車谷長吉は︑その来歴からして一風変わった作家である︒昭和二十
年︵
一
九四五年︶七月兵庫県は飾磨に生まれ︑大学卒業後︑サラリーマン生活を送
るかたわら︑昭和四
十 七 年 (
‑九七二年︶﹃新潮﹄誌掲載の短篇﹁なんまん
だあ絵﹂で文壇に登場する︒しかし︑石油危機のあおりから東京での職と生
活を突如として失ってしまう︒
その
後︑
三0代のほとんどを関西各地の旅館
の下
足番
︑
小料理屋や料亭の下働きとして過ごしながら︑それでも地道に書
き続けた
(1
︒ ﹃ )
臨血
壷の
匙﹄
︑﹃
赤目
四十
八瀧
心
中未
遂﹄
︑
﹃揺
風﹄
︑﹃
忌中
﹄︑
﹃贋
世捨
人﹄
︑﹃業
柱抱き﹄︑﹃反時代的毒虫﹄︑﹃金輪際﹄︑これらはいずれも後年
出版された彼の小説やエッセイ集︑対談集につけられた書名である︒文字面
を見るだけでも︑なにか強い思い︑執念︑あるいは心
の闇
︑
呪い︑怨念のよ
うなものが感じられる︑妖しい響きと強い意味に満ちた言葉だ
(2
いずれ)︒
もふつうの生活の中では使用を憚られるものだが︑この作家はこうした言
葉をあえて選んで使っていたに違いない︒
初短篇からおよそ二十年ののち︑平成四
年(
‑九九二年︶に処女短篇集﹃甕
壷の匙﹄がようやく上梓されるが︑その文章はもはや異様である︒
風が出て︑裏の竹藪が鳴っているようだった︒ひっそりしたよい宴だと思
った
︒父は何か考えるように下を向いて︑黙々と膳の上のものを喰ってい
た︒母が羹の椀を盆の上に並べて厨から戻って来︑一人一人の膳の上に置
いた︒鶏肉の薩摩汁のようなものだった︒湯気が上って部屋の中の空気が 車谷長吉の語りと生
何者にもなれずに
福田直樹
それだけ暖かくなったような気配が生れた︒不意に父が崩していた膝を起こして身を正した︒そして正面を見て背筋を伸ばし︑突然︑歌を歌いだ
した
\勝ってくるぞと ︒
勇ましく
出たからは
死なりょうか 誓って故郷を
手柄たてずに
進 軍 ラ ッ パ 聴 く た び に 瞼 に 浮 か ぶ 旗 の 波
吃りの父が歌を歌うなど︑私は聞いたことがなかった︒やや疸高い声で
吃らずに歌うのだった︒私も驚いたが︑皆んな呆気に取られていた︒
父の
中の何か硬直した︑頑な︑人から﹁仏滅さん﹂と後ろ指さされるようなも
のが歌っているのだった︒ガザニガはこんな歌を耳にするのは恐らく初
めてだったのだろう︑歌を聞くというより︑何か不思議なものでも見るよ
うに︑父の痩せた顔を見詰めていた︒歌は二番
一一 云
番と
続い
た
︒不気味なほ
どに刻明な記憶だった︒喉仏がひくひく動いた︒尖端に鑽の剃り残しの生
えた肉塊が小動物のように動いた︒終ると︑父はガザニガに軽く礼をした︒
ガザ
ニガ
は︑
﹁オ
ジョ
ウズ
デス
ネ﹂
と冷静な声で言った︒父は︑
﹁い
い︑
︑い
︑
: ・
:' ﹂
と何か言おうと声を出
した
が︑
土見
に
言葉にならなかった︒
3(
)
これは﹁吃りの父が歌った軍歌﹂という短篇の︑日本を訪れたアメリカ人ガ
ザニガを囲む夕食の場面である︒車谷は
︑こ
の場面に似つかわしいとはとて
も思えない﹁尖端に鑽の剃り残しの生えた肉塊﹂という言葉を用いて︑軍歌
を歌う父の喉仏を淡々と表現している︒食卓にいる誰もが父の歌を呆然と
