埼玉大学紀要 教育学部
,5 6( 2 ):3 7‑47( 2 0 0
7)<ふれる>ということ 一根源的差異化の出来事‑
<ふれる>という多様性の統一
現在、私たちが用いている<ふれる>という こ とばには、<撮 れ る ( 震 れる) >とく触 れ る>という二つの意味の系統がある。前者は、
周期的運動を生み出す 「 撮動」や 「 震動」 をあ らわ し、後者 は、相互 的交流の場 に生 まれる
「 接触」や 「 感触」 をあ らわす とい うように、
それぞれのことばは異なる現象を示 している
。それゆえ、現代人の言語感覚においては、<振 れる ( 震れる) >と<触れる>のあいだの重な
りやつなが りが意識 されることはほとん どない。
しか し、<凝れる ( 産れる) >とく触れる>
の両者はともに下一段活用の自動詞 という共通 性 をもち、それぞれの前代のかたちである<振 る ( 震る)>と<触 る>は前者が四段活用、後 者が下二段活用 といったんは分かれるが、 さら に遡れば<触 る>もまた四段活用の古形 をもつ。
つ まり、両者はともに<ふる> ( 四段活用) と い う一語の大和 ことばを源に していたのである
。だ とすれば、少な くともある時期 までは、発音 においても活用において も同一の<ふる>とい う一語によって捉えられたなん らかのひとつの 意味があったと想定 して も、それは必ず しも根 拠のない空想だとは言い きれない。
<ふる>という大和 ことばによるその多様性 の統一が、現在のような<震れる ( 凝れる)>
とく触 る>に差異化 されるにあたって、 もっと も大 きな影響力を及ぼ したのは、ほかならぬこ
' 埼玉大学教育学部教育臨床講座
岩川 直樹 *
の差異化の表記を可能に している漢字の伝来だ った と推定 される。「 震」 と 「 撮 」 に共通す る
「 辰」 は、「 蜜 ( おおはま ぐり)」の貝が らか ら 出た内部のようにぴらぴ らとやわ らか くふるえ る様 ( 「 震」 と 「 振」の相対的な差異は、「 雨」
が 自然のなかの震 え、「 手」が人為 によって撮 ること) をあ らわすのに対 して、「 触」は 「 萄 ( かいこ)」が桑の葉を食べ るときのように、 自 分をその ものにつんと押 し当てる様 をあ らわす。
「 震動 ・振動」 と 「 接触 ・感触」 という現代語 の使い分けは、ほぼこの ような漢字の差異化 に 沿った ものになっている
。ここで思いを馳せてみたいのは、こうした漢 字による差異化が浸透する以前の大和 ことばに あった と考えられる、<ふる>という一語によ る諸現象の多様性 の統一である。か りに、「 震 れる ( 振れる)」 と 「 触 れる」 に通底する意味 があったとすれば、それはどの ような意味であ り、両者 を同一の現象の二側面 とみなす世界観 が成 り立つ とすれば、それはどの ような世界観 なのか。この小論はそこに思いを馳せている。
<ふれる ( 震れる ・振れる)>の古形
<ふる ( 震れる ・振れる) >ということばの 古形である<ふる ( 震る ・振 る) >の意味の核 に関 して、岩波古語辞典は以下の ようにように 説 き明か している。
物が生命力を発揮 して、生 き生 きと小 きざ
みに動 く意、 また、万物 は生命 をもち、その
発現 として動 くという信仰によって、物 をゆ り動か して活力 を呼び起 こす意。その信仰の 衰 えとともに、単に物理的な震動を与える意。
岩波古語辞典が ここで 「 信仰」 と呼ぶ<ふる ( 震 る ・振 る) >とい うことばの源泉 は、生 き 生 きとと小 きざみに動 くものに根源的な生命力 をみるひとつの世界観だ と言える。いのちある ものはすべて震動 ( 振動)するものであ り、震 動 ( 振動)す るものはすべていのちがあるとい うこの生命観 ない し宇宙観。 こうした 「 信仰」
は、無機物 ・有機物 をふ くめたあ らゆるものに 精霊の働 きをみるアニ ミズム ( 汎霊論)である と言えばそれまでだが、 ここではそれがあ くま で も<震動 ( 振動) >という現象 を中核 にした 汎震諭 とで も呼べ る特徴 をもつ ことに注 目して お きたい。
