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(1)

茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学・芸術)31号(1982)59−72      59

丁肋Fα6加Q粥θ麗の「節度」の倫理的寓意解釈(1)

小 紫 重 徳

(1981年10月15日受理)

AM。,al Int,,pretati・n・f T・mp・・ance in 7加F…ゴ・(%・・η・(1)

Shigenori KoMu RAsAKI

(Received October 15,1981)

Abstract

The aim of this paper is to consider the Spenserean Temperallce in the framework of the Thomistic theory. First, though Temperance is one of the

      冒

高盾窒≠戟@and natura1, not supernatura1, virtues acquired by human acts,1t can also be infused into the human soul by God himself and must needs be based on Faith, a theological virtue supernaturally infused by God, which is why Guyonて更must now anew begin where Redcrosse has left his豊更marke :Second,

T,mp,,ance m・・t be acc・mpani・d and di・ect・d by P・ud・nce・f P・1m・・,・

virtue both moral and intellectuaL Third, as Temperance specifically dis一 P。,e, the c・n・upi・cibl・apP・tit・b・t・ub・idi・・ily di・p・・e・th・i・a・cib1・apPe一        ・ 狽奄煤B, th, f。・、ti・n・f C・u・ag・,・n・th・・m・・a1・i・t・・, th・m・ti・ally fl・ws lnt・

T6mp,,ance, and th・t i・why G・y・n,・ft・・1ea・ni・g h・w t・・b・e・v・M・di・ゴ・

Golden Mean, can and must cortrol Furor s㌔adtempered vengeance or更ぐran一

cour which is the last stage of anger.intensified in three ways, the first of which isξてcholeric and qulckly aroused anger and the seconポτmelancholic and long−abiding anger

諸     言

丁加Fα67紹Q%θθ舵の第二巻, 「節度」(Temperance)の物語を一つのまとまりとしてどう 解釈するかという問題に直面する時,何はともあれせねばならない選択がある。それは,如何な る観点からこの巻を一つの全体像として眺めるか,つまりこの巻の主題としての「節度」をどの

ような価値体系の中に位置づけるかを決定することである。      1>         

@ 「節度」という徳目は,キリスト教神学では四つの倫理徳(rnoral virtues)の一であり,それ らは知徳(intellectual virtues)と対神徳(theological virtues)とは区別されている。しか し倫理徳と知徳にはかなりの同質性が認められ,これら両範疇に属する徳目は,アキナス(Thomas Aquinas)によればその対象の種概念上(specific)の違いのためにその種類(kind)において

茨城大学教育学部英文科

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60       茨城大学教育学部紀要(人文。社会科学・芸術)31号(1982)

      2)

ホ神徳とは大きく分けられるという。まず対象に関していえば,倫理徳と知徳の対象は人間の理 性の理解の範囲内の事象に限定されるのに対して,対神徳の場合はこの範囲を越えた神自身を対 象とする。だから,その機能の仕方においても,倫理徳と知徳は人間性そのもののレベルで(natu.

ra lly)欲求を補正するのに対して,対神徳は人聞性を超越して(supernaturally)これを為すと いう相違を見せるのである。さらにその存在の仕方についても,前者は人間に自然本性的な原理

(natural principle)から生じ,かつ人間行為を通じて修得される修得徳(acquired virtue)

として定義され,自然律を越えて神自身によって直接注賜される注賜徳(i㎡used virtue)である        3)

ホ神徳のF位に位置させられる。しかしさらに議論の発展の中で,倫理徳と知徳は,以下の論拠 で対神徳との関連性を認められることになる。つまり人間の魂は,神を対象とする時以外にも,

つまり被造物に対する時にも注賜的な徳を必要とする場合がある。この注賜的な倫理徳と知徳の 存在の根拠は,人間的事象に関する行動規範としての修得的な倫理徳と知徳とは別に,人間は神 の僕としての規範をも必要とするという点にあよそしてこの倫理的,知的な注聴の存在が,

対神徳のように直接的にではないにしろ,究極的には被造物との対峙を通じて神を志向すること を人間に可能ならしめるのである。換言すれば,倫理徳と知徳は,自然徳(natural virtue)と

して,超自然徳(supematural virtue)の対神徳とは明確に区別されるが,他面では,神自身 の手で直接注賜される可能性を有して対神徳との関連性を認められることになる。このことは,

「節度」を純粋に人間倫理のレベルで処理しようとすることには限界があることを意味する。

丁加Fθ6がθQ膨θ紹についていえば,.上述の自然徳と超自然徳の不即不離の関係は,第一巻 と第二巻それぞれの主題である「信仰」(Faith)と「節度」の関係として見ることができる。

アキナスは,対神徳のうちでもとりわけ「信仰」の他の徳に対する関係を確立するために,Ro脚鱒 の「信仰に拠らないものはすべて罪である」( whatsoeverゴ3 not of faith is sin 戯こ対 するアウグスティヌス(A㎎ustine)の注解を引いてそれをさらに肯定的に敷衡する。

