神学的思惟 の倫理学的反省
持 田 行 雄
An Et hi calRef l exi on ofTheol ogl CaIThi nki ngs
YUKI O M ocHI DA
A bs t r a c t
Thea i m o ft hi spa pe rl St Or e f l e c te t hi c a l l yo nr e c e ntt he o l o g l C a lt hi nki ngs . Thec o nc e pto f" Go d"o nc ewa so neo ft hes t r o ng e s tg r o undst opr e s c r l be t he c o ns c i o usa c t so fma n.No wa da ys ,Go di nge ne r a l wa s" ki l l e d"byF. Ni e t z s c he( a nd t ha tme a nst h ee ndo ft heme t a phys i c a ldua l i s m,i nwhi c hi ti st ho ug htt ha tt het wo wo r l ds‑ uppe ra ndl o we r ,s upe ma t ur a la ndna t u r a l ,s pi r i t ua la ndma t e na l ,a nds o f o r t h ‑ a r el ne XI S t e nC ea ndt hef o m e rr e s t r i c t st hel a t t e r ) .Ne ve r t he l e s s ,Go da st he pr e s c r i pt i veg r o undo fhuma na c t sha sno tbe e nc o mpl e t e l yde a d.h c a s eo fe me r g e nc y a ta nymo me nta ndi na nypl a c eHec a na ndmus tc o met ol i f el nO u rda i l yl i ve s . He nc e也epr o bl e m o fo urr e l a t i o nwi 仇 Go da l s oc a nbeac e nt r a lt he met oo ure t hi c s a sas c i e nc eo fhuma na c t s .Undo ubt e dl y,t hi st he mes ho ul dno tbede a l ts ot hatGo d ,
no tc o mpl e t e l yde a d,ma ybei g no r e dbyr a di c a la nde t hi c a lc r i t i c i s m .I fwec a nc o me a c r o s sGo dhe r ea ndno w,Weha venor e a s o nwhyo ure t hi c ss ho ul dbes omuc h" s ci e nt i f i c "
a st o" ki l l "e ve ns uc hGo d.Ofc o ur s e,o nt hi so c c a s i o n,t hec o nc e pto f" Go d" l t S e l f s ho ul dr a dl C a l l yber e f o r me d. A ndo urque s t i o ni sa sf o l l o ws: Whe r ea ndwhe nc a n wec o mea c r o s s" o uro wnGo d" ?
Asi swe l lkno wnt oe ve r y bo dyt hi sI St heque s t l O nt ha tt heGe m a nPr o t e s t a nt t he o l o gy,pa r t i c ul a r l yt hee xi s t e nt i a lt he o l o gyi nt het we nt i e t hc e nt ur yha sbe e npur s u‑
i nga saba s i c仏e me.The r e f o r ei no ure t hi c swes ho ul d,丘r s t ,l l S t e nmo de s t l yt ot h e wo r dst ha tt hee xi s t e nt l a l也e o l o gyt e l l sa bo utpr o bl e mso fGo d,a nds e c o ndl y ,r e f l e c t o nt hewo r dsa smuc ha spo s s i bl ef r o m t hevi e wpo i nto fo ure t hi c swhi c hde a l sGo d a st h egr o undt opr e s c r i behuma na c t s ,a nd山l r dl y,S e e ka f t e rt hec l ue st or e s o l vet he que s t i o nwhi c hwepr e s e nt e da bo ve .
‑ 1 5
‑1 . 「 神 との事柄 」 を問 う問題
「神 は死 んだ。神 は死 んだ ままだ。 しか も,我 々が神 を殺 したのだ。 あ らゆ る殺害老 中の殺 害者 であ る我 々は, どの ように して 自分 を慰 め るのか。世 界が今 日まで所有 して きた最 も神聖
な,最 も強 力 な ものが,我 々の メスの下 で血 を流 して死 んで しまってい る(ol)」
これ は
1 9
世 紀末 にFr i e dr i c hNi e t z s c he
が行 なった有名 な 「神 の死亡 宣言」であ る。彼の著作 活動 の中期 を代 表 す る作 品 『悦 ば しき知 識』 中の断章1 2 5
に見 える。 もちろん, 「神 の死」 とは, 単 にキ リス ト教 の信仰 す る神 の存在 を否定 した言葉 であ ったばか りでな く, その キ リス ト教 を 中軸 に して きた ヨー ロ ッパの形而上 学全体 が終 わ った こ とを告 げ る言葉 で もあった。事実, あ の 「超 人」 を教 えるZa r a 也us t r a
は,「大地 に忠実 であれ。 そ して,天上 の希望 を語 る人々 を信じるな.J と説 き, 「も し神 々が存在 す るな らば, どう して私 が神 でない こ とに耐 えられ ようか。
この故 にこそ神 々 は存在 しない
o
J と叫 んでい る(02)近代 の神学的超 自然主義
( Supr a na t ur a l i s mus)
には, その背後 に 1つの特別 な世 界観 が存在 していた。 ギ リシア哲学 か ら受 け継 がれ, 中世 を越 えて近代 に まで至 った宇宙論 的二元論 であ る。 この図式 に よれ ば,上方 と下方, 超 自然的 と自然的,精神 的 と物質的,神的 と人間的 とい う全 く異質 な2
つ の世 界が存在 す る。 しか も,単 に2
つの世 界が実体 として存在 す るばか りで な く, 彼岸世 界が此岸世 界 にその意 味や 目的 を与 え, そ うす るこ とに よって此岸世 界 を拘 束 し 制約 す る とい う㌘)ニーチ ェは,神 の死 を宣告 す るこ とに よって, いわ ば この よ うな近代 的思惟 の総 決算 を行 な った と言 って よい。神 が死 んだ とい うこ と, す なわ ち,我 々の現実世 界 に意味や 目標 を与 えて きた背後 の世 界が消 え失 せ た とい うこ とが, 彼 に とっては, 歴 史 におけ る 「近代 の最 大 の出来 事 」 であ った。 それ故, 彼の宣言 は,単 に信仰 が消 え失 せ て,柿 ‑ の問 いが沈黙 して しまった こ とを意味 したばか りでな く, 「彼岸 か ら此岸へ」 の絶 え間 ない運動 の中で,一切 の形而上学一 般 が終 わ って しまった こ とを も意 味 したので あ る㌣)い ま,下方世 界 に対 す る上方世 界の優位 を 説 く形而上学的価値 観 の一切 が,その意味 を喪失 す る。そ して, 「すべ ての訪 問客 の中で最 も薄 気味悪 い訪 問客」, す なわ ち
,Ni hi l i s mus
が戸 口に立つ。意味 もな く, 目標 もな く, 無へ の フ ィ ナー レもな く,不 可避 的 に回帰 して来 るあ るが ままの生存,全 く偶 然 とも見 える酉告悪 な地上 の 坐, この無意味 な ものが永遠 にわた って必然的 に回帰 す る㌘)しか も, ただ この 「永遠 回帰」 だ けがニーチ ェに とっては 「目 も くらむ ような」真理 で あ る。 こう して,上方 の彼岸 か ら創造 し 意味 を与 えつつ下方 の現実世 界へ と割 り込 んで来 る神 的 な超越世 界 (Ube r we l t )
とい う表 象 は,その力 を失 って消滅 した。 もはや 人間 は, その時 々の状 況 に従 って交換 で きる上方 と下方 とい う
2
つ の平面上 に生 きてはいない。 この世 の大地 とい う1
つ の平面上 に生 き得 るばか りであ る。これ こそ,近代 が行 な って きた, しか も現代 が その遺産 として引 き受 けなけれ ばな らないあの 世俗 化
( Sa kul a r is i e r ung)
