大伴旅人における中国的志向 I
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(2) . 第 23 巻 第 3 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和4 8年2月. 大伴旅人における中国的志向 1 石. 田. 公. 道. 北海道教育大学札幌分校国語国文学研究室. K0d6 1s日工DA ; otomo-no一Tabito’s Approach to Chinese wrays of Thinking Par t. , ,. 世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲 しかりけ り (万葉 793) この歌は大伴旅人がその妻大伴郎女を失った時, 弔問に訪れた人達に報えた歌であるといわれて ) 大宰帥として筑紫に下って間もない頃のことであろう, この歌にはその前 いる, 神亀5年 (728 に序文がつけ られているが, それには次のように述べ られている, 大宰帥大伴卿, 凶問に答ふる歌 1首 むだ 禍故重畳し, 凶問累集す, 永く崩心の悲 しび を懐き, 独り断腸の涙を流す ただ し 両君の大き , . 助けに依りて, 傾ける命をわづかに継ぐのみ, 筆の言を尽くさぬは, 古に今に嘆く所なり . 諸行無常, 万事空寂という仏教の教理は, 当時の知識人の胸裏にようやく しみこみつつあっ たも のと思われ, それを歌に詠んだという点にこの作品は特色がある. 「凶問」 という語については異 説があり, 必ずしも弔問の場合にのみ用い られるとは限らないといわ れているが1 ) . 彼自身の身辺 に生じた不幸な環境に対する心境を吐露 したものであることには間違いない , これに対して柿本人麿は彼の妻が死んだ後, 追憶 して次のように詠じている , さ. 去年見てし秋の月夜は照 らせども相見し妹はいや年灘かる (万葉 21 1) 両者は妻の死を悲しむという点では共通している. しかしその悲しみを表現する方法としては大 きな距たりがある, 人暦のそれは, 去年妻と並んで眺めた秋の月夜, その月は今宵も美しく照 らし てい る け れ ども, 今 は も う わ が 傍 に 妻 の 姿 を み る こ と は で き な い , い っ た い, 妻 は どこ に 行 っ て し ま っ た の だ, と妻 を 亡 く した そ の 悲 しみ を 詠 じ て い る.. これに対して旅人の場合は, はるかに理性的な悲 しみである 世の中が空しいものであるという , ことは, 仏教の教理と しても説か れ, また知識と しても自分は, それを理解 していた ところが妻 . の死という現実に直面 して人の世の中がいっ そう悲 しいものに思える, というのである . 人麿の作品が, これまでいつも自分の傍に いて一緒に月を眺めた妻はどこへ行 て し ま っ ったの だ, とその悲哀の気持を感情的に訴えているのに対し, 旅人のそれは人の世の無常を理性と して肯 定 しようとする, 旅人が悲しむ のは妻の死を悲しむ というよりは 人の世の無常を確認してそれを , 悲 しむのである, この悲しみは旅人個人の悲しみではなく, 生きとし生ける者すべての人間の悲 し み で あ る,. 人麿の悲しみは旅人のそれとは異なる, 彼の悲しみは, も しも彼の傍に妻の姿があれば その悲 , - 99 一.
(3) . Vo l .23 No ,2. ion IA) i ido Uni i lof Hokka t rs on (Sect Journa ve y of Educat. February ,1973. しみは一転して喜びの感情に変って しまうべ き性質のものであるし, 旅 人の悲しみは人間であるか ぎり尽きることない悲 しみである. 人麿の作品を一言に して尽く せば, 感情の歌であり, これに対 して旅人の歌は知性の歌ということができよう, このように大伴旅人は思想的な汗情歌を詠んだという点で, 『万葉集』 の歌人たちの中でも独自 の地位を占めるといわれている, そして彼がそのような傾向の作品をものするに至っ た背景には, 中国思想, ことに老荘思想の影響があっ たといわれている, しかしなが ら旅 人が心か ら老荘思想を身につけ, その実践者としての自覚があっ たならば, たと え作品の上とはいえ, このような表現はしなかっ たに違いない, なぜな らば人の死を悲 しむという 人の世の常識を老荘思想では否定するか らである. 人の世の無常を無常でないと 観ずるところに 老 荘思想の特色があり, 死生を超越するところに老荘思想の真髄がある. 荘子の妻が死んだ時に, 恵 子がこれを弔っ たところ, 驚くなかれ, 荘子は両足を投げ出して盆を鼓して歌っていたというのは 『荘子』 至楽篇の記すところである2 ) . これは儒家の札楽を重視する考え方に対し, 道家がこれに反発 しての発言であるが, 『万葉集』に はどこにも このような傾向を見ることはできない. 『万葉集』 は人の死を悼む 「挽歌」 という部類 コに収録されている作品の数も多いので, こまかに分類すればいくつか i を特別に持っ ており, その「 の類型に分類すること はできようが, 表現の形式や, またその中を流れている思想は, 傾向として は同一の基調に立つも のである, 老荘思想というのは, 儒教思想に対抗して 勃興したもので儒学の仁義道徳の教えや, 礼楽中心の 社会制度を攻撃することによっ て成立する, 具体的には戦国時代に 活躍した儒家の徒, ことに孟子 などの主張に対して 起っ た説と思われ, 彼等の教祖として老子または荘 子という人物が設定され, 彼等の主張 を記録したテキストとして, 『老子』『荘子』 などの書が伝え られている. 漢代になると儒学は武帝の支持を得て大いに 勃興し, その理念によっ て制度や礼楽が定 め られた 結果士 人必須の教養となり, これに違背すれ ば栄達の方途を失うのみな らず, 朝野の人々か ら指弾 されるこ とになる. ところが時代が下るに つれて, 仁義道徳や礼楽は口に唱え られるだけで, その 真精は没却され, 実際の 政治は腐敗堕落 してまた救うべか らざるに至っ た. 「身を立て道を行い名 を後世に揚ぐ」 という儒学の教条は立派ではあるが, まじめに懸命な 努力をしても, 昇進の道はほ とんど鎖されるだ けでなく, その儒学の教条は権力者の地位を 擁護する大きな城郭の役目を果す結 果となる. 仁義道徳や礼楽の美名にかくれ, それが保身の手段としての役割りを果すとなれば, 有能なイ ン テリたちにとっ ては栄進を阻ま れる邪魔ものになって しまう, 有能なイ ンテリ達にとって仁義道徳がかえっ て彼等を束縛する役割りを果すとなれば, 彼等はそ のようなお題目だけの仁義道徳や礼楽を無視 したり愚弄 したりする行為にでるように なる. そ して また仁 義道徳に代るべき指導理念を探究しようとする. またそれによっ てより高い精神的な立場を 確立しようとする, 三国時代か ら六朝時代にかけての老荘思想盛行の理由はこれが最大の原因とみ られ て い る,. 当時は新興 の思想と して仏教があり, 次第に一般人士の心の中に しみ込んで行きつつあっ たが, 老荘思想はある面 では仏教の理念に刺戟されて独自の哲学を完成 した面もある, そ のようなわけで 儒学の実践的な単純な理論に比 べて深遠で, 超俗的な哲学は当時の知識人たちの心をと らえるだけ の魅力を備えていた のである. かく して老荘の書は当時の知識人必読の書となり, 空を談じ, 無を 語ることが貴族の教養として重 んぜ られた, -100-.