日本語の 「 いのち」の語源は 「 息 ( い)の勢 ( ち) 」であ り、 この場合 にも根源的生命力 とし ての呼吸は震動 ( 振動)現象にはかな らない。
風や波や地震の ように自ら震えるものにいのち の発現 を感 じていたひとびとは、人間をふ くめ たあ らゆるものの活力 を呼び覚 まそうとすると き、その ものを揺 さぶ り振 るわせた。人のいの ちに活力 を帯 びさせ るために行われたいにしえ の 「 魂振 り ( た まふ り ) 」 という行為 は、そう した生命観 ない し宇宙観 を端的に示 している。
<ふ る ( 震 る ・撮 る) >と同系 の<ふ るふ ( 震 るふ ・撮 るふ) >ということばもこれ と同 様である。岩波古語辞典によればこの ことばは
「 物が 自分の もつ生命力 ・活力 を発揮 して震動 す ることが原義。ついで、人間が持 っている活 動力のすべてをはた らかす意」であ り、いわば
「 震動 ( 振動) 」する存在がその 「 震動 ( 撮動)」
の揺れ幅や振れ幅 を最大限に して 「 いのち ( 息 の勢)」のあ らんか ぎりを発現す る姿 を示 して いる。その根底 にあるのは、「 万物 は震動 ( 振 動)す る」 とで も定式化で きるような汎震論的
な生命観 ない し宇宙観だと言える
。<ふる ( 触る)>の古形
これに対 して<ふれる ( 触れる) >の古形で ある<ふる ( 触 る) >ということばは、同 じく 岩波古語辞典によれば、「たやす くは接触 しな いものに瞬間的にち ょっと接触 し、反応 を感 じ る意」 とある。「 瞬間的にち ょっと」 とい う修 飾が、この語の根源的な意味 を的確に示す もの であるかいなかは別 として、 このことばは 「も のに接する」 とか 「ことに臨む」 とか 「ひとと 交わる」 という意味 を示す ことばであることは 確かだ。だ とすれば、震動 ( 振 動)をあ らわす
<ふる ( 震る ・撮 る)>と接触 ( 交流)をあ らわ す<ふる ( 触 る) >はいかなる関係にあるのか。
坂部恵 は、「 人 を見 る」 に対 して 「人にふれ る」 と言 うように、触覚 をあ らわす<ふれる ( 触 れ る) >とい うこ とばは、他 の視覚 ・聴 覚 ・喚覚 ・味覚 をあ らわす<見 る><聞 く><
喚 ぐ><味わう>と異 な り、行為の対象 を限定 的に示す助詞 「を」 をとらず、 ものごとの生起 する場所ない しものごとが向か う場所 を漠然 と あ らわす助詞 「に」 をとること、 また、「 見分 ける 」 「聞 き分ける」 とは言 えて も 「 触 れ分け る」 とは言 えない よ うに、 <ふ れ る ( 触 れ る) >ということばはすでに構成 された対象間 の差異 を捉える側面 よりも、む しろ、内と外、
能動 と受動、主体 と客体 といった根源的な関係 や差異がいままさに生起する場 に立ち会 う意味 をもつ ことを指摘 してい る。 <ふれ る ( 触 れ る) >ことによって、<ふれるもの>とくふれ られるもの>が同時に出現す るのであ り、そこ に出現す る事態 は 「私が もの にふれ る」 とも
「ものが私にふれる」 とも表現 しうる両義的な 出来事である。その ような未分化で無限定な場 所か らの根源的出来事 ・根源的差異化 に、<ふ れる ( 触れる) >ということばの本質的な意味 があるというのである
Ll)。
そういう見方に立って、あ らためて岩波古語 辞典が<ふる ( 触 る) >とい うことばに与えた 定義を見つめ返 してみれば、 この定義はあ くま で も主体 と客体があ らか じめそこにあって事後
ー 3 8 ‑
的に両者が 「 接触」するという前提 に立つため に、そこでの 「 接触」 に 「 瞬間的にち ょっと」
という修飾をつけなければならなかったものと 見 えて くる。 もちろん、そういう次元での 「 ふ る ( 触 る ) 」 ということばの使用法がある以上、
