円に達し、戦前の約八倍となり、其の他の諸勘定および収益状況においても、極めて順調な発展を実現していたのであ る。近江銀行が大戦中かような拡大をなしえたのは、従来同行が取引関係の多かった業界、すなわち綿糸布を中心とする 繊維関係部門の、大戦中における空前の好況に依存するものであった。しかし大正九年春の反動を契機に、綿業を主体と する取引関係が大きな打撃を蒙るに至り、やがて近江銀行の経営に対しても至大の影響を与えることとなったのである。 この財界反動は預金取付け、あるいは休業などにより金融業界に多大の混乱を招いたのであるが、近江銀行も﹁主要取引 先タル綿糸布商、機業三等ノ痛手甚シカリシヲ以テ財界反動ニョリ大打撃ヲ蒙り其結果内情俄カニ悪化シ其濁流竹芝二破        る  綻二至ル迄回復セサリシ﹂ほどの打撃を受けたのである。そして同行の経営不振が伝えられるや、大正九年五月上旬より 預金の取付けが生じ、大津支店を最初として滋賀県下各支店に波及し、さらに大阪市内各店も取付けを蒙ることとなり、 結局同年上半期中に約六千万円の預金を失い営業上重大な支障をきたすに至っている。その後においても取引先企業の不 振が継続していたことや、さらに関東大震災に際し、東京支店、深川支店、神田支店などの店舗を焼失せしめ、あるいは 同地の繊維関係業者が大きな被害を受けたことなどのため、同行の経営は好転を見るに至らなかった。大正一三年に入り、 資金の梗寒愈々甚しく、さらに下郷︵傳平︶頭取の辞意表明、大株主の所有株の売却、株価の下落など、不安材料が重な り、預金者の同行への疑念を拡めることとなった。同年上半期中に同行は約三、四〇〇万円の預金を失い、休業の外なき 窮境に追い込まれるに至り、同行幹部は日銀に援助を依頼するとともに、事業の根本的整理を断行することとなったので ある。すなわち近江銀行は、大正一三年日銀に救済方を懇請し、同年七月、日銀国庫局長保井猶造を頭取に迎え、同月大 阪織物同業組合事務所において株主総会を開催、議案として﹁資本減少の件﹂その他を提出、可決し、同時に日銀は特別       う  融通による、低利資金︵六分利︶二、○○○万円の融資を決定している。近江銀行はすでに震災後、日銀より融資を受け ており、大正=一年末現在、借入金六五四万余円を存していたが、その後も前記低利資金をはじめ日銀からの融資をえ、

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近江銀行に対する日銀融通額(単位=千円) (第2表) 決算報告記 載ノ借入金 再割引手形 計

A

口 京都支店 大阪支店 店 本 次 年 9, 985 39, 518 26, 772 17, 100 27, 607 24, 200 22, 009 6, 544 31, 245 23, 162 17, 100 24, 504 20, OOO 34, 009 31, 935 33, 500 42, 632 53, 023 1, 094   302 1, 272     0    0    0 1,141    0    0 1, 208 1, 351 4, 850 29, 986 21, 271 17, OOO 24, 504 15, OOO 19, 567 21, OOO 23, 600 26, 473 35, 061

㎜餅鵬㎜o

5, OOO 13, OOO 10, 935 9, 900 14, 950 16, 611 大正12年12月末 〃13年6月末 ”13年12月末 ”14年6月末 〃14年12月末 〃15年6月末 昭和1年12月末

〃2年1月末

”2年2月末 〃2年3月末 〃 2年4月18日 (出所)『日本金融史資料・下穿編』第24巻424頁。 日銀からの融資は、昭和元年以降毎月末三千万円を超え、 八日には五千三百余万円に及んでいたのである。      滋賀県金融史の一側面  資金不足を補ってきている。第五表は同行が金融恐慌により休業するまで  の、日銀融資の経過を示すものであるが、大正一三年上期より急速に日銀  依存を高めていることがうかがわれよう。   大正一三年の近江銀行の整理と陣容の立直しは、一時的ではあったが同  行経営上に好結果をもたらしている。一三年下期より、数年来強調を続け  てきた金融市場は一転して緩和に転じ、その後も引続き緩慢化をたどり、  このため銀行の業績は不良で、東西主要銀行の多くが業績不振に陥ってい  た。一四年下期決算について、過去帳期間の業績をみると、一三年下期に  比して純益をあげえたものは、村井、明治、近江の三行のみであり、他行       お   はいずれも純益の減少、積立金の減少となっていた。しかし大正=二年の  整理は、近江銀行にとってはかなりの決断を要したものであったが、なお  その整理に徹底を欠き、従来の.取引先との結びつきをたち切ることがで きなかった。すなわち整理当時同行の貸出しは九千万円台に減少していた が、大正一四年下期には再び一億二七〇〇万円に増大し、しかも固定的な 貸出しがその主要部分を占め、ために資金繰りが再び困難となり、第2表  にみられるように、日銀への依存を強めているのである。表示のように、      昭和二年三月末には四千万円台に達し、休業当日の同年四月一 ︵7︶ =

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     滋賀県金融史の一側面       一二  昭和金融恐慌に際しては、多数の銀行が破綻をきたしたのであるが、そのなかにあって近江銀行の破綻は、同行が関西 における有力銀行であり、従来から日本銀行と深い関連を有してきた銀行であっただけに、同行の休業は二流銀行のそれ と異なり、かなり広汎な影響を与えることとなった。同行の休業により、﹁預金関係でひっかかったものは第一に大阪市、 三品取引所、紡績会社方面等であるが、警戒していたため比較的被害が勘く、滋賀県下の信用組合、産業組合ではかなり      ︵8︶ 被害があった﹂のであり、また﹁取引方面では同行がメリヤス業界において金融上独占的地位を占めていたため当業者の 打撃甚だしく、また綿業関係において江州出身の多いために、同行休業以来綿糸布取引は休商同様で、大阪より機業地へ       ︵9︶ 計 (第3表) 近江銀行の預金および貸出 (昭和2年4月16日現在)