(4) . 第 23 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和48年2月. 彼等は実際の政治や軍事を軽蔑し, 話題にしても 世上の実際問題をさけ, 超俗的な空理空論を弄 す ることが流行する, またその問答に用 い られる言 葉にしても, 軽妙で気の利いたや りとりが貴 ば れるようになる, 後世にはこれを 「清談」 と称して知識人必須の教養として重んぜ られるようにな る, 劉宋の劉義慶撰するところの 『世説新語』 はその言語応対のエビソートを収録し た も の で あ る.. その中 でも 「竹林の七賢」 の名で伝え られている人々の言行はあまりにも有名であ る わが国が , 大陸文化に接触した時期はあたかもこの時代に当っ ているから, 当然のこととしてわが国の知識人 たちが彼等の思想や文学の影響をうけることが多かったものと考えられる, 当時わが国の朝廷や貴族の宴席 では, 中国の土人たちが 題材としたところのものを題 材と して詩 歌が作 られていることは 『懐風藻』 に収め られてい る諸作品によっ ても知ることができる しかし , なが ら都を遠くは なれた筑紫の地において大伴旅人たちがものした作品は, 都の人たちがこれま で 詠じていた伝統的な歌の型にはあてはまらない独特のものが多い. 大宰帥大伴卿讃酒歌. 13首. 1 験なき物を思はずは 一杯の濁れる酒を飲むべく あるらし. (万葉 338). 2 酒の名を聖と負せし古の大き聖の言のよろしさ. (万葉 339) 3 古の七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしある らし (万葉 34 0). 4 賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きす るし優りたるらし (万葉 34 1) 5 言はむすべせむすべ知らず極 まりて貴きものは酒に しあるらし (万葉 342) 6 なかなかに人とあ らずは酒壷になりにてしかも酒に 染みなむ (万葉 343) 7 あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似る (万葉 34 4) 8 価なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも (万葉 3 4 5) し. 9 夜光る玉といふとも酒飲みて心 を遣るにあに及かめやも よのなか. (万葉 346). 1 0 世間の遊びの道にすずしきは酔ひ泣きするにあるべかる らし (万葉 34 7) 11 この世に し楽しくあ らぱ来む世には虫にも鳥にも我はなりなむ (万葉 348) ひと. 12 生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しく をあらな もだを. し. 1 3 黙居りて賢しらす るは酒飲みて酔ひ泣きするになお及 かずけり. (万葉 34 9). (万葉 35 0 ). この作品は具体的に は飲酒を主題としているという点で異彩を放っ ており, 形式では連作という 点で新機軸を出してい る, この作品の持つ性格について諸家の説かるるところはまちま ち で あ る が, 私もまた異った見解を持つ, 沢潟久孝氏は 「以上13首には老後に遠く都をはなれ, 妻をも失った寂しさや不平も窺へるが, し かしそうした憂悶をやる為のすさびとのみは云ひ難く, もっ と明るく積極的な讃酒の心が根砥にあ り, 賢しらを3度までも罵倒しているところにも, 当時の習俗に対する反感も認め られ 大宰府の , 長 官 た る 身分 と して は,. 思 い 切 っ た も の い ひ を して い る 点 が 注 意 せ られ て よ い3 」 と 述 べ て い られ ). るが, 私には単なる飲酒礼讃の歌とは思われない, 武田ネ 有吉氏は 「以上13首, とり どりに酒を讃めているが, 老妻との死別の悲しみを, 酒に紛 らし ている心情は見のがしてはならない. それが底を流れて個 々の歌の基調をなしている また多く知 , 識的に詠まれているのは, 彼の教養から来るものであり, 経史の知識, 老荘思想, 仏説にわたっ て いるのは, その時代の思潮を語るも のである, 知識者が知 識によって安心を得ず, わずかに酔興す ることによっ て, 痛心の事を紛らそうとした心の記 録とみるべき作品であ る. ・ 作者を目して, 単な -to l-.
