ツォンカパ︵弓切○国、穴彦山bmm]○ずいmpm四口ぬいで四︾ 国、﹃lE5姿.ロ︶による﹃中論︵ミミミョミご自営黒ミ︲洋習Ⅱ 巨巴﹂の註釈﹃正理大海﹄は、帰敬偶の解釈において ① その独自の論展開が見られるものの、本論部に関しては ② 長尾雅人博士によって既に指摘されているようにナー ガールジュナヨ倒恩号口印.8届?尉○シロ︶の諸著 作を始め中観派の諸論師の著作を依用しながらも、最終 的にはツォンカパが私淑するチャンドラキールティ 各自島四罫昌︾8&g&gシ・ロ︶の立場を結論的に引 用し、﹃プラサンナパダー︵、愚吻§言§負号Ⅱ国︺︶﹂の意 図する所をご嗣本偶の語を折り込んで綴り合わせてい ︿はじめに﹀
ツォンカパの縁起観
I中論註﹃正理大海﹄︺只弓と︲さ試訳I
った観を呈することは否めない。このことは先行する著 作、すなわち自身の中観思想の根本的立場を確立した ﹃菩提道次第広論﹂P”辰B︶やインド大乗仏教の思 想史的展開を総括した﹃未了義了義善説心髄﹂︵F冨 匡S︶のもつ独自性と比較するとき一層明らかであろう。 しかしながら、たとえ註釈書という限定の中で﹃正理大 海﹂がも屯の文脈をなぞるかのように見えるとしても、 既述のような著述活動を経たツォンカパによって中観派 の根本諭書である巨肉の注釈として本論が著述された ことは、そこに独自の課題が存在したと考えるのが妥当 ではないであろうか。 筆者はこの課題に対する回答の一端を示すものがツォ ンヵパの縁起観ではないかと考える。﹃正理大海﹄の科安武智
丸
ワ1 邑 上文は巨〆の構造のツォンヵパによる解釈であるが、そ の中でツォンヵパは縁起︵胃ロ︼ご巨晶︶を軸として 巨歸全体を三部構成として組織する。 側﹁縁起︵月己︺ごロ侭︶は自性として空であると いう説示﹂︵第一’二十五章︶ ②﹁それ︵縁起は自性として空であるという説示︶ を了解するかしないかによって輪廻を流転還滅す る仕方﹂︵第二十六章︶ ③﹁縁起︵耳のロゞご自侭︶睦了解するとき悪見を離 、 れる在り方﹂︵第二十七章︶ このような縁起を軸とした中観思想の捉え方は最初期 のF宛以来繰り返し論じられてきた。その中でも中観 ④ 派と実在論者とを峻別する﹁中観不共の勝法﹂という論 述P閥甸凹函畠冨︲囲歯巴の結論部において、中観思 想の大前提となる縁起理解を縁起と空の同義性を論じつ つ次のように示している。 ︹ナーガールジュナが︺空性の意味を縁起︵Hの目 ﹀胃のこの意味としてお説きになられた中観智者の 存在が因果として顕われる在り方とを、他によって 自性に決定を与える道理と、自性として空である諸 勝法・⋮ ︾ずHの﹄︶︵ すなわち、 縁起︵Hの日﹀耳①二に拠って無 G 導き得ない決定に導くべきである。
ここに提示されたツォンカパの縁起観が巨尻
︶只弓︲扇をその典拠としていることは容易に理解しう るであろう。ツォンカパは縁起と空の同義性を軸として、 ﹁縁起に拠って無自性に決定を与える道理﹂と﹁自性と して空である諸存在が因果として顕われる在り方﹂とい う縁起の二つの側面を﹁中観不共の勝法﹂として提示し ている。そしてこの縁起の二側面を構成するものが二種 の﹁縁起﹂表記、すなわち世俗を指示するゞ目①ロ︺宮巴ゞ と勝義を指示する[号邑︾耳匡侭ゞとの関係ではないかと ⑥ 筆者は考える。そこで縁起と空の同義性を表明する ご︻﹀輿弓︲届の解読の為に、﹀只弓と以降の展開の和 訳を試み、ゞ耳のロゞ耳の︸薯と※耳のロ︶ず館侭︾︶とが如何なる文 脈において語られるかを提示したい。 和訳に際して用いたテキスト及び本文中に用いた略号 は以下の通りである。 く“﹃自冒冷再静3s清和緒崎、負哉碕望ロミ冴言.、ミー琶口罫︺くい日ロ四︲ の﹄︾痔@劃い、 ︻即昌誉言国﹃●厨&言蔦罫蒟奇ミご畠曾暮鴎受.§向圏ご&言叡 、’再ロミ守善冨亀記侭“、国越侭ど画ミ冴言N苛めご昌言勵琴壁甥 22︻z昌二諦を知らなければ聖言の真実を知らないこ とお﹀ 諸仏による法の説示の在り方が二諦を依り所としてい ることと、世俗と勝義の︵︻.隠殴︶諦というそれら両 者の区別とを既に述べたように遍知していない者達は、 仏説とは甚深なる縁起言の.・9厘届︶の真実であるこ とを遍知していない。 それ故、勝者の説示︵仏説︶の真実を知ろうと望むな らば、﹁依拠して生起するもの︵耳詳①冒口閉め辱のg︶﹂と ⑧ ﹁依拠して仮設されているもの︵言5口目四の茸侭の息︶﹂ き︾弓言①。呂庁gのgごく○牙め︵の切巨ヨザロ日︶且”希 弓の○三︲患国崔︲甸醒国旧○︲、Nシz︲の宛シのの︲勺シ︾ぐ巳@画い き尉国切言、崖ロロ、ロ○①具︶︶の①・①ロの目侭田ケ三目]四日 の尽巨口も彦巴の①H5m︶①︵﹂.すぐ三,四ヌ国口”の①庁崩ロの昌○︶ z①言口座匡︺胃@コ千胃④﹁P もゞ儲ごミ負爵画言鳶暮狩奇置、ご畠冒さ閏司さ。鴎ごロ言球 ミ負ミ雰言包記曾曾ご廻国量§。§鴎雪国言影印北 京版西蔵大蔵経令①画侭固ggp︾、国肝冨国早目国︲ 戸口︶zo.①昌印い ︿和訳﹀ ︻z邑二諦を説示する目的︿S﹀ ﹁もしも、勝義が戯論を離れていることを本質とする ならば、仮に真実が説示されているとしても、︹五︺恵、 ︹十八︺界、︹十二︺処、︹四︺諦、︹十二︺縁起含g す$|︶といった世俗なるものが説示されているのは一 体何の為であろうか。真実でないものは断たれるべきで あるならば、断たれるべきものを説示する必要はない﹂ と言うならば、︹答える。︺真実でないにも関わらずそれ ︵真実︶として顕現している世俗なるものの諸々の迷乱 ︵堅の穴面○口四国く﹂ロロ︺画昌員ロケいぼ︼己堅巨包①Hの口塑ロ”ず四︾目弄匡国 aN3息]留匡同巳盲目四日の︶が断たれるべきもの︹であ り、それはすなわち︺諦である。しかしながら、表現と 意味内容、知と所知︵勺困苦︶などの世間者にとって の勝義、すなわち聖者に依存した言語慣習︵昏四の弓且︶ るべきである。 無の辺との両者が既に断たれている勝義の在り方とを知 目の冨旨︶として自体として存在する︵実有の︶辺と虚
が合理的であることと、まさにそれを根拠︵品冒
