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瀬戸内海に放ける島喚部落養田の研究…

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(1)

黒正博士の追憶    かつて畏正厳塞が満面に徽筈たたえられながら︑﹁君︑是の経欝をまとめるなら島なやるに限るよ﹂毒口にい   われ︑そ完生の免琵塞として随行這讐本拠地塩驚島を︑寄手ほじめ荒島の塩飽勤番所を掠訪したのほ︑既   吟†三年前の仲秋であったが︑当時寺尾宏土兄壱亘人︑﹁筆内海における塩飽海賊史﹂の葺慧信夫翁から石碑のな  

かの絵図頬・古文書を丹念に見せていただいたのは︑つい昨自のような気がする︒先生から豊な示唆をうけながら︑当時 ︵1︶  

﹁経済史研究﹂に僅かに唐人向輸出いりこの小論を書いたのみで︑彼らた島琵の史料完成︑荏革今日に及んだが︑思え ば︑先生ほ昭和二去年八月︑亡くなられる数品﹁琴涌沖の笑孤墓場島へ子等と共に買慧の雫に豊消す︑   京の大文字を見に行き月誉り又島へ渡る︑葺か毒しばらく遁惟簑豪農存候﹂との絶讐毒見たが︑当時   の先生の心域を偲び︑幽墨を輿写るこの経済蔓慧大先達濫︑島を通じて結ばれた学恩の深きを思い︑甚だつまらぬ   苧の塙瀾係成稿を︑玄覧慧で先生の霊前に棒誓つる︒  

l研究の範噂と対象  

畠ほいつまでも原始産業に依拠していてよいのか︒島の開琵な蜜閃に付せられていないのか︒今二甲を香川 県の場合にとると︑怠の両校二八六二習うち一割二分は島であって︑その総人口は八七︑〇四八人であるが︑  

瀬戸内海に於ける島喚部落塩田の研究  

瀬戸内海に放ける島喚部落養田の研究⁝  

一   洋   鬼 玉  

︵三五〇︶ 二三   

(2)

第二十八巻 第四号  ︵三石二︶ 二四  

ぅち女子は四五︑七七五人であり︑男子ほ四山︑二七一二人であって︑男子は女子の九〇パーセントである︒此等有  

人・無人を含めて島敬二七のうち有人三六島に就いてほ︑﹁人間生活﹂の場として未完成をかこちつつも︑兎も  

角↓若干の開発が行われつつあるが︑無人島八一ほ︑未だ政策的には何等かの手をうつ段階に達してほいない︒そ   \  

の︒とは勿儲本稿の研究範疇外であるが︑通観的にほ︑小量を除いてほ︑文化程度も低攣雪蛋・蓋・ 電灯 ・衛生の諸施設はなお本土に劣るというの外ない︒今後相当期間開発を必要とし︑これ等離れ島は︑経済施策  

の対象となるべきであろうが︑経済史専攻の私はいま政策の領域正ふ鼻入って云為しようとするのではなく︑主と  

して近世の経済開拓︑特に入浜墟田の構築成立に焦点を絞って追求して見たい︒ただ政策史的に見ると︑徳川幕府  

と離も瀬戸内の経済問題を決して看過していたというのではない︒各藩としての塩田開発・新田の開墾も盛んに行  

︵2︶ われているし︑又一例牽牛島極楽寺文書﹁差上申御論証文之事﹂など軋就いて見ても︑外貨獲得の手段︑俵物諸 

色の輸・揖振興策として︑瀬戸内の諸島︑横石嶋・岩巣鴨・早場・瀬屠場・本場・牛嶋・広場・手嶋・佐柳鴫・高嶋・  

沙弥嶋の十一島に﹁い2﹂﹂の捕獲を奨励し︑中国向輸出の煎海鼠増産に関してほ︑非常な熱意を示している︒こ  

れ等諸島の山簡庄の請負高千斤を越えて︑宵五十〜二百五十斤迄増産のときは︑一斤につき﹂分︑更に二百五十斤  

以上のときほ︑菅斤につき小骨三原の褒黄金を授与して︑輸出貿易による採銅の蚊を補おうとつとめている︒塩田  

開発紅しても︑薄常に近きもの︑単藩半民的のもの︑表面強く薄営が押し出されていても︑内実ほ豪農・高利貸資  

体・庄屋資本によるもの︑更に技術と労働力の雇備にしても︑白藩白立の方式によるもの︑その手法と労働力を他  

藩に求めさせ︑黙認或は奨助の形をとるものがあるし︑干拓後の経営にしても薄営色の浪厚なものもあれほ・開発後  

民間へ分割払下げの方式をとれるものなど︑必ずしも一様ではない︒かくて︑近世の新塩田開発の企画者連ほ︑時  

に極端な塩相場の変動匠縫感を感じっつ︑随処の為に閲築打あとを見せるが︑全体として天保彼の件数の多いのも  

(3)

注目されるぺきであろう︒近世入浜塩業そのものは︑その創設資本と労働力凝集転巨資を質するところから︑いか  

に企画熟に浮かされても︑個人経営で︑は家産を傾ける場合が多く︑一応薄の援助を要請することとなり︑しかも︑  

彼等は︑中世の塩浜跡に︑あるいほ新規の適地に︑﹁開発の場﹂を求めていく︒それは︑見方によっては㌧藩閥体  

制下と鞋も︑開発の可能な瀬戸内海でのフロンティーア・ラインであり︑旺盛なる企業欲の発露対象ともいえる︒  

いま︑拙稿の追求対象と軋るものは︑大体栄から淡路島・小豆島・直島・砂弥島・与島∴本島それから伯方島・伊  

予大島・弓削島・因ノ島・生名島・岩城島・生口島・鷺島・大三島・大崎上島・周防大島・姫島の諸島であり︑そ  

の今日の製塩現況を見せるものは皆含ませた積サであるが︑離島性格をもたぼものは除外した︒私は何よりも先  

ず︑これ等の諸島の入浜塩田成立の様相︑新塩田干拓開発の史実をつきとめたい︒   

近世﹁十ケ国墟浜所名寄接﹂などによって︑十九世紀初頭の塩浜軒数を見るに︑阿波三百三拾壱軒外−−答嶋六拾  

軒︑讃岐百四拾五軒外︒詫阻弐拾弐軒︑坂出七拾弐軒︑甘同答︵捕ら迅︶十二軒︑木沢十四軒︑威を島廿二軒︑伊予九  

十八軒︑口和凰四軒︑矧塚l︵城ならん︶三軒︑肘可九軒︑熱矧丑軒︑猪のロ四軒︑外ふ刺力感及び剖剰︵配の︶新出来弐拾七  

軒︑播磨七宵五軒︑外︻−二十二軒吉尾村百姓持︑弐拾軒大汐新浜︑備前二宮十四軒︑外︒玉里七廟出来懸り︑備  

三原新浜八軒︑安芸山五四軒外−→竹原新浜七紆︑十二軒風早新浜︑周防四早手工二軒︑長門十二軒外ミ防長百姓持  

小浜所︵九寧︑以上合せて帳簿軒数弐千首八軒︑実数弐千六百四拾四軒という数字を出しうるが︑畠喚部落の塩田は  

傍線箇所に若干見えるだけで︑殆ど不明にちかく︑近世のそれほ必ずしも明確にされていない︒その十川塩田の大  

宗を占めるものは︑東部の播磨と西部の周防両脇であ1て︑阿波これにづぎ︑讃岐ほ第四位︑伊予ほ第八位といえ  

る︒近世の瀬戸内島峡部落は︑概していえほ︑農業に依存するもの多く︑漁業とれにつぎ︑石材・塩菜は寧ろこれ  

︵三五二︶ 二五   瀬戸内海に於ける島唄部落塩田釘研究   中三十六軒外︒寄島拾二軒新浜︑宮ノ浜六軒︑余畠六軒︑  猟矧紺圃︑備後総〆副三四軒と藤江浜九軒︑桃浜五軒︑  

(4)

