【翻訳】
カルロ・デル・ブラーヴォ
訳・註解 甲斐教行
イタリア彫刻 一九二〇年―一九四〇年
両大戦間のイタリア美術への接近は︑労苦の点からも︑また知的状況の批判的検討という点からも︑もはやさほど容易でない︒この時期
の美術は︑秩序への全体的回帰の流れに包含されていたのだろうか?アヴァンギャルド美術との対話の選択者︵例えばソッフィチやワルデ
マール・ジョルジュ︶にその余地を残しつつも︑人権に基づく他の思考法の選択者にもその対話を強制しない程度には寛容だったのだろう
か︒他の思考法とは︑両大戦間にはしばしば印象主義的伝統︑もしくはスティリズモ ︵一︶︑あるいは現代生活描写︵すなわち愛国主義者や後の 人種差別主義者と対極をなす思考法としての︑エコール・ド・パリの国際主義︶の形をとる︒ 印象主義は︑この文脈では歴史的というより様式的に理解すべきである︒そこには︑もはや通例と化した国際印象主義絵画︱例えば
ソーンの︱と︑ロダンやメダルド・ロッソ︑ビストルフィも含まれる︒
スティリズモとはとりわけアール・デコ様式を指すと理解されよう︒しかし一九二五年頃︑アンドレオッティとロマネッリが世紀初
頭に遡る自らの芸術形成の理念に立ち戻ってアール・デコ様式と手を切ったとき︑一九〇〇年以来ブールデルが練り上げてきたロダン
の擬古的解釈としてのスティリズモとも手を切ったのである︒思うに︑エギナ島の︹彫刻のアルカイックな︺形態を用い︑彫刻を絵画で不
正に汚染したこのような様式化は︑すでにマイヨールがそうであったように︑一九世紀末に起源をもっていた︒実際︑︹ユイスマンスの小説
の主人公︺デ・ゼッサントは︑当初は甘いリキュールで和らげられていた自身の味覚を︑一口のウイスキーの荒々しい一撃で刺激した ︵二︶︒ま たダヌンツィオは︑退廃と奇想への権利を理論化したのち︑技巧を凝らした散文で﹁現実﹂の衝撃とその神話的健全性を称揚し ︵1︶︵三︶た︒そこで
私は︑人々がアルカイック文化の︑未知ゆえにとてつもなく寡黙な形態を追求したのも︑拒絶しがたい強烈な感覚のためかとさえ思う︒す
なわちスーラの︹ピエロ・デッラ・︺フランチェスカ風の形態︑ゴーガンのブルターニュ風やタヒチ風の形態︑若きピカソのイベリア風また
は黒人風の形態︑ミケッティの未開のアブルッツォ地方︑ファットーリ晩年の無慈悲なマレンマ︑アルカイック・ギリシャの断固たる不可
解さは︑一括して捉えることができよう︒この最後の例は︑前述したように︑マイヨールやブールデルがロダンの実存的彫刻の本質を突き
崩すことなくその形態を変容させるのに役立った︒あえて言えば︑それを突き崩すにはピュヴィ・ド・シャヴァンヌにまで遡る方がいっそ
う適切であっただろう︒ただそれはドイツの彫刻家たち︵トーマの伝統を受け継ぐクリムシュやコルベ︶のように︑ピュヴィの壁画が持つ
リズミックで荒削りの形態に留まるのではなく︑フランドランが手にした後︑若きピュヴィがクーチュールの不純な情 パトス念から取り戻し︑
以後彼の柔らかく愛情深い素描の中でいっそう明瞭に継続された︑芸 ラール・プル・ラール術至上主義の悲歌調の動機によって渇きを癒すのだ︒そう︑今私
は︑マイヨールやブールデルやクリムシュやコルベの彫刻よりもいっそう根元的なものとして︑ポール・ランドウスキの詩的できわめて人
間的なある種の彫刻を示唆している ︵2︶︒ 芸術至上主義路線の彫刻家レーンホフの︑もはや昔風の︽男性裸体 像︾について︑ある一九世紀の批評家は﹁一輪の花のように無益で雄弁である﹂と記し ︵3︶︵四︶た︒ランドウスキのような人物について記述するに