それを間違いだ とは言えない○ しか し、<ふる ( 触 る) >とい うこ とばが、坂部 の言 うよう に、<ふれるもの>と<ふれ られるもの>とい う主客の同時出現 という根源的出来事 ・根源的 差異化 ( すなわち<ことな り ( 事 ・異な り) > ) を含意するとすれば、「 接触」の時間の短 さや 程度の浅さとみえるものは、む しろ、根源的な 出来事や差異化のダイナミックな生起 を示す も の と考えられる。 このことばのひとつの使用法 である<気がふれ る ( 触 れ る) >とい う事態 は、<ふれる ( 触れる) >という出来事が季む デーモニッシュなまでのダイナ ミズムを端的に 示 している。
新 たな共震 ( 共振)の生成 としての<ふれる ( 触れる)>
<ふる>ということばの二つの意味の系統 を、
お よそ以上のような意味合いをもつ もの とみる な ら、<ふる ( 震る ・撮 る) >と<ふれる ( 触 る) >の関係はどのようなもの として捉え直 さ れるのか。「 万物が震動 ( 振動)する」 とみる 生命観 ・宇宙観のなかでは、ひとが ものに接 し た り、 ことに臨んだ り、他 のひ とと交 わる際 の<ふる ( 触る) >という出来事は、互いに震 動 ( 撮動)するもの どうLが<ふれ ( 震れ ・振 れ) >あう共産 ( 共振)現象 として捉え直 され る。その意味では、<ふる>を<ふる ( 震る ・ 撮 る)>とみるか<ふる ( 触 る) >とみるかの
ちがいは、同 じ震動 ( 振動)現象 を、 ものに定 位 してみるか、 もの ともののあいだに定位 して みるかという、視点の置 き方の違いにす ぎない とも言える。
<いのち ( 息の勢) >として震動 ( 振動)す る風が<いのち ( 息の勢)>として震動 ( 振動) する海に<ふれる ( 触れる) >ところに、波 と
いう新 たな<いのち ( 息の勢)>の震動 ( 振動) が生 まれ る。 それぞ れ の <ふ れ ( 産 れ ・撮 れ) >がなければ、両者のあいだに新たな関係 や差異 を生み出す<ふれ ( 触れ) >は生 まれな い し、一見、それ自体 として震 えているように 見えるもの も、実際にはそれ以外の もの とのあ いだで産れ ( 振れ)あっているものだ。接触 と は震動 ( 振動)す るもの どうLが共震 ( 共撮) する事態であ り、震動 ( 震動)とは共震 ( 共裏) とい う事態 の一側 面 にす ぎないので あ って、
「 万物 は震動 ( 振動)する」 とは、その実、「 万 物は共震 ( 共振)する」 という世界観なのだ。
<震 る>という自動詞が 自ら震動するものを 示 し、<撮 る>という他動詞がなにかを振動 さ せるという違い も、共震 ( 共振) というひとつ の現象のなかの<こちら側 ( 自) >に着 目する か<あちら側 ( 他) >に着 日す るかの違いであ り、 自らが震 えればその震動は他に波及せ ざる をえない し、他を撮 るためには自らを振動 させ るはかない。そ して、「 なにかに触 る ( 触れる ) 」
とい う自動詞 は、ち ょうど、「自ら震 る ( 震え る) 」 とい う自動詞 と 「なにかを振 る」 とい う 他動詞の中間に位置する半 自動詞 ・半他動詞 と で も言えることばである。つ ま り、ひとつの共 蛋 ( 共振)現象のなかの<こち ら 側 ( 主体) >
の震動 を強調するのが<震 る ( 震える) >であ り、<あちら側 ( 対象) >の振動を強調するの が<撮 る>であ り、両者のあいだに生 まれる<
震動 ( 撮動) >を強調するのが<触 る>なのだ と言って もいい。
同 じく接触 をあ らわす< さわる ( 触 る) >と い うことば との差異 もそ こに こそみ いだ され る。<さわる ( 触 る) >は<さわる ( 障る) >
と同源のことばであ り、「 行 く手 をさえぎる も のに引っかかって行 き悩むのが原義。転 じて、
もの ごとに持続的に接触す る意」 ( 岩波古語辞 輿) とされ る。岩波古語辞典 は、<ふれ る>
と< さわる>の差異 を「 瞬間的にち ょっと接触」
と 「 持続的に接触」 という仕方で対比 させてい
る感があるが、両者のちがいはむ しろ、<ふれ