る世俗なるものにおいて、あらゆる作用︵耳、g①e という水︹面に映る︺月のような顕現︵目印侭冨︶であ ツ則 巳 ツである世俗諦を承認することに拠ることなしには勝義は 説示され得ない。またそれ︵勝義︶が説示されることな しには︹勝義を︺了解することは出来ず、勝義を了解す ることなしには浬藥を得ることはない。 それ故、解脱を得る為の方便であるから、何よりも先 ず最初に必ず︵く.侭ら在るがままの世俗︵百国aい: ]連自習開冒︶を承認すべきである。
︻雪自負隠學︶二諦を誤って捉えた場合の弊害
︿胃﹄﹀ 世俗諦は単なる無知に過ぎないものによって生み出さ れたものであり、︹そこには︺自性は存在しないと了解した後に、それ︵世俗諦︶についての勝義を特質
︵目、宮口昌己︶とする空性を了解しているョ−ガ行者は 二辺に陥ることがない。何故なら、特質として成立して いるものについて以前に存在し後には存在しない自性を 捉える根拠は以前に︹存在した自性について︺も認識さ れないからである。また影像と等しい世間の世俗を侵害 しないから、業と業の果報をも侵害しないのである。彼 のヨーガ行者はまた事物が勝義なるものとして存在する と増益することもない。何故なら、自性が存在しない事 物にのみ業と業の果報などが見られるからであり、自性 として成立している事物は存在しないと知るからであり、 また事物が自性として成立していると語る者︵有自性論 者︶の︹論ずる︺通りであれば、業と業の果報などの全 てが妥当しないからである。 ︹一方︺二諦としての区別を以上のように見ることな く︹諸︺行を自性が存在しない空であると見る者は、自 性が存在しない空を見ることを諸行が︹如何なる場合 も︺存在しないことである︵虚無︶と分別し、或いはま た何らかの空性なるものを諦である︵諦成︶と分別して、 それ︵空性︶の依り所として自性として成立している事 物を分別するのである。しかし、その両者はいずれも空 性に対する誤った見解であり、そうであれば、そのよう な見解をもつ智慧の劣った者達は破滅するであろう。破 滅の仕方は︵勺患浮︶、すなわち﹁もしも自性として 存在しないと見るならば、作用を措定する余地は存在し ないから、全ては存在しない﹂と分別する︵︻隠留︶ 時、損減の邪見となるのである。すなわち﹃宝行王正 論﹂︵記ミミご口貴ロー届︶の中で、 この法が誤って捉えられるならば、愚者達を破滅さ せる。 24何故なら無の見解の糞の中に︵く.怠巴沈んでい ⑨ るからである。 とお説きになられている。 或いはもし全てを損減しないとしても、その時﹁認識 されている通りのこれらの事物が、どうして自性として 存在するものとして空となろうか。それ故、自性として 存在しないことの意味は空性の意味ではない﹂と必ず空 性を誹誇するであろう。 それ︵空性︶が誹誇されるならば、法を破壊に導く業 によって悪趣に赴くであろう。すなわち﹃宝行王正論﹂ ︵記ミ旨3角胃目︲g︶の中で、 更にこれ︵法︶が誤って捉えられるならば、自らを 賢者と考える愚者は、 誹誇によって︹自ら︺破滅し、真っ逆様に無間地獄 ⑩ に赴く。 とお説きになられている。 ︹或いは︺﹁もしも利益を為すものが別様に捉えられ るとき︹それが︺利益を為さないとしても、どうして害 を為すものとなろうか。諸々の穀種は方法を逸脱して蒔 かれたとしても、蒔く者を破滅させるものではない﹂と 言うとしても、そうではない他の実例として︹次のこと ︻z邑二諦は了解し難い為に説者が説法跨躍された ことについて︿届﹀ 以上のように空性に対する誤った見解を抱くならば ︹空性は︺捉える者を破滅させ、また智慧の劣った者達 は真実の意味を正しく捉えることが出来ない。それ故説 者︵釈尊︶は正覚して後、有情界と法とが極めて深遠で あることを御覧になられて、︵も尉嚴︶智慧の劣った 者達にはこの甚深なる縁起言2.9匡呂︶の法を体得 し難いことを知られて、牟尼世尊の法を説示しようとい う御心は翻ったのである。同様に経︵く怠巴の中で 、刃噺︺、 現等覚されて間もない世尊は次のようにお考えにな が示される。すなわち︺、例えば蛇が呪術や薬の力によ って教授された通りに捉えられている時、︹捉える者に︺ 大変な財宝の塊まりをもたらすが、教示された通りのこ とを等閑にして︹蛇が︺誤って捉えられている時、捉え る者を破滅させるように。或いは、例えば教授された通 りに施された明呪は施術者を利益するが、教授されたこ とを逸脱して誤って︹明呪が︺施されるならば︵︻ 隠浮︶、施術者は︹自ら︺破滅するように。 ワ貝 白 L ノ
︻伊邑述べられている過失が充たらないことの説示 そのもの︿畠﹀ 以上のように二諦に顛倒無く住することを知らずに、 もしも、これら全てが空であるならば、生ずること なく、減することもない。︵巨嵐〆〆弓︲旨巴 云々といった過失が帰結することになる多くを論詰する 者は、二諦の措定︵自国日鴨冨巴を知らず、負蹟冒︶ 空性と空性の意味と空性の目的とを理解せずに論詰して いるのであるから、我々が空性として論じていることに ︹対論者によって述べられている過失が︺充たることは られた。﹁私が︹現等覚した︺法は甚深であり、深 遠なる顕現をもつものであり、分別されるべきもの ではなく、思考の範晴ではなく、微細なものであり、 知者や賢者に理解されるべきものである。それを私 がもし他の者達に説示したとしても、他の者達は私 のそれ︵説法︶を了解しないであろう。それ故私に は破滅があろう。疲弊があろう。心の消沈があろう。 それ故私は静閑所で独り現法楽住を既に得た者とし ⑪ てとどまろう。﹂ と詳細にお説きになられている。 認められない。それ故、汝が、空性に対する多くの過失 を述べて、何であれ空性を排斥させるところのそれ︵過 失︶が我が︵中観派の︶学説に充たることは認められな いO すなわち、汝がもし効果的作用能力をもつ事物︵ご“ gご&国巨の穴首目唱“官︶が存在しないという意味を ︹我々が主張する︺空性の意味であると増益して過失を 述べているのであれば、我々はそのように主張している のではなく、縁起︵︻扇ロg侭﹄耳①ほ日︾ご自侭富︶の意 味を自性として空の意味であると解説しているのである から、これらの論駁は不合理である。 中観派の学説においてはあらゆる作用が認められない という論難︵詞尉舎︶は、空を縁起言①.。g亡呂︶の 意味と了解していないから︹為されるの︺であるとお説 きになられている、このことを了解する為に努めなけれ ばならない。 ︻F邑過失が存在しないだけでなく功徳が存在する ことについて︿盾﹀ 我々の立場には、既に論じられているような︵く 馬ご過失が充たらないだけでなく、諦などのあらゆる の 戸 乙 0