(5) . l vo .23 No .2. i i i f H0kka ido Uni t 恥urnal。 t on I A) ver s on (Sec y of Edncat. February ,1973. る享楽主 義者 とするのは当 らぬ」 4 ) と評してお られる. 土岐善麿氏は, この作品が山上憶良の 「罷宴歌」(337) のすぐ後におかれているところか ら, 憶 良が 「罷宴歌」 を詠んで宴席から退場したので, 旅人が連作13首をものして憶良に報いたもので, 老長官と老国司との交情を一種のュ‐モアのうちに温めようとしたものであろうという 推定をして い られ る5 )・. これに対して川崎庸之氏は, 旅人の歌を当時の政治的闘争と結びつけて解釈しようと してい られ 3首の表現しようとするもの るが6 ) , 私はこの説に大きな魅力を感 ずる. 山崎良幸氏は 「讃酒歌」 1 「 むしろ 酔泣する 」 は, ひっ きょう 「賢らしら」 する態度をしりぞけて, . いわば 赤裸々に 人間ら しさを表出する態度を称えて, それをかえっ の聖賢の道に通じるものだとするところにあるのでは ないか」 と述 べ, さ らにその理由と して 「もともと賢しらは 真に聖賢の道を学び, 学問に身をゆだ ねることを云うのではないはずである. 従っ て賢しらをする人とは, 大陸輸入の聖賢の道を学んで いる人々を指 して云っ ているのではなく, む しろ政治的陰謀と抗争に寧日のない人々を意味してい る の で は な か ろ う か7 )」 と み て い られ る.. この作品は竹林七賢を頭において作 られていることは確かであり, 中国古典の 知識を随所に引用 していることも先賢の説かるる ごとく である, しかしこれが彼の老荘 思想や享楽主義の所産である とも考え られない. また妻を失っ た悲痛の心境を 「讃酒歌」 に托したというのも, その作品の中に ほとんどその証拠をみつ けることができない. 旅人の歌の本質は, 歌というものが従来座興のやりとりであっ たり, 儀礼的なものであっ たこと か ら脱却して, それとはまた異った意 義を持たせようと意図しているところに特色があるように思 う,. 清水克彦氏は, 旅 人は 「讃酒歌」 において酒の世界を讃えているが, その叙述の行間には, ある 種の悲しみの感情がただよっ ている. そして讃美の感情が強調されればされる程悲しみの感情が強 まっ ている. しかしそのような讃美についての理論的な説明はなされず, 主として 感情的に酒の世 界 を 讃 美 して い る た め, か え っ て 悲 しみ の 感 情 が に じ み で て い る 結 果 と な っ て い る と さ れ る,. そしてさ らにその理由として, 旅人の出現によっ て従来士大夫の世界では口に出す べ きことでは ないとされていた私的な事柄に ついての感情が和歌の内容としての地位を 獲得するに至っ たことが その大きな 意義であると述 べてい られるのは傾聴すべき意見である8 ) , 氏は旅人の 意識の中にあっ たと思われる 「竹林の七賢」 の一人である劉冷や, 束晋の隠逸詩人陶 淵明の作品 をあげ, それは旅人の歌とは異質のものと述 べてい られるが, 私は作品の性格が 異なる のは詩と歌 のもつ性格上の相違点によるも のであり, 旅 人がこのような作品をものするに至る彼の 意識の中には六朝女人の詩に対する意識が大きく影響しているように 思う, 大伴旅人の人生観に大きな影響を与えたと思われる 「竹林の七賢」 は後世の人達が考えているよ うに, いつも一緒に集まっ て酒を飲んで清談を事としていたわけではない, 彼等はそれぞれ別々の 人生観を 持ち, 別々の政治理 念の下に行動しており, 生きた時イヒも必ずしも同 じではない, 集団と して行動したような印象をうけるのは後の世の人々が勝手に描いた人間像にすぎない, た だ 彼等 に と っ て 共 通 して い る こ と は, い わ ゆ る 清 談 を した こ と と 酒 を 飲 ん だ こ と, そ して 何 よ. りも重要な ことは, 従来の儒教主 義, 仁義道徳の教えに反対し, 礼教破壊の態度に出た こ と で あ る. その結 果は, 裸のままで人に対面 したり, 五月の虫干 しの日に禅を竿頭にひるがえ し て み た り, 親の忌日に故意に酒を飲んで放 談したり, 奇矯な行動によっ て世人を驚倒させたことは 『世説 新語』 の中にいくつか の話柄を提供 している. 彼等の奇矯な行動の真の原因は何か, 彼等は当時屈指の名門に生れた人物が多いが, いずれも当 -10 2一.
(6) . 第 23 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和48年2月. 時の権力機構か らはみ出された人物であるか, 当時の体制に反対の思想を抱いていた者であり, そ の不平不満のきわみがこのような異常な行動に出たものであろうといわれている, しかしこれだけな らば彼等が常軌を逸した行動に出ることの理由にはな らない. 中国の土 人には 後世に名を残さなければな らぬという大きな理想があり, 彼等の生活や行動はその理想を如何に し て実現するかにかかっ ている, ところが立身栄達のできる人間は多く の志願者の中か ら選ばれたほ んのわずかな幸運にめぐまれた人間にすぎず, 大部分の人物は空しく 陽の当らない場所で朽ちはて て行かなければな らない, ましてや体制か らはみ出された 人間の場合には社会的な地位を得て政界 に活躍する機会を閉鎖 されてしまう結果, そのような理想を実現することは困難になっ てく る. そ うなれば別の方法によっ て自分の名と志とを後世に残さな ければな らなくなる. その場合にこれま では宴席の座興等にその起源を持っ ていた詩歌は一躍してその不遇な人物たちの 心情を吐露するた めの有力な武器となり, ここにいわゆる述志の文学が発達する基盤がある, わが国の 『懐風藻』 の 中に, 大津皇子や長屋王等不遇に死んだ人々に関する詩篇が同情的な感情をもっ て収録せ られてい るのをみてもその大体の傾向は察することができる, 「竹林の七賢」 の代表的人物は碗の転籍である. 彼は当時屈指の名家に人となり, 父の玩云鴇の頃 から醜の武帝 ・女帝のサロンの有力な文化人であっ た, 彼は詩文の才能に恵まれ, その言論は当時 の知識人や有力者の注目するところであった, しかしやがて新興の大軍閥司馬氏の勢力が台頭して きて, 政権纂奪の野望を強力におしすすめていた結果, 醜王朝の 末路はほぼ予測せられ る環境にあ っ た.. 