る ( 触 れ る) >が < ふ れ る ( 震 れ る ・振 れ る) >もの どうしのあいだの共震 ( 共撮)現象 の生起 という相互的な交流のダイナ ミズムをも つのに対 して、< さわる ( 障る)>はあ くまで も運動 しようとするものが障害にぶつかるとい う一方的な所作 を示す ところに求め られると考 えたほうがいい。
共震 ( 共振)による調和 とカタス トロフィー 空海は 「 五大 に響 きあ り」 ( F 声字実相義 』 )
ということばで、 この宇宙を構成する地水火風 空のすべてが互いに震動 ( 撮動) しあっている という宇宙観 を示 した。 こうした発想は、 ひと り空海の天才のみによるもので もなければ、中 国か ら伝来 した密教思想のみに由来するもので もない。以上の ような考察を踏 まえるか ぎり、
少 な くともそのい くぼ くかの土壌は、<ふる>
ということばで宇宙の根源的な共震 ( 共振)現 象 を言い習わ して きた 日本語の伝統に根 ざ した
ものだったと考えられる
。もっとも、 こうした生命の リズムや宇宙の リ ズムに基礎 を置 く世界観は、古今東西を問わず、
もっぱら宇宙の調和的秩序のみを強調 しがちに 見 える。宇宙の森羅万象 を 「 名状 Lがた き楽人 の大いなる歌」 とみるアウグステイヌスのキ リ ス ト教的世界観であれ、「 五大 に響 きあ り」 と 言 う空海の仏教的世界観であれ、あるいは、密 教の伝統思想 と量子論の宇宙理論を交錯 させ る 中村雄二郎の 「 共振す る世界」であれ
̀2)、そ の強調点は調和のほうにある。 しか し、 日本語 の<ふれる>が もつ共震 ( 共振)的世界観のな かには、生命や宇宙の調和的側面ばか りではな く、その壊滅や変異につながる契機が李 まれて いる。
<ふれる>とは、静止するふたつの ものが接 す ることで はな く、それぞれ に固有 の<いの ち>として震動 ( 振動)するものどお しが新た な共震 ( 共振)のなかに身をゆだね、そこか ら そ れ ぞ れ に生 まれ変 わ る こ とを意 味 して い る。<ふれる ( 触れる) >とは、<ふれる ( 震
れる ・振れる) >もの どうしの死 と再生を季 ん だ共裏 ( 共振)現象の生起であ り、その意味で は、津波や暴風や地震の ような震動 ( 振動)の 猛威にか ぎらず、 どのような<ふれる>のなか にも、人びとの世界 を壊滅 ・変異 さうるカタス トロフィックな契機が内包 されているのだと言 える。だか らこそ、その同 じ一語が<気が触れ る>というカタス トロフィーその ものをも表現
しうることばともなるのだ。
<ふる ( 震る・ 振る ・ 触 る)>としての<袖振る>
<袖振 る>とい う万葉の時代の人びとの仕草 は、以上 の よ うな< ふ る ( 震 る ・振 る ・触 る) >ということばの意味の多様性の統一を端 的に物語るもの として興味深い。旅の別れや、
恋 しいひとに呼びかける際に行われたこの仕草 は、衰えゆ く魂 を震動 ( 振動)によって再生 さ せ ようとする<魂振 り>と同 じ呪術性 を帯びて いる。<袖振 る>ものが、 自分の<いのち>の 震動 ( 振動) をとお して、相手の<いのち>の 震動 ( 振動) を呼 び覚 まそ うとすると、そこに 距離を越 えた魂の<共震 ( 共振) >が生起 して いたと考えられるか らである。
そこには、「 恋の合 図」 とい うことばでは尽 くせないような魂の震幅 ( 撮幅)があったので はないか。
茜 さす紫野行 き 標野行 き 野守は見ずや 君が袖振 る
かつて自分の妻であ りなが ら、いまは兄であ る天智天皇の妻 となった額田王に、宮中をあげ た薬狩 りの行われている 「 標野 (しめの)」の ただなかで<袖振 る>大海人皇子の行為の底 に は、その数年後、壬 申の乱 を起 こす ことになる 激震が渦巻いている。
<間 ( ま ・あひだ)>という根源的場所 ところで、以上の ような、<ふれる>という 共裏 ( 共振)現象 によって生起する根源的な出
40‑
