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『宗教研究』新第13巻第6号(*98号)

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(1)

――目次――

1,

祖先崇拝と天の思想,高田真治,Shinji TAKADA,pp.1-23.

2,

天台教判に対する反省,藤本智董,Chitō FUJIMOTO,pp.24-37.

3,

ヨーガスートラの理論的機構の意義(承前),理論と実践との宗教的相関,岸本英夫,Hideo

KISHIMOTO,pp.38-55.

4,

摂大乗論の一意識論者について,西尾京雄,Kyōo NISHIO,pp.56-73.

5,

宗教現象の逆観,原始宗教研究法上の問題,棚瀬日出麿,Hidemaro TANASE,pp.74-95.

6,

唯識説における識所依,特に安慧の説について,富貴原章信,Shōshin FUKIHARA,pp.96-111.

7,

金剛寺一切経全貌,三好鹿雄,Shikao MIYOSHI,pp.112-132.

8,

海外雑誌論文,pp.142-146.

9,

新刊紹介,pp.147-156.

Posted in 1936

(昭和11)年

(2)

租先史丼と天の思想

届 田 眞 拾

組先崇拝転以て宗教の起原を説明するスペンサー︵H.SpeロCer︶ の詮は、後の学者に依って否定されて居る 棟であるが、組先崇拝が最も顧著に行はれた支部に於ては、是を以て天の思想の蟄生が説明せられるか如何かと いふことを、一應検討するの要が有るであらう。 支那に於ける組先崇拝に閲する起原や襲達に就いての叙述は、今は之を措いて、此靡では此の組先崇拝と支那 苗代に於て宇宙の絶封最高紳として崇拝された天の思想とが如何なる関係に在るかを論ぜんとするのである。ス ペンサーの畢詮を顧慮しっ1組先崇拝と天の思想との闊係を見れば、 ︵こに天の神聖なる性質の中には、弧先に封する崇敬畏慣の怖が本質的に存せねばならぬか、︵二︶に天は恰 も山嶽が其の民族の草生地である故に組発として祀らる1に至った如くに、支部古代民族の賛辞の上に於て至大 な関係が有るが故に遂に始組として崇挿さる1に至つたか、︵三︶に兎に角天の崇拝は組先の崇拝を重要な前捷 として蟹達したか、との三鮎であらう。 支那上代に於ては、祖先む箋魂は昇って天に在ると信ぜられてゐた。毛詩の大雅下武筒に 下武稚周 1−ヒ布野王 三后水天 王配千京 租先崇井と大の思想 ノア即

(3)

軌先崇葬と天の思想 二 とある。三后とは周の北組の大王と王季と及び文王とである。この三后は既に殺したが、其の賢仮せる精束は天. に在すことを。謂ったのである。また周頒浄廟篇には 済々多士 兼文之徳 封越在天 とある。済々たる衆士が文王を祀り、虔みて既に死せる文王の精霞の天に在るに封するを謂ふのである。僻事召 詩篇には 裁焼多党軒王在天 とあつて、血に死せる多くの段の先哲王の紳塞が天に在すことを述べて居る。是等の場合に於ける天は、現に形 態的に見得る天であつて、組先と混同せられた天敵ではない。この種の天は或は帝庭と栴せられ、或は帝朗と稲 せられ、或は帝郷︵荘子天地篇に日く、乗彼白雫至千帝郷︶と稀せられる。僻事の金勝篇に カ命子帝座 敷佑四方 用能定爾子孫手下地 とぁるのは、周の武王が上帝の命を受けて周方を拾むることを謂ふのである如、帝庭とは即ち上帝の在す庭であ る。叉史記遡≠豪によれば、秦の穆公は停陸の病に耽り、七日にして矯め、痛めて其の左右に 我之帝所甚類 書所以久着通有畢也 帝骨我 晋園将大乱 五世不安 其後滞覇 云云 と語ったとあり、之と同じく超簡子も二日年俸陛して後に痛め、其の大夫に夢中に観た所を語って 我之帝所甚聖 典百紳群於釣天 廣聖九奏歯舞 不類三代之栗 其聾動人心 有一熊飲水接我 帝命我射之 小熊 熊死 叉有一橋釆 我叉射之 中絶 礪死 帝甚菩 賜我二笥 云々︵岡語晋語、史記遁世家引︶ γ♂β

(4)

と謂って居るが如きは、此の例である。この天は所謂天界暇念 ︵↓heidea Ofhea焉n︶に於ける天界︵hea完ヨ︶

である。支那上代に於け為天界の概念は、後に発新の申に絢爛たる文革的衣視た得るに至った。

天界は変域として表象されるけれども、それは他の主要な宗教観念に随伴するものであつて、それがそれ自身

聖なるものとして表象されることも、又は宗教的貴丼の封象になることもない。天界は特殊の地域であることを

特融とするのであつて、仮令組先崇拝にその起原を有するのであるとしても、天界が直ちに組先がその崇拝者と

恩恵貴憾の膵係にあるが如き人間性を、その本質としないのである。この怒味に於て備に支那上代の観念に於け

る天が、其の起原を原始的租先崇拝に有するとしても、それがよく天界として表象されつ1而も崇拝の封乗にな

るに至ったといふ過程には説明し得ないものがある。由来支部上代の天の観念には、形態町天と主宰的天とを雛

則し得べきものがあるが、而も其の本質に於ては雨着相分離すべからざる同一のものを含むのである。故にスペ

ンサーの詮に従へば、天界として表象せられる形態的天が、更に主宰的天として崇拝されるまでに進化すること

を詮き得ないのである。加之、若し形態的天と主宰的天とを其の本質的の鮎から見て同一根幹のものであること

を許容するならば、天界として表象される形態的天は、その形態的の鮎、地域的の鮎に本質が存するのであり、

従って主宰的天も人間性を本質と一せす、其の起原を租先崇拝とは却って臭ったものに有することにな少、天の神

祭の共には、組先に封する畏催が基底たなつてゐるとは言へなくなるであらう。叉若し天が何等かの悲昧で支那

上代民族の起原と紫切た関係を有し、従ってやがて其の組発と甚だ親近のものとして黒井されるに至つたとし

ても、天はかく輔に形態的に夫象されてゐる事摩は∴北ハの密接な閲係を否にしないにしても、それは両者が容易

組先崇井と大の思想 J7β∂

(5)

に混同され得べきものでないことを明白に示してゐる。且つ天が彼の民族の起原と関係を有するためには、其は 飴りにも離れ過ぎてゐる存在であると謂はぬばなるまい。 猶ほこ1に天と組先との寧ろ否定的関係を許する他の二三の事賓がある。其の一は天と組発とは何等かの直別 されるべき性質の存在であることである。組先の整は昇天するけれども、それが直ちに天として崇拝されるので も、又は其の組先の重の中の一が僕位に高められるのでもなく、天文は上帝は既に厳然たる転封最高の位置にあ るので、組先の婁はたとひそれが地上に於ては偉大なる勢力を有するものとして恐れられたものであるにしても、 皆等しく上帝の庭に命ぜられて、其の命を四方に布く︵前掲金勝の文︶のである。詩の大雅文王篇には 文王在上 於昭子天 文王捗降 在帝左右 とあつて、文王の塞が昭かに天に在って下を監鋭して居り、其の靂は常に上帝の左右に在し、時に或は天に昇少 或は地に降って、周の王室を監督加護して居ることを謂ひ、周頒思文篇には 息文后硬 蒐配彼天 立我蒸民 莫匪蘭極 胎我禾牟 帝命率育 無此彊爾界 陳常子時夏 とあつて、周の始組后稜に文徳があつて民に穣穂の道を教へたことを稀して、后稜を天に配すと焉し、上帝が后 稜に命じて下民を養はしむると属すのであるが、配天とは其の徳を天に配し其の重を天と並べて一祀ることである のである。左倖には一骨具饅的な叙述を見ることが出来る。即ち悟公十年俸に晋の恭太子中生の婁が硯はれて狐 突に語ることむ述べて 観光崇拝と天の想思 四 汀ク0

(6)

