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ヘーゲル宗教哲学における感情の役割

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(1)

田 原 善 郎

宗教において感情の果たす役割とはいかなるものであろうか。デカルトは,

周知のように,理性による神の存在証明を根拠として,神の実在を論証したの であるが,パスカルは,「パンセ」のなかで,このデカルトを指さして,「無益 にして不確実なデカルトω」といっている。パスカルにとっては,「神を感ずる のは心情であって,理性ではない②」。また,近くには,宗教において感情の役 割をみとめず,「理性的信仰」を主張したカントがある。ヘーゲル(G.W.F.

Hege1,1770−1831)は,若きベルン時代の遺稿「イエスの生涯」(das Leben Jesus,1783)において,カントの影響のもとに,イエスの教えを理性的信仰 の立場にたって論じているが,フランクフルト時代には,すでに,カントの立 場を去り,イエスの宗教を愛の宗教として考えている。宗教を感情の立場にたっ

て考えるか,理性の立場にたって考えるか,二つの極のあいだを行き来しなが ら,ヘーゲルは,宗教への哲学的思索を深めてゆく。ヘーゲルが宗教における 感情の役割をいかに考えたか,この問題を追求する一つのよすがとして,拙論 では,体系としての宗教哲学のなかで,ヘーゲルが感情をいかに位置ずけたか をみてみたい。ヘーゲルが宗教哲学を体系化したのは晩年に近く,それは,べ ルリン時代の1821年から1831年まで,4回にわたった宗教哲学の講義において である。この宗教哲学の講義の草稿や聴講者のノートをもとにして編纂,出版 されたいくつかの『宗教哲学講義』があるが,ここでは,主としてSuhrkamp 版を参照しながら論じたい。

ヘーゲルの哲学的思索を終生貫いていたのは,周知のように,宗教の問題で あった。しかし,ヘーゲルにあっては,哲学はすなわち宗教哲学なのではなく,

哲学と宗教哲学とは区別されている。また,当然のことながら,宗教と宗教哲 学をもヘーゲルは区別する。ここでは,まず,本論に入る前に,哲学と宗教,

哲学と宗教哲学,宗教と宗教哲学とがどのように区別されているか,その区別

(2)

の意味はなにかを見ながら,宗教哲学がヘーゲル哲学においていかなる構造的 位置をもっているかをみてみよう。

ヘーゲルは宗教と哲学の関係を述べて,「宗教と哲学は合一する。哲学はそ れ自身神への礼拝であり,宗教である。」(XVI,28)といっている。哲学は現 世的な知恵や生活の認識ではなく,永遠なるもの,神があるところのものの認 識である。一方,宗教の対象も神であり,神の解明である。その意味では,ヘー ゲルは宗教と哲学は一つであると考えていたのである。しかし,ヘーゲルは,

「哲学は固有な様式で,宗教そのものと呼ばれている様式からは区別されてい る。」(XW,28)という。宗教と哲学はその内容は同一であるが,様式におい ては異なると考えているのである。それでは,両者の様式上の違いとはいかな るものであろうか。哲学と宗教の違いは,哲学が理念において,思想において,

神を認識しようとするのにたいして,宗教は直観において,表象において,神 を認識しようとする点にある。「思想において真なるものとは具体的なもので あり,自己自身のなかで分裂して定立されており,分裂の両面は対立した思惟 規定であり,その統一として理念がとらえられなければならない。」(XW,30)

とヘーゲルがいうように,神を思弁的に「区別の統一」(X〜圧,30)としてと らえるのが哲学の役割である。ところで,ヘーゲル哲学の特色は,本質をその 現象形態からみようとするところにあるのであり,したがって,純粋思想であ

る論理は自然,精神というその現象形態からのみ把握される。また,神は世界 からのみ把握されなければならないのである。すなわち,神がすべての存在の 根本的本質であるにしても,それは可能的本質であるにすぎず,それが自然,

精神においてはじめて現実的となるのである。このことは,また,哲学とは,

永遠なる神を認識することではあるが,その現象形態である自然,精神を,区 別の統一としてとらえることによって,その究極の根元である神に迫るという

ことである。

一方,「宗教とは,それ自身,即自対自的である真なるものの意識の立場で ある。… 宗教は,個々の対象におけるあれやこれやの真なるものについて の意識ではなく,絶対的に真なるものの,すなわち,普遍的なものとしての,

なにものをも余さずすべてを包括するものとしての,絶対的に真なるものの意 識である」(XVI,30f)まず,宗教とは端的に絶対者,神の意識の立場であ

る。哲学一般が,その現象形態としての世界を介して,はじめて神を認識する,

いいかえれば,個々の対象における真なるものの意識より出発して,それらを

(3)

区別の統一としてとらえることによって,理念としての神にいたるのにたいし て,宗教とは直接的に感情,直観,表象のうちに絶対的に普遍的なものを意識 する立場である。ここに,哲学と宗教は同じ神という内容をもちながら,様式 において異なるという所以がある。

「宗教は,いわば意識の状態としてのこのような思弁的なものであり,意識 の諸側面は単一な思惟規定ではなくして,具体的に充実した思惟規定である。」

(XW,31)宗教は直接的に神を意識する立場であるから,宗教としての意識 の状態は,純粋な思惟の形式としての思惟の活動でありながら,一方において は,直接的,特殊的な自己意識として,経験的,個別的性格をもった広い意味 での思惟の形式である。この後者を,ヘーゲルは「具体的に充実した思惟規 定」とよんでいるのである。 ところで,宗教にみられるこのような広い意味 での思惟の形式を,ヘーゲルは表象とよんでいる。神とはなにかを宗教が問う 場合,宗教はすでに神の表象をもっている。しかし,この場合,表象は,純粋 な思惟形式と特殊的な自己意識との二つの契機をもっているが,この両契機は,

まだ,思想として,統一されていず,対立しているのであり,加工し,つなぎ 合わせることによって,その統一を保っているにすぎないのである。ここに宗 教にたいする哲学の果たすべき役割が出てくる。哲学は活動的な思惟によって,

宗教において対立している契機を統一して,思想へと高める役割をもつのであ る。いいかえれば,哲学は,宗教を哲学へと高める使命をもつのである。ここ にあらゆる事柄を対象としうる哲学は,宗教をその対象とする,哲学の一部門 としての宗教哲学をもつのである。

それでは,表象としての宗教は,思想としての哲学へ吸収されてしまうので あろうか。表象としての神を,思想と概念においてとらえなおすことによって,

宗教哲学はその仕事を完成するならば,それは神を論理的に認識することにな り,宗教哲学は,哲学の一部門として,純粋な哲学と何等変わることがなくなっ てしまう。だが,「論理的理念は即自的な神である。しかし,神は単に即自的 にあるのではなく,同様に本質的に対自的であり,単に思想の中に自己を維持 する本質のみならず,現象し,自己に対象性をあたえる本質である。」(XVI,