「加励o〆θ〃ル oプoη瑚∂6/蜘θ7z3σ3卿,翻4伽7θ3εα33π,

伽4伽7θ露3η09004ω渤0曜 地θ雇9加3 9004・隔θ7θ肋α〃〆θ(なθ

0∫ 魏θ 〃〃魏 33 〆σ0々吻8,ρ〃劾6 230脚6々θη ω6π ゴη  加〃ZO3       6)

Uκ66〃6雇  00π4%6!。

この「信仰」の他の徳に対する不可欠性こそが,第一巻の英雄Redcrosse Knightと第二巻の英 雄Guyonの遊遁と交誼の(L i,34),そして何故Redcrosseの任務の道程の終着点がGuyon の任務の出発点であるかの(H,i,32)寓意の謎を解く鍵となっているのである。この一見なに げない一二人の英雄の知遇は,単にこれら両巻に脈絡をつけるための構成上の工夫と看倣されては ならず,倫理徳は人間的事象を当面の対象にしてこそはいるが,そのような対象の処理はそれ自 体で自己完結性を有するのではなく,「信仰」を前提として神を究極の目的として志向して始め

て徳として存在し,機能し得るというスペンサーの倫理観を象徴していると考えねばならない。

そうしてみると,τ加F磁瘤 Qκθθ紹の主題である「節度」という倫理徳はキリスト教という 宗教的価値体系の枠組の中で考察されねばならないことになる。

(3)

小紫:7 加F駕酉θQ瑠伽6の「節度」の倫理的寓意解釈(1)         61

1 「節度」の領域

「節度」の対神徳,とりわけ「信仰」に対する依拠的関係は上に概略したところであるが,こ こでは,まず「節度」と知徳の一である「思慮」(Prudence)との,そして次に他の倫理的三徳 との関係を規定することによって,スペンサーが「節度」に,その徳固有の対象領域を越えて,

どの程度にまで外縁性を与えているかを考察することになる。

最初の論点は「節度」という徳目が,どのようにして可能態から現実態としての存在を得るか を中心とする。第一巻においては,Redcrosseの「信仰」の成就の過程にUnaという「真理」

(Truth)が目的因的に対象としてあり,Dwarfe(小人)という「理性」(Reason)が動力因 的に「信仰」を導いた。同様に第二巻でも「節度」の向かうべき対象と,その方向性を導く動力 因の存在が不可欠である。既述のように「節度」の存在と完成には「信仰」の存在を前提とする。

しかしその存在を仮に必要条件とすれば,それとは別に十分条件として上記の二つの要因が必要 なのである。

「節度」とは,アキナスによれば,特性的には「触覚の欲求に由来する快楽の中に存する善」

      7)iugood in the pleasures rising from the desires of touch )を対象とする。端的に

@       8)

「えば,その対象は人間のより低位の,つまり人間の動物的なレベルに属する食欲と性欲である。

それゆえ「節度」の対象は,人間の個としての,種としての生命維持という,根源的な生活部分 として必ずあるといえる。そしてこのようなものとしての「節度」の対象は,「信仰」のそれで ある「真理」のように絶対的に「善」ではないが,それらは基本的には人間の追求すべき「善」

である。「節度」をも含めて倫理徳は一般にそのような「善」を対象としてそれらを「正しく」

選択し,それらを人間行動として欲求する能力の習慣ないしは習態(habit)のことを言うので あるが,そこには選択された欲求を「適正」に充足・実現するところまでは含まれていない。そ

のために,倫理徳は,その選択の結果を実現するか否かの判断を下し,かつそれを正しく実現す       9)

驍スめに「思慮」(Prudence)という知徳を必要とする。このために,「思慮」は基本的には知        10)

ソでありながら,倫理徳の中にも数えられることになるのであるが,いずれにせよ,Guyonの「節 度」の完成にはこの知徳であり,かつ倫理徳でもある「思慮」の存在をいわばその形相として必 要とし,その徳目を表象するのがPalmerである。

Palmer(巡礼)の職掌は,Guyonに,「その沈着な杖で採るべき道を」,「その理性で行程を」

示し,そして「そのことばで」Guyonの「意志」を導くことである。

Then O妙oπ forward gan his voyage make,

With his blacke Palmer, that hirn guided stil1.

Still he him guided ouer dale and hill,

And with his steedie staffe did point his way:

His race with reason, and with words his will,

From foule internperance he oft did stay,

And suffred not in wrath his hastie steps to st ray. (H, i,34)

このようなPalmerの職掌は,アキナスの考える「思慮」の三機能の具象化である。つまり,道

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62       茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学・芸術)31号(1982)

の選択はgπo吻θ(例外的な算例に際しての正しい判断),行程の順守は3翅θ舘3(法則に従っての

判断),ことばによる意志の方向づけは甜伽〃α(正しい助言)にそれぞれ該当することは明らか  ユ1)である。それゆえ,Palmerを伴わないGuyonは,たとえばMammonの物語(皿,vii),ある

いはPhaedriaの挿話(丑,vt)にみられるように多かれ少かれ罪過へと足を踏み入れることに なるのである。以上をアキナスのことばで結論すれば,「倫理的な事象を方向づけるには,一つ の徳,つまり思慮をおいて外はない」ethere is but one virtuetodirect all such maむ

ters, nam・ly p・ud・nce・)12

さて次の論点は,「節度」と,「思慮」以外の二つの倫理徳との係り合いである。それら二つ の徳目は「勇気」(Courage)と「正義」(Justice)であるが,とりわけ「勇気」との関係が,