狐爽恕下観 池太華=射手確認俄 而骨之日∴兎番組隠.倉掛浄於宿奏∵藤放晋昇素 案脾祀余封乱 臣 聞之 納本歌非難 民不祀非族 君祀無力珍乎 且民何部 失刑乏祀 君共闘之 君日諾 吾膵復講 七日 新城西偏膵有巫者而見我焉 許之 途不見 及期而徒 党之日 帝許我罰有罪実 弊於韓 とあるが、是は左俸に於ける有名な幻怪な記事である。太子申生は前に晋の乱の時新城に於て溢死した哀太子で ある。太子生前の時の革の御者であつた孤突は、此の中生の亡婁と相語ること生前の時の如くであつたのであ る。或は之を孤突の夢みた事と焉す説も有るが、春秋の衰乱欒調の時代の事であるから、斯かる怪異的な事茸が 有ったと見ても美文へ有るまい。亡婁は忽焉として硯はれ忽焉として消えたのである。今亡太子の言を聞くに、 太子の婁は上帝に請うて其の弟意公の無稽を罰せんとしたのであるが、孤突の諌に依って、改めて上帝に講ひ直 し、凛公をして韓の地に敗戦せしめて之を懲すこととした。二度目の上帝の命を俸へたのは、太子自らの亡霊で はなくして、巫に因つてであつた。叉昭公七年には、衛の嚢公患が亮じた時、周王の弔辞に 叔父降格 在我先王之左右.以佐事上帝 とある。天子は諸侯を稀して叔父と謂ふバ今秦公が亮じて其の重は周の昔の天子の重の左右に侍り、以て上帝に 仕へ上帝の仕事を助け馬すであらうと謂ふのである。天といふも帝といふも上帝といふも共に同一であるd以上 の例によれば、組先の婁は捗つて恰も地上に於けるが如く天界の職分を属すのである。而も其の時眈に唯一的健 位の上帝の地位は厳存するのであ少、如何なる組先によつても代はられることはないのである。この天界の職位 は、地上に於ける制度を反映するものであるかも知れない。然しさればと紺つて其の故に天を唯一の貪宰者とし 利光崇邦と天の思想 五 〝射

(7)

軸先川弄と天㌫心烈

て崇丼することは、天の子と糾する王者が共の樺力を遅川する伸宜上から作られた思想ではないかと臆測するこ

とは許されない。支郵上代に貴け・る政教に関する天命思想は、主として王者が天命を受けて天下の王となること

を説くものであるが故に、是は政清的樺力者の根置藍日定せしめるために作禿せられたのであらうといふ疑を挿

む詮地があるやうにも恩はれる。然し﹁王司敬民 間作天胤﹂ ︵苔、高宗形日︶といひ、﹁今天共相民﹂︵書、大 詰︶といひ、﹁天降下民 作之君作之師﹂︵孟子梁藩王下笛斯引菩之文︶といひ、又は﹁天命不易 天耕誹 乃共 墜命 弗克粁歴﹂︵半、君爽︶といひ、﹁我亦不敢寧干上帝之命 弗永遠念天成越我民間尤準一︵同上︶といひ、天 命聯常︵詩、文王︶といひ、皇天無親へ左侍、倍公五年︶といひ、天は必すしも治者のみを脊願するものではな

く、最高の治者即ち帝王も亦天より創造せられた禿戌の中の一に過ぎないのであつて一天は寧ろ被治者たる一般

民衆を平等公平に撫育し監醍して、民の聾を最も息寮に詐くもゐであるから、天の円還を単に椎力者のために歪

曲せられた思想であると見ることはrH衆ない。それ′rlの時代に赤って征服民であつた有夏といひ石段といひ、

共に永久の天命を保有すろを得なかつたのであり、其の徳を憎しみ民を触れむを持なかつたが故に、遂に天成の

罰穐を蒙らぬばならなかつたのである。其の一の征服民の棟力者が大として崇拝されるに至ったと見るべき詳跡

も全く無いのである。

殊に祀先崇藤と天の崇拝とは全く異起原のものであるか、又は寧ろ租先崇拝の聾連のためには天の崇祥を前纏

とする、即ち犬わ”弄り起原が冊先川完よりも井〓すろこしくむ恨足せねばたらぬ瑚性が〃すろJ郊祀祭天配闘わ

髄、葡給配天の紗、又は腐生砺詑が是である。

J7‘)g

(8)

祭天の儀稚の起原は甚だ請い。佃薄膜昏に

† 子六

歳二月兼巡守 至予備宗 柴 とあり、既に一定の成立祀であつた。其の後歴朝に於ける陣伍巡守旧師建都等の大事には、類祭して之を告げ、 凶災の大政には、族祭して之を祈ったのであり、又春は新穀し、夏は大写し、秋は明堂に完祀し、冬は園丘に天 ㌢祭ったのであり、而してこの冬至のHに南郊の園丘に於て天を祀る豊ハの正祭としたのである。但し其の精細 の鮎に就ては異説衆訟のものが多いが、今は其の通説を探る。この祀天に租を配するのである。配組の事は唐鐘 の苫昔より#すると倖へるけれども、配組の語を我する文献は比較的後世のもので、周易預卦象侍には 象〓 笛出地奮頚 先王以作柴崇徳 原贋之上帝 以配組考 とあり、孝紆には 晋者周公郊祀后祓以配天 宗祀十王於明堂以配上帝 とあゎ、而し同語魯語には 展塵=故右岸氏締黄帝両税制頂 郊尭面上小舜 夏后氏神葦帝両税顕頂 郊鮨而宗南商人繭舜而岨契 郊 箕面宗揚 同人締螢而郊稜 親交王而︰一小武王 とり、 豊⋮い展拭わ詮に対しては、祀記倶法に丹ハ侍を我せてゐろ。帝語倶法等にいふ加て、天を■祀るに机を配 計 十ろこー′Lが余人い雌と圧定八代のもいであろかどうか、之髭心的るには文政の是F︶ざる憾が多いが、寧ろ斯く古 脚光崇升LL失い想崇 七 J79J

(9)

租先崇丼と天の思想

代より一定わ形式をとつたことを疑はしめ、祭天の碓よりは後起であることを播磨せしめ、其の時代は早く見て

も周代に入つて漸く成﹂止撃こなるに至ったのではないかと考へられるものがある。而して詩の周餌息女笛は、こ

の碓の際に奏する架歌であるとされてゐる。

祭天の祀が天に封する報本反始と所普とを主とするものであることは言ふまでもない。姦によればその由蒜

は直接に天に向けられないで、天の尊貴を代表する陽宗の日学王となし月を徒祀するとされる。︵支郵に於ては 太陽を以七直ちに上帝と焉す莞道銀⋮い。︶何れにしても天を崇祥あ主封象とする鮎に於ては相違を見ないので

ぁる∪天皇完の主封象としながら、之と匹敵すべき組宗を以て配するのは何故であるか。孝経には

孝莫大於厳父 厳父莫大於配天

とあり、稽記郊特牲篇には

寓物本乎天 人本乎組 此所以配上帝也 郊之祭也 大報本反始也

とあり、大戴噸胡事篇には

祀天於南郊 配以先組 所以教民報徳也

とある。即ち同左る報徳の念が雨着を同這紳里化すると見るのである。然し祭天の穏は亦政治的乃至は祀昏

的意表を有するものであることを遺すことは出来ない。櫻記祀道筋に

祭帝†郊 祈〃定天付而

和行千郊 而百紳受撤焉

汀ク4

(10)

とあり、叉、表記篇に 千言之+君ナ之所謂童者 皿山姥普有事於天下 天子親排 葉盛和望 以事上帝 故諸侯勤以輔車於天子 とある。周語に周の襲王の臣内史過の言を載せて 古老先王眈有天下 叉崇立上帝明神何故事 於是乎 有朝日夕月 以敦民事君 諸侯春秋受撤於王以臨其民 大夫士日略位著以倣共官 庶人工商各守其業以共共上 檜恐有墜失地 云云 とあるが、是である。苗代祭政未だ分離せざる時に在っては、祭儀は重大なる政治的意義を有したのである。支 部上代の素様な天の崇拝に於ても、其の政治は天の絶封的主宰の下に於て行はれたのであり、従って其の祭天の 儀穏が有する鮮少ならざる意義を理解するに難くない。而してこの鮎から、相矛盾するが如き二封象が或鮎に於 て結合することを見出し得ると思ふ。荒し祭天の儀式には、諸侯高氏が参列する。周穫秋官大司遥の撤に 若顧祀 則戎之日 独誓百官 波子百放 とあるにょつて推せば、本朝の百官は固よ少、同姓諸侯より異姓諸侯に至るまで、悉く其の儀式に列したと考へ られる。殊に合同H師等にあつて然したことは疑がない。而して合集に一定わ典祀が有って、上下の則を定め親 疏か別を序し大小の差を分つて、相障ることなからしめるのである。是が眈に一の政治である。平常の行政組織 を最も顕著な形式に移して、其の貴重を更新する磯陰に外ならない。宗教的な起原を有する祀が、囲わ紀として 政治的意味を有するのも、これがためである。而もかくの如き倉典は、一のH念むいて甘かれる。其の雌株が眈 にそれによるのであり、其析に告げられるもわ折られるもか絶ては、同一なる対象わ天によるものと信ぜられ、 郡司県小刀と天の思想 九 Jアタ占

(11)