33)この神の対象性をヘーゲルは「絶対者の現存在の側面」(XW,33)とよ

んでいる。われわれは宗教的意識が直接的,特殊的意識として経験的,個別的

性格を有していたのを見てきたが,それらを本質にたいする現象としてもつこ

とになるのである。かくて,宗教哲学は,思想の形式とともに,表象の様式に

(4)

も同時に直面する。このような意味で,宗教哲学はは,神を本質性一般という 思弁的な意味においてとらえるとともに,また,神を現象し,自己を啓示する 活動体という点からもみなければならないのである。このことは,別の角度か らみると,われわれが,神を理解しようとする場合,神にについて実例,表象 をもつことによって,神についてはじめて精通することができるということで ある。「かれ(神)は,自己自身にたいしてのみ自己を表象する」。(XVI,33)

神は自己自身を自己の対象として,自己から区別しながらも,自己と同一化す るのである。ところで,ヘーゲルは次のようにいっている。「しかし,さらに,

〈神の〉現存在の側面も,我々は哲学のなかにいるのだから,思想においてと らえなければならない。」(XW,34)即自的に思想においてあると同時に,自 己をあらわし,しかも自己自身へ反省する精神として,「無限な現象をもった 端的に具体的な理念」(XVI,35)としての神,宗教哲学はこの神を自己の内 容としてもつのであるが,さらに,哲学として,この神の現象的な側面を,思 惟の形式において表現することになるのである。ここに宗教哲学の固有な役割

を見るのである。

つぎに,宗教は意識の状態であったが,「我々が我々の前にもっているのは,

この一者たる絶対者である。このようなく宗教的表象の〉内容,規定を我々は まだ宗教と名ずけることはできない。宗教には主観的精神,意識が必要である。」

(XVI,94)というように,宗教は神を意識する主観なくしては成り立たない。

神は本質的に精神であり,また精神としての主観によって知るものであり,し たがって精神と精神との関係が宗教の基礎にある。宗教は神と主観(神にたい する人間の意識)との関係としてとらえられなければならないのである。普遍 性としての神の概念は,まだ,客観的な思惟と主観的な思惟との区別をもって

いない。「この普遍者においては,全ての区別がなお不在であり,廃棄されて いる。この思惟の霊気のなかでは,すべての有限なものは消え失せており,す べてのものは消滅すると同時に包括されている。」(XW,68)この普遍者が自 己を対自的に規定するところに,いいかえれば,現象として,自己に対象性を あたえるところに,神の概念も発展する。しかして,普遍者が現実に特殊化し て現象する場合に,普遍者に対立する他者として現れるのは,個別性そのもの における意識であり,主観である。そして,ここでいわれる主観は,経験的性 格,時間的性格からみた,欲求,罪悪などをもった直接性としての主観である。

このように規定された特殊性としての主観と,普遍性としての神との関係が,

(5)

宗教であるとヘーゲルはいうのである。

宗教としての両者の関係はつぎのようである。私は私を思惟しながら,すべ ての有限なものを超えて絶対的なものへと高まる,そのとき私は無限の意識で ある。と同時に,わたしは有限な自己意識であり,しかもその場合,私はまっ たく経験的な規定にしたがっている。両者は「おたがいに求め合い,おたがい     響

ノ逃げ合う」(XW,69)関係である。あるときは経験的な意識としての私を 私から排除し,そして呪い,そして無限な意識に重心をあたえる。また,ある ときは私は私の経験的ノ有限的意識に重点をおき,無限性に対立する。私は私 自身のうちにおいて,有限なものとしての私に対立する無限なものとして,無 限なものとしての私の思惟に対立する有限な意識として,規定されている。宗 教としてのこの関係は,一方においては一致でありながら,同時に一方におい ては矛盾な関係として,ともにこの私のなかに,私にとってある。「私はこの 一致とこの矛盾の感情であり,直観であり,表象である。また,私は抗争する ものの結合であり,この結合の努力であり,この対立の主人となろうとする心 情の活動である。」(XVI,69)さらに,ヘーゲルはこの関係についてつぎのよ

うな説明をしている。この宗教における関係としての両側面は,有限と無限と いった抽象的な規定ではなく,両側面は各々それ自身自我であり関係するもの であり,一者のなかで戦う者であり,戦いのなかで一つになるものである,と。

「私は戦っている両者の一人ではなくして,戦っている両者であり,戦い自身 である。私はたがいに触れ合う火と水であり,たがいにただ逃げ合うものの接 触と統一であり,この接触こそは,一方においては分離され,分裂された者の,

一方においては宥和され,一つになった者の関係としての,それ自身この二重 の相争う関係である。」(XW,69)このような関係としての「私」を,ヘーゲ ルは「宗教における自我そのもの」(XVI,68)と呼んだのである。

「宗教的意識は,それ自身において,直接的なもの,有限なものの離別・遺 棄であり,知的なものへの移行である。あるいは,客観的に規定するならば,

無常なものを,その絶対的,実体的本質へ集約することである。」(XVI,106)

宗教は即自対自的に真なるものの意識である。したがって,それは感性的,有

限的真理や知覚に対立し,それらを超え出ることによって,それら自然および

精神の世界の一切のものの真理であることを示す。自然および精神の世界のす

べての富は,外面的な,貧困な,自己矛盾にみちた,また自己破壊的な現実で

あり,宗教の立場においてはじめて,その根拠へ,その源泉へ,真理へ帰る。

(6)

このようにして,宗教的現象はなお有限性にあるので,この有限性の止揚が宗 教なのである。さきに宗教とは絶対者の意識と主観の意識との関係であり,神

は主観的精神を離れては考察することができないことが示されたが,この主観 的精神の立場は有限的意識の立場である。この有限的意識の絶対者への向上と

しての宗教的意識の諸形式として,ヘーゲルは感情と直観と表象をあげる。こ れらの諸形式が発展し,最後には概念そのものにおける内的必然性を発展,完 成することによって,絶対的本質へいたるのである。さきに,哲学と宗教の様        ・

ョの違いについて述べたが,宗教は神と私の関係として,まず直接的に感情と 直観と表象のうちに現れるのである。

ところで,宗教的意識の諸形式を,ヘーゲルは二つに分ける。「宗教的精神 の現象の領域で考察に入ってくる第一のものは,心理学的性質をもつものとし て有限的精神に関係する宗教的諸関係の諸形式である。」(XVI,114)「第二は 客観的側面であり,内容の様式である。〈ここで〉神が最初に我々にとってあ る形式は直観表象の様式であり,最後には思惟そのものの形式である。」(X W,115)第一のものは,主観的側面にかかわるものとして,我々がいま問題 としようとしている感情である。