薯嘉言支闇大阪本店合

   千円 92, 141 130, 506   千円 18, 520 45, 944   千円 65, 276 57, 362   千円 8, 345 27, 200 金 出 預 貸 (出所)r日本金融史資料。昭和篇』第24巻,425頁Q の綿糸布の荷為替取引も不能となった﹂のである。さらに重要なことは、台下、一五銀行などと 並んで近江銀行のような有力銀行が破綻を来たしたために、それを契機に全国的な信用恐慌を発 生せしめ、あるいはそれを加速化せしめる一因となったことである。かような意味において、近 江銀行の破綻に至るまでの過程は、わが国金融史上きわめて重要な意義を含むものであるととも に、また昭和金融恐慌の性格を明かにする上において有意義であろうと考えられるのである。  休業発表当時近江銀行の店舗は、大阪市本店以下市内一三支店、東京市五支店、京都市二支 店、滋賀県七百店三出張所、兵庫県三支店一出張所、合計三〇支店四出張所となっていたが、関 係地域の混乱は大きく、預金者擁護集会が開かれ物情騒然たるものがあった。とくに滋賀県にお いては、同行の歴史からもうかがえるように特別の関係を有し、預金者数最も多く、預金総額は 二千四百余万円に達していたので、その影響はことに甚大であった。滋賀県は近江商人の出身地 であるが、彼等は大阪あるいは東京など大都市において事業を営んでおり、近江銀行は近江商人 の銀行として、滋賀県あるいは京都府などで吸収した資金を、大都市域において放出するという

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傾向を有してきていた。第3表は同行の昭和二年四月一六日現在の、預金および貸出の本支店別状況を示すものである。 当時本支店をとわず貸出が預金を上廻っていたのであるが、とくに東京各麦飯、大阪本店においてその傾向が著しい。近 江銀行に対する預金者は、 ﹁玉髄八万二千余人ノ多数二上り、小ロノモノ勘カラス、調印ノ困難ナルヲ思ハシ同位ルカ、       ︵10︶ 殊二滋賀県温習テハ貸出少ク、専ラ預金ヲ吸収シタル関係上、預金者ノ態度強硬ナルモノアリ﹂とせられる状況もまた当 然というべきであった。同県下においては、三百円以下の小口預金者が二万七千口もあり、かような小口預金者に対し、 近江銀行が整理未済を理由に払戻しを行なわないのは不当であるとし、県選出の国会議員、産業組合関係者、市町村長総 代の間に数次におよぶ会合が重ねられ、近江銀行小口預金者金融組合が組織され、預金の約半額を年六分の低利で貸付け るといった措置がとられた。しかし同行開店の見込みが一向に立たず、七月二四日目至り、大津市公会堂において滋賀県       け  預金者大会が開催され、日銀への特別援助の要請、近江銀行役員の私財提供要求等が決議されている。  さきに大正一三年の近江銀行の大整理についてふれておいた。同行においては貸付の固定化、不良貸をもたらすような 放慢な銀行経営のあり方が、その後においても改善されず、前近代的な体質が日銀融資などにより糊塗されてきたが、こ れが昭和二年に至り露呈し、遂に同行を破綻せしめるに至る最大の原因となったものと考えることがでぎよう。もとより 同行破綻の原因は多々考えられることができようが、同行が綿業関係者の機関銀行としての役割を維持し、銀行と企業と の間に情実的関係をたち切りえなかったところに、直接的な原因を求めることは不当ではない。次に休業当時における同 行の内容について云及しておきたい。  第4表は休業直前における同行の資産負債の状態を示すものである。総貸出高は一億三千余万円に達し、預金高をかな り上廻るに至っている。休業直後の調査によると、前記貸出高中回収見込額は約一億余万円で、回収不能額は約三千万円 と見込まれていた。大正一三年に固定貸一千七百余万円が鎖却されたのであるが、其の後満三力年を経ずに再び巨額の不      滋賀県金融史の一側面      二二

(14)

滋賀県金融論の一側面 近江銀行貸借対照表(昭和2年4月16日現在) 借方金額  摘 要 「貸方金ec

貸方金額

        円 92, 140, 231. 88 48, 961, 940. 00  4, 078, 216. 59  5, 200, OOO. OO   279, 165. 94 58, 519, 322. 53  1, 837, 399. 83  1, 992, 680. 76  1, 825, 196. 39    33, 965. 50 3, 834, 495. 71 15, OOO, OOO. OO   450, OOO. OO   390, OOO. OO     3, 218. 52    16, 312. 37   206, 961. 32 (第4表)    要 摘 金金形[定          

閭l麟言

預入引マ当    ル行   割︻銀     本小 諸借再コ日

借替蓋定定金金金金金金

為 勘備資賦越

 国承   給割

店  勘金本準 賦三豊

外払   恩未

渡 益定員早期

他売支仮利資法行割支前

         円 126, 666, 994. 70    360, 298. 06   1, 655, 827. 20   1, 825, 196. 39 130, 508, 316. 35     88, 344. 72  5, 625, OOO. OO     42, 372. 20 25, 260, 576. 84     87, 255. 00    947, 958. 70  2, 188, 036. 91  3, 495, 581. 68  5, 759, 640. 39  2, 246, 702. 02 金替形返     計  為手見 出国替諾 貸外為承  手付払     小 諸買利支

