田 原 善 郎
宗教において感情の果たす役割とはいかなるものであろうか。デカルトは,
周知のように,理性による神の存在証明を根拠として,神の実在を論証したの であるが,パスカルは,「パンセ」のなかで,このデカルトを指さして,「無益 にして不確実なデカルトω」といっている。パスカルにとっては,「神を感ずる のは心情であって,理性ではない②」。また,近くには,宗教において感情の役 割をみとめず,「理性的信仰」を主張したカントがある。ヘーゲル(G.W.F.
Hege1,1770−1831)は,若きベルン時代の遺稿「イエスの生涯」(das Leben Jesus,1783)において,カントの影響のもとに,イエスの教えを理性的信仰 の立場にたって論じているが,フランクフルト時代には,すでに,カントの立 場を去り,イエスの宗教を愛の宗教として考えている。宗教を感情の立場にたっ
て考えるか,理性の立場にたって考えるか,二つの極のあいだを行き来しなが ら,ヘーゲルは,宗教への哲学的思索を深めてゆく。ヘーゲルが宗教における 感情の役割をいかに考えたか,この問題を追求する一つのよすがとして,拙論 では,体系としての宗教哲学のなかで,ヘーゲルが感情をいかに位置ずけたか をみてみたい。ヘーゲルが宗教哲学を体系化したのは晩年に近く,それは,べ ルリン時代の1821年から1831年まで,4回にわたった宗教哲学の講義において である。この宗教哲学の講義の草稿や聴講者のノートをもとにして編纂,出版 されたいくつかの『宗教哲学講義』があるが,ここでは,主としてSuhrkamp 版を参照しながら論じたい。
一
ヘーゲルの哲学的思索を終生貫いていたのは,周知のように,宗教の問題で あった。しかし,ヘーゲルにあっては,哲学はすなわち宗教哲学なのではなく,
哲学と宗教哲学とは区別されている。また,当然のことながら,宗教と宗教哲 学をもヘーゲルは区別する。ここでは,まず,本論に入る前に,哲学と宗教,
哲学と宗教哲学,宗教と宗教哲学とがどのように区別されているか,その区別
の意味はなにかを見ながら,宗教哲学がヘーゲル哲学においていかなる構造的 位置をもっているかをみてみよう。
ヘーゲルは宗教と哲学の関係を述べて,「宗教と哲学は合一する。哲学はそ れ自身神への礼拝であり,宗教である。」(XVI,28)といっている。哲学は現 世的な知恵や生活の認識ではなく,永遠なるもの,神があるところのものの認 識である。一方,宗教の対象も神であり,神の解明である。その意味では,ヘー ゲルは宗教と哲学は一つであると考えていたのである。しかし,ヘーゲルは,
「哲学は固有な様式で,宗教そのものと呼ばれている様式からは区別されてい る。」(XW,28)という。宗教と哲学はその内容は同一であるが,様式におい ては異なると考えているのである。それでは,両者の様式上の違いとはいかな るものであろうか。哲学と宗教の違いは,哲学が理念において,思想において,
神を認識しようとするのにたいして,宗教は直観において,表象において,神 を認識しようとする点にある。「思想において真なるものとは具体的なもので あり,自己自身のなかで分裂して定立されており,分裂の両面は対立した思惟 規定であり,その統一として理念がとらえられなければならない。」(XW,30)
とヘーゲルがいうように,神を思弁的に「区別の統一」(X〜圧,30)としてと らえるのが哲学の役割である。ところで,ヘーゲル哲学の特色は,本質をその 現象形態からみようとするところにあるのであり,したがって,純粋思想であ
る論理は自然,精神というその現象形態からのみ把握される。また,神は世界 からのみ把握されなければならないのである。すなわち,神がすべての存在の 根本的本質であるにしても,それは可能的本質であるにすぎず,それが自然,
精神においてはじめて現実的となるのである。このことは,また,哲学とは,
永遠なる神を認識することではあるが,その現象形態である自然,精神を,区 別の統一としてとらえることによって,その究極の根元である神に迫るという
ことである。
一方,「宗教とは,それ自身,即自対自的である真なるものの意識の立場で ある。… 宗教は,個々の対象におけるあれやこれやの真なるものについて の意識ではなく,絶対的に真なるものの,すなわち,普遍的なものとしての,