聴く中︑﹁私﹂だけは喉仏の動きを冷静に観察しているのだ︒見つめること で対象の内面までも見透かしてしまうような鋭い視線である︒目の前の出
来事に対しても傍観に徹し︑対象の微細な動きまでも克明に描写する︒そう
することで﹁ひっそりとしたよい宴﹂であったはずのこの場面に異様な空気
が流れるのだ︒車谷の文学は︑身の回りの人やもの︑出来事を題材としなが
ら︑彼自身の﹁根性曲り︑ひとにたいする憎悪と怨恨の心情︑病的な発作︑
およそ悪意を働かせずにはおられない無意識の荒廃﹂
(4
を赤裸々に暴露す)
ることを特徴としているが︑表現そのものはいま見た通り意外なほど淡々
としている︒それは彼が事の当事者としてではなく︑あくまで傍観者として
書いているからだろう︒この傍観者の視点は一九九八年の作﹃赤日四十八瀧
心中末遂﹄でも︑少し入り組んだかたちでではあるが同様に見出される︒以
下はアパートの一室で飲み屋料理の下椿えとして﹁牛や豚の臓物﹂や﹁鳥の
肉﹂をひたすら串に刺し続ける生活を送る﹁私﹂と︑その階下に暮らす﹁ア
ャちゃん﹂という背中に刺青の刻まれた女性が︑それぞれの生活を抜け出し︑
ここではないどこかを目指す逃避行の場面である︒
ーー私たちはこれから死にに行くんです︒心中しに行くんです︒赤目四十
八瀧へ行くんです︒あの世へ逃げて行くんです︒この電車の中の座席は︑
坐ろうと思えば︑誰でも坐れる席です︒だから︑私たちも切符を買って︑
ここに坐ったのです︒あなたたちも買って︑そこに坐ったのです︒けれど
も︑この私たちの席は︑私たちだけのものです︒あなたたちは︑どこへ行
くのですか︒貧乏な叔母さんの家ですか︒会社の仕事で︑人を編しに行く
のですか︒サッカーの試合に負けに行くんですか︒友達の家へ謝りに行く
んですか︒その席は︑すぐに捨て去る席ですね︒併し私たちはごの席に坐
ってしまったのです︒も早︑捨て去ることは出来ない席です︒人には譲る
ことが出来ない席です︒赤目四十八瀧へ行く席です︒もう帰りの席はない 席です︒誰でも坐ることが出来る席ですが︑併し私たちだけが坐った席なのです︒黄金の席です︒どうです︑ここだけが輝いているでしょう︒ここは死の席です︒
私は心の中で︑こんなことを言うていた︒併し言えば言うほど︑嘘臭い
言葉だった︒黄金の光なんか発していなかった︒
(5 )
ここで︑死に場所を求め三重の景勝赤目四十八瀧へ向かう﹁私﹂は︑自らの
心情を沿々と語るのだが︑それをすぐに﹁嘘臭い﹂と打ち消してしまう︒当
事者の視点で語るなら︑たとえ傍目には嘘臭い光景だとしても︑その嘘臭さ
をかき消す美しい表現で真実味たっぷりに聞かせるのだろうが︑車谷はそ
んな表現を決して認めない︒まるで作中の﹁私﹂に﹁私﹂を監視させている
かのようである︒﹁私﹂の行動や気持ちの移り変わりを背後に立つもう一人
の﹁私﹂に査定される感覚︑言い換えれば肉体と自意識との緊張関係が︑﹁私﹂
が当事者の視点に立って語ることを許さない︒自らに対しても少なからぬ
悪意の目を向けながら﹁私﹂は傍観者として︑そこにいるのだ︒そして︑ま
さにこの傍観者の視点を介在させることによって︑彼の文章は妖しく発光
するようになる︒﹁吃りの父が歌った軍歌﹂や﹃赤目四十八瀧心中末遂﹄に
流れる空気を決定づけている語りの視点を踏まえるなら︑これらは傍観者
