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Vol.68 , No.1(2019)080清水 洋平, 舟橋 智哉「Sabbadana-anisamsaの研究――アーニサンサ文献からみるタイの積徳行――」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

Sabbadāna-ānisaṃsa

の研究

―アーニサンサ文献からみるタイの積徳行―

清水洋平・舟橋智哉

1

.はじめに

仏教では,功徳を積むことが徳目の一つとして重要視される.特にタイでは, 功徳を積むことは「タンブン(tham bun=功徳(bun=puñña)を積む行為(tham))」と

呼ばれ,在家者が寺院や僧侶に布施を行う姿がよく見受けられる1).タイ人は, そのような功徳を積む善い行為をすると,来世において善い生まれ変わりになる と信じているのである.タイの仏教文化を特徴付けるこの姿は,何に起因して形 成されてきたのであろうか.どのようなパーリ文献がこのような行為を促し,タ イ仏教において強い影響力を持ってきたのであろうか. この点を理解するためには,タイで発展した積徳行に関わる「アーニサンサ (ānisaṃsa: 功徳・果報・御利益=タイ語ではアニソン(ānisoṅg)と発音)」と題名に付せら れた文献の存在が重要である.アーニサンサ文献とは,功徳を積むと来世は天に 生まれるとされるなどの業報思想を説く文献群である.その多くは,僧侶が説法 の場,あるいは経典読誦の場で,在家者に積徳を勧めるために用いられてきたも のである.そこで説かれる内容は,僧侶への生活必需品や仏教儀礼で使用される 花・灯明・香などの布施,寺院建造物の寄進,あるいは,聞法など多岐にわたっ ている. 本稿では,仏教研究に殆ど取り上げられることがなかったこれらアーニサンサ 文献から,布施行の功徳を網羅してパーリ語でまとめられたSabbadāna-ānisaṃsa ( 一切布施功徳 : 以下SdĀ)を取り上げる.長らく貝葉写本として伝持されたこの 文献は,1束(phūk),枚数にして18枚前後から成る短い写本2)と,10束,枚数に して240枚前後ある長い写本が存在する.10束のものは拙論(2014)において内 容を検討した.今回は1束のSdĀを中心に取り上げたい.まず1束の内容を概観 する.その後1束と10束に記される同種の布施を説く代表例を取り上げ比較し, これらの文献が拠り所としたパーリ仏典からの引用語句や表現方法の差異に注目

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して両者の関係を考察する.これらの考察を通して,タイ仏教においてアーニサ ンサ文献が果たした役割や写本作成の意図を明らかにしたい. 2

1

束の

Sabbadāna-ānisaṃsa

の概要

パーリ語のみで書かれた1束のSdĀは,次の文章で始まる. ある時,師は舎衛城に留まって 園精舎に住んでおられ,大比丘僧伽に取り囲まれてい た.そのとき全ての神と人が法を聞きたくてやってきて,香と花環などの尊敬[を表す 物]を手にして 園に入ってきて世尊に尊崇を示して礼拝して質問した. 「尊者よ,一切施(全ての布施)と名付けられる資具全てのうち,何と名づけられる財が より大きな果を[もたらす]尊崇となる[財]でしょうか」 それに対して釈尊は,全ての善業・功徳の真髄を示すために,次の偈を詠んで 答えた. 功徳の業は財である.布施も戒もまた[業と果を]結びつけるものである. 昼夜に 怠しない者(出家者)からすれば,これらは取り巻きである. 出家生活せずして精進努力する者(在家者)は,[若い時になすべき善行である布施や聞 法によって]常に自らを浄めよ. このように功徳の業を説明している.布施等は,出家者にとって修行の本分で はないが,在家者にとっては,なすべき行為であると説明している.このことか ら,この文献は在家者を意識して説かれていると理解できる. その後,布施・戒などの行為の根拠を知るべきであると述べて,この後に続く 布施の功徳が説かれる展開へとつないでいる. まず食べ物の布施の功徳が説かれる. 「尊者よ,女でも男でも王族でも誰でも,清浄な心で食べ物の布施を布施してどんな果が あるのか」と[諸比丘が]質問したのに対して,世尊は食べ物の布施の功徳の果を示した. 「諸比丘よ,食べ物の布施と名付けられるもの,それは,もし畜生に食べ物の布施を布施し たら,たった1つの団食を布施しても,百人の取り巻きを得て,[…以下略…](内容は, どういう人に食べ物の布施をしたらどのような果があるのかが順次説かれていき,最後に 「その功徳の果によって,その人が再び生まれたとき貧しい生まれになることはない」と説 かれる).」 これをきっかけとして次々と上記下線部のように「〔○○の布施〕をするとど んな果があるのか」という箇所が替わりながら比丘達が質問していき,釈尊が答 える形でそれぞれの布施の果が説かれる.

