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王通 ﹃中説﹄ 訳注稿 ︵七︶

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(1)

一王通﹃中説﹄訳注稿︵七︶ 中説卷第七述史篇︵一︶子曰︑太熙之後︑述史者幾乎罵矣⑴︒故君子沒稱焉⑵︒

  先生が言った﹁西晋・太熙の年︵二九〇︶より後︑歴史の語り部たちは︑

罵倒の言葉を並べるばかりになってしまった︒そのため君子は物を言わ

なくなった﹂︒

⑴ 幾乎罵矣  ﹃周易﹄繫辭傳上﹁乾坤毀︑則无以見易︑易不可見︑則乾

坤或幾乎息矣﹂︒⑵ 太熙至稱焉  阮逸注﹁太熙︑晉惠帝元年也︒已後至十六國載記及南

北史︑有索虜・島夷之呼︑如詬罵焉﹂︒

︵二︶楚公作難⑴︑賈瓊去之︒子曰︑瓊可謂立不易方矣⑵︒

  楚公︵楊玄感︶が隋への反乱を起こし︑賈瓊は彼の下を立ち去った︒

先生は言った﹁瓊はいつでも正道に立脚する者と評価できる﹂︒

⑴ 楚公作難  天地篇︵一七︶注⑴︑參照︒⑵ 立不易方  阮逸注﹁恒掛象云也︒瓊事楚公︑不預事﹂︑﹃周易﹄恒﹁象 曰︑雷風︑恒︵王弼注︑長陰長陽︑合而相與︑可久之道也︶︒君子

以立不易方︵得其所久︑故不易也︒孔穎達疏︑方猶道也︶﹂︒

︵三︶溫彥博問知︒子曰︑無知⑴︒問識︒子曰︑無識⑵︒彥博曰︑何謂其

然⑶︒子曰︑是究是圖︑亶其然乎⑷︒彥博退告董常︒常曰︑深乎哉︒此文

王所以順帝之則也⑸︒

 

温彦博が

﹁知

﹂とはどういうことかを質問した

︒先生は言った

﹁﹁無

知﹂ということだ﹂︒﹁識﹂とはどういうことかを質問した︒先生は言っ

た﹁﹁無識﹂ということだ﹂︒彦博は言った﹁どうしてそうおっしゃるの

でしょうか﹂︒先生が言った﹁このことについて深く考えを巡らせれば︑

まったくその通りではないか﹂︒彦博は引き下がって董常に報告した︒

常は言った﹁深みがあるなあ︒これこそ文王が自ずと天帝の法則に適っ

た理由なのである﹂︒

⑴ 

溫彥至無知

 

阮逸注

﹁ 彥 博本以多知爲問

︑子答以無知

︑是知也﹂

︒

﹃論語﹄爲政﹁子曰︑由︑誨女知之乎︒知之爲知之︑不知爲不知︑是

知也﹂︒⑵ 問識至無識  阮逸注﹁不言如愚﹂︒⑶ 何謂其然  ﹃孔子家語﹄弟子﹁子貢曰︑敢問夫子之所知者︑蓋盡於此

王通 ﹃中説﹄ 訳注稿 ︵七︶

池   田   恭   哉   

(2)

二

而已乎︒孔子曰︑何謂其然︒亦略擧耳目之所及而矣﹂︑同禮論﹁子

夏曰︑言則美矣大矣︒言盡於此而已︒孔子曰︑何謂其然﹂︒⑷ 

是究至然乎

 

﹃ 詩

﹄小

雅

・常棣

﹁是究是圖

︑亶其然乎

︵毛

傳

︑究深

︑

圖謀︑亶信也︒鄭玄箋︑女深謀之︑信其如是︶﹂︒⑸ 此文王所以順帝之則也  ﹃詩﹄大雅・皇矣﹁帝謂文王︑予懷明德︑不

大聲以色︑不長夏以革︒不識不知︑順帝之則︵鄭玄箋︑其爲人不識

古不知今︑順天之法而行之者︒此言天之道︑尚誠實︑貴性自然︶﹂︒

︵四︶子曰︑詩有天下之作焉⑴︑有一國之作焉⑵︑有神明之作焉⑶︒

  先生が言った﹁﹃詩﹄には天下についての詩があり︑国々についての詩

があり︑神々についての詩がある﹂︒

⑴ 詩有天下之作焉  阮逸注﹁謂大雅﹂︒⑵ 有一國之作焉  阮逸注﹁謂國風﹂︒⑶ 有神明之作焉  阮逸注﹁謂頌﹂︒

︵五︶吳季札曰︑小雅︑其周之衰乎︒豳︑其樂而不淫乎⑴︒子曰︑孰謂季

子知樂︒小雅烏乎衰︒其周之盛乎⑵︒豳烏乎樂︒其勤而不怨乎⑶︒

  呉の季札が言った﹁﹃詩﹄小雅とは︑周の衰退を象徴するものだなあ︒

豳風とは︑楽しみはあっても淫靡には流れないのだなあ﹂︒先生が言っ

た﹁誰が季子︵季札︶は音楽を理解しているなどと評したのだ︒小雅が何

だって周の衰退を象徴するのか︒周の隆盛を象徴するのではないか︒豳

風が何だって楽しみはあるというのか︒安閑としてはいないもののお上

への怨嗟の声はないということではないのか﹂︒

⑴ 吳季至淫乎  ﹃左傳﹄襄公二十九年﹁吳公子札來聘︒⁝⁝請觀於周樂

︵杜預注︑魯以周公︑故有天子禮樂︶︒使工爲之歌周南・召南︵此皆

各依其本國歌所常用聲曲︶︒曰︑美哉︵美其聲︶︒始基之矣︵周南・ 召南︑王化之基︶︑猶未也︵猶有商紂未盡善也︶︒然勤而不怨矣︵未

能安樂︑然其音不怨怒︶︒⁝⁝爲之歌豳︵詩第十五︒豳︑周之舊國︑

在新平漆縣東北︶︒曰︑美哉蕩乎︒樂而不淫︑其周公之東乎︵蕩乎︑

蕩然也︒樂而不淫︑言有節︒周公遭管蔡之變︑東征︑三年︑爲成王

陳后稷先公不敢荒淫︑以成王業︒故言其周公之東乎︶︒⁝⁝爲之歌

小雅︵小雅小正︑亦樂歌之常︶︒曰︑美哉︒思而不貳︵思文武之德︑

無貳叛之心︶︑怨而不言︵有哀音︶︑其周德之衰乎︵衰小也︶︒猶有先

王之遺民焉︵謂有殷王餘俗︑故未大衰︶﹂︒⑵ 小雅烏至盛乎  阮逸注﹁烏︑何也︒小雅自鹿鳴至菁菁者莪︑皆言先

王之德也︒故天保已上治内︑采薇已下治外︒後王能修先王之政︑仲

尼刪詩︑謂雖不及先王之大︑然亦不失其政︒故曰︑小雅︑言政之小

者也︒季子所聽︑云思而不貳︑怨而不言︑則不謂變雅者也︒幽・厲

之世︑國異政︑家殊俗︑斯變雅作矣︒然有先王之遺民︑不敢怨貳︑

亦由先王盛德使然︒文中子曰︑周之盛也︑何衰乎﹂︒⑶ 豳烏至怨乎  阮逸注﹁季子言周南・召南︑勤而不怨︒蓋古文悞也︑

當謂豳詩爾︒案周南・關雎︑樂而不淫︑豳實無樂︒文中子辯季札必

知樂︑此文之悞耳﹂︒勤而不怨︑注⑴︑參照︒

︵六︶子曰︑太和之主有心哉⑴︒賈瓊曰︑信美矣⑵︒子曰︑未光也⑶︒

  先生が言った﹁太和の時代︵四七七〜四九九︶の君主︵北魏・孝文帝︶は︑

政治に意を用いた人物であったなあ﹂︒賈瓊が言った﹁実に素晴らしい

です﹂︒先生は言った﹁教化を完遂させることはできなかった﹂︒

⑴ 太和之主有心哉  阮逸注﹁後魏・孝文帝﹂︒⑵ 信美矣  ﹃左傳﹄昭公元年﹁女自房觀之曰︑子皙信美矣﹂︒⑶ 未光也  阮逸注﹁有心於治︑美矣︑未成化︑是未光﹂︒﹃周易﹄噬䏨

﹁象曰︑利艱貞吉︑未光也﹂︒

(3)