の文学であると言えるだろう
(6
)︒
傍観者であること︑つまり当事者でないことは︑人やもの︑出来事から一
定の距離をとり︑ことの成り行きを静観する態度にほかならない︒そしてそ
れは︑どこかインテリ的な小狡い態度だとも言える︒だからこそ車谷は︑傍
観者としての﹁私﹂をあえて崖から突き落とすように︑﹁私﹂の生活に揺さ
ぶりをかける語りを展開させてゆく︒そこで﹁私﹂は﹁日常のなかにあって
も の
非日常に出会﹂い︑﹁ある﹃存在﹄が露出する瞬間にふれ﹂るか︑﹁虚をつか
れ﹂る
(7
︒車谷の作品の中で常套句のように用いられ︑幾度となく目にす)
﹁あッ︑﹂という瞬間である︒
﹁おばちゃんが面白いこと言うてたわよ︒﹂
﹁何
て︒
﹂
﹁あの人︑古代の少年のミイラが︑今の世に生き返ったような人や言う
て︒﹂
私は苦笑いした︒
﹁あれでは今の時代に生きていけん︑言うて︒あんた︑こないだ相当にち
よっとおたおたしたそうやないの
︒ ﹂
﹁はあ︑知ってはるんですか
︒ ﹂
﹁そら知ってるわよ︑うち見てたもん︒﹂
え﹁
ッ︑
どっ
から
︒﹂
併しアャちゃんは意味ありげな目をしただけだった︒もしそれが本当な
ら︑この女にとってはさぞや面白い見物だったことだろう︒
﹁けど︑あんたは命懸けでおばちゃんを救うて上げたんよ︑ほんまに︒﹂
﹁いや︑私は
︒ ﹂
﹁だけど︑そうなんよ︒ところで四︑五日前︑あんたうちのあとつけて来
たわね
︒ ﹂
私は︑あッ︑と息を呑んだ︒アャちゃんは鋭い目をして︑
﹁あなた︑あんなことせん方がええわよ︒﹂
と言った︒私は声が出なかった︒アヤちゃんは目を据えたまま︑
﹁皆んな︑あなたのこと見てんねやから
︒ ﹂
と言った︒そしてたばこの火を揉み消すと︑も一度私をちらと見て出て行
った
︒
私はいきなり私の正体がさ迷いだすような衝撃を受けた︒
(8
) るのがその﹁私﹂は飲み屋の女主人である﹁セイ子ねえさん﹂に頼まれ︑阪神電鉄出屋
敷駅前の公衆電話ポックスに残された五万円を自宅まで運ぶ︵作中明らか
シャプにはならないが︑それは﹁覚醒剤密売の代金回収﹂
(9
)のやり取りであるこ
とを確信させるものだった︶︒数日後階下の﹁アャちゃん﹂がどこかへ出か
けるのを偶然見つけた﹁私﹂はつい︑あとをつけてしまう︒その時は﹁アヤ ちゃん﹂に気づかれることもなく︑途中で見失ったと思っていたところ︑さ
らにその数B後この会話が交わされたということになる︒五万円の回収の
時に気づかなかった視線︑そして夢中で女性のあとをつけている時にも気
づかなかった視線が︑﹁私﹂に向けられていることを知らされる︒しかもそ
れは誰かひとり︑もしくは数人ではなく︑﹁皆んな﹂なのだ︒﹁アャちゃん﹂
の言菓が本当かどうかは別として︑その言葉は﹁私﹂に﹁いきなり私の正体
がさ迷いだすような衝撃﹂を与える︒そのひと言がパノプテイコンに囚われ
た囚人を監視している︵かもしれない︶看守のように﹁私﹂の意識を捕えて
しまう︒これにより︑傍観者として周囲の人やもの︑出来事を﹁見る﹂側に
立っていたはずの人が︑当事者になれない︑なろうとしないことで周囲から
浮いた存在となり︑不気味なものとして当事者たちから﹁見られる﹂人とな