過程 の核心 であった。しか し, 人間 は, これ まで地上 の生 に対 して規範や 目標 や価値 を与 えて きた超越世 界が力 と 生命 とを失 った まさにその瞬 間 に, 地上 に対 す る支配 を引 き受 け る とい う課題 の前 に立た なけ れ ばな らない。主体 と しての 人間 は, 今や客体 としての世 界 を自分 の認識 と計画・とに服従 させ なけれ ばな らない。 人間 自身が価値 や規範や 目標 を定 め て,今 までは上方 か ら照 していた光 を この世 に対 して与 えなけれ ばな らない。 こう して, 「もはや 自己 を神 の被 造 物 としては理 解 せ ず, 自己の生命 と法 則 とを創造者 か ら受 け取 らず, む しろ自己の真理 と正義 とを自己 自身の中 に もつ 自己完結 した世 界」が出現 す る。 この世 界 には, もはや 「形而上学的」あ るいは 「神的」
な法 則 とい う何 か あ る別 の法 則 に従 って何 か が生 じる よ うないか な る場 所 も存在 しない。現代 の 人間 は, もはや 「神」 とい う作 業 仮 説 (
Ar be i t s hypo t hes e)
な しにや って いけ る と信 じて い る。 人間 は, ツア ラ トウス トラの勧 め に従 って, 彼岸 の諸 力 に よ るすべ ての拘 束 を断 ち切 り, しっか りと此岸 に住 みつ いて しまったの で あ る。 こ う して, 人間 が 「成 人」 にな ったの とち ょ う ど同 じ程 度 に, この世 は,神 の世 界か ら人間 の世 界‑ と変 わ った(06)この全面 的 な世 俗 化 は, 無神論 に帰結 す る。 この世 を世 俗 化 す るこ とと神 をこの世 か ら追放 す る こ ととは同一 の過程 で あ る。 人間 が この世 を対 象 と して表 象 し処理 す る とき, 人間 の手 の 下 で この世 は世 俗 化 し, 有 限 に な り, 神 を失 った もの に な る。 かつ て無神論 は, 小 さな前衛 的 グルー プの事 柄 で あ った。今 や それ は
, 1
つ の大 衆現 象( Ma s s e ne r s c he l nung)
で あ る。今 日, 人 は もはや,苦 しい内面 の闘争 に よって, あ るい は危険 な社 会 的対 決 にお いて, 無神論 に到達 す るの で は ない。 す で に 自明 の こ とで あ るかの よ うに無神論 か ら出発 す る。 人 は もはや神 の否 定 の ため には決 して努 力 しな い。 人 はす で に神 の問題 の彼岸 にい る自己 を見 出 して い る。現 代 で は無 神論 その もの が世 俗 化 され て しまった㌘)この世 俗 化 した世 界 にあ って我 々 は なお どの よ うに して神 につ いて語 るこ とが で きるだ ろ うか。今 日, 神 学 者達 の論争 で さ え も, 処 女 降誕 とか神子性 とか被昇 天 な ど とい った個 々の事柄 に つ いて行 われ て い るの で は ない。事 実上 , 神 をめ ぐって行 われ て い る。神 は存在 す るか否 か と い う問題 で もない。 それ はす で に退 屈 な問題
( e i nel a ngwe l l i geFr a ge)
になった。神 は どこに 存在 す るか。神 は どの よ うに して生 起 す るか。我 々 は どの ような仕 方 で神 を体 験 で きるか。我 我 は どの ように神 につ いて語 らなけれ ば な らな いか。 これ らが今 日の問題 の 中心 で あ る。 ただ 全体 と しての 「神 との事 柄」( dl eSa c heni tGo t t )
だ けが問題 なの で あ る。 そ して, その限 り でのみ個 々の事柄 もまた問題 に な る。 キ リス ト教 の使 信 は (少 くともその伝 承 され て きた限 り にお いて は), 今 日, 大 抵 の 人 々の神 につ いての問 いに対 して, もはや適 切 な答 え を与 えて くれ て は いない。従 って また, この世 の 中 にあ る 自己 を理 解 し, その生 活 を意 味 あ る もの にす るの に十分 な可能性 を も与 えて くれ て は い ないの で あ る。大抵 の 人 々が神 につ いて問 う問 い は, 伝 承 され て きた キ リス ト教 の答 えで は もはや満 足 で きな くな って い る とい うち ょう どその点 に 自らの苦悩 を もつ。現 代 の神学 は, 変化 した この世 の現実 にキ リス ト教信仰 を容赦 な く対 決 させ な けれ ばな らない。単 に変化 した この世 の現 実 にばか りで な く, この現実 に対 す る人間 の関係 に も, す なわ ち, 現代 の真理 意 識 や現実 意 識 の全体 に も容 赦 な く対 決 させ なけれ ば な らない。
それが, 今 日,神学 の最 も重 要 な問 題 で あ る
。2 0
世 紀 の プ ロテ スタ ン ト神学 は この よ うな問題 に立 ち向 か ってい る㌘)この よ うに, もはや ほ とん ど世俗 化 して しまった現代 の精 神 的状 況の 中 で,殊 更改 め て倫理 学 が 「神 との事柄 」 につ いて問 うこ とに一 体 どれ ほ どの意 味 が あ るの だ ろ うか。 す で にニー チ ェは, 自分 で神 を殺害 してお きなが ら明 るい朝 に角 灯 を とも して神 を探 し歩 く人間 を描 き出 し, そ こに 「狂 人
」( De rt o l l eMe ns c h)
とい う標 題 をつ け た㌘)今 日, 「神 との事 柄」 につ いて問 う 者 は, もはや ニー チ ェの言 う 「狂 人」 で しか な いの だ ろ うか。か つ て, 「神 」 とい う概 念 は, 人 間 の 自覚 的 行 為 を決 定 す る最 も強 力 な規 定 根 拠
( Be‑
s t i mmungs gr und)
で あった。多分,この両 者 の関係 は今 も変 わ ってい ない。確 か に,神 一般 はニ ー チ ェに よって 「殺 害 」 され たけれ ども (そ して, それ は, 上 方世 界 と下 方世 界 とい う2
つ の 世 界が実 在 し, 前者 が後者 を制 約 す る と考 え る よ うな宇 宙論 的二 元論 の終 わ りを意 味 したけれ ども), しか し,人間的行 為 を規定 す る根 拠 と しての神 は,決 して死 に果 てて しまったわ けで は ない。 この神 は, いつ で もどこで も事 あ る毎 に, 我 々の 日常 生 活 の うちに よみが え って来 る こ とが で きる し, また,現実 に もよみ が え って来 なけれ ばな らな い。 む しろ, 神 自身 が我 々の生‑ 1 7‑
活 の 中 に生 きて働 くこ とを望 んで い る とも言 え る。 こ う して,倫 理 学 が 人間 の行為 を研 究 す る 科 学 で あ るな らば, 「神 との事 柄 」 を問 う問題 もまた, 我 々の倫 理 学 の 中心 的 なテ‑マ にな り 得 る し, また, な って よい。 もちろん, この よ うなテーマ は, 今 なお死 に果 て て いない神 を, 徹 底 した倫 理 学 的批判 に よって地上 か ら完全 に抹 殺 して しま う とい う方 向 で考 え られ て ほな ら
な いだ ろ う。素 朴 な 日常体 験 にお いて は, 神 は今 なお十分 に倫理 的行為 の規定 根 拠 に な り得 る の で あ る。現代 の神学 もまた 「神 との 出会 い」 を求 め て い る。現 実体 験 が告 げ, 現代 神学 が説 くよ うに, も し我 々が 「い ま ・ここ」で神 に出会 うこ とが で きるな らば,た とえその 「出会 い」
自体 は ロゴス化 で きない として も, 我 々 には, 現代 の倫理 学 が なお その よ うな神 まで も 「殺 害」
して しまうほ ど 「科 学 的」 で なけれ ば な らな い とい う何 の理 由 もないの で あ る。 従 って, 今 は,
「神 との事柄 」 を問 う問題 な どが果 た して現代倫 理 学 の テーマ にな り得 るの か と問 うこ とよ り も, む しろ, この よ うなテーマ を もっぱ ら神 学 にばか り委 ね てお いて, ほ とん ど自 らの研 究 テ ーマ とは して来 なか った従 来 の倫 理 学 に対 して, 勇敢 に不 満 を語 る こ との万 が は るか に大切 な の で はなか ろ うか。 もちろん, その場 合, 「神 」概 念 その ものが根 本 的 に変 革 され るべ きであ ろ う。 こ う して, 我 々の問題 は次 の よ うにな ろ う。‑ 我 々現代 人 は, いつ どこで 「自己 自身 の神 」 に出会 うこ とが で きるか。
周知 の よ うに, これ は
,2 0
世 紀 の ドイツ ・プロテスタン ト神 学, と りわ け実 存論 的神学 が基本 的 なテーマ として追求 して きた問題 で あ るO その 限 り, 現代 の神学 的思惟 は, 倫理 学 的研 究 の いわ ば 「先 駆者 」 で あ る とも言 え よ う。事 実, 現代 の プロテスタン ト神 学 は, その研 究 の 内容, 方 法, 態度, 領域 な どにお いて著 し く倫理 学的傾 向 を示 して い る。学 問 が狭 い専 門領域 に固執 す る時代 はす で に過 ぎ去 ったの で あ ろ う。従 って, 我 々の倫 理 学 は, 先づ初 め に, 「神 との事 柄 」 の問題 につ いて語 る実存論 的神 学 の言葉 を謙虚 に聞 き分 け, 次 に, 人間的行為 の規定根 拠 と して神 を考 え る倫理 学 とい う視 点 か ら,それ らの言葉 にで きる限 りの 反省 を加 え, こうして, 上 に提 起 され た問題 に対 して倫 理 学 自身の 「応答」 を行 なっていかなけれ ばな らないで あ ろ う。2. R.