金金定券券貸定定産定

ケ灘

j葡店思量

瓢輔失有感

預払雑所貸他本損所金 176, 249, 784. 81 計 総 計1 176・ 246・ 784・ 81 1総 (出所)r日本金融史資料・昭和篇』第24巻,425頁。        一四 良貸を計上しているのであり、この点整理の不徹底を端 的に示しているものといえよう。また不良貸を地方別に みると、関東五支店に圧倒的に多く、東京銀行合併によ る東京進出後、大正九年の財界反動、一二年の関東大震 災等により固定貸を増加せしめ、その後の三三あるいは 回収も財界不振により徹底させえず、やがて休業により 露呈されることとなったのである。また貸出に際し担保 評価が寛大に過ぎ、担保有価証券中には市価殆んど皆無 なるものが含まれ、担保不動産についての評価も、近江 銀行の評価と整理過程での日銀の評価との間に、約三百 万円もの差異が存したほどであった。また同行の貸出先 はすでに指摘したように、繊維関係業界に三脚せしめら れていた。近江銀行休業直前における一〇万円以上の大 口貸出先をみると、業種別には﹁綿糸布織物業﹂が圧倒 的に大きく、大口貸出合計額の四割六厘を占めていた。 そしてこれら綿業関係への貸出しが、固定化を招く大き な原因となっていた。この点について、日銀調査局資料 は次のように記しているQ

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 ﹁之ヲ要スルニ当行ノ貸出ハ綿業界二寒々偏重セシ以外ニハ重役全土関係事業二対スル貸出ノ如キモ格別多額ナラス只 従来積極方針ノ下二営業ノ拡張ヲ図り殊二大戦中急激ナル発展ヲ遂ゲタル際取引先ノ選択柳力放漫二流レタルニ、財界反 動ニョリ綿業関係者ヲ首メ一般得意先ノ蒙りタル打撃甚タシク自然固定貸多額二上リタルカ十三年整理ノ際其鎖却徹底ヲ       ︵12︶ 欠キタル為メ不知不識固定貸増嵩ヲ告ケ当行ノ資金梗塞ヲ誘致セルモノト認メラル。﹂  近江銀行の破綻を招いた別箇の要因として栗太銀行の休業があげられる。同行は明治三八年設立され、滋賀県栗太郡草 津町に本店を有し、同県下に一二支店を配していた。休業当時において、資本金一〇〇万円︵払込八○万円︶、預金総額六二 〇万円、貸出総額五三〇万円程度の小銀行であったが、近江銀行の系統に属し、県下においてはかなりの信用を有してい た。同行は第一次大戦中各種事業会社に融資を行ない、反動恐慌により資金の固定化をきたし、その後も他の休業銀行同 様整理の進歩がみられず、やがて金融恐慌に際し休業に追い込まれたものであり、近江銀行とは取引関係等を通じ密接な 関係を有していたために、栗太銀行破綻の影響は、直ちに近江銀行にも波及することとなったのである。  金融恐慌期における銀行の休業は預金老、取引先等に多大の影響を与えたが、近江銀行は産業組合、とりわけ滋賀県下 の産業組合と密接な関係があったため、同行の休業は同県下の組合事業に対し多大の被害を及ぼすこととなったのである。 周知のように、明治三三年産業組合法制定以来信用組合は相互金融を理念とし、信用事業は産業組合事業の一環として運 営されてきておザ、とくに明治後期以来小農保護政策の推進過程において、政府の助成・指導のもとに次第に整備され てきていた。そして大正=一年に至り産業組合中央金庫が設立せられ、系統金融組織としての体系が確立されるに至った のである。系統金融組織としての建前からは、産業組合およびその地方連合会である信用組合聯合会︵信聯︶、あるいは金 庫の資金は、その運用において主として系統内部の貸出に充当されるべきであったが、当時の信用組合、信聯においては 余裕金の多くを銀行預金として運用している場合が多かった。地方銀行と産業組合との関係をみると、昭和二年当時、地      滋賀県金融史の一側面       一五

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(第5表)産業組合預け金の系統系統外別利用率(1組合当り平均) 年月末 大正14.1 n 15. 1 昭和 2.1 tt 3. 1 預け金 総  額   円 24, 920 (100. 0) 34, 544 (100. 0) 39, 155 (100. 0) 44, 329 (100. 0)

 内訳百分目(%)

系    統         系 統 外

計1鍾「信連

27. 3 29. 3 30. 4 37. 0 O. 4 1. 5 27. 3 29. 3 30. 0 35. 5 訓銀行1そ・他 72. 7 70. 7 69. 6 63. 0 68. 8 68. 0 68. 0 6L 4 3. 9 2. 7 1. 6 L6  (出所)農林中金調査部編『農林中央金庫史・第1巻』248頁。     調査組合数は約3, 500。 (第6表)信聯預け金の系統系統外別利用率(1連合会当り平均) 預け金 総  額 系  統

内訳百分比(%)

   系   統   外 方銀行数は取皿、三〇〇行に達し、農村資金の吸収のためにかなり高い預金利子をつけており、また地理的に信聯・金庫        お  に比して利用し易いといった利点も重なり、銀行利用率はきわめて高かったのである。第5表は産業組合預け金の系統系 統脚継利用率を示し、また第6表は信連預け金の系統系統外別利用率を示すものであるが、双方とも預け金の銀行利用率 が高く、とくに信聯の場合にきわめて高い比率を占めていることがうかがわれよう。 滋賀県金融史の一側面 年  末 大 正 昭 和 tt 14

