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斎藤喜博における教授理論の形成 [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)斎藤喜博における教授理論の形成 キーワード:斎藤喜博、島小学校、教授理論、授業構造、教育方法 教育システム専攻 岡﨑 明子 目次. いる。しかし、これらの研究は単なる指摘にとどまるう. 第 1 章 序論. え、斎藤の教授理論の根幹にある授業構造論の質的転換. 第 2 章 授業構造論の転換. を捉えてはいない。. 第 1 節 分析の枠組み. こうした研究状況を踏まえて本稿は、次のような問題. 第 2 節 テクスト分析. を設定したい。斎藤教育方法論の 2 本柱である教材解釈. 第 3 章 中間考察――構造転換の契機. 論と授業展開論は、いかなる授業構造論の転換の上に形. 第 4 章 教育方法論の開花. 成されたのであろうか。 本稿の仮説は、 次の通りである。. 第 1 節 分析の枠組み. 斎藤の授業構造論は、1960 年 2 月に執筆された『写真集. 第 2 節 テクスト分析. 未来誕生』を分水嶺として、客観的に正しい考えと客観. 第 5 章 結論. 的に誤った考えが対立する<正対誤>授業構造論から、 客観的に正しい考え同士が対立する<正対正>授業構造. 第 1 章 序論 斎藤喜博(1911-1981 年)は、群馬県の島小学校(以 下、島小)校長としてその名を馳せ、戦後民主主義を代. 論へと大きく転換した。この授業構造論の転換という土 壌の上に、教材解釈論と授業展開論という独自の教育方 法論も花開いた。 (下図) 。. 表する教育実践家という評価を得てきた(例えば、日本 教育方法学会編『日本の授業研究』上巻、2009 年) 。し. 相互作用. かしその一方で、教育理論家として十分に評価されてき. 教育方法論. たわけではない。本稿の目的は、斎藤を単なる教育実践. 教材解釈論. 家というよりは教育理論家として捉え直し、その教授理. 授業展開論 教授理論. 論の形成過程を解明することである。そのうえで、斎藤 の教育の世界を示し、現代教育への示唆を得ることを目 指したい。. 授業構造論 島小教育実践. 斎藤教育理論. 近年、増田翼(2011 年)は、斎藤の教育理論に関する 大著を刊行した。増田は、斎藤の教育思想の長期的な「変. 本稿は、上述の仮説を論証するために、斎藤教授理論. 遷」を描き、そのうえで斎藤の教育理論の特質を捉えよ. と島小教育実践を峻別したうえで、斎藤のテクストを時. うと試みた。たしかに、増田の貢献は極めて大きい。し. 系列的に分析したい。ところで、斎藤は自稿を『斎藤喜. かし、斎藤の教育方法を研究対象から基本的に除外して. 博著作集』 (1961-1962 年。以下『著作集』 )および『斎. いるため、その教育理論の特質を十分に捉えきれている. 藤喜博全集』 (1969-1971 年。以下『全集』 )に所収する. とはいいがたい。. 際、加除修正を施している。そこで本稿では、理論転換. もちろん、斎藤の教育方法に関しては膨大な研究の蓄. 後の斎藤自身による操作を避け、斎藤教授理論の形成過. 積がある。箱石泰和(1984 年)は、島小の学習形態の変. 程を厳密に分析するために、原則として原著の初版・初. 化に着目し、島小の授業の「飛躍」を指摘している。横. 刷を用いて、これを 1 次史料としたい。そのうえで、こ. 須賀薫(1995 年)は、島小の授業の時期区分を試み、 「×. れらと『著作集』 、 『全集』を照合したい。. ×ちゃん式まちがい」や「教材の解釈」 、 「授業展開」と いった教育方法論の「深化」を指摘している。さらに田. 第 2 章 授業構造論の転換. 端健人(2012 年)は、島小の授業が「○○ちゃん式まち. 斎藤の授業構造論は、1960 年代初頭に大きく転換した。. がい」から「対立や討論」へと高度になったと指摘して. 『未来につながる学力』 (1958 年)では、 「新しい芽」.

