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一
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︳
一一論説〗
l 1 9
﹂
一 課 題
︱一オールド・ベイリ概観
︱︱︱ォールド・ベイリ研究の課題
四 聖 職 者 の 特 権 と 一 八 世 紀 前 半 の イ ギ リ ス 刑 事 法
1
聖職者の特権の冊俗化
2
一八世紀前半のイギリス刑事法
I殺人︵以上第十八巻第一号︶
I I
財産犯罪
3流刑の導入(以上第十八巻第三•四号)
五 一 八 世 紀 イ ギ リ ス の 刑 事 裁 判
1
公判前手続
I
逮捕
I I
調査と保釈
I I I
治安判事としてのヘンリー・フィールディング
︵以 上第 十九 巻第 一一 号︶ 2大陪審3審理陪審I
罪状認否手続
目
次
七 ︱ ︱ 1 0 年 代 の オ ー ル ド
七
I I
陪審員資格と審理陪審の社会構成
I I I
陪審審理
w
陪審の評決︵以上第二十一巻第一一号︶
4
刑の宣告と恩赦
5
ニューゲイト監獄 六 一 七 三 0年代のオールド・ベイリ
l
一 七 ︱ ︱
‑0
年代の
O. B. S. P.
2裁判官の役割(以上第二十二巻第三•四号)3 I 証拠法 性格証拠
I I
補強法則 皿 自 白 法 則
W
ウォーリックシャル事件の神話
︵以 上第 二十 四巻 第一 号︶
4弁護士の登場I
アトーニとソリシタ
I I
バリスタと公判構造の転換 まとめ
ベ イ リ
︵ 七
栗
完 ︶
原 員
︵以
上本
号︶
人
25‑1・2‑1 (香法2005)
弁護士の登場
ア ト
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a t t o r n e y
とソリシタ s ゜
l i c i t o r イングランドの弁護士は︑法廷外で法律業務に従事するアトーニ︑ソリシタと︑法廷での被聴権
r i g h
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f a
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i e
n c
e
(1 )
を独占するバリスタという二つの階層によって構成される︒一八冊紀は︑依頼人と直接に接触する前者と︑前者から 依頼されて法廷弁論を行う後者の間で職域が分割された時代であった︒弁護士の刑事裁判への関与は︑弁護士の二つ の階層の職域の違いによって︑前者では公判前手続で︑後者では公判でなされた︒すでに言及したように︑弁護士の 刑事裁判への関与は︑アトーニやソリシタが関与する公判前手続で先行し︑その後バリスタが関与する公判に拡大し
(2 )
た︒訴追側が先行し︑その後被告人側に拡大した︒
民事が業務の中心であったとしても︑
アトーニやソリシタが犯罪被害者から依頼を受けて犯罪調査と訴追準備に従 事することは︑彼らの日常的業務のひとつであったと思われる︒一八世紀初期には訴追側で犯罪調査を担う刑事専門 のアトーニ︑ソリシタが誕生した︒造幣局
Mi
nt
︑大蔵省︑イングランド銀行︑ロンドン市︑郵便局︑東インド会社︑
南海会社などの団体が︑彼らに対する犯罪を訴追するためにアトーニやソリシタを一雇ったからである︒彼らは犯罪を
調査し︑証拠を集め︑訴追準備に従事した︒
(4 )
通貨偽造事件での造幣局ソリシタ
Mi
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S o l i
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r の活動については︑ラングバイン
J.
H .
La n
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の研究がある︒造n
幣局ソリシタの会計報告書から示されるい犯罪調査︑②治安判事や他の官吏への手数料︑①証人︑いバリスタ
c o
u n
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l という四項目の支出は︑造幣局ソリシタの活動を示している︒造幣局ソリシタは通貨偽造事件で事件を捜査し︑被疑 者を逮捕し︑証拠集めを行う︒被疑者を治安判事に告発し︑治安判事の公判前調査にまで出席する︒正式起訴に備え
ー
4
25-1•2- 2 (香法2005)
一七三0年代のオールド・ベイリ(七・完)(栗原)
かわっていた︒その一方で︑ て証人の出廷と正式起訴状案を準備する︒さらに造幣局の代理人として公判に出廷する訴追側バリスタを選任する︒訴追側バリスタは︑
ソリシタが犯罪調究をもとに作成したブリーフ
b r i e
f にもとづいて公判で尋問した︒もちろん︑
ブリーフに依存したことを考慮すれば︑ ソリシタには被聴権がないのでバリスタのように代理人として公判に出廷することはでぎない︒むしろ︑多くのソリシタが被疑者の逮捕にかかわったために訴追側証人として出廷したことは︑
Ol
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( 以
下 ︑
0•
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( 6 )
P . )
に記録されている︒バリスタの出廷が解禁されて間もない時代には︑バリスタの法廷弁論がソリシタが作成した
ソリシタは刑事訴追の中心的担い手として公判前手続を越えて刑事手続全体
を統括したと言うべきであろう︒
訴追側のアトーニやソリシタの活動は︑上記の団体に限られることなく︑犯罪被害者全般に及んでいた︒すでに言 及したニューゲイト・ソリシタ
Ne
wg
at
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S o l i