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食べ物の布施の後に順々に記される布施の内容は次の通りである. 〇食べ物,托鉢食,飲物,毛布,衣,大衣,上衣,内衣,帯,鉢,旗と傘, 杖,履物,8つの生活必需品,皮革,剃刀,針,火,灯明,油, り豆,歯 ブラシ,衣,花と火,花,掃除・塗油,薬,粥,米粒,蜜,慈悲から他人の 体を荼毘に附すこと,5種(毛布,本,台,下着,[腰]紐),栴檀の香・薫香・ 塗香,牛・水牛・象・馬・車,辛い・苦い・酸っぱいや塩辛い(味). ここまでは,物質的な物の布施の話が説かれている3).これに続き,全ての布 施に関して,布施する人の信心の有無によってその果報が異なることが説かれ る.当然,布施する人は信心がある方に大果があると述べられる. 次に,道をきれいにすることや寺院における,行事や建造物に関する布施が説 かれる.即ち,家を与えて雨安居を行うこと,会堂,寺院,砂の塔 ,トイレの 布施の果が説かれる.その他,仏像造像(金製・銀製・錫製・泥土製),仏法僧の尊 崇,出家すること,菩提樹を育てることも説かれている. その後,布施される側の者達が持戒者か否かによって,その果報が異なること が説かれる.当然,布施される者は持戒者の方が効果が高いと述べられる.この ことは,戒をしっかりと守る高名な僧侶に布施したいと思う現在のタイ人の姿を 見ているようである.最後に,Dhammapada 121偈を含む業報思想の偈で締めく くる.以上が1束のSdĀの概要である. ここから理解できることは,1束のSdĀで取り上げられる物質的な物の布施の 項目は,タイで見られる日常の布施・善行のほぼ全てを網羅する形になってお り,名称は多少異なるが10束のSdĀで取り上げられる布施の分類の中にみられ る項目と,殆ど一致しているのである.(※10束に含まれない項目として,「布施する 人の信心の有無」や「布施される側の者達が持戒者か否か」,荼毘,砂の塔 ,トイレの布 施,仏像造像,出家の7項目があることには留意が必要である.) 3

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束と

10

束の

Sabbadāna-ānisaṃsa

の針の布施の比較

ここでは1束と10束のSdĀの各々の引用語句と表現方法の特徴を見るために, 一例として両方に共通する布施の1つ,針の布施を取り上げ,該当箇所の比較を 試みた結果を述べる. 〈1束のSdĀの針の布施〉 「尊者よ,針の布施を布施して何の果が[あるのか]」と[いう諸比丘の質問に対して],師

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はこの偈を詠んだ. 1 針の布施を行うことによって奴婢や多くの人々は智慧あり畏れない人になる.これが針 の布施の果である. 2 全ての非難[を引き受けること]が針の布施の人の心の完成である.清浄な身体におい て全ての財物を具足してからそれを享受する. 3 長寿となって清浄で智慧ある状態で死んだことが語られるべきである.人間世界から [行った]天で優れた楽を楽しむ. 〈10束のSdĀの針の布施〉 10束 のSdĀの 構 成 は,Khuddakanikāya所 収 の 経 典 の 釈 文 献Apadāna