雛王朝の縁に つながる家柄の出身であった玩籍としては, 司馬氏が儒学の信奉者としてのルール を利用 しなが ら巧みに権力の座に近づいて行く 野望を早くも見抜いていたといわれる. 玩籍 ば贋ま んやるかたない思いにかられなが らも, 文化人でありまた武力をも持たない彼としてはその野望を 挫く程の実力も持ち合せてはいなかった. その結果, 彼は当時の知識人の常である政治についての意見を口にすることもなく, 詩酒の間に 狂態を演じて己を轄晦したといわれている, 彼に 『詠懐詩』82首, という作品群が残 さ れ て い る が, やるせない悲憤の情と, 纂奪の野望をたくま しぅする司馬氏に対する批難と 楓刺の心情がこめ られ て い る と い わ れ る.. 当時における大伴氏の政治的環境については既に諸家の説かるるとおりであり, 『讃酒歌』 が単 に飲酒を礼讃 したり, 妻を失ったその悲 しみを酒にまぎらわした結果の作とも思われない, 彼は飲酒が最高の境地であることを述 べ 「言はむすべ為むす べ知 らず極まりて貴きものは酒にし あるらし」 と飲酒の徳を礼讃する. そしてそれは自分だけの個人的見解ではないとして 「酒の名を 聖と負せし古の大き聖の言のよろしさ」 といい, 古人を引合いに出してこれを論証しようとする. これは 『醜志』 の徐逸伝の故事を引用 しているので彼の学殖が山上憶良に比してかなりのものであ っ た こ と を 示 して い る.. そしてその代表的実践者として玩籍を領袖とする七賢の例をあげる, 「いにしえの七の賢しき人 どもの欲りせしものは酒にしあるらし」 というのがこれである, しかし彼は酒を飲むことを礼讃す るだけではない. 「験なき物を思わずは一杯の濁れる酒を飲むべく あ らし」 と詠じているのは, 彼 の身辺に何事かがあっ たことを暗示させるものがある. 「験なきもの」 についての実体が何である かについて旅人は何事も語 らない. しかしこの13首の連作全体か ら受ける印象はかなり深刻な事態 であっ たように想像される, 当時における政治情勢や置かれていた大伴一門の運命に思いをいたし た旅人の心境を述 べたものではないかとは先人によっ て既に説かれているところである. 彼は 「世の中の遊びの道にすずしくは酔泣するにあるべかるらし」 というが, これについて市村 -10 3-.
(7) . VO I .23 No .2. i i i lof Hokka ido Uni Journa f Bducat ty o s on (Sect on I A) ver. Februar y ,1973. 宏氏が 「このような環境の中にあっ て旅人の場合, 酒を飲みて酔泣する以外何ができたであろう, 正義心と保身の術とをエ老旅人の心中に相刺し, 自己偽まんとそれを軽侮する我とが脳 裡に血を流し て争っ た. 旅人はこの苦悶を遁れるために酒に走り, そのき づついた プライ ドを老荘の超然たる哲 理や, 詩歌に遊ぶ風雅によって恢復しようとした, 区々たる世上の事に泥まずとする竹林の七賢の 生き方に学んで, それを自己の面目と しようとした」 と述 べてい られるのは傾聴す べ き 意 見 で あ る. 9 ). 山崎良幸氏は 「旅人をして賢しらを拒否 して, 酢泣きを肯定させたのは何か, 賢しらは真に聖賢 の道を学び, 学問に身をゆだねることではない. む しろ政治的陰謀と抗争に寧日のない人々を意味 して い る の で は な い かl o )」 と 述 べ て い られ る の も 真 実 に 近 い よ う に 思 う.. 従って 「あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく 見れば猿にかも似る」 というのは, 彼の心を暗た んたるものにした政治権力, 小細工を弄する陰謀家たちに対する痛烈な楓刺であると同時に, それ よりもより高い立場, 世事を超越して一切の政治権力などは無視 してしまうような態度を誇示して いるかのように思われ る, それは当時における大伴一門の実力をもってしては, 彼等に対抗するだ けの力がなかった結果, 別の生き方, 常識とは異っ た人生観によっ て, 彼等を蔑視しようとする態 度 に でよ う と した も の と 思 う.. 現世を楽しく 生きればよいという考え方 は, 中国思想の底辺を流れる思想であるが, 「今の世に し楽 しくあ らば来む世には虫にも鳥にもわれはなりなむ」 とか 「生ける者遂にも死ぬるものにあれ ばこの世な る間は楽しくあ らな」 などと詠ずるあたりには道家の主張する現世欧歌の気持が表現せ られているが, 旅 人が生き方の模範とした らしい玩籍の諸作品にはそのような傾向を認めることは で き な い.. 転籍の 「詠懐詩」8 2首には信念と しての強烈な気塊が感じられるのに対し, 大 伴 旅 人 の 「讃酒 歌」 には 一種 の悲痛な目噺的な感情が流れているように感じられる, これは亡妻を思う悲哀の感情 ではなく, 名家大伴家の衰運を弔う挽歌の響きにも似ている. この作品が作 られた年次を正確にすることはできない が, 沙弥機誓や山上憶良の作品の後に, そ してまたその後には沙弥満誓の作品が置かれているところか ら, 彼が大宰府在任中の作品であるこ とは確実である. 彼が筑紫に赴任した事情に ついては今日よりこれを明 らかにすることができない が, 彼が都を発つ頃までは左大臣として天下の政柄を握っ ていた長屋王が失却するという大事件が 勃発する, 皇室の外戚として着々と政権の座に近づいてゆく藤原一門の台頭は 名家の末をもっ て任ずる大伴 一門にとっ ては最も衝撃的な事件であったに違いない, このような政治的な環境の下に在っ て酒に ふけって享楽生活を欧歌する程の呑気な旅人であるとは考え られない, 大伴旅人が 『讃酒歌』 をものするに至った意識の底には六朝詩人の志にならわんとする心意気が あっ たのではなかろぅか, 彼が六朝詩人から学んだものは表現の技法ではなく, 詩というものに対 する意識, 詩歌というものが人生や社会でどのような役割りを果すもの であるか, それはわが国に おいて詩歌が果していた役割りとはまた異質のものであることに気が つ き, それによっ て自己や一 門の上に迫っていた運命をあからさまではなく, 後の時代 に伝えようとしたのではなかろうか. 旅 人の心中を領してたいものは, 亡びゆく名家の末商という意識と, このような環境の中に在っ てなんとかして大伴の家名を伝えなければならないという意識が流れてお り, 高い気位を持ちなが ら時代の波に流されてゆくままならない心境を歌に托 したのである,. 4- -10.
