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中野正大

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(1)

‑五島列島,黄島の場合‑

中野正大

The Monographic Study of Islet‑Village

that is underpopulated

‑In the Case of Oshima Village in Goto‑Islands‑

Masataka NAKANO

もくじ はじめに 1.調査地の概況 .)/・.

‑.I".圭,,r.蝣・';

3.家族と親族

4.村落機構と部落内の集団 5.祭妃と年中行事

おわりに

はじめに

現代のわが国における深刻な社会問題の一つに, <過疎>問題があげられる.

一般に,過疎現象が顕著になりはじめたのは,わが国の経済が高度経済成長政策をとり始め た昭和35年頃からであるといわれる.しかし,この時点ではまだ過疎は問題としてとりあげら れてはおらず,過疎という問題がはじめて提起されたのは,昭和41年の経済審議会地域部会の 中間報告においてであるといわれる.従って,過疎問題が本格的に取り上げられるようになっ たのは決して古いこ̲とではなく,まさに現代的問題なのである.過疎をめぐる論議もいまだ一 致をみないのが現状である.

こうした背景の一つには,過疎の/I‑ターンの多様性があげられる.

一般に,過疎現象は,その成熟度(進行度)から,大きく,東日本型と西日本型,そしてそ

の両者の問の過程にある中間型に分けられるという.そして,さらには,各々の型のなかにも

(2)

人口流出型,挙家離村型,閉鎖型,流通型,出稼堊,さらに離島型ときわめて複雑な様相がみ られるのである(1).

そこで,本稿は,こうした多様性にとむ過疎地帯のなかで,特に離島村落をその対象として とりあげ,まさに過疎化の波を正面からうけている離島村落の社会構造とそこで日々営まれる 生活構造の実態を明かにしようとしたものである.

1.調査地の概況

調査対象地,黄島は五島列島,福江島の南方海上,約6Kmにある小島である. (第1‑1図 参照)島の面積は104/w,直径は約1.3Kmで,島全体は新第3紀の玄武岩からなる平坦な火山島 である.

島の東寄りには標高90mの臼状火山丘があり,この火山丘を中心に,島の南東は急傾斜で, 約20‑30mの海蝕崖が続き,北西にかけては,ゆるやかな傾斜が広がり,港は北東端に位置

し,この港の周辺に集落が密集している. (第1‑2図参照)

第1‑1回黄島の位置

家の周囲には石垣がはりめぐらされており,各家を結ぶ道路はすべて舗装されている.

黄島は.昭和43年に福江島より配電されるようになり,自家発電は解消した.しかし,覗

(3)

荏,部落の人達にとって,最大の関心事は,医療とA水の問題である.

黄島では,̲昨年まで医師が居たが,村を去り,その後は福江市より週1回診察に来島してお り,他方水は現在でも雨水に頼っており,このため,各家庭にはどこも,大きなコンクリート 製の貯水槽を備えている.

黄島部落は,行政的には,昭和29年まで南松浦 郡大浜村に属していたが,大浜村の福江市合併に 伴い,現在は,福江市黄島町となっている.

交通の便としては,部落の個人経営の渡海船神 祥丸40トンが福江港との問,約1時間半を1日1 往復しているだけである.

部落の戸数は,昭和48年8月現在, 63戸,人口 は198人を数える. (但し,島の教員8戸とその 教員家族を除く)

戸数の変動をみると,第1表の示す如く‑,黄島 部落は,昭和30年以前は130‑150戸程の戸数を有 していた.しかし,それ以降は漸次減少してお り,それに伴い,人口数も急激な減少を示し,覗

第1表人口の推移

(4)

荏では,当時の約%までになっていることがわかる.

篇2回黄島の人口構成

次に,人口構成をみると,第2図から明かなよう に,特に15才から55才に至る労働生産年令人口層の 欠如が顕著であり,まさに過疎化の進む典型的な離

島といえる.