三王通﹃中説﹄訳注稿︵七︶ ︵七︶文中子曰︑元經作︑君子不榮祿矣⑴︒

  文中子が言った﹁﹃元経﹄が世に問われてから︑君子は禄を食むことを

栄誉とはしなくなった﹂︒

⑴ 元經至祿矣  阮逸注﹁言晉惠而下否矣︑故元經作﹂︒﹃周易﹄否﹁象曰︑

天地不交︑否︒君子以儉德辟難︑不可榮以祿﹂︒

︵八︶董常習書⑴︑告於子曰︑吳・蜀遂忘乎⑵︒子慨然歎曰︑通也敢忘大皇・

昭烈之懿識︑孔明・公瑾之盛心哉⑶︒

  董常が﹃続書﹄を学んでおり︑先生に対して言った﹁呉や蜀については

お忘れになったのでしょうか﹂︒先生は慨歎して言った﹁この私が︑大

皇帝︵孫権︶・昭烈皇帝︵劉備︶の賢材を見抜く眼や︑諸葛孔明・周公瑾

の手厚い心持ちについて︑忘れるわけがないであろう﹂︒

⑴ 習書  阮逸注﹁續書﹂︒⑵ 吳・蜀遂忘乎  阮逸注﹁續書有魏而無吳・蜀﹂︒⑶ 通也至心哉  阮逸注﹁吳主孫權︑謚大皇帝︑蜀主劉備︑謚昭烈皇帝︒

蜀相諸葛亮

︑ 字孔明

︑ 吳相周瑜

︑字公瑾

︒懿識

︑ 謂能任賢也

︒ 盛 心

︑ 謂亮云

︑ 普天之下

︑莫匪漢民

︑ 瑜云

︑曹公託名漢相

︑實漢之

賊︑是也﹂︒

︵九︶董常曰︑大哉中國︒五帝・三王所自立也⑴︒衣冠禮義所自出也︒故

聖賢景慕焉

⑵︒中國有一

︑聖賢明之

︒中國有並

⑶︑聖賢除之邪

⑷︒子曰

︑

噫︑非中國不敢以訓⑸︒

  董常が言った﹁偉大であるなあ︑中原国家は︒五帝︵少昊︑顓頊︑帝

䆭︑堯︑舜︶・三王︵禹︑湯王︑武王︶は︑中原に拠って立ったのである︒

衣服や冕冠︑礼制や義理は︑中原に由来するのである︒そのため聖人賢

者はそこに思慕の念を抱いたのである︒中原に統一国家︵三国魏︶が存 在し︑聖人賢者がその存在を宣明する︒中原の国家と並立する国家︵三

国呉・蜀︶が存在して︑聖人賢者がその存在を排除しようか﹂︒先生が

言った﹁ああ︑中原国家でなくては︑決して規範たり得ないのだ﹂︒

⑴ 大哉至立也  阮逸注﹁五帝︑少昊都曲阜︑顓頊都濮陽︑帝䆭都亳︑

堯都冀︑舜都蒲︒三王︑夏都安邑︑湯都亳︑周都雍洛︒皆中原之國

也﹂︒⑵ 衣冠至慕焉  阮逸注﹁春秋以中國爲法﹂︒⑶ 中國有並  阮逸注﹁並︑謂吳・蜀︑是也﹂︒⑷ 聖賢除之邪  阮逸注﹁除吳・蜀﹂︒⑸ 噫非中國不敢以訓  阮逸注﹁周・孔之志﹂︒

︵ 一〇︶

董常曰

︑元經之帝元魏

︑ 何也

⑴︒子曰

︑亂離斯

䛵

︑吾誰適歸

⑵︒

天地有奉︑生民有庇︑即吾君也⑶︒且居先王之國⑷︑受先王之道⑸︒予先

王之民矣⑹︒謂之何哉⑺︒董常曰︑敢問皇始之授魏而帝晉︑何也⑻︒子曰︑

主中國者︑將非中國也⑼︒我聞有命︑未敢以告人⑽︒則猶傷之者也︒傷之

者︑懷之也⑾︒董常曰︑敢問卒帝之何也⑿︒子曰︑貴其時︑大其事⒀︑於

是乎用義矣⒁︒

  董常が言った﹁﹃元経﹄の﹁帝﹂が元氏魏︵北魏︶の皇帝であるのは︑ど

うしてなのでしょうか﹂︒先生は言った﹁政治が乱れ人民が憂えている

悩ましき世に︑私は誰を頼りとすればよいのか︒︵北魏は︶天地に恭敬

の念を捧げ︑人民たちはその庇護を被っていたのだから︑つまりは我ら

が君主なのである︒しかも先王たちの地を都︵洛陽︶とし︑先王たちに

よる礼道を継承した︒私はと言えば︵曽祖・王虬以来︶その一員として

先王たちに奉仕してきた︒帝ではなくて何だと言うのか﹂︒董常が言っ

た﹁ずばりおうかがいしますが︑皇始という年号を元氏魏が与えられな

がら︑帝は東晋の安帝・恭帝だったのは︑どうしてでしょうか﹂︒先生

は言った﹁中原に主たる東晋が︑中原国家の体をなさなくなろうとして

(4)

四

いたのだ︒私は元氏魏という善政を敷く王朝の存在は知りながら︑それ

を人民に知らせることで彼らの心が東晋を離れるのを危惧したのであ

る︒つまり東晋に哀傷の念を持ったのである︒哀傷の念を持つとは︑追

懐の念を持つということである﹂︒董常は言った﹁ずばりおうかがいし

ますが︑最終的に帝が北魏・孝文帝となるのは︑どうしてでしょうか﹂︒

先生は言った﹁時宜を尊重し︑国事を盛大にし︑そうすることで正しき

あり方が導かれるのである﹂︒

⑴ 元經至何也  阮逸注﹁元經紀年︑書帝春正月︑起晉惠帝︑止東晉及

宋︒未忘中國︑故帝之︒至齊・梁︑則中國有元魏︑故帝魏矣﹂︒⑵ 

亂離至適歸

  ﹃詩﹄小雅・四月﹁亂離䛵矣︑爰其適歸︵毛傳︑離憂︑

䛵病︑適之也︒鄭玄箋︑爰︑曰也︒今政亂︑國將有憂病者矣︒曰此

禍其所之歸乎︒言憂病之禍︑必自之歸爲亂︶﹂︒⑶ 天地至君也  阮逸注﹁必君元魏﹂︒﹃左傳﹄昭公二十七年﹁季子至曰︑

苟先君無廢祀︑民人無廢主︑社稷有奉︑國家無傾︑乃吾君也﹂︒⑷ 居先王之國  阮逸注﹁都洛﹂︒⑸ 受先王之道  阮逸注﹁建明堂︑修典禮﹂︒﹃論語﹄學而﹁有子曰︑禮之

用和爲貴︑先王之道︑斯爲美﹂︒⑹ 予先王之民矣  阮逸注﹁予︑文中子自謂︒言子自晉陽穆公已來事魏︑

故曰先王之民﹂︒⑺ 謂之何哉  阮逸注﹁何爲不帝﹂︒周公篇︵三二︶注⑶︑參照︒⑻ 敢問至何也  阮逸注﹁魏太祖入長安︑始有中原︑是歳丙申皇始元年︑

當東晉孝武帝盡太元二十一年也︒然元經尚以安・恭紀年﹂︒⑼ 主中至國也  阮逸注﹁晉主中國︑至孝武帝︑名存而實去矣︒故曰非

中國﹂︒⑽ 我聞至告人  阮逸注﹁揚之水篇云也︒聞有善政之命︑未敢告動民心

去之﹂︑﹃詩﹄唐風・揚之水﹁我聞有命︑不敢以告人︵聞曲沃有善政命︑

不敢以告人︒箋︑不敢以告人而去者︑畏昭公謂已動民心︶﹂︒ ⑾ 傷之至之也  阮逸注﹁雖實去︑尚追懷之﹂︒⑿ 敢問卒帝之何也  阮逸注﹁魏至孝文︑方得紀帝﹂︒⒀ 貴其至其事  ﹃穀梁傳﹄哀公元年﹁郊︑享道也︒貴其時︑大其禮︑其

養牲雖小︑不備可也﹂︒⒁ 貴其至義矣  阮逸注﹁天時人事盛大而帝之︑得其宜也﹂︒

︵一一︶子曰︑穆公來︑王肅至⑴︑而元魏達矣⑵︒

  先生が言った﹁穆公・王虬が宋から亡命し︑王粛が南斉から亡命して

来て︑元氏魏は王朝としての枠組みがしっかりした﹂︒

⑴ 王肅至  張氏注﹁王肅︑字恭懿︑琅邪臨沂人︒父奐及兄弟並爲蕭賾

所殺

︒肅自建業來奔

︑ 是歳魏太和十七年

︒孝文帝虛襟待之

︑肅爲 陳説治亂

︑因言蕭氏危滅之兆

︑勸文帝大擧

︒於是器重禮遇日有加

焉︑肅亦盡忠輸誠︑無所隱避︒文帝崩︑遺詔以肅爲尚書令︑與咸陽

王禧等同爲宰輔︒肅頻在邊︑悉心撫接︑遠近歸懷︒景明二年卒︑年

三十八︒見魏書王肅傳・北史王肅傳﹂︒⑵ 子曰至達矣  阮逸注﹁穆公虬︑宋順帝昇明二年奔魏︑王肅字恭懿︑

齊明帝建武四年亦奔魏︑並魏孝文時也︒虬爲晉陽太守︑肅爲平南將

軍︑皆預國政︒虬累薦肅︑肅制典章律令︒故曰逹矣﹂︒

︵一二︶子曰︑非至公︑不及史也⑴︒

  先生が言った﹁この上ない公の精神によるのでなければ︑歴史書に携

わってはならない﹂︒

⑴ 非至公不及史也  阮逸注﹁以先王爲公﹂︒

︵一三︶叔恬曰︑敢問元經書陳亡而具五國︑何也⑴︒子曰︑江東︑中國之

舊也︑衣冠禮樂之所就也︒永嘉之後︑江東貴焉⑵︑而卒不貴︑無人也⑶︒

(5)