P2

 千円  716 (100. 0)  728 (100. 0)  978 (100. 0) 金 庫 2. 6 6. 7 25. 9

計「銀行そ・他

97. 4 93. 3 74. 1 96. 2 91. 4 73. 1 1,2 1. 9 1,0 (出所)同上。調査信連数は40。

  (第7表) 滋賀県信聯余裕金預入先

年度黙金劉銀行預釧信託酬囎貯金吟計

大正9年  10年  11年  12年  13年  14年 昭和1年   2年   3年   4年    円  30, 006  40, 841  203, 215  359, 387 2, 150, 558 3, 680, 686    円  813, 189  933, 514 1, 295, 952 1, 873, 903 2, 731, 594 3, 491, 016 2, 135, 367 1, 328, 079  567, 303  687, 773   円 30, OOO 30, OOO

 円

 278  197  427 1, 363  713 2, 587 1, 198 2, 474 1, 992 5, 696    円  813, 467  933, 711 1, 296, 379 1, 875, 266 2, 762, 313 3, 534, 444 2, 339, 780 1, 689, 940 2, 749, 853 4, 404, 155 (出所)滋賀県信用販売購買利用組合聯合会編『滋賀県信用販売購買    利用組合聯合会創立三十年誌』273∼274頁。 一六

(17)

次に滋賀県信聯の余裕金の運用状況についてみておきたい。大正期において圧倒的に高いウエートを占めているのが ﹁預け金﹂であり、他には国債、社債、その他の有価証券︵府県農工債など︶に若干の投資が行われているに過ぎない。し 休業銀行における産業組合預け金(単位:千円) (第8表) b’/a’ (%)   7. 5 一 7. 2 35. 6 0.0 4.7 1. 1 b/a (%o)   5. 4 ﹂︸

Z7

0. 5 1. 1 0. 3 10. 8 2.2 5. 0 5. 0 組合・聯合会の休業 銀行への預け金 ②

組、剣聯併

8, 081 1 2, 294 組合・聯合会の銀行 預け金 (1)

組。剣碁会

143 1, 944    0   174    32 [一 1, 180    40   154    52 5, 161   450   519   524 30, 562    90   408 1, 979 3, 393 4, 502 2, 948 5, 464 5, 178 3, 690 2, 909 149, 779   1, OOO   3, 235 15, 345   7, 854 14, 128 18, 713 47, 862 20, 730 10, 427 10, 485 額 二

道北東陸山海畿国国荒

北東関北東東近中四九

(出所)農林中金調査部編r農林中央金庫史』第1巻,247頁。 (備考)(1)は昭和2年4月モラトリアム実施当時の調査。    (2)は昭和2年1∼5月に休業した銀行についての調査。 滋賀県金融史の一側面 かし昭和元年以降﹁預け金﹂以外に、府県農工債、社債への投資が 急激に増加し、例えば昭和元年においては、﹁預け金﹂二三三一九、 七八○円、 ﹁府県農工債﹂八三万六、三五五円、 ﹁社債﹂一八八万 八、二一〇円、 ﹁その他﹂ 一万五、二〇〇円となっている。とくに 昭和二年には金融恐慌の影響下に、﹁預け金﹂が一八九万九、九四 〇円に急減し、﹁社債﹂一四七万五一〇円がこれにつぎ、﹁府県農工        む  債﹂が一〇三万八、七四四円となっている。  次に第7表により甲信聯余裕金の預入先をみると、昭和元年まで は銀行預け金が主要部分を占めていたが、昭和二年以降銀行預け金 が急減し、産業組合中央金庫への預け入れがこれに代って急激な増 大を示している。要するに滋賀県信聯の場合も、資金運用に関して は、全国的な傾向と同様であったといえるのである。  前述のように金融恐慌期に至るまで、産業組合あるいは信聯の、 普通銀行に対する預け金はかなりのウエ1トを占めていたのである が、ここで問題としなければならないのは、休業銀行に対する産業 組合預け金の状況である。第8表はこの状況を地域別にみたもので       一七

(18)

(第9表) 近畿地方における休業銀行と産業組合の預金 府県名

滋賀

京都

大阪

兵庫

銀  行  名       

277店十

店店店支二.ロ 支支支自 叙桝徹臥

轟各

沼銀馬足  太 生小 浅栗近二 字行行店行      計 支  支銀 行銀銀行立 銀城船銀共 地  五後      小 村山桑十丹 店百行行行 厳支   銀銀一 大行

蟹泉江陽

五井 十村河近泉 小 計

佐 用 銀 行

行店門店店行行行

麟醗畷銀闇討

緋轡∴

       小

明近十村中佐西六 休業 月日 3. 23 4. 15 4. 18 4. 19 3. 22 3. 22 3. 22 4. 21 3. 7 4. 21 3. 22 4. 25 4. 18 4. 19 不明 4. 18 4. 21 3. 21 3. 22 不明 tt tt 4. 8 組.合預金

   円

 31, 911, OOO 726, 375, OOO 2, 731, 590, OOO 343, OOO, OOO 3, 832, 876, OOO  89, 191, OOO  67, 950, 480  54, 172, 640   9, OOO 155, 407, OOO 366, 730, 160  87, 974, 970 127,000 OOO  56 786, OOO  83, 873, 400  35, 109, OOO 390, 743, 370  12, 750, OOO  40, 383, OOO   50, 430  2, 791, OeO  8, 633, 880  17, OOO, OOO  10, OOO, OOO  2, 30e, ooo 106, 405, 490 200, 304, 210 信聯預金 円 135, 325, OOO 1, 360, 071, OOO 1, 495, 396, OOO 142, 696, 590  12, 344, 250  24, OOO, OOO 179, 040, 840 10, OOO, OOO 10, OOO, OOO 合  計