(2) の授業例に示されるように、子どもを生き生きと活動さ. 授業が、次第に変容しはじめていた。例えば、船戸咲子. せるタイプの授業が描写されている。しかしそこでは、. の「にれの町で」授業のように、ある意味では<正しい. 教師が子どもに<正しさ>や<誤り>を教えているわけ. >子どもの考えをつぶす授業が現れていた。また、児島. でも、各参加主体の考えが対立しているわけでもない. 環の「虫めがね」授業のように、子どもの素朴な直観―. (<非対立>授業構造論) 。続く『授業入門』 (1960 年). ―一見すれば<誤り>にもみえるが<正しさ>も含む考. では、斎藤は「○○ちゃん式まちがい」を次のように定. え――を科学的な<正しさ>に結びつけようとする試み. 式化した。<誤り>を契機として集団の<正しさ>をよ. もみられた。島小教師たちは、子どもの<正しさ>を的. り高い<正しさ>へと導く方法である、と(<正対誤>. 確に見出しはじめていた。ところが斎藤は、こうした島. 授業構造論) 。. 小教育実践の変容――<正対正>型授業の現れる兆し―. これにたいして『未来誕生』 (1960 年)では、それま でとは異質な<正対正>型授業が姿を現した。 そこでは、. ―を理論化するには至らなかった。 しかし、自身が介入した授業であったためであろうか、. 教師は<誤り>をつぶして<正す>どころか、<正しさ. 1959 年 12 月、第 5 回島小公開研究会後の「出口」授業. >をもつぶすのである( 「出口」授業) 。. に至って、<正対正>授業構造を明確に把握するように. 『未来誕生』後に書かれた諸論文において<正対正>. なった。斎藤の捉えた「出口」授業の意味とは、<正し. 授業構造論は開花した。 「教師の教材研究は授業の基礎」. い>考えをも否定する教師の教材解釈によって、子ども. (1961 年 8 月)は、<正対正>授業構造論を打ち出した. を揺り動かすことができ、子どもは変革できるというこ. 画期的論文となった。斎藤によれば、教師にも子どもに. とにほかならない。. も「真実とか、高いものとか」が厳然として存在してい. 斎藤は「出口」授業後の 1960 年 3 月、教材解釈による. る。教材の解釈には「間違った解釈」などない。教師と. 子どもの変革という喫緊の課題を設定した。そして、島. 子どもという各主体の持つ真実を衝突・対立させ、さら. 小としては異例なことに行事を中止した。島小教師たち. なる高みへ上昇することこそ学校教育の本質だというの. は、こうした斎藤の課題設定を受けて、 「教材解釈」や「子. である(<正対正>授業構造論) 。. どもの変革」を掲げて授業に集中し、<正対正>型授業. 斎藤は『授業』 (1963 年)の冒頭において「出口」授. の記録群を残すことになる。一方、斎藤は 1961 年 8 月論. 業の自覚的な再解釈を試みる。そこでは、子どもと斎藤. 文において、<正対正>型授業を実現するには教師の教. の<正しい>考え同士の対立は、 より一層明確になった。. 材解釈が「決定的な条件」となると記し、 『授業』 (1963. 子どもたちは斎藤の<正しさ>の前に、自己否定のうえ. 年)においてもこのテーゼを維持している。このように、. で次第に自分たちの姿をも変容させていく。斎藤は「出. 「出口」授業以降、斎藤の課題設定を受けて島小教師た. 口」授業を撮影した写真を交えて、こうした子どもの変. ちは「教材解釈による子どもの変革」を追求するように. 革の過程を読者に突きつける。斎藤によれば、そもそも. なった。他方、斎藤は<正対正>型授業を理論化する著. 教育においては<正しさ>や<誤り>などはさしたる問. 作を次々と発表するようになったのである。. 題ではない。そうではなく、教育の意味とは、人間の持 つ<正しさ>と<正しさ>を対立させ、さらなる<正し い>考えを発見し創造することだというのである。. 第 4 章 教育方法論の開花 1960 年以降、斎藤教育方法論の 2 本柱、教材解釈論と 授業展開論が次第に開花した。. 教育においては、どれが正しいかということではなく、. 『未来につながる学力』 (1958 年)では、 「教材解釈」. つぎつぎと高い解釈、新しい解釈を発見し創造し、新. や「授業展開」という語句やその実質はみられなかった. しい別の地点に到達していくことに意味がある(斎藤. が、 『授業入門』 (1960 年)では、 「教材の解釈」と「展. 喜博『授業』11 頁。 『全集』第 5 巻所収、212 頁) 。. 開」という語句が登場するようになる。しかし、これら の語句が姿を見せたとはいえ、その内実は後期理論にお. 第 3 章 中間考察――構造転換の契機 こうした転換の契機となったのは、 島小教育実践の 「出 口」授業であった。 実のところ、島小教育実践においては、1958 年頃から 「○○ちゃん式まちがい」をはじめとする<正対誤>型. けるそれとは根本的に異なっていた。教材解釈は、教師 による教材理解の手順にとどまっていた。その一方で、 斎藤は「真実の授業」は「どのような展開をたど」るの かと問い、 授業展開論というべき授業の流れを披露する。 このような初期においては、様々な教授方略を身につけ.