c i t o
r の問題である︒ニューゲイト・ソリシタが治安判事の公判前調査に
出席し︑証人を準備し尋問するばかりでなく︑被疑者から自白を引き出すための尋問を行うまで公判前手続に深くか
ニューゲイト・ディフェンダーズ
Ne
wg
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D e
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と称される被告人側ソリシタが被
疑者のために証人を準備し︑被疑者のアリバイの偽装工作に従事したりしており︑
( 8 )
側の双方でアトーニやソリシタが公判前手続に関与していたと思われる︒
このようにアトーニやソリシタが公判前手続︑特に治安判事による公判前調査に出席するようになったことは︑治 安判事による公判前調査そのものの変化を意味した︒重罪事件に対する治安判事による公判前調査は︑一六世紀中頃
(9 )
の保釈法
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B a
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(一五五四ー一五五五年︶と拘禁法
Th
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Co
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it
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(一五五五年︶にもとづいて行われた︒
重罪の告発を受けた治安判事は︑訴追者︑訴追側証人︑被疑者を尋問し︑調書を作成することが義務づけられた︒訴 追者と訴追側証人は宣誓のうえで証言し︑調書が作成された︒被疑者は宣誓なしで陳述し︑調書が作成された︒被疑
一七
︱︱
10
年代
には
︑訴
追側
被告
人
25‑1・2‑3 (香法2005)
者に対する訴追者と訴追側証人の宣誓証言は︑被疑者が立ち会うことなく︑治安判事の面前で調書に記録された︒被
疑者の自白は調書に記録され︑その任意性を証明する証人︵治安判事書記︶がいれば︑公判で証拠として採用された︒
治安判事は︑公判が開かれるときに被疑者を訴追させる目的で︑訴追者︑訴追側証人︑保釈されていれば被疑者に対
して出廷保証命令を出した︒
重罪事件では︑治安判事は︑被疑者が重罪の疑いで当事者の宣誓によって告発され︑治安判事の面前に連れて来ら
( 1 0 )
れたならば︑その被疑者を無罪放免することはできない︒その被疑者を保釈するか勾留するかせねばならなかった︒
重罪が犯され︑ある人が重罪の疑いで治安判事の前に連れて来られた場合には︑その被疑者がそれについて無罪であ
ると治安判事に思われるとしても︑重罪︵もしくは重罪の疑い︶でひとたび逮捕され告発された人が公判なしにある
人の裁量によって無罪放免されることは適切でないとされた︒ 一六世紀中頃の二つの制定法のもとでの公判前調査で
( 1 2 )
治安判事に求められたのは︑訴追側の証拠集めであり︑被疑者の自白であった︒ダルトン
M .
D a
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による﹁地方の
司法
C o
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J u s t
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﹂
︵ 一
六 一
八 年
︶ では︑治安判事が国側に不利となるような情報︑証拠︑証明を宣誓のうえで集 め︑それを調書に記録することは禁じられていないが︑治安判事がそのようなことをしなかったことはダルトン自身
( 1 3 )
が指摘するところである︒
一八戦紀に入ると治安判事による公判前手続に変化がみられる︒その変化のひとつは︑治安判事が公判前調査の結
果︑重罪で告発された被疑者を無罪放免する権限をめぐってである︒ビーテイ
J.
M .
B e a t
t i e
は︑一六六四年から一七
( 1 4 )
三三年までのロンドン市長の治安判事としての仕事を記録した告発記録
C h
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を分析した︒告発記録にはこの
( 1 5 )
期間の全ての記録が保存されておらず︑治安判事による公判前手続全体が記録されているわけではない︒例えば︑告 発記録には被疑者を逮捕したり捜査を実施するために治安委員
c o n s
t a b l
e
に発せられた令状は記録されていないし︑
四
25‑1・2‑4 (香法2005)
一七三0年代のオールド・ベイリ(七・完)(栗原)
( 1 6 )
申し立てられた犯罪の被害者からとられた調書の写しも被疑者の調書の写しも含まれていない︒しかし︑重罪や軽罪 で告発された被疑者に対する公判前調査の結果︑治安判事が個々の被疑者に対してどのような決定を下したのかが記 録された︒特に︑重罪で告発された被疑者に対して︑公判前調木且における治安判事の決定がこの期間に変化がみられ るならば︑治安判事による公判前調査そのものが変わりつつあることを意味する︒ビーティは︑就任時期が異なるニ 人の市長が治安判事として公判前調査に従事したときの告発記録を比較した︒
一六九四年にロンドン市長であったアシュハースト
S i r
W i l l
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A s h h
u r s t
は ︑
で告発された六︱一人の被疑者の公判前調木且を行った︒彼はそのうちの五六人を公判を待っためにニューゲイト監獄と
( 1 7 )
︵1 8 )
二つのカンプター監獄に勾留した︒残りの六人には保釈を認めた︒アシュハーストの公判前調査が一六世紀の二つの 一七二九年一