   円

 31, 911, OOe 861, 700, OOO 4, 091, 661, OOO 343, OOO, OOO 5, 328, 272, OOe 231, 887, 630  80, 294, 730  78, 172, 64e   9, OOO 155, 407, OOO 545, 771, OOO  87, 974, 970 127, OOO, OOO  66, 786, OOO  88, 873, 400  35, 109, OOO 400, 743, 370  12, 750, OOO  40, 383, OOO   50, 480  2, 791, OOO  8, 633, 880  17, OOO, OOO  10, OOO, OOO  2, 300, OOO 106, 405, 490 200, 304, 210 滋賀県金融史の一側面 (出所)産業組合史刊行会編『産業組合発達史・第2巻』412∼413頁Q   一八 あるが、組合、信聯とも、銀行預 け金および休業銀行への預け金 は、近畿地方においてとくに多 かったことがうかがわれる。総 額に対する同地方の比率は、圧 倒的な高さを示していた。 ﹃産 業組合発達史・第二巻﹄の記述 によれば、 ﹁恐慌の影響は必然 産業組合に及び、埼玉、東京、 福井、長野、岐阜、滋賀、京 都、大阪、兵庫、和歌山などの 諸府県にわたって影響を受けた が、特に産業組合の銀行預金 が、県下産業組合の総預金の八 割を占め、その休業銀行に対す る預金が百二十三万八千円に達 していた埼玉県、ならびに産業 組合の休業銀行預金高が五百三

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十二万八千二百七十二円におよび、実に全国の産業組合の休業銀行における預金の半額を占めていた滋賀県の影響は極め       あ  て大きかったしとされている。第9表は休業銀行への産業組合預け金の最も多かった近畿地方のみを対象に、休業時にお ける銀行別にみた組合預け金の態様を示すものであるが、滋賀県下の産業組合および聯合会の比重が圧倒的に高く、全国 総計の約二分の一に達し、しかもその大部分が近江銀行に対する預け金であったことを明かにしている。同行はさらに大 阪府下、兵庫県下においても預金を吸収しており、このため同行は、金融恐慌期に、滋賀県および近畿地方の産業組合に 対し、至大の影響を与えることとなったのである。すなわち同行の休業により関係組合は払戻しの停止にあい、資産上大 きな損害を蒙ることとなったのである。当時滋賀県聯合会が産業組合中央会に送った報告書によれば、県下産業組合への 影響が以下のように記されている。すなわち  ﹁三月二十三日大垣市に本店を有する浅沼銀行長浜支店の休業に端を発し、爾来各銀行とも緩漫なる取付は日々拡大し 四月十八日遂に栗太銀行の休業となり、続いて近江銀行、蒲生銀行の休業発表、愈よ混乱動揺を招来して県下財界を脅威 せる結果ひいては組合員の動揺を来した。就中栗太銀行、近江銀行の休業は極度の恐怖に怯えしめたるを以て一般財界に 対する不安は益々増大し殊に組合聯合会は各銀行との取引関係多く、その影響する処多大にして組合及び組合員は貯金の 引出しをなすもの続出、特に市街地信用組合である大津信用組合は、四月十五日より二十二日までの期間に於て約十二方 一千門を、彦根信用組合は同月十八日より二十二日に至る五日間に嘗て三十六万余円を、長浜信用組合では同期間十万余 徳の貯金引出しを受け、農村組合に於ても厚生社の二十六万余丁、上田上、瀬田、稲枝、息長等何れも数万円の引出しを        ︵16V 受け、その金額巨額を算し大勢の趨く乱言んど停止するを見ざるが如き状勢を示した。﹂と述べられている。  前述のような産業組合あるいは聯合会の窮状に対し、政府および日銀は、産業組合中央金庫を通じてこれが救済に当っ ているQすなわち日銀はモラトリアムに入った翌々日の四月二四日に、中金に対し四〇〇万円の融資を行い、一方政府は      滋賀県金融史の一側面       一九

(20)

     滋賀県金融史の一側面      二〇 中金の貸出資金源として預金部資金による産業債券一、一〇〇万円の引受けを行なうこととし、五月一〇日にこれが払込 を行なっている。金庫は大阪支所と連絡を密にしながら、とくに混乱の大きかった滋賀、兵庫、埼玉等の信聯と協議を重 ね、組合、信聯の要求に応じ、応急資金の貸出に当った。滋賀県においては﹁中央金庫及び聯合会の系統機関により約三 百万円の資金と組合自体に出て麦払を準備せる約百万円、計四百万の資金を以て組合員の引出しに応ずる等、組合聯合会       ︵17︶ の各役員は必死となり難局打開に徹宵苦心せる結果漸く平静に復す﹂ることとなったのである。  近江銀行の休業についての概況は以上のとおりであるが、同行の休業は他の諸銀行の取付、休業を誘発し、事態を深刻 化せしめるに至った。この間先述のように、台銀救済緊急勅令案問題を機に瓦解した若槻内閣のあとを受け、四月二〇日 田中政友会内閣が成立、同内閣は事態の解決のため、蔵相に高橋是清をすえ、翌旦二日財界安定の応急策として、モラ トリアム、五億円の損失補償づきの日銀特融、二億円の損失補償づきの台認むけ特融の三方策を決め、まず四月二二日に 緊急勅令による﹁支払猶予令﹂の公布を枢密院にはかり、即日可決施行された。支払猶予については、関東大震災当時、 山本内閣︵蔵相井上準之助︶により実施されたことがあったが、昭和二年の﹁支払猶予令﹂は、施行地域が全国にわり、預 金引出額制限を一口五百円までとなし、モラトリアムの期限は三週間とされるなど、震災当時のモラトリアムと内容にお いて大きな相違があった。支払猶予令の施行に当り、 ﹁内務省は全国的暴動をおそれ、警保局長名をもって流言統語を取        ︵18︶ り締り、人心を動揺させないよう厳重注意すべき旨、十三の主要府県に通達﹂し、日銀もまた、 ﹁各銀行に対し徹底的融       ︵19︶ 資を図る決意ある旨の声明を発し、預金者の冷静化を求めた﹂のである。さらに政府は五月四日より第五三臨時議会を召 集し、前記のような七億円の巨費をもってする日銀特融および損失補償法を通過せしめ、同月一〇に公布、施行せしめた。 かような政府補償による日銀の特別融通は、さきのモラトリアムとともに異例の財界救済措置であり、昭和金融恐慌が、 日銀単独ではこれを制圧しえず、政府の陣頭出動を必要とするほどに大規模なものであったことを意味するものであった。