机北出現井と宍の思想 一〇 同一なる天の紅酎、‡隼?童黎明観念の申た浸らしめられるのである。この儀伯−忙通じて其の信念の上に於ても、 其の硯茸の行儀の上に於ても、其の政治的意養が、絶えす新なものとして意識されぬばならない。この儀典は、 初期に准ってぺ地上に於ける代表者としての、又は天と通じ得る唯一のシャーマンとしての天子にょつて、直 接天に封するもわとして行はれたのである。この際集り合した諸侯百官の関心は、直接天に向けられるよりは、 寧ろ其の天子に集中し る。然るに宗族が蟄展するに伴って、世襲君子が川現し、叉組先買尭が蟄達するや、嘗て其の組党が其の徳によ って天命む享受したことは、其の徳はそのま1に俸承すべしといふのが其の子孫の感情であり、而して嘗ての如 くに天命を保有し得べしとは其の信念であり、而してそれに服巌する諸侯も斯く信するか又は抄くともかく信す ることを要求されるのである。詩の周頚m心文篇は、后櫻を天に配する際の聖歌といはれるが、前掲の此篇の文は、 この間の消息を語るものと解せられると思ふ。そしてこの理由から後代の天子が直接に天に封するよりは、組先 の特に動功偉烈の有つた君王、祀先を表章して、北ハの弧先を通じて天命を保有するといふ形式を取るので、こゝ に天と共にそれに其の祀宗を配して崇井することが起ったのであると考へられる。かく大の崇拝と岨党崇拝とを 積極的に組合せしめようとする理由の外に、消極的には、宗主の同族諸侯に封する政策や≠襲の結邦、其の榔威 を白身に保持し得ない天子が其の樵威の失墜を擁護する目的も伴ふであらうこと等の理山も考へられるかも知れ ない。 天子は地上の楷力を代衣する者である。祭天や祭天に組を配することは、この天に封立する地上的存在新を能 J7クβ

(12)

ふ限りその天に接近せしめようとする努力に外ならないと解される。判って言へば、祭天や農天配租の鵡は、天

の川パ井と租党丹パ非とい典起原む必須か前提としなければならぬ。こm削があつて後始めて其〃両者を結へ目しよう

とする努力を了離することが出来る。組先崇丼によつて天の崇拝の起原を説明しょうとすることは無益である。

天の崇帝は仙等組先付山井を必要な過程としないのである。寧ろ組先崇丼こそは、それを達すべき一の段階とする

のであつて、却って仙北崇井の喪連のためには天り崇丼を前提としなければならないやうに考へられる。而して

締結の雌はこの臆測を貨許するかに見える。

締蛤の稽は、川十者架訟の府である。其の本質に関してすら着るしく相違する見解が封立するのであるが、要す

るに締には天祭と人祭との二重が有る様に思はれる。而して補給と蓮糾する場人‖の輔は即ち宗廟の祭楷である。

給は毀廟の主は大和に陳ね、叉末毀廟の、‡は升せて大仙に合食するので.租先の潰風を思ひ且は家族制度を紫蘇

ならしめる析以のものである。給の楷に於ては、整廟の主を祭るに封して、締の楷に於ては、唯始組と始組所自

‖の帝とのみを祭るのである。締は字示︵紳︶と帝とに従ふ。天子が帝を草する字王=艮とすると見ぬばならぬ。

蓋し締の穏は棺と共に宗廟の祭に日章するもので、王者が始組の廟を立てゝ狗ほ其の恵遠尊先の韮を塞さすと焉

し、始組田づる所の帝む推尋して之を迫祀し、其の組を以て配するのである。而して其の帝には祀記祭法囲語魯

語等の文によつて、貴市胡瑞帝螢等の所謂五帝を以て之に雷てるのである。帝が誠に是等の五帝藍息味するもの

であるならば、それは史記の五帝本紀に於て明白に見得るやうに、着るしく宗族制度の影響の下に立つのであつ

て、寧らそれは㍍族榊比い或や部面キ根調すろた高に作托せ・hれ左悼説であÅ右1に考へられ、何れにしてもそ 刷北崇〓と大の思想 け卯

(13)

甜尤崇升天との思想 一二 れが比較的後代の思想に威†ることは痍ひ得ない。詩の周頚離籍は大組む締するの東歌であ・るとされる。其の文 有釆雛斤 至止粛々 相維辟公 天子稜々 於礪廣牡 相予辟祀 仮哉皇考 綬予孝子 宜背離人 文武雄 后 燕及皇天 克H軟後 緩我眉寿 介以繁祉 眈右烈考 亦右交母 とあり、威儀離々粛々たる天下の諸侯が、稜々たる天子の祭む助けて前後に奔走するを述べ、文王の徳安くして天 に及び、天命の昌久を賜は少、文武王大姐の遺徳によつて其の子孫に両線の絶えざることを稀へるのである。又蕗 頒長襲篇は大締の賛歌とされる。其の文には 溶哲維商 長費共辞 洪水巴々 商敷下土 方外大岡是鐙 幅隕眈長 有城方婿 市立子生商 玄王桓撥 受小国是達 受大国是連 率履不趨 途相眈蚤 相土烈々 海外石裁 帝命不達 至子揚斉 揚降不遅 発敬日臍 昭恨遅々 上帝是砥 帝命式干九園 受小球大球 焉下図綴硫 何天之休 不競不鰊 不剛不柔 軟政優々 行線道連 受小共大共 馬下囲駿魔 何天之龍 敷奏共勇 不惑不動 不禦不味 首線是組 武王戟沸 石虐乗銭 如火烈烈 利美我政局 竃有三英 美途莫達 九有有政 孝願眈伐 昆吾夏楽 音在中菓 有産且菜 允也天子 降予卿士 寒梅阿街 賓左右商王 とあり、契の徳よく天命を享け、天命を荷ユ﹂逮はす、次で武王が大いに葉を弘めたことを賛し、匝じて之た輔 佐した阿衝伊夢に及んでゐる。尤も是等が蹄祭の無敵であることぉ香定する単著も多いのではあるが、其の詮に J7クg

(14)

も猶ほ不充分な鮎が存するので、小序の改も一概に排斥することは串釆ない0是等の交にょれば、所謂所白川之

帝は斉帝帝螢等い五市来は限らす、寧ろ一般に十大、大帝と見るべきであるやうに思ふ。若しかく見ることが許

されるならば、元来は上天に直接に始組を配したものが、一方で恨上天が漸く顕著に人格化されて考へられると

共に、他方では組宗の意識や血統の意識が昂つて、遂に特に其の血統に屠する所謂五帝空観念た達して、其の帝

に始組を配することが起ったのではないかと考へることも可能であるかも知れない。

締はそれが給と併宿せられる場合に於ては宗麟組先の祭祀でぁる。然るに何故に所自出之帝を祭り組先を配す

るといふ形式を取ったのであらうか。宗に及び組に及び始組を祭るも猶ほ迫遠の義足らずとして遂に帝に配する

に至ったといふ心理的説明は確かに慣値あるもあではある琵ども、それだけでは狛ほ不充分なものがないと虻

言へない。所出あ帝が所謂五帝であるとすれば∴示族制度に特有な或種の侍誰若くは神秘思想を前提としてゐる

のであり、叉それが一般に上帝であるとすれば、寧ろ一族の組先とは信仰の上加ら言って何等かの別あるべきも

のを張ひて結合したのである。この結合又は前提を必要ならしめたものは、革に心理的な理由からのものではな

くて、外的に之む強制する事由がなければならぬと思ふ。

紳不軟非類 民不祀非族︵前出、左侍位公十年︶とも言はれる。其の鬼にあらすして祭るは講ふ︵論語、焉政︶

のであるとされる。宗廟組先の祭祀は、元木一血統の宗族内に限らるべきものであつた∪祭者礪也 贋之彗自在

也 在他者衣共遺也︵番犬俸︶とあり、即ち反古復始、組先の遺風む偲び、其の遺徳の後胤に幸せんことを諜ひ、

而して互に大宗に於て燕宴して同族の結合を固からしめる意義を有トたのである︺故に詩小雅の楚茨には

机先”小井土大 ノ㌢β9

(15)

机先岩井と天の思想 一凹 楚々者茨 言抽其耕 皇日何番 我戟黍稜 我黍輿々 我樺翼々 我倉眈忍 我映維憶 以馬酒食 以享以 祀 以安以佑 以介景栢 済々鎗々 繁簡牛羊 以往惑嘗 或別戎享 戎辟或婿 祀祭子祓 祀事孔明 兜組是皇 神保是饗 孝孫有 産 報以介隔 萬寿無匪 執券蹄々 番組孔碩 或燐或泉 君柿実々 焉豆孔庶 焉賓焉客 殿醇交錯 祀儀卒慶 笑語卒搾 神保是 格 報以介隔 萬寿枚酢 我孔煉夫 式縫莫慾 工槻致普・祖賓孝孫 小必芥孝祀 紳嗜飲食 卜爾百宿 如幾如式 政所眈櫻 眈匡眈 勅 永錫蘭極 時萬時憶 穐儀既傭 鐸鼓眈戎 孝孫祖症 工槻致普 紳具酔止 皇戸戟起 鼓鐙迭戸 神保章踪 諸事君婦 靡徹不 遅 諸父兄弟 僻言燕私 聖具入奏 以経後緑 儒教眈牌 莫怨具慶 眈酔眈飽 小大稽首 紳噂飲食 使君毒考 孔窓孔時 維共裏 之 子々孫々 勿替引之 即ち五穀幽見様して組先を祭わ、済々鎗々としてよく力め祀るが故に美緬あり、亭王のみでなく主婦も亦静粛に職 に供し、皆々祀儀を得て謬らざるが故に、紳も保んじて来り至り、エ枕大蝦を告げ多隔を下し、こゝに同族の紹 父兄鵜燕私して和語し、かくて子々孫々替はろこと無く長久ならんことを念するとあるいは、此の開の尭惜を群 かにしてゐると解することが招来る。然し支那の家族は大家族で大宗の下には幾多の小宗が擬するのである。之 JβCO