措定が極めて合理的である。すなわち、何であれ自相を もって成立しているあらゆる事物は自性として空性であ ることが妥当するその︵中観派の︶学説には、既に論じ られているようなそれら全てが妥当することになるので ある。 ︹あらゆる措定が︺妥当する学説︵昌吊旨鴨︶こそ を、我々は、縁起︵号ロ日侭︺耳のg胃︶ご匡侭言︶は自 性として存在するものとして空である空性と論ずる。そ れ故、何であれ空性が妥当するところ、そこには縁起 ︵12ず耐一︶が妥当する。一方、縁起なるもの︵鼻のロ 日侭︺耳のg閏︶耳巨侭冨︶こそは苦となり、縁起でない もの︵爵目g侭︺耳巴冨︻目ゞご匡侭盲︶は苦︵︻、 囲呂︶として妥当しない。 苦が存在するならば、苦の集と、苦の減と、苦の減に 赴く道とが妥当することになる。それらが存在するなら ば、それらを︹遍︺知すること等の四︹種の実践︺が妥 当する。その四︹種の実践︺が存在するならば、︹四︺ 果︹が妥当する。四果が存在するならば、︺そこに住す る︵四果位︶者が妥当する。︹四果位者が存在するなら ば、四向位者が妥当する。︺︹四︺果位者と︹四︺向位者 と︹の八輩︺が存在するならば、僧伽が︹妥当する。僧 伽が存在するならば、諦が妥当する。︺諦が存在するな らば、正法が︹妥当する。僧伽と正法との︺両者が存在 するならば、仏陀が妥当する。それ故、三宝もまた妥当 する。また、世間と出世間とのあらゆる事物と、法と非 法と、その︹善趣と悪趣との︺果と、世間の諸々の言語 慣習が妥当することになるのである。 ︹あらゆる措定が︺妥当する全ての学説は、あらゆる ︹措定︺が﹁存在すること﹂が解釈されることによって 説明され、かつそれはまた中観派の学説︹こそ︺におい て︹説明されているの︺であるとお説きになられている から、﹁存在する﹂と主張する場合、有辺に堕すことや あらゆる措定を対論者の側のみに転嫁することが︹﹁存 在する﹂と主張する︺意味ではないのである。 ︻尻邑過失を立てる者にまさにその同じ過失が充た ることについて、に︹次の︺三︹項目︺がある。︻ロ︼ 過失を立てる者にまさにその同じ過失が充たる理由、 ︻F邑それによって自己の過失を他者の過失として捉 えていることについて、︻旧邑その諸々の過失であるも のの明示、である。 ワウ ム イ
︻旧邑それよって自己の過失を他者の過失として捉 えていること︿5﹀ 以上のように、我々の立場は極めて清浄であって輪廻 ︹から︺浬藥︹に至るまで︺のあらゆる措定と矛盾する ことがないのである。一方、自らの立場が粗大に極めて 近い過失をR・誤旨︶有する者達と︹我々の立場は︺ 矛盾するのであり、全く愚昧であるために功徳と過失と の在り方を見ることのない汝は、自己の諸過失を私の過 失として転嫁しようとしているのである。それは恰も或 る者が馬に騎乗していながらその馬を忘れている時、そ の馬が他者によって強奪されたという罪過によって他者 に答を求めることと同様に、︹汝は︺自性として存在す るものとして縁起︵﹃5コざ舌呂︶を特質とする空であ ︻眉︼︵℃思留︶過失を立てる者にまさにその同じ 過失が充たる理由 何であれ自性として存在するものとして空性であるこ とが妥当しない学説、そこには︵く怠巴縁起︵弓コ す﹃の|︶が妥当しないから、あらゆる措定が妥当しない ことになる。そこで、何故妥当しないかということにつ いて詳細に解説する。 ︻F畠その諸々の過失であるものの明示︿息︲弓﹀ 何であれ︹自性として存在するものとして縁起︵鼻のロ ゞ耳ロ侭︶を特質とする空であることを︺認識していな いために、まさに︹その︺空性を論ずる者︹である 我々︺に対して答を求める対論者の諸過失、それはまた 一体何であるかと言うならば、それを示すならば︹次の 如くである。すなわち、︺もしも、汝が諸々の事物は自 性から、或いは自性として存在すると見なすならば、そ うである時、自性は因や縁によって生起しているもので はないから、諸々の事物は因や縁に依存することがない と汝は見ているのである。 もしも、瓶が自性として存在すると考えるならば、そ れ︵自性として存在する瓶︶には粘土などの諸々の因や 縁などは必要がなく、また瓶という果は原因がない︹も のとなるが、その︺ことも認められない。瓶が存在しな いならば、瓶の作者である陶工も、作具である轆轤など も、瓶を造作するという行為︵作用︶も存在しない。そ である。 ことを認識していない時、我々に対して論駁しているの る馬に騎乗していながら、心が散逸しているためにその 28
︻百︼自部の御主張が空の意味は縁起︵﹃扇.。g匡呂︶ ⑫ の意味であることの説示︿扇︲ら﹀ 我々︵︻鵠号︶の立場においてはあらゆる措定が合 理的である理由とは、我々は何であれ因や縁に縁って起 こるもの︵耳①ロ日侭︺耳①言閏ゞご匡侭g︶、それは自性 として生じているものとして空であるという意味に他な らないと解説されている通りに主張しているからである。 何であれそのように解説されていることとは、すなわ ち﹁無熱︹龍王︺所問︹経︺﹂︵﹄葛負ご昌息冒琶侭ミミ畠︲ 曾電尋胃。言︶の中で、 何であれ縁より生じているもの、それは生じたもの ⑬ ではない。そこには生起の自性は存在しない。
と︹お説きになられ、︺また﹁入拐伽︹経︺﹂
