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デュルケムにおける宗教社会学の展開

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

デュルケムにおける宗教社会学の展開

著者 小笠原 真

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 34

号 1

ページ 65‑85

発行年 1985‑11‑25

その他のタイトル Le Deroulement de la Sociologie Religieuse chez Durkheim

URL http://hdl.handle.net/10105/2201

(2)

デュルケムにおける宗教社会学の展開

小 笠 原    真 (奈良教育大学社会学教室) (昭和㈲年4月24日受理)

I は じ め に

本稿は、フランスの社会学者であって、現代社会学の創始者の一人とみなされているエミール

EJ

・デュルケム(Emile Durkheim, 1858‑1917)の宗教社会学(sociologie religieuse) 念の ためこの言葉はデュルムケムの提唱したもので、彼が樹立した『社会学年報』 (JJAnnie socio‑

logique)の第1巻(1898)に現れたのが嘱矢である(1) を正面から取り上げ、その所論の骨子 を出来るだけ彼の社会学理論との関連において把握することにある。そのためにまず私は、デュ ルケム自身が社会学に一個の独立科学としての形態を与えようと企図し、その対象を社会的事実 (fait social)として捉え、しかもそれを物(chose)として取り扱う客観主義の立場に立って、

社会学主義(sociologisme)を強調した『社会学的方法の規準』 (Les R也les de la mSthode sociologique, 1895)という著書によって、彼の社会学の基本的性格を把捉しておきたい。次いで 私は、彼が学問活動を開始した時からすでに宗教的関心を懐いていたといわれるように、 1886 年から翌87年に至る二つの書評、具体的には86年の『哲学評論』 (Revue philosophique, XXII) に発表した「社会科学の諸研究」 (Les etudes de science sociale)の中で、イギリスの社会学者 スペンサー(H. Spencer, 1820‑1903)の『社会学原理』 {Principles of Sociology, 3 Vols., 1876‑96)中の「教会制度」 (Ecclesiastical Institutions)について批判した部分と、 87年に同じ く『哲学評論』 (XXIII)に発表したフランスの哲学者ギヨー(J.M. Guyau, 1854‑1888)の『将 来の無宗教‑社会学的研究‑』 (JUlrreligion de V avenir:Hude de sociologie, 1887)につ

いての書評をはじめとして、彼の学位請求論文でもあった処女作『社会分業論』 (De la division du travail social, 1893)や、その4年後に公にした著書『自殺論』 (Le Suicide, 1897)、さら には『社会学年報』第2巻に掲載した論文「宗教現象の定義」 (De la definition des pheno‑

mとnes religieux, 1899)や、第三者が要約したものではあるが、 『哲学評論』 {Revue de philo‑

∫ophie, 7, No,5, 7, 12)に掲載されたソルボンヌ大学における講義録「宗教‑その起源‑」

(La religion : les origines, 1907)、そして晩年における宗教現象の厳密な意味での社会学的研究 を目指した大著『宗教生活の原初形態』 (Les Formes elementaires de la vie religieuse, 1912) などへと、書評、論文、著書等を重ねていく過程で、デュルケム自身がその宗教社会学をどのよ うに展開していったかを明らかにすると共に、彼の社会学がなぜに宗教社会学に収赦していった かをも併せて解明してみたい。続いて本来ならば、デュルケムの下に形成されたデュルケム学派 ないしフランス社会学派の人々が、彼の宗教社会学をどのように継承し、発展させていったかを も考察すべきであるが、(3)本小稿では紙数の関係もあってその点は割愛せざるを得ない。そして 最後に、デュルケム宗教社会学にみられる問題点・疑問点を若干指摘して結びに代えたい。

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(3)

3S

小笠原   其

Ⅱ デュルケム社会学の性格規定‑特に『社会学的方法の規準』を中心に‑

さて、デュルケムが学問的生活を始めた頃は、フランスが普仏戦争における無残な敗北を契機 として、第2帝政から第3共和政へと推移した直後であったから、この時代のフランスは、その 歴史における混乱時代の一つに属していて、古い知的及び社会的伝統は敗戦と共に脆くも崩れ去 り、それに代る新しいものをもたぬ状態にあった。それ故、この混乱した社会に新しい秩序を与 え、伝統を断たれた生活に新しい規準を与え得る学問こそが、正に社会学であるとデュルケムは 考え、かつそういう期待の下に、それ‑一歩足を踏み入れたわけである。あたかもそれは、社会 学の学祖コント(A. Comte, 1798‑1857)がおよそ半世紀前に、フランス革命後の精神的危機か

らヨーロッパを救済しようという使命を自らに課したのと極めて類似する。そして、このように 確かにコントとデュルケムの間には、実践的関心として「社会の再組織化」を社会学に期待した 点では酷似するけれども、両者の社会学には次の如き本質的な差異も存在することを見落として はならない。それは、デュルケム亡き後、その遺著『社会学と哲学』 (Sociologie etphilosophic, 1924)を出版するにあたって、彼の門弟ブ‑グレ(C. Bougl芭1870‑1940)が書いた「序文」の中 に明瞭に示されていることであるが、 「デュルケムはコントの遺業を続けるためには、まずその 研究範囲を限定し、特殊研究をする必要を感じた。社会学はすべての科学に要求されている法則 に従い、客観的研究だけでなく、なお特殊題目の研究を積んでいかない限り、進歩し得るもので はないとした。先覚のコントは壮大なる野心に引きずられ、一般的意味での人間性ということを 好んで述べている。彼は社会の種々の型、進歩の種々の型の間にまず区別を設けるべきかどうか

は問題としないで、直ちにその大胆な綜合の中にすべての種類の社会的事実を包括したのであっ た」(4)ということである。さて、このようなデュルケム自身が懐いた問題意識に正に正面から答 えようとしたのが、以下に詳細に検討しようとする彼の『社会学的方法の規準』 (Les Regies de la methodesociologique, 1895)である。それ故、デュルケムのこの『規準』なる著書は、 「デュ ルケム学派の指向書であり骨導書であり、更に言うなれば聖典なのである」(5)といった表郷こも 端的に示されているように、正に彼の社会学の性格規定を認識する格好のものである。

さて、いかなる学問でもその研究者がまず第1に定めねばならぬものは、その対象である。研 究の対象が定まった後初めてそれを取り扱う方法が定まってくる。社会学とて決してその例外で

はない。そこで、デュルケムが『規準』の第1章「社会的事実とは何か」の冒頭で、 「いかなる 方法が諸社会的事実の研究に適合するかを探究するに先立って、いかなる事実が社会的と呼ばれ