(16)

を艶めて燕することには、従って多少扮政給的意義が含まれるのである。祭統括に

大祭有昭粍 昭穆某所以別︰久子遠近長幼制疏ヱ序由無乱也 是政石隼於大願 則蟄昭黎穆成井 而木美共伶

此之謂親疏之殺也

とあり、叉文王世子篇に

公輿族燕 則以歯 而孝弟之遣達実

とあるものは、燕毛にも之む行ふ所以わ一定の紹秩が存することをいふのである。この政治的意義ほ、其の家族

若くは薬園が一骨犬になるか、又は一骨吐合的になればなるほど更に大なるものとなるのである。国語楚語に軌

射父が昭王に封へて

といふを載せ、祀記祭義篇に、宰我の 閃物之精 削鳥之極 明命鬼面 以焉凱首皿 百衆以畏 寓民以服 聖人以是馬未足也 築篤官箋 設篤ハ小 硝 以別報疏遠適 教民反古復始 不忘其断面生地 衆之服自此 故摺廿速也 といふを載せ、旦祭統篇に 日月禽於龍純 土気含牧 令故 事共棲牲 敬其璧盛 以昭祀共先組 粛々済々 暦 合其嘉好 綜其親嘔 軒先塁嘉∵−左ハ日直㍊

天明呂作 亘爵備合 整紳頻行 閥於是乎蒸嘗 家於是乎嘗祀 百姓夫桁 搾共

潔其糞除 憤共釆服 顧共酒醒 帥共チ姓 従共時享 慶共宗親、道共順群

如或臨之 於是乎合其州郷 朋友婚姻 比爾兄弟親戚 於是乎舛共百苛 珍共鞄軋

億其上下 以中間其姓 上所以教民度地 下所以昭事上也

Jβりr

(17)

租先岩井と天の思想 二ハ 庚祭 l有十倫焉 見車鬼面之遣鳶 見君臣之童焉 見父子之倫焉 見黄塵之等焉 見親疏之設焉 見得貫之施 偏 見夫婦之別焉 見政事之均焉 見長幼之序焉 見上下之際焉 此之謂十倫 とある鴻のは、宗廟の祭祀が其の政治的意義せ顕著艦上て、政治的倫理的に重要性を加へつ1ある推移を看取せ し必局庵のが有ると思ふ。かくて宗廟に於て嗣王を謀り、朔を見、使者を命じ、大事を告げ、冊命し、堆侍する ことlなつたのである。中庸には 宗廟之糟 所以序昭接地 序閉所以聯貴購也 明於郊祀之穏締嘗之儀 治国其如示諸掌乎 とあつて、殆ど全く政治的に解してゐる。 士大夫は唯其の先を祭る。然し宗廟の稽は、箪に士大夫又は諸侯に於てばかりでなく、天子に在っても、一骨 重大なる政治的意義を有する。宗廟を祭るに常っては助祭の祀がある。天子に在っては・。濁り其の同姓諸侯が助 祭するばかりでなく、異姓の諸侯も共︵厳に奔走するのでぁゎ、二王の後も亦来って客となる。而してこの助祭 が天子の威命の行はる1横倉に外ならない。後漢の何郡公は 王者得天下之秩心 以事共先王 因助祭以述其撤︵春秋公羊侍桓公元年誌︶ と説いてゐる。然し異姓謂侠や二王之後や百官やは、一族一翼の如く同組の観念に維持されることも、﹁恨哉皇 老 練予孝予﹂といぶ如き皇考への信念に生きることち困難であったと思ふ。寧ろ祀られる英雄に封すろ畏慣を 溢㍉大なや七め、従つて.それを輯承す葱亦堂に対する巌の念を弛くにしても、それは滑額的な服従の観念に過 JJ(じI

(18)

ぎないのであろて、積極町に其抄共同性を自覚することからも、従って.其の政治的意義を積極的に受容すること からも遠いと言はぬばならぬ。宗廟ハ祭祀がか1る粕極的な意義を有するためには、完噺の祭祀が今や重大な政 治的意義を有するに至り、それを顕著に主張するためには、是等百官萬民、異姓諸侯、二王之後も、斉しく滴り 得る一骨普遍な共同観念にまで達せねばならぬ。一家兄弟の根津である組先よりも、一族同宗の紐帯である組宗 よ勧も、同姓詔族の礪秤であ去始組よりも、一骨普遍な萬姓庶民の同一なる崇丼の封象としては、天にまで達せ ねばならぬのである。宗廟に於て組先を祭り孤宗を祭り始組を祭り、而して其の始組の由りて出づる所に及ぼし て上天を配すれば、上天の威命は、即ち組先先王の遺烈、組宗の遺烈は、即ち後胤の威令と観ぜられ、同姓諸侯 は固より異姓諸侯と雉も、現に其の身を戒惜し、共に渾勘奔走せねばならぬ共同性を自覚するであらう。故に ﹁燕及皇天 克昌願後﹂といひ﹁帝命不蓬 至子揚奔 揚降不遅 聖敬日臍 昭保湿々 上帝是砥 帝命式子九 圃﹂と稀へるのである。 締に始組を配する稽を、以上の如くに解することが出来るならば、郊天配組の穏は天を祭るにょつて組を配し たのであ少、是は阻を祭るにょつて遂に天に組を配するに至ったのであつて、瓦に封舵的な経路を辿ってゐるけ れども、共に組先を家族の範固から家開天下の贋大にまで境げようとする、小範囲に限定される組先の神性を蔽 はぬ析のない上天の普遍にまで至らしめ、之を極度に聖化しょうとする努力に、同一に鐸着するのでぁる。而も 郊天配組の絶は、天の崇拝と組党崇拝とが各々別起原を有するか、叉抄くとも天の崇葬に其の起原む負ふもので あ各こt妄指摘するに過ぎ.なかつたが・今や締結祭天配組の祀は、箪に両者の起原が異るばかりでなく、祖先崇 印草崇井と天の思想 JgO且

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純化繁邦と天の思想

一入

群が其の起原を前者に負ふものではないにしても、天の崇拝の起原が後者のそれに先行するか、叉抄くとも組先 崇拝の琴連の方向が、天の崇拝に近づくことに在ったことを明々白々に指示してゐると思ふ。穏記曲雌篇に

共先

天子祭天地 祭四方 祭山川 祭奉祀 歳礪 諸侯方祀 祭山川 祭五祀 蔵宿 大夫祭五祀 歳編 士祭 とあり、楚語にも亦 天子編笠画品物 諸侯祀天地三辰及共土之山川 卿大夫弛共穏.士庶人不遇共組 とあ一㌔叉廟制に就いては異論もあるが、通説にょれば、王制に 天子七廟 三昭三穆輿大組之廟而七 諸侯五廟 二昭二穆輿大組之廟而五 大夫三廟一昭二稼輿大組之廟 而三 士一廟 庶人祭於寝 とある。士庶人より卿大夫に至り一、卿大夫より諸侯に至り、諸侯より天子に至る。崇拝の封衰石複雑化と宗廟制度 の繁重とは、それは茸に文化の進展の跡を物語るのであり、換言すれば組先崇拝の等速の経路を示してゐるのでは ないか。かくて組先崇丼は桝田の帝にまで蟄展したのである。弧先崇丼の考達の到達鮎が、桝自Ⅲり帝に在った のである。組先崇拝は、天の崇葬を前提としながら進展したのであり、締給若くは郊天に於て天に組を配する穏 に至って棉鮎に達するのである。締給に於けろ所自〓の帝も郊天に於けると一般に皇天上帝である・へきものと思 ふ。若しそれが所謂五帝であろたらば、益と堀常に岨党を仁天に接近せしめようとす一三庄川を軋るのみである。 以上の二つの儀轍わ明許によつて、天の崇拝が組光景眉と全く選った起原を布すること、寧ろ天の顔丼の起原 J‘紬J

(20)