から、︹汝は︺果までも侵害するのである。 れらが存在しないことによって生起も消滅も存在しない 要約すれば、因果や生滅などの︹あらゆる︺措定が妥 当しない︵勺・器學︶ことというのは、事物が自性とし て存在すると語る者にとってこそ過失となるのであるか ら、︵く.慮巴︹それは︺汝自身の過失を我々の過失と して転嫁することである。 ︵旧ききごミミ虜曽量︶の中で、 マハーマティよ、自性として生じたものではないこ とを密意して、私はあらゆる法は生ずることがない ⑭ と説いたのである。 と︹お説きになられ、︺また﹃聖︹般若波羅蜜多理趣経︺ 百五十頌﹄︵ど旨も量冨§ミミミs旨い旨︲§§§向風§ざ︶ の中でも、 あらゆる法は空である。何故なら︹あらゆる法に は︺自性が存在しないという在り方によって︹存在 ⑮ するから︺である。 と解説されているところの諸々︹の教証︺である。 そ︹の三つの教証︺の中で第一の教証︵冒侭︶︵羅熱 龍王所間経﹄︶は、﹁縁より生じているもの﹂の縁起 ︵﹃5コ︾g仁呂︶の論拠︵四四国厨宮鴨︶によって自性と しての生起を否定し、﹁縁に依拠すること﹂という意味 こそを、﹁自性として存在するものとして空である﹂と いう意味としてお説きになられているのである。それ故 因や縁に依拠して生滅する縁起言g︾耳①|︶を、自性 として存在するものによって遍充されると論ずる︹主 張︺や、自性︹として︺存在しないものには作用を措定 する余地がないと︹論ずる︺主張の全てが否定されてい ? q ー ヅる。なぜなら、︹単に︺生じていないものと自性として 生じていないものとの峻別が明確になされているからで ある。 第二の教証言入拐伽経﹂︶は、説者︵釈尊︶御自身が ﹁︹あらゆる法は︺生ずることがない﹂とお説きになら れている諸々︹の聖言︺は、﹁自性として生じたもので はないことを密意し﹂ているのであると、御自身の密意 を自ら汲んで解説なさっているから、事物における生起 を否定している諸経典の意味は、︹否定された︺生起を 虚無と理解することなく、自性として生じていないとい う意味として︵︻闇腺︶理解しなければならないとい う意味である。 第三の教証含聖般若波羅蜜多経理趣百五十頌﹂︶は、
空の意味を、自性として存在するものとして︵勺
尉爵︶空であるという﹁自性が存在しない﹂こととし てお説きになられているから、自性として存在しないこ とと、︹如何なる場合も︺存在しないこととの︵ぐ 鹿e両者の区別を示しているのである。 ﹁もしも、﹃自性として成立しているものとして空で あるという意味は縁起︵﹃5コゞご巨呂︶の意味である﹂ と繰り返しお説きになられているのであれば、この︹説 示の︺意味は何か﹂︹と言うならば︺、例えば、﹁腹部が 膨れていることを瓶の意味として措定することと同様の 意味である﹂と︹主張︺するならば、諸々の果は因や縁 に依拠して生ずると確定するまさにその同じ意識︵匡○︶ が、空の意味をも確定することになるから不合理である。 或いは﹁縁起言2︾耳の|︶という語の意味こそが空 の意味である﹂と主張したとしても、その︵同じ︶不都 合が存在する。 或いはまた﹁縁起言曾ず﹃の|︶を直接︹的な対象と して︺確定する︹意識によって、空性が︺間接︹的に確 定される︺という意味である﹂と主張したとしても、先 と同様に不合理である。それ故この︹説示の︺意味は何 かと言うとき、︹我々は︺既述のようには、王張していな いのである。 それでは、如何にして︹この説示を︺措定するのかと 言うならば、﹁空の意味が縁起︵﹃5コ﹄g匡呂︶の意味と なる﹂というのは、自性として成立していることを正し い認識根拠今吾凰日四︶によって根絶する中観者達に ︹は措定し得ること︺であるが、対論者に︹は措定し得 ること︺ではない。 そのような中観者にとって、内外の諸事物は因に依拠 30する縁起言の.︼g匡呂︶であると直接に確定される時、 ︹同時に︺その同じ意識の能力に拠って、自性として存 在するものとして空であるという意味として確定される ことになるのである。何故なら、自性として成立してい るものは他のものに依拠することがないと了解し、同時 にそれ︵自性として成立しているもの︶と縁起︵12 雪g匡呂︶との両者が矛盾することを正しい認識根拠に 基づいて了解するからである。 従って、まさに縁起︵﹃5コゞg匡呂︶︹という論拠︺に よって、自性として存在することを根絶する空性に対す る確定を得るのであるから、穀物や芽など︵展.韻浮︶ は因や縁に依拠しているということを見、聞、記憶する だけでなく、まさにその︹縁起︵周扇ロ︶ごロ侭︶という︺ 論拠によって︹穀物や芽などは︺無自性であるという在 り方を思念し、修習しなければならない。 以上のように︹確定︺している時、︹本論の︺他の章 に無自性空ということが直接解説されていなくても、縁 起︵弓.ゞご匡呂︶の法が解説されていることこそによ って、空性を見解とする習気の睡魔から目覚めることに なるのである。例えば、アッサジ︵シの“豊︶が遊行者ウ パティッサ︵口冨爵困︾後のシャーリプトラ︶に対して ︵個尉g︶四諦は唯縁起︵﹃5コす﹃①|厨四ョN三eであ ると解説したことによって︹遊行者ウパティッサが︺真 ⑯ 実を理解したように。 ︹更に︺無自性空︵くゞ念こというそのことが因仮 設︵宮蔚ロロ勝魁侭の冒︶として措定されている。すな わち、車輪など車の部分に依拠して車として設定するの であるが、自らの部分に依拠して仮設されているものは、 自性として生じたものではない空である。自性として生 じたものでない空性それが、有と無の二辺を断じている から中であり、その道がすなわち中観派が歩むべき道 a冒日口周切荷Ra意︺房冒皀︶である。 同様に、﹁廻靜論﹂s耐昌言ミミミ冒包の中でも、 何であれ、空と縁起言①.・g巨呂︶と 中道とを同一の意味として お説きになられている最勝にして無比なる ⑰ 彼の仏陀に敬礼いたします。 と、その︵空と縁起言のロ・耳匡品︶と中道との︶三つ が同義であることをお説きになられている。 縁起︵月邑日侭↓胃①g冑。ご匡晶盲︶でない如何なる 法も存在しないから、また縁起言①.︼g匡呂︶は自性 として成立しているものとして空であるから、それ故自 3]