一月にロンドン市長に就任し治安判事を務めたブローカス
S i r
R i c h
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B r o c
a s は ︑
から一七三
0
年 一
0
月までの一年間に重罪で告発された九二人の被疑者の公判前調査を行った︒ブローカスは︑そのうちの五一人を公判のためにニューゲイト監獄やカンプター監獄に勾留し︑一人に保釈を認めた︒しかし︑残りの四
( 1 9 )
0
人は訴追の欠陥︑証拠の弱さあるいは他の理由で治安判事によって無罪放免された︒このように︑治安判事が公判 前調査で重罪の被疑者を無罪放免した記録は一六九四年のアシュハーストの告発記録にはみられない︒
しかし︑一八世紀に入ると︑治安判事は公判前調査で重罪の被疑者に対する訴追側証拠を調査し︑証拠が不充分な 場合には公判前調査で告発を却下し︑被疑者を無罪放免するようになったのである︒治安判事のこのような決定は︑
ルトシャの治安判事︑ 制定法にもとづいて行われたことは明らかである︒
五
一七二九年一
一七
三
0
年代のハックニーの治安判事︑ヘンリ・ノリスH e
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N o y
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のノートブックから︑さらに一七四
0
年代のウィ( 2 0 )
ウィリアム・ハント
W i l l
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H u
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のノートブックからも確認できる︒
一月
一月から六月までの六ヶ月間に重罪
25‑1・2‑5 (香法2005)
査における治安判事の裁量性が拡大された時代であった︒ 一八世紀は公判前調
一七四八年一月にミドルセクス州の治安判事に任命されたヘンリ・フィールディング
H e
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y F i
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は︑証拠不充n g
分な重罪の被疑者を公判前調査で無罪放免するだけでなく︑一六世紀の二つの制定法を厳格に適用する公判前調査に
( 2 1 )
よって重罪の被疑者が勾留されることから生じる弊害を批判した︒
﹁現行のイングランドの法律によれば︑窃盗が完全に犯されるならば︑被告発者に対する疑いがいかにわずかであ ろうと︑特に被告発者が告発に応答するための出廷保証金がないならば︑治安判事は当事者を勾留することを厳格に 義務づけられた︒盗まれた物品のわずかな評価額も︑刑を緩和する何らかの状況も︑治安判事が被勾留者
p r i s
o n e r
を
釈放することを正当化しないであろう︒ダルトン氏が言うように︑重罪がなされたことが証明される場合には︑もし も告発された当事者には無罪の証明があると思われるとしても︑治安判事は彼を無罪放免することはできない︒勾留 するか保釈するかせねばならない︒この意見がいかに不合理に思われようと︑
( 2 2 )
事訴訟法史のなかで適用し記載するのが適していると考えた︒﹂
犯罪を取り締まり防止する現場にいるフィールディングからみれば︑評価額二ないし三ペンスという窃盗の容疑者
であ
って
も︑
一六世紀の二つの制定法によって公判を待っために︑この町ではニヶ月間︑地方では半年以上の間監獄
( 2 3 )
に勾留されることが問題であった︒フィールディングは︑窃盗の容疑者の諸状況︵例えば︑評価額が低い︑強盗が加 重されない︑常習犯ではない等々︶によって︑犯罪者が治安委員によって鞭打ちを科せられたり︑あるいは犯罪者を 拘留して一定期間の璽労働を科したりする権限を治安判事に与えることを求めた︒一八世紀中頃には︑治安判事が被
( 2 4 )
疑者にいだく疑いが全く根拠がないと考えるならば︑その告発を却下する権限を有することが認められ︑さらに︑治
( 2 5 )
安判事は重罪の訴追を陪審審理に委ねることなく自らの裁量で処理する権限さえも認められた︒ ヘイル閣下
M y
L o
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H a
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はそれを刑
一
ノ25-1•2- 6 (香法2005)
一七三0年代のオールド・ベイリ(七・完)(栗原)
七
治安判事の公判前調査で生じたもう︱つの変化は︑公判前調査が公開の場で行われるようになったことである︒公 開の公判前調査は訴追側被告人側の双方でアトーニやソリシタの公判前調査への関与を促した︒一六九
0年
代に
は︑
ロンドン市長はギルド・ホールのメイティド・ギャラリ
M a
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G a l l
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にある治安判事執務室
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で公判前
一 七 一 ︱
10
年代までに訴追側のアトーニやソリシタが公判前調査に出席するまでになっており︑ブ ローカスがこの治安判事執務室で公判前調査を担当した一七三
0年代には︑公判前調杏は事件関係者や傍聴人の前で
( 2 6 )
公開で行われていたと思われる︒一七三八年に導入された当番市参事会員制度のもとでメイティド・ギャラリで行わ れた公判前調査が︑そして一七五三年に建造された市長公舎