部落では, 15才で中学校を卒業したものは,ほと んど例外なく島外に出る.ここ2年の黄島の中学校 卒業生の進路をみると第2表の通りである.

第2表中卒者の進路

黄島においては,かって大正年間に,カツオ漁で栄えた頃があるが,それが衰退してからは 部落の若者は中学校を卒業すると,すべて,長崎市の手操船乗組員となって働きに出たとい う.この島では,若者にとって,将来,手操船に乗って働くことが,若者の夢であったとい う.そして,現在,女性を除いて島に居る人達の大部分は,若い時に,島を出て働いて帰って きた人達である.,

この黄島部落は,歴史的にみると,幕藩時代は,五島藩に属し,四方の海上が見渡せる火山

バンドコ

丘には,藩の番所(見張番所)がおかれていたという.そしてまた,島には,延命院という真 言宗の寺があり,元禄2年の建立ということから,当黄島部落は,五島の小島としては早くか

ら,開かれた島といえよう.

部落の生業は,第3表から明かなように,漁業・農業・牧畜(肉牛の

集る表職業構成

戸 数

14

農 業 + 畜産 6

3

給 与 所 得 6 出稼 十畜 産 3

1

3

27

63

飼育)から構成されているが,農業よりは漁業の方がその占める比重が 高い.しかし,そのいずれも零細な生産形態であることに変わりはな い.

また,部落において,漁業と農業を兼業している家は1戸もなく,ま た,実際に漁業か農業を専業としている家は,わずか20戸にすぎない.

反面,職を持たない家が27戸もある.これらの家は,子供からの仕送り

やあるいは恩給,年金等に依存して生活しており,この人達は全て60才

以上の老齢者である.また,漁業や農業を生業している人達のなかに

も,こうした子供からの仕送りを受けて生計を維持しているものが多く

(5)

みられる.従って,こうしたことから,黄島においては,各戸の間に階層分化はほとんどみら れないが,収入の面からすると,農業よりも漁業に従事する人達が比較的安定しているようで ある.

2.生業活動

本島の生業は既に述べたように,漁業と農業(肉牛の飼育を含む. )を中心にしているが, この他には第3表に示すごとく小さな雑貨食料店を営むもの3名,給与所得者として6名,也 稼者3名,住職・渡海船主・大工の各1名である(2).

以上に述べた農・漁業以外には,その種類と人員をあげるにとどめ,主として本島の漁業と 農業・牧畜についてみることにする.

(1)漁業

黄島には漁業協同組合があり,現在,そこには正組合員48」,准組合員25名が加入してい る.漁協は組合長の他に,理事5名,幹事2名の役員から構成されており,漁協の運営費は, 五島列島の西方海上にある男女群島のぶりの共同定置網(3)からあがる漁獲高の配当金で充当さ れているため,個人の組合‑の出資金はないという.

部落の漁船勢力は第4表から明かなように,全て5 t未満の小型船である.

第4表漁船勢力

黄島は,大正年間頃までは,カツオ漁で栄

え,その頃は,遠く男女群島まで出漁し,良 にはカツオ節の製造会社まであったという.

しかし,現在の黄島の漁業は,専ら地先海面 を漁場とする沿岸漁業であり,しかもそのう ち主要なものはイセエビ刺網漁業である.

黄島のイセエビ漁は今から60‑70年前頃か ら行なわれてきているという.現在,部落に おいては,イセエビ漁に従事する人達だけ で,漁協の内部に,イセエビ建網組合をつく っている.

イセエビ刺網漁は6銃から構成され, 1統 には3戸まで加入することが許されているが,現在,刺網漁に従事する家は13戸だけのため, 第5表の通りそのうち1統が2戸で, 2統が1戸だけで構成されている.

刺網漁は, 1人が舵取り, 1人がアシ取り, 1人が網繰りと,その役割から考えて, 1統の

乗組員は3名が理想的と言われているが, 1統に1戸しかいないⅤ・Ⅵの組は,その息子達が

一緒に乗船して手伝っている.