° ° ° ° °

るのであるかを知る必要がある」(6)と述べ、社会学固有の研究対象であるところの「社会的事実」

(fait social)の確定に努めている箇所にまず注目してみたい。するとそこでは、デュルケムは社 会的事実を具体的には一定の「行為・思考・感覚の様式」として捉えると共に、さらにそれを、

(1)法律規定、道徳規範、宗教教義、金融制度等々の制度化された行為・思考・感覚の様式、 (2)一 つの集会の中に生じる熱狂、憤激、憐情などの大きな感情や世論の諸運動のように、 「社会的潮 流」 (courant social)とも呼ばれるいまだ固定せぬ行為・思考・感覚の様式、 (3)社会を構成する 基本要素的な諸部分の数や性質、それらの配置の様式、それらの達している融合の度合、特定地 域上の人口分布、交通路の数や性質、居住の形態等々の社会構成に関する事実、の三種に細分す る。そして、前二者をいわゆる個人の行為や思考に枠を与えるもの、すなわち社会の「行為様式」

(maniとresdefaire)と考え、生理学的部類の社会的諸事実と呼ぶ。これに対して第3のものは‑

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見すると前二者と違うようであるが、究極的には同性質のものに過ぎず、研究上ただ社会の基体 として別に考察するのが便宜的だとし、それらを社会の「存在様式」(mani占resd'etre)と考え、

解剖学的もしくは形態学的部類の社会的諸事実と呼ぶ(7)

。このように区別した後、彼は生理学的

部類の社会的諸事実を研究する部門を「社会生理学」(physiologiesociale)‑これは宗教社会 学、道徳社会学、法社会学、経済社会学、言語社会学、芸術社会学の6部門をもって構成される(8)

°°°°°

‑と名付け、解剖学的ないし形態学的部類の社会的諸事実を研究する部門を「社会形態学」

(morphologiesociale)と命名する。そして、デュルケム自身最初は社会形態学を重視したけれ ども‑「唯物論者」という賂印を押されるのを恐れて、とフランスの社会学者キュヴィリエ(A.

Cuvillier,1887‑1973)が辞している点(9)の真偽の程はともかくとして‑、やがて社会生理学 わけてもその中の宗教社会学に重点を移していったのである。なお、彼が社会学理論の歴史、方

°°°°°

法論及び前記二部門つまり社会生理学と社会形態学の理論的綜合を図る「一般社会学」(sociologie generate)を、究極において企図していたことも、ここに付記しておきたい(10)

次いで、デュルケムが個人主義と心理主義とに依拠する功利主義‑直接的にはスペンサーの それ‑を狙上にのせ、その説く個人的欲望の主観性と自発性とを批判することによって、正に 功利主義と正面から対決しつつ、他の諸々の事実から社会的事実を弁別するための外的標識 (signesexterieures)として、「外在性」(exteriorit芭)と「拘束性」(contrainte)とを挙げている点 に止目してみたい。そこで、第1の個人意識に対する社会的事実の外在性というのは、次の二つ の相互に関連する意味を有する。つまり一つは、あらゆる人々は既にきっちりした組織や構造を 持つ進行しつつある社会に生まれ、この社会が彼の性格形成の条件となる。それ故、「宗教生活 の諸信仰及び諸慣行は、信者がそれらを出生と同時に既成物として発見したものである。だから、

もしそれらが彼に先行して存在していたとすれば、それはそれらが彼の外部に存在しているから である」(ll)といった表現も生まれてくるわけである。残る一つは、いかなる個人も社会を構成す る諸関係はどの個人が作ったものでもなく、諸個人間の多彩な相互作用から構成される。つまり、

「私が私の思想を表明するために役立てる諸記号の体系、負債を支払うために使用する貨幣制度、

商取引関係の中で用いる信用手段、職業上従っている慣行等々は、私がそれについて作りあげて いる習慣からは独立して機能している」(12)と。そして、デュルケム自身がこのような見解を焼い た根底には、社会をもって集合意識を有する一種の超個人的存在とみなす、フランスの社会学者 エスピナス(A.Espinas,1844‑1922)の理論を摂取した反面、当時同国における論敵であった タルド(J.G.Tarde,1843‑1904)の、社会を諸個人間の心の関係として生起するものと考え、

それを研究する社会学を「間心理学」(interpsychologie)とした見解を退けたことがある。では、

第2の社会的事実の属性たる「拘束性」とはいかなる意味内容のものか。社会的事実は前述した 如く一定の行為・思考・感覚の様式であって、それは個人の欲すると否とに拘わらず個人を制肘 するような、一種の命令的または強制的な力を賦与されたものとデュルケムはみなす。そして、

「この強制は、私が自らの意志で進んで同調する時には全くあるいは殆ど感ぜられず、したがっ て用をなさない。けれどもそうだからといって、この強制がこれらの事実の内在的特質でないと いうことにはならない。もし私が法律の諸規定をあえて犯そうとするなら、それらは私に対し反 作用して、それが適当な時機であれば私の行為を中断せしめ、行為が完了ししかも回復しうるべ き場合には、それを無効にLかつ常態に復せしめ、行為がどのようにも回復することの出来ぬ場 合には私にそれを賠償せしめる」(18)と彼が記述するように、法律、慣習、制度等の有する社会的 拘束とは区別され、いわゆる道徳的拘束であって、それの存在性が示される。しかも、デュルケ

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小笠原   真

ムはそれを「集合意識」 (conscience collective)と呼ぶのであるが、といってそれは個人意識に 還元することが出来ない、とみなす。要するに、それは諸個人意識より合成されたものではある が、一度集合意識となったものには、別の性質が付与され別の基体をもち、かえって個人意識に 拘束を加える。その関係は、化合物がこれを形成した諸元素と異なる性質を得るのと同様である、

と彼は考える。そして、このようにデュルケムが拘束を強調する裏には、明らかに社会的事実を 個人的・主観的なものに還元し去る功利主義に対する対決がある。なお、ここで社会的事実の属 性の一つたる「拘束性」に関連して、次のことを付記しておきたい。それは、社会の個人に対す

° ° ° °

る拘束力は社会によって異なるところから、 「社会類型」 (types sociaux)の設定が彼の社会学の 基本的方法原理となっている点である。別言すれば、彼の社会学は社会的事実が個人に及ぼす拘 束の様式を社会類型を通して考察するところに成立するのである。しかし、このような社会類型 を設定し得るためには、その基礎として具体的な諸社会の分類が可能でなければならない。ここ に「社会種」 (espさce sociale)の概念が導入されるのである。具体的には、デュルケムによれば 社会種という概念は、歴史家たちの唯名論と哲学者たちの極端な実在論との一つの中間項、換言 すれば、鐙綜した多数の歴史的諸社会と唯一のしかし理念的な人類の概念との問の媒介的なもの であって、ある程度ドイツの社会学者マックス・ヴェ‑バー(Max Werer,1864‑1920)のいう