来手や差異化 とは、具体的にはどのような関係 や差異 を出現 させることなのか。むろん、そこ には主体 と客体、 自己と他者、能動 と受動、精 神 と身体、時間と空間、現実 と虚構などといっ た、私たちの世界 を分節する基本的契機を数え 上げることがで きるのだろう。 しか し、それ ら の差異化 を示す言語のほとん どが西洋近代の哲 学的枠組に由来するものだとすれば、それ らの 用語をそのまま<ふれる>という現象 に適用す るのではな く、 日本語の古形における世界の分 節の仕方そのもののなかに根源的差異化 を求め
るほうがいい。
こうした問題を考えるうえで、<ま ( 間) >
ということばは、重要な位置を しめている。 日 本語の<ま ( 間) >は、<空 間>のあいだに も、<時間>のあいだにも、<人間>のあいだ にも用い られることばである。そのことは、<
ま (間) > とい うこ とばが 、 <空 間 ><時 間><人間>を貫 く多様性の統一を示 している と言 うだけではな く、そうした差異化以前のあ る種の未分化で根源的な場所 を示 していた可能 性 を示 している。
木村敏は、こうした 日本語の<間 ( ま ・あい だ) >ということばが もつ特質に着 日しなが ら、
このことばに 「自己と他者 との区別がそこか ら 初めて生 じて くるような、根源的な自他同一の 場所
」 (3'をみいだ している。ふつ う、私たち が意識する 「ま」 とか 「 あいだ」 というものは、
あ らか じめ存在する二つの物事のあいだに事後 的に意識 されるものであ り、広辞苑の 「 物 と物、
または事 と事のあいだ」 とい う 「ま」の解説や、
「 二つの ものに挟 まれた部分」 という 「あいだ」
の解説 も、その見方を示 している。それに対 し て、木村がここで提起 しているのは、いわばそ うした通常の見方の<図>と<地 >を反転 させ て、 まずはじめに<間 ( ま ・あいだ) >という 生成の場所の根源的な開かれがあ り、そこか ら そのつ どの<自己>と<他者 >が出現するとい う見方である。
離人症その他の統合失調症は、そうした根源
的場所か らの根源的差異化の在 り方にかかわっ ているというのが、木村敏の基本的発想 なのだ と言える。 もっとも、そうした事例 をもちだす まで もな く、眠 りか ら覚めかけの半覚醒状態の なかでは、人はだれ しも自己と他者、主体 と客 体、現在 と過去、現実 と虚構 といった世界の差異 化や分節化の暖味な状態を経験するものだろう。
そのことは、逆にいえば、私たちの覚醒状態の 経験 とは、未分化 な場所か らのたえざる世界の 分節化の所産であるということを意味 している。
<こと ( 異 ・事)なり>という根源的差異化 そ して、<間 ( ま ・あいだ) >という場所か ら根源的に差異化 されるものこそが<こと>な のだ と言 える。 日本語の< こと>とい う語 は 事 ・言 ・異 ・殊 といった多義的な意味合いをも つ。 これ らの多様性 に統一をみいだせ るとすれ ば、それは未分化な根源的場所か らの世界の分 節化にこそあると考えられるか らだ。
岩波古語辞典 は 「こと ( 言 ・事 ) 」 に関 して 次のように記 している。
古代社会では口に出 したコ ト ( 言)は、そ のままコ ト ( 出来事 ・行為) として表現 され ると信 じられていた。それで言 と事 とは未分 化で、両方 ともコ トという一語で把握 されて いた。 したがって、奈良 ・平安時代の中にも、
言の意か事の意か、 よく区別で きない ものが ある。 しか し、言 と事 とが観念の中で次第に 分離 される奈良時代以降に至ると。コ ト ( 言) はコ トバ ・コ トノハ と言われることが多 くな
り、コ ト( 辛)とは別になった。コ ト( 辛)は人 と人、人 と物 とのかかわ り合いによって、時間 的に展開 ・進行する出来事 ・事件 などをいう。
いつ、 どこで、だれが、なにをした という時
間や空間や人称や行為の差異や関係は、<こと
( 言) >によっては じめて生 まれる 。ソシュー
ルの言語思想 を踏 まえた丸山重三郎の用語でい
えば
(4)、人間は<言分け>とい う言語機能 を
とお して、世界 を分節化 してい るのだ と言 え る。<こと ( 辛) >とは<こと ( 言) >の力に よっては じめて分節化 される事態なのだと言っ て もいい。