(8) . 第 23 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). ●. 昭和4 8年2月. 0月 大宰帥大伴旅人は大納言に兼任して京へ向う途次, 馬を水域に駐めてこれ 天平2年 ( 730) 1 まで住んでいた大宰府の家の方を 顧望した, 時に脚を送る府の役人達の中にま じっ て 早島という遊 行女婦があっ た, 彼女は再会の期し難きを嘆き, 沸を拭ひみずから送別の歌を吟っ た. 65) 凡な らばかもかも為むを恐みと振り痛き柚を忍びてあるかも (万葉 9 なめ. 大和道は雲隠りたり然れどもわが振 る袖を無礼しと 思ふな. (万葉 966). これに対して大納言大伴卿が和ふる歌として次の2作品 が伝えられている, やまとぢ. 倭道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも. ますらを. 大夫と思へるわれや水茎の水域の上に涙拭はむ. 7) (万葉 96. (万葉集 968). この中の 「大夫」 (ます らを) という言葉に私は注目したい, 旅人はいったいどのような意識を もっ てこの 「大夫」 という言葉を用いたのであろうか. 先人の解釈は必ず しも私を満足させてくれ ない, 「ます らを」 について土屋文明氏は 「ここでは分別ある男子とい う程の意であろう」u) とい われるが, 私はそのような軽い意味には考えない. 「ます らを」 という言葉は何 人がこれを用いる かにより, 意味の上でも, 意識の上でも大きく変っ てく るように思う. 言葉自体は誰でも用いるこ とが できるけれども, 真にみずか らを 「まず らを」 と意識している 人間であるか, 家門意識とは全 く無関係に用い られているかである, こ こ ろ み に 『万 葉 集』 に あ らわ れ た 「ま す らを」 に つ い て 調 べ て み る と64回 と い う 多 き に わ た っ. 5 } て用い られているなかで, 40回は 「大夫」 という漢字が充て られている. その他では麻須良乎{ , 1 2 1 益荒丁 ( ) 健男 ( ) 1 ) 益荒男 { ) 1 ) 1 ) 1 1 ) ) 麻須羅遠( , ,建 , , 麻須ホ( , , 麻須良男( , 麻須良蓑( , 麻須良雄( 1 1 ) 男( ) , 等の漢字があて られその数もまた, 麻須良乎の5回 を除けば, 1回か2回位しか , 益 ト男{ 用 い られ て い な い,. このように 「ます らを」 という語に対して, 麻須良乎という単に発音だけをあ らわす漢字をもっ て表示しないで 「大夫」 という意味をあ らわす語をもっ て表示してあることは大いに注目にあたい する, 「ます らを」 の語義について, 益荒男, すなわち勇気ある男児とする説や, 男子の通称であ るとの説は恐 らく は当らないであろう. 「大夫」 というのは元来中国にお ける官名である, 漢代には脚の下に御史大夫, 光禄大夫, 上大 夫, 中大夫等の官職や地位をあらわす語として用い られている, わが国でも 「大夫」 という語は官 職を表示する語で, 「中宮大夫」 とか 「大謄大夫」 という語が 『続日本紀』 に見 え て い る, また 『万葉集』 の中にも, 「山上大夫」 とか 「阿部大夫」 とかいう語 がみ られる, がこれ は単なる名称 ではなく, 上級の官職を持っ たことのある社会的な 身分を表示している言葉であるとみなければな らない, 「ます らを」 を 一般男子の通称とするのは後世のことで, 当時は高級官人としての意識を もっ て用い られていたのではないかと思う, 大伴旅人の用いる 「ます らを」 の中にもそのような意 識があったとみなければな らない, 更に 「まず らを」 という語を用いている作者を 『万葉集』 についてし らべてみると, 大 伴旅 人だ けではなく, その一族たちによっ てかなりの回数 が詠ぜられていることが目立つ, これは単に個人 としてではなく大伴一門がその家柄を 「ます らを」 の家柄であると意識していた結果によるもので は な い かと 思 う,. ◎. 大伴駿河麻呂 ます らをの思ひわびつつ度まねく 嘆く嘆きを負はぬものかな. ◎. (万葉 646). 大伴坂上家大嬢 ますらをもかく恋ひげるをたわやめの恋ふる心にたぐひあらめやも -10 5-. (万葉 582).