Aṭṭhakathā(以下ApA)やVimānavatthu Aṭṭhakathā(以下VvA)等に説かれる話を引用

している4)10束に記される針の布施の話であるVvA 58「針の天宮」5)は,天界 にいる天人が,天界に生まれた理由は鍛冶屋だったときサーリプッタ尊者に針の 布施をした善行の果報であることを,因縁譚を述べた後に8偈で語る物語であ る. ここから確認できることは,1束と10束では圧倒的に分量が異なる.1束では 因縁譚がないが10束には因縁譚がある.偈の分量も1束では3偈,10束では8偈 と分量が異なる.針の布施の話に関しては,10束に比して1束では伝統的パーリ 仏典(正典としてのパーリ三蔵及びその 釈文献)からの引用文ではなく,針の布施 をすれば現世でのよい生活と来世に天界に生まれることを簡潔に説いている.こ のように比べると1束と10束のSdĀの一致する部分は,針の布施をすると天界 に生まれて楽しむという趣旨だけであり,表現方法は全く異なるのである. 時間軸に焦点を当ててその内容を見てみると,10束では天人として現在世に 生まれた結果をもたらした原因を,過去世の布施という善業の因に求める因果関 係で述べている.これは現在の結果から過去の原因を見る伝統的な仏教思考の因 果関係である.それに対して1束では,現在世において因となる善業を行えば, 現世のよい生活並びに来世に善い生まれという果をもたらすという因果関係が, 釈尊の言葉として述べられる.このように,1束と10束では時間軸も異なってい る.明らかに1束の特徴は 現在 に視点が当てられているのである. 功徳を積む勧め方は,10束より1束の方が余分な説明がなく簡潔で,その果報 も身近に意識しやすいものであり,在家者をより意識したものになっている.

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1

束と

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束の

Sabbadāna-ānisaṃsa

の作成意図と存在意義

今節では前節までに見てきた内容をもとにして,各々の作成意図と存在意義を 検討していきたい.10束のSdĀは既に指摘したように,食べ物,衣など日常生 活全ての布施において,VvAやApA等の話がそのまま貝葉写本に引用されてい る.これは10束のSdĀが,在家者が行う日常生活全ての布施の根拠を伝統的 パーリ仏典に求めて書かれていることを示している.タイの仏典写本では,伝統 的パーリ仏典は,基本的にパーリ語のみで書かれている.即ち,それらはブッダ の言葉であると考えられ,そのままの形で継承していくことが仏教徒の務めであ る.パーリ語のみの文献は,パーリ仏教を継承する正統性を重んじているのであ る.おそらく10束の作成意図は,在家者に語る実際の布施行とその果報が,伝 統的パーリ仏典を継承した系統譜の上に立っていることを僧侶達が理解しようと して,自分達の学習研究用に作成して用いていた可能性が高い6) それに対して1束のSdĀは,10束の物質的な布施の分類を共有しつつ, 現在 に視点を置き布施とその果報を簡潔に説いている.加えて,10束のものには記 されていない,「布施する人の信心の有無」によってその果報が異なることなど 7項目が記されている(2節の最後※欄を参照). これらのことを考慮すると1束の作成意図は,10束に引用される各々の布施の 話を底本にして,その趣旨のみをくみ取り,在家者に向けて布施と来世の善い生 まれ変わりとの因果関係を直接的に分かり易く伝えることにあり,更には新たに 強調したい点を加味して簡潔に説くことを意図していると推定できるのである. また,1束のSdĀについては留意する点が1つある.それは注2に記している が,パーリ語で書かれたもの以外に,内容が対応するパーリ語とタイ語の混淆形 式7)で書かれた1, 2束の貝葉写本が存在することである.10束に対応する内容の ものは存在しない.では,この混淆形式のものの作成意図は何なのだろうか.既 に述べてきたが,1束のパーリ語のSdĀは在家者を意識して作成されたものであ る.但しパーリ語であるため僧侶がそのまま説いても在家者には伝わらない. パーリ語とタイ語の混淆形式の貝葉写本は,在家者がパーリ語そのものを理解で きなくても,僧侶がその写本を読誦するだけで,その内容の理解が可能になるた めに存在している.よって,このような混淆形式で書かれた1, 2束のものは,そ の内容を法話として直接在家者に伝えるために作成し用いられた文献である.こ のような混淆形式の写本を用いた法話を通じて,タイの在家者は布施の功徳が理

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解できるようになるのである8) パーリ語のみの1束の貝葉写本の存在意義について,この混淆形式のSdĀとの 関連で見ると,在家者に対する法話用の写本の元となる話としてパーリ語の1束 の貝葉写本が位置づけられるのである. SdĀの作成意図と各々の存在意義に関して,以上のことをまとめると次のよう になる.10束は,布施の功徳の文献的根拠の正統性を伝統的パーリ仏典に求め てVvAやApA等の話をそのまま貝葉写本に引用して作成された.その10束を 底本にして,パーリ語の1束は在家者を意識して作成されたものである.さら に,タイの在家者向けの法話用として,パーリ語とタイ語の混淆形式で記される SdĀ(1, 2束)が作成されたのである. 5