るのだ︒このまなざしの反転により傍観者はいわば余所者になる︒より厳密 に言うなら︑傍観者はここで初めて︑自らが余所者であったことに気づくの
である︒いずれにしろ﹁私﹂が傍観者として見る立場にいる限り︑たとえそ
の対象が家族という社会における最小単位だったとしても︑余所者扱いさ
れることに変わりはない︒
﹁あんた︑来うへんか﹂
戸の蔭から母が呼んだ︒起って板戸を開けた︒併し誰もいなかった︒
私は意外のことに母
の頻を見返した︒ー10
庭へ出て見ると︑母屋の座敷に煙々と電燈が点いていた
︒その光景を見
た瞬間︑あ︑と恩った︒宵に
座敷に電燈を点けるとい
うようなことは無い
ことだ︒光が
庭に流れ︑樹木の繁りが静ま
っていた︒座敷には膳が並
べら
れ︑父と弟とガザニガがその前に坐っていた︒母がうろうろし︑仏壇の扉 を開けて蝋燭に火を点けた︒ガザニガがそれを指差しながら弟に何か言
った
︒
弟は両手で罐に蓋でもするよう
な
仕草を繰り返しながら何
か
言っ
ていたが︑途中でちょっと母が口を出し
たの
で︑今度は笑い出した︒する
と父も母もガザニガもいっしょに笑い出した
︒ぞっとした︒
厨の板の間に坐っていると︑何か小皿のようなものを取りに来た母
が︑
﹁ あ
んたも早
来て
坐り
﹂
と言
った
︒
﹁ガザニガはんな︑これからアメリカヘ去んで︑ヴェトナム戦争に行って
んや︑召集令状が来たんやと﹂
ここで﹁私﹂は︑﹁私﹂以
外の家族と︑まるで﹁私
﹂の穴を埋めるように振
舞う異国からの旅行客が︑当たり前に団槃の時間を過ごし笑
い合っている
光景を目撃して﹁ぞっと﹂するのだ︒ここでもやはり﹁私﹂は傍観者と
して
︑ 離れから見える母屋の光景を淡々と表現している︑と同時に︑皆の笑い合う 姿を見た瞬間に自分が余所者であることを思い知らされ︑﹁ぞっとした﹂の
である︒この﹁ぞっと﹂
という表現が︑孤独や疎外感︑淋しさからくるもの
なのか︑それともなにか別の
感情なのか︑この部分からは判然としない
が ︑
少なくとも﹁ぞっとした︒﹂と
いう
一文がこの一節を一瞬にして凍り付
かせ
てしまう力を持っている︒余所者になってしまうということは︑背筋を悪寒 が通り抜け︑思わず震え上がってしまうほどの出来事なのだ
︒
この
ところで車谷自身は︑実生活においても自らがある種の余所者である
こ
とを︑実感をもって
次の
ように語っている︒
確かにすべてなまくらであって︑下足
番にもなりきれなかったし︑料理場
の下働きにもなりきれなかったし︑小説家にもなりきれな
い
ところがあ る︒三十八歳のとき︑文学の道を生きる覚悟を決めたんだけど︑いま小説 家になってよかったなあという気持ちは五十一パーセントで︑ならなけ ればよかったという気持ちが四十九パーセン
トですね0( 1
1)
これ
は
小説家で僧侶
の玄
侑宗久と対談をおこなった際
の言葉だ
が ︑ 見冗談めいた自虐の中にこそ車谷の作品の真髄︑または生の本質が見える ように思う︒どこにいても当事者になり切れず︑余所者のまま
何者にもなる
ことができな
い ︑ むしろ規定されるのを拒絶し︑自ら進んで何者にもなろう
としない姿
勢︑つまりならず者として生きようとすることは︑彼の生
の本
質
と言えるだろう︒その態度は端的に
﹁曖昧﹂と言い換えられる︒しかし︑曖