ヘーゲルは,感情の形式を二つの規定にわけて論ずる。第一は,「我々は神 について知る(wissen),しかも直接的に。」(XW, ll8)という規定であり,

第二は,この知(Wissen)の根拠を求めて,「感情は,神の存在があたえられ る根拠であるという地位を得る。」(XVI, ll8)という規定である。我々は,

神を我々の内に直接的に知るのであり,その場所は感情であるということであ

る。

第一の「我々は神が存在するということを直接的に知る。」(XW,118)と いう規定は,「直接知」の立場である。Lasson版においては,感情と区別して,

直接知は独立した章としてあつかわれている{3)が,Suhrkamp版では,感情の 形式に組み込まれるものとして論じられている。それでは,ヘーゲルにしたがっ て,第一の規定から見て行こう。

ヘーゲルは,この直接知の命題「我々は神が存在するということを直接的に

知る。」を,二つの部分に分ける。それは「神が存在する」という命題と,「我々

は直接的に知る」という命題である。まず,後者にかんして,この命題の「知

る(wissen)」とはいかなる意味をもっているのだろうか。ヘーゲルは,信仰

(7)

を知と対立しているものとは見ない。私が信仰することを私はまた知っている

(wissen)。それは私の意識の中の内容である。したがって,「信仰は知である。」

(XW, ll6)という。しかし,それは感性的な知でもなく,媒介された,認識 する知でもない。直接的,感性的確実性にかんしては,「私は直接的に私の前 にあるものを,私は知っている。すなわち,私がく眼で〉みる空が,私の上に     暫

?驍ニいうことを,私は信じない。」(XW, ll6)ここでは,知ることと信ず ることははっきり区分されている。また,客観的,必然的知識にかんしては,

「私は事柄の必然性へと理性的透察をもつならば,そのとき私は,たとえばピ タゴラスの定理を信じるとはいわない。」(XVI, ll6)ここでも,知ることと 信じることは区別されている。ヘーゲルが,この直接知の命題で問題にしてい

る知は,信仰としての知として,これらの知とは,区別された意味をもってい るのである。それでは,どのような意味で,区別されているのであろうか。

「〈ここで〉知るとは,そこにおいて何物かが私にとって,私の意識の中に存 在するという主観的な様式を表現する。」(XW,118)それらは,神の本質に たいする必然性を透察していないわけであるし,また,感性的,直観的に神を とらえているわけでもなく,その意味において,この知は主観的なのである。

「内容の必然性,証明されたものを客観的なものとよび,客観的知,認識する こととよぶならば,そのかぎりにおいて,信仰とは主観的ななにものかである。」

(X〜猛,117)

ここで,何ものかが存在するのであり,さらに,その何ものかは,私の意識 のなかに存在するのだから,つぎには,「したがって,知るとは,一般に,対 象が他者であり,そのく対象の〉存在は私の存在と結びついているということ である。」(XVI,118)「私はそれを知る」というとき,その対象のなんたるか を知るのではなく,ただ,その有るということ,すなわちその存在のみを私は 知るのである。一方,認識するという場合には,普遍的なものについて知ると き,その特殊的規定にしたがってとらえるとともに,それらを一つの自己内連 関として把握する。ここでの知は,その内容の規定に立ち入り,その規定を対 象として自己から区別するという認識の階梯をふむことなく,「なにか内容が ある」という抽象的な態度であり,直接的な関係である。内容の何たるかは問 題にならない。知とは「自我の抽象的活動」であり,「自我と対象く神〉との 抽象的な関係」(X班,118)である。

さらに,ここでの知はある物体的な対象についての直接知ではなく,神につ

(8)

いての直接知である。そして,神はまったく普遍的な対象である。そこで,

「神についての直接知は,まったく普遍的な対象についての直接知である。そ れ故,産物のみが直接的である。」(XW,119)直接知の対象は普遍的であり,

その普遍者を対象として成立する産物としての直接知のみが直接的なのである。

しかして,ヘーゲルは,普遍者を対象として活動するのが思惟であるから,神 についての直接知は「神についての思惟である」(XVI, ll9)という。さきに,

直接知を信仰と呼んだヘーゲルであるが,その意味は,知と信仰を対置するの ではなく,あくまでも信仰を知とし,思惟の世界に組み入れようということで ある。しかし,「ここでく思惟された〉神は,まだいかなる内容も,それ以上 の意味ももたない。神は,ただ感1生的ななにものでもなく,それが直接的直観 に属さない,ということだけを我々が知っている普遍者である。」(XW,119 f)思惟とほ,他者からはじまり,他者を貫通し,この運動のなかで他者を普 遍者へと変えることによって,媒介された運動として,完成する。しかし,こ

こで,思惟が対象にもつのは,規定されていない,たんなる普遍的なものにす ぎない。すなわち,「思惟自身であるところの規定,内容」(XW,120)をも つにすぎない。この場合,思惟はまさに直接的であり,抽象的に自己自身のも

とに(bei sich selbst)ある。ヘーゲルは,この抽象的,直接的な思惟をたと えて,光るが,光以外に何の内容ももたない光といっている。このようにして,

「神についての知は,私は神を思惟するということ以外のなにもいわない。」

(XVI,120)

以上,「知る」ということは何かについて見てきた。神について知るとは,

神を思惟するということであったが,それでは,この思惟の内容である神,こ の思惟の産物はは存在するのであろうか。ヘーゲルは「神は,ただ思惟される のではなくて,神は存在する。神は単に普遍者の規定なのではない。」(XW,

120)という。かくして,つぎには「神が存在する」という規定が検討される。

「神が存在する」という規定において,「存在」とはなにか。ヘーゲルは,

『論理学』において探求した「存在とはなにか」という問題をもちだす。「存在

とは,その空虚な抽象的な意味においてとらえられた普遍性であり,自己自身

への純粋な関係である。そして外へ向かっても内へ向かっても,それ以上の反

作用はない。」(XVI,120)ここで言われる存在は,『論理学』において,「純

粋存在(あるいは純粋有)とよばれているものであり,無規定な単純な直接態

であり,もっとも抽象的な意味での「存在」である。それは自己自身への関係

(9)

であるとともに,他者への関係をもち,特殊者を貫通するという普遍性ではな く,すべての相対的関係を遠ざけ,いかなる具体的関係をももたない抽象的普 遍性である。ヘーゲルの意味での普遍者は,本来的には特殊者自身のなかにあっ て,特殊者として働くものであり,媒介されたものである。その意味において,

抽象的でもなく,直接的でもない。具体的で,媒介されている。これに反して,

ここでの抽象的,直接的な存在は,特殊者を遠ざけ,自己自身へ閉じ込もるの であるから,生きた関係ではなくなる。「普遍者は存在すると私が言うとき,

私はその乾いた,純粋な,抽象的な自己自身への関係を,存在であるところの ひからびた直接性について述べているにすぎない。」(XW,121)このような

「論理学」の出発点であった存在は,直接的であるがゆえに,媒介された物の 豊かさをもつことはない。ヘーゲルにいわせると,「もっとも空虚な,もっと も貧弱な規定である。」(XW,121)ところで,このような意味での抽象的普 遍者は,具体的普遍者と別のものではなく,具体的普遍者の一つの契機であり,