が、組党崇拝の起僚よりも発行すろことは疑ふべくもない。それには毅車これ以ヒの論議を必要と璃さないtし思 ふ。がこlに他の一の現象に就いて附加的に考察して置きたいと思ふのは、原生帝誰であろ。 感生帝の信仰が、何れの時代に其の起原を有するか・は明確に定めることがH衆ないが、若し郵康成に従ふなら ば、毛詩の大雅生民篤に 既初生民 時維妻嫉 生民如何 克商売祀 以弗無子 履葡之武放歌 倣介倣止 戟▲簾載夙 我生載育 時 維后稜 とあ少、叉商頒玄鳥縞に 天命玄鳥 降而生商 宅般土空々 苗帝命武揚 正域彼四方 方命飲后 奄有九有 商之先任 受昧不殆 在武丁孫子 とあるのは、妾汝が上帝を郊帖に顧祀するに雷って、天帝の足迩有るを見、之を屈んで天帝の精に感じ、遂に周 の始祖后櫻を生んだといふのであり、また玄帝が凱︵つばめ︶をして卵を遺さしめ、有域氏の女簡独が之を呑んで 天帝の精に感じ、段商の始組契を生んだといふのであるとされて、是等の詩の作られた時代には、眈に感生帝の 信仰があつたと見なければならない。然しそれが噸著な現象として認められるに至つたのは、五行思想に配同せ られ、識緯思想に探入せられてから以後に屠するやうに考へられる。鄭康成が控俸の帝といひ五帝といふものに 注するに首つて探ったのも、亦かゝる感生帝誼である。其の鰻記喪服小記筈に注するには 始組感天神婁両生 軒先崇井と大の思想 」hUj

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王者先組皆感大徴五帝之精以生 育則霞威仰 赤則赤壌怒 黄則含棺紐 計肛白招拒 黒則汁光絶

とある。其の孔仲達の疏には

案師詮引河園云 慶都感赤龍両生重 文云 尭赤精 舜黄・高白 湯黒 文王蒼 叉元命包云 夏白帝之手

段黒帝之子 周蒼帝之子 是共王者骨感大微五帝之精両生

とある。蓋し鄭康成は凍害の詮に本い七、帝を五徳の帝と考へたのであり、五帝と上帝とを加へて所謂六天詠む

焉すのである。歴朝の天子はこの五徳の何れかを受けて天下に臨むのであり、.一徳極まればJ他の徳に移ダ十相l

生相克して易姓革命を為すとされる。史記にょれば秦の始皇帝は自ら水徳を以て王と焉るとたしたとて

始皇推終始五徳之俸.以焉周得火徳 秦代周 徳従所不野方今水徳之始 改年始朝琴骨自十月朔■衣服

施施節旗皆上黒・数以六番紀 云云

とあ少、叉嘆の高組に就いては

高組被酒 夜樫渾中 合一入行前 行前者還報目 前有大蛇雷径 願遥 高組酔日 放士行 何畳 乃前按

創撃斬蛇 蛇遽分属両 得閑 行数盟 酔囚臥 後人来室蛇所 有一老短夜⋮六 人問何異 腹日 入校吾子

政男之 人日 娘子何焉見殺 姫日 吾子白帝之子也 化焉蛇常道 今雷赤帝子斬之 政男 人乃以姫薦不

誠 欲筈之 姐因忽不見 後人モ 高祀億 後人垂向絶し高槻乃心猪吉日負 諸従者目茶畏ノ

とあるによれば、漢の高批は赤帝︵天帝︶のチであ少、高租の斬ったのは日帝のチであつたのである。識繚訟の 租先崇井と天の思想 と謂ひ、叉大倖に注しては、一骨詳細であつて J−1(Jα

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盛行した秦漢の際にあつては、か1る意味の感生帝詑も亦現に信ぜられてゐたものであらう○この後永く五行詮

諌緯線が何等かの形で信ぜられてゐたと同株に、感生帝誰も亦共の跡キ絶たなかつたのである。

=睾朝の始組が上天の婁を承けて生るゝといふ思想は、天の畏完より見ても、組先崇拝より見ても、必ずしも

奇異なものではない。寧ろ膏に天子のみでなく、高氏皆天胤に非ざるはなく、之を番長する禿めに司牧を置くと

いふのが、敬天思想の重要な一面である。然し或る特別な人物のみが天帝の置に感じて生るるといふこと、殊に

五行思想に配同せられて、夫主徳を代表する五帝の何れかに感じて此の徳を代表する王朝が興起し或は衰亡し

、叉他の徳の王朝に代られるといふに至つては、天の崇丼から見ても組先崇輝から見ても、必ずしも自然的な固

有的な生新な信仰であると筈へない。史記望は繹史等によれば、甚だしく隔りのある諸姓の世系は亦等しく

伏犠女柵紳農黄帝崗頂帝螢の一統に踪すること1される。是は固より茸俸ではなく、後≠何等かの意閲を以て語

られるに至った侍詮と見るべきであらう。世系にあれ、組先崇辞にあれ、原始的には共芸母藍完奉祀するこ

とに聾して、次に其の組に及びー其の骨組に及び、組宗に及び、かくて遂には始組に及び、近きより次第に遠組

に及ぶ。それが其の自然の蟄達の経路で雪てー感生帝又は所川之帝が有つて、それから各の宗族が襲達する事

茸そのまゝにあるものではない。組先崇拝又は其の世系が完ハ㌘蒜秒蟄達した後に完ハの文化の結鼎として、

次第に遡及して、遠組より始組に及び、始弧より遂に桝白田之帝又は感生帝に到達したのである㌣感生帝詮、所

白山之帝詮、及び世系に関する諸種の倖説が、或る特定の時代に特定の偶人によけて作禿せられたものであオこ

とを明かにするこノとは勿論困難であらう憲ハ等は久しい年月の問に倖唱されるに至ったものであるかも知れな

租先崇井と天の思想

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租発禁療と大の思想 ニニ い。然しそれにしても其等は其の問にそれに閲僻しっ1生活した人々の主張を反映するのであるっ而してかゝる 俸唱は、かゝる人々が如何なる主張をなさんとしたかを賢して句るのである。か1る停唱は、組先崇拝に就いて 如何なる主張がなされぬばならぬか一組先崇祥は如何なる聾藩の方向を辿らぬばならぬかを明白にしてゐる。 組先買祥は天の崇拝を前提としつ1之に向つて襲達するのである。組先の神聖を天一の神聖に近づけんとすサひの が、組先を崇辞するもの1強い主張であつたのである。 然し以上の論語は、組先崇拝が敬天思想と同様な進歩せる観念を内容と焉し得ない所の、換言すれば組先崇拝 は常に原始的素様に止るべきものであるとか、又は組先の神性は個人や一家や一族に限らるべきで、天の如く普 遍のものではあり得ないことを主張するのではない。墨子は明鬼篇に於て鬼神の存在を符明し、天鬼、山水鬼、 人鬼を数へて、鬼は文王とか泰山とか特殊のものを離れて一般的な鬼神として存在し、必す賢を賞し暴を削すの るもとなして 故鬼神之明不可馬幽閉贋樺山林深谷 鬼神之明必知之 鬼神之罰不可馬首貴強勇力強武堅甲利兵鬼神之前 必勝之 とて、其の全能を強調して居り、穏記の祭重篤には 宰我日 吾聞鬼面之名 不知其所謂 チ日 東他者 紳之盛也 塊他者 鬼之盛也 合鬼輿紳 教之至也 衆生必死 死必輯圭 此之謂鬼 骨肉鮭千ド 陰馬野上 其来襲親子上 馬昭明茶筒懐愴 此作物之精也 榊姓薄地卜飼勤乏清・.漁港汲漉卜再‰憫紺親潮ノ”蛮骨則 海浜似浪 井底叔服 胤β

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とあつてー鬼神梢を砂川至囁のものとなし、叉中庸に登っては チ冒 鬼面之璃徳 其盛英乎 紺之而弗兄 推之而弗㈹ 醗物而不可遣 使大ト之人舛明盛服以承祭祀 洋 々乎 如在英上 如布其左右 ■ と極言してあり、普遍的な崇高た茸在とされてゐるのである。組党崇拝は、何等の神性にも達し得ないとする或 る聾者の見解に反し、寧ろか1る偉大な観念にまで達し得るのである。唯墨子の見解は無鬼論者に封する反駁の ための主張であり、祭轟のものは、宗廟制度の説明であり、中庸に至っては、全く軸象的に内省化して了つたの で、何れにあれ其の思想家の見舞によつて整備せしめられてゐることを考へねばならぬ。故に故にはれくの如き 崇高な鬼神の神性も、常初から組先買に封して濠定せられてゐたのではなく、偶人の亡霊に封する観念から起っ て、それを崇拝すろ集困が大になると共に、漸次蟄達し、而して常に天の神祭を願慮しっ1、それ自らの中には 無い絶大な神性にまで近づいたのであると謂はねばならぬと思ふ。 斯 くして古代支部に於ては、組先崇拝は輔著な現象ではあつたけれども、それは大の崇拝に封して貢献する所 は無く、況して後者の起原に視床を輿へることも無かつた。寧ろ弧先崇丼が天の崇拝に負ふ桝のものが多大であ ったのである。すべての宗教現象の起原を、所謂廣義の組党短謹から説明するスペンサーの畢詮は、古代支部の 宗教、天の崇拝の起原に於てはハ安富な適用を見目し得ないと謂はねばならぬ。 卸先⋮岩井と天山‖心想 J即伊