プル トマ ンの 「信 仰 と理 解」
ヨー ロ ッパの プ ロテ ス タ ン ト神学 は
,2 0
世 紀 に入 ってか ら急速 に進 展 した。 その進 展 の速度 は, ほ とん ど他 の学 問 の世 界 にその類 を見 ないほ どで あ る。 恐 ら く, 自然科 学 を別 にす れ ば, 第一 次世 界大戦 か ら今 日に至 る まで, 他 の どの よ うな学 問 の部 門 にお いて も, 神学 に見 られ る ほ ど多 くの新 しい展開 は起 こって い ない 。 また, 改革 や変化 も生 じて は いない。 しか も, この 神 学 の最新 の時期 の結 末 につ いて は まだ決定 的 な こ とは何 も認 め られ て いない。 この複雑 な対 話 の状 況 は, 今 の ところ まだ全 く未解 決 な ままで あ り, ほ とん ど混乱 して い る よ うにす ら見 える
( o lO)
こ う した
2 0
世 紀 の偉 大 な 「神 学 的方 向転 換」はKar lBar t h
と共 に始 まった。 そ して, このバ ル トが第一 次世 界大戦 後 の神学 界 に影響 を与 えたの とち ょう ど同 じよ うに, 第二 次世 界大戦 後 の ドイツ神 学 に力強 い影響 を及ぼ した神学 者 はRudol fBul t ma nn
で あ る。彼 は,バ ル トが代 表 した弁 証法 神学 とい う新 しい出発 の地 盤 に立 って,1 9
世 紀 の 自由主義 神 学 が後代 に残 した歴 史 的 ・批判 的 な問題提 起 を,現 代 の神 学 と教 会 との ため に仕 上 げ ようと試 み た神 学 者 で あ る( o i
l)
そ して, その神学 の伝 統 は, ブ ル トマ ンにお いて1
つ の頂 点( c l i ma x)
に, また恐 ら くは1
つ の 終 点( pe r i od)
に も到 達 した。彼 の神 学 は, その神学 的立場 ‑ の改宗 者 を多 く作 ったばか りで な く, 他 の 人々の ための 出発点 ともなって い る。 彼 によって1
つ の時代( er a)
が終 わ り, もう1
つ の時代 が始 まったの で あ る( 0 12)
ブル トマ ンに よれ ば, 「科 学 的 世 界 観 は
1
つ の大 きな誘惑 を生 み出す」 とい う。 す なわ ち, 人間 が世 界 と自己 自身 とを支配 す るため に努 力す るとい う誘 惑 で あ る〜 1 3 )
事 実,現代 の 人間 は も はや いつ で も自由 に超 自然的 な力 に よって捉 え られ る二元論 的 な存在 と して 自己 を理解 して は い ない。 む しろ, 自己の思惟, 意欲, 感情 を自己 自身の責 任 とす る統一 的 ・自己完結 的 な存在 と して理 解 す る。今 日で は, 何 か超 越的 な力が直接 介 入す る こ とに よって 自然や歴 史の進行 が 突然 に中断 され て しま うな ど とは誰 も予 想 して いない 。 ま して, なぜ 自己の生 の意 味 が その よ うな こ とに よって決定 され るべ きなの か とい うこ.とを, もはや誰 も理 解 す る こ とはで きないで あ ろ う( 0 1 4)
この よ うな事 情 は, 新 約 聖 書 の宣 教 を理 解 しよ う とす る場 合 に も同 じであ ろ う。 「聖 書解釈 ち, 他 の すべ ての文 献 とは違 った理 解 の条件 の下 に置 かれ て い るわけではない」 か らであ る(015) 今 日, もはや 人間 は新約聖 書 が 人間 の本質 や運 命 につ いて語 るこ とを理 解 しない。新約聖 書 が 語 る世 界の神 話論 的 表 象 (超 自然的霊 力 に よる地上 ‑ の介 入, 原 罪 に対 す る刑 罰 と しての死, 十 字架 上 の類 罪 と しての死, 生 命 力 を解放 す る出来事 と しての復 活 な ど)は, 現代 人 に とって は全 く不 可解 で あ る。単 に不 可解 で あ るばか りでな く無 意 味 です らあ る。新約 聖 書 は, 神話論 的 に語 る限 り, 今 日の 人 々 に とって,信 じ難 い もの で あ る。現代 人 に とって神話 的世 界像 は全
く過 ぎ去 った もの で しか ないか らで あ る。
この よ うに, 我 々の世 界像 や 自己理 解 は, 新 約聖 書 の神 話論 的表 象の世 界 とは相 互 に矛盾 し 合 って い る。 この矛盾 は どの よ うに して解 消 すべ きで あろ うか。我 々 は, イエ スの倫理 的 説教 の み を残 して, 彼 の終 末論 的 説教 は棄 て るべ きで あ ろ うか。 イエ スの神 の国 の福 音 を 「社 会的 福 音」 に まで縮 少 すべ きで あろ うか。 それ とも, 第三 の可能性 が存在 す るで あ ろ うか。 い ま, 我 々 は, 終 末論 的 説教 と神 話論 的 言表 とが, 全体 と しては, なお神 話論 の覆 いの下 に隠 され て い る一 層 深 い意 味 を含 ん で い ないか どうか を問 わ なけれ ばな らない。 も し含 ん で い るな らば, 我 々が その一 層 深 い意 味 を残 したい とい うまさにその理 由 か ら, 我 々 は神 話論 的概 念 を棄 て去 るべ きで あ ろ う。 こ う して, 新 約聖 書 の宣教 が その妥 当性 を保持 すべ きで あ るな らば, その宣 教 を非神 話化 す る以 外 に道 はな いの で あ る。 この神話 論 的表 象 の背 後 に一 層 深 い意 味 を発 見 し
よ う とす る新 約 聖書解釈 の方法 は, 「非神 話 化
」( Ent myt ho l ogi s i e r ung)
と呼 ばれ て よい。もち ろ ん, 非神話化 を行 な う 目的 は, 神 話論 的 表現 を削除 す る こ とではな くて, それ らを解釈 す る こ とで あ る。聖 書 や キ リス ト教 の使 信 を全体 と して拒 否 す る こ とで は な くて, 過去 の一 時期 の 世 界観 で あ りなが ら余 りに も多 くキ リス ト教 の教義 学 や教 会 の説教 の 中 に残留 して い るあの聖 書 の世 界観 を拒 否 す るこ とで あ る。 非神話化 の仕 事 は, 神 の言葉 の呼 びか け を明 らか にす る こ と以 外 の 目的 を持 って は い ない 。 それ は, 神話論 的表 象 が もつ一 層 深 い意 味 を探 り,過 ぎ去 っ た世 界観 か ら神 の言葉 を解放 して, 聖 書 を解釈 しよう とす る もの で あ る。従 って, 非神 話化 は 解 釈 学 の一 方法 なの で あ る( 0 16)
この よ うに, ブル トマ ンに よる非神話化 の ため の プ ロ グラム は,「彼 が キ リス ト教 の伝 統 的 な術語
( t e r mi no l ogy)
に よって疎 外 され て い る と信 じて い る世 代 に 対 して神学 的 に語 る とい う情 熱的 な関心」 か ら現 れ た もの とい え よ う( 0 17)
非神話 化 は, 解釈 ない し釈義 の一 方法 で あ るO‑椴 に, 解 釈 は, ブ ル トマ ンに よれ ば, 解釈 者 とテ キス トの著 者 との両 者 が語 られ て い る乃 至 は問 われ て い る事 柄
( Sa c he)
に対 して等 しい生 関 連
( Le be ns be z ug)
を もつ こ とに よって成 立 す る。 なぜ な ら, 問題 提 起 は問 う者 の生 に 根 拠 を もつ よ うな関心 か ら生 じ, しか もその関心 が また何 らかの在 り方 で解釈 され るべ きテ キ ス トの 中 に生 きて いて, 解 釈 者 とテ キス トとの間 の交 流( Ko mmuni ka t i o n)
を引 き起 こす とい うこ とがすべ ての理 解 しよ う とす る解 釈 の前提 で あ るか らで あ る( 0 18)
従 って,例 えば,「哲学上 の テ キス ト」 の 解 釈 も, も しそ れ が真 に理 解 す る解 釈 で あ ろ う とす るな らば, 自 ら真理 ‑ の‑ 1 9‑
問 い に よって動 か され て い な けれ ば な らな い。 解 釈 は, 著 者 との デ ィス カ ッ シ ョンに お いての み行 なわ れ得 る。 ただ プ ラ トン と共 に哲学 す る者 だ け が プ ラ トン を理 解 す る
( . 19)