(6)

各々の組の間の関係はⅣの組だけが兄弟関係にあるだけであって, な関係はみられない.

そして,各々の組には,刺網漁の経験年数(加入年数)に応じて,

])シう

頑を決めており,漁にはこの頑の持船を使用し,収益は,頭に船代と して,全漁獲高の4%を充て,あとの残りを3等分にしている.

黄島の刺網漁は,エビ資源保存のために,他の五島近辺でみられる 三重ないし二重網目ではなく,一重網目の漁具を使用しており(4),網 は1統につき45反,従って, 1人, 15反までと規制され,網は各個人 の所有となっている.

刺網を入れる場所は黄島の周辺で,漁場における綿入れの位置は, 互いに紛争がないように,毎年解禁時にくじ引きで1番から6番まで

他の組の間には何ら特別

第5表刺網漁の家関係

を決め, 1番のくじを引いた者から優先的に自分の好きな場所に網を入れて行く.この順位 は,以後1日毎に繰りあがって行くことになる.このため,夕方に綱入れに行く場合, 6統が 同時に出港する.

刺網漁に従事する人達の1日の生活過程は,夕方の5時頃に網入れに出掛け,漁場が近いた め,普通は出港から1時間程で帰港する.そして,朝の4時頃に起きて,網あげに出港し,栂 捲き上げ終了後直ちに帰港し,とれたイセエビは各自の寵の生責に入れて,港内に沈めてお く.このイセエビは1日おきに特定の仲買人が集荷のために来島する.しかし,刺網にかかる イセエビ以外の魚は毎日,黄島と福江を結んでいる渡海船で福江の漁協に出荷する.

こうして網上げを終って帰港後は,家族全員で網干しをしてから朝食をとる.そして朝食後 夕方の出港まで,港の近くの場所で,刺網漁に従事する人達が一緒に集まって,各自の綱の修 理をするのである.

黄島で経済的安定を期待できるのは,この刺網漁ぐらいのものでありながら,なおかつ5戸 の欠員がみられる理由は,この刺網漁は毎日の漁のあとの網の手入れが根気のいる仕事のた め,老齢者では不可能であるからだという.

このイセエビ刺網漁は,解禁中, (8月21日から翌年の5月20日まで)台風時を除いてかな りの荒天の場合でも出漁する(5).しかし,毎月旧暦の13日から20日までの1週間は休漁する.

この理由は,一般に,イセエビは月夜には殆んど網にかからないからであるという.この休漁 期間中は,カオツ漁や水イカ漁を行なっている.

黄島の漁業は,第6表の漁種別漁獲高をみても明かな如く,その主要なものはこのイセエビ 刺網漁であるが,イセエビが禁漁となる5月21日から8月20日の約3ケ月間は,主に,黄島周 辺でのカツオ漁に従事している.

この他,部落において,刺網漁に関係しないで,漁業を専業としている家が1戸あり,この

人は,主に,カツオ漁・イッサキ漁・シビ漁といった一本釣りで生計を立てている.この人の

場合,まだ年令が若いため,毎日の網の修理に追われる刺網漁よりも,経済的には不安定では

(7)

第3図漁業の季節的変化

10 ll 12 1 (月)

エビ

イカ

イカ

'蝣蝣蝣蝣蝣蝣蝣蝣蝣蝣蝣蝣蝣^Hこ】

カツオ

あるが,漁としては変化に富み面白い一本釣りを行ない,黄島近辺のみならず,遠く男女群島 まで出漁している.

なお,黄島において,こうした漁業に専従していない人達で,漁協の正組合員は,その殆ん どが老令者のために, 9月から3月にかけての水イカ漁を副業的に行なっているだけである.

また,准組合員とは, 4月から5月にかけて,この黄島の周辺の磯でひじき,天草,ふのり の海藻採りに従事する人達である.

こうした黄島における漁業の季節的変化を示すと第3図の如くである.