︻固︼所知である四諦が妥当しないこと︿g︲誤﹀ ﹁もしも、内外のこの全ての事物が自性として成立し ているものとして空でないようであれば、起こることな く生ずることなく、減することはないであろう。その時、 ︻菌︼そのように主張しない為にあらゆる措定が不 合理であることについて、に︹次の︺六︹項目︺がある。 ︻曰︼所知である四諦が妥当しないこと、︻︻邑四諦 を︹遍︺知することなどと四果が妥当しないこと、 ︻〆邑三宝が妥当しないこと、︻︻色作者と業果が妥 当しないこと、︻〆邑世間の言語慣習が妥当しないこと、 ︻嗣呂出世間の言語慣習が妥当しないこと、である。 存在しない。 性として存在しているものとして空でない如何なる法も ﹁無熱龍王所問経﹂の中でも、 学者は縁起︵﹃5コ︾g匡呂︶なる諸法を了解し、 また辺見に依拠すること負.圏留︶がない 因をともない縁をともなう法を知る ⑱ しかし、因無く縁無きものに法性はない。 とお説きになられている。 聖なる四つの諦は︵勺思討︶汝には存在しないという ことが帰結することになる。それはどうしてか﹂と言う ならば、︹答える。︺何であれ︵く鹿巴自性として成 立しているもの、それは縁起言①.︺g匡呂︶ではない。 縁起︵﹃扇ロ日侭ゞ百匹目員︾ごロ侭冨︶でないならば、 ︹それは︺無常ではない、︹それは︺恰も空華のように ︹常住である︺。 それ故、苦という諦が一体どうして存在しようか。す なわち、﹁何であれ無常なるものそれは苦である﹂と世 尊はお説きになられている。有漏にして無常なる諸々の ものは苦であるとお説きになられているそれが、他なら ぬ自性こそにおいて、つまり自性として存在することを 承認するならば、︹そのようなものは︺諸事物には存在 しないから、苦は妥当しない。 苦がまさに自性より存在しているものであるならば、 それ︵その苦︶は生ずることがないから、集から一体何 が集起することになるであろうか、︹何も集起すること に︺ならない。それ故、苦が自性として成立しているも のとして空であることを侵害する者には、集は存在しな い。何故なら、これから苦が集起することより︹それ を︺集として措定する負、囲馨︶からである。 Qワ リ 白
苦が自性として存在することにおいて、つまり存在す る時、苦を減する諦は存在しない。何故なら、︹苦が︺ その自性と等しいものにおいて、つまり︹等しい︺時、 ︹その苦は︺決して変壊することがないからである。そ うであれば、︹苦が︺自性として存在する時、あらゆる 場合に︹苦が︺存続しなければならないから、自性とし て存在するという立場に捉えられて、空を論ずることを 逆に止滅しようとする者は、苦を減する諦を侵害しよう とする者である。 道の諦において自性として成立しているものが存在す るならば、それが修習されなくても存在するから、修習 することは不合理となる。しかも、それを修習すること によって一体何が為されるべきであろうか。或いはもし、 その道の諦を修習されるべきものとして承認するとして も、汝にとっての聖者の道は自性として存在しないこと になる。何故なら、︹道は修習︺されるべきものだから である。苦の減は︹証︺得されるべきであり、︹苦の︺ 集は断捨されるべきであるから、道を修習するのであれ ば、事物が自性︵祠患夢︶として成立していることを
論ずるような場合、およそ苦の︵ぐ鹿巴聚まりと
︹苦の︺集起と苦を減する諦とが存在していない時、道 ︻患昌四諦の︹遍︺知などと四果が妥当しないこと くい①1画、﹀ もしも、先に、未だ遍知されていないことを他ならぬ 自性として苦が存在するならば、それ︵その苦︶は後に 如何にして遍知されることになろうか、︹遍知され︺な いであろう。何故なら、その自性として成立しているも のとは、恰も火における熱︵媛性︶のように堅固であり 不動なものであるから、自性として既に成立しているも のと変異するものとの両者は矛盾するから︵︻蹟歯︶ である。︹苦を︺遍知することが有り得ないことと同様 に、汝が︹論ずる︺通りであれば、集を断捨することも、 減を現証することも、道を修習することも妥当しない。 何故なら、先に未だ断捨されていないことを自性として いる集が、また後に断捨されるものに変異しないからで あり、自性には変壊することがないから、既に︹苦を︺ 遍知することにおいて解説したように否定されるのであ 合理である。 が存在していないのであるから、道を修習することは不 する諦には何であれ︹証︺得が望まれているところの減 諦によって集を断捨するという観点からすれば、苦を減 Q つ J Jる。他の二つ︵減の現証、道の修習︶に関しても同様に 適用されるべきである。 ︹苦を︺遍知することと同様に、預流果などの四果も 先に存在していないのであれば、後にもまた存在し得な いであろう。先に未だ得られていないことを自性として いる四果が、どうして後に得られることになろうか、 ︹得られることに︺ならない。何故なら、自性に固執す るからであり、自性には変壊することがないからである。 ︻︻畠三宝が妥当しないこと︿暗︲闇﹀ 四果とそれらを得ることがないならば、果に住する ︵四果位︶者は︹存在せず︺、それ︵果︶を目的として ︹四果に︺進み入る︵四向位︶者も存在しない。もしも、 四種一対の人、彼ら八輩が存在しないならば、僧宝が存 在しないことになり、また四聖諦が存在しないから法宝 ︵勺‘器留︶も存在しない。 ︵く.念と法宝と僧宝とが存在しないならば、どう して仏陀が存在することになろうか、︹存在し︺ないで あろう。それらは既に解説した通りに知るべきである。 もしも、汝が︹論ずる︺通りに、何らかの仏陀と言わ れる者が自性として存在するならば、︹その仏陀は︺菩 提、すなわち一切智に依拠することなく、依存すること のない者となるであろう。何故なら、 ︵︻囲与︶諸々の自性は作られたものでなく、他 に依存しないものだからである。︵巨屏函ご︲浮巳 と︹尊師ナーガールジュナが︺お説きになられているか らである。 同様に汝が︹論ずる︺菩提、一切智も仏陀に依拠する ことなく、依存することなく、依り所を欠いたものとな ってしまうであろう。何故なら、︹汝が論ずる菩提、一 切智は︺自性として既に成立しているからである。更に また、汝が︹論ずる︺通りであれば、仏陀︹と成る︺以 前に未だ仏陀ではないという自体を他ならぬ自性として 存在している彼の人は、既に無上なる菩提を得ているの で、菩薩行に努めることも、菩提を得ることもないであ ろう。何故なら、その自性と等しい者は決して変壊する ことがないからである。 ︻悶邑作者と業果が妥当しないこと︿閉︲韻﹀ 更にまた、自性として成立していることを承認するな らば、如何なる人も、善なる法と不善なる非法とを造作 することは決してないであろう。何故なら、︹法と非法 34