丁加Fσ6プゴθQπθθηθの第二巻の主題を論じる上で重要な問題となる。というのは,「正義」は 第五巻の主題として設定されているのであるが,「勇気」についてはそれを固有の主題とする巻 は用意されていない。ただ,推論としては,スペンサーが当初意図していた全十二巻のうちのあ る巻を「勇気」を主題として構想していたかもしれないという考えをも可能性としてないとはい

えないが,現存のこの作品が,第一巻の「信仰」という人間にとって最も根本的な,いわば最も      

ツ人的な徳目から始まって,第六巻の「礼節」という最も個人的でない,つまり最も社会的な,

当然「勇気」よりも個人的ではない,一徳目に終るという一連の順序だった巻構成を有してい ることを考慮に入れれば,「勇気」ガ第七巻以降の主題として独立させられるという考えは捨て さるを得ない。むしろ「勇気」という徳目は,「思慮」と共に「節度」という第二巻の主題と相 即的な関係に置かれていると考えることの方が妥当である。その理由は以下に示すとおりである。

「勇気」は怒情的欲掌能力(irascible appetite)を所轄し,第一義的には「善」の追求に支障 する恐怖を克服し,第二義的に「善」の追求に付随しがちな激烈さを抑制する。このような「勇 気」の二様の機能を,欲情的欲求能力(concupiscible apPetite)を所轄し,第一義的には主と

して快楽という「善」を制御し,第二義的には憤怒や悲嘆といった快楽以外の激烈な情動を抑制        14)

キる「節度」の二様の機能と並置してみる時,これら両徳目のそれぞれに特性的な欲求対象を特 定しなければ,つまり両者の対象を一般的に「霊Pt」と設定すれば,「勇気」と「節度」は完全に 相即してしまうことになる。

Whoever can train his desires for the pleasures of touch so that they do not run loose, and  this is a very hard thing  to do, is ψ30 カ6 o rnore abl e to ch㏄k  rashlless in the face of danger so as not to exceed all measure,and this is a much easier thing to do.

In this sense courage is said to be temperate. Temperance,likewise,

is said t o be brave, because co ura ge overfl ows into ternperance.For he whose spirit is strengthened by courage against the dangers of death, a matter of great difficulty,is rnore able to stand firm against th,。n、1。ught。f plea,u,e1H

実際,理論上の弁別の必要性とは別に,「節度」と「勇気」は,いずれか一方が欠如したままで

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小紫:τ加Fαθ吻Q紹例θの「節度」の倫理的寓意解釈{1}         63

他方が完全な状態に在ること,たとえば勇敢そのものであるが,全く節度のない,あるいはその 逆の無意味な状態を想定してみれば,現実には両者は,人間の情動的完成の過程を提示するため には,相即的に取り扱われることが有効であることが理解できる。

「勇気」の第一義的な,つまり敢為という側面は,しかしながら,第二巻の英雄Guyonの行為 の中に寓意としては読み取りにくい。この要素は,むしろ逆説的に,「節度」の騎士の使命の遂 行の際に時として見せる「節度」を越えるやにも思える烈しさとして,リテラルなレベルで表わ されることになる。とはいえ,Guyonの果断さが,時として「節度」という徳目の完成に支障と なる可能性を孕むことも確かであろう。たとえば,エバンズ(Maurice Evans)はその危険性 を強調して次の様に述べている。

The salacious tale of the maideガs rape.9.moves him as it could only move a repressed personality;and at once Iaying aside his sober mood , he rushes off with fierce ire/And zealous haste , aU 収in.

flam d with wrathfulnesse , to ex㏄ute justice. It is the same danger ous zeal which carried Red Cross into Error s den,and Guyon is in

・・n・tant d・nger・f b・ing b・t・ay・d by比・p・舘i・n f・・t・厩h and,ig肥

しかしエバンズのように,「節度」という第二巻の寓意的主題の解釈に,その徳目の完成のため に烈しい志向運動を示す主人公の物語上のアクション,いわば寓意の手段である寓喩を「なま」

のままで取り込むことは妥当ではない。一般に「倫理徳」は「中庸」を旨とするが,それは飽く までその対象の処理に関してであって,「もし,我々が倫理徳を理性との関連で論じるならば,

それの理性の充足という点で一極限の,つまり理性との即応の極限の位置を堅持する」( If…

we refer moral virtue to reason, then by its content of reason it holds the po−

@       17)

唐奄狽奄盾氏@of one extreme,namely that of co㎡orrnity )。つまりエバンズの言うGuyon のRedcrosseに対する「憤怒」の烈しさは,それによって「節度」がRedcrosseの「信仰」へ至 るところの理性に基づく「怒情的欲求」の強さの表象でもあるのである。しかしこのようにGuy一 on自身の行為が寓意的に「勇気」の第一義的な質を表わすことはそう多くないし,またそう顕 著に現れることもない。