なお,黄島のここ数年問の漁獲高と,昭和47年度の月別漁獲高を示したものが第7表と第8 表である.

第6表漁種別漁獲高

漁種剣

47年度漁獲 高(千円)

な 類 お 類 い

さわら その他の魚類 あわび さざえ するめいか あおりいか

いせえび・きさり.

じの

第7表漁獲高の推移

帯8表月別漁獲高

(8)

(2)農業と牧畜

黄島の総耕地面積掲28haであり,そのうち畑が8ha,草地が20haである.黄島においては, 生活用水を天水に頼るほどなどで,昔から水田はない.

また,,この他に一,株野面積は20haあり,そのうち,山林がI3ha,原野が7haである.

かって,黄島は麦,甘藷,大豆を換金作物として栽培し,農業の方が漁業よりもその比重が 高かったと言われる..その最盛期には生産組合がおかれ,島の北方に浮ぶ大坂部・小板部島ま で出作りされていたが‑,現在は殆んどその頃の面影がみられない.

第9表耕地規模別農家数

( a ) i 農 家 数

1 0 未 満 1 Rー‑l

1 0 2 0 6

2 0 4 0 6

4 0 6 0

6 0 8 0 1

8 0 1 0 0 1

1 0 0 ‑ 6

2 8

黄島における現在の耕地規模別農家数を示したのが第9表であ る.現在,農業に従事している家はわずか6戸にすぎない.このた め,かって耕地だった畑は放置され,現在はその殆んどが荒地とな っている.過去に農業を生業としていた家で現在漁業に転向した家 も6戸ある.

現在,黄島において作付されている農作物は次の如くである.

(1) 10月〜4月の麦 (2) 6月〜10月の甘藷 (3) 4月‑6月の大豆 (4) 11月〜6月のそら豆

(5 9月〜1月の大根

農業生産高は,第10表の通りである.この表から明かなように,現在の主要な商品作物は甘 藷であり,他の作物(そら豆・大豆・麦・大根)はほとんど自家消費にあてられている.甘藷 は, <切り干し>にして,毎年大浜農協に出荷されている.

篇10表農業生産高

3時 度 i 42 空 度 生矧 撃 酎 生矧 等 欝)

44 . 年 45 .年 46

雀幣潤筆翫筒 生撃潤筆欝;

い .も 類 57 2 .590

1 :出 98; 3

80 159 800

45 2.475

420 4 ,200 110 1,210

380

雑 穀豆 類 554 408 I

15 240

4 280 野 菜 類

飼胞料作物 そ .の 他

14 4

15919 18 306 38 760 19

‑ "" .1 1.704

I 13 741

畜 産 (午)

2,674 4

二9= 507 7.715 142

1.068

8,783 t 1.068 】 2.600

総 . 4 .931

このため,第3表からも明らかなように,黄島においては,農業を生業としている家は全て

肉牛の飼育を行なっている.現在,部落における牛の飼育頭数は45頭であり,このうち牧場を

(9)

経営し, 19頚の牛を飼育している1戸を除いては, 1戸2‑5頭の牛が飼育され,放牧地とし て,各戸の休耕地が利用されている.

ここで生産された牛は, 7ケ月〜1年飼育して(250‑300K?にして)福江市で年5回行な われるセリ市に出している.今年のセリ市では,極当り900円で売買されており,これまでの 農業に代って牛は各農家にとって,重要な現金収入源となっている.

5.家族と親族

黄島の家族形態をみると第11表の如く,大部分は夫婦家族か直系家族であり,傍系家族はわ ずか1戸にすぎない.

単身家族17戸と夫婦家族,とりわけ,夫婦のみの家族15戸と多いのは,息子達が全て島外に 就職に出て,そのまま就職先で住みついて帰って来ないからである.殆んどの家族員数が2人

〜3人ときわめて少ないのはそのためであり,現在,部落に残っている殆んどの人達は,年老 いた夫婦かまだ中学校を卒業する前の子達で占められている.