昧さが生の本質になるとはどういうことだろうか
︒﹃
赤目
四十八瀧心
中未
遂﹄
の中に︑この曖昧さに言及している部分がある︒
柿博ではよくしてもらった︒にも拘らず︑私はだし抜けに柿傭を上がった︒
上がった︑
というのは板場言葉で︑辞めた︑ということであるが︑私はこ
れと言ういわれもなしに上がった
︒そ
れを思うならば︑私にはやはり顔出
しのしにくいところ
だっ
た︒この﹁これと言う
いわれもなしに
︒﹂
とい
う
曖昧さが︑私を決定する兇器のように︑いつも私の中にぶら下がっていた︒
私はもうええ加減に自分を見放したいような気持で︑また鴨川の方へ歩
いて
行っ
た︒
(1 2)
﹁柿偲﹂というのは京都に実在する京懐石の店である︒東京での生活が破綻
した彼が下働きとして働いていた場所のひとつで︑三十代前半の頃半年ほ
ど泊まり込みで入れてもらっていた︒﹁これと言ういわれもなしに﹂という のはただなんとなく︑なんの理由もなくというほどの意味だが︑この曖昧さ が﹁私を決定する兇器﹂となって︑﹁私﹂の身を切り裂いてしまうのだ︒何 者かになろうとする︑なってしまいそうになる自らの可能性を断ち切って︑
﹁私﹂を何者にもなれない方へ︑何者にもなろうとしない方へ推し進める強
い力である︒現在︑社会生活を営む上では職業や肩書き︑所属といったもの
がその人の存在を保証している︒会社員になれば営業先の人間からは自分
の名前よりも先に﹁
OO
︵会社名︶さん﹂と呼ばれることになるだろうし︑
久しぶりに会う人と決まって交わすのは﹁今どんな仕事してるの﹂という挨 拶だろう︒反対に何者でもないことはそれだけで不気味であり︑反時代的で
あり︑ふつうの生活を営む現代人から見れば︑狂っている︒
だが︑時代に反してならず者として生きることと︑狂気の中に生きること とは似ているようで全く別のことである︒このことに関しては﹃贋世捨人﹄
という長篇の中に言及されている箇所がある︒﹁私﹂の大学時代の友人であ り︑精神科医として研究所に勤務する谷内氏は︑勤務先である光景を目撃し たという︒谷内氏とは顔見知りである男性患者のひとりが︑水を張った浴槽
に向けて釣竿を垂らし︑釣り糸の先を一心に見つめているのだ︒氏は﹁どう
だ︑釣れるか﹂と声を掛けるが振り向きもしない︒しばらくしてまたその浴
槽のある部屋を通りかかると︑男性は先ほどと同じ体勢で釣り糸の先を見
つめている︒氏が再び﹁どうだ︑その後︑何か釣れたか﹂と声を掛けると男 性は血走った凄まじい目を向けて﹁馬鹿ッ︑風呂桶で魚が釣れると思ってい
るのかッ﹂と怒鳴った
(1 3)
︒谷内氏はこの話を引き合いに︑﹁私﹂に次のよ
うに語りかける︒ 僕は小説など書いたことはないけれど︑小説を書くというのは︑この男と同じように︑風呂桶の中に釣糸を垂れて︑魚を釣り上げようとすることではないだろうか︒むろん︑この男は精神分裂病に罹って︑世の中では気違いと言われている人です︒きみも︑もともと相当におかしなところのある
人だけれど︑併し会社員が勤まっているのだから︑まあ普通の人と言って もいいわけだ︒小説を書くというのは︑この男のように狂気でするのでは なく︑正気で風呂桶の中の魚を釣ろうとすることではないか︒それを一生