第二巻においては,「勇気」の寓意はBra ggadocchioの挿話に反面的に読み取ることができる。

つまりこの挿話では,「勇気」に似て非なる「驕慢」を提示することによって,それが「勇気」

ではなく,実は「小胆」に由来することを明らかにし,読者はその「小胆」を反面教師として「勇 気」のあるべき姿を確認するよう意図されているのである。Braggadocchioは,その名の示すとお

り,「驕慢」(braggi㎎あるいはvainglory)を本質とし,その「驕慢」は,第三篇の第四連以        , コ十六連にわたって詳細に描写されているように,TrompartやArchimagoを威圧するのには充 分である。しかし彼の威圧は,盗みによって得たGuyonの愛馬と槍の威力以外の何ものでもなく,

その威力を後ろ盾とする「驕慢」は,彼の内実の「小胆」の虚仮にすぎないことが示される。そ の「小胆」の度合いは,接近して来る足音にすら震憾することから推して知ることができる。

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Eft t hrough the t hicke they heard one rudel y rush;

With noyse whereof he[Braggadocchio]from his loftie steed Downe fell to ground,and crept into a bush,

To hide his coward head from dying dreed.    (皿,ii,21)

この挿話によ一,てスペンサーの意図するところは,Braggadocchioの「小胆」の階謹的な提示に よって「勇気」の本質を示すこと,つまり「勇気」とは「善」の追求に伴う様々の障碍,たとえ ば危険とか労苦,を克服することであることを教示することである。

上述の足音の主はBelphoebeという乙女であり,その顔は「輝かしい天使の容色」(n,世,22)

であり,その眼光は「天なる創造主の光で灯され」(皿,iii,23),その声は「天上の音楽を奏でる」

(H,iii,24)かに思える。このBel phoebeの表象するところは,少くとも第二巻の寓意的文脈にお        ユ8)

「てみる限り,「善」そのものと考えることが最も適切である。彼女の天上的な美という属性は,

寓意解釈を施せば,天上性そのものという彼女の本質,換言すれば「善」そのものを表象するこ とは明らかだからである。アキナスにこの寓意解釈の根拠を求めれば,「善」と「美」は,その 実体において同…なのである。

Agood thing is also in fact a beautiful thing, for both epithets

have the sarne basis in reality, the possession of form;and this is      19)

ヨ加 んθgoo4ゴ∫θ5 θ6紹4∂θ碑 加1.

「善」が「美」であることは論理の上では必ずしも「美」が「善」であることを導かない。しか しこの置き換えは寓意文学では常套であるし,「天上的な美」が「善」以外の何らかの概念を表 象することは可能性としてない。それでは,具体的には「小胆」の「善」に対する反応から何を 読み取らねばならないのだろうか。この問題の解決には,Braggadocchi oの反応を二つの段階に 分けて吟味してみる必要がある。

まず第一の段階としては,BraggadocchioがBelphoebeの「美」を追求に価値する「善」とし て認識するか否かである。彼には一応それは可能である。

So when her goodly visage he beheld,

He gan himselfe to vaunt....  (H, hi,37)

●       ■      o       ●      .

But that the foolish man,fnd with delight Of her sweet words,that all his sence dismaid,

Arld with her wondrous bealltie rauisht quight,

Can burne in filthy lust, and leaping light,

Thought in his bastard armes her to embrace・ (∬,世,42)

しかし「善」の認知は,その正しい追求の仕方の認知とは同義ではない。前者の認知は「思慮」

(7)

小紫:丁加勲θ吻Q紹θ駕の「節度」の倫理的寓意解釈(1)        65

の介在によって後者の認知に至って始めて倫理徳たり得る質を帯びるのである。しかるにBrag一 gadocchioの場合には,第二段階の吟味によって,「不浄な情欲」による誤った追求の仕方しか 選択することができないことが明らかになる。しかも,その追求の意志はBelphoebeの威嚇の前 には全く「勇気」を伴わない。

With that she swaruing backe, her Iauelin bright Against him bent,and fiercely did menace:

So turned her about,and fled away apace.

Which when the Peasant saw,amazed he stood,

And grieued at her flight;yet durst he not Pursew her steps, through wild vnknowen wood;

Besides he feard her wrath,and threatned shot Whiles in the bush he lay,not yet forgot:

Ne carU he greatly for her presence vaine ....  (II, iii,42−3)

「小胆」の「善」の追求の発動と殆んど同時に「善」が追求されることを拒むこの場面は,Brag一 gadocchioに「勇気」が欠如していることは勿論のこととして,さらに遡って,彼の「善」の認知 そのものが真正のものではなかったことを示している。つまり「小胆」にとっては「善」の存在 など何の意味も持たない「空疎」なものであり,「小胆」は「悪」を追求することにこそ相応し い存在であることが示されるのである。

さて,順序としては次に「勇気」の二義的な,つまり抑制的な側面に論点を移さねばならない のであるが,この点に関しては「節度」の主要な機能の一部として処理することが好都合である ことは既述したところである。アキナスの論理では,「節度」の対象は限定的には食欲と性欲で

あり,その機能はこれら二種の,人間の個体と種の存続に不可欠な「善」の追求に節度を与える     20)ことであるが,一方広義の解釈では,「節度は人間の関心を惹く如何なる事柄についても作用す

      21)