「理念型」 (Idealtypus)と共通的性格をもち、何よりも「それ自体でまた数の多少とは無関係に 一つの価値、一つの科学的利益をもち得るような、決定的なあるいはベイコンのいわゆる決裁的 な諸事実」(14)を意味する。そして、この場合「歴史はある制度の構成要素が時間内で逐次に発生 することを示すから、歴史だけが制度をその構成要素に分解させることが出来る」し、また「歴 史は各要素をそれが発生した綜合的状況に置くことによって、それを促した諸原因を決定する唯 一の手段をわれわれに提供してくれる」ので、歴史こそ「事実これに通用出来る唯一の説明的な 分析方法」であって、それ故にデュルケムは社会形態学がその任務とする社会類型の設定にあた

って、 「常にまずその最も原始的で簡単な形態に漸り、その当時この形態がどのような特質によ って決定されたかを考察することに努め、次いでそれがどのようにして次第に発展し複雑化し、

どのようにして現在のような形態となったかを示さなければならない」(15)と考えるのである。

続いて、デュルケムはかく捉えた社会的事実をいかなる方法でもってアプローチすることを考 えたであろうか。本題に入るに先立ち、彼の方法の精神が事実の研究を嫌って概念の単なる遊戯 に終る精神の傾きからと、科学について余りに早急な余りに形式的なまた余りに非人間的な概念 を形作る精神の傾きとから、社会の研究を脱却させようとした点にあることを見逃してはならな い。このことは別言すれば次のことを意味する。つまり、従来の社会学や経済学は物ではなく, 多かれ少なかれ概念を取り扱っている。その三つの代表的実例として、デュルケムはコントの時 間における人類の進歩、スペンサーの協同とその強制的協同に基づく「軍事型社会」と自発的協 同に基づく「産業型社会」の区分、そしてイギリスの経済学者ミル(J.S. Mill, 1806‑1873)の 富の猿得の見解と価値の理論を挙げる。しかも、これらの概念はいずれも彼らの社会学及び経済 学の基本概念であるけれども、観察を通して実在から得られたものではなく、精神の純粋概念に 他ならない。そこで、デュルケムが『規律』で提唱した最も有名な命題が「社会的諸事実を物 (choses)として考察することである」。(16)なお、ここにいう物とは「観察に与えられるすべて、観察 に提供されるあるいはむしろ観察に強制されるすべてである」。(17)そして、現象を物として取り 扱うということは、科学の出発点を構成する与件(data)としてそれを取り扱うということであ る。社会的諸現象はそれらが再表現される意識的諸主体から切り離して、それら自体においてつ

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まり外在的物としてそれらを外部から研究しなければならないのである。要するに、このことは 言い換えれば、社会学における方法の基礎が観察(observation)にあることを意味する。それ故、

ここから『規律』の第2葦の標題「社会的事実の観察に関する規準」が導かれる。かくして、デ ュルケムは第1に「あらゆる予先観念(prenotion)を組織的に遠ざけねばならない」(18)と主張す る。そして、このような要請は今に始まったことではなく、古くは近世哲学の祖といわれるフラ ンスのデカルト(R. Descartes, 1596‑1650)の疑惑的方法や同じくイギリスのベーコン(F.

Bacon, 1561‑1626)のイドラ説も実にこれの適用に他ならない。だが、この規準は全然消極的 なものである。何となれば、社会学者は通俗観念の支配を脱して注意を諸事実に向けるべきこと を教えているに過ぎないからである。そこで、研究の対象を積極的に確定する必要が求められる ところから、彼は「共通的な若干の外部的特徴によって予先的に定義された一群の現象だけしか 決して研究対象に採ってはいけない、またこの定義に通う現象はすべてこれを同一研究中に包合 しなければならない」(19)という物的観察の第2の規準を挙げる。そして、物の外部がわれわれ に与えられるのは感覚によってであるから次のように言うことが出来る。科学が客観的たるため には、感覚なしに作られた諸概念からでなく、感覚によって作られた諸概念から出発しなければ ならない。換言すれば、科学はその発端の諸定義の諸要素を可感的諸所与から直接借りなければ ならない。けれども、感覚は主観的になりやすい。それ故「自然科学においては、感覚的所与の うち、観察者に余りに偏私的な危険のあるものを退けて、専ら十分な程度の客観性を示すものだ けを保持することが規準となっている。このようにして物理学者は気温や電気の与える漠然とし た諸印象の代りに、寒暖計や電位計の変化の可視的な表象を用いる。社会学者も同様の注意を必 要とする。すなわち、彼がその研究対象を定義するところの外部的諸特徴は、出来るだけ客観的

なものでなければならない」C20)とデュルケムは記述し、対象の考察をそれの外部的諸特徴を通じ て行うという方法を要請する。なお、この引用文にみられた彼の「感覚的所与のうち、観察者に 余りに偏私的な危険のあるものを退け」よという要請は、社会科学が認識の客観性を保つため には価値判断から自由でなければならない、と主張したマックス・ヴェ‑バーの「価値自由」

(Wertfreiheit)に連なるものであって、社会学における主観ないし仕界観の介入をはっきりと排 斥しようとするものであって、大いに注目される。そして、こうした外部的諸特徴が出来るだけ 客観的であるためにも、デュルケムは物的観察の第3の規準として、 「社会学者は何であれ、あ る種類の社会的諸事実の研究を企図するにあたっては、それらの個人的な諸表現とは別個のもの として現れてくる側面から、これを考察するように努めねばならない」(21)を掲げる。要するに、

以上のような社会的事実の観察に関する諸規準を基礎にして、デュルケムは社会学的方法を樹立 するのである。

さらに続いて、 『規準』の第3章を構成する「正常なものと病理的なものの区別に関する諸規 準」なる部分は、社会病理学を科学として構築するための規準設定にあてられており、ここでの デュルケムの議論は、彼の初期著作での問題関心とりわけ2年後に纏められた『自殺論』の構想 に繋がるものであるので、以下しばらく考察してみよう。さて、すべての社会的諸現象には二種 類の事実、つまり、かくあるべきとされる事実とかくあってはならないとされる事実、別言すれ