とは︺自性として存在するのであるから、空でないもの に一体如何なる作用が存在しようか。自性として存在す るものには作用が不合理だからである。更にまた、果は 自性として存在すると論ずるならば、法と非法は造作さ れずに︹存在し︺、またその両者を因とする望ましい果 や望ましくない果が︹造作されずに︺存在することにな るであろう。 そうであれば、それらの果を目的として︹善、不善 の︺二︹種︺の業を造作することは無意味となるから、 法と非法とを因として生ずる二︹種︺の果を二︹種︺の 業が造作することはなく、汝に︹二種の果が︺存在する ことはない。もしも、法と非法とを因として生ずる二 ︹種︺の果が︵祠患g︶汝に存在するならば、︵く. 虜望その二︹種︺の果は何故自性として成立している ものとして空ではないものであろうか、というのである。 何故なら、法︵︻閉園︶と非法より生ずるものは縁起 含gす﹁①|︶であるからである。︹それは︺恰も影像の ようなものである。 ︻玩邑世間の言語慣習が妥当しないこと︿閾I別﹀ 事物が自性として成立していると論ずる者︵有自性論 者︶は縁起︵胃ロロ侭︺言のg冑︼ご匡侭菌︶の空性を侵 害する者であり、誰であれそのように︹侵害︺する者は、 ﹁去れ﹂﹁為せ﹂﹁読め﹂﹁座れ﹂云々といった世間の言 語慣習すべてを侵害する者である。更にまた、諸事物が 自性として成立しているものとして空であることを侵害 するならば、その時、自性として成立しているものは未 だ為されていなくても存在するから、何かによって為さ れることも、何かを為すこともないことになるであろう。 ︹何かを︺始めることがなく、現に為しつつあるのでな い者までも為すことになるであろう。また作用を何も為 さなくても作者となるならば、それも不合理であるから、 自性として成立している諸事物は空でないものではない。 更にまた、諸法が自性として存在するならば、諸々の趣 ︵世間︶は未だ生じておらず、未だ減していないものと なるであろう。何故なら、自性は作られたものではなく、 決して変壊しないものだからである。未だ生じておらず 未だ減していない時、諸々の趣はまさに常住不変なもの として存続することになろう。また、因や縁に依存する ことがないから、諸々の趣は種々なる様態を欠いたもの となるだろう。 すなわち、世尊は弓父子相見経﹂︵国辱§ミミ旨ミ侭軍 35
ミ農ミミ︶の中で、︺ 空でない何らかのものが存在するならば、 勝者は何らの授記をもお説きにならないであろう。 何故なら、︹空でないものは︺各々の事物において 常住不変なものとして存続し、そこでは増大するこ ⑲ とも減少することもないからである。 と︹お説きになられており、︺また、[聖︺象腋経﹄ 医ご画言畠曾雰昌畠曽昌︶の︵︻圏患︶中でも、 もしも、諸法が何らかの自性として存在するならば、 声聞と倶なる彼の勝者は次のことをお知りになるこ とであろう。 すなわち、﹁常住不変なる諸法は浬梁しないであろ う。また、諸賢者は決して戯論を欠いた者とはなら ⑳ ない︵く.怠巴であろう﹂と。 とお説きになられている。それ故、︵祠思留︶この経 典が空を縁起言①.“g亡呂︶の意味として説示するも のであることは、極めて明白である。 ︻〆&出世間の言語慣習が妥当しないこと︿$﹀ もしも、自性として成立しているものとして空なるも のが存在しないならば、先に未だ得られていない︹仏︺ 果を後に得ることも、先に未だ苦が滅尽されておらず後 に︹その︺苦を滅尽することも、先に未だ断たれていな いあらゆる業と煩悩を後に断つこともないことになるで あろう。それ故、出世間のあらゆる言語慣習︵仏教︶も 不合理となるであろう。 ︻禧︼縁起言の..g亡呂︶の真実を見ることが四諦 の真実を見ることになるくち﹀ 事物が自性として成立していることが承認されている 時、あらゆる措定が不合理であるから、それ故、何であ れ縁起︵風①口日侭︺宮のg閏︾耳ロ侭g︶を特質とする空 性を見る彼のョ−ガ行者は、苦と集と減と道とを、すな わち四諦の真実を見るのである。 すなわち、重静盧一樫経﹂匡曇愚忌堂魯ミミ愚冨曽量︶ の中で、 ︹マンジュシュリーは申し上げた。︺﹁世尊よ、聖な る四つの諦は如何にして見られるべきでありましょ うか﹄世尊は仰せられた。﹃マンジュシュリーょ、 誰であれ諸行は生起しているものではないと見てい る者、彼は既に苦を遍知している。誰であれあらゆ る法は生じているものではないと見ている者、彼は 3 (
既に集を断捨して︵厨圏留︶いる。誰であれあら ゆる法は必ず浬藥しているものであると見ている者、 彼は既に減を現証している。誰であれあらゆる法は 決して生起しているものではないと見ている者、彼 は既に道を修習している。マンジュシュリ−よ、誰 であれそのように聖なる四つの諦を見ている者、彼 は﹁これらの法は善である﹂﹃これらの法は不善で ある﹂﹃これらの法は断捨されるべきである﹂﹁これ らの法は現証されるべきである﹂︵ぐ鹿ご﹃苦は 遍知弓患浮︶されるべきであり、集は断捨され るべきであり、減は現証されるべきであり、道は修 習されるべきである﹂と考えることなく、分別する ことがない。何故なら、何であれこのように分別さ れるであろう法、それを彼は見ることがないからで ある。︹一方︺諸々の愚者異生達がそれらの法を分 別するならば、︹彼等はその法によって︺貧るであ ろう。︹彼等はその法によって︺怒りを抱くであろ う。︹彼等はその法によって︺迷うであろう。︹しか し︺彼は如何なる法をも取することなく、棄てるこ とがない。そのように取することなく棄てることの ない者の三界における心は著することがないである ︻国昌本章の概要および特質の解説 中観派が輪廻︹より︺浬藥︹に至るまで︺の諸法には 自性として成立しているものは全く存在していないと説 示している時、対論者はその︵中観派の︶学説に対して う。︹彼は︺三界のあらゆるものは、生じているも のではなく、幻や夢やこだまのようなものであると 見るのである。あらゆる法をそのような自性として 見る者は、あらゆる有情における負愛や愼志を既に 離れたものとなるであろう。それはどうしてかと言 うならば、すなわち何であれ彼︵愚者異生︶が負愛 し愼志するであろう法を、彼は認識しないからであ る。彼は虚空に等しい心によって仏陀さえも随見す ることがない。法さえも随見することなく、僧伽さ えも随見することなく、負、闇g︶同時にあらゆ る法は空であると見る者、︹彼は︺如何なる法にも 疑いを生ずることがない。疑い︹を生ずることの︺ ない者、︹彼は︺取することがないであろう。取す ることがない者、︹彼は︺取することなく完全に浬 ⑳ 梁するのである。﹂ とお説きになられている。 37