なにものをも余さずすべてを包括するものとしての,絶対的に真なるものの意 識である」(XVI,30f)まず,宗教とは端的に絶対者,神の意識の立場であ
る。哲学一般が,その現象形態としての世界を介して,はじめて神を認識する,
いいかえれば,個々の対象における真なるものの意識より出発して,それらを
区別の統一としてとらえることによって,理念としての神にいたるのにたいし て,宗教とは直接的に感情,直観,表象のうちに絶対的に普遍的なものを意識 する立場である。ここに,哲学と宗教は同じ神という内容をもちながら,様式 において異なるという所以がある。
「宗教は,いわば意識の状態としてのこのような思弁的なものであり,意識 の諸側面は単一な思惟規定ではなくして,具体的に充実した思惟規定である。」
(XW,31)宗教は直接的に神を意識する立場であるから,宗教としての意識 の状態は,純粋な思惟の形式としての思惟の活動でありながら,一方において は,直接的,特殊的な自己意識として,経験的,個別的性格をもった広い意味 での思惟の形式である。この後者を,ヘーゲルは「具体的に充実した思惟規 定」とよんでいるのである。 ところで,宗教にみられるこのような広い意味 での思惟の形式を,ヘーゲルは表象とよんでいる。神とはなにかを宗教が問う 場合,宗教はすでに神の表象をもっている。しかし,この場合,表象は,純粋 な思惟形式と特殊的な自己意識との二つの契機をもっているが,この両契機は,
まだ,思想として,統一されていず,対立しているのであり,加工し,つなぎ 合わせることによって,その統一を保っているにすぎないのである。ここに宗 教にたいする哲学の果たすべき役割が出てくる。哲学は活動的な思惟によって,
宗教において対立している契機を統一して,思想へと高める役割をもつのであ る。いいかえれば,哲学は,宗教を哲学へと高める使命をもつのである。ここ にあらゆる事柄を対象としうる哲学は,宗教をその対象とする,哲学の一部門 としての宗教哲学をもつのである。
それでは,表象としての宗教は,思想としての哲学へ吸収されてしまうので あろうか。表象としての神を,思想と概念においてとらえなおすことによって,
宗教哲学はその仕事を完成するならば,それは神を論理的に認識することにな り,宗教哲学は,哲学の一部門として,純粋な哲学と何等変わることがなくなっ てしまう。だが,「論理的理念は即自的な神である。しかし,神は単に即自的 にあるのではなく,同様に本質的に対自的であり,単に思想の中に自己を維持 する本質のみならず,現象し,自己に対象性をあたえる本質である。」(XVI,
33)この神の対象性をヘーゲルは「絶対者の現存在の側面」(XW,33)とよ
んでいる。われわれは宗教的意識が直接的,特殊的意識として経験的,個別的
性格を有していたのを見てきたが,それらを本質にたいする現象としてもつこ
とになるのである。かくて,宗教哲学は,思想の形式とともに,表象の様式に
も同時に直面する。このような意味で,宗教哲学はは,神を本質性一般という 思弁的な意味においてとらえるとともに,また,神を現象し,自己を啓示する 活動体という点からもみなければならないのである。このことは,別の角度か らみると,われわれが,神を理解しようとする場合,神にについて実例,表象 をもつことによって,神についてはじめて精通することができるということで ある。「かれ(神)は,自己自身にたいしてのみ自己を表象する」。(XVI,33)
神は自己自身を自己の対象として,自己から区別しながらも,自己と同一化す るのである。ところで,ヘーゲルは次のようにいっている。「しかし,さらに,
〈神の〉現存在の側面も,我々は哲学のなかにいるのだから,思想においてと らえなければならない。」(XW,34)即自的に思想においてあると同時に,自 己をあらわし,しかも自己自身へ反省する精神として,「無限な現象をもった 端的に具体的な理念」(XVI,35)としての神,宗教哲学はこの神を自己の内 容としてもつのであるが,さらに,哲学として,この神の現象的な側面を,思 惟の形式において表現することになるのである。ここに宗教哲学の固有な役割