一一  

第二十八巻′ 第四号  ︵三五三︶ 二六  

についで︑あるいは兼営の形となっており︑烏だから直ちに漁村というわけでほなく︑個々の烏は犬釘の特性をも  

﹁コ︶  っている︒人口面では封建的停滞 

︵イ︶  れるに至ってから︑人口増加が加速度的であったと見られる︒しかも島の人口ほ飽利点に達することもほやい︒天  

保以後における宙の塩田構築も薄財政・塩価と関係をるであろうが︑問屋資本或ほ庄屋資本が当初藩営を押したて  

塩田開発紅赴き︑のち民営に移りゆける状勢ほ注目されるべきであろう︒ところが︑近世産業が逐次近代化するに  

及んで︑烏の屈強な男子は近接の本土や京・大阪に職を求めて離島し︑その景気と不巌気軋照応するかの如く︑時  

︳ に出秘し︑時にまた還流されて帰るという始末が多く︑いわば農村と共軋失職者のハキダメを形成する傾向が強く 

なり︑飽和どころか過剰人口は﹁犯罪なき島嘆部落﹂を苦しませる︒しかも島喚部落の人口は断然女子が多く︑烏  

︵5︶  の原始畏菜は多く彼等によって支えられており︑漁民も亦その人口過剰匿悩みつつ︑乱獲払おらいり魚価ほともす  

れば下り勝ちである︒無施紹のまますすあほ︑離島経済ほ所詮原始産業への依存では︑自立どころか︑デリ貧に追  

.いこ誉れるであろう︒封建性格の残渾が濃厚なだけに︑その苦しみも亦大きい︒  

︵6︶   島の塩田開発についセは︑櫨飽諸島の広島のように村営塩田を試みて︑財劇白立竺役を買おうとするもの︑直   

島や津倉幸港の如く︑漁業補償の問題とからんで︑徒らに問題を紛糾させ︑かん水売却による市町村自治体財政に  

プラスせしめようとする企図を画餅に帰せしめる場合もある︒問題はしかく簡単でほないけれどもハ畠の貧窮化を  

′ 救うため軋も︑製塩施設適性の急峻へは枝篠架︑流下式併用の新規開発を試女ること自体に︑ひとつの失業救済的  

意義をもたしめうるであろう︒国内塩増産はなおここ半世紀日本塩英界へ課せられた宿命的課題というの外なく︑  

製塩匠懐ける熱源コスー・が輸入墟の船賃を割る日ほまだ遠い将来のことであろう︒   

江川 拙稿﹁徳川幕府の煎海鼠増産奨助に就いて﹂︵﹁級済史研究﹂昭和十八年二月号所収︶ 

(5)

必 香川県仲多度郡牛島極楽寺所蔵文書  

悌 島は隣り合せでも夫々の特性をもつもの︑叉同じ塩飽七島でも高見島︵人口八九〇人︶と椴石島︵七三五人﹀とは性格が   

ちがう︒前者ほ農業を主体とし︑岡山阪神方面への出様者が二三九人もあるのに後者ほその十分の仙である︒前者に女が ご   

多く︑後者ほそれ程でもない︒︵附録︑島幌別両替人口こ畢琴参昭︶︒島の農業を女性が背負っている著例でもある︒前   

者ほ純粋に漁業のみを生酒手段とするもの僅かに数戸であるに反し︑後者ほ殆ど専業農家はなく︑漁家が多い︒かような   

相違は黒正博士がつとに屋久島と種子島とにおいて鋭く指摘されたところである︒︵﹁経済史研究昭和十八年∵月号﹂︑﹁種   

子島の土地と人口﹂︶︑屋久島は戦前既虹村役の選挙に﹁壷入れ﹂と言って嘗が聖更に入れて行う極めて民主化された島で   

あったが︑今甘では塩業適地として認められている︒問題は島のもつ経済的特性であるが︑各島は塩柴︑漁業︑農業︵サツ   

マ苧・除虫菊・大麦・小孝ソヲ苧ナタネ・トクガラン・馬鎗惑てタマネギ等︶石材業・カワヲ焼等夫々の生産性特質をも   っているようであり︑祥に島の経済行政を範型化することはむザかしく︑そうして公分母で割切っても所詮各島に特性   

ほ残るもので誉︒た誓の共通施管して慧網される所のものは要所の軍序防潮壷・船付場の改苧衛禁訝の強化  

等の問題を指摘しうるであろう︒  

㈱ 官本・岡本﹁周防大島天保慶應業問答壷永度年中行事﹂七二男  

㈲ 附録︑﹁島幌別面積・人口発表﹂参看︒その労働はまた余程きついものと見え︑﹁高見・佐助から嫁言うて釆たら死んで  

いないと言うておくれ﹂などの僅謳が讃岐地方に残っている︒  

脾 村財政の自立計画に﹁村営塩田﹂を試みている処がある︒香川県仲多度郡広島村であるが︑同村江ノ浦の轡曲した海岸︑   

東突端の関西汽船江ノ浦波瓜場附近から西突端エンド昇を結ぶ六五〇米の線聖同さ四米余の外堤を築き︑十七即歩の﹁広   

島塩田﹂か三カ年計画で作り︑年間劃方六千キロリットルめかん水を採取︑扶桑塩基聖冗劫するという計画である︒この   かん水売却による収益ほ約一千万円と見込まれ︑諸経費を差引いても五百万閤は残るだろうという︒都東村長は﹁塩用   

︵三五四︶ ニ七   瀬戸内海に於ける島喚部落塩田の研究  

(6)

第二十八巻 滞四号  ︵三五五︶ 二八  

が完成すれば︑村財収は確立する︒塩田の年額五百万円の純益を基礎に五十卜才程度の船二埜を購入︑村を作っている広  

島・手島・小手島の三島及び丸亀問をパスや電車賃並看で人や物を運ぶ︒またすでに完成した村の発電設備を強化︑村民に  

安い電力を供給出来るはか︑特産物の御好石を動力で切り出し︑コストを下げるなど村の経済的発展へ貴献せしめよう︒﹂  

と力説する︒単なる夢に終らせたくはない︒  

二 淡  路  島  

わが諾神の楔裸には︑希腺人が塩水・措水を以て神前に供した燃木を浸し︑若くは供物の焼灰を混じた聖水を以  

てわが身を潔淋する以上に︑体につけたすべてを投げ′菓てる程︑きびしいものがあヶ︑黄泉国の稜土から帰った此  

の神は︑死界に入り屍体と対応したがために︑海潮に浸って身を清祝すること紅これ努めたといわれる︒そうして︑  

かかる慣習ほまた晋の陳寿︵引︶ の著した貌書︑巻三〇︑倭人の条即ち﹃談志倭人伝﹄にも見えて︑  

ヽ〜︑〜ヽヽヽ︵1︶  ﹁姶死停肇十余目︒当時不食肉︒異主実泣︒他人就歌舞飲酒︒巳葬︒挙家詣水中操浴︒以如練沐︒﹂  

とあり︑日本神話と全く相通じる習俗の一面を示し︑︑倭人の潔癖な礫被を実修する強烈な意欲が観取される︒諾神  

あさか の神話にある﹁中つ瀬みそぎ﹂は海人族の呪儀に糸をひき︑.猿田彦神の伊勢阿邪詞における海溺れの神話もひとし  

︵2︶  く海人族の漁拷呪儀に源由しているというが︑この淡路の地や伊勢志摩半島の地は日本原始国家で庭海人姦の根拠  

地として著聞しており︑御顔料として種々の海魚・海産物を大和朝廷に献上しているし︑その神話圏軋入り来る阻  

も決して不思議なことでほない︒仁徳皇后の妹弟姫に淡路御原皇女があるが︑この皇女が何故﹁淡路の御原﹂の名  

を負うたかは︑堅塩姫程の明確さを放くけれども︑併もがかる名−淡路のなかでも海人族の密集部落の名トふ  

皇女に与えられたこと自体は︑朝廷に対してこの御原の地が浅からぬ関連性をもっていたことを示唆サるであろ  

︵3︶ 

なかっみ ぅ︒履中帝がなお墓太子であった頃︑異心を挟んで親しようとした仲皇子を奉じて活躍したのも淡路野島の海人で   

(7)

﹁御食向ふ淡路の島に其向ふ・駿馬の浦の 沖ぺには翫滞が採り浦臣は 鶴勤評刈る深海松の見まく欲し望      みぬめ      み   なの牒老   ふかみる  みぬめ  