驍フがわかる」(ヒ星temperance can be se㎝at work in any matter of human interestゐ そしてアキナスはこの広義の「節度」の機能に「勇気」の抑制的機能を包合させるために「自制」

(Cont inence)という概念を用意するのであるが,この徳目はアキナスの論理の枠組みの中では       22)

u節度」の下位概念として取り扱われると同時に,条件付きではあるが「勇気」の機能の抑制的 側面と同一視されることになる。

In the face of fear,the quality proper to courage that is praised is not selfpossession exactly,but stout−heartedness or a steadiness  of spirit.As for anger,it sets up an impulse to get something but it rises from a psychological perception of having been done an injury,

rather than from the very drive of nature.Accordingly a person is called continent of anger,that is continent not simply,but with a

(8)

ρ  ◎

66       茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学・芸術)31号(1982)

     23)

曹浮≠撃奄?奄モ≠狽奄盾氏D

スペンサー一にあっては,一見「節度」と「自制」は必ずしも峻別されているようには見えないが,

そのことはむしろ「勇気」を第二巻の主題の一部として包摂させるための細心な措置の結果と考       24)

ヲねばならない。そこで次節では,「節度」が「自制」の介在によって「勇気」の機能をも包摂 胃するその部分を主として考察の対象とすることになる。

2 怒情的欲求能力の抑制

「節度」も「勇気」も,上に見たように「信仰」に拠って立ち,「思慮」に従って人間行動を 律するのであるが,その機能は,推進と抑制という,いわば正負両方向性を有し,かつ常にその 中点を指向する。すなわち,これらの倫理徳は,食欲とか性欲といった欲情的欲求能力と,目的 的に様々の「善」を対象とする怒情的欲求能力を発動させると同時にその過度を抑制するのであ る。以上の内容を総括して寓意的に示すのが,GuyonのMedinaの館の経験である。その意味で は,この物語は第二巻の主題全体の見取図として読み取られるよう意図されていると考えて良い であろう。ただ,この節で論じるMedinaの館の物語と,FurorとCymoclles, Pyrochles兄弟を アンタゴニストとする物語は,どちらかといえば,怒情的欲求能力の抑制により重点を置いては いるのであるが。

Medinaの館に住むElissa,MedinaそしてPerissaの三姉妹は,その名が示すように,それぞ れ「欠如」,「中庸1そしてr過乗1」」を表象する。加えてそこには,「欠如」に求愛するHudibras,

「過剰」に求愛するSansl oyが滞在している。これら男女の織り成す絵模様は二つの位相で理解 されねばならない。諸家の指摘するように,この挿話は,アリストテレス(Aristotle)の翫一

魂o吻06加αη E勘03で論じられている「中庸」と「極端」の対立の論理を枠組みとしている。

There are then three dispositions−−two vices,one of excess and one of defbct,and one virtue which is the observance of the mean;and each of thern is in a certain way opposed to both the others. For the extreme states are the opposite both of the middle state and of each other,and the rniddle state is the opposite of both extremes;since just as the equal is greater in comparison with the less and less in comparison with the greater, so the middle states of character are in excess as compared with the def㏄tive states and defective as compared with the excessive states,whether in the case of feelings or of actions.

For instance,abrave man appears rash in contrast with a coward and cowardly in contrast with a rash rnan;similarly a ternperate man appears profligate in contrast with a man insensible to pleasure and pain but insensible in contrast with a profligate3励

El issaとPerissaの本質が欲情的欲求能力に向けられる時,たとえば食欲と性欲は「欠如」にと

(9)

小紫:71加飽6而θQ紹θηθの「節度」の倫理的寓意解釈(1}        67

っては蔑みの対象でしかなく,一方「過剰」にとってはそれらに関して満ち足りるということは あり得ない(∬,h,35−36)。つまり,これら両人は,欲情的欲求能力が全く発動させられてい ない状態と,その能力が限度を越えて発動させられている状態を示している。そして,それらの 状態は「節度」と正負両方向に越える悪徳として描かれるのである。

しかしHubibrasとSansloyの行動様式,とりわけその気質に目を向ける時,スペンサーはアリ ストテレスの枠組みを越えてアキナスに近づくことがわかる。二人の気質は次に引用する一節で 鮮やかに対比させられている。

More huge in strength,then wise in workes he[Hudibras]was,

And reasorl with foole−hardize ouα ran;

St erne rnel anchoIy did his courage pas,

And was for terrour more, all armd in shyning bras. (n, h,17)

●       ●       o       ●       ●       ●       ●

Whose grieued mindes, which choler did englut,

Aganist themselues turning their wrathfull spight,

Can with new rage their shields to hew and cut.... (H, ii,23)

●      ●       ●      ●       ●      ●       ●

But∬π44ガ∂70ε, more like a Malecontent,

Did see and grieue at his bold fashion;

Hardly could he endure his hardiment,

二人には共通して「瘤癌的」,つまり「胆汁的」echoleric )な行動の型が認められるが,上の 引用が示すように,Sansloyがもっぱら「大胆」(uhardiment )であるのに対して, Hudibras の場合は,その「理性」Creason )は「無謀」efoole−hadize )に,またその「勇気」ecour.