° ° ° ° °      ° ° ° ▼ ° °

は「正常なもの」 (le normal)と「病理的なもの」 (le pathologique)とが含まれる。正常な諸 寛象とは、各個の種の全範囲において一般的なものであって、それらはすべての個人においてで はないにしても、少なくとも彼らの大部分において見出されるものである。そして、一定の社会 種において最もしばしば繰返される形式と特質とを一つの全体、つまり一種の抽象的個物のうち

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小笠原   黄

に纏めあげて構成される図式的な存在に、 「平均的類型」 (type moyen)という名を与えるなら ば、正常的類型と平均的類型とは重なり合うのである。これに対して、病理的な諸寛象とは一言 でいえば例外的なものであって、少数の場合においてしかみられず、しかもそれらが現れている ところにおいても、多くの場合個人の生涯しか持続しないものである。この意味において、それ らは空間的にもまた時間的にも例外的であって、異常的(anomal)とも呼ばれる。また平均的類 型という標準から遠ざかったすべては病理的現象であるともいえる。しかも、人が健康及び病理 の状態を判断する規準は種によって異なり、また同一の種にあっても、もしその種が変化しつつ ある場合にはやはり変化することがある。それ故、純生物学的にみても、未開人にとって正常な ものは必ずしも文明人にとって正常なものだとはいえない。また、年齢に応ずる変化のようにそ れが一つの順序を追って変化することもある。社会においても同様であって,ある社会的事実は その社会の発展の局面との関係によってでなければ、一定の社会種に対して正常的だとはいえな い。ここにおいて、正常的状態と病理的状態との区別に関する規準が定式化され得る。日く「あ る一つの社会的事実は、その進化の特定の段階において考察された特定の種の諸社会の平均の 中に生じる時、その発達の特定段階において考察された特定の社会的類型に対して正常的であ る」(22)と。そして、 「実際、正常なものを異常的なものから区別することに益があるとすれば、

それは何はさておき実践に光を当てるためであることを忘れてはならない」(23)とデュルケム自 身記述するように、この区別を行う意図は、彼の実践的な学問観と大いに結び付いている。しか も、重要なことは「研究の最初にあたり、若干の例外的な場合は別にしても、諸事実を正常なも のと異常なものに分類し、生理学と病理学にそれぞれの領域を割り当てることが出来るようにす ることにある。次いで、ある事実が正常的とされ得るためには、その事実は正常的な類型との関 係において有用であるか、または必要であることが認められなければならない」(24)と主張し、彼 は病理学的研究に先立って、正常的な類型の研究を行うのが、研究の正しい順序であると考える。

Ⅲ デュルケムの宗教社会学(D一 特に『社会分業論』、

『自殺論』等彼の前半生の著作を中心に‑

さて、いよいよ本稿での中心テーマである「デュルケムにおける宗教社会学の展開」 ‑と分析 検討を進めて行きたいが、それに先立ってまず次のことを付記しておきたい。つまり、彼の家は 代々ユダヤ教の教師たるラビ(rabbi)の流れを汲んでいたので、エミールも初めラビになるため 旧約聖書、クルマット、ヘブライ語などを学んでいたが、やがてラビ‑の関心を失っていった。

また、一時カトリックを信仰していた女教師の影響を受けることもあったけれども、すぐに不可 知論者となり、終生これを通した。しかしながら、こうした経験が彼をして学問活動を開始した 時から既に宗教に対する強い関心を懐かせ、社会学者として宗教現象の研究に深い造詣を示す素 地ともなっていたことを。ところで、この論文は本稿冒頭にも記述した如く、 1886年から翌87年 にかけての二つの書評をはじめとして、 93年の『分業論』、 97年の『自殺論』、 99年の「宗教現象 の定義」、 1907年の講義録「宗教‑その起源‑」、そして晩年の大著『原初形態』など‑と、

書評、論文、著書等を重ねていく過程で、デュルケム自身がその宗教社会学をどのように展開し ていったかを、明らかにすることを意図している。そのために、まずこの節では特に『分業論』、

『自殺論』等の彼の前半生における著作での宗教社会学説を解明し、次節では特に「宗教現象の 定義」、 『原初形態』等の彼の後半生における著作でのそれを検討した方が、内容のみならず方法

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の面でも相応しいと考えられるので、そうすることにしたい。

そこでまず、デュルケムが宗教に関して最初に言及した箇所は、 1886年から翌87年に至る二つ の書評、具体的には86年の『哲学評論』 (Revue ♪hilosophique, XXII)に発表した「社会科学の 諸研究」 (Les占tudes de science sociale)の中で、スペンサーの『社会学原理』 (Principles of Sociology, 3 vols., 1876‑96)中の「教会制度」 (Ecclesiastical Institutions)を批判した部分と、

87年に同じく『哲学評論』 (XXIII)に発表したフランスの哲学者ギヨーの『将来の無宗教‑社 会学的研究‑』 (LIrreligion de L'avenir : etude de sociologie, 1887)に関する書評、におい てである。それ故、そこでの彼の所論の骨子を記述すべきであるが、書評はあくまでも書評であ って、正面切っての見解ではないところから、出来るだけ簡単に記述することにしたい。さて、

第1の1886年の書評においては、デュルケムはスペンサーの提唱した宗教進化論‑具体的には、

宗教の基本的観念を超自然に求めるアニミズム(animisme)こそその原初形態であり、精霊崇拝 が物質に移っただけのフェチシズム(fetichisme)‑物神崇拝を経て、自然物の人格化を特徴とす るナチュリズム(naturisme)へという進化図式‑を取り上げて、彼のいうようにアニミズム がナチュリズムに先行するというのもおかしいといい、また、ナチュリズムといえば全く未開人 たちが素朴にも文字通り誤って考えた粗野な隠職か、言葉の誤りによるものでしかないとも主張 する。しかしながら、デュルケムはこうした批判を加える過程で、一方で「法も道徳も社会の均 衡を確保し、それを周囲の条件に適応させることを目的としている。そして、宗教の社会的目的 もこれと同じでなければならない。そして宗教が社会学の研究債域に属するのは、宗教が社会に 対してこのような規制的影響力を行使する限りにおいてである。この影響力の本質が何であるか

を決定し、それを他と比較しその相違を明らかにすること、それこそ社会科学が自らの課題とす る問題である」(25)と記すと共に、他方で「宗教は法や習俗と同じく慣習の一つの形態に他なら ないのである。この宗教が他のものから最もよく区別されるのは、宗教がただ単に行為に対して ばかりでなく、意識に対しても強制されることである。宗教は行為に対して命令するだけでなく、