(9) . Vo l .23 No .2. ◎. lof Hokka i ion (Sect i ido Uni t Journa s on I A) ver y of Educal. 大伴坂上郎女 せ. お. け. ます らをの高円山に迫めたれば里に下り来るむざさびそこれ ◎. 大伴家持. を. 奥山の八 つ峰の椿つを らかに今日は暮 らさねます らをの伴 ◎. Februaly ,1973. (万葉 10 28) (万葉 4152). 大伴三中 天雲の向伏す国のます らをと言わるる人は天皇の神の御門に……. (万葉 443). このように 『万葉集』 に作品を残した大伴家の人々の多くが 「ます らを」 という語を用いた作品 を残していることは必ずしも偶然とは言えないものがあり, 大伴一門が 「ます らを」 的意識にささ え られた人達であったように思われる. そしてその傾向は旅人の子, 大伴家持に至ってさらに顕著 で あ る.. 家特に 「族に= 諭す歌」 1首, と題する作品には次のように詠ぜ られている, 「ひ さかたの, 天の戸開き, 高千穂の獄に天降りし皇祖の, 神の御代よりネ届弓を手握り持たし, 真鹿児矢を手挟み添へて, 大久米のます ら武雄を先に立て, 籾取り負せ, 山川を磐根さく みて履み ま. まつろ. とほり, 国寛 ぎしつつ, ちはやふる神をことむけ, 服従はぬ人をも和し, 掃き清め仕え奉りて, 秋 津島大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱, 太知り立てて, 天の下知 らしめしける皇祖の天津日嗣と, つ ぎて来る君の御代御代, 隠さはぬ赤き心を皇方に極め尽して, 仕へ来る祖の職と………」 (万葉 4455). この長歌は大伴家の統梁としての家持が, その一族である大伴古慈悲が, 淡海三船のざん言によ っ て出雲守を解任せ られた折に, 一族の動揺をおさえて自重をうながすために作ったものといわれ て い る,. ゆみ. 天孫降臨の折に供奉して下っ た神に, 天忍日命と天津久米命の2人があり, 「天の 石靭を取り負 ひ, 頭椎の大刀を取 り侃き, 天の波士弓を取り持ち, 天の真鹿児矢を手挟み, 御前に立たして仕え 奉りき, 故その天忍日命, こは大伴連等が祖, 天津久米命, こは久米直等が祖なり」 と 記 す の は 『古事記』 であり, 神武天皇東征の折に, 熊野か ら吉野へ八処鳥の教導に従い, 皇軍の先陣を承っ て活躍するのが, 大伴氏の遠祖日臣命であるとするのは 『日本書紀』 である, もちろんこれ らの神話伝説を信ずることはできないが, これ らの伝説が記録に移された時代は大 伴氏が天皇家の輔翼に任 ずる権臣と しての地位を確保していたことを示 している, また大伴家に直 接関係のない者であっても, 大伴家同様, 名家の末えいという意識を持っ ている者によ っ て記録き れたであろうことが想像される, 塔天皇の頃に大伴室屋が, 物部連日 大伴氏が歴 史の上にその名を現わすのは, 5世紀の後半, 雄” 舷略天皇の臨終に際し, 皇位の継承に と共に大連に任命された時に始まる. (雄略紀・前紀) 彼は力 E略天 I ついて後事を托されており, にわかに大和国家の重鎮として政界の第 一線に登場してくる. オ 皇は 『醜 志倭 人伝』 にいわゆる倭王武として登場 してく るが, 大伴氏がこの時代か ら大和政権の中 枢にいたとすればこの氏族の豪族と しての地位がきわめて古いことを示 している, 当時のわが国は大和地方に根拠を持つ諸豪族か らなる 連合政権によっ て運営せ られていたといわ れているが, 大伴氏はそれ ら豪族の一 つ であると共に, 雄略王朝を支持する親衛軍と しての役割り をも果していたのであろうと想像する, 時代が下っ て武烈天皇の時に室屋の子孫である大伴金村は, 武烈天皇が豪族の一つである平群真 鳥臣と戦っ た折に, 武烈をたすけて平群氏を打倒 した結果以後40余年間にわたっ てその権力を維持 することとなる. 更に武烈の後, 一族の内紛によっ て皇統が絶えようとした時に, 彼は諸豪族の有 一106-.
(10) . 第 23 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和48年2月. 力者達と相談の上継′ 体天皇を越前の三国か ら迎えて後継者とする. しかしこれは史上に残る金村の 政治力が評価せられる最後の記録とな り, 彼は任那の4県を百済に割譲することを簡単に承諾した というので政敵物部氏の攻撃をうけて失却して摂津に引退したという. 大伴室屋の台頭から大伴金村が大連と して 政権の中枢に君臨していた5世期の末から6世紀の中 頃までが大伴氏の全盛期であっ たと思われる. ところが大伴氏に代っ て大連となっ たのは物部尾輿 であるが, 物部氏は次の物部守屋の時代に蘇我氏のために打倒せられ, ここに旧い時代, 大伴物部 の時代は終鳥をつ げる. この豪族の起源に ついては古代史家の研究の成果に期待しなけれを ならないが, 私はその根拠地 を現在の摂津河内地方におく天皇家に直属していた豪族の一つで, 葛城氏や平群氏などと対等の豪 族ではなく, 天皇家という大豪族の親衛隊的役割を果し, やがてその地位を確保す るに至っ た氏族 ではないかと考えている, 大伴金村が失却した折に引退したところが, 摂津と伝えられ, また細体 天皇が大和に入ることができず, 摂津の楠菜の宮で即位したという伝説や, 継体天皇が19年間も摂 津河内地方を転々と坊復したという伝説や, 大伴氏の祖先が道臣命と 伝えられているところからも この家が交通の要衝を制する位置を制していたらしいことを思わせるものがある. この氏族名か ら 想像すると 「道」 というところを治める豪族として大和連合政府の構成メ ンバ ーとして活躍したも の で あ ろ う,. 大伴氏は大和連合政権の武を主としてあつ かうトモノ ミャッコとしての 「大伴」 となっ た らしい が, それにしても私地と私民を所有する豪族の一つであることには変りなく, 軍事的任務の分担者 として大和連合政府にあつまっ た諸豪族やその配下にいる人々を指揮することは できても, 自分の 持っ ている私民のように自由にとりあっ かうことはできないと 藤間生大氏はその氏族の性 格を説明 して い られ る1 2 ) ,. その後大伴氏は政界をリー ドするような人物を出すことはできなかっ たが, 大伴旅人の祖父の長 徳字は馬飼と称した人物が斜明天皇の喪に際して訣 (しのびごと) をたてまっ ているのはこの一族 が7世紀になっ ても勢力を維持していたことを示すものであろう, やがて物部氏 に代うた蘇我氏も 中臣氏と中大兄皇子との共謀によっ て打倒されるが, 大伴氏はなお勢力を保持していた らしく, 大 伴長徳は不慮に死んだ蘇我倉山田石川麻呂の後に右大 臣をつとめている, この長徳に御行, 安麻呂 の2子があり, 大伴旅人は安麻呂の長男に当る, すなわち大伴旅人は祖父を右 大臣とす る屈指の名 家に生れたのである. 6 72年, 大海人皇子が吉野を脱出して東国に向い, いわゆる壬申の乱がおこるが, 大海人皇子の 軍が美濃から近江に進出した時に, 大伴一門の馬来田, 吹 負 (長徳の弟) 等は天智方に見切 りをつ け, 大和の家に帰っ て形勢を望観していたが大海人の挙兵と共に大和の旧都を攻 撃するの策を立て て天武王朝の創建に協力する. 大伴家は元来軍事的指導に任じた造伴の家柄であっ たはずであるから本来ならば大軍を動員する 能力があっ たはずであるが, 当時の大伴家にはもはや昔日の面影はなく, 辛うじて一族の者だけの 団結がせいいっ ぱいであっ た らしく, 大伴吹負が大海人方のために志を伝えて 人々を招集した際に 集まっ て来た人々の数はわずか十数人に過ぎなかったといわれている. しかしなが ら大伴一 門が天武 王朝にとっ て創業の功 臣であっ たことには間違いなく, この頃に編 さんされたと思われる 『古事記』 『日本書紀』 の中には, 大伴氏の祖先の活躍が常に天皇家の股肱 として描かれることが多く, その活躍が異常なまでに目立つのは, 壬申の乱に際して果した彼等の 功績の影響もあっ たと思われる. 大臣大伴長徳の孫にして, 大伴安麻呂の長男として生れた旅人は壬申の乱が勃発して彼等の父祖 -107-.