黄島には,隠居形態がみられ るが,他地域におけるほど制度 としては明確ではない.隠居は

へヤ

<部屋>と呼ばれ,隠居となる年 令は決まってはいないが,一般 に,息子が嫁をとるとその親は息 子夫婦とは他者を別にしている.

現在,部落における隠居形態を みると, 8件の隠居のうち, 4件 が同一棟で, 4件が別棟をとって

第11表家族形態と家族員数

いる.このうち4件の別棟をとる隠居の場合,息子達とは別の世帯として住民票に登録してお り,従って,部落会費を出し部落の常会にも出席している.そして,食事は息子達とは別にし てはいるが,仏壇は息子の家にあり,家計,財産等は息子と一緒である.従って,まだ働ける 問は,息子の仕事を手伝ったりはするが,隠居の殆んどの人が老齢のため仕事はしていない.

なかには,畑を持っている人は自給用の野菜を栽培したり,あるいは,船を持っている人は, 時々水イカ漁に出ている.

次に部落における主婦の役割は,農家では,毎日夫とともに農作業や牛の飼育にあたるが, 漁家では,夫と一緒に漁に出る人はなく,また綱の修理も夫の役割であって,主婦はただ家事

に専念しているだけである.

次に,部落における婚姻年令を示すと,第12表の如くになる.この裏をみると早婚の人達も かなりみられるが,この人連はいずれも明治から大正生れの高齢者であり,最近の若い人達

(10)

は,殆んど出稼による島外での生活経験をしているため,一般にこうした離島や漁業村落に共 通してみられるような早婚のケースはない.

第12表婚姻年令

黄島における相続形態をみると,一般に,西南九州によくみられるような末子相続の慣行6) はみられず,長子相続をとっている.例えば,現世帯主の相続例33件の内,長男12件,次男11 件,三男3件,四男以下7件であり,次男以下は殆んど年長者の未婚時の死亡によるか,また

は,島外に就職して帰って来ないかのいずれかによっている.

現在,黄島における姓別戸数は,第13表でみられるように,かなり分散している.このこと 描,これまで離村していったケースを入れて考えても,当黄島部落では,離島のもつ生業基盤 の脆弱さと,就業の機会の乏しさの故に,分家を創出する余地がないことを意味している.

(11)

第15表姓別戸数(昭和48年現在)

ここで,本家‑分家関係を明かにすると第4図の如くになる.黄島におけるこれらの本一分 家問の関係は,経済的,その他の点からみても,本家が必ずしも優位を占めておらず,また本 一分家問で何か特別の機能を有しているということもない.葬姫をはじめ,家族的交際の次元

でも,部落における他の親類関係にある家と,さして違いはない.

第4図本一分家関係図

(数字は

鋸台以前 明 治 大 正 刀

(戦 前) (戦 後)

一 I I I

世帯番号)

<

>

<

X

>

ケ 山 t サ

<

>

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M

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COCO"^^**ct*"^

(12)

次に,黄島の通婚圏をみると,第14表の如くその殆んどが部落内姫である.このため,部落 における各家の問には,殆んどと言っていい程,親類関係にあり,従って,なかにはきわめて 強い近親婚もあり,例えば,現世帯主の場合, 4件のイトコ婚がみられる.こうした理由は, いわば外部社会と隔絶した村落であるということと,いまひとつは,生業基盤の脆弱さのため に,部落には殆んど階層差がみられず,従って,家格による通婿のへだてがないこともある.

しかし,最近では,部落の若者は全て島外に転出して行くため,部落内での婚姻をみることは できない.

第14表通婚圏(婚入のみ)

4.村落機構と部落内の集団

また,こうしたこととあいまって,近年の人口流出 とそれに伴う戸数の減少とともに,黄島における家関 係は,同族関係や親類関係といった枠内にとどまら ず,部落内の全ての家の問に親密な互助体制がみられ る.例えば,葬儀の場合をみても,部落の全ての人達 が参加して行われている.