観念や感情にも命令を与えるのである。結局、宗教は信念つまり議論なしに容認され従われるあ らゆる信仰と共に始まるのである」(26)とも記述し、宗教は法や道徳と共に社会に対する規制力 を有するものとみなすと共に、その宗教の有する規制力こそ社会学の研究対象たり得ること、そ して、信仰(foi)こそが宗教の本質であることを強調する。だが、当時のデュルケムはいまだ彼 自身の社会学を体系化する以前に止まっていたのか、宗教を正しく「社会的事実」として捉えて もいないし、社会学の特殊部門としての社会生理学に触れることもなく、ただ法社会学、道徳社 会学と共に宗教社会学がそれの特殊部門として、確立し得ることを示唆しているに過ぎない。次 いで第2の1887年の書評においては、まず、デュルケムはギヨーが宗教を顕著な社会学的事実と して扱っている点を高く評価する反面、彼の見解が余りにも主知主義的傾向を帯びている点、別 言すれば宗教を知的体系として捉えている点に不満を示す。そして、その不満を述べる過程で評

°

者は宗教を知的体系としてではなく行動体系として把捉すると共に、この行動体系の性格が「義 務」 (obligation)にあることを明らかにする。次いで、ギヨ‑にとっては「宗教は第1には世界 を理解しようという要求、第2は社会的結合という二つの要因から生じている」と主張されるけ れども、デュルケムにあっては「第1にこの要因の順序を逆にし、社会的結合を宗教的感情の決 定的原因とするように要求したい」と批判され(27)また「社会的感情には二つの種類がある。

その一つは各個人を同僚たちの人格と結び付けるものである。それらは共同体の内部で生活の日 常的関係において表れている。例えば、われわれが相互間に感じる評価、尊敬、愛情、畏敬の感

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小笠原   真

情などがそれである。それらの感情をわれわれは個人間的であるとか社会内的と呼ぶことが出来 よう。第2の種類の感情は私を全体としての社会的存在に結び付けるもので、それらはわれわれ の属する社会と他の外国社会との関係において特に表れるもので、それらは全体社会的と呼ばれ る。‑‑この二つの類の傾向のうち、どちらが宗教の起源において役割を演じた感情であろう か」(28)と問題が提起され、ギヨーにとってはそれは第1の感情であるとみなされるけれども、

デュルケムにあっては事実はその反対であって第2の感情こそがその役割を演じていると反論さ れる。続いて、ギヨーにとっては、「道徳は宗教の中において発達したが、宗教はその保護的外 被となってきたのである。しかしこの保護の必要性はいつまでも続くのであろうか」と問いが発 せられ、その答えとして道徳の完全な実現は宗教の完全な消滅を前提としているが故に、「将来 の真の宗教、それは無宗教である」といわれる(29)

。だが、このようなギヨーの見解に対しても、

デュルケムにあっては「道徳が宗教から独立したのは今日になってであり、反対に起源において は道徳的・法律的・宗教的観念はすべて若干混乱した結合の中に混合していたのである。ただこ の結合の特性は何よりも宗教的であったのである。今日においてもなお世俗的道徳と並んでそれ とは著しく異なった、しかも断言的な宗教的道徳が存在しないであろうか」(30)と論駁され、そ こでは彼が後に強調した宗教こそ時系列的に最初の文化であることが示唆されると同時に、恐ら く道徳は宗教との完全な訣別は出来ないことが説かれている。要するに、以上考察してきたとこ ろと次節で彼の大著『原初形態』を解明する行間とを比較すれば明らかになるのだが、デュルケ ムがギヨーから受けた刺激は一口にいって極めて大きい、といわざるを得ない。

次いで、デュルケムの1893年に公刊され学位請求論文でもあった『社会分業論』(Deladivi‑

siondutravailsocial)‑と眼を転ずることにしよう。さて、デュルケムの処女作ともいうべき

『分業論』は、「実証科学の方法によって道徳生活に関する諸事実を扱う‑試み」(31)と彼自身規 定しているように、分業を「道徳生活上の事実」として把握し、「個人的人格と社会的連帯との 関係」を分業の進歩と結び付けて考察している点に、その特色を有する。すなわち具体的には、

°°°°まず彼の立論の基本概念をなす「社会連帯」(solidaritesociale)とは、いかなる意味内容のもの

°°であろうか。デュルケムはこの概念に個人の社会‑の依存状態別言すれば社会の「凝集」(cone‑

sion)の意味を付与している。そして、彼によれば社会連帯は二つの型につまり成員の「類似」

より生じるものと分業より生じるものとに分けられる。第1の類似による連帯は「一定数の意識 の状態が同一社会の成員に共同的であることにより生じる社会連帯」(32)である。そして「社会 的類似の総体」は「集合意識」となって出現するところから、それは何らの媒体もなく個人意識 を集合意識に、したがって個人を社会に直接的に結び付けるものである。それ故、類似による連 帯は集合意識がその数と強度とにおいて個人意識よりも優越していればいるはど強力であり、し たがってこのような連帯に与る諸個人は、あたかも無機物における諸分子と同様に、各自の個性 の欠乏においてのみつまり自己に固有な運動を行わない程度においてのみ全体的に運動し得るの

°°°°°

であり、この意味において類似による連帯は「機械的連帯」(solidaritとmecanique)と呼ばれ得 る。(33)これに対して、第2の分業による連帯は「限定された諸関係を通じて結び付いている多 様な特殊的諸機能の‑体系」(34)を通じて、換言すれば専門的諸機能の連関を媒介として、ただ 間接的に個人を社会に結び付けているに過ぎない。正に分業による連帯はこれに与る諸個人が相 互に相異なる固有な活動債域を有する時にのみ、換言すれば個性が伸張される時にのみ可能であ る。かくして、類似による連帯が集合意識の中に個性が投入する度合に応じて‑個人的人格に 逆比例的に‑形成されるに反して、分業による連帯は、それが各人の機能の専門化に依存する

(10)

以上集合意識に対して個人意識の占める分野が大であればある程‑個人的人格に正比例的に一 一強力に作用するといい得る。専門的業務はその性質上集合意識の作用から遠ざかっており、分 業の発達した社会では、集合意識は心理的生活の極めて限られた一部分に過ぎない。かくして、