(3) た教師が、子どもの考えを組織しながら、 「題材の目標」. 『授業の展開』 (1964 年)では、教師の教材解釈や授. や「めあて」を獲得するという意味での授業展開論を構. 業展開のプラン作成とその変更に力点が置かれるように. 想していたのである。. なった。プラン作成の端的な例は、1962 年に導入された. 「出口」授業直後に書かれた『未来誕生』 (1960 年). 島小の「授業案」である。他方、同書ではじめて斎藤は、. では、教材解釈の位置づけが一変し、その重要性が説か. 授業展開全体を、教師の見出した「核」から「核」への. れるようになる。斎藤は、子どもを変革する直接的な方. 追求過程と捉え、実際の授業展開が元のプランと異なっ. 法を教師の教材解釈に求め、子どもの考えを発展させる. た場合には、柔軟にプランを変更すべきだと論じるよう. 方法と捉えるようになった。このような教師の教材解釈. になった。そこでは、教師の捉えた「教材全体の核」 、す. の力量は、授業展開の力量と深く関連するようになり、. なわち教材自体の有する本質的価値であるはずのものま. 教材解釈を契機に授業が発展すると論じるようになった. でも、授業展開次第で変更すべきであるとした。すなわ. のである。. ち、授業展開が所与の教育目標にたいして優位に立つこ. 『未来誕生』 (1960 年)から『授業』 (1963 年)まで の 3 年間に、 教育方法論は大きく開花した。 1961 年 4 月、. とを主張し、教材の通俗性や教訓性の内面的破壊をも狙 う地平へと到達したのである。. 島小の「本年度の研究実践・目標」では、3 つの教材解 釈論が初めて登場した(金子緯一郎『島小 11 年史』1966 年、97 頁) 。. 第 5 章 結論 こうした教材解釈論と授業展開論という教育方法論 は、<正対誤>から<正対正>への授業構造論の転換と. 1. 一般的な解釈 2. 教師としての専門的な解釈 3. それぞれの分野での専門的な力. いう土壌の上に開花したものであった。 島小初期の著作では<正しい>解釈同士を対立させ ようとする教材解釈論は見当たらないうえ、授業展開論 は固定化した一定の目標獲得のために考案されたものに. 1961 年 8 月の「教師の教材研究は授業の基礎」では、. すぎなかった。. 斎藤のテクスト上においても初めて<正対正>授業構造. これにたいして、 『未来誕生』 (1960 年)と『授業』 (1963. 論テーゼが打ち出されると同時に、3 つの教材解釈論が. 年)の間の諸論文において<正対正>授業構造論も教育. 打ち出された。1963 年 7 月発行の『著作集』第 7 巻所収. 方法論も開花した。そこでは、<正対正>授業構造論の. の際には、この 1961 年 8 月論文に、大幅な加除修正が施. テーゼというべき重要な文章を含む論文が公表されると. され、絶妙な書き換えによって、しかし明確に、教師の. ともに、<正対正>型授業の「条件」としての 3 つの教. 教材解釈とは教師の解釈と子どもの解釈との結びつけで. 材解釈論が現れた。<正>や<誤>が問題になる「一般. あることが明記されるに至ったのである。. 的解釈」とその他の解釈は完全に分離し、斎藤は、教師. 『授業』 (1963 年)では、解釈の否定という概念が現 れた。そうした授業の典型例は「出口」授業である。そ こでは、教師と子どもは、 「出口」は「でるくち」という. の専門的な解釈の立場からは解釈の「間違い」はないと 断じるに至ったのである。 『授業』 (1963 年)では、<正対正>授業構造論と教. 「一般的解釈」 を超える解釈を追求していた。 どこが 「森」. 育方法論が確立した。 「出口」 授業に端的に示されるよう. の「出口」なのか、と。子どもと担任教師の解釈にたい. に、 教師と子どもは、 <正しい>解釈同士を対立させて、. して、斎藤は「そんなところは出口ではない」と子ども. より<正しい>解釈を追求する。そのためには、 「一般的. たちの解釈を否定し、 自分の解釈を突きつけたのである。. 解釈」を超えた、別の解釈を追求しなければならない。. この「出口」授業の例では、解釈の否定を起点とした授. そして、そうした別の解釈をも否定し、授業展開を引き. 業展開も具体的に論じられている。 「一般的解釈」を超え. 起こすべきだというのである。ここにおいて、<正しい. る世界――教育の世界――では、ある解釈から次の解釈. >解釈と<正しい>解釈の対立による「否定と発展」と. へと次々と授業を展開させ、子どもをより高い次元へと. いう授業構造論と教育方法論が確立したのである。. 移行させなければならない、と。こうした解釈の否定の. このように、斎藤が島小教育実践のなかから創り上げ. という概念の登場にともない、第 6 章「教材の解釈」で. た教授理論の核心とは、ほかでもない<正対正>授業構. 論じられる 3 つの教材解釈論においても「否定と発展」. 造論と、<正対正>型授業を可能にする教育方法論だっ. という要素が色濃く現れるようになった。. たのである。このような<正対正>型授業の描いた教育.