この よ うに, 解 釈 は決 して無 前提 な もの で は な い。 解 釈 は, 常 に解 釈 が テ キ ス トに問 い合 わ せ る事 柄 の 前 理 解
( Vo r ve r s t a ndni s)
に よって導 か れ て い るo 問 題提 起 も解 釈 一 般 も, この前 理 解 に基 づ いて初 め て可 能 に な る( 0 20)
すべ ての解 釈 が語 る こ とや 問 うこ との うちに存在 す る事 柄 の あ る種 の前理 解 に よ って必 然 的 に導 か れ て い るの で あ る㌘
1)そ う した前理 解 とそれ に よって導 か れ た問 い とか な けれ ば, テ キ ス トは沈 黙 した ま まで あ ろ う。 大切 な こ とは, その前理 解 を取 り除 くこ とで は な くて, それ を意 識 に まで高 め る こ と, それ をテ キ ス トの理 解 の うちで 批 判 的 に吟 味 す る こ とで あ る。 す なわ ち, テ キ ス トに問 いか け なが らテ キ ス トに よ って 自己 自身 に問 いか け させ る こ と, テキス トの要 求 に耳 を傾 け る こ とが大切 なの で あ る㌘2)
それ故, ブ ル トマ ン に とって, 解 釈 者 は客 観 的 認 識 に到 達 す るため に 自己の主 観 性 を沈 黙 させ, 自己の個 性 を抹 消 しな けれ ばな らない とい う要 求 は, 「考 え得 る限 り最 も不 合理 な もの」 で あ る。 こ こで は, 最 も 主観 的 な解 釈 が, 最 も客 観 的 な解 釈 で あ るか らで あ る。 自己 自身 の実 存 の問 い に よって動 か さ れ て い る者 の み が テ キ ス トの要 求 に耳 を傾 け る こ とが で きるの で あ る( 0 23)
しか し, この問 いか けの 「何 処 に
」( Wo r a uf hi n)
は, す なわ ち解 釈 の方 向性 は, 結 局 の とこ ろ, 「人間 の硯 存在 が活動 して い る生 の局 面 と しての歴 史 (Ge s c hi c ht e
)‑ の関 心 」 に よって与 え られ ることがで きる。 人間 の現 存 在 は,歴 史 の 中 で 自己の可 能 性 を獲 得 しそれ を形 成 す る。現 存 在 は, この歴 史 を 自覚 す ることで, 自己 自身 の理 解, 独 自な可能 性 の理 解 を得 るの で あ る( . 24)
なぜ な ら, 歴 史的現 象 は, 自然 の現 象 とは異 な っ た性 質 を持 って い るか らで あ る。歴 史的 現 象 は, それ を把握 す る歴 史的 主 体 な しに, 歴 史的現 象一 般 と して存 在 す るわ けで は な い。過 去 の 諸事 実 は, それ らが 自 ら歴 史 の う ちに存 在 して歴 史 に参 与 す る主体 に とって意 味 の あ る もの と
な る と き, す なわ ち, それ らが語 りが ナるとき, その と き初 め て歴 史的現 象 に な るの で あ る
( 0 25)
こ う して, ブ ル トマ ンの実 存論 的 神 学 に 「歴 史」 が問 わ れ る こ とに な る。 かつ て は神 学 と哲 学 す なわ ち信仰 と理 性 との関係 が 問 題 で あ った。 今 や神 学 と歴 史 す なわ ち信仰 と実 存 との関係 が問題 で あ る。 この場 合,問題 を複雑 に しているの は, 「歴 史」 を表 す語 が ドイツ語 に は
2
つ あ る とい うこ とで あ ろ う。その
1
つ は,I i l S t O r l e
と して の 歴 史 で あ る。 この 語 は, 「実 際 に起 こ った こ と」 す なわ ちhi s t o r i c a lf a c t ua l i t y
を意 味 す る。 従 って,de rhi s t o r i s c heJ e s us
とい えば, それ は 「実 際 に存 在 して い たままの イエ ス」 とい う意 味 で ある。 この ヒス ト‑ リエは, 歴 史科 学 に よ る探 究 に属 し て い る。 それ故, この種 の歴 史的知 識 は, 信仰 の ため の地 盤 と して役 立 つ こ とは で きな い。 ブ ル トマ ンに よれば, 信仰 とは 「呼 び か け に対 す る私 の応 答」( myr es po ns et oac a l l )
で あるか らで あ る( 0 26)
以 下, この ヒス ト‑ リ工は仮 に 「事 実 史」 と訳 す こ とに しよう。但 しde rhi s t o r is c he J es us
の み は, 慣例 に従 って 「史的 イエ ス」 と しな けれ ば な らな い。もう
1
つ は,Ge s c hl C ht e
としての歴 史 で あ る。 この語 は, 「今 な お生 きて影 響 を与 え,未 来 に とって も意 義 を もつ過 去 か らの 出 来事 」 を意 味 す るO 実 存主 義 者 の ブ ル トマ ンは, この種 の歴 史 との 出会 いか ら正 確 に 自己理 解 が成 し遂 げ られ るもの と信 じて い る( 0 27)
以 下, この ゲ シ ヒテ は 単 に 「歴 史」 と訳 す こ とに しよう。 もちろ ん, ブル トマ ンに とって一 層 重 要 な意 味 を もつ 語 は,この 「歴 史」 の方 で あ る。 彼 は次 の よ うに語 る。
人間 存 在 に関 す るキ リス ト教 の 観 念 に され ば, 人間 とは本 質 的 に時 間 的 な存 在 で あ る。 この こ とは, 人間 が 自己の性 格 を形 作 って い る過 去 を持 ち, 新 しい出会 い を常 に生 み 出 す未 来 を持 つ歴 史的 存 在 で あ る とい うこ とを意 味 す る
( 0 28)
私 は, 歴 史 を理 解 す ることに よって, 人間 の生 の 可能 性 を理 解 す る こ とが で きる。 また, そ うす る こ とに よって, 私 自身 の生 の 可能性 を も理 解するこ とが で きる。歴 史 を研 究 す る究極 の理 由 は, この 人間 の実 存 の可能性 を自覚 す るよ うに なるということで あ る(.29)歴 史 に対 す る人間 の関係 は, 自然 に対 す る人間 の関係 とは別個 の もの であ る。 人間 は 自己本 来 の存在 にお いて 自己 を捉 え る とき, 自己 を 自然 か ら区別 す る。 人間 は 自己 自身 が歴 史の一 部 で あ る。 従 って, 1つ の関連 (作 用関連 )‑ と向 け られている。 そ して, この関連 の 中で 自己 自身 は 自己の存 在 と絡 み合 って い るの で あ る。 それ故, 歴 史 との現 実 の 出 針 ‑Eも 始 めか ら対話 にお いての み遂行 きれ る。 人 は, 自己 自身 を中立 的 な観 察者 と してで は な く, 歴 史の諸 力 に よって動 か され て い る者 と して 自覚 す る ときにの み, また, 歴 史の要 求 を 聞 く用意 があるときにの み, 一般 に, なぜ 歴 史が問題 にな るの か を理 解 す る
( . 30)
人が歴 史 に対 す る中立性 を要 求 す る とき, 歴 史 は何 も語 らない。 しか し, 人が問 いに よって動 か され, 歴 史‑と来 て,歴 史か ら学 ぼ うと望 む とき,歴 史 は語 りか け る
㌘ 1
)自己の実 存 の可能性 は歴 史 を通 して 初め て解 明 され る㌘2)
従 って,例 えば, イエ スの言葉 が歴 史の 中 で我 々 に出会 うとき, それ らの 言葉 は, 1つ の哲学 的体 系 か ら, それ らの合理 的 妥 当性 との関連 にお いて, 判 定 され るべ きで はない。 それ らは, 我 々 自身 が どの よ うに我 々の実 存 を把握 しよ う と望 んで い るか とい う問 い として我 々に出会 うの で あ る。 もち ろん, その際, 我 々 自身 が我 々の実 存‑ の 問 いか け に よっ て動 か され て い る とい うこ とが前提 とな る。 しか し, この とき, 歴 史‑ の問 いか けは, 無 時 間 的 な知 識 を豊 か にす る こ と‑ と我 々 を導 くの で は な くて, それ 自体 が時 間的 な出来事 で もあ る 歴史 との 出会 い‑ と我 々 を導 くの で あ る。 この こ とこそ歴 史 との対話 で あ る㌘3)