五王通﹃中説﹄訳注稿︵七︶ 齊・梁・陳︑於是乎不與其爲國也⑷︒及其亡也︑君子猶懷之⑸︑故書曰︑

晉・宋・齊・梁・陳亡︑具五以歸其國⑹︑且言其國亡也⑺︒嗚呼︑棄先王

之禮樂︑以至是乎⑻︒叔恬曰︑晉・宋亡國久矣︑今具之︑何謂也︒子曰︑

衣冠文物之舊︑君子不欲其先亡︒宋嘗有樹晉之功︑有復中國之志⑼︒亦

不欲其先亡也︒故具

齊・

梁・

陳︑以歸其國也︒其未亡︑則君子奪其國焉︑

曰︑中國之禮樂安在⑽︒其已亡︑則君子與其國焉︑曰︑猶我中國之遺人

也⑾︒叔恬曰︑敢問其志︒文中子泫然而興曰︑銅川府君之志也︒通不敢

廢⑿︒書五國並時而亡︑蓋傷先王之道盡墜︑故君子大其言︑極其敗︑於

是乎掃地而求更新也︒期逝不至︑而多爲䬉⒀︒汝知之乎⒁︒此元經所以書

也⒂︒

  叔恬が言った﹁ずばりおうかがいしますが︑﹃元経﹄で陳が滅亡したこ

とを記す際に︵晋・宋・斉・梁・陳の南朝︶五国の名を列ねたのは︑ど

うしてですか﹂︒先生は言った﹁江東︵南朝︶というのは︑中原国家の名

残が存したところで︑衣服・冕冠・礼制・音楽の成就したところなので

ある︒西晋の永嘉の乱以後︑江東のそれまでの貴顕たちが︑とうとう貴

顕として振るわなくなり︑人材は無と化してしまった︒斉・梁・陳は︑

こうして国家として認め難くなったのである︒その滅亡に際し︑君子た

ちはなお晋や宋を追懐し︑そこで﹁晋・宋・斉・梁・陳が滅亡した﹂と

記し︑五国を列ねることで元来の晋へと遡らせ︑しかもその国が自ずと

滅亡した旨を言明したのである︒ああ︑︵南朝は︶先王の打ち立てた礼

制や音楽を蔑ろにしたがために︑こうした事態に至ってしまったのだな

あ﹂︒叔恬が言った﹁晋や宋は滅亡して随分になりますが︑今それをも

列ねたのは︑どういうことですか﹂︒先生は言った﹁衣服や冕冠︑文化

制度の名残は︑君子が何より失いたくないものである︒宋はかつて晋の

ために功績をあげ︑中原王朝を復興させようとの意志があった︒これも

やはり君子が何より失いたくないものであった︒そのため斉・梁・陳を

列ねて︑宋へと遡らせたのである︒なお︵国家を自称して︶滅亡せずに

い

た斉

・梁

・陳については︑君子がその国家としての立場を剥奪し︑﹁中 原王朝の礼制や音楽はどこへ行ってしまったのか﹂と言うのである︒す

でに滅亡してしまった晋・宋については︑君子がそれを国家として認め︑

﹁なおも私は中原王朝の遺民である﹂と言うのである﹂︒叔恬は言った﹁ず

ばりおうかがいしますが︑それはどなたの意向なのでしょうか﹂︒文中

子は涙をはらはらと流し︑立ち上がって言った﹁父君・銅川府君のご意

向である︒それをわたくし通は決して無視できない︒五国が同時に滅亡

したと記すのは︑思うに先王の道が尽き果てることに心を痛めればこそ

であり︑そのため君子はその言葉をはっきりさせ︑その敗亡を明確に

し︑こうしてすっかり新たな局面を打ち出そうとしたのである︒﹁時が

過ぎ行くばかりで君子はやっては来ず︑やるせない心配が募るばかり﹂︒

お前にはこの意味がわかるかな︒これこそ﹃元経﹄が五国の滅亡を列ね

て記した理由なのである﹂︒

⑴ 敢問至何也  阮逸注﹁書︑隋九年春帝正月︑晉・宋・齊・梁・陳亡﹂︑

﹃元經﹄巻九﹁經︑開皇九年︑春正月︑白虹夾日︑晉・宋・齊・梁・

陳亡﹂︒⑵ 江東至貴焉  阮逸注﹁晉懷帝︑永嘉二年︑琅邪王叡自徐州移鎭建業︑

中國衣冠往依焉﹂︒⑶ 而卒至人也  阮逸注﹁元・明・成三帝︑二十餘年︑賴王導爲之輔︒

康・穆之世︑桓溫專政︑晉祚中微︒至孝武朝︑賴謝安爲之佐︑江東

復振︒安卒後︑桓玄簒位︑劉裕興焉︒是無多賢人使然﹂︒⑷ 齊梁至國也  阮逸注﹁宋嘗有樹晉之功︑君子猶與之也︒至

齊・

梁・

陳

︑

無復念中國︑但自相簒立︑故曰︑不與其爲國也﹂︒⑸ 及其至懷之  阮逸注﹁齊・梁・陳亡︑君子猶懷晉・宋﹂︒⑹ 故書至其國  阮逸注﹁歸晉舊國﹂︒⑺ 且言其國亡也  阮逸注﹁春秋書梁亡︑言自亡也︒江東亦然︒不任賢︑

不修典禮︑尚淫靡之文︑自取亡國︒故曰自亡﹂︒⑻ 嗚呼至是乎  阮逸注﹁南朝喪棄古道﹂︒﹃呂氏春秋﹄驕恣﹁春居問於宣

(6)

六

王曰︑荊王釋先王之禮樂而樂爲輕︒敢問荊國爲有主乎﹂︒⑼ 衣冠至之志  阮逸注﹁宋祖劉裕平桓玄・盧循︑此樹晉功也︒伐南燕︑

擒慕容超︑伐後秦姚泓︑平洛陽︑修謁五陵︑留子義眞守長安︑此復

中國志也﹂︒⑽ 其未至安在  阮逸注﹁齊・梁・陳︑不修禮樂︑但自謀立︑故君子至

公及史︑以其未亡而必奪之也﹂︒⑾ 其已至人也  阮逸注﹁已亡︑謂晉・宋禮樂︑猶存先王之化︑衣冠猶

有中國之人︑故君子及史︑雖其已亡︑而必與之也﹂︒⑿ 銅川至敢廢  阮逸注﹁銅川︑子之父也︒著興衰要論︒言六代得失︑

此其志也﹂︒⒀ 期逝至爲䬉 阮逸注﹁䯴杜篇云︑匪載匪來︑憂心孔疚︒期逝不至︑

而多爲恤︒逝︑往也︒恤︑憂也︒言君子未來︑我憂恤之︑往不可期

其來

︑至而徒多日爲病也

︒文中子

喻

己懷先王之道

︑亦猶此詩爾﹂

︑

﹃詩﹄小雅・䯴杜﹁匪載匪來︑憂心孔疚︵鄭玄箋︑匪非︑疚病也︒君

子至期不裝載︑意不爲來︑我念之︑憂心甚病︶︒期逝不至︑而多爲

恤︵毛傳︑逝往︑恤憂也︒遠行不必如期︑室家之情︑以期望之︶﹂︒⒁ 汝知之乎  天地篇︵四四︶注⑻﹃論語﹄爲政︑參照︒⒂ 此元經所以書也  阮逸注﹁所以書五國皆亡也﹂︒

︵一四︶文中子曰︑漢魏禮樂︑其末不足稱也⑴︒然書不可廢⑵︒尚有近古

對議存焉⑶︒制・誌・詔・册︑則幾乎典誥矣⑷︒

  文中子が言った﹁漢魏の礼制・音楽は︑正統なものの末端に属し︑取

り上げるまでもない︒しかし文書は無視するわけにはいかない︒なおも

古のものに連なる﹁対﹂や﹁議﹂が見られる︒﹁制﹂﹁誌﹂﹁詔﹂﹁冊﹂につ

いては︑﹃書﹄の二典九誥に匹敵する﹂︒

⑴ 其末不足稱也  阮逸注﹁末謂末節也﹂︒﹃禮記﹄檀弓下﹁趙文子與叔譽

觀乎九原

︒文子曰

︑死者如可作也

︑ 吾誰與歸

︒ 叔譽曰

︑其陽處父

乎︒文子曰︑行并植於晉國︑不沒其身︑其知不足稱也︒其舅犯乎︒

文子曰︑見利不顧其君︑其仁不足稱也﹂︒⑵ 不可廢  ﹃論語﹄微子﹁子路曰︑不仕無義︑長幼之節︑不可廢也︒君

臣之義︑如之何其廢之﹂︒⑶ 然書至存焉  阮逸注﹁續書有對・議︒問對︑若高貴郷公問諸儒經義︑

淳于俊・馬昭等對曰︑三王以德化民︑三王以禮爲治︑是也︒議︑若

夏侯玄議時事曰︑銓衡臺閣︑上之分︑孝悌閭里︑下之分︑是也﹂︒⑷ 制誌至誥矣  阮逸注﹁制︑發於君心也︒誌︑臣下誌君之善也︒誥︑

君告于下也

︒册

︑君求於賢也

︒皆近於二典九誥﹂

︒張氏注

﹁典誥

︑

謂尚書之堯典・舜典與仲虺之誥・湯誥・盤庚・大誥・康誥・酒誥・

召誥・洛誥・康王之誥﹂︒

︵一五︶薛收問仁︒子曰︑五常之始也⑴︒問性︒子曰︑五常之本也⑵︒問

道︒子曰︑五常一也⑶︒

  薛収が仁について質問した︒先生は言った﹁五常︵仁・義・礼・智・信︶

の筆頭に位置するものである﹂︒性について質問した︒先生は言った﹁五

常の根本たるものである﹂︒道について質問した︒先生は言った﹁五常

を一つに貫くものである﹂︒

⑴ 問仁至始也  阮逸注﹁五常︑一曰仁︒在乾四德爲善長︒在孟子四端

爲惻隱﹂︒⑵ 問性至本也  阮逸注﹁本謂善也︒孟子曰︑人性無不善︒孔子曰︑繼

之者善也︑成之者性也﹂︒⑶ 問道至一也  阮逸注﹁性善︑其道一也︒禮曰︑率性之謂道﹂︒

︵ 一六︶

賈瓊曰

︑子於道有不盡矣乎

︒子曰

︑通於三才五常

︑有不盡者

︑

神明䗧也⑴︒或力不足者︑斯止矣⑵︒

  賈瓊が言った﹁先生でも道については︑なお不徹底な面がおありなの

(7)