(25)

支那俳教史上最も輝やかしき功綴を接してゐる隋唐時代に魁けした智者大師は、その法華玄義巻第十の上に於 .ノ 叶で 二若し傲経を弘むるには教相を明かさサとも、義に於て傷くる事無しβ若し法華を弘むる′に教を附かさサば文 義に開くること有り。但聖意幽陰にして、教法摘㌻難し﹂ と述べ、港華を解するには法華のみに就いで見ることなく、廉く彿教思想史全照より見るべき紅打払る事を注 意しでゐる。此のために彼は江南︰江北のあらゆる教刊を批評し去った上に、かの五時八教の教判与 とむ立て1、法華痙が一代併設中最勝至極の数なる事を許してゐるのである。 然しかゝる綜合的批評の上に立って最も傑桝、安常せり↑去はる1五時八教の教判に就いても僻、一︺ 大師の内心に突入って仔細に考へて見るならば、叉問題なき能はぎるものがあるのである。此の中に就いて、五時 及び化儀わ教刊が江南い詮に、化法門数が江北ハそれに甲轡言れて出来てゐろ事は眈に諸軍者の去ふ桝である。 い如洞窟汰抑め教科が准亦の陣脾紅齢ル捏㌍渡鴇特色之握れ鳥.甑輯.脚注匿わ牡隠逸痩扱制め各項が成立す.る狭場把

天台数列に射する反省

天台数列に射する反省

藤 本 智一義

三田 Jぎ〟)

(26)

境地よりは、か1る敢相の分別をすら否定する立場をー一刀時に掟示せる事である。蓋し彼は五時教刊に別の五時と 邁の五時とを設けたのであるが.、瑚がへって考へみるに壇の五時とは、故に言葉其白身が矛盾を現はしてゐるの

で、押しっめて云へば之には五時の成立を否定する立場を含んでゐるものである。

かゝる事は俸統的な敦樵の立場からすれば驚くべき事である。文化儀の四教にしても、前代のそれが一挺、一

部を取って頓、漸、不定の判に牧めたるを批評して各経の一々に硯はる1種々なる敦相に於て頓、漸、秘密、不 ヽヽヽヽヽヽヽ︳ 定は諭すべきであるとなされた。叉化法の四教も、夫等各々が夫二心の不思議解脱と云ふ一味の法界を表はし

てゐる思のなる事は一心三翫の観法と共に常に述べてあるのである。即ち蔵砲別園の四教は一心三観と室止あ閲

係にあるので、部室郎恨郎中は同時に帥織部適郎別郎園の園融境にも展く寄が出来るわけである。且つ之等は何

れ滝等しく一心の不思議解脱へ踪入するのである。別の五時に封する通の五時の立場から、四教に於ける被接は

全項目叱まで拭張し得る尊であらう。

此虞に於て我々は、天台が、教相判樺を如何なる意味に解し受取ってゐたのであるか、略モ推察し得ると共に

前代せでの講師達の態度に比して、天台の立場が如何に進歩的であ少、.批評的であつたか知るべきであう更に か1る進歩的態度は狗り天台のみならす、同時代の慧遠によつても取られてゐるのである。要するにかかる進歩

的、批評的なる態度は共等の個人の住める隋から唐にかけての時代的性格でもあつたのであるから、此の故に之

等の個人はよくエポックメイキングな役割を果した事になるのである。

一味華等餅激廠仰針鼠甘ゐサ 天台数列に劃する反省

(27)

天台の教刊とし云へば一口に五時八教と云つてしまふが、然し五時と化儀四法、化法四教とでは、夫†王鋸の

根接を異にしてゐるから随って用ひ方も一様ではない。之等の教刊は江南江北の教判を批評した上に刑禿たもの

であるだけに、すべての方面、あらゆる方向,ものを網羅せんとするものであるが、その焉に反って天台の根本 的立場から云って教判の根接そのものにむらが出来た事は仕方のない事であらう。此の中でも五時の教刊は、l 般に重税さる1にか1はらす苦しい所のある教判であり、亦最も江南の五時詮の影響する研の多きものである。

之に封して化法四散は最も礪創に富めるものであり、観門に於ける一心三観と共に最も蜃モ愛川されたものであ

ろ。天ム‖白状〇関数轟も之を取扱つたものであつて、赦、通、別、閲の分別は一心三観と密接なる内容的連紬を

有すろものであり、最も得意の分別であつたらしく思へる。法蔵が五教童に粁介する桝、絹岳、天台は四教を述

ぶしL一ぶつて、此山教刊■いみを取上げた事は蓋し故ある事である。 五時とは一に華巌わ時、二に鹿宛い睦、三にカ等の時、囲に般若わ時.正に法華捏菓の時である。禁翫に始め 凍れ華牒甘膚の五時儀東於て聴聞愴=︵三僑邪徴、又は有朋軟︶般若︵三廉囁敢﹂又は東胡救︶浮名、恩益︵抑簸 天台故知諺封する反省

二大

此む天台の批評的態度に表はれてゐる時代的性格こそは、般若砲三乗あ立場から港筆述門の唯有一乗法無二亦 無三わ閃棟斯茸の立場を襲韓したものであつて、是れ後世、日蓮上人によつて﹁彼は迩門の衆﹂と批評さる1に 至った重要なるものである。 今、迩化の衆と云はるゝ天台の批評的態度が如何なるものか、煩をいとはす教刊の裏に探り入って見たい。 ゴーけg

(28)

教︶と配列せられたるに封し、兼骨鱒は鹿苑へ阿食︶、方等、般若の囁貯胤つでゐる。然して粛啓の申に瞥− 思益を始高として、華厳、阿含.般若、法強捏紫11外の謂絆仙ハ㌢一合めたのであろ。従つて前後い関崎がすべて桝

依の控各によれるに、之は諸大乗控に封す三般的名稀を以つてしてゐる。此の方等なる名栴に紺しては苗木か

ら備繹や詮要等に異論があつたが方等の本来の語義は又、方廣とも稀し、大屋婆沙論は﹁諸控中廉く種々に甚探

なろ法義を説く﹂とし彿音は九分数の一なる方廣を繹するに苦り﹁小方贋、大方贋、正見経、繹縫桓閃間控、諸

行常分別、大充満控等にして皆智慧と軟喜とむ獲得し、獲得して桝問せる諸控は方贋と云はる﹂となしてゐる。

ヽヽ 従つて夙に般若経や十地控は方等控典、方贋甚探経と呼ばれて居少、華厳経に至っては明かに、大方厳俳華厳経

と科してゐろのである。故に五時の中の方等なる名栴は、他時所詮わ控に封して、此の詮時に含められたる諸経

の特質を表はすものではなかつたと云ふ事が知られる。蓋し天台は他四障所詮の大物だけでなく、一切の軽々を

網薙して教刊の完全を欲した焉、方等なる一般的名栴を以て靡く諸控を擁取せんとしたのであらう。しかしそれ

だけ無理があつたわけである。

経典成立の歴史より云らても、方等の中に含めらるゝ浮名、思益等の諸控は阿含の直後般若の前では決してな

いのであるから、此の鮎では却って江南の所詮の方が正しいと云はねばならない。然し、龍樹を始めとして、薙

什及び其の門下がさうであつた如く、天台も亦彿教⋮心想史上に於ける般若の地位の重税、殊に法華に封する般若

の関係の竜要性を認めたため、方等の後、法華捏梨の前に置いたものであらうJ

眈に数判は俳陀教説の整理、組織によつて何れが仰陀の眞意なろか、何れが方便誰なるかを定めるものではあ

天ム〓批判に封す乙反省 J釘J

(29)