その意味では、<こと ( 言 ・事) >は<こと ( 異 ・殊) >に通 じる。<こと ( 言 ・事) >と いう言語的機能によって分節 される事態は、未 分化で根源的な場所 に生起す る< こと ( 異 ・ 殊) >という差異化や特殊化の働 きをともなう
ものだか らである。坂部恵
し5)や小林敏明
(6)は、
こうした根源的な差異化や出来事の生成を<こ とな り>と呼んでいる。
<こ>くそ><か>とい う根源的差異化 では、 日本語における根源的差異化 は、いっ たい どのような差異化のうちに求め られるもの なのか。その際、 日本語の古形においては、必 ず しも主体 と客体、 自己と他者、時間と空間と いった区別を鮮明にするものはなかった という ことは、繰 り返 し意識 し直すべ きことだろう。
日本語の文章においては、いつ、 どこで、だれ が という<時間>や<空間>や<人間>の区別 が暖味であ り、それ らは しば しば揮然一体 にな
った ものとして表現 される。
『日本古典文学全集』( 小学館)の F 源氏物語 』
の編者は、その解説のなかで、源氏物語お よび 日本語の主客の唆味な文章の特質をつ ぎの よう に述べている。
読者 と筆者 との間の共通の理解 を前提 にせ ず、対象に即 して、客観的、分析的に記述す るよりは、筆者の感情 と対象の もつ情緒 とを 同時に包み込むような表現 をとる。全体 とし ての雰囲気 は伝 えているのだが主客 を明断に 理解 しようとすると暖味になるところが、出 て くる。 ことにヨーロッパふ うのかわいた文 章に比べ ると、 日本の文章はとくにその唆味 であることが眼につ く、 といわれている。そ
ろ
う
Lや
ういう特質をもつ源氏物語の表現 を、「 騰写 」
もっとも、この ように、いつ、 どこで、だれ がだれにという<時間><空間><人間>の差 異化が唆味だということは、そのまますなわち 日本語 自体が差異化の唆味な言語だということ を意味するわけではない。
む しろ、そのことは、 日本語が少な くともそ の古形においては、<時間><空間><人間>
といった分節化 とは異なるところにその根源的 差異化 をもっていたことを示唆 している。 日本 語の古形 は、未分化 な根 源的場所か らただち に<時間><空間><人間>を分節するのでは な く、む しろ<時間 ・空間 ・人間>の滞然一体 となったある種の場所性 その ものをい くつかの 領域に分節するところにその根源的差異化 をみ い だす こ とが で きる。 こ こで は、 そ れ を<
こ><そ><か>という領域の差異化にみいだ す視点 を提示 してみたい。
日本語においては、 とりわけその古形におい ては、時空あ らわす指示代名詞はそのほとん ど が人称 をあ らわす人称代名詞 として ももちい ら れる。そのひとが属 している時空がそのままそ の人自身を示 しているのである。こうした<時 間 ・空間 ・人間>の揮然一体 となったある種の 場所性その ものを、 ここでは<人称的場所性 >
と呼んでみたい。
<時間 ・空間 ・人間>の揮然一体 となった<
人称的場所性 >の領域の分節化、そこに日本語 の根源的差異化がある。いつ ・どこで ・だれが という<時間><空間><人間>の分節のなか に位置づ け ようとす る とき、それは しば しば
「 暖昧」 な もの とうつ るが、そこにはそれ とは 別の 「 鮮 明」 な分節化 が あ る。す なわち、<
こ ・ここ ・こなた ・これ ・こち ・こちら>とい う一人称的場所性 、 <そ ・そ こ ・そなた ・そ れ ・そち ・そちら>という二人称的場所性、<
か ・か しこ ・かなた ・かれ ( あれ) ・あち ・あ ちら>という三人称的場所性である。
<こ ・ここ ・こなた ・これ ・こち ・こちら>
は、話 し手の属 している領域 ない し話 し手に属 している領域 をあ らわす。た とえば、<これ>
‑ 42‑
は 「この時」、「この処」、「 わた し」のいずれの 意味にも用い られる。それはたんに<時間><
空間><人間>のそれぞれの文脈において 「 話 し手に近いもの」 を示す というだけではな く、