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そしてかような措置により、モラトリアム明けの五月なかば以降、漸く金融界は平静に復することとなったのである。  近江銀行はその後整理一切について日銀に委任し、日銀は近江銀行の資産負債の査定を行なうとともに、新銀行たる昭 和銀行に合併整理の方針を打出し、昭和三年五月同行に合併されることとなった。そして昭和銀行もまた、昭和五年に 至り、滋賀県内の支店を徹退せしめている。この間の詳細については別置にとり上げたので、ここではふれないでおきた 譲︶ し ︵1︶ ﹃エコノミスト﹄︵昭和二年五月一目号︶ ︵2︶︵3︶︵4︶ 日本銀行調査局編﹃日本金融史資料・昭和篇﹄第二四巻、 ︵5︶ 熊川千代喜編﹃阿部房次郎伝﹄二八八∼一一八九頁参照。 ︵6︶ ﹃エコノミスト﹄︵大正一五年三月一日号︶ ︵7︶ ﹃日本金融史資料・明治大正篇﹄第ニニ巻、九〇五頁参照。 ︵8︶︵9︶ ﹃エコノミスト﹄︵昭和ご年五月一日号︶ 四二二頁。 ︵10︶ ﹃日本金融史資料・昭和篇﹄第二四巻、四三七頁。 ︵11︶ 熊川千代喜編、前掲書、三二〇頁参照。 ︵12︶ ﹃日本金融史資料・昭和篇﹄第二四巻、四二九頁。 ︵13︶ 農林中央金庫調査部編﹃農林中央金庫史﹄第一巻馬二四八頁参照。 ︵14︶ ﹃滋賀県信用販売購買利用組合聯合会創立三十年誌﹄二七三∼二七四頁参照。 ︵15︶ 産業組合史刊行会編﹃産業組合発達史﹄第二巻、四一四頁。 ︵16︶ 木村奥治編﹃滋賀県農業団体史﹄一七一頁。 ︵17︶ 同右、一七二頁。 ︵18︶︵19︶ 高橋亀吉・森垣淑﹃昭和金融恐慌史﹄一八三頁。 ︵20︶ 拙稿﹁近江銀行の破綻﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第六号︶所収 滋賀県金融史の一側面 二一

(22)

滋賀県金融史の一側面 目二 四 経済恐慌下の滋賀県金融 昭和二年の金融恐慌以来悪化の方向をたどってきた日本経済は、 (第10表) 昭和恐慌の農家経済への影響   (大正15年を基準年次とする指数)

農家平均

現金鴫家讃

卸 売 価 格 米[生糸1全商品 100. 0 94. 0 9L9 90. 5 67. 4 46. 2 47. 1 51.0 53. 7 100. 0 74. 8 87. 5 85. 1 59. 0 33. 5 37. 1 42. 2 43. 7 100. 0 94. 9 95. 3 92. 8 76. 4 64. 6 67. 9 75. 9 75. 1 100. 0 84. 5 81. 2 8L 1 53. 1 36. 7 41. 5 44. 9 3L4 100. 0 93. 4 82. 2 77. 1 67. 4 48. 9 56. 1 57. 5 78. 9 大正15 昭和2     3     4     5     6     7     8     9 (出所)RP.ドーア(並木正吉外訳)r日本の農地    改革』60頁。 (備考)1) 戦前の農家経済調査の対象農家の規模は,      実際のそれよりもやや大きい。    2)加重平均。 産価額の低下が著しい。生産産価額の構成比においても、 家経済に対し大きな影響を与えることとなった。 年末現在において、農家一戸当りの負債額は六七四円五九銭となっており、         昭和五年一月の、金解禁の断行による経済基調の変化   により、著しい苦境に当面することとなった。有価証券をはじめ諸物   価は激落し、事業会社の経営難は深刻化した。しかしこの恐慌期にお   いてとりわけ重大な影響を受けたのは農業部門であり、中小・零細企   業であった。第10表は恐慌の農家経済への影響の一端を示すものであ   るが、昭和五年以降九年にかけて、米、生糸価格および現金所得の低   下の著しいことがうかがわれる。滋賀県下について、農家一戸当り平   均の農産物販売価額の推移を、大正八年を一〇〇・○とする指数でみ O   ると、同一二年に八二・八、昭和元年に八七・五、同三年に七五・八   同五年に四五・八となっており、昭和五年には大正八年当時の半分以          ユ    下に急落している。第11回目県下における﹁農林水産業﹂、 ﹁鉱業﹂、   ﹁工業﹂における恐慌期を中心とした生産価額の推移を示すものであ   るが、 ﹁農林水産業﹂、﹁鉱業﹂において、とりわけ恐慌期における生      ﹁工業﹂と対照的にその低下が顕著である。かような動向は農  農業恐慌期を通じ、県下農村の負債は増大し、県調査によると、昭和六       昭和一〇年八月末現在において、なお一戸当