そまつかひ   名告藻の 己が名惜しみ 問使も 

へ5︶ とあり︑﹁みけむかふ﹂は︑御飯を主とし︑種々の肴がみけとして相同う義であるが︑この語が︑万葉時代紅殆ど  

淡路の枕封あるいは発語となりきっている程食料生産性と関連し︑淡路島がそれ以前よ㌢多鼠の海の幸を献上する  ヽヽヽ  光栄をになえることを果証する︒またこの歌の返歌が﹁須磨の海人の塩焼衣の馴れなばか一日も君を忘れて念は  

︵6︶ む十であり︑神戸市来辺敏馬浦から須磨︑淡路の北端松帆の備にかけ︑更に野島から三原郡にかけ︑塩・海産物等  

︵7︶   の海の幸の本場たりしことを肯定せしめる︒  

また延吾式によれば︑  

︵8︶   ヽヽ︐︐   汲路国揮栽詰問海路六日︒﹁調︒完一千斤︒稚魚一千三百斤︒自余輸レ塩︒喝輪レ米︒中男作物︒雑臨︒﹂   

と︑明確に調′としての塩の献納が打出されている︒十世紀初頭の淡路はこのよう紅塩の産地として史上に現れてく   

るが︑それは未だ淡路周辺の自然浜的な状態でしかなかったと思われる︒しかも塩業史上の淡路は︑寧ろ上世に栄   

えて︑この.頃の淡路は︑例え.ば︑堺へ釆流する別当汐で有名な岩屋辺の松帆浦でも︑必ずや製塩を行ったと推測さ  なをすみ  タれる︒私は︑万葉集の﹃神亀三年率於播磨国印南野時作歌︑翌朝臣金村﹄における︑﹁名寸隅の船瀬ゆ見ゆる︑淡  

︵三五六︶ 二九  瀬戸内海に於ける島喚部落塩田の研究   あったというが︑善かれ悪かれ︑淡路は大和朝と関係深く︑淡路島は既に日本神話に国生みの発足点として登場し  て来るのは︑大和及び畿内地方に近接ずる放でもあろうが︑﹁あわじ﹂の名は恐らく︑﹁淋道﹂ ﹁阿波知﹂ T阿波  みはら  ︵4︶︑ 路﹂を示していて︑四国へ捗る途上の島の意味でもあろう︒応神・仁徳帝展︑道草あって︑御原をおき︑又海部を  

みけつ  して魚味を進責せしめ︑紀伊・伊勢・若狭と共に御食津国とよばれてい告万葉時代七もなれば︑山部赤人の作れ  

る歌に︑  み  

(8)

第二十八巻 第四号  ︵三五七︶ 三〇  

︑u路島︑松帆浦に︑朝なぎに玉藻かりつつ︑ゆふなぎに藻墟焼きつつ﹂の松帆浦は島の南端三原郡の松帆でなく︑明   

石の対岸の松帆浦と考えており︑往来の舟人の常に行通う処と理解している︒大日本地名辞書も﹁藻場焼と云ふは︑  

ヽヽヽヽヽ  海浜に寄り来る藻を焼て灰となん︑たれて蟻とするをいふ︑宙ほ岩屋の海人も其わさをな替るなるべし︑今も海浜   

にある沙潔を藻塩と云ひて︑乾し焼て監紅盛且潮水を浜て其水を鍋にて煮れは墟となると云へり︑今阿漕捲傭等   

の諸州に塩浜多く開き白蟻を買求る庭ほ容易なれば︑いつくにも漠填たるる海人もなく︑松帆の浦にも今は藻場や  

︵9︶   かずなりにき﹂と明らかに︑北部の松帆を規定しているようである︒   

しかも私ほ︑南部地方︑三原郡の同地名松帆︑江尻墟浜高屋などの地はそれより遅れた中世から近世にかけて︑  

︵10︶  塩戸も多く製塩が栄えたと考えるのであるが︑また慶長から元和にかけて︑淡路島西南部地方より︑阿波高島方面   

への塩育姓の移動を指摘することも出来る︒この事ほ近世鳴門塩其の源流をきわめる上に山応注意すべく又興味あ  

︵11︶   る史実であろう︒  

なお現在の淡路島には︑専売公社の製塩施設ほ出来ていないが︑専売制の出来る山九〇五年頃︑塩田を用いず︑  

海水直煮の製塩装置をもって心たことも面白い︒Lきに砂を蒸発釜鱒入れて煎蒸し︑蒸発に濾惑作用を兼ねしむる  

︵12︶   ものもあったという︒煎糸始源の﹂残存型態である︒  

註印 税志倭人伝い ︵岩波文庫本四三七〇︶八一贅︒  

励 松村武雄﹁日本神話の研究﹂第二巻︑二九五頁︒  

㈱ 仁徳帝と淡路ほ関係が深い︒畠船枯野を焼いて︑焼塩五百籠を得たのほ有名である︒また応神紀に﹁妃昇姫︑生淡路御原  

皇女﹂七あるが︑兄媛が淡路櫛原海人八十人をよんで水芋となし︑ま備に送る︑なども書かれている︒又此の勧原海人ほ  

和名抄聖二原阿力郷の名を適しているが︑淡路魔人のうちでも最強大の部民で︑南風︑沼島︑福艮一帯の海人ほ之に隷属   

(9)

三 小 一鹿  島  

︵1︶  備前風土記抄などでは︑慶長の頃迄讃岐の小豆島はどうも備前の国に入れていたらしい︒それどころか笠井氏文   

︵三五入︶ 二二   瀬戸内海虹於ける島唄部落塩田の研究   していたのであろう︒足利時代なお強猛であったもの︑天正年中に散亡したという︒海人ほ又海賊でもあること匿就いて   は拙稿﹁四国の発展﹂︵﹁新日本文化風土記﹂ ︵河出書房︶所収︶参看︒ 

勘 富田東伍﹁大日本地名辞書﹂七六四貢︒  

佃 ㈲.万葉集上巻︑二三二南㌔︵岩放文障本︶   

0   みぬめ 佐々木信綱編﹁万葉辞典﹂宕二八頁︒敏馬=摂韓国武庫郡︒今の都賀浜以西小浜野に至る海浜︒松帆の浦も﹁釆ぬ人を松  帆の浦のタなぎに焼くや藻塩の身もこがれつゝ﹂によって︑はぼ推察しうる︒野島も︑亦赤人が︑﹁朝なぎに︑棉め音閥  ゆ︑御飯つ国︑野島の海人の︑船にしあるらし﹂と歌い︑また﹁⁝⁚:難波の宮虹︑去がおはぎみ国知らすらし︑御飯つ  国目の御調と︑淡路の野島の海人の︑海の底奥つ海中石︵いくり︶の鮫珠︑さはに溶き出︑船なめて仕へ.まつるし︑貸し  見れば﹂など歌っている︒この辺を苗代海産物の宝庫とはぼ推測しうるであろう︒淡路島の海人族との関渉の有無につい  ては︑村 松頂碓氏﹁口本神話の研究﹂第二碁︑二八八東参署︒  

国史大系第二十六巻︑六山七頁︒延審式二四巻︑主計上所収?  