ここか ら, 歴 史家 の仕 事 もまた明 らか にな る。歴 史家 はいか な る護 教諭 も行 な って は な らな い。 また, キ リス ト教 の真理 を証 明 して もな らない。 キ リス ト教 を真理 と主 張 す るこ とは, 他 のすべ ての宗教 や世 界観 と同様 に, 常 に個 人の決 断 の事柄 で あ る。 この決 断‑ の責 任 を歴 史家 は誰 か らも奪 うこ とが で きな い。彼 は また, 彼 が叙述 す る歴 史的現 象 を更 に後 か ら評価 して も な らない。歴 史家 の課 題 は,過 去 の ゲ シ ヒテの現 象 を人間の実 存理解 の可能性 か ら解釈 し, そ の解釈 に よって この実 存理 解 の可能性 を更 に現 在 の実 存理 解 の可能性 と して意 識 させ るこ とで ある。 彼 は過 去 の歴 史 を生 き生 きとさせ ることによって 「それ はあな た 自身 の問題 だ
」( t uar e s a g i t
ur) とい うこ とを意 識 させ なけれ ば な らない( 0 34)
ブル トマ ンは, この よ うな 「歴 史」観 か ら, 「史的 イエ スの探 求 」 (歴 史科 学 的 ・事 実 史的研 究の成果 と して知 られ るようなイエ ス像 の探求 ) につ いて は驚 くほ ど冷 淡 な態度 を示 す。事 実, 彼 自身 が, 「肉 によるキ リス ト
( Chr i s t o ska t as a r ka)
は我 々 とは何 の関係 もない。 イエ スの心( He r z)
の 中が どの ような ものであったか を私 は知 らな い し, また,知 ろ う と も思 わ ない」 と言 う( 0 35)
我 々 は, イエ スの生 涯 や 人 とな り( Pe r s b nl i c hke i t )
につ いて はほ とん ど何 も知 る こ とが で きな い。 キ リス ト教 の 史料 は, その よ うな こ とには関心 を持 たなか った し, その上, 非常 に 断片的 で あ り, しか も伝 説 に よって覆 われ て しまって い るか らで あ る。 更 に, イエ スにつ いて の他 の 史料 も存 在 していないか らで あ る〜36)それ故, イエ スの生 涯 や 人 とな りの明 白な像 は, ち はや我 々 に は認 識 の不 可能 な もの で あ る。福 音書 の 中の イエ スの告知 か ら, その よ うな イエ ス 像 を再 構 成 す るの は, ただPha nt as i e
に よっての み で きるこ とで あ ろ う( 0 37)
しか し, それ な らば, イエ スは一 体 何 を語 ったの だ ろ うか。 彼 の言葉 の 内容 は何 で あ ったの だ ろ うかO 驚 くべ きこ とに, イエ スの 言葉 は, 彼 が父 (神 )の もとで見 た り闘 いた り した こ と につ いて は何
1
つ と して特 別 な もの も具 体 的 な もの も伝 えて い ない。 彼 が語 った こ との テーマ は, 常 にただ1
つ の こ と, す なわ ち, 父 が彼 を遣 わ した こ と, 彼 が光 と して, 生 命 のパ ン と し て, 真理 の証 人 と して, 等 々 として来 た こ と, 彼 が再 び去 るだ ろ う とい うこ と, 人 は彼 を信 じ なけれ ば な らない ということ, それ だ けで あ る㌘8)
この よ うに彼 は, 神 の 啓示 者 と して, 自分 が 啓示 者 で あるとい うこと以 外 には全 く何 も啓示 して いな い(.39)従 って, 決定 的 な こ とは, イエ スー 2 1‑
が告知 した とい うその事 実
( Da
β)なの で あ る。 彼 自身 が最 後 の決定 的 な言 葉 を持 った神 の使 者 で あ る とい う事 実, まさにその事実 なの で あ る㌣ 0)
こ こか ら, 次 の よ うに結 論 され る。 す なわ ち, イエ スの告知 は新 約聖 書神学 の諸 前提 に属 す る もの で あ って, この神学 その ものの一 部 で は ない。 なぜ な ら, キ リス ト教 信仰 は, キ リス ト 教 の
Ke r ygma‑
イエ ス ・キ リス ト (十字架 につ け られ た者 で あ り復 活 した者 で あ るイエ ス ・ キ リス ト) を神 の終 末論 的 な救 いの わ ざ と して告知 す るKe r ygma
‑ が存在 しての ちに初めて 存在 す るか らで あ る(.41)この ケ リュグマ とい う概 念 は, ブ ル トマ ンの も とで は, その神学 的思惟 の核心 にな って い る。
使 者 の叫 び,便信,宣 言,証 言, 説教 な どを意 味 す る言葉 で あ る。 この言葉 は,「新 約聖 書 の告 知 は, 現 在 の説教 に よって, 私 の良心 の うちでい まここに決 断 を求 め る叫 び と して私 に出会 う, 神 の私 に対 す る個 人的 な語 りか け に な る」 とい うこ とを表現 しよ う とす る。 その際, ケ リュ グ マ の 内容 と遂行 とは同一 で あ る。 ケ リュ グマ の内容 は キ リス トの 出来事 で あ り, まさにその出 来事 が い まここの説教 にお いて生 起 す る。 キ リス トにつ いての 言葉 が告 知 され る ところでは, キ リス トの 出来事 は, 無時 間的 な真理 と してで な く, い ま ここで生 起 す る もの と して現 在的 で あ る
㌣2)
この よ うに, イエス ・キ リス トが復 活 したの は, ケ リュ グマ ・宣教 にお いてで あ る。 従 って, 彼 はケ リュグマにお いて で なけれ ば人間 に出会 うこ とは な い
㌣3)
十字架 につ け られ た者, 復 活 し た者, その キ リス トが宣教 の言葉 におい て我 々 に出会 うの で あ って, 決 して他 の処 で出会 うの で は ない。 それ故, 宣教 の言葉 に対 して理解 して い く信仰 が, 真 の復 活信仰 なの で あ る( 0 44)
「史的 イエ ス」 に対 す るブル トマ ンの この驚 くほ ど冷 淡 な無 関心 は, 彼 自身 が 中心 にな って 推進 して きた 「様 式 史研 究」 か ら帰結 した もの で あ ろ う。 しか し, それ は, 何 よ りも次 の よう な彼の確 信 に基づ いて い る と思 わ れ る。 す なわ ち, 彼 は言 う。‑ 新 約 聖 書 が伝 え るあの伝 承 の最 古 の層 の 中 にあ る思 想 の復合体 は, 先 ず過 去 か ら我 々の も とに到達 して い る一 片の伝 承 と して我 々 に出会 う。我 々 は この伝 承 に問 いか け る こ とで歴 史 との 出会 い を求 め る。伝 承 に よれ ば, この思 想 の所 有者 はイエ スで あ る。 イエ スが実 際 にそ うで あ った こ とは極 め て あ り得 るこ とで あ る。 しか し, も しそ うで なか った と して も, その こ とに よって, この伝 承 の 中 に語 られ て い る こ とが変 わ る こ とは, 決 して ないで あろ う
( 0 45)
史実 の イエ ス と信仰 の キ リス トとの間 を厳 し く区別 して, 両 者 の関係 を問 う とい う問題 は,
Ma r t i nKa hl e r
が1 8 9 2
年 に公刊 した 『いわ ゆ る史的 イエ ス と歴 史的 ・聖 書 的 キ リス ト』以 来, ドイ ツ神 学 の 中心課 題 の 1つ にな って きた。ブル トマ ンは, 「史的 イエ ス」 ‑ の関心 を断 念 し,確 認 で きるイエスの言葉 との対話 を求 め る こ とに よって, この ケ‑ ラー以 来 の問題 を一 挙 に解決 しよ う と図 る。 その際, 「史的 イエ ス」 は, いわ ば 認 識 不 可 能 な もの と して括 弧 に く くられて しまう。 もちろん, その よ うな解 決方 法 が 多 くの神学 者達 を満 足 させ る こ とは困難 で あ った。
事 実, 「イエ スの生 涯 と人 とな りにつ いてはほ とん ど何 も知 る こ とが で きない」 と言 い切 ったプ ル トマ ンの 『イエ ス』 が
,1 92 6
年 に出版 され てか らわず か2 8
年 後 の1 9 5 4
年 には, 彼 に師事 したEr ns tKa s e ma nn
が 『史的 イエ スの問題 』 を書 いて再 び この問題 に挑戦 す るO 以 後,J a me sM.