age )は「憂肇」つまり「黒胆汁」emd ancholy )に凌駕されている。二人の行動の習態を 対比的に分類すれば,Sansloyがより「胆汁」的気質から「瘤癩」(hardihood)を起こすこと が多いのに対して,Hudibrasはより「黒胆汁」的であり,その醗績の結果「無謀」に走り易い のである。この対比は,言うまでもなく,古典的な体液型による気質型分類を基盤とするもので あり21)この分類はバートン(Robert Burton)の手にかかると病理的考察の対象となるが1ηア キナスの理論に取り入れられれば,当然ながら,倫理的考察の対象となる。

It may happen that a person follows a sudden impulse of passiorl be・.

fore any deliberation of reason.  Ordinarily the rush of passion pre一 vails b㏄ause it is quick,as in the choleric,or massive, as inthe melancholic;these flare up b㏄ause of their physical temperamenそ8≧

アキナスは,胆汁質も黒胆汁質も「無自制」(Incont inencのの原因と考えるのであるが,ただ

(10)

68       茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学・芸術)31号(1982)

前者は「自制」を失うに「疾速」equick )であるのに対して,後者の気質の場合は,たと冬ば Hudibrasの「轡憤」eMalecontent ,丑, ii,37)のように「圧倒的」emassive )であると いうのである。そうしてみると,SansloyとHudibrasは,過度の欲情的欲求として,「臼制」に 対立する存在に外ならないことになるが ,それらの存在は,El issaとPerissaの両極端の欲情的 欲求と共に,Medinaの「中庸」と「自制」によって制御されているのである。しかし,Guyon の「節度」はこれらの人物の本質とは直接抵触することはなく,Medinaの館の状態を知ることに よって,「自制」と「中庸」の在り方を学ぶだけである。

欲情的欲求能力がGuyonの「節度」による制御の対象となるのは第四・五・六の三篇において である。第四篇では,まず母親のOccasion(機会)に扇動されるFurorがGuyonに敵対する。

このFurorが象徴する感情,あるいは情念(passion)は,以下の理解で規定されねばならない。

Anger is hei ghtened in three ways.Fi rst,by the ease of the reaction;

such anger ls called wrath bce慕use 嚢 is q頃ckly aroused. S㏄ondly, in terms of the distress which leads to anger and is long remembered.

This is i1レw斑,which(in Latin)has the same root as 収abiding Thirdly,on the part of the object desired by the angry person, which is vengeance. This is a椥nction of rancour, which is never satisfied unti】punishment has been lnflicted.Thus Aristotle calls some who are angered ㌔holeric ,because of their quick termper;others he calls 蚊bitter , because they brood over their anger for long time; and still others  bad−tempered , because they will not rest llntil they have exacted punishment.... However, the Greek word θひμ03 which in Latin becomes μプ07, Inay imply both quickness to anger and a firm

intelltion to obtain revengぎ1)

上の引用で既に明らかなように,Furorは「憤怒」の昂まりの最後の段階,つまり「遺恨」eran一

cour

?驍「は bad−tempered vengeance )を表象し,それに先立つ二つの段階である「胆 汁的」( choleric )な「瘤癩」ewrath )と,「苦い」つまり「黒胆汁的」ebitter )な「警 憤」eilレwi1P)をも包摂してしまう。このことは,前述のSansloyの「瘤癌」とHudibrasの

「筐憤」の行き着くところがFurorという「遺恨」であることを示す。そしてこのFurorにつき まとわれる,つまり「遺恨」に取り愚かれる最初の犠牲者は,Philemonの妊計のために自らの婚 約者Claribellを手にかけてしまったPhedonである。

「節度」にとってこの「遺恨」を克服することがこの段階ではさほど困難iでないことは,Guyon がFurorを難なく打ち倒し,鎖でいましめてしまうことでわかる(∬, iv,5)。しかしその直後 から,Guyonは「憤怒」の三段階を改めて経験せねばならない。それはPyrochlesとCymochles 兄弟との相克である。まずPyrochlesは当面Sansloyの類型として紹介される。彼の名はギリシ

ヤ語の勿7−(火)Io訪/63(掻き乱す)であり,その武具は火と燃えていることから察せられるよう

に(H,v,2),Pyroch玉esは「火と燃える憤怒」である。このすぐに燃えあがる状態は,「憤怒」       30)

フ第一段階を示すSansloyの突発的な「胆汁的憤怒」の状態と同質である。しかし緒戦でGuyon

(11)

小紫:丁加Fα爾θQ瑠疏θの「節度」の倫理的寓意解釈(1)        69

に屈服したPyrochlesは,その敗北を直接の原因として,徐々に「遺恨」へと質的に移行してゆ くことになる。その結果,「機会」と「遺恨」母子のいましめを解いてしまい(∬,iv,18),その 当然の結果として,彼自身「遺恨」に取り愚かれる第二の犠牲者となってしまう(∬,iv,23)。こ のPyrochlcsの 「憤怒」の質的変容の動機は寓意的に以下のように語られる。

Fz4707,0h Fz〃07 hath me thus bedight : His deadly wounds within my liuers swel1,

And his whot fire burnes in mine entrails bright,

Kindled throught his infernail brond of spight,

Sith late with hirn I batteil vaine would boste.... (H, iv,50)

