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書 評
池澤一郎著
﹃雅俗往還
│近世文人の詩と絵画│﹄
深 沢 眞 二
近時︑池澤一郎氏は日本語・日本文学研究の現状を憤る人であ
る︒﹃和漢比較文学﹄第四八号︵二〇一二年二月︶に︑前年九月二
五日の和漢比較文学会第三〇回記念大会シンポジウムでの報告を
文字にした﹁日本漢学研究の進展を阻むもの│狂奔する﹁国際化﹂
路線にもの申す│﹂が掲載されている︒その主題は米国中心主義
による言語教育の﹁国際化﹂への痛烈な批判であるが︑文中︑日
本における漢詩漢文の学習の後退をひたすらに嘆く︒そして︑望
ましいあり方として︑次のような認識が説かれる︒
日本語をつぶさに見つめ直し︑それが漢字と仮名とで構成さ
れ︑仮名は漢字そのもの︑または部分から形成され︑漢語と
和語との語彙があり︑和語もまた漢語に由来するものが多
く︑純粋な和語と考えられるものも漢語との緊張関係の中で
磨きをかけられているというあたりまえのことに気付き︑そ
れほど漢字や漢語が日本語にとって根幹をなすものならば︑
それらの出自を辿って
︑漢詩漢文で記された漢籍を読むの
が︑本当の意味で日本語を読むことに繋がるのだという当た
り前の認識︵三八頁︶
池澤氏はまた︑そうした﹁当たり前の認識﹂を欠く日本古典文 学研究者に批判の矢を放つ︒たとえば︑﹃江戸の文学史と思想史﹄
︵井上泰至・田中康二編︑二〇一一年一二月︑ぺりかん社︶の﹁Ⅰ儒学﹂
において︑﹁普段は和歌や俳諧プロパーの研究を進めているが︑
時あって漢学とクロスする分野に積極的に発言しようとする心あ
る研究者に向けて﹂︑﹁漢詩文リテラシーの飛躍的向上を切に望
む﹂と述べる︵同書八七頁︶︒普段は連歌俳諧のプロパーで時々﹁漢
学とクロスする分野﹂にも触る筆者としては︑﹁当たり前の認識﹂
に共感を覚えつつも︑我が怠慢と非力を咎められているようで耳
の痛いことである︒
﹃雅俗往還│近世文人の詩と絵画│﹄は︑江戸期の日本文学お
よび絵画を︑漢詩文リテラシー能力にすぐれた研究者ならばどの
ように﹁読む﹂ものかという︑具体的実践の記録と言うことがで
きる︒池澤氏の第一論文集﹃江戸文人論│大田南畝を中心に│﹄
︵二〇〇〇年五月︑汲古書院︶以後の︑約一二年間の研究成果をまと
めた一書である︒四部構成を立て︑全一九章を配置している︒ま
ずは目次に従って各章のタイトルを列挙しよう︒煩を厭って副題
は省略した︒
第一部﹁俳諧と漢詩﹂には︑﹁蘇軾の﹁残夢﹂と芭蕉の﹁残夢﹂﹂﹁﹃あら野﹄巻之六︑野水﹁詩題十六句﹂について﹂﹁﹃焦尾琴﹄
其角・午寂両吟歌仙試注﹂﹁中興俳諧に見る﹁晋人﹂憧憬の跡﹂
の四編を収める︒
第二部﹁題画文学﹂には︑﹁蕪村題画詩の方法﹂﹁湖畔に花を
踏み︑渓流で神仙に出遭う﹂﹁蕪村文人画の世界﹂﹁蕪村と﹃聯
珠詩格﹄﹂﹁詩画への隠遁﹂﹁近世韻文史の一断面﹂の六編を
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収める︒
第三部﹁大田南畝の雅俗﹂には︑﹁大田南畝の漢詩と狂歌﹂﹁陸
游とともに花を見る大田南畝﹂﹁大田南畝と中国小説﹂﹁大田
南畝﹂﹁佐藤一斎の悼亡詩について﹂の五編を収める︒
第四部﹁風流と反権力﹂には︑﹁定信の風流を支えた人々﹂﹁頼
山陽の反権力的思想﹂﹁出光美術館蔵・田能村竹田作﹁松渓
載鶴図﹂論﹂﹁南画の読み方﹂の四編を収める︒
これに﹁あとがき﹂﹁初出一覧﹂﹁索引﹂が付く︒書名の﹁雅俗往
還﹂が意図するところは︑熱意を帯びて﹁あとがき﹂に説かれて
いる︒すなわち︑
文学作品の表現は︑雅の要素が多きを占める場合もあれば︑
俗の要素が色濃い場合もあるが︑特定の作者にあっても雅俗