M a
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の治安判事執務室における市長による公
( 2 7 )
判前調査が公開の場で行われたことは言うまでもない︒治安判事の公判前調査が公開の場で行われたのはロンドンだ
けではない︒すでに言及したように︑ハックニーの治安判事︑ノリスは一七︱︱︱︱一年二月の強盗事件の公判前調木且を私
( 2 8 )
宅で多数の住民を前にして行っていた︒ウエストミンスターの治安判事︑トーマス・デ・バイル
T h
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De
V e
i l は ︑
一七
四
0年代にボウ・ストリートの私邸で行われた公判前調査で︑﹁ニューゲイト・ソリシタや他の悪賢い者達が治
安判事執務室に入る機会を利用して入り込み︑悪名高い犯罪者達を彼らの苦境と公判のために勾留される危険から救
( 2 9 )
い出す﹂ことを批判した︒デ・バイルのボウ・ストリートの私邸を引き継いだヘンリ・フィールディングも︑彼の後 任であるジョン・フィールディングも仕切り
b臼で分けられた法廷風の一室で多数の傍聴人を前にして公判前調壺を
( 3 0 )
行った︒公開の公判前調査によって︑被疑者に対する証拠と余罪の証拠が集められた︒その一方で︑ジョン・フィー ルディングは一人の被疑者に対して︱一回の公判前調査を開いた︒次の週に開かれた二回目の公判前調査は︑被疑者が
( 3 1 )
訴追側証拠に反論し︑被疑者が提出した証拠を調査する機会として利用された︒公開の公判前調査によって︑治安判
事が訴追側の証拠のみならず︑被疑者側の証拠をも調査するようになったことは注目される︒治安判事の公判前調査 調査を行っていた︒
25‑1・2‑7 (香法2005)
( 3 2 )
は双方の側の証拠を審査する司法手続となった︒
治安判事による公判前調査を変化させた要因は︑アトーニやソリシタが公判前手続に深くかかわるようになったこ とに求められる︒その第一は︑治安判事の書記がアトーニやソリシタの職域に組み込まれたことである︒一八世紀に は︑治安判事がアトーニやソリシタのなかから治安判事書記を雇うのが一般的となっており︑公判前調杏における被 疑者︑訴追者︑訴追側証人の調書︑被疑者を訴追させるために出される訴追者︑訴追側証人への出廷保証命令などの
( 3 3 )
書類の作成は法的手続に精通したアトーニやソリシタに委ねられた︒治安判事の書記として雇われたアトーニやソリ
( 3 4 )
シタのなかには︑犯罪被害者からの依頼を受け︑さらに被疑者からの依頼を受けて犯罪調査に従事するものもいた︒
( 3 5 )
ロンドンでは︑四人のアトーニが治安判事による公判前調査を記録する告発記録の記録係として雇われた︒すでに 述べたように︑治安判事は重罪の公判前調査で訴追側証拠を調査した︒訴追側証拠が正式起訴に値するものであれば︑
治安判事は被疑者を監獄に勾留し︑訴追者と訴追側証人に対して正式起訴のためにオールド・ベイリの開廷期に出廷 することを命じた︒その一方で︑訴追側証拠が不充分であれば︑治安判事は公判前調査の段階で被疑者を無罪放免し
( 3 6 )
た︒治安判事は公判前調査で証拠を評価して被疑者を訴追させるか無罪放免するかを決めたわけである︒四人のアト ーニは証拠の評価にもとづく治安判事の決定を記録した︒しかし︑四人のアトーニは単なる記録係であったとは思え ない︒彼らは法的手続の助言者として治安判事による証拠の評価に深くかかわっていたとみるべきであろう︒特に︑
当番市参事会員制度のもとで︑月に一日交代でギルド・ホールで公判前調在を担当するにすぎない名望家治安判事 は︑法的手続の助言者としてのアトーニの援助なしに公判前調査を行えなかったと思われる︒
治安判事による公判前調木且を変化させた第二の要因は訴追側のアトーニやソリシタに求められる︒すでに述べたよ うに︑企業や団体に雇用されたアトーニやソリシタのみならず︑ニューゲイト・ソリシタと称される訴追側ソリシタ
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25‑1・2‑8 (香法2005)
一七三0年代のオールド・ベイリ(七・完)(栗原)
九
も個々の犯罪被害者のために犯罪調在を担当し︑治安判事の公判前調査にまで出席していた︒しかし︑私人が重罪の 被疑者を正式起訴の手続によって訴追するのは容易なことではない︒訴追者は手続の様々な段階で手数料を支払わね ばならなかったからである︒公判前調査では︑被疑者に対する逮捕令状や捜壺令状︑証人の召喚令状︑訴追者及び訴 追側証人の出廷を保証させる正式誓約書などに手数料が必要とされた︒さらに︑大陪審に提出する正式起訴状案の作
成手数料︑手続に関与した様々な官吏への手数料が支払われた︒訴追者は訴追側証人の滞在費をも支払わねばならず︑
( 3 8 )
訴追者は重罪事件では一
0
シリングから一ポンドの費用が必要とされたと言われる︒訴追者がアトーニやソリシタに 調査と訴追の準備を依頼すれば︑さらにその費用が必要とされたわけである︒にもかかわらず︑
訴追側のアトーニやソリシタの犯罪調査は犯罪被害者に対して幅広く提供され︑地域社会に定着していたと思われ
( 3 9 )
る ︒
訴追側のアトーニやソリシタがかかわった事件では︑訴追側証拠は法律専門職によって準備され︑彼らによって公 判前調査のとぎに提出された︒その一方で︑重罪の被疑者を逮捕し有罪とすることによって支給される賞金制度と︑
共犯者を不訴追を条件に訴追側証拠として利用する共犯者証人の制度のために︑アトーニやソリシタによって準備さ れた訴追側証拠は︑賞金目的で捏造されたり︑共犯者証人によって偽証される危険を含んでいた︒アトーニやソリシ タによって準備され︑公判前調査に提出された訴追側証拠の信用性に対する疑念が︑他方の被告人側のアトーニやソ
リシタの活動を促す要因となった︒