.むすび

以上のようにSdĀと題名に付く貝葉写本を見てきた.このように見てくると, 現在のタイ人の布施などの積徳行(タンブン)には,伝統的パーリ仏典が直接的 に文献的根拠として在家者に影響を与えたのではなく,アーニサンサ文献が大き く影響を与えてきたことがわかる.食べ物や衣などタイの日常生活の布施全てに 関して,10束のSdĀでは,その文献的根拠の正統性を伝統的パーリ仏典に求め てその中の話をそのまま貝葉写本に引用し,出家者の学習用として現実の布施な どの積徳行に結び付けている.パーリ語の1束のSdĀは,10束を底本としつつ, 現世において布施の功徳を積むと来世に善い生まれ変わりになると説いている. この際,現世の果を過去世の因に求める因果関係を述べる10束から,現世から 来世の因果関係を述べる1束へと,功徳とその結果の時間軸を移行させて,来世 に期待して現世で布施の功徳を積むよう在家者に促すことになるのである.ここ までが文献上,伝統的パーリ仏典とのつながりを考慮した学僧による積徳行の意 義づけである.パーリ語を理解できないタイの在家者にその内容を理解させる法 話用のための文献が,パーリ語とタイ語の混淆形式で記される1, 2束のSdĀであ る.このようにSdĀと名付けられる1束と10束の貝葉写本がそれぞれ存在する 理由が明らかになって来たのである. 以上のように,現代タイに見られる在家者の積徳行の姿は,アーニサンサ文献 が大きく影響を与えてきたのであり,伝統的パーリ仏典そのものを僧侶が説きな がら積徳行を奨励しているのではない.アーニサンサ文献による僧侶の法話を基 礎として実際の行動に移してきたものなのである.法話に使用されるアーニサン

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サ文献はタイで独自に発展したものであるが,それは伝統的パーリ仏典にその源 泉を明確に れるものである.その証拠となるものがパーリ語の1束と10束の SdĀなのである. 現存する貝葉写本に記されたアーニサンサ文献を読み解くことは,伝統的パー リ仏典とタイ仏教の現実の姿とのつながりを明らかにすることになるのである. 1)タイのような仏教社会にみられるボランティアや社会貢献の活動も,仏教的文脈では 積徳行=善行として捉えられるのである.   2)この写本はバンコク所在のWat Arun

に所蔵されている.同地域にあるWat RatchasittharamとWat Mahathat Yuwaratrangsaritにも

同内容の写本が所蔵されている.但し,両寺院の写本の題名はSabbadānagāthāとなってい る.1束の写本については,パーリ語で記されたもの以外にパーリ語とタイ語の混淆形式 で記されるものも存在する.   3)「慈悲から他人の体を荼毘に附すこと」を除く.    4)清水・舟橋(2014, 211–214)参照.   5)10束の針の布施の該当箇所はVvA 58 (PTS, 250–251)の他,VvA 59 (PTS, 251),ApA 77 (PTS, 397)である.写本の文章とPTS 版との文章には,多少の異なりがある.   6)10束のSdĀを所蔵する寺院は,私達の

調査からバンコク所在のWat Pho,Wat Ratchasittharam,Wat Hon Ratanaramであり,これら

は地域の基幹学問寺院にあたる.これらの寺院のみに所蔵されていたことからも10束が僧 侶の学習研究用であることが裏付けられる.   7)混淆形式とは,パーリ語の単語をタ イ語の文章に組み入れて記す形式で書かれたもの.   8)現在は,このような写本は用 いられず,タイ文字タイ語で記された紙媒体を通じて法話がなされる. 〈参考文献〉 清 水 洋 平・ 舟 橋 智 哉 2014「タ イ に お け る 積 徳 行 と パ ー リ 経 典 の 関 係― 貝 葉 写 本 Sabbadāna-ānisaṃsa―」『印仏研』63(1): 339–342. (2019年度科学研究費助成事業基盤研究(C) 17K02220による研究成果の一部) 〈キーワード〉 タイ仏教,積徳行,貝葉写本,ānisaṃsa,功徳,布施 (清水: 大谷大学真宗総合研究所特別研究員,博士(文学)) (舟橋: 大谷大学真宗総合研究所嘱託研究員,博士(文学))

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