吉田泉伍﹁大日本地名辞讃﹂常山巻︑七六五票︒  

薪の多い点からも推して見たい︒すでに蒜四五年︵文安二年︶の兵庫関入船納帳・同北開入船納傾などを見ても︑十五  

世紀中葉の淡路島でほ︑洲本・山毒・海部などから盛に符を積送していることが知ら頼る︒このことはせん恭賀材の芋出  

さを知る材料となるであろう︒また中部の塩田︑南部の蟻屋等の地名も考慮に入れるべきであろう︒  

例えば︑大‖本塩業全貴慮二編︵二十こ撫養塩務本局之郡︑阿汲藩民政資料其他篠原家父封㌔  

塩薬全点嘉一編内神戸塩務局洲本出張所之部︒その他阿波藩関係顔料︑篠原家文章  

(10)

第二十八巻第四号  ︵三五九︶ 三一山  

書を見ると︑近世小豆島が天領となって後も元禄の頃迄︑備前国小豆島と書いた文書が残っている︒永い間の慣行  

というぺきであろう︒江戸時代を通じてこの島は︑所謂天領として︑塩飽島と共に幕府の御用加子をつとめ︑その  

直轄領として特殊地帯となっていたが︑時にあるいは高松薄へ御預けとなり︑あるいほ倉敷代官所の支配となって  

いる︒今少t遡って中世末を見ると︑戦国時代にほ細川家や安富氏等讃岐の家族の勢力範囲となっており︑妄八  

アゴスチノ 毒値鞘には明らか紅︑整ロの直轄領となっている︒そして妄八五年㌘諾ほ論功として小西行長に分与されたこ  

︵2︶ とも︑同年十旦日長崎発信のルイス・フガィスの書翰のうち紅報ぜられているという︒松田毅議ほ︑これが小  

● 豆烏がヨーロッパ側の文献に現れた最初であろうというが︑ここで私ほ注視したいのは︑妄八〇年代のイエズス  

会士と小豆島︑特紅その塩関係の記事である︒聖書に︑﹁汝等ほ地の蟻なり﹂という有名なる句があるが︑この頃  

小豆島大鐸村あたりに潜行していたイエズス会士オルガンチーニは︑妄八七年七月二十四日︵露早婚︶以後︑秀音  

のキリシタンに対ずる態度豹変により︑非常な弾圧を受けか︒中日本布教長の職にあった彼の潜行記に﹁我等が今  

居る処は誰も居ない蒜の家で・・⁝・予ほ日本人のような衣服を着︑我等の同宿リヤンも亦同じ風をして出歩き︑塙 ヽ  ︑︑︑︑ヽ ︵3︶  を買う時は︑皆から歓迎されている﹂とある文章から察すると︑既に二五入〇年代に︑小豆島では︑その製法が﹁揚  

ヶ浜﹂とも﹁八浜﹂ともらかないけれども︑塩が生産され︑売られていた事が注視される︒しかして︑二ハ〇五年  

憎習小豆島検地図紅は塩田の記載はないが︑二ハ三年︵慶長十八年︶菅豊三郎成文書﹁納候年爵墟之事﹂による  

と︑四斗入五官八十二心の塩が林又右衡門より草加部五郎大夫へ皆済され︑既に塩田の存在したことも競知される  のである︒   

翌慶長十九年大阪冬の陣が起きると︑家康ほ小豆島及び附近の三ケ国に墟︑薪︑魚を求めて■おり︑小豆島笠井氏  

文書に︑   

(11)

爵納している︒いま小豆島九ケ村高反別諸色明細帳その他検地帳類により判明せるものをあげると︑  

﹁・・し から十八世紀にかけての塩浜面積と所在地を次の如く推測することが出来よう︒     穴数二千三百五十三・四歩  

﹁塩浜反五姶七町九反七畝四歩  

高千十五石九升五合  

此塙四千五胃九拾五億弐斗 但四斗入  

内⁚  

と記されており︑又之を細かく地方別に調査して見ると︑そのうち分明せるものは   

池  田  村  

て塩浜反別九町六反五畝拾四歩  

分 啓二†八石九斗七升寄合   滞相勒︑右御吉例に而︑以来休年無レ之︑年々大坂勧城内和琴用塩直納仕候事︒﹄  と見える︒塩を戦時徴用する程であるから︑この頃すで虹︑小豆島の塩ほ余程有名になっていたと見なければなら  ない︒その後引続き小豆島の墟は︑この地が天領であサた関係上︑幕府へ︑時に現物により︑また時に銀納により   ﹃慶長十九賓年︑  

塩 七古式拾七俵  但四斗入  

三拾六俵菅斗  

滅戸内海に於ける烏賊部落城田の研究   弐苫五拾九俵  四年三百三拾六儀式斗   一︒茨木・森口御陣所轄  

︵三六〇︶ 三三    拓側   大   役  

坂 御 城 納   十七世紀後半  

(12)

第二十八金 第四骨  

内  

六百九十健三斗  

是ほ浜苛つに付塩弐俵つゝ上納供︒  

土  圧 村  

高三百拾管石四斗弐升香合   

山︑塩浜拾七町三反八畝拾歩  

此浜数七百拾七  

此御年資塊千三百廿三傑 但四斗入  

残竿三百拾五傍弐斗  

内 六拾八俵三斗 是は大坂御城衛味噌塩に上納仕来時候  

残千二百四十六倍三斗  是ほ古来惑来塩浜並街検地以後出来仕候新語共初年蛋如レ此︑鞍山つ役覧弐俵つつ︒但藍之義ほ小豆場裏串  

所大坂問屋に両年中十ニケ月平均に而上納仕来申候︒  

上  庄  村  

浜数百七つ  

ー︑塩浜反別弐町七反拾蘭歩  

分∵豆拾右弐斗三升八合    内  弐慣 用水油床引 本役浜壱つ  五俵弐斗 悪水井手成引   ︵三六一︶ 三四  

(13)

淵  嶋  村  

牛改︵詣︶塩浜高百七拾九石弐斗九升弐合  

穴数四百七千四七分単  

一︑塩九百四拾九儀式斗  

内四拾六倍弐斗︑塩に福大坂御塩味噌蔵江上納仕候︑是若年十月1旬大坂江墟払出し︑大望本町樋口屋伊盃門塩  

吟味之上︑御塩味増徴蔵江上納仕候︒又伊姦門肝要に︑塩納に弐割蒜︑塩四石六斗五升遣釆候︒其外納屋入用中  衆望荷墓外諸入用塩語相液中覧︑塩納笑候程塩数其時分大賢相場を以︑和泉屋佐兵術方孟手形雫候︒  

此手形代銀に讐塩代銀又は銀納塩代警加合︑塩浜役塩数覧均仕︑右納塩之代銀取替侯者江相渡来申候︒  

草 加 部 村   山︑塩浜反別拾六町三畝甘九歩  

分米式百九拾五右壱斗五升弐合  

︵中 略︶   

塩数合千首九拾俵  

八拾壱儀 大坂御城塩納 但毎年十一月上納仕候  内  

千白丸俵銀納去丑︵謂︶御直段菅俵転付六匁弐分弐リシ六毛  

瀬戸内海に於ける島嶋部落塩田の研究   塩式百拾四俵 四  

拾五俵   

内  

百九拾九俵  

︵l七瀧○年︶  

二七四玉年︶  

︵三六二︶ 三五   

銀 塩  

役  塩  浜  

(14)

是ほ右同断︵延宝七未年木下宮内様衡検地︶之節山年費を塩㈲運上に願銀に而上納仕来申候 ︵二ハ実年︶  

などが挙げられるのである︒更紅淵崎村役場・池田町役場・大鐸村役場・鎌田図書館所蔵の小豆島地図又は村別地   図類によれば︑塵安年間の塩浜は︑長浜・淵崎・伊嘗未・家浦・池甲・潤筆室苧草加部・鹿島・讃野・苗羽・   木庄・安田であり︑文化年間の塩浜は︑片城・木庄・安田晶羽・池田・蒲苧宣誓伊善末・二面・吉野・大木  

戸・土庄・鷹島・甲生・淵崎家之浦・神浦・長浜となり︑豊島では︑家浦は慶安年間に︑甲生は文化年間に開拓 ︵5︶  

されている︒   註川川 宮田兼任﹁大日本地名辞典﹂仙二四九頁︒  

第二十八巻第四号  小 海 柑  

一︑塩三百五拾俵二斗 但四斗入  

拾壱儀式斗  内  三百三拾九俵  

︵下  略︶  大 部 村  

一︑塩五拾俵 但四斗入  

吻㈲松田毅叫﹁キリ夢ン研究﹂第一部・四国蕾丁六頁︒ニ七頁・三五頁︒同氏﹁大村純忠伝﹂第二苧第十墓参者︒  

㈱福田村石井氏文書︒石井氏文書の外匿︑淵崎村役場所蔵の寛永三年讃岐国小豆島滑崎村荒墟浜跡地新田検地帳や革保七年   

及二年の同村新開塩浜検地帳︑土庄町役場所蔵の亨保十年より饗応三年迄の土庄村新塩浜検地帳︑池田町役場所蔵の延  

章二年の塩浜稼万雷上帳な初め︑笠井重夫氏・土庄・淵崎・池田・大鐸の諸役場所蔵の小豆島村別地図により埴田所在地  を雅謝することが可能である︒    芸一六三︶ 三六  墟   浜   役  大 坂 御城塩納  