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(第11表) 滋賀県下におけ’る産業別生産価額および構成比の推移(単位:円,%) 合 計 総壁価倒比率 業 工 生産価額1比率 業 鉱 生産価額1比率 農林水産業 生産価劉比率

年次

100. 0 100. 0 100. 0 100. 0 100. 0 100. 0 100. 0 160, 395, 063 154, O15, 338 158, 870, 126 113, 379, 686 167, 387, 246 194, 223, 884 227, 749, 532 46. 2 52. 2 56. 4 59. 4 63. 7 65. 0 65. 7  74, 042, 893  80, 366, 832  89, 665, 074  67, 31], 824 106, 647, 676 126, 156, 605 149, 543, 636 O. 6 0. 5 0. 5 0. 2 e.3 0.3 0. 2 955, 042 746, 810 710, 176 254, 769 499, 648 607, 960 424, 518 53. 2 47. 3 43. 1 40. 4 36. 0 34. 7 34. 1 85, 397, 128 72, 901, 696 68, 494, 876 45, 813, 093 60, 239, 922 67, 459, 319 77, 781, 378 大正14 昭和2     4     6     8    10    12 滋賀県金融史の一側面 (出所)『滋賀県統計全書』により作成。ただし昭和12年の生産価額には各産業とも若干    の不明分が含まれている。 り六一九円の負債額を有していたのである。  県下においては、地場産業もまた大きな打撃を受けている。昭和五年より、多く の業界が手持商品の暴落に当面し、高島織物の場合なども、不況期間が長期化し、       ︵2︶ ﹁昭和七、八年頃までかかって手持品の整理と処分を終える﹂状況であった。能登 川町を中心とする麻織物および緊密織物についてみると、昭和二年当時、機業場数 三、八〇五、総生産価額四四三万三、八七一円、従業員数五、五六五名であったが、 昭和八年には機業場数一、六〇七、総生産価額二三四万一、七六〇円、従業員数二        お  四〇八名となっており、文字通り激減している。不況は麻織物にも甚大な影響を与 え、 ﹁その主要生産物たる赤子耕、紺耕、白耕等の販売が極端に減少し、売価は半 額となった。ここにおいて業者の廃業はあとをたたず、麻織物によって生計を立て       る  ている湖東地方は現金収入の途がとだえ、衰退が甚だしかった﹂のである。 .経済恐慌期において、滋賀県経済は多大の影響を受けたのであるが、これらの動 向は、やがて県下の金融機関に対しても大きな打撃を与えることとなった。県下の 金融機関は、農業、地場産業を主な取引先とする弱小銀行が多かっただけに、各銀 行は当然ながら経営不振に当面した。当時全国的にも地方銀行の経営難は深刻化し ており、昭和五年における休業銀行は、一月一件、三月二件、四月一件、一〇月五 件、一二月三件と相ついで発生しており、県下においても、同年蒲生銀行および甲 賀銀行が休業し、預金の一部支払い停止を余儀なくされている。また昭和七年三月        二三

(24)

滋賀県金融史の一側面 (第12表) 県内普通銀行主要勘定 (単位:円)

末1行数1払込資本金「積立金1預  金1貸出金1有価証券

年 20 753, 275 31, 036, 373 27, 271, 858 23, 108, 327 29, 761, 088 33, 092, 322 59, 495, 630 42, 156, 205 34, 395, 682 26, 076, 872 25, 444, 090 31, 910, 111 74, 857, 827 74, 313, 449 61, 773, 049 52, 826, 033 58, 981, 180 66, 122, 479 6, 967, 443 4, 137, 754 2, 926, 464 1, 880, 875 2, 091, 750 2, 423, 130 9, 290, 783 8, 368, 750 7, 556, 250 6, 579, 750 6, 579, 750 6, 742, 250 13

V5444

昭和2    4    6    8    10    12 (出所) r滋賀県統計全書』により作成。        二四 には、名古屋市に本店をおき、県下に取引先の多かった明治銀行が預金支払い猶予を発表 している。  第12表は昭和元年から一二年にかけての、県内普通銀行の主要勘定の動向を示すもので ある。表示のように、昭和初年以降、普通銀行の主要勘定の各項目はいずれも低下を示し ている。預金および貸出金の動向をみると、預金の減少傾向に比し貸出しの減少は一層著 しく、恐慌期において両者の開きは著しく拡大している。各銀行とも資金需要の低下によ り遊資がたぶつき、資金運用に非常に困難を感じていた。このため、公債その他の有価証 券の購入が行なわれている。当時の地方銀行は不況以外の要因によっても、その経営がお びやかされていた。地方銀行においては、貸出しにおいて、不動産担保貸出しが大きなウ エートを占めていたが、勧銀による低利貸出しの圧迫などにより、不動産貸出し金利が著 しい低落をみ、これが地方銀行の経営を困難ならしめる原因となっていた。さらに滋賀県 においては、町村信用組合の進出が著しく、預金に対する税金免除の特典等により、銀行 に比し比較的高い利率で預金を吸収しており、これまた地方銀行の経営を圧迫せしめる原        ら  因となっていた。  前述のように、恐慌期を通じ民間の経済活動が停滞し、資金需要が落ち込んだために、 金融機関は、資金の運用を有価証券投資に向けざるを得なかったのであるが、当時の県下 における状況は第13表によって概観されうる。すなわち第13表は、県下の普通銀行におけ る、恐慌期前後における有価証券の保有状況を示すものである。預証率︵預金に対する有価