治安判事による公判前調査を変化させた第三の要因は︑被告人側のアトーニやソリシタの活動である︒彼らの活動 は︑公判前手続における被疑者の権利の問題として︑さらに被告人側バリスタによる公判における刑事弁護の展開と の関連で璽視されねばならない︒被告人側のアトーニやソリシタの活動を明らかにするためには︑彼らによって作成
一八世紀前半には︑
25‑1・2‑9 (香法2005)
きなかった︒
一 七
四
0
年代のウエストミンスターの治安判事︑デ・バイルによる公判前調査に被告人側ソリシタが出席しており︑公判前調査の公開性が強まるにつれて︑被告人側のアトーニやソリシタが被疑者のために公 判前調壺に出席したのは事実であろう︒しかし︑実際には被疑者は監獄に勾留されてから公判の準備のためにアトー 二やソリシタの援助を求めるのが通常であった︒公判前調査に出席して被告人の主張を援助するアトーニやソリシタ がいたとしても︑被告人側のアトーニやソリシタは訴追側のそれと比べて不利な立場に置かれた︒訴追側の証拠は被 告人側のアトーニやソリシタに開示されなかったからである︒公判前調査で治安判事によって作成された訴追者︑訴 追側証人の調書のみならず︑被疑者の調書さえも開示されなかった︒訴追者︑訴追側証人の証言を調書に記録すると きに︑被疑者の立ち会いは求められないので︑被告人側は訴追側証拠を知るすべがなかった︒正式起訴状も公判のと きにその要旨が被告人の前で朗読されるだけで︑公判前であれ︑公判のときであれ︑正式起訴状のコピーが被告人側 に渡されることはない︒正式起訴状には被告人の罪状と訴追側証人が記載されたが︑正式起訴状が公判前に被告人側 に開示されないために︑被告人側は公判のとぎまで正式起訴状から被告人の正確な罪状と訴追側証人を知ることはで 被告人側のアトーニやソリシタは︑このような不利な状況で被告人もしくはその関係者からの依頼を受けて調査を
開始した︒監獄で被疑者に接見し︑被疑者から事件について事情聴取する︒被疑者の話をもとに関係者から事情聴取
すでに述べたように︑ る ︒ されたブリーフがほとんど残されなかったので資料上の困難をともなうが︑被告人側のアトーニやソリシタの活動は︑被疑者が逮捕され︑治安判事の前に連行されて公判前調査を受けるまでに被疑者から依頼を受けるか︑あるいは公判前調査の結果︑公判を待っために監獄に勾留された後に被疑者から依頼を受けるかによって開始されたと思われ
10
25‑1・2‑10 (香法2005)
一七三 0年代のオールド・ベイリ(七・完)(栗原)
められなかった︒
一七八六年六
し︑事件を調査した︒調査によって訴追側証人が判明すれば︑訴追側証人の信用性を調太且し︑さらに被告人側証人を 準備した︒被告人側のアトーニやソリシタはこの調査をもとにブリーフを作成する︒被告人がバリスタによる公判で
を依頼する︒しかし︑ の弁護を求め︑バリスタを雇う費用を工面すれば︑被告人側のアトーニやソリシタはバリスタに被告人のための弁護
バリスタが公判での弁護を引き受けるのは通常は公判の数日前であった︒バリスタが公判での 弁護を引き受けたとしても︑監獄に勾留された被告人に直接に接見することはバリスタの職業倫理に反するとして認 被告人側バリスタが公判で課せられた制限のなかでどれだけの弁護をできるのかは︑まさにアトーニやソリシタに
よる調査と彼らが作成したブリーフに依存した︒アトーニやソリシタの調査能力がバリスタの弁護の質を規定したと 言ってよい︒メイ
A .
N .
M a
によれば︑被告人側バリスタに提供されたブリーフは次の三つの項目を含んでいたとい
y
う︒①被告人を監獄に勾留した治安判事を特定し︑勾留理由とされた犯罪を明記する︒②被告人の背景と人格を記述 し︑被告人を逮捕するに至った事件を説明する︒さらに依頼者の有罪の反証となるであろう事実を提示する︒①被告
( 4 1 )
人のための証拠をまとめ︑さらに被告人側証人達と︑証人達が何を証明するために召喚されるのかを列挙した︒メイ の三項目は一九世紀初期のロンドン市ソリシタが残したブリーフからまとめたものであるが︑それは一八世紀後半の 被告人側のアトーニやソリシタの調査活動にもあてはまると思われる︒被告人側のアトーニやソリシタの調査活動
( 4 2 )
は︑ミドルクラスであれば充分に支払える額で依頼者に提供された︒治安判事による公判前調査が訴追側被疑者側双 方の証拠を審査する司法的審査に変化するなかで︑彼らの活動は拡充されたと言える︒
その一方で︑バリスタが治安判事による公判前調査に訴追側被疑者側の双方で出席した記録がある︒
月 五 日 の タ イ ム ズ 紙 に は
︑ ギ ル ド
・ ホ ー ル で 行 わ れ た 公 判 前 調 在 に
︑ 訴 追 側 で ニ ュ ー マ ン
・ ノ ー リ ー ズ
N e
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25‑1・2‑11(香法2005)
否
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︑被疑者側でレオナード・マクナリーs
L e
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d M
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N a
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y という二人のバリスタが出席したことが掲載された︒
﹁火事の事実は屋敷を調査した貧民監督官によって充分に証明された︒その後︑被告人の女中が訴追側バリスタ︑
ノーリーズに尋問された︒女中は店に火をつけるために主人夫婦によって雇われたという長々とした状況の説明をし
マクナリーによる反対尋問で︑彼女は自分自身が危険であることを知らされるまで︑主人夫婦を告発し
なかったこと︑自分を救うために証拠になったことを認めた︒
いないことを裁判官
t h e
Be