を見るのである。
つぎに,宗教は意識の状態であったが,「我々が我々の前にもっているのは,
この一者たる絶対者である。このようなく宗教的表象の〉内容,規定を我々は まだ宗教と名ずけることはできない。宗教には主観的精神,意識が必要である。」
(XVI,94)というように,宗教は神を意識する主観なくしては成り立たない。
神は本質的に精神であり,また精神としての主観によって知るものであり,し たがって精神と精神との関係が宗教の基礎にある。宗教は神と主観(神にたい する人間の意識)との関係としてとらえられなければならないのである。普遍 性としての神の概念は,まだ,客観的な思惟と主観的な思惟との区別をもって
いない。「この普遍者においては,全ての区別がなお不在であり,廃棄されて いる。この思惟の霊気のなかでは,すべての有限なものは消え失せており,す べてのものは消滅すると同時に包括されている。」(XW,68)この普遍者が自 己を対自的に規定するところに,いいかえれば,現象として,自己に対象性を あたえるところに,神の概念も発展する。しかして,普遍者が現実に特殊化し て現象する場合に,普遍者に対立する他者として現れるのは,個別性そのもの における意識であり,主観である。そして,ここでいわれる主観は,経験的性 格,時間的性格からみた,欲求,罪悪などをもった直接性としての主観である。
このように規定された特殊性としての主観と,普遍性としての神との関係が,
宗教であるとヘーゲルはいうのである。
宗教としての両者の関係はつぎのようである。私は私を思惟しながら,すべ ての有限なものを超えて絶対的なものへと高まる,そのとき私は無限の意識で ある。と同時に,わたしは有限な自己意識であり,しかもその場合,私はまっ たく経験的な規定にしたがっている。両者は「おたがいに求め合い,おたがい 響
ノ逃げ合う」(XW,69)関係である。あるときは経験的な意識としての私を 私から排除し,そして呪い,そして無限な意識に重心をあたえる。また,ある ときは私は私の経験的ノ有限的意識に重点をおき,無限性に対立する。私は私 自身のうちにおいて,有限なものとしての私に対立する無限なものとして,無 限なものとしての私の思惟に対立する有限な意識として,規定されている。宗 教としてのこの関係は,一方においては一致でありながら,同時に一方におい ては矛盾な関係として,ともにこの私のなかに,私にとってある。「私はこの 一致とこの矛盾の感情であり,直観であり,表象である。また,私は抗争する ものの結合であり,この結合の努力であり,この対立の主人となろうとする心 情の活動である。」(XVI,69)さらに,ヘーゲルはこの関係についてつぎのよ
うな説明をしている。この宗教における関係としての両側面は,有限と無限と いった抽象的な規定ではなく,両側面は各々それ自身自我であり関係するもの であり,一者のなかで戦う者であり,戦いのなかで一つになるものである,と。
「私は戦っている両者の一人ではなくして,戦っている両者であり,戦い自身 である。私はたがいに触れ合う火と水であり,たがいにただ逃げ合うものの接 触と統一であり,この接触こそは,一方においては分離され,分裂された者の,
一方においては宥和され,一つになった者の関係としての,それ自身この二重 の相争う関係である。」(XW,69)このような関係としての「私」を,ヘーゲ ルは「宗教における自我そのもの」(XVI,68)と呼んだのである。
「宗教的意識は,それ自身において,直接的なもの,有限なものの離別・遺 棄であり,知的なものへの移行である。あるいは,客観的に規定するならば,
無常なものを,その絶対的,実体的本質へ集約することである。」(XVI,106)
宗教は即自対自的に真なるものの意識である。したがって,それは感性的,有
限的真理や知覚に対立し,それらを超え出ることによって,それら自然および
精神の世界の一切のものの真理であることを示す。自然および精神の世界のす
べての富は,外面的な,貧困な,自己矛盾にみちた,また自己破壊的な現実で
あり,宗教の立場においてはじめて,その根拠へ,その源泉へ,真理へ帰る。