Ro bi ns o n
の言 う 『史的 イエ スの新 探求 』 が開始 されたのである。 そ して,現 在,実 に多数 の 「イ エ ス」
像 が描 き出 され て い る。ブル トマ ン神学 の場 合, 「史的 イエ ス」 自身 は括 弧 に入れ られ る こ とに よって, ブ ル トマ ン 自身 が行 な って きた非神話化 (彼 の言 う実 存論 的解釈 ) を免 れ て い る とい って よい。 もちろん,
「神 」 その もの もまた非神 話化 の対 象 外 に置 かれ て い る。 しか し, キ リス ト教信仰 にお いて貴 も神話論 的 な表現 を得 て い る もの とい えば, 恐 ら く 「イエ ス」 自身 で あ り 「神 」 その もの で あ
ろ う。従 って, も しこれ らを非神 話化 で きな けれ ば, 非神 話化 自体 が方法論 と して不 充分 であ る と言 わ な けれ ば な らない。 そ こか ら 「イエ ス」 も 「神 」 も共 に徹底 して非神話 化 した神 学者 が い る。 「ブル トマ ン以後 の 人々
」 ( po s t ‑ Bul t ma nni a ns
)の1
人 として活躍 す るHe r be r tBr a un
で あ る。3. 日.
ブ ラウ ンの 「イエ ス」 と 「神 」ブ ル トマ ンの神学 思 想 は, 我 々の共有財 産 と して, す で に
1
つ の常 識 です らあ る。他 方, ブ ラウ ンの思 想 は, ブル トマ ンの それ ほ どにpo pul a r
で は ない
。 しか し,po pul a r
にな って よいだ ろう。ブラウンは,新 約 聖 書 の解 釈 者 と して, 現代 の全 面的 な世俗 化 とい う問題 に立 ち向 か う。そ して, 彼 と同時代 の不信仰 な人 々の ため に新 約 聖 書 を政 お う と試 み る。 この ため に, 彼 はブ ル トマ ンの新 約 聖 書 の実 存論 的解 釈 を徹 底的 に遂 行 す る。 キ リス ト諭 を実 存論 的 な荒療 治 にか け るばか りで な く, 神 さえ もまた非神 話 化 す るの で あ る。 こ う して, ブ ラ ウ ンの神 学 は, 実 存 諭 的神学 の最 先端 を形成 す る. それ は, 彼 に反対 して 「教 会的 ・神学 的統一 戦 線」 とも言 うべ き もの が形成 され たほ ど激 しい もの で あ った。新 約 聖 書 を放 出 しようとす るこのブラウンの 「絶 望 的 な企 て」・「最 も興 味 あ る実験
」( 46)
は, 一 体 我 々 に何 を語 って くれ るで あ ろ うか。ブラウンは, ナザ レの イエ ス (史的 イエ ス)を 「現 実 の 人間
」( e i nwi r kl i c he rMe ns c h
)(47)で あ った と考 え る。 そ して, 次 の よ うに言 う。‑ イエ スは現実 の 人間( at r uehuma nbe i ng)
とみ な され て い た。 イエ スにつ いての この評価 は, 信仰 の教 団 が彼 をメ シアや神 の子 と して告 白 し, 更 に時 が たつ につ れ て, 彼 に ます ます高 い尊 厳 の称号 を与 えた時 です ら, 決 して無効 に は され なか った。 イエ スが 人間 で あ るこ とは, 彼 につ いての教 団の告 白の 中 に全 く疑 問 の余地 が なか った。従 って, 我 々が この 人間の イエ ス を出発点 とす るこ とは, 新 約 聖 書 か ら骨 を折 っ て承認 を得 な けれ ば な らない こ とで はな い。現 実 の 人間 の イエ スが新 約 聖 書 の 明 白な根底 で あ
る ㌣8)
従 って, ブ ラウ ンは, 当然, ブル トマ ンの ように, イエ スが到 来 して告知 した とい うその事 実 だ け に満 足 しよ う とは しない。 彼 は イエ スの告知 の 内容 の本 質 につ いて も問 う。
地 上 の イエ ス
( de rl r di s c heJ e s us)
が説教 した。 その イエ スの告知 全体 が考 慮 され な けれ ば な らな い。 ここで は特 に次 の点 が注 目され る。 第一 に, イエ スは, ユ ダヤ教 の律 法 を神 の要求として実行不 可能 な まで に尖鋭化 した。 それ に もか か わ らず, 第二 に, イエ スは, ユ ダヤ教 に お いて律 法 の成就 と結 びつ け られ た報 いの努 力や要 求 を抹 消 して, まさに神 は失 わ れ た者達 の 回心 を喜 ぶ とい う神 の徹 底 した恩 恵 を認 め た。 しか し, 第三 に,律 法 の尖鋭 化 は決 して規 則の 体 系 には な らなか った し, また, 罪 人の許容 も充 分 に体 系化 され た恩 恵 の教 説 にはな らなか っ た とい うこ とに よって, この
2
つ の こ とは1
つ の統一 を形成 して い る。従 って, この徹 底 した 神 の要 求 と徹 底 した神 の恩 恵 とは共 に普 遍 的真理 を示 す標 識( Er we l S ung)
で はな い。告知 を 通 して各個 人 に向 け られ, 聞 く者 の良心 に従 った同意 と実 践 とを求 め て い る標 識 で あ る。 この ように, イエ スの説教 と行為 とは, すべ ての個 人 に向 け られ た 「出来事 」 で あ る。 それ故, 地 上 の イエ スはす で に福 音 に属 して い る㌣9)ブ ル トマ ンが考 えたように, 新 約聖 書 神学 の諸 前提 中 の 1つ で あ るの で はな い。イエスの説教 は,神 に対 す る徹 底 した服従 と隣 人‑ の無制 限 な味方 とを人間 に要 求 す る
㌘ 0 )
級 底 した要 求 と徹 底 した恩 恵 との逆 説的統一, これ こそ 史的 イエ スの告知 にお いて特徴 的 な もの であ り, 前代 未 聞 の新 しい もの で あ る。 しか も, この逆 説 はユ ダヤ 人の耳 に は不 届 きな蹟 きと しか聞 こえなか った もの で あ った。 しか し, 今, この 「私 はすべ きだ」( I c hs o
ll) と 「私 は し‑ 23‑
て よい
」( I c hda r
f) とが新 し く一致 す る ところにイエスが生起す る。もちろん,人間 が相互 に仲 間 として作 る世 界す なわ ち 「人間仲 間世 界」( Ml t me nS C hl i c hke i t )
の枠 内 において生 起す るの であ る。 ここでは, イエ スは1
つ の出来事, あの 当時 ナザ レの イエ ス をめ ぐって生 じて いた ことと類似 してい る出来事 で あ るか らであ る
( 0 51)
地上 の イエ スの 人格 は, その公的活動 の期 間中, ほ とん ど何 の関心 も持 たれ なか った。最初 の教 団が復活祭信仰 と共 に この イエ スをす ぐ続 いて来 るメ シアで あ る と告 白 した。 こう して, キ リス ト論 が中心 にな り, ユ ダヤ教的 ・‑ レニ ズム的 ・グノー シス的名誉称号 が イエ スに適 用 されて くる。や が てそれ らは
1
つ1
つ イエ スの生へ とフラッシュバ ックされ た( . 52)
従 って, それ らの名誉称号 は, イエ スの生 か ら くる徹底 的要求 と無制 限的恩 恵 との逆 説的統一 をキ リス ト論 的 ・終末論 的 に暗号化 した もの で あ る。 イエ スの称号 は, それ らに よって考 え られ た内容 を示 す 「符牒 」 であ り 「人相書 き」( Sl gna l e me nt)