いずれか一方に偏向固定する場合はないといってよく︑絶え
ず雅俗両端の間を揺れ動き︑行ったり来たりしているのが︑
優れた文学表現の特質であろう︒︵四八一頁︶
対象とするものは︑俳諧であり︑狂歌であり︑絵画であり︑
漢詩文であるが︑根幹をなすのは︑漢詩文である︒従って︑
﹁雅俗往還﹂とはいっても︑芭蕉とは事変わり︑﹁帰雅﹂を志
向する︒あるいは﹁雅﹂から離れないで﹁俗﹂を見定めると
いったスタンスを採っていると言い換えてもいい︒︵四八二
頁︶
第一論文集﹃江戸文人論﹄と比較して︑本書における池澤氏の
関心が俳諧および絵画の領域に拡大されてきていることは︑それ
らの研究分野にとって喜ばしくまた心強いことこの上ない︒第一 部を読むと︑漢詩文リテラシーに劣る先行研究を筆鋒鋭く批判しつつ︑随所に俳諧作品の典拠に関する新見を提示している︒それは博捜に裏付けられた正当な論法の展開であって︑時に痛快ですらある︒本書が契機となって俳諧研究者一般の目が開かれ︑いわゆる漢詩文調俳諧や︑儒者や詩人と俳諧作者との交誼の場に生まれた諸作︑それにたとえば素堂のような学識ある俳人の研究が進捗することを期待したい︒ ただし︑池澤氏の俳諧解釈における﹁俗﹂の見定め方については︑若干の不満を申し立てざるを得ない︒俳諧もまた︑氏の言われるように﹁絶えず雅俗両端の間を揺れ動き︑行ったり来たりしている﹂文学であるが︑時期により作者による﹁おおよそ妥当と言える範囲﹂とでも言うべき限 ストライ
ク
・ ゾ
ーン定的な振幅がある︒その振幅を見
究めるのはなかなか難しいことではあるのだが︑氏は個別の作品
の解釈に当たって︑ケース・バイ・ケース的な︑広めの振幅で臨
んでいるように感じられてならないのである︒
具体的に述べよう︒第一部第一章﹁蘇軾の﹁残夢﹂と芭蕉の﹁残
夢﹂﹂では︑芭蕉の発句﹁馬に寝て残夢月遠し茶の煙﹂を論じて
いる︒この発句は︑前書を含め︑羅山の﹃丙辰紀行﹄を介し︑石
川丈山の選ぶところの﹃詩仙﹄所収杜牧﹁早行﹂詩に拠ったもの
と説く︒そして︑﹁茶の煙﹂のみ︑別の杜牧詩﹁酔後題禅院﹂
︵ ﹃ 三
体詩﹄所収︶の結句﹁茶煙軽颺落花風﹂に由来しており︑その点
にこそ﹁芭蕉の喜びと工夫とが存した﹂︵一五頁︶と見ている︒だ
が︑はたして︑二つの杜牧詩の語句を組み合わせたことばかりが
芭蕉の俳意だっただろうか︒この発句の俳諧性の核心をそこに定
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めて事足れりとするのは︑芭蕉を衒学的作者の位置に留め置くこ
とになりはしないか︒他の芭蕉発句﹁山吹や宇治の焙炉の匂ふ時﹂
や﹁するが地や花橘も茶の匂ひ﹂を参照するに︑﹁茶の煙﹂はお
そらく当代現実の﹁俗﹂の話題として持ち出されている︒また︑
丈山と茶の関わりを追求する必要もあるかもしれない︒要する
に︑﹁馬に寝て﹂句の俳意の解釈において︑池澤氏は漢詩の﹁雅﹂
に振れすぎていると思われるのである︒
第二章は﹃あら野﹄巻之六の野水﹁詩題十六句﹂の詳注である︒
それが︑白居易の詩のみならず︑﹃六家集﹄に見える白居易の詩
句に題を求めた定家・慈鎮の詠作を参照しての作品であるという
主張は肯われる︒しかしながら︑一六句全体を眺めるに野水句の
俳諧性は比較的弱く︑たとえば﹁氷ゐし添水またなる春の風﹂や
﹁行春もこゝろへがほの野寺かな﹂なぞは漢詩を和歌的表現に翻
案してみせたことそれ自体が︑野水の俳意だったと認めて良いよ
うに思われる︒だから︑この連作について池澤氏が﹁俗﹂に傾斜
した解釈を開陳する箇所には︑疑問なしとしない︒﹁蓮の香も行
水したる気色かな﹂を解釈して氏は言う︒﹁蓮の香りを嗅いでい
る人物もまた﹃行水﹄をつかった直後である﹂︵五四頁︶と︒﹁も﹂