その中に含まれている。

「知とは思惟であり,思惟とは普遍者であり,抽象的普遍者の規定,すなわ ち存在の直接性を含んでいる。これが直接知の意味である。」(XW,121)

直接知の命題を,ヘーゲルにしたがって,「神が存在する」という命題と,

「われわれが直接的に知る」という命題に分けて考察したのであるが,いま,

ここで,前者「神が存在する」は,後者「われわれが直接的に知る」という命 題にふくまれているということを知った。ここで問題とされている「存在」と は,純粋有であり,一切の事物を包含したもっとも抽象的な普遍者である。一 切のものは,その意味で「ある」のである。ところで,このような意味での抽 象的普遍とは,ヘーゲルが「宗教の概念」においていうところの,神の即自的 概念である。そこでは,「宗教の概念における第一のものは,それ自身ふたた び純粋に普遍的なもの,その完全な普遍性における思惟の契機である。これや あれやが思惟されるのではなくて,思惟が自己自身を思惟する。対象は活動す るものとしての思惟である普遍者である。」(XW,67)といわれる。第一のも のとは「神」であり,「思惟が自己自身を思惟する」という言葉は,直接知に おける「知る」ことの意味であった。「神とは,この非常によく知られた表象 であるが,しかし,学問的にまだ発展していないし,認識されていない表象で ある。」(XVI,92)そして,直接知でも見たように,「そのなかには,すべて の区別がなお不在であり,廃棄されている。」(XM,68)この抽象的普遍者と

(10)

しての神が,具体者として,内容的に,豊かなものとして発展していくことに なるのであるが,「この内容く即自的な神〉はさらに発展して行くけれども,

我々は同時にこのく抽象的〉普遍性から歩みでることはない。したがって,普 遍性は,一定の発展へと進行するとともに,形式上は,一面においては棄てら れるが,しかし,絶対的,持続的な基礎として維持されるのであり,単なる主 観的な始めとして取られるべきではないのである。」(XW,93)この即自的な 神においていわれていることは,直接知において「知る」神においても同様で ある。したがって,発展する神の概念において,絶対的な,持続的な基礎とし てある存在である神が,直接知の神なのである。

ところで,直接知においては,「普遍者が存在するということ以外のなにも,

私はまだ知らない。」(XW,121)神がいかなる内容を持つかは,直接知にお いてはまだ与えられていない。ヘーゲルにしたがえば,「神は認識できない」

という啓蒙の立場は,この神についての直接知の段階にとどまっているのだと いうことになる。しかし,ヘーゲルは,この直接知をさらに分析する。「しか し,さらにいえば,神は私の意識の対象であり,私は神を私から区別する。す なわち,神は私の他者であり,私は神の他者である。」(X〜i,121)直接知は 神の存在そのものを含んでいたが,その直接的意識において,神は私の意識の 対象であり,私の他者である。神は私以外の他者であって,対自的に存在する。

ヘーゲルは,壁の例を挙げて説明しているが,「壁は存在し,一つの事物であ る。事物は普遍者である。神についても,私はそれだけのことは知っている。」

(XW,122)すなわち,ここではすべての規定性は捨象されているので,壁の 例でいえば,それが事物であると同時に壁であるという内容的な,特殊的規定

にはまだ入らず,事物であると言う普遍者にとどまり,それが存在するとしか いえない。すなわち,神は私の他者であり,対自的に存在するが,しかし,そ こでは普遍者は存在するとしかいえない。いかなる内容規定にも入らないので

ある。

一方,「この存在の直接性は,また自我にも属する。」(XW,122)「私は,

対象く神〉を表象し,対象く神〉を信じる。しかし,この信じられたものく神

〉は私の意識内においてのみの存在である。」(XW,122)私の直接知の対象

は,私がその対象から存在を取り去ることのできるような性質をもっているの

である。私と対象(神)は区別されており,二つであって,一つではない。そ

して,さらに,ここでの存在においては他者に属さない規定が一者に帰せられ

(11)

なければならない。したがって,「私は存在する,それゆえに,他者,すなわ ち対象は存在しない。」(XW,122)ということになる。神は私の対象として,

対自的に存在するといわれたが,しかし,神の存在は対象の存在にすぎないの であり,したがって,神は対象として,「知られた存在」(XW,122)にすぎ ない。神は即自対自的には存在をもたない,意識のうちにおいてのみ神は存在 を得るのである。したがって,「自我のみが存在し,対象(神)は存在しない。」

(XM,122)思惟するものとして自我は,いかなる意味においても,その存在 を疑うことはできない。自我の中にすでに存在は含まれている。「私は自己自 身への直接的な関係であり,自我のなかに存在はある。」(XM,123)「神が存 在する」という命題は,直接知そのものに含まれていることをさきに明らかに

したが,にもかかわらず,反省においては,私と神はお互いに他者であり,神 は私の直接的意識の対象として,私からは区別されて,対自的に存在するので あり,しかも,さきにかえって,自我において,自我が神の存在を自分自身へ と引き受ける意味において,神の存在を自我の中に含むのである。

ご 一

「我々はこの知(Wissen)の根拠を問わなければならない。我々は我々の なかにおいてのみ知る(wissen)。そこで,知は主観的なものでしかない。し たがって,根拠が,神の存在の場所が問われ,神は感1青のなかにあるといわれ る。」(XW,118)直接知においては,神は,この「私」のなかに含まれてい る。したがって「普遍者く神〉が,存在者のとしての私のうちに,私から分か ち難くある場所。」(XW,123)が示されなければならない。「この場所は感情 である。」(XW,123)とヘーゲルはいう。直接知は感情においてのみ具体化

されるのである。

ヘーゲルは,感情の考察の出発点として,「神への信仰は宗教的感情のなか に与えられる。感情は,神が存在することが我々に端的に確実であるもっとも 内的な地盤iである。」(XW,123)という一般的,常識的見解を肯定する。こ の感情における神についての意識は,単なる意識とはちがっており,「確実性

(Gewissheit)」(XW,115)であるとヘーゲルはいう。そして,ヘーゲルは,

この確実性をよりくわしく「信仰のなかにあるかぎりでのこの直接性」「神に ついてのこの知が感情であり,感情のなかにあるかぎりでのこの直接性」(X VI, ll5)といっている。すなわち,宗教的感情における神についての意識は,

まず,直接的確実性の意識であり,これをヘーゲルは「信仰」(XVI,115)と

(12)