(25)

滋賀県普通銀行における有価証券保有とその構成(単位二円,%) (第13表) 債 社 債 量 地 債 国 率 額 比

率1価

額[比 価 率 額[比 価

年末

33. 9 35. 2 40. 7 31. 5 28. 1 26. 0 預証率

器%

27. 7 41. 8 44. 1 43. 7 50. 4 50. 0  7, 032, 457 10, 928, 402 11, 109, 434  7, 276, 608  8, 358, 541  8, 588, 254 金 預 ㈹ 6. 1 5. 2 10. 1 11.8 3. 4 2. 0 計 1, 274, 791 1, 624, 770 2, 759, 225 2, 719, 373 1, 005, 986   649, 481 26, 3 28. 8 23. 8 28. 6 44. 0 44. 1  5, 453, 242  8, 936, 875  6, 486, 205  6, 475, 459 13, 106, 125 14, 613, 662 昭和2     4     6     8    10    12 率 合 剖

価⑧劉比

式 株 率 額 比 価

年次

74, 857, 827 74, 313, 449 61, 773, 049 52, 826, 033 58, 981, 180 66, 122, 479 100. 0 100. 0 100. 0 100. 0 100. 0 100. 0 20, 753, 275 31, 036, 373 27, 271, 858 23, ]08, 327 29, 761, 088 33, 092, 322 33. 7 30. 8 25. 4 28. 7 24. 5 2Z 9 6, 992, 785 9, 546, 326 6, 916, 994 6, 636, 887 7, 290, 436 9, 240, 925 昭和2     4     6     8    10    12 (出所)r滋賀県統計全書』により作成。価額は実価によって示されている。預金セこは    当座預金,特別当座預金,定期預金,その他預金が含まれる。 滋賀県金融史の一側面 証券価額の割合︶は、昭和四年以降急速に高められているが、 構成比においては、昭和四年、六年については、社債の割合 がとくに大きく、昭和一〇年、 一二年には国債の割合が著し く高められていることが注目されよう。  わが国における社債の発行は、昭和初年より急激に増加を みている。金融恐慌以後における金融の緩和、不況の深刻化 による投資需要の低下により、巨額の遊資が生ずるようにな り、そしてかような動向を背景に、債券価格の騰貴、債券利 子率の低下が生じたのである。すなわち社債発行条件の好転 により、電力債、鉄道債を中心に、その発行が急増すること        ︵6︶ となったのである。また昭和一〇年に国債保有割合が増大し ているのは、昭和七年一一月からの、いわゆる高橋財政によ る赤字国債の発行によるものであった。昭和七∼一〇年の問 に、国債発行額は三三億七九〇〇万円となり、日銀引受金額 は二七億六、七〇〇万円に達し、発行額の八一・九%に及ん でいる。このうち売却額はこ三七六、○○○万円となり、民       ア  間金融機関、とくに銀行によって保有されているのである。 滋賀県下の普通銀行のみで、昭和一〇年末には一、三〇〇万        二五

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     滋賀県金融史の一側面       二六 円余の国債保有残高がみられたのである。昭和一〇年前後より、わが国においては、戦時体制への移行を背景に、民間企 業の発行する株式あるいは社債等を中心とする私的証券資本主義より、国債あるいはいわゆる国策会社の株式、社債等、        き  公的証券資本ないし半公的証券資本主義の時代へと急激な転換がみられてきており、かような動向が、滋賀県下の地方銀 行の証券保有の構成変化にも端的に投影せしめられているのである。  滋賀県下においても、金融恐慌を契機として、あるいはさらに経済恐慌期を転機として、銀行の合併が強力に推進され また実現されている。わが国においては、すでに明治三〇年代より中小銀行の合併が勧奨され、具体化されてきている が、第一次大戦以後、中小銀行の経営悪化が重要問題となり、その対策として﹁地方的合同促進﹂政策が推進されるに至 った。さらに金融恐慌を契機に、預金者保護と銀行経営の基盤強化の観点から銀行合同の促進が、金融行政の重要課題と され、昭和二年八月、大蔵省は全国地方長官に対しその斡旋を要請し、また翌三年一月、新銀行法を施行、資本金額の 最小限度を設け、銀行業は資本金百万円以上の株式会社たることが要求されている。かような動向を背景に、滋賀県下に おいても、中小銀行の合同が実現されることとなった。もとよりその過程において、先述のような意味における、打続く 不況による地方小銀行の経営の困難という問題が所在し、それが合同を推進せしめる契機となっていたことは指摘するま でもない。  第13表は大正末年以降、昭和一二年に至る期間における県下普通銀行の石数および払込資本金別区分の推移を示すもの である。表示のように金融恐慌を契機に、黒鉱は激減し、さらに恐慌期においても合併が進捗せしめられたことをうかが いうる。また、この過程において、払込資本金規模のより大きな銀行への移行が進められてきたことが示されている。滋 賀県下における銀行合同の経緯について、 ﹃滋賀銀行二十年史﹄は次のように述べている。すなわち昭和初年当時﹁滋賀 県下の銀行界は、特殊銀行および都市銀行あるいは県外銀行支店を除き、地方銀行界は百計三銀行と八幡銀行とに二分さ

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