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によって知らされたので︑証人を召喚したり︑防御したりしないように二人に勧めた︒h
彼らに影響を及ぽすいかなる証拠も公判ではないからである︒マクナリーは︑その女中は信用できないばかりでなく︑
( 4 3 )
証言能力のない証人であると言った︒﹂
マクナリーの反対尋問の結果︑被疑者夫婦は公判前調査の段階で治安判事によって無罪放免された︒この記事をみ
( 4 4 )
る限り︑バリスタが当事者の依頼を受けて公判前調査に出席したことは明らかである︒この事件は︑アトーニやソリ シタではなく︑バリスタが公判前調査に出席したという特別な事例であると思われる︒しかし︑この二人のバリスタ の活動にアトーニやソリシタが全く関与しなかったとまではこの記事から断定することはできない︒メイの研究によ れば︑この二人のバリスタは一七八
0
年代前半に形成された刑事を専門に扱うオールド・ベイリ・バリスタ団Ol
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( 4 5 )
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B
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のメンバーとされている︒オールド・ベイリ・バリスタ団の形成が彼らの法廷活動を支えるアトーニやソ リシタの集団の形成をともなったのかどうかは︑両者の相互依存関係のなかで推測する以外にない︒
この記事は注目されるべきもう︱つの事実を示している︒被疑者側のバリスタが公判前調査で被疑者に黙秘を指示 したことである︒あとでふれるが︑被告人側のバリスタが公判で被告人を黙秘させる戦術は一七八
0
年代には被告人側のバリスタの法廷技術として広く認知されていた︒その意味では︑公判前調査に出席したバリスタが証拠不充分な た︒しかし︑
マクナリーは︑被告人に対して提出される他の証人が
25‑1・2‑12(香法2005)
一七三 0年代のオールド・ベイリ(七・完)(栗原)
判前調査への出席について次のような質間書を法務次長
S o l i c i t o r G e
n e r a
に提出した︒l
﹁ランカッシャでは︑重罪で告発された人達の調太且のときに次のことが頻繁に生じた︒
治安判事の前で行われる調査に彼らのために出席するために雇われる︒
た公の場所で調査される場合だけでなく︑治安判事の私邸で調査されるときでさえも出席することを求めた︒そして アトーニは︑被疑者の調査中にしばしば治安判事の邪魔をし︑さらに被疑者に沈黙し︑どんな質問にも答えず︑何も 言わないように指示する︒そのために︑被疑者がそれがなければするであろう暴露を妨げる︒その結果︑彼らの共犯 者の発見も妨げられる︒⁝⁝被告人側アトーニは︑治安判事によって受け取られた告訴状のコピーを得ることを求め
( 4 6 )
る ︒
治安判事からのこの質間書は被告人側アトーニの公判前調木且への出席を排除する目的で出されたのではない︒むし ﹂
ろ︑治安判事の公判前調査が司法的審査へと変わるなかで︑被告人側アトーニに対して治安判事が自らの裁量で認め うることと︑自らの裁量で認めることができない制限を明示することを求めたものである︒被告人側アトーニは︑被 疑者の公判前調在に立ち会い︑被疑者が質間に答えるときに助言を与え︑訴追側証人に反対尋間し︑提出された証拠
のメモをとることを認められ︑被疑者に黙秘を指示したりした︒しかし︑治安判事のもとで作成された調書のコピー 考えるべきであろう︒少しあとの時代になるが︑ のアトーニやソリシタが公判前調査に出席することによって︑被疑者の権利が強化されるプロセスが進行していたと うかである︒もちろん︑この記事からそれを知ることはできない︒実証的に深められるべき課題であるが︑被疑者側 査において被疑者を黙秘させる戦術がバリスタだけでなくアトーニやソリシタによってもすでにとられていたのかど 被疑者に黙秘を指示したとしても︑それはすでに認められた防御方法をとっただけかもしれない︒問題は︑公判前調
一 八
0
︱一年︑ランカッシャの治安判事達が被告人側のアトーニの公アトーニが彼らの勾留前に アトーニは︑被疑者が調査のために指定され
25-1•2-13 (香法2005)
を得ることは認められなかった︒ビーティは被疑者側アトーニのこのような活動が一八懺紀後半以後に確立されたと
( 4 7 )
指摘した︒一八世紀後半以後︑被告人側のアトーニやソリシタの活動によって︑公判前調査における被疑者の権利が
強化されたことは明らかである︒
( 4 8 )
一九懺紀に入っても︑重罪では正式起訴状のコピーが被告人側に渡されることはなかったが︑訴追側証人の調書は︑
請求があれば公判前に被告人側に開示されるようになった 者はその供述前に黙秘権を告知されるまでになった
ていたのかは︑推測する以外にない︒しかし︑
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(
18 36 ))
︒さらに︑訴追側証人に対 する公判前調究に︑被告発者もしくは彼のバリスタかソリシタが立ち会い︑反対尋間を行うことが認められ︑被告発
( 1 9 )
( J e r
v i s A c t
(1 84 8)
)
︒
一八世紀のオールド・ベイリにおいて︑訴追側であれ︑被告人側であれ︑どれだけのアトーニやソリシタがかかわっ
バリスタの法廷活動がアトーニやソリシタによって作成されたブリー フに依存したことを考慮すれば︑バリスタが出廷した全ての事件でアトーニやソリシタが活動したと推定しても︑そ
( 5 0 )
れは誤りではないであろう︵表①参照︶︒もちろん︑バリスタが出廷しない事件であっても彼らが犯罪調査を担当し た多くの事件があったはずであり︑バリスタが出廷した事件数をみれば︑この種の事件の方が大多数であったと推測
( 5 1 )
され
る︒
O.