も呼んでいるのである。それでは,この直接的確実性の意識とはいかなるもの かをみてみよう。

まず,「確実性」の意識について,ヘーゲルはつぎのように二つの面から分 析する。まず第一に,神の確実性とは神が我々にとって対象であるという一般 的な意識ではなく,「このく神という〉内容が存在する」(X〜旺,115)という 意識である。夢や幻想においては,我々は表象をもっていても,表象の対象は 存在しない。しかし,神の意識においては,その内容(である神)はわれわれ の表象であると同時に存在する。神はこの内容自身のなかにあり,私のぞとに,

私とは独立に存在する。第二に,この確実性においては,この意識内容である 神は,私とは離れがたく結びついている。そこで,神は,独立していると同時

に,また,私からは分離されていない。そこで,「〈神の〉確実性とは,内容

〈である神〉と私の直接的関係である」(XW,115)ということになる。この 直接的関係についてヘーゲルは,「この外的存在く神〉の確実性と私の確実性

とは一つのく同一の〉確実性である。それは,私がこの存在く神〉を廃棄する ならば,私は私の存在を廃棄することになるだろうし,私についても知らない ことになる。」(XVI, ll6)という。この関係においては,神と私の確実性は,

私において直接的に結びついているのであり,統一しているのである。

このことについて,ヘーゲルは「存在とは抽象的な自己関係である。いま二 つの存在者がある。しかし,それらはただ一つの存在者であり,そして,この 分離されない存在は私の存在である。これが確実性である。」(X〜贋,123)と いっている。さきに,直接知において,神は私から独立した存在であると同時 に,神の存在の直接性は私の内にのみあることが明らかにされた。この確実1生 についてのべられていることも,その内容からみると同一である。直接知にお いて,神の存在は私とは区別されながらも,私の存在であるという反省が現れ,

ここで「私が自分のものとするこの存在のなかに,対象(神)もまた存在する という要求」(XW,124)が生ずる。この要求が感情であるとヘーゲルはいう。

直接知は,感情において具体化され,はじめて現実のものとなるのであるが,

その直接知の現実化された意識が,確実性とよばれるのである。ヘーゲルは,

感情を二つの規定に分けたが,このように見るならば,第一の規定である直接 知は,第二の規定の感1青に含まれるのであり,その契機として考えられている のである。かくして,直接知は感情において根拠ずけられるのである。

それではさらに,感情のなかにおいて,どのようにして二つのものが一つに

(13)

なり,また,宗教的なものへと移っていくのであるかをみてみよう。ここでヘー ゲルがまず挙げるのは固さの例である。「私が固さを感ずる」というとき,私

とあるものの二者がある。私の感情のなかに固さがあり,対象もまた固い。こ の場合,対象が私に触れ,そして私は対象の規定性によって充たされている。

両者に共通なものである固さは感情のなかにある。「私が私と対象というとき,

    幽

ワだ両者は対自的である。感情においてはじめて二重の存在は消える。対象の 規定性は私のものとなり,しかも,客体にたいする反省がはじめまったく欠落 するほど,私のものとなる。」(XW,124)この感情は,他者(対象)が自立

している限り,感じられも,味わわれもしない感1青である。神も私のものであ る,この存在の中に存在すべきであるという感情の要求のなかに,はじめて二 重の存在は消えるのである。

ところで,感晴において区別は消滅し,対象の規定性は私のものになったが,

ここで自我と対象の区別は完全に消滅してしまったのではない。この区別は即 自的に感情のなかに含まれているのである。「一方において,自我,普遍者,

主体,この澄んだ,純粋な流動性,この直接的な自己内反省は,他者によって 曇らされる。しかし,〈他方〉この他者において,私は,私自身を完全に自分

自身において維持している。私には異種な〈他者の〉規定は,私の普遍性にお いて流動的となり,そして私にとって他者であるところのものを,私は私のも のにする。」(X〜π,124)ヘーゲルは,感情における私,自我を流動性として

とらえる。そして,感情の内容である他者を,この流動性の純粋性を曇らすも のとする。そして,この他者の規定は,流動性としての感情のなかの自我の純 粋性を,曇らしはするが,しかし,この自我のなかで,かえって他者自身が流 動的となるのである。生命のないものへ他の性質が定立されるならば,この生 命のないものはその入ってきた性質を得ることになる。しかし,感情において 感ずる者としての私は,私の中へ押し入ってくる他者のなかで私を維持し,自 我という規定性にとどまる,とヘーゲルはいっている。ここでは,かえって押

し入ってきた他者が,自我の普遍者としての流動性のなかで流動的となるので ある。したがって,感情のもつ区別は,自我における「私の純粋な流動性にお ける私と私の規定性における私」(XW,124)の内的な区別である。すなわち,

私は純粋な自己関係にあるとともに,他者によって規定された私であるが,し かし,それは即自的な関係であるために表面には現れない。

この即自的な区別に反省が入ると,区別は区別そのものとして定立される。

(14)

私の規定性は,他者として私に対立する。自我としての主観は,客観との関係 において対自的となる。しかし,自我が客観にたいする主観としてあるという この分裂は,まさに一つの関係であって,同時にこの区別から区別されたとこ ろの同一性であり,区別のなかの同一という意味で,ここに普遍性がはじまる。

しかし,このように私が他者に関係し,他者を対象として区別して,同一性を 含むところの区別として関係するのは,直観,表象の段階においてであって,

感情においては,このような対象との関係は,まだない。ヘーゲルは,直観,

表象の客体にたいして,私は主観的であるとはじめていえるのであり,感情に おいては主観性と客観性との区別はまだ現れていないから,感情を主観的と呼 ぶことはできないといっている。「感情そのものにおいては,自我はこの直接 的な単純な統一性においてある。すなわち,規定性をもって充たされている。

そして,この規定性をなお超えていない。」(XW,123)一方,われわれは感 情においては,経験的な立場にある。「しかし,感情において規定された私は,

感情のなかで直接的にふるまう。私はこの個別的経験的自我として,感情のな かにある。そして,〈感情のなかで規定されているという〉規定性は,この経 験的自己意識に属する。」(XW,124)感情のなかで規定されている私は個別 的,経験的な自我として,直接的に振る舞う。ということは,上記のように,

他者を対象として区別すると同時に同一性においてとらえるという意味の普遍 性をもたず,感じる者としてまったく特殊者として,規定性のなかに埋まって いるということである。ヘーゲルは,そこで,このような意味で,感情は,客 観性をも普遍性をも欠いた「本来の意味において単に主観的」(XVI,125)な

ものであるといったのである。

「普遍者の無限的思惟としての規定性とまったく経験的な主観性としての私 は,私の内なる感情のなかで統合されている。私は両者の戦いの直接的統一で あり,解消である。」(XW,125)経験的自己については,いまみてきたので あるが,宗教的関係における,経験的自己と無限的自己の統合とはいかなる意 味のものであろうか。ヘーゲルは,宗教を神と主観との関係としてとらえた。