このようにして,宗教的現象はなお有限性にあるので,この有限性の止揚が宗 教なのである。さきに宗教とは絶対者の意識と主観の意識との関係であり,神
は主観的精神を離れては考察することができないことが示されたが,この主観 的精神の立場は有限的意識の立場である。この有限的意識の絶対者への向上と
しての宗教的意識の諸形式として,ヘーゲルは感情と直観と表象をあげる。こ れらの諸形式が発展し,最後には概念そのものにおける内的必然性を発展,完 成することによって,絶対的本質へいたるのである。さきに,哲学と宗教の様 ・
ョの違いについて述べたが,宗教は神と私の関係として,まず直接的に感情と 直観と表象のうちに現れるのである。
ところで,宗教的意識の諸形式を,ヘーゲルは二つに分ける。「宗教的精神 の現象の領域で考察に入ってくる第一のものは,心理学的性質をもつものとし て有限的精神に関係する宗教的諸関係の諸形式である。」(XVI,114)「第二は 客観的側面であり,内容の様式である。〈ここで〉神が最初に我々にとってあ る形式は直観表象の様式であり,最後には思惟そのものの形式である。」(X W,115)第一のものは,主観的側面にかかわるものとして,我々がいま問題 としようとしている感情である。
二
ヘーゲルは,感情の形式を二つの規定にわけて論ずる。第一は,「我々は神 について知る(wissen),しかも直接的に。」(XW, ll8)という規定であり,
第二は,この知(Wissen)の根拠を求めて,「感情は,神の存在があたえられ る根拠であるという地位を得る。」(XVI, ll8)という規定である。我々は,
神を我々の内に直接的に知るのであり,その場所は感情であるということであ
る。
第一の「我々は神が存在するということを直接的に知る。」(XW,118)と いう規定は,「直接知」の立場である。Lasson版においては,感情と区別して,
直接知は独立した章としてあつかわれている{3)が,Suhrkamp版では,感情の 形式に組み込まれるものとして論じられている。それでは,ヘーゲルにしたがっ て,第一の規定から見て行こう。
ヘーゲルは,この直接知の命題「我々は神が存在するということを直接的に
知る。」を,二つの部分に分ける。それは「神が存在する」という命題と,「我々
は直接的に知る」という命題である。まず,後者にかんして,この命題の「知
る(wissen)」とはいかなる意味をもっているのだろうか。ヘーゲルは,信仰
を知と対立しているものとは見ない。私が信仰することを私はまた知っている
(wissen)。それは私の意識の中の内容である。したがって,「信仰は知である。」
(XW, ll6)という。しかし,それは感性的な知でもなく,媒介された,認識 する知でもない。直接的,感性的確実性にかんしては,「私は直接的に私の前 にあるものを,私は知っている。すなわち,私がく眼で〉みる空が,私の上に 暫
?驍ニいうことを,私は信じない。」(XW, ll6)ここでは,知ることと信ず ることははっきり区分されている。また,客観的,必然的知識にかんしては,
「私は事柄の必然性へと理性的透察をもつならば,そのとき私は,たとえばピ タゴラスの定理を信じるとはいわない。」(XVI, ll6)ここでも,知ることと 信じることは区別されている。ヘーゲルが,この直接知の命題で問題にしてい
る知は,信仰としての知として,これらの知とは,区別された意味をもってい るのである。それでは,どのような意味で,区別されているのであろうか。
「〈ここで〉知るとは,そこにおいて何物かが私にとって,私の意識の中に存 在するという主観的な様式を表現する。」(XW,118)それらは,神の本質に たいする必然性を透察していないわけであるし,また,感性的,直観的に神を とらえているわけでもなく,その意味において,この知は主観的なのである。
「内容の必然性,証明されたものを客観的なものとよび,客観的知,認識する こととよぶならば,そのかぎりにおいて,信仰とは主観的ななにものかである。」
(X〜猛,117)