B.
S.
P.
では︑アトーニやソリシタが証人として証言した場合に彼らの活動の一端が記録されただけであ る︒造幣局やイングランド銀行などの団体によって雇われたアトーニやソリシタが訴追側証人として彼らの犯罪調査 を公判で証言する事例は多いが︑被告人側のアトーニやソリシタの証言はわずかしか記録されていない︒被告人側の アトーニが事件直後に依頼され︑事件の調査を被告人側証人として公判で証言した事例も全くないわけではないが︑
出廷した事件の特殊性から︑彼が被告人側証人として公判に出廷することは︑
( 5 2 )
れていたという印象を禁じえない︒
アトーニの職業倫理に反すると考えら
一 四
25-1•2-14 (香法2005)
一七三0年代のオールド・ベイリ(七・完)(栗原)
調査活動を類推することは不可能ではない︒
バリスタは通常は公判の数日前にアトーニやソリシタからブリーフを受け取る︒被告人側のバリスタは︑被告人と 接見することもなく︑短い準備期間でこのブリーフをもとに弁護方針をたてねばならない︒準備されたブリーフの質 がバリスタの弁護方針を決したと言っても言いすぎではない︒被告人側のバリスタの法廷活動は︑被告人側バリスタ に課せられた制限のなかで法律問題と訴追側証人への反対尋間に向けられた︒特に︑後者の場合には︑犯罪事実と訴
追側証人に対する情報が充分に調査されたブリーフが提供されれば︑
バリスタは被告人のために有益な反対尋問をす ることができたはずである︒訴追側証人に対する反対尋間は︑裁判官がこれまで果たしてきた役割を被告人側のバリ スタに移すことによって実現されたが︑制限された被告人側のバリスタの法廷活動のなかで被告人側のバリスタがカ を注いだ活動分野であった︒被告人側のバリスタによる訴追側証人に対する反対尋間権は被告人側のバリスタの活動
( 5 3 )
を拡充させた要因として位置づけられた︒しかし︑訴追側証人に対する反対尋間は調査を担当したアトーニやソリシ
タの活動に依存したので︑
O.
B.
S.
P.
に記録された被告人側のバリスタによる反対尋問から︑
一 五
( 1
) アトーニとソリシタは異なる歴史的背景をもつ︒両者は法廷外での法律事務を処理したが︑アトーニはコモン・ロー裁判所で︑
ソリシタは大法官裁判所で活動した︒しかし︑二つの裁判所と関係をもたない多数のアトーニとソリシタがいた︒特に︑事件を 処理する
t o s o l i c i t 仕事を行うものはソリシタと称された︒アトーニとソリシタを規制するために︑一七二九年の法律
(
2G
eo . I l e .
23 )
によって︑裁判所への登録がアトーニとソリシタに義務づけられた︒この法律にもとづきイングランドとウェールズで登録 したアトーニとソリシタは四︑六六三人に達したが︑ロンドンとミドルセクスはそのうちの一︑五三三人︵三二%︶を占めるに すぎない︒バリスタと異なり︑アトーニとソリシタは全国的に分散しており︑地域杜会に定着していた︒ロンドンでは︑一七︱︱︱
0年代に一部のアトーニとソリシタがジェントルメン法律実務家協会
Th e S o c i e t y of Ge nt le me n P r a c t i s e r
s を設立し︑両者の一体的 アトーニやソリシタの
25‑1・2‑15(香法2005)
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the Legal Profession in Early Modem England, Cambridge, 1986. 巨晦如湮唸心゜ゃE;;I兵や'~,.L一lj心~=---,入ぷ竺'圭誓縣弄心>'吋毎~>G叫盆や思器窒幸知辛0fいJ:2-~0ヤ海心心蓋筈如羊
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心01 ..¥J羊纂(;~,.Lー1\叫~=---,入ぷ旦ぐニャゴC.W. Brooks, Pettyfoggers and Vipers of Commonwealth : The Lower Branch ofI<羊索旦◇
こいゴ
R.Robson, The Attorney in 18th Century1680‑1730, George Allen and Unwin, England, Cambridge, 1959; G. Holmes, Augustan Society
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(ed.), Law, Economy and Society: Essays in the History of English Law 1750‑1914,
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Ayleet,
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(sooz悉
VKm)
│N.I│ 91
gz (N) (M) 1700‑1850, Routledge, 1995, pp. 70‑101 ; J. H. Langbein, The Origins of Adversary Criminal Trial, Oxford, 2003, pp. 106‑147. 幸語「1..\-.JIIIO母~G+cー全ユ・''("<;-="(巨)」(如三出茫蒜Ii...:̲:約翠Irr)t> : し100I母)111<ー巨午冨縞産゜
J.M. Beattie, Crime and Courts in England 1660‑1800, Princeton, 1986, pp. 352‑356; J. H. Langbein, The Origins of Adversary
('tj<)
(L0)
(<.D) Criminal Trial, Oxford, 2003, pp. 111‑123.
Ibid., pp. 115‑120.
Ibid., p. 117.