そこでは,普遍者に対立する主観は,経験的自己であり,欲求,罪悪などをもっ た直接性としての主観である。このときの主観とは,絶対的なものへ高まろう とする端的に無限な意識・存在であると同時に,欲求に規定された有限な意識・

存在である。したがって,このような宗教としての関係が,感情のなかでどの

ように統合されるのかというのが,ここの問題となろう。

(15)

「私は,この経験的主体として規定されている私を見いだし,反対にまった く他の領域へ高められるものとして規定された私を見いだし,そして一方から 他方へのあちこちへの移行と,両者の関係を感ずる。」(XW 125)先述した ように,ある時は私は私の経験的,有限的意識に重点をおき無限性に対立する。

またある時は,経験的意識としての私を私から排除し,そして無限な意識に重

、ら・をあたえる。私はこの一致と矛盾の感情であり,関係として,この抗争する ものの結合への努力であり,この対立の主人となろうとする心情の活動である。

したがって,私は戦っている両者の一人ではなく,戦っている両者であるとい われた。ここで,「私は両者の戦いの直接的統一であり,解消である」といわ れるゆえんがあるのである。しかし,この戦いのなかで,宗教的関係としての 自我は,反省へと移行する。すなわち,一方から他方への移行と関係のなかで,

「まさに,この点において,私は私自身に対立する私を見いだす,あるいは,

私から区別されて規定されている私を見いだす。すなわち,この感情自身のな かで,私は,その内容によって,対立のなかへ,反省へ,主観と客観の区別へ と駆り立てられる。」(XVI,125)これは,宗教的感情のみならず人間の感情 一般に固有なことであるとヘーゲルはいっているが,さきに,感情においては 主観性と客観性の区別はなお現れていない,というとともに,「感情のもつ区 別は,まず,自我自身における内的な区別である。私の純粋な流動性における 私と私の規定性における私との間の区別である」(XV[,124)といっているの で,ここでいわれる対立も,感情から直観表象へと移行する契機となる反省 ではなく,感情自身の内部における反省と考えるべきであろう。ヘーゲルはこ の感情内部の反省において,宗教的感情における反省に固有な面をとり出して くる。他の感晴においては,反省へと駆り立てるものは,事柄の内的必然性だ けである。すなわち,事柄の規定性とぶつかり,それと自分自身を区別すると いう必然性のみである。「それにたいして,宗教的感晴は,その内容のなかに,

すなわち規定性自身のなかに,〈両者の対立という〉必然性をふくむのみなら ず,対立自身の現実性とそれとともに反省をふくむ。」(XVI,126)他の感情

との違いは,宗教的感情においては対立が現実にあるということである。「普 遍者,すなわち,即自対自的に存在する思惟は,私の特殊的,経験的存在の否 定である。この特殊的,経験的存在は,普遍者のなかにのみ自己の真理をもち,

それ自身としては,無価値な(nichtig)ものとして現れる。」(X〜q,126)の

である。普遍者は私の特殊的存在の否定者である。私は経験的存在の契機を感

(16)

じるとき,普遍者の側面を,すなわち,否定の側面を,私の外にある規定性と して感ずる。一一方,普遍者の側面にあるときには,経験的存在としての私は私 から疎外されている。このようにして「おたがいに求めあい,にげ合う」とい う,現実の対立を自我の内に含んだ関係である。

「宗教的感情は,したがって,それらく経験的意識と普遍的思惟〉の対立の 規定性と,それらの一致と満足の規定性のあいだに浮動している。そして私が,

その時,まさにもっている関心の特殊な様式にしたがって,さらに私の主観性 と普遍者との関係がどのように規定されるかに応じて,宗教的感1青は区分され る。」(XVI,126 f)宗教的感情は対立と一致のあいだを浮動しているという。

前者においては「最高度の緊張と敵意」,後者においては「最高度の合一」(X VI,127)脅両極として,そのあいだをそのときどきの特殊性におうじて,求 め合い逃げ合う。対立の規定性においては,普遍者が実体であり,それにたい

して,経験的意識は自己を感じると同時に自己の空しさを感じ,にもかかわら ず,自己の存在を肯定して自己があるところのものへとどまろうとする。そこ に「恐怖の感情」(XW,127)が生ずる。絶対的なものにたいして自己を空し く,無として感じながら,なお,自己の欲望を維持しようとする,そのような 自分にたいして,恐ろしいと思う。自己の内的な心情において自己を無である と感じ,普遍者の側にたって,その心情を呪うとき,「悔恨の感情,自己自身 についての苦痛の感情」(X〜贋,127)がおこる。また,自己活動によってでは なく,自己の力のぞとにある,即自対自的な普遍者の権力によって庇護iされて いるのを感じるときには,「感謝の感情」(XVI,127)が生ずる。私の自己意 識と普遍者の高次な合一は,普遍者と同一であるという確信,感1青をともなう が,これが「愛,至福」(XW,127)である。

以上,ヘーゲルは,宗教的感情が,感情として感情一般と同じようにはたら くとともに,一方,宗教的感情独自の感情をもつことを明らかにした。宗教的 感情のなかでは,普遍者と経験的自己としての私は現実の対立のなかにある。

普遍者は経験的自己を無価値なものとして否定する。この場合,経験的自己に

とっては,普遍者は私の外にある,私に疎遠な否定者である。一方,私は,こ

の対立を解消し,統一する努力である。この場合は,私は普遍者の側面に立っ

て,経験的自我としての私を疎外する。このようにして,宗教的感情は「緊張

と敵意」,そして「合一」の間を浮動するのである。

(17)

「しかし,感情が反省へとこのように進展し,自我とその規定性が区別され,

したがって,この規定性が内容・対象として現れると,感1青には,それ自身で あることが,すでに内容の正当化であり,その存在あるいは真理性の証明であ るという位置が与えられる。」(X〜q,127)宗教的感情についていうならば,

絶対者によって規定された私は,絶対者との対立,あるいは合一という規定性 にあるが,この規定性は,感情の内容となる。それらの内容とは,恐怖であり,

悔恨であり,至福であり,愛である。この引用においてヘーゲルがいっている ことは,このような感情の内容は,感1青の内容であるそのことによって,自ら を正当化し,自らの存在を証(あかし)しているのである。すなわち,恐怖と いう感情は,すでにその感1青であることによって,自己の存在の正当性を証明

しているということである。それでは感情は,どの様な内容をもちうるのであ ろうか。ヘーゲルは「感情はもっとも偶然的な内容をもつというのがく我々の

〉経験である。それはもっとも真実なものでもありうるし,もっとも無価値な ものでもありうる。もし,神が感1青のなかにあるのならば,もっとも無価値な ものにも勝るところはない。」(XW,128)われわれは,正・不正・神・色・

憎しみ・敵意・喜びなど,多種多様の感情をもっている。感情のなかではもっ とも卑劣なものと,もっとも高貴なものというように,おたがいに矛盾する内 容がともに見いだされる。このような意味で,感情の内容は偶然的である。し