に注意を払うべきことはその通りだが︑むしろ︑池中から伸びて
開いた蓮の花の色を﹁行水したる﹂と見︑その﹁香﹂までもが行
水後らしいさっぱりした香であると言い立てたのではなかろう
か︒また︑﹁涼めとて切ぬきにけり北のまど﹂について︑﹁急ごし
らえの窓が北側の壁にあったことをいうのであろうが︑その普請
のさまがぞんざいであったことに驚きあきれると同時に貧に開き 直るその家の主人の境地に感嘆している客の立場からの詠﹂︵五
八頁︶とする︒これは﹁俗﹂を求めて白詩の﹁貧家﹂の二字にこ
だわりすぎた解ではなかろうか︒これはおそらく︑自家の北の窓
を開放して客へのもてなしとした主の立場からの詠であって︑野
水の俳意は︑﹁この窓はあなたが涼むために︑家を建てる時わざ
わざ切り抜いておいたのですよ﹂と︑貧家にてはほかに馳走もご
ざいませんという謙退を含みつつ︑大仰にとぼけて挨拶してみせ
た︑そのポーズ自体にあっただろうと思う︒
逆に︑第三章﹁﹃焦尾琴﹄其角・午寂両吟歌仙試注﹂の場合は︑
作者が作者だけに︑俳意を﹁俗﹂の方向にもっと求めて良いので
はないかと考える︒たとえば﹁こよひ世間の甲子ぞかし﹂︵九五頁︶
は︑甲子の夜に胎に宿った子は盗人になるという俗信を取り込む
ことで︑妓女を描いた恋句である前句にも付き︑次句の﹁性わる﹂
にも続いていると読める︒﹁手のきれぬ傾城きれと棘にて﹂︵一〇
八頁︶の下五の読みは﹁オドロにて﹂で︑オドロの髪を意味して
前句に付き︑オドロの路︵公卿︶を意味して次句に展開している
のではないか︒また︑正月の話題を冬とする誤りが三箇所ほどあ
るのを始めとして俳諧之連歌の読み解きに不慣れな様子が見て取
れ︑季と恋の運び方など式目にも注意を払えばもっと説得力のあ
る注釈になるものを︑と思われてならない︒
求められた字数も越えようとしているし︑本書は頁が進むにつ
れて筆者の専門とする領域から離れてゆくことでもあるので︑第
四章以下の各章の評は︑それぞれの専家に委ねることとしたい︒
ただ︑最後に︑本書刊行と前後して発表された関連の論考を紹介
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しておこう︒
池澤氏には︑前出﹃江戸の文学史と思想史﹄に﹁大田南畝﹃調
布日記﹄における漢詩文の機能﹂があった︒﹃江戸の漢文脈文化﹄
︵中野三敏・楠元六男編︑二〇一二年四月︑竹林舎︶には﹁﹃北里歌﹄
における市河寛斎韜晦の方法│いわゆる﹁長慶以後の手段﹂につ
いて│﹂があった︒ また︑杉下元明氏による書評が﹃和漢比較文学﹄第四九号︵二
〇一二年八月︶に掲載された︒大学勤務と﹁子育て﹂︵四八三頁︶の
多忙による校正の時間の不足ゆえと推察するが︑杉下氏も指摘す
るように︑本書に誤字の多いことは︑惜しんで余りある︒版を重
ねる折あらば︑是非とも修正を望みたい︒
︵二〇一二年二月 若草書房 A5判 四九八頁 本体一四五〇〇円︶
新 刊 紹 介
白倉一由著
﹃近松世話悲劇の研究﹄
近松門左衛門は人形浄瑠璃の代表作家で
ある︒本書は︑書くことで作家として成長
する近松の内面を追う縦の視点と︑作品が 生まれる背景となった事件や︑著者によって六つに分けられた作家生活それぞれにおける︑近松の創意について言及する横の視点が合わさった作品論集である︒ 著者は近松の世話物から一貫して﹁自己犠牲における絶対的な愛﹂を見出し︑それ故に近松が国際的作家であると主張する︒
近松の生涯や江戸時代の独自性を説いた 章や巻末の年譜︑坪内逍遥以降の近代における近松研究史を概観した内容から︑入門書としても手に取りやすい一冊と言えよう︒︵二〇一二年六月 岩田書院 A5判 三
九五頁 税込四五〇〇円︶ ︹長田和也︺