デュルケムは分業による連帯はそれが高等動物において観察される連帯つまり諸器官の機能の特

° ° ° ° °

殊化によって有機体の統一が保たれている連帯に類似しているところから, 「有機的連帯」 (soli‑

daritとorganique)と呼んでいる。(35)そして、第1の類似による連帯は未開及び古代の社会のよ

° ° ° ° °

うに幼稚で環虫類に似た社会つまりデュルケムのいう「環節的社会」 (societ芭segmentaire)に、

° ° ° ° °

第2の分業による連帯は近代の文明社会すなわち彼のいう「組織的社会」 (soci芭te organisee)に、

特有のものであることが明らかにされると共に、前者から後者‑の推移が分業の増大による点が 強調される。しかも分業の増大は社会環境の二要素たる「社会の容量」 (volume de la scciete) 別言すれば社会単位である人々の数と「動的密度」 (densit芭dynamique)換言すれば単位空間当 たりの接触し得る個人の数の同時的増大によることが主張され、さらに、この著の初版に『高級 諸社会の組織に関する論文』 (etude sur I'organisation des societes superieures)という副題が 掲げられているように、現代社会に特徴的な有機的連帯が次第に優越してきたことが証明されて いる。ところで、このような所論を展開する過程で宗教をデュルケム自身はいかに把握するであ ろうか。アメリカの社会学者パーソンズ(T. Parsons, 1902‑1979)が「この作品はデュルケム の後の理論的発展にとって本質的な要素を、その粛芽形態においてではあるが、殆ど含んでい る」(36)と記述しているように、彼の宗教現象に関する社会学的研究とてその例外ではない。何 となれば、まず、デュルケムは「われわれは現に宗教の何たるかについての科学的概念をもって はいない」(37)と前置きしながらも、一方で「宗教は歴史の各時代を通じて常に人間と、人間が 自己の性質よりも優れた性質をもっている、とみなしている一個の存在または複数の存在との関 係についてのあらゆる信念と感情との総体であると往々いわれてきた。だが、このような定義は 明らかに不充分である。実際確かに宗教的な行為や思惟の規則にしても、全く宗教的でない他の 種類の関係にも適用されている規則は多数ある。宗教はユダヤ人に対してはある肉類を食べるこ

とを禁じ、ある一定の服装をすることを命じている。それは人間や物の本質、世界の起源に関す る一定の意見を強制している。それは非常にしばしば法律的・道徳的・経済的諸関係を規定して

fWi

いる。そこで、宗教の勢力範囲は正しく人間と神との交通の外にも及んでいる。また、少なくと も神なき宗教が存在していることも確かである」(38)と述べ、宗教を定義するのに神の観念をも ってする権利が最早存在しないことを示すと共に、他方で「すべての宗教的感情の如く一切の観 念が等しく表明している唯一の特性は、それらの観念が集団生活をしている若干数の個人に共通 であり、かつかなり高い平均強度をもっているということである。幾分か強力な確信が人々の同 一共同体によって分有されている時、その確信が不可避的に宗教的特性を帯びることは実際確固 たる事実である。その確信は意識に本来宗教的な信念と同じ畏敬の念を呼び起こさせる。そこで、

宗教がまた等しく共同意識の中枢部分に対応していることは非常に確実である」(39)と主張し、

宗教を共同意識の中枢部分と認識していることは、彼が宗教と社会との関係についての最後に到 達した結論的なものを予見しているかのように考えられる。次いで、デュルケムは機械的連帯が 基盤をなす社会つまり未開及び古代社会にあっては、 「宗教が社会生活全体に彦透しているとい

うことをわれわれは知っている。だがその理由はここで社会生活というものが殆ど専ら共通な信 念及び慣行一一その独特な強度は全員一致の粘着力に基づいている‑から形成されているとい うことである。古典的文献の分析だけでもって、われわれがここで語っている時代と全く同じよ

(11)

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小笠原   真

うな時代にまで減ることによって、フエステル・ド・クーランジュは次のことを発見したのであ った。それは社会の原始的組織が家族的性質のものであったこと、また他方原始的家族の構造が その根底に宗教をもっていることがあった」(40)と述べ、宗教の特性が社会的統合の機能である 点を示唆し、また「歴史に照らして疑うべきもない真理があるとすれば、その真理とは宗教が社 会生活を包含する債域をますます減じている傾向があるということである。最初宗教は全体に広 がっている。すなわち、社会的なものはすべて宗教的なものであり、この二つの言葉は同義であ る。その後、政治的・経済的・科学的諸機能は次第に宗教的機能から解放されていき、独立した 立場をとり、漸次はっきりとした世俗的特性を帯びるようになったのである」(41)と主張し、後 の『原初形態』にも強調されている宗教の背後に社会をみる見解や、人類の文化体系が宗教を原 文化として時系列的に派生してきたとする見解等が、既に『分業論』にことごとく用意されてい

るのである。

続いて、デュルケムの1897年の著書『自殺論‑社会学的研究‑』 {he Suicide: etude de sociologiesへと検討を進めて行くと、そこでは1895年の『規準』で確立された彼の社会学的方法 が通用され、自殺現象の決定的要素が研究され、それが心理的、人種的条件によるものではなく、

むしろ根本的には社会的原因に帰せられるものであって、あらゆる社会がその社会的形態の構造 によって一定の自殺への集合的可能性のあることが主張されている.すなわち幾分具体的には、

彼は自殺を惹き起こす流れの実証的な分析を通して、自殺を「利己的自殺」 (suicide egoi'ste)、

° 4 ° ° °       ° e ° ° ° ° °

「愛他的自殺」 (suicide altruiste)、そして「アノミー的自殺」 (suicide anomique)の三類型に 分ける。そこで、まず第1の「利己的自殺」とは、社会の凝集力が弱まると個人は容易に社会生 活から離脱して「過度の個人主義」に陥るが、この「利己主義」はその個人に生活の目的と根拠 を見失わせ、 「反省の無限病」、 「沈轡と幻滅の流れ」に取り付かせて、生への意欲を弱めていく ところに生じるものである。この種の自殺率は宗教団体、家族、政治社会の凝集性ないし統合性 に逆比例する。今その点を特に宗教団体において考察してみると、自殺の発生率からみるとプロ テスタントが多数を占める国々や地方(プロイセン、ザクセン、デンマークなど)ではこれが相 対的に高く、カトリック教徒が多数を占める国々(スペイン、ポルトガル、イタリアなど)では 反対に低いということが統計から知られる。では、このデータを解釈するにあたって、デュルケ