﹁世間と出世間とについて措定されるべき何ものも存在 しないことになる﹂と論難しているのである。︹我々は︺ それに対する回答として、よく考察するならば、既述の ように︹自性として成立しているものを︺否定する正理 による考察に耐え得るもの︵侭の息の回国匙冒&息︶ は微塵も存在しないから、対論者の学説には﹁これであ る﹂﹁これ︵く怠巴でない﹂といった措定されるべき 何ものも存在しないという過失が存在するが、︹一方︺ 我が︵中観派︶の学説にはそれらの過失が存在しない ︵詞曽冒︶だけでなく、あらゆる措定が極めて合理的 であるということを、この︹第二十四︺章は︹その︺主 要なものとして示しているのである。 また、そのことは、空性の意味は縁起︵﹃5コ↓g匡呂︶ の意味であって、︹効果的︺作用︹能力︺をもつ事物を 否定することが空性の意味ではないということに至るか ら、中の道理a盲目昌扇冒己を信解する考察をもつ 者であれば、その︹中の︺道理の通りに論ずるべきであ る。しかし、実在論者達によって﹁世間と出世間との如 何なる措定も、汝︵中観派︶のこの学説において︹措 定︺されることは妥当しない﹂という重圧をかけられて 我々︵中観派︶が︹論ずる︺通りであれば、どこにも ﹁これである﹂﹁これでない﹂という識別が措定される ことは妥当しないと、対論者の非難を必要とすることな く、最初から自身をその︹中観派と実在論者の︺中間 ︹の立場︺に位置付けてはならない。 ︻テキストおよび略号一 ○言弓、恩、CO痔。ミミミ群司吻冒冒ミミ記、凰○富国崖︲ 飼吟、伊○駒圃崔君︲︵閉﹄の、︲、﹄︺弓︲く○房.今丙ミ暮冴琴冒晦 営鼠辛碍器斡吻冒噌‘§冒冒旨曽︵智壁息詩︷函§圏︾ぐ○一 司のl]○回①臼ず冠zmm言mpmの①]の、ロの日○︾zの言月︶里巨. ]①司司l﹄①司④. F宛︾旧ロミ蔑ミ3§量o︺○乏弓︾く○房岸中画c Fz“侶侭吻雰琴昌亀胃這弓函、。︾。ごく目︶く2,画岸三○・鰐 罰○晦詞侭喧、口叡侭ビロミ冴言↑○ごく弓︾く○].いい F詞○豈匡目四FS謁慰量&睡菖輌冨、蛍︾○ごく弓︾く2.画胃︾三○﹄ の罰亜包Qo謹晦“、Q︾’画守頚ミ︾○ごく弓︶く巳・画全zo・﹂ 巨添︽ミミsご冒号旨ミ昌曾言幕員令勺所収テキスト︶ 勺勺恥F・﹂の置く巴示①勺○巨朋目①Q︺﹄鳧ミロミミ旦琴セミご口諦口毒、、罫、吻 色爵旦ごミミ雷吻曽昌毎号z侭勵ご屋冨ロ自己R奇、昌旨旨琶息口島 ○ミミミミ昌爵器pミミロ奇鼠︶囚匡59の8,厘監巨g旨く︶ の庁.而酔①扇す○匡掲︾骨④○四l]④﹄印 聖諦の考察という︵︻闇討︶四十偶からなる第一 十四章の註釈 38
︹参考文献︸ 小川[ら計]小川一乘﹁空性思想の研究1入中論の解読 l﹄︵京都、文栄堂︶ 小川[己麗]同﹁空性思想の研究Ⅱlツォンカパ造冒 趣善明﹄第六章のテキストと和訳l﹄︵京都、 文栄堂︶ 小川[后路]同﹁ヅォンカパ造﹃正理の海﹂二根本中論 偶﹄細註︶﹁序章﹂の和訳﹂﹁五如理論l中論 の要諦﹂君巴︲﹂院︵京都、東本願寺出版 部︶ 小谷/ツルティムロ呂旦小谷信千代/ツルティム・ケ サン﹁仏教玲伽行思想の研究﹂︵京都、文栄 堂︶ 片野/ツルティムロg巴片野道雄/ツルティム・ケサ ン﹃ヅォンカパ中観哲学の研究Ⅱ﹂︵京都、 文栄堂︶ 梶山/瓜生津[己電]梶山雄一/瓜生津隆真﹁大乗仏典 皿龍樹論集﹄︵東京、中央公論社︶ 三枝[98]三枝充凛﹁縁起の思想﹄︵京都、法蔵館︶ ツルティム/高田[ら患]ツルティム・ケサン/高田順 仁﹁ツォンカパ中観哲学の研究I﹄︵京都、 文栄堂︶ 長尾[喧硬]長尾雅人﹁西蔵仏教研究﹄︵東京、岩波書 顧さ届︾影印北京版西蔵大蔵経令の匡侭両1旨○口目夢の画昌 目[言﹄冨〆、︶ 店︶ 長尾[届認]同﹁中論の構造l宗喀巴﹃中論釈﹄を中心 としてl﹂﹃中観と唯識﹂弓函曽山圏︵東 京、岩波耆店︶ 福田[らg]福田洋一﹁ツォンカパにおける縁起と空の 存在論l中観不共の勝法についてl﹂﹃とん ぱ﹄興弓侭︲$︵東京、出帆出版︶ 福田[98]同﹁ツォンカパの中観思想における帰謬派 独自の縁起説﹂﹁印度学仏教学研究﹄塩︲脚 君.馬今﹄昭︵東京、日本印度学仏教学会︶ 松本[ら雪]松本史朗﹃チベット仏教哲学﹄︵東京、大蔵 出版︶ 御牧[ら器]御牧克己/森山清徹/苫米地等流﹁大乗仏 典︿中国・日本篇﹀咽ツォンカパ﹄︵東京、 中央公論社︶ 山辺[乞鷺]山辺習学﹁仏弟子伝﹄︵京都、法蔵館︶ 吉水[岳弓]吉水千鶴子﹁与乱旦呂且目冒について l巨昌四日且ご四国畏呉目訂×旨く届を考え るl﹂﹁成田山仏教研究所紀要﹄g︸弓︾ 器生3︵東京、成田山仏教研究所︶ 母○m巨日旨匡ロ④④凸○臣い巨〆○国○め匡目旨匡︺︽︽○碁、S智四 ミ吻言苫ヨミ奪冴四息曾︲目目.騨昌§目印且 白ご︶寺ミ蕎昌具三宮ミ畠§ぎいミミ、ざ葦即ミ琴︲ 曽陣震急患︵﹁成田山仏教研究所紀要﹂︶弓﹀ 悪心韻出置︵東京、成田山仏教研究所︶ q q レ ヅ
①a小川[5$] ②且長尾︹ご認︺ ③幻o国四隠跣 ④a福田ロg巴︹98︺ ⑤F宛も農鯉&占同内容の論述が﹃ラムツォナムスン﹄ の主旨として論じられている。g小谷/ツルティム ロg己宅腿なおF幻では﹁縁起﹂はほぼ耳のロ︶百匹と 表記される。この﹁縁起﹂表記の胃①ロヴ邑から鼻のロ ︶ご匡品への移行に関しては、拙論﹁ツォンヵパにおける 縁起観の展開1月のロ︼言但から尉画﹀ご匡侭へl﹂︵﹁印度学 仏教学研究﹂第四十九号、gg︶を参照されたい。 ⑥筆者は既に詞の第一章を中心としてこの問題を論じた。 拙論﹁月邑ご巨品と尉屋↓耳①]lツォンヵパによる﹁縁 起﹂解釈﹂二大谷大学大学院研究紀要﹂第皿号、一九九七 弓宇隠︶を参照されたい。 ⑦﹁正理大海﹄第二十四章の科文は以下の通りである。太 字で記された部分が本和訳に相当する。またタシルンポ版 の該当箇所を括弧で記した。なお、科文の番号は、﹁東洋 文庫多言語データベース。