(4) の世界とは、相互主体型・弁証法的真理を追い求める世 界であった。そこでは、すべての主体が真理を持ち、そ れらを互いに衝突・対立させ、ある真理からある真理へ. 4 巻所収、大空社、1996 年。 武田常夫/船戸咲子「仲間の相互批判と教科指導」 、 『教 育』第 9 巻第 4 号、1959 年 4 月、41-51 頁。. とそれぞれの真理を共に変容させていくなかで、さらな. (2 次文献). る真理を追求するのである。. 佐藤学『「学び」から逃走する子どもたち』岩波書店、. こうした教育の世界は、戦後教育の歩み続けた世界―. 2012 年。. ―単なる<正対誤>型授業、すなわち、誰でも同じ共通. 田端健人「「遊びの高度化」としての島小実践――ホイ. の答えを求める「一般的解釈」の世界――とはいかに異. ジンガを導きとして」、横須賀薫編『斎藤喜博研究の. なることであろうか。われわれの知る教育は「つめこみ」. 現在』所収、春風社、2012 年、299-355 頁。. にせよ「ゆとり」にせよ、ただ 1 つの正解を教え込み、. 日本教育方法学会編『日本の授業研究――Lesson Study. <誤り>を正してきたにすぎない。こうした戦後教育に. in Japan――授業研究の歴史と教師教育』上巻、学文. 真理追求などなかった。科学にせよ芸術にせよ、追求者. 社、2009 年。. としての未来の人材を創り出す教育ではなかったのであ る。今日、子どもたちは「学び」から逃走したといわれ るが(例えば、佐藤学『 「学び」から逃走する子どもたち』 2012 年) 、そもそもそれは「学び」の名に値するものだ ったのであろうか。. 箱石泰和「島小における学習形態論の展開」 、 『事実と創 造』第 36 号、1984 年 5 月、6-15 頁。 増田翼『斎藤喜博教育思想の研究』ミネルヴァ書房、2011 年。 横須賀薫「教授学の原点としての島小の授業」 、 『事実と 創造』第 164 号、1995 年 1 月、2-8 頁。. * 斎藤は真理の「追究」ではなく「追求」という用語を用 いている。斎藤は語句の選択に細心の注意を払っており、 「追 求」に関しても、斎藤の思想が反映されているように思われ る。そのため、本稿では真理の追求という用語を用いた。. 主要引用文献 (1 次文献) 斎藤喜博『未来につながる学力』麥書房、1958 年。 斎藤喜博/川島浩『写真集 未来誕生』麥書房、1960 年。 斎藤喜博『授業入門』国土社、1960 年。 斎藤喜博「教師の教材研究は授業の基礎」 、 『現代教育科 学』38 号、1961 年 8 月、7-12 頁。 斎藤喜博『斎藤喜博著作集』麥書房、1962―1964 年。 斎藤「教師の教材研究は授業の基礎」、『斎藤喜博著作 集』第 7 巻所収、1963 年、191-199 頁。 斎藤喜博『授業』国土社、1963 年。 斎藤喜博『授業の展開』国土社、1964 年。 斎藤喜博『斎藤喜博全集』国土社、1969-1971 年。 斎藤喜博ほか「資料・第 7 回島小公開研究会第 1 日夜の 座談会 30 秒質問 30 秒解答」 、 『事実と創造』第 175 号、1995 年 12 月、2-14 頁。 金子緯一郎編『島小 11 年史』麥書房、1966 年。相川仁 童監修『増補 島小研究報告』第 6 巻所収、大空社、 1996 年。 児島環「科学的認識への指導」、『島小研究報告』第 19 集、1959 年。相川仁童監修『増補 島小研究報告』第.

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参照

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