七王通﹃中説﹄訳注稿︵七︶ でしょうか﹂︒先生が言った﹁わたくし通が︑三才︵天地人︶や五常につ

いて︑不徹底な面があれば︑神なる存在が私を誅殺するであろう︒力量

に足らない部分があるとするならば︑それまでである﹂︒

⑴ 通於至䗧也 阮逸注﹁責賈瓊不知心也︒言三才五常之道︑有爲之敎︑

吾盡之矣︒如要無爲︑則退藏於密︑不能盡焉﹂︒﹃左傳﹄僖公二十八

年﹁有渝此盟︑明神䗧之︵杜預注︑渝︑變也︒䗧︑誅也︶﹂︒⑵ 或力至止矣  ﹃論語﹄雍也﹁冉求曰︑非不説子之道︑力不足也︒子曰︑

力不足者︑中道而廢︒今女畫︵何晏集解︑孔曰︑畫︑止也︒力不足

者︑當中道而廢︒今女自止耳︑非力極︶﹂︑同里仁﹁子曰︑我未見好

仁者︑惡不仁者︒好仁者︑無以尚之︒惡不仁者︑其爲仁矣︒不使不

仁者加乎其身︒有能一日用其力於仁矣乎︒我未見力不足者︒蓋有之

矣︒我未之見也﹂︒

︵一七︶裴晞問穆公之事⑴︒子曰︑舅氏⑵不聞鳳皇乎︒覽德暉而下︑何必

懷彼也⑶︒叔恬曰︑穆公之事︑蓋明齊魏⑷︒

  裴晞が︑︵﹃続書﹄の︶﹁穆公之事﹂︵穆公︵王通の曽祖・王虬︶が南斉か

ら北魏へと亡命した件に関わる内容︶について質問した︒先生は言った

﹁叔父どのは鳳凰のことを聞いたことがないのでしょうか︒徳の輝かし

く栄えた土地に舞い降りるのであって︑どうして元々の土地に恋慕の情

を抱く必要があろうか﹂︒叔恬が言った﹁﹁穆公之事﹂は︑南斉と北魏の

関係性をはっきりさせるもののようですね﹂︒

⑴ 穆公之事  阮逸注﹁續書有此篇名︑事則未詳﹂︑張氏注﹁王通曾祖王

虬於齊高帝建元元年︵魏孝文帝太和三年︶自齊奔魏﹂︒⑵ 舅氏  阮逸注﹁晞︑文中子之舅也﹂︒⑶ 不聞至彼也  賈誼﹁弔屈原文﹂︵﹃文選﹄卷六〇︶﹁鳳凰翔于千仞兮︑

覽德輝而下之﹂︒王勃﹁寒梧棲鳳賦﹂︵﹃王子安集注﹄卷一︶﹁九成則那︑ 率舞而下︒懷彼衆會︑罔知淳化﹂︒⑷ 穆公至齊魏  阮逸注﹁言續書之事︑非爲穆公而已︒蓋明南齊簒國︑

君子振鳳翮而去之︒穆公所以來魏也﹂︒

︵一八︶裴晞曰︑人壽幾何⑴︒吾視仲尼︑何其勞也⑵︒子曰︑有之矣⑶︒其

勞也︒敢違天乎⑷︒焉知後之視今︑不如今之視昔也⑸︒

  裴晞が言った﹁人の寿命とはどれ程のものなのか︒私が仲尼︵孔子︶の

生涯を見るに︑何と忙しく気苦労が多かったことか﹂︒先生が言った﹁確

かにあった︒実に気苦労が多かった︒︵だが︶天の意志に反したことな

どあっただろうか︒後の世の人が今の世を見ることが︑今の世の人が昔

の世を見ることに及ばないなどと︑どうしてわかろうか﹂︒

⑴ 人壽幾何  ﹃左傳﹄襄公八年﹁子駟曰︑周詩有之曰︑俟河之清︑人壽

幾何︵杜預注︑逸詩也︒言人壽促︑而河清遲︶﹂︒⑵ 吾視至勞也  阮逸注﹁應聘列國︑未嘗暫暇﹂︒﹃墨子﹄公孟﹁今子徧從

人而説之︑何其勞也﹂︒⑶ 有之矣  述史篇︵一六︶注⑵﹃論語﹄里仁︑參照︒⑷ 有之至天乎  阮逸注﹁仲尼誠有此勞也︒然天行健︑君子自強不息︑

豈敢違天﹂︒﹃左傳﹄僖公二十三年﹁天將興之︑誰能廢之︑違天必有

大咎﹂︒⑸ 焉知至昔也  阮逸注﹁子自謂︑我勤道亦勞也︒然後人視我︑亦將譏

人壽幾何也﹂︒張氏注﹁論語・子罕︑後生可畏︑焉知來者之不如今

也﹂

︑﹃漢書﹄

京 房傳

﹁ 房

曰︑

夫前世之君亦皆然矣

︒臣恐後之視今

︑

猶今之視前也﹂︒

︵一九︶溫大雅問︑如之何可使爲政⑴︒子曰︑仁以行之︑低以居之⑵︑深

識禮樂之情⑶︒敢問其次︒子曰︑言必忠⑷︑行必恕⑸︑鼓之以利害不動⑹︒

又問其次

︒子曰

︑謹而固

︑廉而慮

︑齪齪焉自保

︑不足以發也

⑺︒子曰

︑

(8)

八

降此則穿䝛之人爾⑻︒何足及政︒抑可使備員⑼矣⑽︒

 