天台数列に封する反省 二八 るが、何分歴史研究の末考連なる時代.であり、且つは併教の本質よルするも、結局の駒崎各自の信念に上る鮎が 居るかち、教判の成立に就いても、歴史的なるものあ少、思想的なる庵の多少、或は全く信仰の告白に過ぎざる ものもあつて、夫々の立場を異にせるものが混然としてゐるものであるから、一概に控英成立の歴史的事葦を以 っ七青めるわけにはゆかないものである。 天台で俸ふる華厳三七日、■阿合十二年、方等八年、般若二十二年、港牽、淫楽共八年の定め方からして眈に夫 々の内容、史茸を無税せるものであつて、十二年の阿含中に既に明かに彿成道より捏盤に至る一代を説けるもの があり、且つ章安自ら玄轟の後記に此事を附記してゐるのである。 此の詮時の年限に就いては、矢張り古来より異論が行はれてゐるのであつて、備樺、山門、寺門等に於て各々 異つてゐる。此の中方等を別の誰時なしとする山内の詮の如きは我意を得たる詮である。更に教観網宗の智旭隼 思っては絶て年限を判定することを斥けて﹁只此れ五時法を別つのみにして亦定んで年月日時等に拘らす﹂、或 は﹁倍自ら阿含十二方等八の妄語を靴侍す、害たるや甚大﹂、と云つてゐる。鳳渾や普寂も亦之に左超してゐる の.である。是を以つて誼時の年限を別つ方にしてもー往の事にして止めてゐる。此事は畢に年限だけの問題では なく、誰時即ち別の五時そのものにまで及ぼさる1ものではないか。宜なる哉、智旭は同じく致観綱宗に於て別 の五時に封して垣の五時を取り上げてゐるのである。 之に就ては後で述べるとして、伸一代の説法を華厳、阿令、方等、般若、法華捏喪と云ふ夙に叔然し﹂課時を立 てゝゆく別の五時敬判應、前代迄め敵剣あ鶴殊性せ硯はし尭ものであり、私の云ふ批評的庵る天台の立場よわす ノぶメイ

(30)

れば、天台の批評した諸家の謙譲を敢て自ら犯してゐるものである。香草ろ江南の五時教利かガがまだしも鹿央

的車葦に順ってゐる化のものである。

然し之を以つて天台を責められない事は教刊の性質によるのであつて、天台は俳教思想慣系化のため.には、そ

の誤謬を非難し乍らも敢て自ら其の時代の形式に従つたわけである。俳化意の始終を明かすためには別の五時を

表面に立てなくてはならぬと云ふ碓氷の主張も此限り理由のある事であらう。

然らば天台は自己自身の立場を何虞に置いて、如何なる夙に硯はして行つたか、それは三ロにして云ふならば

洩の五時や被接にあるのである。

先づ我々が天台致判に就て注意すべきは、五時誰に於ける通と別の見方であらう。

即ち一往は江南の五時誰に倣って華厳、鹿苑、方等、般若、法牽捏梨と云ふ夙に五時に別けるも、再往にはl

各誰時の軽々を委細に観た場合、いづれにも壇じて法華園頓の意が述べられてあると云ふ壇の五時なるものを立

てたのである。之は化儀及び化法の致刊にも紺聯するものであるが、か1る態度は前代迄の数界の態度に此して

驚くべき進歩的なるものである。

﹁夫れ五味年端、別を諭すれば、別に奔限有り、適を諭すれば初後に通す。若し輩厳の頓乳は別して但初に在

り、適すれば則ち後に至る。故に無量義に日く、﹁次に般若鹿川の修行、華厳梅峯を説き、法華の彿慧に昏入

す﹂と。即ち是れ通じて二控に至るな・ク⋮・故に蓮華蔵海は通じて担架の後に至る。泥んや前教をや、若し修

淡華玄義巻第十の下に、 天台数列に劃する反省 !.9J丘

(31)

天台数列に封する反省

三C 多羅牛酪の敦は別諭すれば第二時に老少。通論すれば亦後に至る。︰ト・繹諭に云︵、初壁宛より捏盤の夜に至

るまで説く仰の戒定慧は結して修妬路等赦と禿る。知るべし、三赦は通じて後に至ろ。若し方等教は牛沸相封

す。是の生鮮教は別諭すれば走れ第三時なり。通論すれば亦後に至る。何となれば陀羅侶に云く、﹁先に王台

城に於て諸の聾閲の記を授け、今復、合衛閣峨陀林中に於て、復た聾聞の記を授く、昔は波羅奈に於て聾聞の ︳

記を授く、身チ云、≠今の言ふ研眞茸にして臆しからざるが故に能く第二第三と我等に記を投く﹂と。故に知

る、方等は法華の後に至スこ﹂。般若は牛を帯し浦を諭す。是の熟蘇教は別諭すれば第閃時に在り。通論すれば

亦初後に至る何となれば得道の夜より泥汚の夜に至ろまで常に般若を説く。・::要し祝祭の醍醐補数は別して

諭すれば第五時に在り。通じて諭するも亦初に至る。何となれば群論に云く、初喪心よれ常に浬架を観じて道

を行す、前来の諸控は畳畿心の菩薩の捏棄を観する無からんや:︰︰

若し松草舶霹の遼を諭すれば、前に在るを見す、秘矯の凌を諭すれば理に障嘩なし。故に身チ云ふ、﹁我晋

俳より是の如きの法を開き、諸の菩薩わ受記作僻するを見る。﹂ 畳昔に通するの記を讃する文に非すや﹂

此の通の立場からして、江南の五時誰に封して批評を加へたのである。即ち日く、俳が十二年前に宥相教を説

かれたりとする成算論師の詮は自身の立場を誕ふものである。何となれば成賓諭が三赦小の茸義を説くものであ

る限りその賢弟とは蛋、無相の■敦であるからである。また阿食中に﹁是老死誰老死、二糖邪見﹂と説かれてある

が、之は淡寅、生蛋聖哀を説いたものであるから、有刑教でなく、立派に無棚致であると云ふのである。

士た絹地の緒師が、般若は察を明し粕を搭せども、未だ帥性常任を明さぎるが故に無稲敷なbと、限史的態度に 州〟

(32)

刑るに封して、共般若はともかく、不共般若に至っては伸性常任を明せるものである。故にか1る限定的態度は 不可なりと.ぶふ。また般若に倉三鋸一の豆なしと云へろに封しては、問沸点に1詔天ナ今末筆二菩提心有應常襲﹂ とあるを引きて、諸聾聞が上法を随喜して求めたるは合三の旨なりと云ふ。・また彼師等が般若に狸討褒舵の旨な しと云へるに封し、大品の﹁二乗智慧狗如螢火、菩薩一日畢、智慧如日照四天下﹂を引き偏へに無相教として下 すむ反封してゐる。或はまた彼師等が、般若は第二匝法輪なる事を述べたる諸経文を取って、第二時教なりと為 せるに封して、浮名腔にしろ、婆畢控にしろ、捏契紆にしろ、すべて之れ仰の第二縛法輪なる事を奉げて反駁し てゐる。 かくて江南の講師が阿合や般若に封して、固定的見解を取るを批評し七ゐるのであるが、此の批評はそのま1 別の五時にも常てはまるのであるから、天台が仰の化意の始蕗濠五時と別つても、それは如何なる意味で焉され たものか、之に封して通の五時望忠義の重要性等考ふべきである。 然るに此の適の五時は、別の五時に封する時、従来わ天台家わ解繹よりは正憲に非すして傍意なりと下されて ゐる。莞し、既に五時と云ふ以上、俳一代の説法を時剛的に配列笹介すろ目的を以つてせられたるもので、此の 眠り五時とは別のみあるべきであ少、邁の五時と云ふ如きは、言斐自濃からして眈に矛盾を硯はしてゐろのであ る。即ち洩の意味には五時を否定するものを含んでゐるのであるから、俸耗的な敦相家より疎んぜらる1は常然 の事であらう。 然し、吾々よりする時は矢張り此の趨の五時に反って面l︰lい親方が川てゐるひであつて、之によつて天台の致 一 天台数列に封す乙反省 J即r

(33)

判も生きて乗るのであると云つても過言ではあるまい。 疲の純益わ智旭のみは逸早く此庭に着眼して、その致観綱宗に於いて、適の五時を以って重しと焉すべき事を 述べてゐる。 別の五時に封する否定を含んでゐる洩の立場は、戎意味に於ける天台致椎の否定ともなる重要なる問題である から、今煩をいとはす、智他の所論を掲げることにする。 教観綱宗には、 ﹁法華玄轟に云く、﹁夫れ五味牛浦、別を諭すれば、別して舜限有り、通を諭すれば、初後に通す。﹂童安尊者 云く、人言ふ、第二時、十二年中に三乗別敦を誰くと。若し簡らば十二年を過ぎて、四諦、十二因縁、六度を聞く 宜きものあらば、畳語かぎるべけんや。若し説かば則ち三乗は止だ十二年の中にあらす、若し説かざれば則ち一 段後に在りて聞く宜き者は俳萱に化せざる可きや。定んで此の理無し。控に言く↓賽聞の焉めに四諦を説き、 乃至六庇を説く﹂は止だ十二牛のみならす、荒し一代中開く宜き者に随って即ち説く耳。四阿合、五部律の如き 是れ草間の薦めに説くに、乃ち聖滅に託る。即ち走れ其の事なり。何ぞ小乗は悉く十二年中と言ふを得んや。 人言ふ、第三時は、三十三年の中、茎完般若経摩思益む説く。何の経文に依って、三十年と知るや。大智度 諭に云く、﹁須菩提、淡華中に於て拳手低頭皆作俳を得ると詮くを開き、是を以つて今週の轟か間ふ﹂とあ りノ。著L腐らば、大品と法華と前後何ぞ定らんや。 論じて日く、智者繋安の明度此の若し、今人抱えて目を寓せすして、固しく阿含十二方等八之妄訟を自ら靴 大人[、数列に対する反省 組頭