で あ る。 その こ とは,これ らの称号 が相互 に交 換 で きる とい うこ とに よって明 らかであろ う。先 ず, 原始教 団が イエ スの意義 をユ ダヤ教 の用 語 を用 いて暗号化 し, 特 に彼 を 「メ シア」, 「人の子」 と呼 んだ。次 に, この過程 は‑ レ二 ズム の地盤 で更 に進 み, 「人の子」 が消 えて, 「メ シア」 が 「キ リス ト」 とい うギ リシア語 の形 で固 有名詞 にな り, この ように してユ ダヤ教 的称号 に代 わ って新 しい称号 が登場 した。 「キュ リオ ス (主) 」 ,
「神 の子」, 「ロゴス」 な どであ る。前者 の場 合, イエ スは まだ被造物 の側 に属 してい たが, しか し, 後者の場 合, イエ スはす で に神 の側 に立 ってい る。 もちろん, これ らの称号 は, 何 ら新 しい ものの創造 を意 味 しない。 む しろ, その時 々の周囲の世 界に前以 て見出す こ とのできた宗教 的 ・政 治的尊称 を取 り上 げてナザ レのイエスに転用 した もの にす ぎない
( 0 53)
それ故, キ リス ト論 的 ・終末論 的 に暗号化 され た様 々な命名 の全体 を貫 いてい る 「根本現 象」 を理解 す る こ とが重要 であ ろ う。 この全体 を貫 く根本現 象 とは 「信仰 的 自己理解」 で あ る。 す なわ ち, 人 間 は失 われ た者 であ りなが ら, なお彼 には神 の肯定 が向 け られて い る とい うこ とを理解 す るこ とである。 この 「神 の前 での人間の位 置」 は, 「人間の敬慶 な行為 に対 す る鋭 い批判的態度 と人 間の政 い とを根 本的 には人間の外部 に基礎 づ け るこ と」 を表 してい る。 そ して, これ こそナザ レの イエ スが行 な った り教 えた りした こ とで あ り, 史実 の イエ ス, パ ウ ロ及 び ヨ‑ ネ文書 が教 えていることで もあ る( . 54)
もちろん, この不 変性 か ら事実 史的 に連続 した伝 承 を証 明す るこ とは で きない。 しか し, この不 変性 は, 信仰 において経験 され告 白されて きた事実上 の連続性 であ る。 この ように, 人間の キ リス ト論 的暗号化 はその時 々において変化 す るが, しか し, 人間の 信仰 的 自己理解 は新約聖 書 の全体 を貫 いて不 変 で あ る。従 って, 「人間 論 は定 数 であ り, これに対 して, キ リス ト論 は変数 であ る
o J( 55)
ブ ラウ ン神学 に よれ ば, 「ナザ レのイエス」 は 「現実 の 人間」 であ り, 我 々の 「イエ ス」 は人 間的 ・実践的 な
「
1つ の出来事 」 であ り, 「キ リス ト」 は信仰 者 が その イエ スの意義 を暗号化 し た 「人相書 き」 であ る。 これが イエス ・キ リス トに対 してブラウンが行 な った実 存論 的解釈 (ブ ル トマ ンの言 う非神話化 )の行 き着 いた結論 であ る。しか し, ブ ラウ ンは, 史実の イエ ス を問 うこの間題 の もとに立 ち止 まって はいない。 彼 は首 尾一 貫 して史的 イエ スを問 う問題 を神 を問 う問題へ と拡大 してい く。結局,新約聖書 の意 味 に おけ る 「神」 とは何 であ ろ うか。新約聖書 は, 神学 の 中心 的対 象 につ いては個 々バ ラバ ラな証 言 を行 な ってい る。従 って, ブ ラウ ンは, この問 題 をキ リス ト論,救 済論,律 法 に対 す る立場, 終末論 及 びサ クラメ ン ト教義 の
5
つ の グルー プ に分 けて考 えて い く。6)キ リス ト論 は, メ シア あるいは主 の存在 を前提 とす る。 しか し, もはや我 々は この宗教的 特典 を我 々の世 界観 として受 け入れ るこ とはで きない。⑤ 救 済論 は, 地上 の生 の延 長 され た一 変種 と して永遠 の生 命 を考 える。 しか し, この変種 は, 我 々にはその素 朴 さにお いて信 じるこ
とはで きず, また,得 ようと努 力す る価値 もない。⑤ 律法 に対 す る立場 は,義務 的 な命令 を神 が発 した とい う一 貫 した前提 に支配 されてい る。 しか し, この素朴 な他律性 は,我 々には遠 く 離 れ た もの であ り, どう しよ うもない もの であ る。② 終末論 は,歴 史の始 源 と終末 を定 め, そ の経過 を導 く実在 の神 を前提 とす る。 しか し,神 を所与 と して素 朴 に受 け入れ るこ とは, もは や従 い得 ない こ とで あ る。⑥ 礼典論 は, 救 い を物体 的 に表 象 し,神 の到 来 を時間的 ・対 象的 に 考 える。 しか し, もはや この素 朴 な神思 想の上 に立 つ こ とはで きない。
これ ら
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つ の グループ全体 にわ たる困難 は,神 に関す る証 言 にお いて, 人間 を度 外視 す るよ うな客観化思考 が行 なわれ て い る とい う一点 に帰着 す る, ここでは,神 の世 界 は, それ 自身 で 実 在 す る所与,一定 の時 と所 とにおいて現 存 す る, あ るいは,現 存 す るよ うにな る所 与 とみ な され てい る。神 もまた, それ 自身 においてそれ 自身の ため に実在 す る存在 であるとされている0 この ような見解 は, 広 く新約聖 書 を支配 していて, 人間 が行使 して よい特典 であ る と考 え られ てい る。 しか し, もはや我 々 には この ような特典 を行使 す るこ とはで きない。事実, この よ う な見解 ・この ような神思 想 を明 らか にす るこ とは, それ らが我 々には もはや不 可能 な もの であ るこ とを同時 に認 め るこ とで もあ るの であ る。もちろん,新約聖 書 自体 の 中 に, こう した観 念 を打 ち破 るような証 言 も充分 に内包 され て い る。従 って,大切 な こ とは,新約聖書 を一 貫す る神 とその世 界 とに関す る客観的 ・対 象的思考 を背後 に押 しや るその歩み に よって,新約聖 書 の 多様 でバ ラバ ラな性 格 を克服 してい くとい う こ とであろ う。
(ヨキ リス ト論 。 イエ スは常 に私 自身の 「私 は して よい」 と 「私 はすべ きだ」 とにお いて も生 起 す る。 しか も, それ は人間仲 間世 界の枠 内で生起 す る。 この ような出来事 が所与 の もの (客 体 的 な イエ ス)の対 象性 を打 ち破 る。⑤ 救 済論 。最 後の救 いは,形而上 学的 な神 の世 界 とい う 高所 か ら引 き下 されて,義 しい人間仲 間世 界 という世俗 の地盤 の上 に据 えられる。その とき 「こ こ」 に神 の救 いが見出 され, 神 に関 す る客観化思考 は破 られ る。(∂律 法 に対 す る立場。神 は, 外的権威 と して命令 の内容 を保証 す る もの ではな く, 良心的 に確信 をもち納得 して行動 で きる とい う現 象の表現 である。 こうして神律 と自律 とは一致 し,神 の対 象性 は破 られ る。④ 終末論 。 延期 され た終末論 は間近 な終 末論 の解釈 間違 いであ り, 間近 な終末論 はい ま ・ここの決 断へ と 我 々 を導 く。神 は この決断 の瞬 間 が その充実性 にお いて受 け入れ られ る処 に存在す る。 こ う し て神 に関 す る客観化思考 は破 られ る。(∂礼典論 。サ クラメ ン トの場 合 に も,神 は,神聖 な所与 としてでな く, 「私 はすべ きだ」 と 「私 は してよい」 との対等 の体 系 において理解 され得 る。 こ う して,救 いの物体 的 ・対 象的思考 は突 き破 られ る。