たがって,ある内容が感情のなかにあるという理由で,その内容が優れている ということにはならない。また,存在するものだけが感情の内容になるわけで はない。でっち上げられたもの,偽りのものも同じように内容となる。すべて の善,すべての悪,すべての現実的なもの,すべての非現実的なもの,すべて の相対立するものが,感清のなかにある。感情のなかでは,いろいろの対象に ついてあらゆる想像をすることができる。もっとも詰まらぬものに,また,かっ て存在したこともない,今後存在しないだろうようなことにも感激することが できる。したがって,内容一般が感情のなかにあるというだけでは,感情の価 値は定まらないのである。私の感1青が真であるかどうか,善であるかどうかは,

もっぱらその内容いかんによっている。かくて「感i青はすべての可能的内容に

たいする形式であり,…  内容は,感情のなかでは即自対自的に規定されて

いない,すなわち普遍者によっても,概念によっても定立されていないという

形式をもつ。」(XW,128f)したがって,内容はその本質において特殊者で

(18)

あり,制限されたものであり,私の感情のなかにある内容が特にこのなにもの かである必要はない。したがって,神の存在が感情のなかで証明されたとして も,それは偶然的なことである。ヘーゲルは,このような感情のはたらきにつ いて,「われわれは,それを主観性と呼ぶが,しかし,もっとも劣った意味で いうのであり,ここでは主観性は偶然性を意味するにすぎない」(XVI,129)

といっている。

感情においては,われわれはあらゆる内容をもつことができる。したがって,

感情が真であるか,善であるかということは,その内容が真であるかどうかと いうことにかかってくる。感情は内容をまったく偶然的なものとして定立する 形式である。神の存在が感情のなかで証明された場合,内容そのものは真であ るかもしれない。したがって,その場合,感情も真であるだろう。しかし,そ の感清自身は偶然なものにすぎないのである。別の内容がそこに来てもよかっ たのである。このようにして感情は偶然的なものであるがゆえに,さらには,

ひととひとを結ぶ共通な(gemein)ものを奪い取ってしまう。思想や概念の 立場に立つ場合は,事柄の本性を認識するのであるからわれわれは事柄に服し,

事柄はわれわれにとって共通なものになる。したがって,われわれはこの事柄 について理解することができる。しかし,感情の領域においては,人々は偶然 的であり,特殊的であるから,事柄は各人の特殊的な事柄となってしまう。

「根拠がなくなると,われわれはしばしば自分の感情を引き合いにだす。この ような人間は見捨ててしまわざるをえない。というのは,自分の感情に訴える と,われわれのあいだの共同性(Gemeinschaft)が壊されるからである。」

(XV【,12♀)感情は,人間が動物と共通にもっているものであり,動物的,感 性的形式である。したがって,そこで神が何であるかを感情において示すのは,

神が,そこで証明されるべき仕方としては,もっとも劣悪な仕方である,とい うのが,ヘーゲルの感情に下す判決である。ヘーゲルにとっては,人間だけが 宗教をもつのであり,したがって,神は人間だけのなしうる思惟のなかにのみ

あるのである。

感情の内容はさまざまであり,感情が真であるかどうかは,その内容にもっ ばら依っていた。ヘーゲルは,「人間において思想を地盤とする一切のものは,

感情の形式へ移されることができる。」(XW,130)という。人間を動物と区

別し精神とする高次の規定,たとえば法,自由,人倫といった事柄についての

感情を,我々はもつことができる。したがって,法や自由についての感情とは,

(19)

法や自由についての思想が,感情の形式へ移されたものとなる。しかし,感 情は,この場合の内容(思想としての法,自由,人倫)にたいする形式にすぎ ない。内容は,感情とはまったく異なる思想という地盤にあり,この感情が真 であるといわれるのは,その内容に依るのであって,感情の功績ではないので ある。「教養ある人間は法について神について真の感情をもつことができる。

しかし,このことは感情からくるのではなくて,思想の教養に負わなければな らない。思想によって表象の内容ははじめて存在し,かくて感情が現存する。」

(XW,130)思想を地盤とする内容をもつ感情こそ,ヘーゲルによって,真の 内容をもつ感清といわれるのである。

「真の内容は,我々の感情のなかに存在しうるのみならず,また,存在すべ きであり,存在しなければならない。すなわち,人は心胸(Herz)に神をも たなければならないといつもいわれてきたように。」(XW,130)真の内容は,

感情のなかに存在すべきであり,それをもつにふさわしい感情を,ヘーゲルは 心胸と呼ぶのである。「心胸はすでに感情以上のものである。」ともヘーゲルは いう。感情は一瞬のものであり,偶然的で,はかないものである。それにたい

して,心胸というときには,感情は「私の存在の継続的,固定的な様式」(X VI,130)としていいあらわされている。心胸とは,感情ではあるが,瞬間的 にあるものではなく,普遍的なものにおいてあり,私の性格であるともヘーゲ ルはいう。「普遍者としての感情の形式はそのとき,私の存在の諸原則,ある いは習慣であり,私の行動様式の確固たる仕方である。」(XVI,130)ここで,

普遍者としての感情の形式と呼んでいるのは,心胸のことである。心胸とは,

普遍者によって触れられた個別者の感情のことであり,この普遍者を感ずる

「純粋な内面的な感情」である。この場合,個別者は自己を普遍的であると感 じているのである(41。ところで,心胸は,聖書において明らかにされているよ うに,悪の座でもある。それは,自己の我欲を主張する自然的特殊性を有して いる。つまるところ,心胸とは形式,容器にすぎない。感情の真の内容は心胸 にあるべきであるといっても,心胸そのものが真であるといっているのではな い。心胸は,普遍者としての形式をもっているが,それは無媒介的な直接的形 式であって,それ故に,特殊的な立場へと容易に転化する。それ故に,普遍性

をもつといっても,直接的感情としてもつにすぎない。それでは,なにゆえに,

心胸に神をもつべきなのであろうか。「このようにして,神,法などもまた,

私の感情のなかに,私の心胸においてあるべきであるといわれるならば,そこ

(20)

では,それらは私によって単に表象されたものにとどまらず,私と分かれ難く 同一であるべきである,ということのみが表現されているのである。」(XVI,

130f)先にみたように,感1青のなかで,私と私の対象は一つに結びついて,

私のものとなった。二つのものは一つとなった。この文章ではヘーゲルは,神 は,主観としての私にたいして,客観ではないということを主張しているので ある。神はあくまでも私の対象ではなくて,私とわかち難く同一であらねばな らない。このことこそ,感情のなかに,すなわち対象を自分のものとする感晴 のなかに真の内容があるべきであるということの意味なのである。さらに,よ り内容にふさわしい形では,それが心胸のなかにあるべきといわれるのである。