物語上一旦はFurorから逃れた後も,その地獄の悪鬼から受けた傷,つまり「遺恨」のため,そ の「憤怒」は以前のように単純な「廟結」として身体から炎と燃えて発散せずeround about him threw forth sparkling fire  Liv,1),その「憤怒」の因である胆汁は肝臓elever , 胆汁の分泌器管)の中で膨満し,身体内からPyrochlesの身を焦がすのである。この内なる炎は,

Guyonに私怨を晴らすまでは,たとえ湖に身を沈めても消えることはない(H, iv,42−47)。そ して,このPyrochlesの「遺恨」は兄のCymochlesにも増幅して伝えられることになる。

Cymochlesには,つまり勿〃20−(波)oo〃θ3(掻き乱す)には, Pyrochlesの「火」に対して,

「水」の要素が顕著である。このことは,突発的な「瘤籟」を本質とするPyrochlesの「憤怒」

に比べると,Cymochlesのそれが波状的に間欠し,しかも「圧倒的」emassive )な「轡憤」

であることがわかる。つまり,本質的には,前者が「憤怒」の昂まりの第一段階の状態を表象す るSansloyの類型に属するのに対して,後者はHudibrasの類型として「憤怒」の第二段階を表象 していることがわかる。しかし,Pyrochlesの従者Atin(闘争)から弟の窮状を伝え聞いた段階 で,CymochlesはGuyonに対する復讐心に燃え,「遺恨」の質を帯びる「憤怒」へと質に変化を みせる。

これら兄弟の表象する「瘤痛」と「畿憤」という「憤怒」の二形態は,第五・第六篇において Guyonによって退けられ,そして最終的に彼らの「遺恨」はArt hurによって第八篇で克服され ることになるが,Cymochlesには看過してはならないもう一つの本質が託されている。それは,

彼がAcrasiaの情夫であることが示すように,欲情的欲求能力に属する質である。 PalmerとGuy一 onの一致して指摘するところに拠れば,「節度」の対象は「憤怒」eanger ),「嫉妬」Cge一 alosie ),「悲嘆」Cgriefe ), 「不和反目」Ciarre ),「短気」Cimpatience )と「愛欲」

Cloue )である(n, iv,35;v,16)。そして,これまで論じてきたのは「愛欲」以外の,つま り「憤怒」をはじめとする怒情的欲求能力と「節度」との関係である。しかし,スペンサーは「愛 欲」に代表させられる欲情的欲求は,「節度」ないしは「自制」にとって怒情的欲求能力以上に 克服し難いという。

Aharder lesson,to learrle Continence

In ioyous pleasure, then in grieuous paine :

(12)

70       茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学・芸術)31号(1982)

For sweetnesse doth allure the weaker sence So strongIy,that vneathes it can refraine

From that which feeble nature couets faine;        ,

But grie角and wrath,that be her enemies,

And foes of life,she bet ter can restraine ;

Yet vertue vauntes in both t heir victories      ,

And O妙oπin them all shewes goodly maisteries・ (H, vi,1)

この比較の正当性はアキナスの同趣旨の比較に根拠を求めることができる。

Awave of anger arises from an emergency,for instance a sudden

tide sets towards the pleasures of touch ; it is more lasting and pervading and therefore to check it calls for a more masterfu1

     3i)virtue.

上記の二つの比較が示すように,Guyonの「節度」にとって,より重大な任務は欲情的欲求能力 の制御であり,その過程は,以下に示すように,第七篇以降で論じられることになる。 (以下次 号に続く)

1)倫理徳は枢要徳(cardinal virtues)とも呼ばれる・

2) St.Thomas Aquinas,3π那伽乃θ0109彪畠edited and translated by Thomas Gilpy O・

P.etc.,Blackfriars in conjunction with Eyre&Spottiswoode, London, and McGraw一 Hill Book Company, New York,1962−1975, Part H, S㏄tion i, Question 62, Article

2参照。以下では3π〃z辮αからの引用ないしは参照箇所の指摘は,たとえば上記箇所の場合は,1a2艶・

62,2と略する。

3) 1a2ee.51,1;63,3,etc.参照。

4) 1a2∂e.63,3−4参照。

5)  1〜07ηαηε, 14, 23。

6)   1a2ae. 63, 2 。

7) 1a2記.63,4。なお,1a2 e.60,5;2a2e.141,2;153,1等参照。

8) 2a2記.141,2参照。       ■

X) 1a2∈e.58参照。

10) 1a2ee.58,3参照。

11)1a2ee.57,6参照。 palmerを「思慮」としてθ%伽〃σと関連させることはNohnbergによって 行われている。しかし彼は3ツη63蕗と9πo鷹については言及していない。James Nohnberg,丁加

(13)

小紫:7加飽碗6Q紹θ紹の「節度」の倫理的寓意解釈(1}        71

五πσ10gア(ゾτ加Fσ碗6 Q%θ伽6, Princeton University Press,1976, p.323参照。

12)1a2記・60,1。

13)同上参照。

14) 2a2ee.141,3参照。

15) 1a2ge.61,4。「節度」と「勇気」は,共に欲求能力を所轄し,アキナスによって非常に近い関係 を認められているのに対して,「正義」は主として人間の意志を所轄し, 「節度」との関連はアキナス にはそう強く認められていないことも「正義」だけが独立した主題としてスペンサーに扱われているこ       噺 ニの根拠と考えて良いかもしれない。

16) M3urice Evaus,ερθπ3〃 ε ノ1ηα o〃zツo∫、磁70ゴε吻, ノ1 Co〃2η2θπ σ7ツ oπ η〜θ Foθ7ガθ Qμ6θπθ,

Cambridge University Press,1970,p.112.