む しろそれ以前に<時間 ・空間 ・人間>の揮然 一体 となった領域 という意味で、一人称的場所 性 をあらわす ものだと言える。
これに対 して、<そ ・そこ ・こなた ・それ ・ そち ・そちら>は、話 し手の属する ( 話 し手に 属する)領域 とは異な りなが ら、話 し手の行為 や意識が直に向かいうる直接交渉可能な領域を あ らわす。たとえば、<そ>は 「 その時」、「 そ の処」 、「 お まえ」のいずれの意味で も用いられ る。話 し手が直接交渉可能な<時間 ・空間 ・人 間>の滞然一体 となった領域 という意味で、そ れは二人称的場所性 と呼びうるものである。
岩波古語辞典は<そこ>の定義をそれぞれ次 のようにしている。
文脈のなかですでに取 り上げて、話 し手 も 聞 き手 も共通に知っている物事 ・場所 を指示 する語。あるいは、話 し手 と聞き手 との間で すでに共通に諒解 されている事物や物 として 指示する語。( 彰その所、②その点、③二人称 の代名詞的に主に懇意な間柄で使 う。
しか し、「 文脈 のなかですで に取 り上げて」
いな くて も、「そ こへ行 く」 と言 えば相手のい る ところへ行 くことをただちに意味す る し、
「 話 し手 も聞 き手 も共通 に知 っている」 という 点では、<ここ>も<か しこ>も共通 に知って いる可能性がある。
同 じく<それ>の項 目も、その定義は暖味か つ煩雑である。
①<指示代名詞 >主 として、文脈にすでに 示 されて、話 し手 と聞 き手 とが共通に知って いる物 ・事を指示する語。 また、話 し手 と相 手 との問ですでに共通に知 られているもの と
して或るもの を指示す る語。「これ」が指示
するもののようには話 し手の領域 に属 さず、
「 かれ 」 「 あれ」の指示する物のようには話 し 手 ・相手か ら遠 く別の領域の もの とは見 られ ないものを指す。
②<二人称 >そこにいる者。お まえ。
「 話 し手 と相手 とが共通 に知 っている」 とい うだけでは、<これ>や<かれ>との差異化が はかれない以上、厳密に言えば、「 共通に知 っ ている」 ものの なかで も、< これ >に も属 さ ず<かれ>のように 「 遠 く別の領域」で もない もの という留保つ きの定義にな らざるをえない し、「 共通 に知 っている」 とい う特徴 を核 にす るか ぎり、相手 自身を示す二人称その ものは別 仕立てで定義するほかない。
こうした定義の暖昧 さや煩雑 さは、「 話 し手 と聞き手 とが共通に知っている」 とい う特徴づ けが、<これ>とも<かれ>とも区別 される<
それ>の本質的特徴ではないことを暗に示 して いると言える。む しろ、<そ ・そこ ・そなた ・ それ ・そち ・そちら>は聞き手のいる場所であ れ、聞 き手 自身であれ、聞 き手のいない場所や 事物であれ、つねに話 し手の行為や意識が直に 向かい うる直接交渉可能 なく時 間 ・空 間 ・人 間>を示す もの として定義 してこそ、その多義 性 を統一的に理解で きる。そうだとすれば、<
そ ・そこ ・そなた ・それ ・そち ・そち ら>は二 人称的場所性 と呼ぶにふ さわ しい。
以上のような、直接交渉可能な関係にある<
こ>と<そ>に対 して、そうした関係の圏外に あるのが、第三の<か ・か しこ ・か なた ・か れ ・あち ・あちら>なのだと言える。時間的に も空間的にも人間的にも用い られるこれ らのこ とばに関 して、岩波古語辞典は<か> ‑ 「 遠い もの を指 し示 す語」、 <か しこ> ‑ 「話 し手 ( 及び聞き手)か ら遠い場所、不明な場所」、<
かなた> ‑ 「隔ての向こう」、<かれ> ‑ 「 話
し手 ・相手か ら遠 く別の領域」 とそれぞれ解説
している。<こ>と<そ>は直接交渉可能な圏
内にあるのに対 して、<か >はその 「 隔ての向
こう」の 「 遠 く別の領域」 とい う直接交渉可能 な圏外 にあるのであ り、<こ>と<そ >の距離 と< こ>と<か >のちがいは距離の量のちがい ではな く、関係の質のちがいを示 している。
図示すれば、以下の ようになる。
一
一一一一一一日 = 一
一一一、
■■
‑
‑