「そこで宗教は心胸のなかへもちこまれるべきであり,そうであるからこそ 個人は宗教的に陶冶されるべきであるということが必然的なのである。」(XW,

131)感情,あるいは心胸のなかにおいてこそ,神は私のなかにあって,わか ち難く同一である。その意味で,宗教は心胸においておのれの座を占めること になる。さらに,ヘーゲルは,心胸において神をもつためには,宗教的に陶冶 されることが必要であるという。この問題を考えてみよう。ヘーゲルは,いま の文章につづけていっている。「心胸,感情は,純化され,陶冶されなければ ならない。ここで陶冶するとは,他者である,より高いものが真実であり,真 実になるということを意味する」(XVI,131)と。個人が宗教的に陶冶される べきであるということは,心胸,感情が宗教にふさわしく純化され,陶冶され

るべきであるということであり,そして,陶冶するということは,感情以外の より高いものによって,感情自らがより高くなるということである。「陶冶さ れた表象と認識は,感情と感覚を排除しない。反対に,感情は表象によって育 てられ,持続的となり,そして表象において,ふたたび新たにされ,点火され る。」(XW,131)ここで陶冶された表象とは,神や法についての陶冶された 表象であると考えることができる。これらの陶冶された表象や認識は感情の形 式へと移され,感情に養分をあたえ,感情を陶冶する。「人間は,精神として,

…  感情において同時に本質的に知る(wissen)のであり,意識である。」

(XVI,132)ただ感情においてのみある,感情に溺れるという状態ではなくて,

感情のなかにおいても人間は自己の規定性から自己を区別することによって,

感情のなかから自己をとりもどし,自己を知ることができるのである。「した がって,宗教が,ただ感1青としてのみあるべきであるならば,それは表象なき

もの,行為なきものへと徐々に消えゆくのであり,すべての規定的内容を失う。」

(21)

(X〜圧,132)宗教にふさわしく,感情を純化し,陶冶するということは,以 上のように,宗教にふさわしい表象によって,感情が,意識として,知へと高 められることをいうのである。いいかえるならば,我々は,神についてなにも 知らないならば,神が感情のなかにあるということもいえないのであって,ま ず,我々は,神についての諸規定を,意識のなかで,感情とは別の思惟の領域 において求め,そのあとで,それらの規定を感情の中に再び見いだす限りにお いて,この感情を宗教的ということができるのである。

以上のようにして,ヘーゲルは真の宗教的内容にふさわしい感1青を心胸と呼 んだのである。しかし,「心胸とは,そのような内容が主体において現れる最 初の様式であり,その最初の場所であり,座である。」(XW,132)また,心 胸のなかには,その全内容が即自的に存在はするが,しかし,内容そのものが 感情そのものに属するわけではない。たとえば,神は内容そのものとしては,

即自対自的に普遍的な内容であり,このような内容が,把握され,生み出され る地盤は,思惟である。感情は神の存在が直接的に示される場所であったが,

しかし,そこには我々の求める,自由な,即自対自的な存在としての神には出 会わなかった。「感情が真であり,真正な性質をもっているべきであるなら,

その内容によってそうでなければならない。感情そのものは,内容が真の性質 をもっているというようにはしない。」(XW,134)上にみたように,感情に よってとらえられた神が,さらに思惟によって概念へと発展し,ふたたび,感 情の形式へと移され,感情を陶冶するということに,ヘーゲルは意味を認めた が,しかし,感情はあくまでも受動的な役割しか果たさないのである。

ヘーゲルは,さらに,だめ押しを感情に加える。「感情はなにかある内容の 感1青であるとともに,同時に自己感情である。かくて感情においては,我々は 同時に我々を享受する,いいかえれば,事柄についての我々の充足を享受する。

感情においては,人間は自己の特殊性(Partikularitat)と面と向かって立つ

から,感情は非常に好まれるのである。」(XW,134)学問とか,なにか実践

的な事柄のなかで,自分を忘れて没頭している人間は,自分自身のことを思い

めぐらす意味での感情はもたない。彼らにとっては,自己の特殊性は最小限し

かもっていない。それにたいして,自己自身以外の何物をも愛さず大事にしな

い,虚栄心に満ち,うぬぼれた人間は,自己固有な感情にこだわるから,客観

的な行動や思惟に達しないのである。「感情のみにこだわる人間はまだ完成し

ておらず,知と行為における初心者にすぎない。」(XVI,134)

(22)

いま,「感情においては,我々はその自立的存在にしたがっても,内容の上 でも,神をみいださなかった。」(XW,134)とヘーゲルは結論する。したがっ て,「直接知においては,対象は存在せず,対象の存在は,知る主体に属した。

そして主体は感情のなかにこの存在の根拠を見いだしたのである。」(XW,

134f)

以上,感情が宗教においてはたす役割を,ヘーゲルにしたがって,直接知と 感情に分けてみてきた。まず,直接知であるが,この直接知の考え方が,近代 になって,哲学と宗教をむずびつけた,とヘーゲルは考えている。先に示した ように,哲学の内容,関心は宗教のそれと共通であるが,両者は神への関心の 持ち方に各々固有の性格をもっていたのであり,そこに哲学と宗教とが古来か

ら敵対してきた原因がある。しかし,近代の神学が主張する「神が人間のなか に直接に啓示され,宗教とはまさに人間が直接に神について知ることであると いうく時代の〉確信」(XVI,49)は,そのまま哲学自身が哲学の根本的規定 として認めることができるとヘーゲルは考える。神学にとどまらず,時代の一 般的考え方も,「もっとも高い,すなわち宗教的内容は,精神自身のなかで,

現れる。」(XW,50)という立場であり,この立場は,「神についての意識は,

精神そのもののなかに精神自身の意識とともにある。」(XW,49)ということ であり,それは,さきにみたヘーゲルの直接知の考え方に等しい。

「知は直接的に私自身のなかにあるということ,このことをもって,すべて の外的権威,すべての異種の認証はとおくへ投げ捨てられた。私に妥当すべき ことは,私の精神のなかにその確証をもっていなくてはならず,そして私が信 ずるということには私の精神の証(あかし)が必要である。」(XW,50)神 についての知は,まさに直接に自分自身の意識にのみあるのであり,信仰には,

自分自身の精神の証以外のなにものも必要でないということこそ,教会や諸々 の神学といった外的権威を不必要なものにする。「ルターの宗教改革が信仰を はじめの数世紀にもどしたように,直接知の原理はキリスト教の認識を最初の 境地へもどした。」(XW,53f)とヘーゲルがいうように,直接知の原理は,

ルターの「信仰のみ」の思想と同じように,宗教を直接的に主体と神を結ぶ関 係として定立するのである。そして,それは思惟において神を認識する哲学の 立場でもある。

ところで,知の直接性は,神があることのみを知ることができるのであって,

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