(15)

︵イ︶ 御 ・恵  浜  

︵1︶   直島は史上配流の地であるが︑魚塩の地であり︑また近世の天領でもある︒∴現在その東岸に北向きの御恩浜仙三︑  

八七隋がある︒この浜ほ︑倉敷の代官所に於て食塩の自給自足を計る目的と島民の生業を得る目的を兼ねて︑塩田  

築造を計画し︑倉敷の両替商大橋平右衛門に金四方両の寄附を寮請して︑当時この代官所に勤務せる直島の庄屋三  

宅源左衛門が命ぜられて築造したと伝えられるが︑非常に島の庶民経済を潤したからこの名を得たといい︑また別  

︵2︶  名﹁納言浜﹂ともいう︒どの程度に島経済が潤されたかは︑史料に制約されて不明であるが︑ただひとつ︑高橋浦  

助氏宝蔵の高札によって︑御恩浜の築造が推測される︒桧板のこの﹁定﹂蕃によると︑﹁此汐通し内ハ申におよは  

す断なくして石垣根わ船つなくへからさる事︑﹂ ︵子十山月︑倉舗御役所︶ とあるが︑所々消えているものの︑天  

保頃の重体︑大橋家と高橋家との緊密な小作関係から察して︑一応︑.天保十〟子年頃の塩浜完成が考えられる︒大  

潮留工事の前後︑断りなくして築堤石垣近在への撃船ほ邪魔になったのであろう︒代官所の威力により︑干拓地附  

近の殺生も禁止して︑盛んに勤労意欲の振作にこれつとめている︒完成の暁︑島民は大いに音んで︑直島村に恵み  

を与えられた故︑この名を冠したとはいうものの︑昔時は﹁︑︑主ハマ﹂とほ読まザ︑﹁ゴエイーク﹂とも言ったと  

いう︒われわれの理解からすれば︑天保末瀬戸内塩田開発の気運に乗じて︑商機を見るに巧みな両替資本家大橋平  

右衡門は﹁代官所造営﹂を強く前面軋押し出して︑困難な塩田蘭墾事業を成し遂げたと見られる︒代官所や庄屋が  

前面におしだされていても︑所詮︑金融上の実権を掌握していたものは彼であろう︒   ㈲ 小豆郡誌所収絵図掛︑  

四 直  

瀬戸内海に於ける島鴫部落塩田の研究   島  

︵三六四︶ 三七   

(16)

︵三六五︶ 三八  第二十八巻 第四号  

︵3︶  元来近世の直島ほ農業専仰の島であり︑比較的魚猟のすくなく︑廻船業者や塩業者が現れて︑初めてこの島の流  

通経済面は若干のうるおいを見せたのであろう︒島民の自覚によるせいか︑近代に入っても小作争議ほ起らず︑寧  

ろ工場誘致の線が強く出ている︒・ここの御恩浜浸︑伝えられる如く︑最初の築造目的が営利第一でほなかったとい  

うが︑小作人も比較的恵まれていて︑その煎燕平釜も小作人の所有︑.修理費地車負担という好条件であったと伝え  

る︒而して塩田管琴人の堺谷虎之助が小作料を集め︑大橋家へ納め来ったというが︑ときに堺谷氏の納める小作料  

よりも修築費の方が屡々大であったという︒.自作麒創定の線に沿うて︑一般に羽織小作ほ厳に批判さるべきであっ  

たが︑この場合︑堺谷氏は所謂羽織小作ではない︒また堤防修琴潜など︑塩業経営には︑ときに莫大な修築費を要  

するが︑その経費支弁ほ︑藩庁出費︑地主・小作の共同負担等その土地の慣習により定められているが︑御忠浜の  

場合は︑地主の負担能力が余程大きかったのであろう︒小作料の細かな統計は不詳であるが︑昭和初期五墟戸約十  

山︑四ヘクタール当り︑二十斤俵で四三五〇俵を納めたというが革﹁二ト・ンとなり︑こクタール当りで約四︑  

七トンとなるから︑極めて軽かったと言えるし︑ために小作争議も起らなかったのであろう︒一時︑争議というよ  

りも小作料不払い問題が起きているだけである︒   

明治四十三年男〟回塩田整理に直島の塙田は仙応全部整痙のワク内哲人ったが︑当時の代議士望月圭介筆を通し︑  

︵4︶  専売局長浜口雄幸に大桶氏から存続を希望し︑整理されずに済んだといわれている︒  

︵口︶ 家  島  浜  

家島ほ人口僅か三五人︵明九︑女二ハ︶︑世帯数六︑面積〇・三ハ平方キロという小島であるが︑ここの家島浜  

は臥塩戸約七・四へグタールがある︒零細塩浜経営といえよう︒うち二塩戸は島塩産株式会社︑他ほ個人のそれ   

(17)

う 

︵5︶ 木ぶたを開くと︑内側に︑明治五年四月吉祥日完成の覧が見られる︒恐らく塩田開発にありがちな塩釜の勧請  

が︑この時行われたのであろう︒殆ど全国的に見ちれる慣行例の山つといいうる・︒慧者ほ岡山県八浜町芙崎の  

三宅氏であるが︑︑当初五塩戸造成の予慧︑予算の出費のため︑四塩戸に留め雷伝えられ︑明苧七年に埋防 決潰している︒家島山番・四番は堺谷氏が小作していたが︑地至宅氏が日露戦争︵器∞諸︶当時藁に失敗して  

この塩田を玉野市宮原魔道へ霊︑当望野遠田宗有してぃた︑石橋車道戌との間の地謡関係から︑両者を   交換して︑家島浜は目下石橋常蔵民社痘の烏墟産が自作している︒   家島二番浜ほもと下葉大館信義が昭和三年から小作していたが︑数年前盗塁宅票ら買い■敬ったといぅ︒   更覧番浜も開墾者三宅戌が著していたが︑新田雷宙岳が大正六年よぶ作し︑昭和二王年にはこれを買取り︑   現在に至っているという◇採賊ほ勿論入浜式で雪が︑窯方法ほ築造以来壷戸壷別の平釜であった︒昭和二   十五年より木由墟薗の重要場へ家島浜の慧全部が送られているが︑現在でほ全部雫式への転換を完了して   いる︒ 

︵6︶   

澄また這在︑直景ノ山でほ﹁産塩田研究所﹂も出来ていることは注目されるべきであろう︒   ぞれ自作とい形式になっでいる︒慧年月日は久しく歪ときれていたか︑この塩田の′側の歪霜潮誓ん  

三六六︶ 三九   瀬戸内海に於ける島唄部落塩田の研究   ま田東竺大泉地名辞讃﹂第二数︑二豆九弓大百科事典︵平凡社︶川ノ三八七弓  電の地︑当初高原氏が讐となってい章一至一年︵箕十二年︶天領となり︑大坂代官所毒初代代官彦莞  

平治となるが︑ついで寛延年問には倉敷へ移っ雪いう︒この間︑松平讃岐守・絵乎中将露芸・河西孫八・安富文次   郎など高松薄絹係の大名左政家が神職三宅氏古文書残敵茫残・つているところから︑讃岐とも関係が深かったと慧瞥克   ヽヽヽ る︒近世の直島ほ︑高原氏子孫の旅豊にも単音如く︑﹁本村のあたりを塩田誓いふ遍名もあって塩業に関係なしと  

(18)

第二十八巻 第四号  

は為し得ない︒同氏文学ほ︑徳川中期の本村戸警戸︑芸神社四も見え︑それ丈の社寺を支えるには︑この鷲裕 福であったと見られ︑廻船問屋も直島虚初め数多く存し︑盛んに廻漕誉買漁民ほ怒ろ︑のら島外より入ったと伝え られる︒  