ここで,何ものかが存在するのであり,さらに,その何ものかは,私の意識 のなかに存在するのだから,つぎには,「したがって,知るとは,一般に,対 象が他者であり,そのく対象の〉存在は私の存在と結びついているということ である。」(XVI,118)「私はそれを知る」というとき,その対象のなんたるか を知るのではなく,ただ,その有るということ,すなわちその存在のみを私は 知るのである。一方,認識するという場合には,普遍的なものについて知ると き,その特殊的規定にしたがってとらえるとともに,それらを一つの自己内連 関として把握する。ここでの知は,その内容の規定に立ち入り,その規定を対 象として自己から区別するという認識の階梯をふむことなく,「なにか内容が ある」という抽象的な態度であり,直接的な関係である。内容の何たるかは問 題にならない。知とは「自我の抽象的活動」であり,「自我と対象く神〉との 抽象的な関係」(X班,118)である。
さらに,ここでの知はある物体的な対象についての直接知ではなく,神につ
いての直接知である。そして,神はまったく普遍的な対象である。そこで,
「神についての直接知は,まったく普遍的な対象についての直接知である。そ れ故,産物のみが直接的である。」(XW,119)直接知の対象は普遍的であり,
その普遍者を対象として成立する産物としての直接知のみが直接的なのである。
しかして,ヘーゲルは,普遍者を対象として活動するのが思惟であるから,神 についての直接知は「神についての思惟である」(XVI, ll9)という。さきに,
直接知を信仰と呼んだヘーゲルであるが,その意味は,知と信仰を対置するの ではなく,あくまでも信仰を知とし,思惟の世界に組み入れようということで ある。しかし,「ここでく思惟された〉神は,まだいかなる内容も,それ以上 の意味ももたない。神は,ただ感1生的ななにものでもなく,それが直接的直観 に属さない,ということだけを我々が知っている普遍者である。」(XW,119 f)思惟とほ,他者からはじまり,他者を貫通し,この運動のなかで他者を普 遍者へと変えることによって,媒介された運動として,完成する。しかし,こ
こで,思惟が対象にもつのは,規定されていない,たんなる普遍的なものにす ぎない。すなわち,「思惟自身であるところの規定,内容」(XW,120)をも つにすぎない。この場合,思惟はまさに直接的であり,抽象的に自己自身のも
とに(bei sich selbst)ある。ヘーゲルは,この抽象的,直接的な思惟をたと えて,光るが,光以外に何の内容ももたない光といっている。このようにして,
「神についての知は,私は神を思惟するということ以外のなにもいわない。」
(XVI,120)
以上,「知る」ということは何かについて見てきた。神について知るとは,
神を思惟するということであったが,それでは,この思惟の内容である神,こ の思惟の産物はは存在するのであろうか。ヘーゲルは「神は,ただ思惟される のではなくて,神は存在する。神は単に普遍者の規定なのではない。」(XW,
120)という。かくして,つぎには「神が存在する」という規定が検討される。
「神が存在する」という規定において,「存在」とはなにか。ヘーゲルは,
『論理学』において探求した「存在とはなにか」という問題をもちだす。「存在
とは,その空虚な抽象的な意味においてとらえられた普遍性であり,自己自身
への純粋な関係である。そして外へ向かっても内へ向かっても,それ以上の反
作用はない。」(XVI,120)ここで言われる存在は,『論理学』において,「純
粋存在(あるいは純粋有)とよばれているものであり,無規定な単純な直接態
であり,もっとも抽象的な意味での「存在」である。それは自己自身への関係
であるとともに,他者への関係をもち,特殊者を貫通するという普遍性ではな く,すべての相対的関係を遠ざけ,いかなる具体的関係をももたない抽象的普 遍性である。ヘーゲルの意味での普遍者は,本来的には特殊者自身のなかにあっ て,特殊者として働くものであり,媒介されたものである。その意味において,
抽象的でもなく,直接的でもない。具体的で,媒介されている。これに反して,
ここでの抽象的,直接的な存在は,特殊者を遠ざけ,自己自身へ閉じ込もるの であるから,生きた関係ではなくなる。「普遍者は存在すると私が言うとき,