(11) . Vo l ,2 ,23 No. i i t i lokka i lofr ido Un ty of Educat Journa on (Sec on I A) vers. February ,1973. たちが大海人方について活躍していた頃はすでに7,.8歳の幼年期であり, 彼は長 じてその恩恵だ けを享受する恵まれた環境に成人したわけである, 彼の名前が正史の上に記録され最初は 「和銅3年正月 湖云云, 左将軍正五位上大伴 宿 弥 旅 人 云 1月, 云」 という 『続日本紀』 の記事で, 時に旅 人は46歳である, ついで4年4月, 従五位下.7年1 左将軍となり, 霊亀元年正月, 従四位上, 5月 には中務卿となり, 養老2年3月には中納言に進ん だ. 3年正月, 正四位下, 9月には山城の国の摂官となり, 4年3月には征隼人持節大将軍に任命 さ れ て い る.. 養老5年正月には従三位む二任ぜられ, 神亀元年2月には正三位を授け られている. 時に旅人は60 歳である, 彼が大宰帥として九州に下っ たのは正史に記載がないのでよく 判らないけれどもネ申亀5 年頃には大宰帥として九州の地に下っ ていたとするのが大方の見解である. これが正 しければ時に 旅人は64歳であり, 当時としてはきわめて老齢の身をもっ て筑紫に下ることであるから, 旅人自身 としては満足す べきものでなかっ たにち がいないが, 彼の父安麻呂も晩年に大納言となり大宰帥に 任ぜられているので特に異常な人事ではない. 彼が九州に下っ て約3年を大宰府の地で過すが, 天平年2の冬11月, 大納言 に任ぜられて都に帰 えり, 翌天平3年の7月には67歳の生涯を終ることになる, 従っ て彼が大宰府で過したのは満3年 間程度である. 今日彼の作品は 『万葉集』 の中に80余首 が残されているが, その大部分の作品は彼が 九州に下っ て か ら, つ ま り 人 生 の 最 晩 年 に お い て 集 中 的 に 作 られ て い る こ と に な る, こ の 点 に つ い て は さ らに. 改めて説く であろう. これまで述 べてきたところによっ ても, 大伴氏が伝統的に天皇家の側近に在っ て活躍してきたと いう実績をもち, 名実共に土大夫であるとの名門意識があっ たものと思う,上田正昭氏は 『万葉集』 『万葉集』 の性格を土大夫階級の文学である に用いられている 「ます らを」 の使用傾向よりして, . と論じてい られる1 ) が注目す べき意見である, 3 私は大伴氏における土大夫と しての意識というのは, 単に五位以上とか, 官僚意識とか, 宿弥と かいっ たような社会的な地位だけをいうのではなく, 中国六朝の女人たちがひとしく心の底に抱い ていた土大夫としての教養とその心意気をさしていう. それでは土大夫とそうでないものの差は ど こ に あ る の か,. いわゆる万葉の歌人といわれてい る人たちの中で, 第1期の歌人とし て は, 雄= 略 天 皇, 婿明天 皇, 間人老, 斉明天皇, 有馬皇子, 天智天皇, 藤原鎌足, 鏡王女, 額田王, 倭大后, 等の名があげ られている, これにやや下っ ては, 天武天皇, 持統天皇, 大洋皇子, 大伯皇女, 但馬皇子, 穂積皇 子, 藤原宮役民, 柿本人麿, 高市黒人, 等の名をあげることができる, 以上の名前を一覧 して気が つく ことは, 歌の作者として天皇, 皇族, その関係者および侍従のよ うな関係にあるもの, それといわゆる宮廷歌人とか御用歌人とかいわれている, 柿本人麿や高市黒 人といっ た人達で, 藤原宮役民というのがわずかに例外として教えることができる. またその作品 の数も, 柿本人暦, 高市黒人を除いてはきわめて少なく, その内容も挽歌であるとか儀礼の歌が多 い, すなわちその行事が行わ れなければ, その歌は作られなかっ たかも知れないものが多い. この ような環境の中で柿本人麿の作品が圧倒的に多いということは, 人麿が 抜群の歌才の持主であっ た ことを示していると共に, 彼が職業としてもそのような役目を果さなければならない職務の担当者 で あ っ た こ と を 示 し て い る.. 柿本人麿はいわゆる宮廷歌人と称せられてい る人物であるが, 彼等の先祖以来の職 業 上 の 技 能 が, 彼が歌人と しての才能を 発揮させたものであろう. 従って人麿や黒人は土人としての意識の上 -10 8一.