以上 の よ うに,新約聖書 の神 とその世 界 とは, 一方 で, 物体 的 な もの ・所与 の もの として表 象 され, 他方 で, 非物体的 な もの ・所与 で ない もの として表象 され てい る。従 って,新約聖書 にお いて神 とその世 界 とが対 象 ・事柄 として もまた理解 されてい るこ とは否定 で きない。 しか し, その ような対 象化 が新約聖書 の本来の傾 向 に一致 してい るわ けではない。結 局,新約聖 書 において神 とは何 であ り, どの よ うな もの として理解 され るだ ろ うか。
どの ような場合 に も,神 は, それ 自身 で実在 す る もの と しては理 解 されず, また,種概 念の もとで把握 され るような もの と して も理 解 され ない。 む しろ,神 とは, 私 が駆 り立 て られ てあ るこ との その根拠
( Wo he r )
を意味す る。私 が駆 り立 て られてあ るこの状 態 は, 「私 は して よ い」 と 「私 はすべ きだ」 とによって,つ まり保証 されてい る状 態 と義務 とに よって規定 され る.しか し,保証 され てい る状 態 と義務 とは, 宇宙 か らではな く,他 か ら, つ ま り人間仲 間か ら来 る。宣教 の言葉 や愛 のわ ざが ただ人間仲 間 か らだけ私 に到達 す るの と同様 である。 この ように, 神 とは, 人間仲 間 か ら くるこの私 の保証 されてい る状 態 と義務づ け られて い る状 態 との その根
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拠 で あ る。私 は, 私 が 人間 につ いて語 る ところでのみ, つ ま り人間学 的 にの み神 につ いて語 る こ とが で きる。私 は, 私 の 「私 はすべ きだ」 が 「私 は して よい」 に よって対位 法化 され る とこ ろでのみ,つ まり救 済論 的 にの み神 につ いて語 る こ とが で きる。私 が無 条件 な 「私 は して よい」
と 「私 はす べ きだ」 とに関与 す る ところにの み神 は存在 す るか らで あ る。 人間 と しての 人間, 自己の 人間仲 間世 界 にお け る人間 が神 を包含 す る。 この よ うに, 神 とは, 人間仲 間世 界の特定 の在 り方 で あ る。従 って, 一 般 に無神論 者 とい う もの は存在 しないO あらゆる人間仲 間世 界 が, 新約 聖 書 の関心事 で あ る 「私 は して よい」 と 「私 はすべ きだ」 との 多少 の結 合 はす で に含 んで
い るか らで あ る
㌘ 6 )
ブ ラ ウ ンの神学 は, ほ とん どすべ ての 人間 が無神論 者 で あ る ような現代 に対 して, 一般 に無 神論 者 は存 在 しない と断定 す る。神 とは,人間 が相 互 に仲 間 として生 きる世 界の特定 の在 り方,
す なわ ち, 「私 は して よい」 と 「私 はすべ きだ」 との逆 説的統一 に支 え られ た人間世 界の在 り方 で あ るか らで あ る とい うの で あ る。 これが, 先 に我 々の提 出 して きた 「我 々 はいつ どこで我 々 自身 の神 に出会 うこ とが で きるか」 とい う問 い に対 して, ブラウン神 学 の与 えた回答 で あ った。
こ う して, す で に科 学 的 ・合理 的 に しか思 考 で きな くな って い る現代 人の理 性 的理 解 に も充分 に耐 え得 る よ うに 「聖 書 の真 理 」 を再 解 釈 しようと求 め た実 存論 的神学 は,つ い に神 の普 遍的 ・ 客観 的存 在 を否定 し, 出会 いの対極 と しての神 の実 在 さ え も消 し去 って, 神 その もの を人間世 界の根拠 に まで引 き下 げて しまったの で あ る。 しか し, まさに そ うで あ るか らこそ, この点 か ら神 (絶対 者 ) を人間的行為 の規定 根拠 と して, その ロ ゴス化 を求 め て い く倫理 学 の仕事 が開 始 され て くるの で は なか ろ うか。
4.
倫 理 学 か らの 反 省実 存論 的神学 に関 す る以上 の概 観 か ら, い くつ かの問題 が考 え られ る。 もちろん, 倫理 学 か らの検討 を必要 とす る問題 で もあ る。
第一 に, 実 存論 的神学 にお いて は, 何 故 イエ スで なけれ ば な らないの か, プ ラ トンや パ ウ ロ で あ って ほ な らないの か, その理 由 が少 しも明 らか で は ない。特 にブ ラウ ン神学 の場 合, イエ スで な くパ ウ ロで も 「キ リス ト」 になれ たはず で あ る。 それ に もかか わ らず, 何 故 「キ リス ト」
はイエスで なけれ ば な らなか ったの か。 この問題 は, 一般 には, 今世 紀初 頭
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が全生涯 を賭 けてエ ル ンス トに悩 みぬ い たあ の 「キ リス ト教 の絶対性 」 を証 明 す る問題 で もあ ろ う。何 故 キ リス ト教 で なけれ ばな らないの か。 トレルチか らす で に半世 紀 が過 ぎた。 しか し, 今 なお この問 い は満 足 で きる答 え を見 出 していない。人間 の行為 との関連 か ら 「倫理 的 レベ ル」
で考 えて い く方 向 が求 め られ て よいだ ろ う。
ケ‑ ゼマ ンの発言以 来, 多数 の 「イエ ス」像 が描 かれ て きた。 それ らは時 に よる と 「歴 史の 先 駆者」 で あ った り, 「失 敗 した革 命家 」 で あ った t), 「無 力 な男」 で あ った り した。 しか し, どれ ほ ど科 学 的 ・歴 史的客 観性 を誇 ろうとも, すべ てが著者 自身 の 「史的 イエス」 で しか ない。
過 去 に生 存 した真 の イエ スは常 にその彼方 に あ る。 この 「真 の イエ ス」 と 「史的 イエ ス」 との
区別
は常 に明 白に しておかなければならない。 「真 の イエ ス」は,多 くの 人々 にその 人 自身 の 「史 的 イエ ス」 を描 かせ る無 限 の可能性 と して これ か らも我 々の眼前 に在 り続 け るだ ろ う。 その こ とは, 各個 人が 自己の生 き方 を決 断 して い くため に, 「真 の イエ ス」 に問 い なが ら自己 自身の「史的 イエ ス」 を描 いて いか な けれ ば な らな い とい う倫理 的課 題 を も意 味 してい るの で あ る。
第二 に, ほ とん ど世俗 化 して しまった現代 の精 神 的状 況 にお いて, 「それ 自身 で実 在 す る神」
の存 在 を否定 す る こ とに どれ ほ どの意 味 が あ るの だ ろ うか。我 々現代 人が問 うの は,客 観的 ・