黄島は昭和29年に福江市に合併し,部落会は町内会と名を改めている.町内会の構成員は, 世帯主である.この町内会は,現在,地域的に5組に分れているが,昔は, 10組から構成され ていたという.

町内会の運営は,会長・副会長各1名・審議員5名と各組の組長5名からなる役員によって 行なわれている.

かって,過疎化の波を受ける前の黄島では,こうした役員には各々の機能がみられ,まず会 長「一現在でも黄畠では郷長と呼ばれるが‑と各組の組長で種々の問題を協議して,それを 審議員の了解を得て,実行に移していたというが,現在では,これらの役員の間にその役割上 の違いはみられず,全て一緒に集まって協議し,審議している.部落の運営は実質的には殆ん ど,これら役員だけによって運営されているが,もしこれらの役員の問で意見の一致をみな い場合は,部落総会が開かれることになっている.しかし,部落の人達は部落の自治・行政の 全てをこの役員に‑任している形になっているため,部落総会が開かれることは余りない.

部落におけるこれら役員の任期は1年で,毎年1月31日に総会が開かれ,そこで選出され ている.かっては,黄島においては,こうした部落の役員は,一般に,部落の有力者によって 占められており,大浜村に属していた頃には,部落から村会議員も3名程出していたといわれ

るが,こうした過疎化した現在では,役員のなり手がない.例えば,ここ数年の会長(郷長) は,去年を除いて,部落にある寺の住職がそれを兼務しているという状況である.従って,こ

(13)

のような状況下にある黄島では,一般にわが国の伝統的な村落にみられる共同体規制は殆んど 見当らない.

次に,部落の財政は,毎月各戸から350円の部落会費によって運営されている.

部落の共有財産としては,かって大浜村に属していた頃から,大浜地区(福江島)に部落有 林を有しており,これが部落共通の出費にあてられる.例えば,昭和43年の九州電力による配 電工事や,部落にある小・中学校の造成などの公共事業の場合の地元負担金がそれから支出さ れている.

黄島においては,大浜地区にある山林を除いて,部落の共有財産がないこともあって,部落 の共同事業も殆んどみられない.部落の共同事業としては毎年ということではないが,松喰虫 防除のために部落にある松林の伐採を行う程度である.この時は各戸から1人ずつ出て松切り にあたる.しかし,この松切りには,市から1戸当り数千円程度補助があり,その一部は部落 の運営費にまわされている.

現在,黄島における社会集団としては,先述した,漁業協同組合,畜産組合以外に,婦人 会,若葉会(老人会) ,育成会(P・T・A) ,消防団があるが,若年層の欠如のため,青年 団は消滅している.従って,部落には,もはやわが国の原型的漁村の構造原理とも考えられる 年令階梯による集団(年令集団)はみられない.なお,こうした社会集団の会長及び役員は各

々の集団によって異なっている.

婦人会

黄島の婦人会は,昭和37年に,それまでの黄島郷婦人会から福江市婦人会に合併し,現在 は,福江地区の19斑に属している.

この婦人会の会員の資格は,既婚の65才以下の女性であり,会員は現在54名で, 8班に分か れている.婦人会の役員は,会長・副会長各1名,理事2名,監事1名,各班の斑長8名の計 13名から構成されている.

この役員の任期は2年で,全会員による選挙で選出されている.

部落における婦人会の活動としては,年間32時間,婦人学級を公民館で開く.この他,毎週 日曜日に小・中学生と一緒に町内の清掃を行なったり, 9月15日の敬老の日に催される若葉会 の行事の手伝いや敬老会にも出席できない程の老人達の慰問を行なっている.

部落の社会集団の中で,この婦人会が最も活動的な集団といえる.

若集会

この若葉会というのは, 60才以上の男女からなる部落の老人会の組織であり,昭和40年頃か ら発足したものであるという.若葉会の活動としては, 9月15日の敬老の日に,催しを行なう 他, 11月には,婦人会の主催で敬老会が行なわれ,このときは,市より記念品を授与された

り,レコードを聞きながら,碁を打ったり,御酒を飲んだりして, 1日を楽しんでいる.若葉 会の予算は,国からの年2万円の補助金によってまかなわれている.