讃岐圏点島村三宅孟氏所蔵要撃竺例えば︑﹁高言三捨石孝二升九合︑家数古八拾軒︑人則男女合八百拾八人︑船 ︑︑︑1︑111111〜11ヽヽヽヽヽ 数拾弐喝是 

ハ年富姓2市物揖並薪無感嶽船︑未四月﹂など見える︒その船は漁船でほない◇  

塩専売創鹿﹂九〇五年︵明治三八年︶当時︑殆ど全国に散在せる若地ほ凡そ八千町歩還し︑従業人望万人︑製塩高 十億斤︵六 

十毒といわれたが︑晶警後︑ム寧関束州方面の安価な警内地へ移入する必要があり︑何とかして 内地  の不良塩田整理の必要造られた︒第一回墟田整理は明治四十三年・同四十四年に行われるが︑反別千七百軍人 貞妄四千六百  人︑製彗同忘七百万斤が整理された︒   滞二回塩由弊痘痕︑昭和四・五両年登って行われるが︑この頃︑時の専売長要望軍氏の詰る所鱒従えば︑十州地   方の動力装置も改良され︑内地塩田は生産能率を高め︑二割方増加の勢にあり︑豪華関東州の墟も孟過剰必至と   なり来ったため︑﹁国内不良墟用量琶その不足分ほ台湾・関東州塩を以て補充する常﹂が専売藁上不可鉄のこ   ととなり︑当時国内農地の反別五七七大町歩︑生産高十億三千四千万斤のうち︑生慧賢いて議事芹︑全国年  

産高のサ割四分八喝反別において︑ニ±良町歩︑即ら全国総皮別の二割を整理する志が樹てられ︑この志は現内地  

叢地生産塩約九億万斤︵五四万トン︶保有旨安がおかれたという︒而し・てこの将整理の標準をどこに置いたかという  

と︑  

先ず︑全国農地蓋高空々調べ︑産地︵十州芳︶とバラパラ鱒点在している小産地とを問わず︑  

贋一に︑現紅比較的生産力が低く︑且つ生産費の高いもの︒  

第1年地勢その他の関係上製塩地として将来発達一永続の見込なきもの︒    ︵三六七︶ 四〇  

(19)

第三に︑整理の地方経済紅及ぼす影響︑転業関係を顧慮し︑問題を起さぬよう慎重を期すること︒  

という点に︑主限がおかれたようである︒  

㈲ 高さ約七〇センチ︑前幅四〇センチの小河︑石屋根︑木扉の内には︑﹁銃八大竜神主︵表︶︑明治五年四月吉祥日︑神主︑   

三宅釆女守壷︶﹂とあり︑附近のかす谷老婆の語るところでは︑明治三年潮留が成功し︑同五年四月一日完成したと伝  

えられているという︒  

㈲ 紫の山の立体塩田研究所のいう所に従えほ︑  

て如何にして従来の自然浪縮法に比較して単位面積における蒸発効率を高め︑且つ輌水採集豊を増大せしめ得るか︒   

二︑如何にして我国の気象条件私通応した蒸発装置をなす可きか︒   

主︑如何にして稼働日数を増加せしむ可きか︒   

四︑如何にして燃料を必要としない天日結晶の塩の析出をなす可きか︒   

五︑如何にして労務人員を鮮少すべきか︒   

の基本課題を解決するにあるというが︑そのために先ず蒸発面としての塩田を南面する丘陵地に階段型体に構築する︒こ   

の階段型体の平両部には受熟効果の韮発作用を主とした砂層貫流式を応用せる洪縮装置を設備し︑垂直面部には風力効果   

の蒸発作用を主とした枚篠袈式を応用せる浪縮装置を改僻す告この南淡縮装置に海水を連続して綬かに流下するように   

直結して組合せた装置を単位濃縮装置とするが︑これにほ夫々流盈調節用及び生成賦水の中間溜槽を設備している︒各洪   

精嚢置と貯滑稽間は集水滞を以て接続し︑各貯溜槽間は管を以て疲抗し︑夫々自然流下を以て海水並に舶水を輸送せしめ   

るようにする︒この単位浪締装置ほ平面部を蒸発速度に対する基準値の長さを以て斜面の角度及び面精虹応じて数段構築   

して立体塩田の基本漬綽装諒とする︒この立体塩甲法によれほ︑従来得られなかった幾多の利得を得るが︑最も重安な効  

果は次の如く︑  

瀬戸内海に於ける島唄部落塩田の研究  ︵三六八︶ 四一   

(20)

砂弥島の縄文系土器追跡については︑既に昭和十三年十二月高松高商の故寺田教授によって︑その発見された員重  

︵1︶2 な報告がなされている︒この鳥ほ面積僅か〇・二七蝕︑人口六四則人の小鳥で︑尊師堂を中心として︑南と北に丘  

陵起伏し︑凍側の湾入地にほ漁舟に便利な港もあり︑塩田も開築されている︒烏の西南隅に当る処は︑一博に紳良  

く延びた平坦な脊をなし︑地形も梢広くなっており︑此処に所謂﹁千人塚﹂がある︒この墳ほ讃岐地方の普通の古  

墳と梢趣を異にし︑寺田教授もその解釈に苦しんだというが︑島ではこの地を俗に.﹁千人塚﹂と呼んでいる︒堵は  

円墳形をなし︑周囲に松樹茂り︑花尚岩の砂質をなし︑頂上ほ充地を呈している︒東西七米債○糎︑南北八米の上  

円下方墳の型式である︒日本に宙くより存する前方後円墳の代りに︑かかる中国の仏教の影響を受けたであろうと  

思われる上門下方墳のこの為における存在ほ︑朝鮮凝州のこの程の型式を思わせるもの.があり︑内海への文化伝播  

史の上からも注目さるべきものであろう︒この道跡では石器原料石小片が散在し︑寺田氏紅よって石鉄山佃が発見    第二十八巻 第四号  ︵三六九︶ 四二  

︶  というのである︒  

五 砂  弥  島  

︵イ︶ 概   太陽の瞞射エネルギーを階段の垂萬面と下部の乎面を以て構成された直角部転おいて盾射熱線と反射熱線とを相互に  重畳集合せしめて︑濃縮装置の単位面積における椙射熱量を積極的に増大せしめる事︒  平面の受熱効果の濃縮装置において︑摘射熱に依って昇涼し蒸気張力を拡大し︑すでに蒸発作用を営む離水を敢に水  温を低下せしめる事なく︑風力効果の未発作用を併用せしめて蒸発速度を著しく促進せしめる革新的な濃縮方法であ  る︒  

(21)

されている︒石器石材ほ勿論サヌカイトであり︑石餅も同質である︒備中の浮雲貝塚から出る石器にサヌカイトが   あり︑この中国地方の文化接触線を北上して見て︑出警朝鮮にいたる文化経路も考えうるところである︒島の北   新地西北麓に柿本人暦の碑が中河与表によって建てられている︒この碑の岩下が砂浜︑東西に発達せる海浜︑砂 にがり   礫中に︑寺田教授は弥生式土器・縄文破片も発見している︒この地帯にほ以前北浜民風よって経営された宙汁製造   場があっ卑という︒ここでは石斧も発見されているが︑かかる小島で︑縄文式土器・弥法式土器・土師器︒祝部土  

︵2︶ 器・師楽式土器の各種顆にわたるものが︑各時代系列的に発見され雷﹂とほ↓棲めて興味深いところであり︑舌代  

文化がひどく明滅することもなく︑ここに残存したと理解されよう︒    要するに︑砂弥島ほその記録の上でほ僅かに三宮年来の開墾のように考えられ︑その現住民も与島からの移住の  

︵3︶ ように伝えられているが︑古墳の存在することや各時代楢の石器の殆ど全島到る処に発見される事実を見れば︑そ  

の開発は決して新しいものではない之断定しぅる︒前に私が﹁坂出地区塩其の研究﹂に此の地区文化始原の問題点  

ほ沙弥烏であろうと指摘t︑更にこの地帯が縄文後期に登場し雪﹂の地方文化の揺藍地であろうと推測した如く︑  

他の内海島々に就いても漁猟の本場原始交遊に至便な潮の栄西合流地帯などを究明するときは︑単なる偶発的な考   古学的発見でなく︑多分に意識的な面よりする﹁古代文化の銀座﹂なかかる地帯に発見しうることが可能であると  