ムは一方で教義の問題に帰すことが出来ないとして、 「二つの宗教体系は、いずれも変らずには っきりと自殺を禁じているのだ。両者とも自殺を特に厳しい道徳的な処罰の対象としているばか りではなく、等しく来世では新しい生が始まり、そこでは人間は現世の悪業によって罰せられる と説いている。そして、プロテスタンティズムもカトリシズムと全く同様自殺をこの悪業の一つ に数えているのである。その上どちらにおいてもこの自殺の禁止はある種の神聖な性格を帯びて いる」(42)と述べると共に、他方でカトリシズムとプロテスタンティズムの教会の社会学的構造 のある著しい相違、つまり「後者の方が前者より相当広範餌の自由検討(libre examen)を認め ているという点」(43)に求め、 「一度自由検討が公に主張されれば、それが教会の分裂に拍車をか けることは確かであるが、自由検討が教会分裂を前提とし、教会分裂から生じてくることを忘れ てはならない。つまり、自由検討というものは専ら潜在的なあるいは半ば公然たる教会分裂を自 由に進展させるために、一つの原理として要求され制度化されたものだからである。結局、プロ テスタンティズムがカトリシズムよりも個人の思惟に大きな地位を与えていたのは、プロテスタ ンティズムにはカトリシズムほど共通の信仰や儀式が多く備わっていないからである。 ‑‑‑宗教 的性格を帯びた、それだけにまた自由検討に反するような行動様式や思考様式が数多く存在すれ

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ばするほど、一層神の観念は生活の隅々までいきわたり、それによって個々人の意志もただ一つ の同じ目的に集中するようになる。反対に宗教団体が個人の判断にすべてを委ねていればいるほ ど、それだけ個人の生活に対する支配が欠け、集団としての凝集性も活気も失われてくる。そこ で次のような結論に達する。すなわち、プロテスタンティズムの方に自殺の多い理由は、プロテ スタントの教会がカトリック教会はど強力に統合されていないためである」(44)と主張する。ま た、キリスト教わけてもプロテスタンティズムは前述した如くはっきりと自殺を禁じており、ユ

まさ

ダヤ教は「自殺を公に禁じていない正しく唯一の宗教である」(45)にも拘わらず、前者に比べて 後者が自殺率において低いのは何故か。その理由を説明して、彼は「この自殺の少なさは、彼ら の周囲の敵意に原田している。 ・・・‑それは敵意が彼らに一層高い道徳性を強いるからではなく、

彼らに緊密に連帯して生きることを強いるからなのだ。要するに、ユダヤ教徒が自殺から引き止 められるわけは、彼らの属している宗教社会がしっかりと塗り固められているからに他ならない。

‑‑‑ここではユダヤ教の信仰の本質そのものが、大きな原因をなしているはずである。実際、ユ ダヤ教はすべての原始宗教と同じように、本質的には生活の細部までを事細かに規制し、個人の 判断を殆ど容れない一つの儀礼体系からなりたっている」(46)という。次いで、第2の「愛他的 自殺」とはいわゆる未開人の自殺や現代の文明社会では軍人の自殺のように、自己犠牲の精神、

没人格主義の精神によって惹き起こされるものであって、第1の「利己的自殺」が「過度の個人 化」によるものであるのに対して、この種の自殺は正に「個人化の不足」に起因するものである。

さて、この愛他的自殺は現代よりも単純な社会では宗教形態をとっており、インドがその典型の 地であって、早くからバラモン教の影響によっても人々はたやすく自殺をしていたO例えば、仏 教は自殺を非としたとしても、人は生から逃れなければならないという観念が確かにその教義の 精神の中にあったし、またジャイナ教などにもこの観念が見出された。かくして、デュルケムは

「ジャイナ教は仏教と同じく無神論である。だが、汎神論は必ずしも有神論であるとは限らない。

汎神論の本質的な特徴は、個人の中に実在するものは個人の本性と何の係わりもないという観念、

個人に生を与えている霊魂は個人の霊魂ではないという観念、それ故個人は固有の存在はもたな いという観念などである。そして、このような教義はヒンドゥー教の基礎をなし、既にバラモン 教の中に見出される。反対に、存在者の本質がこうした教義の中に解消されないで、それ自体が 個人的な形態において理解されているような場合、すなわちユダヤ教徒、キリスト教徒、回教徒 などの一神教民族や、ギ])シア、ラテンなどの多神教民族の場合には、この形式の自殺は滅多に 起こらない」(47)と記述し、愛他的自殺と宗教的汎神論との間にある種の関係が存在することを 示唆する。そして、彼は結論として、 「汎神論が多少とも極端な個人の否定からなっているとす れば、このような宗教が成立し得るのは、実際に個人が無に等しいとみなされている社会,言い 換えれば、個人が全面的に集団の中に埋没している社会の内部においてでしかない。というのは、

ttomk

人間の自分の生きる小さな社会に象ってしか世界を表象することが出来ないからである。宗教的 汎神論はしたがって社会の汎神論的組織の一つの結果であり、いわば一つの反映に過ぎない。結 局、汎神論と結び付いて至る所に現われているこの特殊な自殺は、社会の汎神論的組織に起因し ている」(48)と考える。続いて、第3の「アノミー的自殺」とは、第1の「利己的自殺」と共に 現代における自殺率の増大をもたらしているもう一つの類型であって、急激な景気の後退や繁栄 の時期には共に自殺率が上昇するが、それはこの種の自殺に起因する。すなわち、これはそのよ うな危機によって集合的秩序が擾乱され、各社会的地位における欲求充足の上限と下限とを定め ていた規範、各社会的地位への人々の配分を司っていた伝統的準則が権威を失って、人々の欲求

(13)

76

小笠原   責

に対する規制作用が弱まり、個人が「欲求の無限病」に取り付かれるところに生じるので、「ア ノミー的自殺」と名付けられる。そして、現代におけるアノミー的自殺の増加を抑制する方策に ついて、デュルケムは「宗教は人々の自由な思惟を妨げる限りにおいて、初めて自殺傾向を緩和 することが出来るに過ぎない。だが、この個人的知性の差し押えは今後困難になるし、しかもや がてますます困難になると思われる」(49)と述べ、宗教が最早抑止力を失っていることを認めて いる。かくして、宗教の社会的統合力の欠如に対する対策として、彼はこの著の末尾の第3編第 3章「実践的な結論」において、職業集団(groupesprofessionels)の登場を要請するのであ る(50)