(14)

消防団

黄島の消防団は,現在,福江市の18分団に所属しており,団員は男子がいる家からは全て出 ることになっており,役員は,団長・副団長各1名の他,班長3名からなっている.消防団の, 活動としては,年に1回の出初め式以外に,福江市消防団本部の指導で,年2‑3回程演習が 行なわれる他は特にない.

育成会

育成会はいわば小・中学校のP・T・Aにあたる.黄島には,明 治7年から分校がおかれ,現在は福江市立黄島中・中学校となって いる.第15表からも明かなように,かっては児童数が約200名居た が,昭和46年度現在では,小・中学生合わせて,わずか42名しかい ない.ある意味で,本表は,黄島の過疎化の進展を物語るものであ る.

こうした,児童数の激減に伴い,部落では,児童をもつ親だけの 父兄会ではあまりにも無力であるため,児童をもつ親だけに限ら ず,部落の人全部で,育成会をつくり,小・中学校を援助してい る.

5.祭紀と年中行事

黄島には,四季を通じ各種の祭妃,行事があるが,こうしたムテ 行事は,一般に部落の生活構造に即応しており,部落における共同生活に一定のリズムを与え るものである.こうしたムラ行事は,これまでその殆んどが青年達によって,担われてきた が,しかし,いまや,黄島では,その担い手たる青年層の島外‑の流出のため,こうした年中 行事のもつ機能も次第に衰弱してきている.

現在,部落においてみられる年中行事を例示すれば,凡そ次のようである.

(4)弘法大師の供養祭

旧暦の3月20日と21日に行なわれ,この時は部落の人達は,部落にある延命院の御堂に 集まり,御経を聞く.この祭礼の接待の準備には信者衆4 ・ 5名と部落の人達のなかから 14名があたり, 5人の壇家総代が責任者となる.かっては,壇家総代も部落の有力者 によって占められていたが,終戦頃から3年に1回,常会での選挙によって選んでいる.

なお,この祭礼の予算は,事前に各戸から<報謝>の形で寄付が集められている.

(ロ)祇園祭

この祇園祭は旧暦の6月14・15日の両日に行なわれ,この祭りは黄島神社の境内にある

八坂神社の祭礼である.

(15)

14日は前夜祭で,部落のI家(農家)が代々神官役をつとめており,氏子総代の準備に よる酒・肴を村人全部で飲み食いするのである. 15日は,福江f田こある八幡神社の神官が 来島し,この日は部落の人達は御輿をかついで村内を一巡する.またこの日は,男の子供 達は,鬼の仮面と衣装を着て,部落の女児を追い回す光景がみられる.

この御輿のかつぎ手も,青年層の島外流出のため,現在では50‑60代の老年層に代っ ている.

この祭礼には,部落の氏子総代が祭りの責任者となるが,この氏子総代も,現在では, 3年に1回の選挙によって選出される.

O盆

黄島の盆は,旧暦の7月13.14・15日にあたり,この時は,島外で生活している人達も 部落に帰って来るので,部落の人口は一挙に3倍程にふくれあがるという.

このお盆の間は,各家の燈ろうに明りをつけて各々の家の墓には捉燈を用意して13‑14 日には墓にろうそくを1本, 15日にはさらに2本をつけて先祖の霊をむかえる習Lである という.

現在,過疎の波をうけ,衰退の一歩をたどっているこの部落も,盆の時には,かっての にぎわいを見せる.

(I)黄島神社祭

この祭礼は新暦の10月15日にあり,祭の内容は,先の祇園祭と全く同一である.

おわりに

以上,過疎化の影響を顕著に受けている離島村落,それも離島の離島ともいうべき村落の実 態を明かにしてきた.