(12) . 第 23 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 8年2月. に立っ て歌を作っ たわけではなく, 職業上の義務と して歌を作っ たのであり, 彼等が偉大であるの はそれを大きく発展せしめ, それを個人の感情を吐露したいわゆる私懐をのべるものに昇華せしめ た点にあるであろう, 人麿の作品によっ て, 彼が熱誠あふるる至情を皇室に対して捧げていたような印象を受けるけれ ども, 彼の皇室に対してとった行動はなんら伝わるところはない, 彼が天武の皇子たちに捧げる多 くの作品を残していることは, 彼が天武の皇子たちと特別な交遊関係にあっ たからとみるべきでは なく, その方面の専門家として事ある ごとにその仕事を担当しなければな らなかっ たからではなか ろ う か.. 彼自身が挽歌を捧げた, 日並皇子や高市皇子との個人的な関係がどのよう なものであっ たか, 今 日これを確かめる手段を持たない が, 「嘘」 と称する公式の儀礼が存在しなければこのような挽歌 は存在しなかっ たかも知れない. 柿本人麿と天武の皇子たちが全く 無関係であったとも思われない が, 両者の関 係は個人的な親近感によるものではなく, 主としてその職能上からの関係によるもの ・う葬喪儀礼において挽歌を作るべ き職務を担当していた ではなかろうか, 人暦の家柄が 「蹟」 とし 結果かずかずの挽歌を作るようになっ たのではあるまいか. 当時のように職業を世襲す る条件の下 にあっ ては誰でも自由に 「蹟」 の際に挽歌を作るということは考え られない. すなわち柿本人暦は天武王朝に仕進する官人 の1人ではあっ たかも知れないけれども, その作る 所の挽歌は土大夫の文学と称することはできない, 中国における土大夫の文学というのは, 必ずそ の人と志とを後世に残すものでなければならない。 詩歌は単なる儀礼の用具ではなく, 永遠に生き ることのできない人間がその志を千載の下に残すものでなければならないという 意識にささえられ たものでなけれ ばな らない, 六朝の詩人陶淵明が死んだ時, その 「訣」 を書いたのは顔延之である, 陶淵明は生涯を溝陽の郊 外に一介の農民として朽ち果てた人物であるのに対し, 顔延之は束晋王朝以来の名 家で当時始安の 太守であっ た, 宋王朝の権臣が一介の農民のために 「訣」 を書くというのは異例のことであるが, これは顔延之が陶淵明の理解者であると共にその文学への傾倒者であ り, 万人のみるところ顔延之 以外に彼の 「訣」 を書く べき適任者はいなかっ たからである. その起源を楽府という娯楽本位の歌 謡曲に発した中国の詩歌は 4世期の中葉にして述志の文学としての 地位を確立していたのである, 前にあげた万葉の歌人たちの中で藤原鎌足は天皇や皇族を除けば 臣下にして唯一の高官であ る, 彼の歌と して次の作品 が伝えられている. 内大臣藤原卿嬰采女安見児時作歌. 1首. 我はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり. (万葉 9 5). この歌につ いて諸説があるが, 山本健吉氏は 「采女は諸国の王族の娘が宮廷に奉られ, 宮廷の神 に奉仕するもので, これに女として手をふれることは信仰上許されなかった。 宮廷に お け る 采 女 に, 人数に余りが生じた時には, 王族や貴族にこれを賜わることがあっ た。 これむ まそ う い う 場 合 こいて ‘とても手に入れられそうもなかった安見児を, 鎌足がいただい たのであ で, 宮中の奥深くむ る」 と説 明 して い られ る1 4 ) ,. 諸家の批評はこの歌の即興的なおもむきと, おお らかな声調に対して高い評価を与えてい るもの が 多 いー 5 ) . 歌 の よ しあ しは と も かく, こ の 作品 が 述 志 の 歌 で な い こ と だ け は 確 か で あ る. 一 般 の 男. 性には許されない, しかも絶世の美女を獲得するということは確かに嬉しい ことに違いない。 しか しこのようなよろこびはいわば秘事に属し人前でおおっ ぴらに公開声明すべきことではない. あえ てこの作品を評価するとすれば余興の歌としてこの歌を認めるより致し方はない, このように当時天下第一流の紳士といえどもまだ歌というものを土大夫の教養として 意義づける -10 9-.
(13) . Vo l .2 .23 No. i ion (Sec i ido Uni t f Hokka t lo on I A) s ver Journa y of Bducat. February ,1973. までには至っていなかったのである, 万葉第3期の歌人といわれる大伴旅人の 作品が中国士大夫の 志に学んで, 歌というものを土大夫の教養として位置 づけようとしている点で, 前期の作家たちと 大きく 区別せらるべ きであろう. <註> 1 ) 小島憲之:万葉語の解釈と出典の問題万葉集大成訓話篇上.. 2) 荘子, 至楽篇:荘子妻死, 恵子弔之, 荘子則方箕鵬, 鼓盆而歌, 下略 3) 沢輝久孝:万葉集注釈, 巻3. 4) 武田祐吉:万葉集全注釈, 巻3, 5) 土岐善麿;旅人の讃酒歌について, 国文学研究, 早稲田大学国交学会編, 9 ・10輯. 6) 川崎庸之:記紀万葉の世界. 7) 山崎良幸:大伴旅人と山上憶良, 万葉歌人の研究. 8) 清水克彦:讃酒歌の性格, 万葉論集.. 9 )市村宏:大伴旅人の讃酒歌, 万葉集論.. 10) 山崎良幸:大伴旅人と山上憶良, 万葉歌人の研究. 11) 土屋女明:万葉集私注, 巻6 (968) の注釈. 12) 藤間生大:大伴家の歴史, 万葉集大成5. 13) 上田正昭:古代豪貴族の系譜と 思想, 日本古代国家成立史の研究. 14) 山本健吉, 池田弥三郎著:万葉百歌. 15) 斎藤茂吉:万葉秀歌 上, 土屋女明:万葉集私注巻2, 外,. -1 10-.
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