温大雅が質問した

﹁ どうやって政治を行なっていけばよいでしょう か﹂

︒先生は言った

﹁ 仁愛による政治を実行し

︑寛容なる態度をとり

︑

礼楽の本質をしっかりと弁える﹂︒ずばりそれに引き続くものを質問し

た︒先生は言った﹁言葉を必ずや衷心より発し︑行動には必ずや思いや

りを持ち︑物事の利害に惑わされることのないように人民を奮い起こ

す﹂︒またそれに引き続くものを質問した︒先生は言った﹁謹直であっ

て確固︑清廉であって深慮︑生真面目で自らの保身に努め︑世を導くこ

とはない﹂︒先生が言った﹁それ以下の存在については︑こそ泥のよう

な人間でしかない︒どうして政治に携わり得ようか︒とりあえず地位を

塞がせておくくらいだ﹂︒

⑴ 如之何可使爲政  ﹃論語﹄堯曰﹁子張問於孔子曰︑何如斯可以從政矣︒

子曰︑尊五美︑屏四惡︑斯可以從政矣﹂︒⑵ 仁以至居之  ﹃周易﹄乾﹁君子學以聚之︑問以辯之︑低以居之︑仁以

行之﹂︒⑶ 仁以至之情  阮逸注﹁若周公︑是也﹂︒﹃禮記﹄樂記﹁故知禮樂之情者

能作︑識禮樂之文者能述﹂︒⑷ 言必忠  ﹃孔子家語﹄五儀解﹁孔子曰︑所謂君子者︑言必忠信︑而心

不怨︑仁義在身︑而色無伐︑思慮通明︑而辭不專︑篤行信道︑自強

不息﹂︒⑸ 言必至必恕  ﹃論語﹄子路﹁︵子︶曰︑言必信︑行必果﹂︒⑹ 言必至不動  阮逸注﹁若孟軻︑是也﹂︒﹃周易﹄繫辭傳上﹁鼓之以雷霆︑

潤之以風雨﹂︒⑺ 謹而至發也  阮逸注﹁若伯夷・叔齊︑是也﹂︒不足以發也︑﹃論語﹄

述而﹁子曰︑不憤不啓︑不䓡不發﹂︒⑻ 降此則穿䝛之人爾  阮逸注﹁苟無周公之深識︑孟軻之不動︑又無伯

夷・叔齊之謹固︑則是竊祿︑如穿䝛者爾﹂︒﹃論語﹄陽貨﹁子曰︑色 厲而内荏︵何晏集解︑孔曰︑荏︑柔也︒爲外自矜厲而内柔佞︶︑譬

諸小人︑其猶穿䝛之盜也與︵孔曰︑爲人如此︑猶小人之有盜心︒穿︑

穿壁︑䝛︑䝛

牆 ︶ ﹂

︒

⑼ 備員  阮逸注﹁若漢之張禹・魏之鍾繇・晉之張華之類︑備員相位︑

實非及民之政也﹂︒﹃史記﹄秦始皇本紀﹁博士雖七十人︑特備員弗用﹂︒⑽ 溫大至員矣  ﹃論語﹄子路﹁子貢問曰︑何如斯可謂之士矣︒子曰︑行

己有恥︒使於四方︑不辱君命︒可謂士矣︒曰︑敢問其次︒曰︑宗族

稱孝焉︑郷黨稱弟焉︒曰︑敢問其次︒曰︑言必信︑行必果︒䲓䲓然

小人哉︒抑亦可以爲次矣︒曰︑今之從政者何如︒子曰︑噫︑斗筲之

人︑何足算也﹂︒

︵二〇︶子曰︑宗祖廢而氏姓離矣︑朋友廢而名字亂矣⑴︒

  先生が言った﹁宗族の祖が蔑ろにされて︑氏姓の関係がばらばらにな

り︑交友のあるべき姿が失われて︑名や字の付け方が混乱を来した﹂︒

⑴ 宗祖至亂矣  阮逸注﹁大宗小宗︑同尊其祖︑所以親族不離︒朋友相

字︑以表其德︑所以稱謂不亂﹂︒

︵二一︶内史薛公謂子曰︑吾文章可謂淫溺矣⑴︒文中子離席而拜曰︑敢賀

丈人之知過也︒薛公因執子手︑喟然而詠曰︑老夫亦何冀︒之子振頹綱⑵︒

  内史・薛公︵道衡︶が先生に言った﹁私の文章は昏迷を極めた節度ない

ものです﹂︒文中子は席を離れて拝手し︑言った﹁あなたが過失を弁え

なさっていることに祝意を表します﹂︒薛公はそこで先生の手を握り︑

嘆息して詠った﹁老公に他に何を望もうか︒この方が文学の頽廃を救わ

れる﹂︒

⑴ 吾文章可謂淫溺矣  阮逸注﹁薛道衡自謂淫文溺於所習﹂︒⑵ 老夫至頹綱  阮逸注﹁詠古詩也︒頹綱︑謂六朝文弊﹂︒﹃詩﹄周南・

(9)

九王通﹃中説﹄訳注稿︵七︶ 漢廣﹁之子于歸︑言秣其馬﹂︒﹃晉書﹄范寧傳﹁平叔神懷超絶︑輔嗣妙

思通微︑振千載之穨綱︑落周孔之塵網﹂︒

︵二二︶子將之陝⑴︑門人從者︑鏘鏘焉被於路︒子止之曰︑散矣︒不知我

者︑謂我何求⑵︒門人乃退︒

  先生が陝の地へ出立するに際し︑門人たちが鈴生りに付き従い︑路上

を埋め尽くした︒先生は彼らを押し止めて言った﹁解散しなさい︒私の

心情を解しない者は︑私が何かのために出発せずにいるものと疑念を持

つ﹂︒門人たちはそこで引き下がった︒

⑴ 子將之陝  阮逸注﹁河南陜縣︑唐置陜州﹂︒⑵ 不知至何求  ﹃詩﹄王風・黍離﹁知我者︑謂我心憂︵鄭玄箋︑知我者︑

知我之情︶︒不知我者︑謂我何求︵箋︑謂我何求︑怪我久留不去︶﹂︒

︵二三︶子謂賀若弼⑴曰︑壯于趾而已矣⑵︒

  先生が賀若弼を評して言った﹁足もとが意気盛んなばかりである﹂︒

⑴ 賀若弼  事君篇︵一五︶︑參照︒⑵ 壯于趾而已矣  阮逸注﹁大壯初九︑壯於趾︑征凶︒言居下用剛也﹂︑

﹃周易﹄大壯﹁初九︑壯于趾︑征凶有孚︵王弼注︑夫得大壯者︑必能

自終成也

︒未有陵犯於物而得終

︒其壯者

︑在下而壯

︑故曰壯于趾

也︒居下而用剛壯︑以斯而進︑窮凶可必也︒故曰︑征凶有孚︶﹂︒

︵二四︶子曰︑天下未有不勞而成者也⑴︒

  先生が言った﹁この世には︑労苦なくして物事を成し遂げた人間など︑

いた例がない﹂︒

⑴ 

天下未有不勞而成者也

 

阮逸注

﹁孟

子曰

︑君子勞心

︑小人勞力﹂

︑

阮逸注引﹃孟子﹄語︑見于﹃左傳﹄襄公九年︒﹃韓非子﹄外儲説右下﹁因

事之理︑則不勞而成﹂︒

︵二五︶賈瓊問正家之道︒子曰︑言有物而行有恒⑴︒

  賈瓊が家を正しく治める方法を質問した︒先生は言った﹁発言には必

ず基づく事実があり︑行動には必ず則る規律がある﹂︒

⑴ 言有物而行有恒  阮逸注﹁答以家人卦大象詞﹂︑﹃周易﹄家人﹁象曰︑

⁝⁝君子以言有物︑而行有恒︵王弼注︑家人之道︑脩於近小而不妄

也︒故君子以言必有物︑而口无擇言︑行必有恒︑而身无擇行︶﹂︒

︵二六︶王孝逸謂子曰︑盍説乎⑴︒子曰︑嗚呼︑言之不見信久矣⑵︒吾將

正大人以取吉︒尚口則窮也︒且致命遂志︑其唯君子乎⑶︒

  王孝逸が先生に言った﹁どうして遊説をされないのですか﹂︒先生は

言った﹁ああ︑いくら言葉を費やしても信用されない状態になって随分

になる︒私は正しき中道を固執する有徳者として吉を得よう︒やたらと

言葉を費やして釈明すれば困窮に陥るのである︒しかも命を投げ出して

でも自らの志向を成し遂げるのは︑ただ君子だけであろうかなあ﹂︒

⑴ 盍説乎  阮逸注﹁游説﹂︒⑵ 言之不見信久矣  阮逸注﹁困卦繇云︑有言不信︒周公之詞也︒故曰

久矣﹂︒⑶ 言之至子乎  ﹃周易﹄困﹁困︑亨︑貞︑大人吉无咎︑有言不信︒彖曰︑

⁝⁝其唯君子乎︒貞大人吉︑以剛中也︵王弼注︑處困而用剛︑不失

其中︑履正而能體大者也︒能正而不能大博︑未能説困者也︒故曰︑

貞大人吉也︶︒⁝⁝有言不信︑尚口乃窮也︵處困而言不見信之時也︑

非行言之時

︑而欲用言以免

︑ 必窮者也

︒其吉在於貞大人

︑口何爲

乎︶︒⁝⁝象曰︑澤无水困︑君子以致命遂志︵澤无水︑則水在澤下︒

(10)

一〇

水在澤下︑困之象也︒處困而屈其志者︑小人也︒君子固窮︑道可忘

乎

︶ ﹂ ︒

︵二七︶文中子曰︑春秋其以天道終乎︒故止於獲麟⑴︒元經其以人事終乎︒

故止於陳亡

⑵︒於是乎天人備矣

⑶︒薛收曰

︑何謂也

︒子曰

︑天人相與之

際︑甚可畏也⑷︒故君子備之︒

  文中子が言った﹁﹃春秋﹄は天道によって締め括っているのだなあ︒だ

から﹁獲麟︵麟を獲︶﹂の記事で打ち止めになっている︒﹃元経﹄は人事に

よって締め括っているのだなあ︒だから﹁陳亡︵陳亡ぶ︶﹂の記事で打ち

止めになっている︒こうして天道と人事とが完備されたわけである﹂︒

薛収が言った﹁どういう意味でしょうか﹂︒先生は言った﹁天道と人事と

の間の相関関係は︑実に畏怖の対象となるものである︒だから君子がこ

れを完備させたのである﹂︒

⑴ 春秋至獲麟  阮逸注﹁麟不遇時︑天命窮矣﹂︒﹃公羊傳﹄哀公十四年

﹁西狩獲麟︒孔子曰︑吾道窮矣︵何休注︑加姓者︑重終也︒麟者︑大

平之符︑聖人之類︒時得麟而死︒此亦天告夫子將沒之徵︑故云爾︶︒

⁝⁝何以終乎哀十四年︵据哀公未終也︶︒曰︑備矣︵人道浹︑王道備︒

必止於麟者︑欲見撥亂︒功成於麟︑猶堯舜之隆︑鳳皇來儀︒故麟於

周爲異︑春秋記以爲瑞︒明大平以瑞應爲效也︒絶筆於春︑不書下三

時者︑起木絶火︑王制作道備︑當授漢也︒又春者︑歳之始︒能常法

其始︑則無不終竟︶﹂︑﹃史記﹄十二諸侯年表序﹁是以孔子明王道︑干

七十餘君︑莫能用︑故西觀周室︑論史記舊聞︑興於魯而次春秋︑上

記隱︑下至哀之獲麟︑約其辭文︑去其煩重︑以制義法︑王道備︑人

事浹﹂︒⑵ 元經至陳亡  阮逸注﹁先王之道︑掃地而求更新︑是人事極矣﹂︒述

史篇︵一三︶︑參照︒⑶ 於是乎天人備矣  阮逸注﹁春秋︑王次春︑正次王︑是天人之道參焉︒ 孔子因天命之窮︑仲淹因人事之極︑天人之道一也﹂︒⑷ 天人至畏也  阮逸注﹁此董仲舒解春秋云也﹂︑﹃漢書﹄董仲舒傳﹁臣謹