17)  1a2∈紀 .64,  1 。

18)Belphoebeが月神のPhoebeあるいはDianaの養女であることから(1∬, vi,28),彼女が「貞節」

を象徴すること,あるいは生涯独身を固持したElizabeth女王と同一視されていること等には議論の余 地はないが,こうした事実が問題になるのは第三巻以後の寓意解釈においてであり,第二巻の「節度」

という主題の展開の中に位置させる限り,Parker等が指摘するような彼女の「純潔」という要素はそ れ程問題にならない。むしろ,NelsonやHamiltonの考えるように, Belphoebeはアダムとイブの堕落 以前の完全な「自然」として,あるいは「人為」と「自然」の完全な調和として考えておく方が「節度」

という主題の理解には好都合だろう。というのは,第二巻の最終篇で劇的に描かれるように, 「自然」

を軽じじて「人為」に傾くことは「節度」の最大の敵であるからである。しかし,この「自然」も,単 純に,人間を取り巻く外的存在としか考えられていない以上,NelsonやHamiltonの説には限界がある。

τ肋E磁7ゴθQ紹醐θのような寓意文学では,「自然」は寓愉の手段としてしか存在し得ないからである。

スペンサーが「節度」の物語の中で「自然」あるいは「非自然」を取り扱う時,小論の第五節(次号に 掲載)で論じるように,それはまさしく「人間性」(human nature)そのものの表象としてである。

そして, 「自然」であることは人間に本然的に具備しているはずの「自然のあるいはなかば自然的な傾 向」( a natural or quasi−natural bent towards doing something ,1a2e.58,1)と しての倫理徳の存在の根底をなすのである。M.PParker,7肋オ〃θgo7夕oゾ 加、Fα67ゴθQ紹θ初,

Oxford,1960, p,124, Willian Nelson,地g Po6 7夕 げ地θFαθ吻 Qπθθηθ;、4ε如の,Co一

lumbia University Press,1963, pp.136−7,んC.Hamilton,7力θ3 プπ6勘7θo∫・4〃θgo7夕

初τ肋Eσ〃紹Q吻伽θ,Oxford,1961,p202をそれぞれ参照。

19) 1a・5,4。

20) 2a2記.141貿144参照。

21)  2a2 ee. 155, 2。

22) 2a2範.155,3参照。ただし, 「自制」は「情念」 (passion)の一形態であるが,「節度」は

「習態」(habit)であるという点で,定義的には明確に区別されていることも確かである。(2a2 e.

156,3参照。

23)  1a2ee.155, 2。

24)7加勘碗θQ彫θ解の第二巻では「自制」は第六篇の冒頭の連で一度だけ言及されているが,その対 象領域が「節度」のそれよりも狭く設定してあることは明らかである(豆,ii,30;iv,35;v,16と

皿,vi,1とを比較されたい)。 また,「自制」の概念が主として第三巻の「貞節」の物語で主要な 機能を果たしていることからみて,スペンサーの場合もアキナスと同様,この概念が「節度」の持つ,

(14)

72       茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学・芸術)31号(1982)

より積極的な,つまり欲求能力を発動させるという機能を有していないとしていることも明らかであ

る。

25) Aristotle,A励々o吻α訥彪ηE飾ゴ63,皿,〜面,1−3。

26)体液型による気質分類とは別に,H, ii,22でSansloyが虎に, Hu(五brasが熊にたとえられているこ とは,ルネサンス時代の動物のシンボリズムからもSansloyとHudibrasの気質を分類する上で参考と なる。Ro司andによれば,虎と熊は,いずれも「憤怒」,「貧欲」,「情欲」をシンボリズムとして持 っているが,Vriesは,特に熊に「憂笹」(melancholy)のシンボリズムがあることを,1%η7y ∫y part 1,1, ii,8の例を引いて指摘している。Beryl Rowland,/1η伽σ13漉魏Hπ吻伽Fooθε, Ge一 orge AIlen &Unwin,1974, pp.31−5&149−52, De Vries, Z万o ガoηση  o〆3ア呪か013伽4

伽σgθアッ,North−Hol land,1974参照。

27)体系的に集大成されたものとして,あまりにも有名な『憂轡の解剖』がある。参照した版は,Robert

Burton,7「んθ、肋σ o〃2y o/M91σηo加む, J・M・Dent&Sons,1932・

28)  2a 2 ge.  156, 1。

29) 1a2鵠.46,8。なお2a2…£.158,5にも同趣旨の言及あり。

30) Burtonによれば,胆汁は,四元素との対応関係では熱く乾いた質,つまり火にあたるという。前掲 書P.148参照。

31 )  2a2 ae. 141, 7。

参照

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