私はその乾いた,純粋な,抽象的な自己自身への関係を,存在であるところの ひからびた直接性について述べているにすぎない。」(XW,121)このような
「論理学」の出発点であった存在は,直接的であるがゆえに,媒介された物の 豊かさをもつことはない。ヘーゲルにいわせると,「もっとも空虚な,もっと も貧弱な規定である。」(XW,121)ところで,このような意味での抽象的普 遍者は,具体的普遍者と別のものではなく,具体的普遍者の一つの契機であり,
その中に含まれている。
「知とは思惟であり,思惟とは普遍者であり,抽象的普遍者の規定,すなわ ち存在の直接性を含んでいる。これが直接知の意味である。」(XW,121)
直接知の命題を,ヘーゲルにしたがって,「神が存在する」という命題と,
「われわれが直接的に知る」という命題に分けて考察したのであるが,いま,
ここで,前者「神が存在する」は,後者「われわれが直接的に知る」という命 題にふくまれているということを知った。ここで問題とされている「存在」と は,純粋有であり,一切の事物を包含したもっとも抽象的な普遍者である。一 切のものは,その意味で「ある」のである。ところで,このような意味での抽 象的普遍とは,ヘーゲルが「宗教の概念」においていうところの,神の即自的 概念である。そこでは,「宗教の概念における第一のものは,それ自身ふたた び純粋に普遍的なもの,その完全な普遍性における思惟の契機である。これや あれやが思惟されるのではなくて,思惟が自己自身を思惟する。対象は活動す るものとしての思惟である普遍者である。」(XW,67)といわれる。第一のも のとは「神」であり,「思惟が自己自身を思惟する」という言葉は,直接知に おける「知る」ことの意味であった。「神とは,この非常によく知られた表象 であるが,しかし,学問的にまだ発展していないし,認識されていない表象で ある。」(XVI,92)そして,直接知でも見たように,「そのなかには,すべて の区別がなお不在であり,廃棄されている。」(XM,68)この抽象的普遍者と
、
しての神が,具体者として,内容的に,豊かなものとして発展していくことに なるのであるが,「この内容く即自的な神〉はさらに発展して行くけれども,
我々は同時にこのく抽象的〉普遍性から歩みでることはない。したがって,普 遍性は,一定の発展へと進行するとともに,形式上は,一面においては棄てら れるが,しかし,絶対的,持続的な基礎として維持されるのであり,単なる主 観的な始めとして取られるべきではないのである。」(XW,93)この即自的な 神においていわれていることは,直接知において「知る」神においても同様で ある。したがって,発展する神の概念において,絶対的な,持続的な基礎とし てある存在である神が,直接知の神なのである。
ところで,直接知においては,「普遍者が存在するということ以外のなにも,
私はまだ知らない。」(XW,121)神がいかなる内容を持つかは,直接知にお いてはまだ与えられていない。ヘーゲルにしたがえば,「神は認識できない」
という啓蒙の立場は,この神についての直接知の段階にとどまっているのだと いうことになる。しかし,ヘーゲルは,この直接知をさらに分析する。「しか し,さらにいえば,神は私の意識の対象であり,私は神を私から区別する。す なわち,神は私の他者であり,私は神の他者である。」(X〜i,121)直接知は 神の存在そのものを含んでいたが,その直接的意識において,神は私の意識の 対象であり,私の他者である。神は私以外の他者であって,対自的に存在する。
ヘーゲルは,壁の例を挙げて説明しているが,「壁は存在し,一つの事物であ る。事物は普遍者である。神についても,私はそれだけのことは知っている。」
(XW,122)すなわち,ここではすべての規定性は捨象されているので,壁の 例でいえば,それが事物であると同時に壁であるという内容的な,特殊的規定
にはまだ入らず,事物であると言う普遍者にとどまり,それが存在するとしか いえない。すなわち,神は私の他者であり,対自的に存在するが,しかし,そ こでは普遍者は存在するとしかいえない。いかなる内容規定にも入らないので
ある。