案春秋之中︑視前世已行之事︑以觀天人相與之際︑甚可畏也﹂︒

︵二八︶子曰︑可與共樂︑未可與共憂︒可與共憂︑未可與共樂⑴︒吾未見

可與共憂樂者也⑵︒二帝・三王︑可與憂樂矣⑶︒

  先生が言った﹁すでに成し遂げられた治績に伴う悦楽を共有はできて

も︑なお新たな治績を築き上げる苦難を共有はできない︒新たな治績を

築き上げる苦難を共有はできても︑なおすでに成し遂げられた治績に伴

う悦楽を共有はできない︒私はこれまで悦楽と苦難とを共有できる存在

に︑お目にかかったことがない︒二帝︵堯・舜︶と三王︵湯王・文王・武

王︶は︑苦難と悦楽とを共有できる﹂︒

⑴ 可與至共樂  ﹃論語﹄子罕﹁子曰︑可與共學︑未可與適道︒可與適道︑

未可與立︒可與立︑未可與權︵何晏集解︑雖能有所立︑未必能權量

其輕重之極︶﹂︒⑵ 可與至者也  阮逸注﹁樂謂守成也︒治成則與民同樂︒憂謂慮始也︒

事初則與民同患

︒凡可與守成者

︑難與慮始

︑若成王初疑周公

︑是

也︒可與慮始

︑不可與守成

︒若范蠡終避句踐

︑是也

︒有始有卒

︑ 難全也哉﹂

︑﹃史記﹄

越王句踐世家

﹁范蠡遂去

︑ 自齊遺大夫種書曰

︑

⁝⁝越王爲人長頸鳥喙︑可與共患難︑不可與共樂﹂︒﹃論語﹄子罕﹁子

曰︑吾未見好德如好色者也﹂︒⑶ 二帝至樂矣  ﹁可與憂樂矣﹂︑原無﹁樂﹂字︑阮逸注﹁堯禪舜︑舜禪禹︑

天下共樂矣

︒湯伐桀

︑武王伐紂

︑ 天下共憂矣

︒憂樂皆以天下

︑故

文中子以天下之道共與而言之也﹂︑張氏注﹁兪樾・諸子平議補錄卷

十二以爲當作可與憂樂矣﹂︑今改︒

(11)

一一王通﹃中説﹄訳注稿︵七︶ ︵二九︶子曰︑非君子不可與語變⑴︒

  先生が言った﹁君子でなければ権変︵情勢の変化に応じて適切に対処

すること︶について語り合うことはできない﹂︒

⑴ 非君子不可與語變  阮逸注﹁變︑權也︒反經合道之謂也︒孔子曰︑

可與適道︑未可與權﹂︑述史篇︵二八︶注⑴︑參照︒

︵三〇︶子讚易︑至於革︑歎曰︑可矣︒其孰能爲此哉⑴︒至初九︑曰︑吾

當之矣︑又安行乎⑵︒

  先生が﹃易﹄を闡明し︑革卦にまで至ったときに︑慨歎して言った﹁︵隋

の改革は︶可能である︒果たして誰がそれをできるであろうか﹂︒初九

のところまで達したときに言った﹁私がそれを行なう任を担っているの

だが︑またどうして行なおうか﹂︒

⑴ 可矣至此哉  阮逸注﹁大業可革﹂︒⑵ 至初至行乎  ﹃周易﹄革﹁初九︑鞏用黃牛之革︵王弼注︑在革之始︑

革道未成︑固夫常中︑未能應變者也︒此可以守成︑不可以有爲也︒

鞏

︑固也

︒黃

︑中也

︒牛之革堅仞

︑不可變也

︒固之所用

︑ 常中堅

仞︑不肯變也︶︒象曰︑鞏用黃牛︑不可以有爲也﹂︒

︵三一︶薛收問一卦六爻之義︒子曰︑卦也者︑著天下之時也⑴︒爻也者︑

傚天下之動也⑵︒趨時有六動焉︑吉凶悔吝所以不同也⑶︒收曰︑敢問六爻

之義︒子曰︑六者︑非他也︑三才之道⑷︑誰能過乎⑸︒

  薛収が︑一卦六爻の意味するところを質問した︒先生は言った﹁卦と

いうのは︑天下の時の変化を明示したものである︒爻というのは︑天下

の動向に依拠したものである︒時の趨勢には六つの動向があり︑そのた

めに吉・凶・悔・吝といった相違が生じるのである﹂︒薛収が言った﹁ず

ばり六爻の意味するところについておうかがいします﹂︒先生は言った ﹁六というのは︑他でもなく三才︵天地人︶の道のことであり︑それ以上

であろうはずがない﹂︒

⑴ 卦也至時也  阮逸注﹁關氏易傳曰︑乾・坤・屯・濟︑四卦時之門︒

變之︑開闔也︒餘六十卦︑爲六十時而小言之︑六時而已﹂︒⑵ 爻也至動也  ﹃周易﹄繫辭傳下﹁爻也者︑效天下之動者也︒是故吉凶

生︑而悔吝著也﹂︒⑶ 趨時至同也  阮逸注﹁一卦一時之動︑適時則吉︑失時則凶﹂︒注⑵︑

參照︒又﹃周易﹄繫辭傳下﹁吉凶悔吝者︑生乎動者也﹂︒⑷ 六者至之道  ﹃周易﹄繫辭傳下﹁易之爲書也︑廣大悉備︒有天道焉︑

有人道焉︑有地道焉︒兼三材而兩之︒故六︒六者︑非它也︑三材之

道也︒道有變動︑故曰爻﹂︒⑸ 薛收至過乎  阮逸注﹁天時人事︑不過乎六︒關氏易傳曰︑六者︑天

地生成之謂也﹂︒﹃周易﹄繫辭傳上﹁聖人設卦觀象︑繫辭焉︑而明吉

凶︑剛柔相推而生變化︒是故吉凶者︑失得之象也︒悔吝者︑憂虞之

象也︒變化者︑進退之象也︒剛柔者︑晝夜之象也︒六爻之動︑三極

之道也︵韓康伯注︑三極︑三材也︒兼三材之道︑故能見吉凶成變化

也︶︒是故君子所居而安者︑易之序也︒所樂而玩者︑爻之辭也﹂︒

︵三二︶程元・薛收見子︒子曰︑二生之學文⑴︑奚志也⑵︒對曰︑尼父之經︑

夫子之續︑不敢殆也︒子曰︑允矣君子︑展也大成⑶︒居而安⑷︑動而變︑

可以佐王矣⑸︒

 

程元と薛収が先生と面会した

︒先生が言った

﹁二人は人文について

学ぶ際︑如何なる志向を有しているか﹂︒答えて言った﹁尼父︵孔子︶の

経書︑先生の続経は︑忽せにするわけには参りません﹂︒先生は言った

﹁まったく君子である︑実に太平の世をもたらす︒家居しては安閑とし

て︑行動しては変化に応対し︑王者の輔佐となることができる﹂︒

(12)

一二

⑴ 

學文

 

﹃論

語﹄

學而

﹁ 行有餘力

︑則以學文

︵ 何晏集解

︑馬曰

︑文者

︑

古之遺文︶﹂︒⑵ 程元至志也  ﹃論語﹄公冶長﹁顏淵・季路侍︒子曰︑盍各言爾志﹂︒⑶ 允矣至大成  ﹃詩﹄小雅・車攻﹁允矣君子︑展也大成︵鄭玄箋︑允信︑

展誠也︒大成謂致太平也︶﹂︒⑷ 居而安  述史篇︵三一︶注⑸﹃周易﹄繫辭傳上︑參照︒⑸ 居而至王矣  阮逸注﹁居而安︑可與立也︒動而變︑可與權也﹂︒

︵三三︶董常之喪︑子赴洛⑴︒道於䗽池⑵︑主人不授館⑶︒子有飢色︑坐荊

棘間⑷︑讚易不輟也︒謂門人曰︑久矣︒吾將輟也⑸︑而竟未獲⑹︒不知今

也而通大困︒困而不憂⑺︑窮而不懾⑻︒通能之︑斯學之力也︒主人聞之︑

召舍具餐焉⑼︒

  董常の喪のために︑先生は洛陽へと出向いた︒道中︑䗽池の地でのこ

と︑当地の担当官は先生に宿舎を提供しなかった︒先生は空腹の様子で

あったが︑荊棘の生えた場所に座り︑﹃易﹄の闡明に没頭し続けた︒門

人に言った﹁随分と長い間︑没頭していた︒﹃易﹄を手から放そうとする

のだが︑とうとうできなかった︒気が付かないうちに︑いま私は大変な

苦境に陥っているようだ︒苦境に陥って憂いを抱かず︑困窮にあえいで

惑いがない︒私がそうあれるのは︑学問の力によるのである﹂︒担当官

はこの件を聞きつけると︑先生を宿舎に招いて食事を提供した︒

⑴ 董常至赴洛  阮逸注﹁常死在洛﹂︒⑵ 䗽池 阮逸注﹁河南有䗽池縣︑唐置䖫州﹂︑張氏注﹁當爲䈵池︑今河

南䈵池縣西﹂︒⑶ 主人不授館  ﹃國語﹄周語中﹁司里不授館﹂︒⑷ 坐荊棘間  ﹃老子﹄第三十章﹁師之所處︑荊棘生焉︒大軍之後︑必有

凶年︵王弼注︑言師凶害之物也︒無有所濟︑必有所傷︒賊害人民︑

殘荒田畆︒故曰荊棘生焉︶﹂︒ ⑸ 吾將輟也  阮逸注﹁輟讚易﹂︒⑹ 而竟未獲  阮逸注﹁未獲已﹂︒⑺ 困而不憂  張氏注﹁易・乾卦・文言傳︑居上位而不驕︑在下位而不