p詞○巨﹂︵東洋文庫、一九九 七︶所収、殴胃且○陣方︺侭の属晶・言日の番号を使用させ て頂いた。 今中論註正理大海﹄第二十四章科文﹀ ︻司邑縁起︵§国ざ冒侭︶は自性として空であるという 説示に対する論難の排斥[界︺冨困首巴 ︻臼︼聖諦の考察[鵲旨巴 ︻国且本章の解説官曽島] ︻悶邑︹四︺向︹四︺果が不合理であるとい う論難[麗淫こ ︻観邑三宝が不合理であるという論難 ﹁.3J1ヨ 戸心。。四○﹂ ︻両︼業と果報などが不合理であるという論難 [いい吟印画] ︻固︼論難に対する回答[阻宙巴 ご巳対論者の論述は縁起︵﹃房ロ、ご匡侭︶の真 実を了解していない論難であることの説示[閉与邑 ︻〆邑対論者の述べた過失が自部︵中観派︶ には充たらないことについて厨匿冨] ︻ロ︼指摘された過失が充たらない理由 [いい吟ずい] ︻冨昌︹空の︺三義を了解していない論 難であることの説示[鵠浄巴 ︻巨邑そのような論難は二諦の誤解であ ることの説示官閉匡] ︻z呈誤解されている二諦の本質 [いい、ずい] ︻g︼﹃根本般若﹄の中で説示され る語義の解説両断園] [いい﹂ず画 ︻巨︼論難[麗旨巴 ︻官︼生滅などが不合理であるという論難 [画⑲侵す﹄] ︻肉邑四諦の作用が不合理であるという論難 40
︻○邑註釈の中で指示される決定さ れるべき意味[隠穿巴 ︻国︼世俗諦の解説[麗号と ︻恒︼﹁世俗﹂と﹁諦﹂との語 義解釈官患哀] ︻喝︼世俗諦の特質宮弓冨] ︻ぬ邑壯俗の分類宙$&] ︻も邑勝義諦の解説官と烏] ︻白︼﹁勝義﹂と﹁諦﹂との意 味の解説官と&] ︻旧︼勝義諦の特質[隠母巴 ︻罰邑意味そのもの[膿母巴 ︻詞邑論難の排斥宙怠冨] ︻曾︼如実を御覧になるこ とは不合理であるという論難の排斥[艦留旦 ︻圏︼如量を御覧になるこ とは不合理であるという論難の排斥宙患巴] ︻g︼勝義諦の分類の解説 [画心①画①] ︻勺邑諦は二つであると確定して いることの説示官自農] ︻z邑二諦を知らなければ聖言の真実 を知らないこと面s農] ︻z邑二諦を説示する目的[隠殴巴 ︻z皇二諦を誤って捉えた場合の弊害 [四一mす﹄] ︻z邑二諦は了解し難いため説者釈尊 が説法跨踏されたことについて[隠學二 ︻F邑述べられている過失が充たらないこ との説示そのもの宮ら爵] ︻伊邑過失が存在しないだけでなく功徳が 存在することについて官呂鼠] ︻尉邑過失を立てる者にまさにその同じ過失 が充たることについて宙呂匿] ︻ロ︼過失を立てる者にまさにその同じ過 失が充たる理由両g闇] ︻F邑それによって自己の過失を他者の過 失として捉えることについて宮g患] ︻旧邑その諸々の過失であるものの明示 [い、]四四] ︻両︼自部の御主張が空の意味は縁起言g ざ旨眉︶の意味であることの説示雨臼呂] 日邑そのように主張しない為にあらゆる措定 が不合理であることについて[誤留邑 ︻嗣邑所知である四諦が妥当しないこと [い、四四画] ︻〆邑四諦を︹遍︺知すること等と凹果が妥 虫コーレ先任いこし﹂官、いす里 ︻屍邑三宝が妥当しないこと[韻宙と ︻〆邑作者と業果が妥当しないこと[誤夢巴 ︻〆邑世間の言語慣習が妥当しないこと [画印四四胃] 41
︻︻&出世間の言語慣習が妥当しないこと ﹁う11ニフユ 行い○○口い﹂ ︻志︼縁起︵風gゞご巨眉︶の真実を見ることが 四諦の真実を見ることになること[思留と ︻函邑本章の概要および特質の解説[囲号里 ⑧母。切言目画ロ[$程]甚胃〃吉水官瑁己や弓においてツ ォンカパによる号口々ご匡侭の定義として示されたこ の二つの縁起の意味は、しかし顕現であり世俗なるも のとしての縁起を指示する目の目ず且の定義であり、勝 義を指示する箭邑︾ご巨侭の定義とは区別されるべき ではないだろうか。 ⑨冨国四旨︾冒恩骨冨具尽冒冒鳥ぐ。︸﹂︶弓冨盟骨 弓の×厨︵⑳四国め弄吋群.目号①日ロ.○巨国のmの︶︺門口so山里目号旦旨四 ﹄︶国oロロ︺ご忠弓患︲亀梶山/瓜生津ロ場ユロ 四m四. ⑩昔匡 ⑪勺祠弓患い?$p﹄ ⑫F屈○冒品︶屯冨﹂誤冨︲尻艀蝕ツルティム/高田 [59]弓3︲計.では﹁縁起の論拠の解説﹂という項 目のもと、ほぼ同論旨の議論が展開されている。 ⑬弔弔も血E﹄由もの置侭.号画囹もロ︺陪蟹。 ⑭而詞pgP印③F医長号.ご回掃匡︼麗匡︲い ⑮弔詞ロmEひもの置侭.号﹄閏目四面曽尉 ⑯この職えは、五比丘の一人威儀第一のアッサジの教 化によって、ウパティッサ︵シャーリフトラ︶が仏教 に帰依していくエピソードに基づくものであり、その 時アッサジがウパティッサに伝えた教えが﹃縁起法頌﹄ として伝えられる。すなわち﹁諸々の法は因より生ず る、如来はそれらの因を説く、諸々の減を︹も説く︺、 偉大な沙門はこのように説く﹂というものである。且 山辺[ら霞]弓器︲認三枝[ggご西国 ⑰崩置眉〃三○紹尉目、四﹀困冨 ⑱勺祠やg回ら︲国F匡侭ヨ○馬い国︶困昏印。 なお本文では経名が﹃の菌目呂○“国言い﹃海所問﹄とさ れるが、これに該当すると考えられる﹁海意所間経﹄ ︵三○曽巴﹃海龍王所問経﹄︵zo忠eではなく、 ﹃無熱龍王所問経﹄の中にこの偶頌が見出される。ま た、ツォンカパが[5口“ごロ侭と記した語は経の中で は鳥目園となっている。引用とは若干異なる本経の 偶頌を以下に示す。日与四mg§ロロ昌呂O巳四日oの息 旦いい﹃、Hロ︵ぽい同岸四ヶ血目四m口回切もい﹃員戸︺ず︼①匡旦①、、﹃ぬ国匡 目己の﹂門戸国①邑員﹄①Q○ず○mロ]冠○二門口凹望︼巳、と0面○m目﹄︻ぬくロ︻ 吋丙ぐのロロ○四のロ四吋回す庁巨めず①の、、 ⑲も祠固臼据甲回顧置侭三○討早扇国言︺認E︲。 以下の部分が該当箇所と考えられる。隠焉の・鴨︶昌侭 門口鐸印庁○口、ロ山、、︻ぬ冒四︸すいい巳の﹂匡冒ぬすめ︿四口H己目ぬい巨口m﹃ヘ ○一︶﹄℃ロく胃いすのロ四︶﹂﹄言四ヶ匡門﹃、Hmpmm]H四口いず箇固一口ぬ い口凹めぬ望pHロ皿、、両国屋﹃ず、H国のgo﹄邑胆弄冒の門園巨胴切庁①、、。① 旨い︾ロゴの胃H胃のQ︺ぬH]ず壱四国声①匡、、 ⑳勺詞亨臼P制9.刃冨侭zo函厨房匡虐8馬︲今 全同ではないが次の箇所が部分的に一致する。 めぽ凶引﹄︾﹄豆匡︽﹂﹄二四○冨○の両釦︾いぽ一mHg国mmm四日、胃、畠、旦釦、 42