翠羞E宜~:::",入ぷ,';入ギ0~・"‑K Jack North豆宝泣傘ボ罪鯰ヒや茜翠要岩‑<̲lJ ,.̲)ヤ壬ば
⇒
温]llrr⇒
心゜OldBailey Session Papers旦ざ1‑¥JI I I回母歪く匡出芸(MaryHaycock and Ann Haycock, July, # 19‑20)会心lギ自Iii母翠巨ば芸(PatrickKelly et al, Janu., # 116‑119)侶や旦,~(:4;l::Q帯泣釘翡琴ヒやヘーKC岩1]11[]全国磁ぬ菜ヤ~t-0゜Ibid.,n. 44, p. 117.
(t‑) 幸認「淀翠縄奴(回)」I I ‑11 I冨゜三〇一回IfITII(o
(oo) Ibid., pp. 143‑145.
(o‑,) ~ 蕃坦e玉望心ぷ~,.L全さ'AnAct appointing an Order to Justices of Peace for the Bailment of Prisoners (1 & 2 Philip & Mary c. 13
(1554-1555))や~t-0゜琴1廷巽や菜竺'An Act to take the Examinat10n of Prisoners suspected of Manslaughter or Feloney (2 & 3
Philip and Mary c. 10 (1555))や~t-0゜fJQll0C写製坦旦0~ヤ'幸語「岩翠裔屑択(11I)」(東Dl三知袖緑十兵釦踪11ロ¥t'I兵~~
母)111‑I IOfITII(~\圭゜
一七三 0年代のオールド・ベイリ(七・完)(栗原)
( 1 6 )
( 1 7 )
( 1 5 )
( 1 0 )
︵ 且 ︶
( 1 2 )
( 1 3 )
( 1 4 )
一 七
M. Ha l e , H i s t o r i a P l a c i t o r u m C o r o n a e ,
1736
( r e p . 1 97 1, P r o f e s s i o n a l B o o k s ) , v o l . I I , p .
93
̀
p .
12 1.
M•
D a l t o n , C o u n t r e y u s J t i c e ,
1618
( r e p . 1 97 5, W . J . J o h n s o n I n c . ) , p .
26 0.
J . M. B e a t t i e , o p . c i t . , p .
27 1.
M•
D a l t o n ,
0 p .
c i t . , p .
26 5.
一六三八年の特許状によって︑ロンドンの治安判事は︑市裁判官
r e c o r d e r
︑市長︑市長経験のある市参事会員に︑三人の年長の 市参事会員が追加された︒一六九二年にはシェリフ経験のある六人の市参事会員が治安判事に追加され︑さらに一七
0
四年
には
︑ 四人の市参事会員が治安判事に加えられた︒二六人の市参事会員のうちで四ー五人を除いて全員が治安判事に任命された︒ロン ドン市長は二六人の市参事会員のなかから一年の任期で選ばれる︒市長に指名された市参事会員は︑市長就任前から治安判事を 務めており︑市長退任後も治安判事職にとどまった︒一八世紀初期には二
0人を超える治安判事がいたことになるが︑公判前調 奔はロンドン市長に委ねられた︒
一七二九年︱一月から一七三
0年
一
0
月まで市長を務めたブローカス
S i r W i l l i a m B r o c a s は︑市長退任後も治安判事としてロン ドンの公判前調査を独占した︒しかし︑一七三七年︱一月のブローカスの死去は︑ブローカスに代わって公判前調壺を担当する 治安判事がいないという事態を生み出した︒その結果︑一七︱︱︱八年に︑公判前調査を治安判事である市参事会員で分担する当番 市参事会員制度
s i t t i n g al de
旨m
s y s t e m が導入された︒市参事会員は交代でギルド・ホールに行き︑メイティド・ギャラリ
M a t t e d G a l l e r y の治安判事執務室
J u s t i c e Ro om で治安判事として公判前調査を担当した︒ロンドンの治安判事については︑
J. M. B e a t t i e , P o l i c i n g n a d P u n i s h m e n t i n L on do n 1
660‑1750, 0
x f o r d ,
20 01 ,
p p .
77
│
11 3.
抑叫超徊了可塩褐絋躙
x ( ‑
︱‑
︶﹂ 一二 四I
‑
︱打
辛貝
会多
昭唸
ビーティの調査によれば︑保存されている告発記録は︑一六八六ー九年︑一六九ニー五年︑一六九五ー九年︑一六九九ー一七
一七︱一八ー三三年の期間である︒デ
i d . , n .
40 , p . 9 3・
I b i d . , P .
93 .
監獄に勾留された五六人のうち︑ニューゲイトに三四人︑ポルトリ・カンプター
P o u l t r y Co mp te
に ︱ r
10
人︑ウッド・ストリー ト・カンプター
Wo od S t r e e t Co mp te に二人が勾留された︒ポルトリ・カンプター監獄とウッド・ストリート・カンプター監獄はr シェリフによって管理されたシティの監獄である︒ロンドン市長は︑璽罪で逮捕された被疑者を前者に︑前者だけで収容できな い場合には後者にも収容した︒しかし︑この二つの監獄は重罪の被疑者よりも債務者の監獄であった︒前者は一八一七年に︑後
者は一七九一年に閉鎖された︒
M. H e r b e r , C r i m i n a l Lo nd on : A P i c t o r i a l H i s t o r f y ro m M e d i e v a l T im es t o
19 39 ,
P h i l l i m o r e ,
20 02 ,
p p .
0
五年
︑
25‑1・2‑17(香法2005)