現在,わが国を席巻している過疎化現象は特にこうした離島やあるいは山間僻地ほどひどい といわれる.この理由は,いうまでもなく,こうした場所は,通勤兼業ができないばかりでな

く,出稼によってもその地域での生存が容易ではないからである.

この黄島部落の実態を通してみても,村落生活の機能は各所において衰退してきており,例 えば,一般に村落においては,役職とか家柄が一応の階層標示になりうるが,この島にはもは やそういうことはないし,また,わが国の伝統的な村落のもつ生活共同体としてのまとまり

(統合性)はみられない.

安達生恒氏によれば,こうした過疎化のプロセスは次のような図式によって示されるとい う(7).

人口・戸数の急減増晶完鳥芳書住民意識の後退‑集落の消滅

この図式からも明かのように,人口流出が村落生活のあらゆる面にわたる機能衰退を規定し

ており,行きつくところは集落の消滅である.しかし,現在の黄島をみると,村落生活の機能

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を崩し,麻捧してしまう程の状態ではないが限界ぎりぎりの状況である.

部落の人達にとって,現在,最も渇望している問題として,水道と医療をあげている.しか し,この水道と医療の問題がたとえ解決されたとしても,今後の黄島は,こうした過疎化の行 きつくところの集落消滅‑の可能性はなくならない.

(1)今野幸彦, r日本の過疎地帯J p. 12

(2)給与所得者の内訳は,渡海船の船員3名,漁協の事務を兼務する組合長1名,九州電力の事務を受 請っている人1名,牧場の事務員1名である.出稼者は3名で,このうち1人を除いて,ほとんど 1年中家をあけての出稼である.なお,これら3名の出稼先は, 2名が名古屋の紡績工場と1名が 愛媛県下の貨物船の乗組員となっている.

(3)この共同定置網の出資者は,富江・黒瀬・大浜・黄島の各漁協と大洋漁業とある個人から構成され ており,配当は組合員数の割合によって分配され,黄島は総水揚高の6.45」の配当をうけている.

(4)長崎県のイセエビの漁獲高の約1割を占めている富江の刺網漁は三重網目を使用しており,又,嵯 峨野島では二重網目を使用している.

(5)イセエビ漁はその習性からか,かえって天候が悪く,海がしけた時の方がよくとれるという.

(6)内藤葉蘭『西南九州の末子相続』塙書房1971年.

竹田亘r家をめぐる民俗研究』弘文堂昭和45年参照.

(7)安達生恒「過疎の実態」ジュリストNo. 455 1970年7月15日号p. 23

参考文献

安達生恒「過疎の実態」ジュリストNo. 455 1970年7月15日号.

今井幸彦『日本の過疎地帯」岩波書店1968年.

掛谷誠「小離島住民の生活の比較研究‑トカラ列島,平島・悪石島‑」民族学研究Vol. 37 No. 1 1972年.

川越淳二・後藤和夫編F村落』川島書店昭和45年.

竹内利美編r下北の村落社会』未来社1968年.

中野正大「離島の社会構造一五島列島・六島の場合」ソシオロジ58号Vol. 18 No. 2 1973年.

野口武徳「小離島社会の村落生活と変化」民族学砺究Vol. 32 No. 2 1967年.

原子令三「嵯峨島漁民の生態人類学的研究」人類学雑誌Vol. 80. No. 2 1972年.

米山俊直r過疎社会』 NHKブック昭和44年

〔付配〕

本調査は昭和48年8月に行なわれたものであり,資料の殆んどは観察及び聴取りを通して集められた ものである.調査の遂行にあたって,一緒に同行して頂いた長崎大学学生未開健司,中村徹,村岡幹夫, 山崎倉俊君と調査のさいに色々と御世話になった黄島部落の会長で住職である清水利窮氏に厚く御礼を 申し上げたい.

なお,本稿の作成にあたって,貴重なコメントを頂いた長崎大学教養部助教授梼原直樹氏に改めて感 謝の意を表する.

(昭和48年9月19日受理)

参照

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