は︑同じくらい繊細な筆が必要だろう︒︹この彫刻家は︺ロダンと彼に追随するフォーマリストたちの断定的態度とは逆方向へと向かう︒人
は断定から遠ざかれば遠ざかるほど︑よりいっそう無防備な詩情を獲得していく︒一九一〇年の︽曙への頌歌︾の神々しいまでに貧相な肉
体から︑一九一九年の拳闘士ジョルジュ・カルパンティエの彫像︵図1︶︱裸体像であるのは︑モデルの個性を極限までさらけ出していっ
そう人間的に表現するためだ︱︱に至るまで︑ランドウスキの形態は透明で︑感情の音楽を覆い隠すことがない︒そして打ち解けた心とそ
れに伴う身振りが持つ︑得も言われぬ単純さの中に込められた哀悼の念は︑ボルドーの戦没医学部生慰霊碑や︑とりわけ︽英霊たち︾︱
やはり戦没者慰霊群像︱の一九二〇年制作の習作︵図2︶に見受けられる ︵4︶︒一九二〇年の﹃ルヴュ・ドゥ・ラール﹄誌上で ︵5︶︑この習作が
大彫刻として完成し︑イッポリト・ルフェーヴルによる母親たちと戦争未亡人たちの群像︵図3︶と対比されているのを快く見た者は︑図
解や対話への関心︱ルヴェーヴルの感染性の惨めさにのみ特有の︱に引きずられていた︒そんな関心は︽英霊たち︾には存在しない︒
かれらは肩を寄せ合って霧の中から立ち上がる︒その夢見るような眼差しはこの世のものではなく︑哀悼さえも望んでいない︒同じ瞬間
に迎えた様々な年齢︹の死︺に対する︑目を閉じて停止した美に対する︑奪い去られた力に対する︑軍服の外套に隠された幼な子のような
胸に対する哀悼の念︑そのすべてをわれわれは共有する︒思うにこれは︑保守的な具体性や︑憶測︑遺産を根本的に解体する︒このランド
ウスキは︑形態に別の形態を対置することすらしない︒それどころか条件付けることさえ知らない︒なぜなら一切が︑解き放たれ︑霊的で あるからだ︒そこで︑トスカーナの彫刻家アゴスティーノ・ジョヴァンニーニが一九二〇年以降︑ランドウスキの深い影響下にいくつかの
戦没者慰霊碑をペッシャ近郊に制作したとき︑思うに形態の対話︹と
いう理念︺を超越して︑﹁復古﹂や﹁秩序﹂の反対物について語ってよ
いだろう︒
パリ在住が長かったジョヴァンニーニを識る者は︑今なお彼の こ ランドウスキの巨匠に寄せる称讃の念を回顧する︒四点の戦没者慰霊碑︱ペッシャ︑ヴェネリ︑サン・ジェンナーロ︑コッローディのための ︵6︶のうち︑
最初の作品だけが現存し︑残りは第二次世界大戦中にファシストたちによって溶かされてしまった︒そのペッシャの記念碑︵図4︑5︶に
ついて︑当時の手書き文書と記事はみすぼらしい倹約の産物として追想する︒そうした追想は薄暗い霧のように乗り越えられ︑晴れやかな
顔と︑個人の特徴を宿した柔和な肉体が︑敬虔な信者や新たな訪問者に心を委ねる︒いかなるフォーマリズムも︑いかなるアヴァンギャル
ドも復古も︑愛国的な熱弁も︑この裸の詩情には存在しない︒着想と習作については一九二〇年に遡る︒戦時中のウンガレッティにこれ
ほど接近したイタリア美術を私は知らない︒そこで私は︑かの諸々のフォーマリズムからの脱出を︑かの透明性を︑﹁表現を最小限に削減﹂
して﹁まさにそれが表現であると悟られないようにする﹂欲求︑﹁純粋な身振りとしての詩﹂を疲弊させかねない﹁言葉の重み﹂だと悟ら
れないようにする欲求なのだと註釈しよう︒﹃喜び﹄︹ウンガレッティの
第一詩集 ︵五︶︺について︑デ・ロベルティスはこう続ける ︵7︶︒﹁他の者なら︑
過剰なまでの吐露や︑愛情の修辞学のための素材を汲み取ることだろうが︑ここにあるのは軽やかな息吹であり︑目覚め︑中断され︑消え