IVデュルケムの宗教社会学(2)一特に「宗教現象の定義」、

『宗教生活の原初形態』等彼の後半生の著作を中心に‑

さて、ベルギ‑の神学者ドゥブロワージェ(S.Deploige)は、デュルケムの知的所産が実はド イツからの借物であるということを、『新スコラ評論』(Revueneo‑scolastique,XIV,1907)に発 表したが、それに応えて、デュルケムが同誌の編集主任に送った書簡の中で次のような一文を書 いている。すなわち「私が社会生活において宗教が演じている本質的な役割について明白な見解 をもつようになったのは、1895年になって初めてである。この年初めて私は宗教を社会学的に研 究する手段を見出した。それは私にとって一つの啓示(revelation)であった。この1895年の講 義は私の思想の発表にとって区切りを刻むものであった。それは私のこれまでの研究に見直しを 求める程のものであった。新しい見地と調和させるためである。一一この転換は私が始めたばか りの宗教史の研究わけてもロバートソン・スミスとその学派に負うものである」(51)と。したがっ てそこでは、宗教に対する社会学的アプローチの開眼が1895年であったこと、そして啓示を与え たのがロバートソン・スミス(RobertsonSmith,1846‑1894)をはじめとするイギリス宗教史 派であったことが述べられている。否そればかりか、彼はまた「宗教現象に関する研究が私の研 究の中で非常に重要な位置付けをもっていることは周知の通りである。ところで、宗教について の学問は本質的にはイギリス、アメリカで始まったもので、ドイツ的なものではない。特にロバ ートソン・スミスやイギリス、アメリカの民族学者達の労作に負うところが大きいことを無視す ることは、われわれの思想の起源を全く誤らせるものである」(52)とも記述し、イギリスの宗教 史学派のみでなく、英米の民族誌家達も加えている。

だが、デュルケム自身が指摘する宗教に対する社会学的アプローチの開眼した1895年から、実 際には4年を経過した1899年に「宗教現象の定義」(Deladefinitiondesphenom芭nesreligieux) という論文を、『社会学年報』第2巻に発表した項から、いわゆる彼の宗教現象の社会学的研究 は本格化していくように思われる。

そこでまず、デュルケムの1899年の「宗教現象の定義」という論文を取り上げてみよう。する とそこでは、第1に彼のいわゆる宗教に関する初めての定義が明確に登場してくる。日く「宗教 的といわれる現象の本質は義務的な信仰と、この信仰において与えられる対象と関係する一定の 行事との結合にあるのである。宗教といえば、それはこうした種類の現象の多かれ少なかれ組織 化され体系化された全体である」(53)と。要するに、この定義は1893年の『分業論』の宗教を共同 意識の中枢部分と認識した、その共同意識の中枢部分が義務的な信仰と行事換言すれば集合的な 信仰と行事であることを明らかにしたものである。次いで第2に、「宗教は個人的感情ではなく、

(14)

集合的精神の状態を起源とするもので、後者、集合的精神の状態と共に変化するものであるとい える。もし宗教が個人の構成に基礎をもつならば、個人に対してこのように強制的な面をもって 寛われることはないであろう。また、直接われわれの自然的傾向に合致した行為または思考の様 式は、われわれが自分自身に対して認めるよりも優越した権威を付与されたものとして現われる ことはないであろう。それ故、宗教的現象の決定的原因は人間性一般の中に求めるべきではない のであるo それは宗教的現象が関連している社会の特質の中に求められるべきなのである」(54) と述べ、後の『原初形態』で強調される宗教の背後に社会をみる見解も、さきの『分業論』同様

° ヽ ° ° °       ° ° ° °

引き続き用意されている。否そればかりか第3に、事物を「聖なるもの」 (sacre)と「俗なるも の」 (profane)とに区別するのは神の観念ではなく、(55)聖なる事物とは社会そのものが表象を 推赦したものであるのに反して、俗なる事物とはわれわれが各々自己の感覚や経験の所与で構成 するものであるとして、 「聖なる事物とは、社会自体がその表象を練成してきた事物なのである。

そこには共同の伝統と感動及び一般的意義のある対象に関係する感情などあらゆる種類の集合的 状態が入り込んでいる。しかもこれらの諸要素は社会的心性の固有の法則に従って結び合わされ ている。これに反し世俗的な事物というのは、われわれ各人がわれわれ自身の感官や経験の所与 をもって構成するところのものである。それらについてわれわれが抱く観念は、何の混合物も入 らない個人的印象を素材としているのである。それ故にこそ、世俗的事物はわれわれの眼には聖 なる事物と同じような威信をもつことはないのである」(56)と強調している。

次いで、デュルケムは一方で『社会学年報』の第5巻に「ト‑テミズムについて」 (Sur le tot占misme, 1902)、同第6巻に弟子で甥でもあるマルセル・モース(Marcel Mauss, 1872‑1950) との共同執筆による「分類の若干の未開形態について」 (De quelques formes primitives de clas‑

sification, 1903)、そして同第8巻に「オーストラリア社会の婚姻組織について」 (Sur l'orga‑

nisation matrimoniale des societies australiennes, 1905)という諸論文を掲載すると共に、他方 で第三者が要約したものではあるが、ソルボンヌ大学における講義録「宗教‑その起源‑」

(La religion : les origines, 1907)を『哲学評論』に3回に分けて掲載している。そして、こう した諸論文や講義録が彼の宗教現象の社会学的研究‑宗教社会学の集大成たる原書で647頁に及 ぶ大著『宗教生活の原初形態』 (Les Formes elementaires de la vie religeuse, 1912) ‑と連な っていく。今その点を講義録「宗教‑その起源‑」において若干みてみると、この講義録の 内容は特に『原初形態』の前半の部分とかなり重複する箇所が多い。そうした中にあって特に注 目される箇所を二、三記述してみると、第1に、講義録の中で示された宗教に関する定義(第2 定義)は次の如きものである。つまり「宗教とは聖なる事物に関する信仰と行事の体系であるが、

それら信仰と行事は一定の集合体(collectivite)に共通のものである」(57)と。要するに、この第 2定義はさきにみた1899年の「宗教現象の定義」における第1定義よりも、遥かに1912年の『原 初形態』における第3定義に近いことが、後の『原初形態』の骨子を記述する箇所より判明しよ

う。第2に、講義録の中で「宗教」 (religion)と「呪術」 (magie)とを区別して、 「宗教と呪術 とが非常に明確に区別される特性がある。宗教的信仰はそれに帰依していると明言する集合体の 成員に共同であるO その成員が聖なる事物と世俗的な事物との関係を同一の仕方で表象している が故に、相互に結び付いている社会は、われわれが教会と呼ぶところのものである。そして教会 のない宗教はない。ところが呪術的信仰はこれとは全く異なっている。それらは非常に広く広ま ってはいるが、それを採用する個人を相互に結び付けることには決して役立っていないし、また それら個人を一つの集団に結合させることはない。呪術の教会は存在しないのである。呪術師、

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