(34)

侍す、害たるヤ甚大。故に先に通論を申べ、次に別諭を申ぶ。先.つ趨の五時を明さば、自ら一類の大横あり、 釦ち此わ土に於て、華赦界合刺身土常什不滅なるむ見れば、則も郭厳は後際に適する也。只今わ華厳入法界品 も亦断じて三七口の小に在らす。 復一類の小磯あり、始め鹿苑より経り鶴林に至る。唯阿含、毘尾、封法を聞けば、則ち三赦は前後に逸する や明けし、茸安は此の如く破斥す、痴人何ぞ椅執迷せんや。 復一類の小磯あり、繹斥褒款を聞て、恥基を生ずべし。仰釦ち篤めに方等法門を説く、畳十二年の後に在り て、僅に八年の中に局るを得んや。且つ方等陀羅尼鮭の如きは、詮いて法華経の後に在れば、.則ち方等亦前後 に通すること明かなり。 復三乗ありて色心等の≠出世の法を歴て、一々摩討街道に倉踪すべし、仲卸ち薦めに般若を説く。故に云ふ、 初相違より泥沌に至るまで、共㍗申開に於いて常に般若を詮く、則ち般若亦前後に通すること明かなり。 復校熟の衆生あり、仲卸ち共の禿めに、閃椎矧賞し、開迩種木し、決して四十年の後を留持せしむるの理な し。但々彿は紳力を以つて根未熟なるものをして聞かしめす。故に智者大師云く、﹁法華は斯霹の速に約すれば 前に在るを見す、紳密の遼を諭すれば、理として障擬なし。且つ控に云ふが如し、我昔彿より是の如きの法を 聞き、詔の菩薩の授記作俳するを見る。如走法とは畳妙法に非すや。﹂ 叉梵網控に云く、﹁吾今此の世界に乗 ること八千返、金剛華光の王座に坐する﹂等は、謀に亦是関連期本に非すや?復衆生あり、應に浬梨を見て得 度する者には、彿即ち入捏架を示す。故に口く八相之中各々八相不可思議を具す。且つ大般浬聖経は阿閣壮王 天台数列仁凱する反省

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惨憺等の緑を迫叙す、並に一‖一夜中のことに非ざる也。﹂ 文中茸安尊者の言は玄弟の後記に述べられたるもので、智者の組述者の彼れにして此言あること考ふべきこと・ である。以上の如き壇の立場こそは、天台が南地の諸教判に封して下した批評的態度、進歩的見方を表現したも のに外ならないので、階唐のエポックメーカーとしての天台の存在も、此虞にあるのであると信する。 此の立場が南地の頓、漸の固定的教判に封して、次の如き頓、漸、不定の解繹となつて周はされてゐる。 ﹁華厳の七虞八倉の誰の如き、嘗へば日の出で先に高山を照すが如し、浮名の中には唯麿茸葡を嗅ぎ、大品の 中には不共般若を説く、法牽に云く、﹁但だ無上道を説く。﹂ 又﹁始めて我が身を見、我が所詮を聞て即ち背 信受して如来の慧に入る、若し衆生に遇はば轟く間道を教ふ﹂と。捏奥の二十七に云く、﹁雪山に草有少、名 けて忍辱と焉す。年若し食すれば即ち醍醐を得﹂と。叉云く﹁我が初成俳に恒沙の菩薩来て是の轟を閃ふ、汝 が如く興ること無し﹂と。諸大乗経に此の如き望息養類例して皆頓教の相と名くる也。頓教の部に非ざる也: ⋮是を不定数の相と名くる也。不定の部に非す﹂ 即ち諸の控には、各々の中に頓、漸、不定の教相を含んでゐるので、一群一紆を総括的に項数.漸教と云ふ部 門の下には棟せられざるものであると云ふのである。 天ムrlの此の態度は、同じ時代に生きた慧速にも見らる1桝である。 大乗義薯体二、 ﹁劉札漸云、伽教無川峨漸二門、足首不壷、如閉所詮拍阿合紅、五部戒律、雷知非是頓漸斯糠、所以而然、彼 ● 大台数列に封する反省 ぱ即

(36)

説破小木柑言噸、詮趨始終、終時桝詮、不璃入大、不緒言漸、叉設傲時節偏i衆生淵小取誰l尭不入大、\云何

首漸、是政頓漸棟数不塞、云々﹂

此の慧遠の意見が、憲安にょつて玄義に紹介せられてゐるのであろが、此事は隋代に於ける是等の諸師の関係

を示すものとして、隣る注目すべきことである。此時代に於ける之等の人々を比較研究することにょつて、此の時

代が如何なる時代であつたか、時代のチとしての彼等はどうであつたか等の事は甚だ大切な事であるにも拘ら

ず、今迄之に解れたものは餞りないのである。以下は玄義に取入れられたる大乗童章の文である。玄轟第十の下

﹁人云く、件数は頓漸を出ですと、而かも茸には頓漸に教を擁する事議きす。四阿含控、五部戒律の如き敦未

だ深を窮めざれば未だ頓と名くる事を得す、説くこと始終に亘れば、復た大の輿めに次第して漸と焉さナ。是

れ即ち頓漸に梯せす。何ぞ俳教頓漸を出ですと云ふことを得んや﹂

甫地の教判に封するか1ろ抗議は、隋唐に於ける彼等の立場から尤もなものであるが、その抗議の根嬢を述す

る鮎に至っては甚だ面白からざるものが出てゐる。しかし吾々としては、彼等が南地の講師の阿含や律に封する

間定的見解を批評せる鮎だけを汲んでゆけばよいのである。故事は自己む特典づける焉めの議論に過ぎないので

あるから、か1るものに拘泥してゐる限り、虞の天台の姿を見失ふのみか、矛盾せる論議の問に立つて、動きが

取れなくなるだけである。

更に丑安は績けて円く、

﹁黙ろに咄無きに非す、全く破すろ事を得ナ、何となれば、凡そ頓漸む諭するは莞し桝焉に随へるなり。若し

天六数列に封すろ反ね J一迫J

(37)

大台放列に封する反省

三六

如来に就かば茸に大小山肌に陳べ、時に前後無し。但だ析焉の人、悟解同じからす、自ら頓に受くる有り、或は

漸より入る。所聞に随って結集す、何ぞ頓なしと云ふ事を得んや。但だ其の時節を定め、其の深浅を此すべか

らぎるのみ﹂

此の時節を定め、深浅を比すべからすと云へるものが、前代の諸師の教刊に対する綜合的批判の結論である。之

は同時に天台自身の数判の限界をも示すものである鮎に於て、敢て私は批評的立場なる言葉を加へたのである。

尤も般若に説く所謂二夜中問の所詮は悉く是れ般若であり、眞賓不虚妄であると云ふ、邁三乗の立場よりすれば

常然天台のかかる態度は生れて釆べきであるが、教相刊樺の成立の事情からして、教刊そのものを批評し、敦判

の限界を示す如き見方に迄、到達する事は仲々至難の事であらう。

之は天台個人の功績にのみ蹄すべきでなく、寧ろ時代の然らしむるものである。支部傭教史⊥、一甘支部民族が生

んだ文化の中で最も輝やかしき成典を超してゐる隋から厨にかけての文運の然らしむるものである。何となれば

之は濁り天台のみのことでなく隋の慧遠、吉城、唐の賢首、等いづれも天台の示した進歩的なる立場をどれだけか

つ1示してゐるのだから。倍、階唐時代の侍性に放ては小生の﹁階庸仰致の一断面﹂なろ論文をと参照せられたい。

以上述べた如き智者大師に於ける時代的性格が純園猫妙と稲する法華紆の控櫻を明かすに際しても現はれてめ

る。即ち﹁今控迩門輿諸紆有岡石其、異謂兼帯、同遼不殊′本門輿諸繹一向異﹂の中の諸経と同遼の諸法茸桐に

立つた。之は雲〓の説明によると、防鷺控の自性清掃心、華厳紆い法身、般若経い︰切種村・沌類推の仰性と一味

祁馳するものであサ、之亦﹁金剛織の察有不二不興不振、中論の国策斯生陛印峯即願如申の両論同数の上に窺るl 躇捜

参照

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❸今年も『エコノフォーラム 21』第 23 号が発行されました。つまり 23 年 間の長きにわって、みなさん方の多く

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