ば人′\ 考える︒砂弥縫のように︑すぐ庚南紀有数な砂洲の発達している処ほ︑吃水の深い近代汽船の海上交通にほ不便で  

あ?ても︑鯛・熔の漁猟本場を担えており︑小魚貝誓﹂とかかず先ず食料の面からする古代民を誘う原因をつくっ  

たと思われる︒然も亦︑今此の番ノ洲・沙弥ノ瀬の二衛は近代人の﹁膏万坪﹂大塩田切夢の場となっている︒   さみの  歴史時代に入っても︑狭早島ほ︑柿本人麿に﹁をちこちの畠ほおはけど︑名ぐはし︑狭卑の島の︑荒磯面にいは  

(22)

第二十八巻 第四号  ︵三七こ 四四  

き学−よ︵4︶ 来も問軋ましを玉梓の道だに知らず︑おぼはしく︑待ちか恋ふらむ致しき妻らは﹂など歌われ︑理源大師の生誕地 

といい︑共に此等の伝承ほ為につたえられている︒玉藻集五には︑他の世島・牛島・広島︒片島・瀬比島︑泊りの  

にんみよう 六島と併せて左英島は﹁塩飽七島﹂の仙つとなっているが︑厳密な近世的な意味からすれほ︑秀凌が人名六五〇人  

を任命して以来の本島・牛島・早島・植石島・広島・手島・高見島こそ純粋の境飽七島というべきであろう︒   

砂弥の人名九名は︑山六四四年︵電︶に与島の岡崎次郎左衛門によって閲作されたとき︑麦高十石をつけて同所  

から分離せしものであるが︑砂弥の庄屋庄兵衛は︑此の次郎左衛門方より別家して小六五二年産安四年四月より砂  

︵5︶  弥島庄屋役を勤めることとなっている︒   

島にほ現在︑僅かに田山段・畠五町あり︑その戸数も明治初年までほ十七戸に過ぎなかったというが︑島民のい 

い伝えでは︑三宮四︑五拾年前彼等の先祖は多く与島より移駐し来ったという︒塩飽牛島極楽寺文書を見ると︑仙  

六空年確報に︑畠の高給石加子役十人として規定せられ︑此の時の年寄官本伝左衡門の居宅も四拾菅坪半︑年寄官  

本助之丞居宅六拾四坪︑年寄吉田彦右ヱ朋居宅五拾参坪など見え︑山七〇四年譜申八月の﹁塩飽島中納方配分帳﹂  

を検すれば︑砂弥蕗高として︑  

一高 捨 石  

此内引方  二菅 石  庄屋験に引  

一︑九 石  古加子九人分に引  二 口合 拾石  

︵6︶  というのが見える︒かくて此の頃より砂弥の経済は︑まさしく漁業依存度を増し︑鯛ほ明石から生船が来て持って   

(23)

帰り︑鱒ほ押船で備中其の他に運ばれるてととなるが︑明治二四〜五年頃より漁獲も逐次減少したという︒現在で  

は︑鯛︑鱒の流し網が行われ︑劇網に三人を要し︑人手不足の家は若衆を雇わねばならぬという︒捕獲魚の市場ほ  

いずれも坂出で︑網主は多く瀬居島である︒   

しからは︑塩業は如何︑まさしく航空写真では︑五・九〇七隔の入浜塩田ほ島の浮き袋である︒瀬戸内海の﹁島  

の塩業﹂の場合︑その多くは出来た繭水をひもつきの真空式製塩工場に航送売却の方式をとっている︒砂弥浜は浜  

田保二民を小作とし︑所属は坂出合同塩基組合となっているが︑せんごう方式は蒸汽利用式であり︑塩の一ケ月当  

生産見込高ほ八九二屯である︒  

︵口︶ 砂弥浜の開作と砂弥関係文書   

砂弥塩田は︑砂弥島の常北側漸層為に面して任している︒その築造は︑明治三年正月岡山県児島郡上村︵現在の  

琴浦町︶の人︑鎌田重郎兵衛によって創始されたと伝えられ︑同四年塩田築造工事が潜手されたというが︑塩飽塩  

︵6︶  業組合の守田民文書によると︑鎌田中旦那・鎌田常太郎の文字も見え︑彼等は塩薬問屋であり︑開発資本家であ  

る︒戎久以下の忠実な番頭を絶えている︒しかも砂弥の場合︑惣代武吉・薯助・庄屋庄兵衛外周辺諸島の庄屋年寄  

連中の開発協力にほ見過せない底力がある︒寧ろ下から盛上る開発意欲といえよう︒石材は与島︑砂弥島より取出  

し︑砂は砂弥島のものを使用している︒かくて︑明治六年砂弥塩田け二応工事完成しているけれども︑余程経営難  

であったらしく︑次々とその経営者が変っている︒   

明治十七年北西堤防が破壊し︑頗る雉工事に出会う︒明治二十九年島の有志︑海淵博氏他数名により砂弥塩田靡  

式会社が創立されたが︑経営困難となり其後︑永続せる経営者もなく︑塩田所有者も転々と移り変った︒日本塩業  

受難期とも密接な関係がある︒  

瀬戸内海ぬ於ける島唄部落塩田の研究  ︵三七二︶ 四五   

(24)

︵三七三︶ 四六   第二十八巻 第四号  

大正初年︑綬佐之富民の所有となり︑その経営を大正三年坂出市︵当時坂出町︶新浜の浜田六蔵氏軋委任し︑漸  

くその卓越せる技術と熱心なる経営にょり︑幾多の困難を克服して一応安定を見るにいたった︒しかしながら︑地  

理的条件の不良と︑∴般的な塩薬不況のため︑損害が相つぎ幾度か経営を放棄せんとする軍機に遭遇した結果︑六  

蔵氏三男保州民自ら烏に行き︑在地塩田の叫角に居を作り︑塩田従業者と苦労を共配しっつ塩生産に励哀︑漸くそ  

の経営が軌道にのったようである︒   

次にエ事着手迄の経過をみるに︑   

個人営業であり︑又経営者が幾回となく変更せるため︑その築造当時の藤子は必ずしも明白でないが︑いま幕末  

の砂弥浜開発関係文書を見出し得たからここにこれを掲げ︑その成立を考えたい︒  

︵7︶      砂 弥 浜 関 係 文 書  

明治三年二月二日間屋年始致し相済申候所より砂弥島干潟見分に参り候株主人常太郎棟申出に付︑破久・安次︒宇太郎四人乗  

込三日早朝に参り見分数し︑直に新屋茂兵衛殿方へ参り其咄申候所庄屋へ同人相届け候所︑其日庄屋︑瀬居島へ参り留守中し  

て単数咄にて引取帰る︒   

明四日︑庄屋私宅へ参㌢何卒共立呉棟税申出候︒村方之義は︑私引欝何に株事御座候耐も私引謂可申候と碑候に付︑或久五目  

六日上村に参り東新宅主人︑御相談申上げ筐帰り居中候︒  

明治三年正月より砂弥島へ塩浜新開取掛りに相談致し掛置き候所︑同九月上旬より同浦庄屋庄太夫より頼申候に付︑或久より  

上村ね渡海致し︑.色々相談仕九月二十五日高嶋様 尋に寵出候所︑早々願書願出し可申候と仰聞供に付︑上村わ又々参り二十  

八日砂弥島へ戒久参り︑先方より義定常取左之通り   

(25)

形  手  此撃摘新摘箪笥板蚊朕段悪存供然←鱒妙右上高量外共入用孟浦伝之分蒜御撃品歌道笥被成候又翌御牧   懸り被成候ハ︑定而大勢入込有之候節欝悪意浦万感汲取可被成供依票後日義定羞取過候迄此諾差入中震       以 上  

瀬戸内海に於ける島臓部落鹿田の研究   明治三庚  

年十月  

血丁 屋   卯 兵 衛 殿  

︵右新開鮫藷元写︶  乍恐以書付奉隔上供   

上  ︑識州塩飽之西砂弥島芸程章票睦候蒜此所匠塩東森開仕候ハバ年利宜教場所蒜趣候故︑先年浦方高寄々相談  

仕事串趣羊候へ共小鴨之轟及自力幻過笥候所︑此度浦空間身談2上私誉姦所讐典犀警り当努よりは手  

近之場所にても御座轡高雅湛奉存候  雫知侯上に而追々築立候ハバ島益浦益にも再婚成哉卜奉存御願串上候何卒警通り欝容被成蔑  下僕ハバ広大祖霊    砂弥しま惣代  

武  ㌫畠  

屋  

兵  庄  

︵三七四︶四七    富  ⑳  助  ⑳  術.⑳  

(26)