憂﹂︒⑻ 困而至不懾  ﹃文子﹄符言﹁老子曰︑⁝⁝通而不華︑窮而不懾︑榮而

不顯︑隱而不辱︑異而不怪︑同用无以名之︑是謂大通﹂︑張氏注﹁淮

南子・原道訓︑得道者窮而不懾︑達而不榮﹂︒又問易篇︵一八︶注⑴︑

參照︒⑼ 主人至餐焉  阮逸注﹁世俗亦知非常人﹂︒

︵三四︶賈瓊請絶人事︑子曰︑不可︒請接人事︑子曰︑不可⑴︒瓊曰︑然

則奚若︒子曰︑莊以待之⑵︑信以從之︑去者不追︑來者不拒⑶︑泛如也⑷︑

斯可矣⑸︒

  賈瓊が世俗の人々との交流を断とうと願い出ると︑先生は﹁ならない﹂

と言った︒交流を受けようと願い出ると︑先生は﹁ならない﹂と言った︒

賈瓊は言った﹁それではどうしたらいいのですか﹂︒先生は言った﹁荘重

な態度で接し︑信義を胸に付き従い︑去り行く者に追いすがらず︑寄っ

て来る者は拒絶せず︑揺蕩うようにしていれば︑それでよいのだ﹂︒

⑴ 賈瓊至不可  阮逸注﹁絶之︑接之︑是執一端﹂︒⑵ 莊以待之  張氏注﹁論語・衞靈公︑知及之︑仁不能守之︑雖得之︑

必失之︒知及之︑仁能守之︑不莊以涖之︑則民不敬︒知及之︑仁能

守之︑莊以涖之︑動之不以禮︑未善也﹂︒⑶ 去者至不拒  ﹃孟子﹄盡心下﹁夫子之設科也︑往者不追︑來者不拒︒

苟以是心至︑斯受之而已矣﹂︒⑷ 泛如也  張氏注﹁莊子・列禦寇︑泛若不繫之舟︑虛而敖游者也﹂︒⑸ 斯可矣  阮逸注﹁亂世當如此﹂︒﹃論語﹄述而﹁子曰︑聖人吾不得而見

之矣︒得見君子者︑斯可矣︒子曰︑善人吾不得而見之矣︒得見有恒

(13)

一三王通﹃中説﹄訳注稿︵七︶ 者︑斯可矣﹂︒

︵三五︶文中子曰﹁賈誼⑴夭︑孝文崩︑則漢祚可見矣⑵︒

  文中子が言った﹁賈誼が夭折し︑文帝が崩御したことで︑漢の命運も

予見できたというものだ﹂︒

⑴ 賈誼  張氏注﹁賈誼︑洛陽人︑漢文帝博士︑超遷至太中大夫︒天子

議以誼任公卿之位︑衆皆毀之︑遂以誼爲長沙王太傅︒後爲梁懷王太

傅

︒ 嘗上書文帝

︑力陳諸侯國之害

︒ 梁王墜馬亡

︑誼自傷而死

︑年

三十三︒劉向曰︑賈誼言三代與秦治亂之意︑其論甚美︑通達國體︑

雖古之伊・管未能遠過也︒使時見用︑功化必盛︒爲庸臣所害︑甚可

悼痛︒見漢書・賈誼傳﹂︒⑵ 賈誼至見矣  阮逸注﹁賈誼年十八︑上書孝文帝︑謂才堪卿相︑然未

及大用而誼夭︒帝崩︑使漢祚不及三代之永︑誠以此爾﹂︒

︵三六︶子曰︑我未見謙而有怨︑亢而無辱︑惡而不彰者也⑴︒

  先生が言った﹁私は恭謙にして他人から怨みを買ったとか︑亢傲にし

て他人から辱めを受けずに済んだとか︑悪事を働いて露見しなかったと

か︑そうした例を知らない﹂︒

⑴ 我未至者也  阮逸注﹁三者必然之理﹂︒

︵三七︶董常曰︑子之十二策⑴︑奚稟也︒子曰︑有天道焉︑有地道焉︑有

人道焉⑵︒此其稟也︒董常曰︑噫︑三極之道︑稟之而行︑不亦煥乎︒子

曰︑十二策若行於時︑則六經不續矣︒董常曰︑何謂也︒子曰︑仰以觀天

文︑俯以察地理⑶︑中以建人極︑吾暇矣哉⑷︒其有不言之教行而與萬物息

矣⑸︒

 

董常が言った

﹁ 先生の十二策は

︑何を述べたものなのでしょうか﹂

︒

先生は言った﹁天の道があり︑地の道があり︑人の道がある︒これが述

べた内容である﹂︒董常は言った﹁ああ︑︵天地人の︶三極の道について

述べられ︑それが実行に移されるとすれば︑何と輝かしいことでしょう

か﹂︒先生は言った﹁十二策の内容が︑この時代に実行に移されていれ

ば︑﹃続六経﹄は存在しなかったであろう﹂︒董常は言った﹁どういう意

味でしょうか﹂︒先生は言った﹁上は天球の現象を観測し︑下は土地の

様子を詳察し︑その中間に人道の標準が成立するのであって︑私に手出

しするところがあろうか︒言葉を介さない教化が展開されて︑その中に

万物とともに息づくのである﹂︒

⑴ 子之十二策  張氏注﹁魏相篇︑子謁見隋祖︑一節而陳十二策︑編成

四卷︒文中子世家︑仁壽三年︑文中子冠矣︑慨然有濟蒼生之心︑西

遊長安

︑ 見隋文帝

︒帝坐太極殿召見

︑因奏太平策十有二

︑策尊王

道︑推霸略︑稽今驗古︑恢恢乎運天下於指掌矣﹂︒⑵ 有天至人道焉  述史篇︵三一︶注⑷︑參照︒⑶ 仰以至地理  ﹃周易﹄繫辭傳上﹁仰以觀於天文︑俯以察於地理﹂︒⑷ 吾暇矣哉  ﹃説苑﹄反質﹁子貢問子石︑子不學詩乎︒子石曰︑吾暇乎

哉︒父母求吾孝︑兄弟求吾悌︑朋友求吾信︑吾暇乎哉﹂︒⑸ 其有不言之教行而與萬物息矣  阮逸注﹁堯民曰︑日出而作︑日入而

息︑帝何力於我哉︑是也﹂︑﹃莊子﹄讓王﹁舜以天下讓善卷︒善卷曰︑

⁝⁝日出而作︑日入而息︑逍遙於天地之間︑而心意自得︒吾何以天

下爲哉﹂︑﹃藝文類聚﹄卷十一・帝堯陶唐氏﹁帝王世紀曰︑⁝⁝老人

曰︑吾日出而作︑日入而息︑鑿井而飲︑耕田而食︒帝何力於我哉﹂︒

﹃老子﹄第二章﹁是以聖人處無爲之事︑行不言之教︒萬物作焉而不辭︑

生而不有︑爲而不恃︑功成而弗居︒夫唯弗居︑是以不去﹂︑﹃莊子﹄

德充符﹁王駘︑兀者也︒從之遊者︑與夫子中分魯︒立不教︑坐不議︑

虛而往︑實而歸︒固有不言之教︑無形而心成者邪﹂︒

(14)