筍二十八巻 第四号   

々難有仕合二奉存候 以上  

明治三庚牛丸月  

右之通申出紅付承札候所前文之通相違無御座候   

何卒願上之通り御許容被為仰付慣梼由上皮奉存慣 以上   

右之適当浦之苧潟御凄二村此度浦中申談︑羞卯異質真候様相頼候□相避雷篇︒森閑出来仕儀ハは小前之   者共働キ等豊年相増漂﹁警も相成可由候相楽居中悍棄よ晶中津分之竃少も無恥擁候以上  

衛勤番所   

御年寄中 嘩  

嶋中道由審上ケ写  

乍恐口上    砂弥島庄屋  与島庄屋    塩飽砂弥島惣代  

武  

者   願人塩飽与島  

り.       nク  

兵  

右 衛   ︵三七五︶ 四八  

衛  ⑳  

門  ⑳   士口  ⑳  助  ⑳   衡  ⑳  

(27)

瀬戸内海に於ける島嶋部落塩田の研究   山︑砂弥島前干潟場所塩浜新開虹致し度此度私共へ相談有之承知仕候右新開蟻浜之義二付鴨中一統制関之義無御座候然上老  

若浜出来候ハバ御国益者勿論鴫益にも相成義卜奉存知候間何卒右之段御聞済被為成下候ハバ庶人者素より鴨中一同難有仕  

合二奉存候乍恐此段連印ヲ以奉申上候 以上  

明治三年九月  

笠しま浦年寄広東  

同  甲崖浦旺盛格  

泊り経年寄⁚−▲眉  

間  

属田庄園  

尻溜覇庄屋  

生乃濱庄屋  

先着澗鹿東  

栄滞庄屋  

汀之浦庄園  

わ沖澗庄園  

滞米浦仔旗  

手鴨庄屋  

俵抑鳴庄屋  

柘鼠賂庄周  

年鞄庄屋  

澱屠陥組頭  

︵三七六︶ 四九   彦   卯   代   助   笹   侍 左   金 石  轟 典 五 孟 種 円 印   判   太   夫 Ⅲ  

巷 鋪 卯 息 利 金 ′ト   兵   兵 兵 琴 四 兵  

蒋 ⑳  

入 ⑳  

助 ⑳  

入 ⑳  

膏 ⑳   

荷 門 ⑳   

符 円 ⑩   

衛 門 和  

邸 ⑳   

朽 ⑳   

郎 ⑳   

次 ◎   

衛 ⑳   

街 紺   

七 甜   

衛 甜   

(28)

倉敷県衡役所  

前智之通願出候間奥印仕候 以上  

惣 年  寄  

高 島 惣 兵 衛  同   

山下宿助  

︿明治三年﹀半月工ハ日1姦敷ね傲←に参り︑十八日役所わ差出し琵︑十告墓り候所︑砂弥しま地面豆分之上築立可   

串候様仰聞儀一福引取︑午十二月朔日一彦弥苧潟見分墓り︑主人碗久板安利右衛門船1東リ込テ︑潟わ宝印嘉帰る︒十  

二月十二日倉敷より原田様卜中衛役人見分に衡出︑十三竺山下氏同道蒜相済申候︑  

以上のものである︒自主民営の下から湧き上る﹁開発意欲﹂の強さを凝視せねばならぬ︒  

註∴川寺田良次﹁砂弥島の縄文系土器遠藤﹂︿香川県史蹴名勝天然記念物調査会刊行﹁調査報告書﹂畢十仙所収︶   

肋間氏発見になる二五里器図版が前記報告書に登癒されている︒︵同報禁裏二〇⊥二頁︶   

㈱良木信夫﹁瀬戸内海に於ける塩飽海賊史﹂三九責   

㈱山表文膵﹁万葉集﹂上の七六員︒吉田凍伍﹁大日本地名評語﹂拳あ三七二貢︒   

㈲・㈲ 真木信夫﹁瀬戸内海に於ける塩飽海賊史﹂三九頁・二五〇弓   

刑責村諾栄二即氏所蔵文書﹁慶応三豊月改万日記留帳﹂に詳しいが︑蔑明治七年迄の生起事実薮つぎつぎにつぎた  している︒    第二十八巻 第四号  

岩怨親猿   

慮石トま庄屋   ︵三七七︶ 五〇  

文  

羞  −二  

(29)

観  ︵イ︶ 概  

にんみょう  ﹁与島﹂の名は︑此の地を人名所領として秀吉から与えられたために︑その名を得たのであろうといわれる︒四  

〇人の人名があり︑物整同6六・四嘉で計る︒元来﹁塩飽七島﹂とは︑人名の分布に由来していると信ぜられ  

ているが︑その島民の海上輸送の巧緻さと実力を認識して︑天正十八年秀吉が塩飽の島聖二五〇石を船方六五〇  

人に領知せしめる朱印状を与え空﹂とから七島が公認的性格を帯びてくるようになり︑次の塩飽検地がその領地特  

︵1︶  権を主張する唯一の尿由となっている︒  

塩 飽 検 地 之 革  

塩飽島中  

これと同文の﹁小笠原越ヰ守奉之﹂とせる慶長五年九月廿八日の家康朱印状が今なお勤番所に保存されている︒船   劇︑二百二十石  〟︑千三十石   

合千二百五十石  

右領知当島中船方六百五十人に被下候条令配分金可領知名也  

瀬戸内海に於ける島峡部落塩田の研究   天正十八年  

二月晦日   六 卑  島  

︵三七八︶ 五一    山   田 方 屋 敷 方   

島   方  

(30)

第二十八巻 第四骨  ︵一一毛九︶ 五二  

もうと 頚が乱士相当の待遇をうけて︑人名外の毛嶺︵間人︶を頃使し︑彼等を隷属化した近世初頭の姿を示すものであろう︒  

しかも我が国では珍しく︑この六官五十人の人名から選挙された四名の年寄を中心とする島の自治制が塩飽に施か  

れ︑凡そ幕末まで続いたようであるが︑彼等ほ本島において朱印状を宝蔵し︑訴訟を聴断し︑非違を検断し︑必貿  

必罰の挙に出たが︑その権利の濫用︑行過ぎの鬱憤は︑所謂小坂騒動であろう︒山八六五年諸幕府が長州征伐の際︑  

役夫の徴用を塩飽人名鱒命じて来たが︑人名はその漁民を酷使したことに端を発し︑彼等は差別の撤廃を要求した  

のである︒双方共死傷者を出しているが︑土州武士の干抄も塩飽塩業の﹁万日記留帳﹂に詳記されている︒   

いま与島に配置された人名数と物成高を細かく検するに︑いわゆる人名分ほ︑与畠四〇人︑植石山○人︑瀬居島  

二〇人︑砂弥島九人であり︑物成高︑与烏は山〇六・四則石︑植石島四四・九三二石︑瀬居島劇三石︑砂弥烏丸石  

であり︑幕末の行政区剖ではこれ等四烏が与島村の全域となっていたのであろう︒一七〇四年讃申八月﹁塩飽島中  

納方配分帳﹂に遡ると︑与島分の高八拾八石五斗五升六合というのが見られるが︑それは恐らく各島村の与烏のみ  

の石高であろう︒もともと︑与島の主産業ほ石材であって︑山見して農・漁の兼業が多いと見られるこの島も︑近  

代に入ってほ︑﹁島のくせに猟師がいない﹂といわれる程この小島だけでは漁夫はすくない︒農産物も田僅か一町六  

反︑畑六〇町であって︑米の産額が少い代りに︑変・甘藷で補おうという他の島の類型と殆んど変らない︒所詮︑  

Lの島ほ石材殊に与寧︑\カグの捨石生産でまかなわれているのであるが︑しかも花崗岩の良質の砂噂と塩田とは無  

関係ではない︒  

︵口︶ 備前式の卑島入浜  

︵2︶   与島には一五九〇年の﹁天正十八年六月吉日与島畠方名よせの帳﹂が残っており︑麦高合八拾六石九斗四升七卦  

など見え︑また〟六〇六年増︼報当時の代官小堀新助は︑その下代山脇九郎右衛門をして再び全島の検地をなさしめ︑   

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