一四

︵三八︶文中子曰︑天下有道︑聖人藏焉⑴︑天下無道︑聖人彰焉⑵︒董常

曰︑願聞其説︒子曰︑反一無跡︑庸非藏乎⑶︒因貳以濟︑能無彰乎⑷︒如

有用我者︑當處於太山矣⑸︒董常曰︑將沖而用之乎⑹︒易不云乎︒易簡而

天地之理得矣⑺︒

  文中子が言った﹁天下に道が行なわれていれば︑聖人は世から隠れ︑

天下に道が行なわれていなければ︑聖人は世に姿を現す﹂︒董常が言っ

た﹁その意味するところについて︑解説をお願いします﹂︒先生は言っ

た﹁至一なる道に回帰して︑有為の痕跡が残らなければ︑世から隠れる

ことになるはずであろう︒至一なる道を離れて︑世を救おうとするなら

ば︑世に姿を現すことになるはずであろう︒もし私を使ってくれる存在

があるならば︑きっと太山にいることを願いたい﹂︒董常が言った﹁空

虚なる器としての作用を発揮するということでしょうかね︒﹃易﹄に言

うではないですか︒﹁平易かつ簡約であってこそ︑この世の道理が押さ

えられる﹂と﹂︒

⑴ 天下至藏焉  阮逸注﹁閑暇︑故藏﹂︒⑵ 天下至彰焉  阮逸注﹁辯不得已﹂︒﹃莊子﹄人間世﹁天下有道︑聖人成

焉︑天下無道︑聖人生焉﹂︒﹃論語﹄泰伯﹁子曰︑篤信好學︑守死善

道︒危邦不入︑亂邦不居︒天下有道則見︑無道則隱︵何晏集解︑包

曰︑言行當常然︒危邦不入︑始欲往︑亂邦不居︑今欲去︒亂謂臣⺺

君︑子⺺

父

︒ 危者將亂之兆︶

︒ 邦有道

︑貧且賤焉

︑恥也

︒ 邦無道

︑

富且貴焉︑恥也﹂︒⑶ 反一至藏乎  阮逸注﹁反一︑謂反復一性也︒復靜則萬慮何有︒老子

曰︑歸根曰靜︑是也︒無跡︑謂無形也︒無形︑聖人所以藏諸用︒蓋

不言之教也﹂︒張氏注﹁︵莊子︶繕性︑當時命而大行乎天下︑則反一

無跡︑不當時命而大窮乎天下︑則深根寧極而待︑此存身之道也﹂︒⑷ 因貳至彰乎  阮逸注﹁貳謂異端也︒異端乖乎大義︑我則闢之爾︒如

尼父因史法之貳︑作春秋以濟之︒孟子因邪説之貳︑擧仁義以濟之︒

文中子因亂華之貳

︑尊元經以濟之

︒蓋有爲之典也﹂

︒張氏注

﹁易

・

繫辭下︑因貳以濟民行︑以明失得之報﹂︒⑸ 如有至山矣  阮逸注﹁太山︑魯國周公禮樂之地︒文中子︑周之後︑

故慕焉︒一説︑太山︑黃帝有合宮在其下︑可以立明堂之制焉﹂︒﹃論

語﹄陽貨﹁公山弗擾以費畔︑召︑子欲往︵孔曰︑弗擾爲季氏宰︑與

陽虎共執季桓子︑而召孔子︶︒子路不説︑曰︑末之也已︒何必公山

氏之之也︵孔曰︑之︑適也︒無可之則止︒何必公山氏之適︶︒子曰︑

夫召我者而豈徒哉︒如有用我者︑吾其爲東周乎︵興周道於東方︑故

曰東周︶﹂︒⑹ 將沖而用之乎  阮逸注﹁沖︑虛也︒老子曰︑道沖而用之︒言子不求

官逹︑而思慕太山黃帝・周公之道︑是將假沖虛爲詞乎﹂︒﹃老子﹄第

四章﹁道沖而用之︑或不盈﹂︒⑺ 易不至得矣  阮逸注﹁易簡︑言無爲也︒道冲用︑則知子之志有不可

爲矣﹂︑﹃周易﹄繫辭傳上﹁易簡而天下之理得矣︵韓康伯注︑天下之理︑

莫不由於易簡︑而各得順其分位也︶︒天下之理得︑而成位乎其中矣

︵成位至立象也︒極易簡︑則能通天下之理︑通天下之理︑故能成象︑

並乎天地︒言其中︑則並明天地也︶﹂︒

︵三九︶杜淹問七制之主⑴︒子曰︑有大功也︒問賈誼之道何如︒子曰︑羣

疑亡矣

⑵︒或問楚元王

︒子曰

︑ 惠人也

⑶︒問河間獻王

︒子曰

︑ 智人也

⑷︒

問東平王蒼︒子曰︑仁人也⑸︒問東海王強︒子曰︑義人也⑹︒保終榮寵︑

不亦宜乎⑺︒

  杜淹が七制の君主たちのことを質問した︒先生は言った﹁大いなる功

績があった﹂︒賈誼の踏み行なった道はどうかと質問した︒先生は言っ

た﹁あらゆる疑念が払拭された﹂︒ある人が楚元王・劉交について質問

した︒先生は言った﹁恩愛のある人物だ﹂︒河間献王・劉徳について質

問した︒先生は言った﹁智慮を備えた人物だ﹂︒東平王・劉蒼について

質問した︒先生は言った﹁仁徳のある人物だ﹂︒東海王・劉強について

(15)

一五王通﹃中説﹄訳注稿︵七︶ 質問した︒先生は言った﹁義理を弁えた人物だ︒︵四者が︶栄光のうちに

生涯を全うできたのも︑うなずけるというものだ﹂︒

⑴ 七制之主  王道篇︵三二︶注⑴︑參照︒⑵ 問賈至亡矣  ﹃周易﹄睽﹁象曰︑遇雨之吉︑羣疑亡也﹂︒賈誼︑阮逸

注﹁誼上書文帝曰︑漢興二十餘年︑當更秦之法︑定官名禮樂︒又對

鬼神之事

︑君臣相和

︑如遇雨

︑吉矣

︒ 此其道也﹂

︑張氏注

﹁漢

書・

賈誼傳

︑誼爲文帝博士

︑毎詔令議下

︑諸老先生未能言

︑誼盡爲之

對︑人人各如其意所出﹂︒⑶ 或問至惠人也  ﹃論語﹄憲問﹁或問子産︒子曰︑惠人也︵何晏集解︑

孔曰︑惠︑愛也︒子産︑古之遺愛︶﹂︒楚元王︑阮逸注﹁元王︑名交︑

好書多才

︒常與魯申公

・白公

・ 穆生同受詩

︑作傳曰元王詩

︒ 又穆

生不飲酒︑王設醴待之︒是惠也﹂︑張氏注﹁劉邦異母弟劉交︑字遊︒

好詩・書︑多才藝︒立二十三年薨︒見漢書・楚元王傳﹂︒⑷ 問河至智人也  阮逸注﹁獻王︑名德︑好收書︑與朝廷等︒是時淮南

王亦好書︑多招浮辯︒獻王修禮樂︑服儒術︒帝策問三十餘事︑王對

以道術︑得事之中立︒是智也﹂︑張氏注﹁漢景帝之子劉德︑修古好

學︑實事求是︒從民得善書︑必爲好寫與之︑留其眞︑加金帛賜以招

之︑故得書多︒所得書皆古文先秦舊書︑周官・尚書・禮・孟子・老

子之屬︑皆經傳説記・七十子之徒所論︒修禮樂︑被服儒術︑造次必

於儒者︒武帝時︑獻王來朝︑對三雍宮及詔策所問三十餘事︒其對推

道術而言︑得事之中︑文約指明︒立二十六年薨︒大行令奏曰︑諡法

曰︑聰明睿知曰獻︒宜謚曰獻王︒見漢書・景十三王傳﹂︒⑸ 問東平至仁人也  阮逸注﹁王名蒼︑明帝重之︑位三公上︒蒼意不安︑

上疏歸藩︒帝問處家何樂︑蒼曰︑爲善最樂︒是仁也﹂︑張氏注﹁漢

光武帝子劉蒼︒少好經書︑雅有智思︒明帝繼位︑拜爲驃騎將軍︑位

在三公上︒蒼與公卿共議定南北郊冠冕車服制度︑及光武廟登歌八佾

舞數︒自以至親輔政︑聲望日重︑上疏歸職︒章帝卽位︑尊重恩禮踰 於前世︒朝廷毎有疑政︑輒驛使諮問︒蒼悉心以對︑皆見納用︒建初八年薨︒見後漢書・光武十王列傳﹂︒⑹ 問東海至義人也  阮逸注﹁光武太子︑名強︒母郭后有罪廢︑而強不

自安︑乞歸藩︒光武不忍︑遲迴數年︑方許之︒遂封東海大國︒後明

帝立︑蓋強讓之也︒故曰義﹂︑張氏注﹁漢光武帝子劉強︒建武二年︑

立母郭氏爲后︑強爲皇太子︒十七年︑郭后廢︑強不自安︑數因左右

及諸王陳其懇誠

︑願備蕃國

︒十九年

︑封爲東海王

︒帝以強廢不以

過︑去就有禮︑故優以大封︒永平元年薨︑年三十四︒史臣曰︑東海

恭王遜而知廢︑爲吳太伯︑不亦可乎︒見後漢書・光武十王列傳﹂︒⑺ 保終至宜乎  阮逸注﹁言四王皆善終︑有惠智仁義﹂︒﹃論語﹄子張﹁夫

子之云︑不亦宜乎﹂︒

︵四〇︶子曰︑婦人預事而漢道危矣⑴︒大臣均權而魏命亂矣⑵︒儲后不順

而晉室䧓矣⑶︒此非天也︒人謀不臧咎矣夫⑷︒

  先生が言った﹁ご婦人方が政事に関与するようになって︑漢の行く末

は危うくなった︒大臣たちが権勢を分け合うようになって︑曹魏の命運

は昏迷を来した︒皇太子の妃選びが穏当でなかったがために︑西晋の帝

室は傾いた︒これは天の意志によるものではない︒礼楽をきちんと修め

なかったことに対する罰であろうかなあ﹂︒

⑴ 婦人預事而漢道危矣 

阮逸

注﹁

呂后

・梁

后・

産・

祿之擅權︑冀之跋扈︑

終危漢也﹂︒⑵ 

大臣均權而魏命亂矣

 

阮逸注

﹁司馬宣王與曹爽爭權相傾

︑終亂魏

也﹂︒⑶ 儲后不順而晉室䧓矣 阮逸注﹁惠帝衷太子䶵︑未加師訓而立︑果䧓

晉祚﹂︒⑷ 此非至矣夫  阮逸注﹁天謂曆數也︒人謂典禮也︒漢・魏・晉曆數︑

不及三代者︑典禮不修故也︒此是人謀不臧之咎﹂︒﹃周易﹄繫辭傳下

(16)

一六

﹁人謀鬼謀︑百姓與能﹂︒張氏注﹁詩・小雅・小旻︑謀之不臧︑則具

是依﹂︒

  本稿は︑筆者が香川大学教育学部在職中に着手し︑これまで﹃香川大

学教育学部研究報告  第Ⅰ部﹄及び﹃香川大学教育学部研究報告﹄に連載

してきた﹁王通﹃中説﹄訳注稿﹂︵一︶〜︵六︶に継続する研究成果である︒

参照

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