続けるのは辛いことだろうけれど︑僕はきみにそれをやって欲しいんだ︒
きみなら出来る︒正気で︑一生風呂桶の上に釣竿を差し続けて欲しいんだ︒
魚な
んか
︑
一匹も釣れなくったっていいじゃないか︒それが︑小説を書く
ということじゃないか°(14)
正気のままに狂ったことをする︒それは﹁ならず者として生きるということ
﹂
であり︑﹁時代に反して生きるということ﹂であり︑そしてまた﹁小説を暑
くということ﹂なのである︒
心因性の心臓発作や胃潰瘍︑強迫神経症のため幻視や幻聴︑幻覚に悩まさ
れることになった事実を踏まえると
(1 )5
︑彼が常に完全に正気であったか
どうかは分からないとしか言いようがないが︑何か︵彼自身がいうところの
﹁物
﹂や
﹁虫
﹂だ ろう か
(1
)6
︶に
せつつかれるように書かれたその文章には︑
狂気の淵に陥ることができなかった人間が︑正気のまま狂気へ限りなく近
づいていこうとする覚悟や信念を読み取ることが出来る︒ただし︑その覚悟 や信念を支えるのは︑何者にもなれない︑あえて自ら何者にもなろうとしな い︑なまくらで曖昧なならず者としての生なのだ︒
これまで見た通り彼の作品には︑目の前の出来事を冷静に観察する傍観
者の視点から︑傍観者であるがゆえに余所者として生きていくしかない人
間の生が︑異様とさえ言える言葉で語られていた
︒そ
して作家自身も︑その
語りと重なるように︑何者にもなれない︑なろうとしない︑ならず者であろ うとした︒こうした生の在り方は︑ふつうの生活を営む現代人から見れば狂 っていると述べたが︑しかし考えてみれば意外なほど現実味を帯びている のかもしれない︒いま︑カメラの向こう側に立つのは決して有名人だけでは ない︒多くの無名の人︑何者でもない人にレンズが向けられ︑喋り︑踊り︑
(1 )
より詳しい著者来歴は﹁車谷長吉自歴譜﹂︵車谷﹃贋世捨人﹄文藝春秋︿文
庫﹀︑二00七年︑二七六二九0頁︶を参照されたい︒
(2 )
例えば﹃金輪際﹄という書名は﹁英訳すれば
Ne
ve
r ゜否定の意味を示す強烈
な表題だ︒あまりに強烈なためにかえって執着を示している﹂︵三浦雅士﹁解説
│lこの世の幻想﹂車谷長吉﹃金輪際﹄文藝春秋︿文庫﹀︑二00二年︑二七九
頁 ︶ ︒
(3
車谷﹁吃りの父が歌った軍歌﹂﹃臨皿壷の匙﹄新潮社︿文庫﹀︑一九九五年︑一︱)
三八ーニ四0頁︒
(4 )
吉本隆明﹁私小説は悪に耐えるか﹂前掲書︵註
3)
︑‑
︱九
九頁
︒
(5 )
車谷﹃赤目四十八瀧心中未遂﹄文藝春秋︿文庫﹀︱100一年︑二五五ーニ
五六
頁︒
(6
なお︑ここてはいわゆる﹁私小説﹂と﹁フィクション﹂を厳密に区別する必)
要はないたろう︒車谷自身語る通り﹁私小説であろうと何であろうと︑小説とい
うのは﹃虚実皮膜の間﹄に漂う人が人であることの謎を書くのが本筋﹂︵車谷﹁私
小説について﹂﹃業柱抱き﹄新潮社︑一九九八年︑ニ︱ーニニ頁︶なのだから︒
歌い︑さまざまな方法で彼らは発信者となっている︒そしてそうした人々を 目にするたび︑自分もまたその多くの何者でもない人々の一部でしかない ことに気づかされる︒車谷の作品が読み直されるとすれば︑曖昧に生きて︑
何者にもなれない︑訂しろ自ら進んで何者にもなろうとしない︑彼自身の生 のリアルな在り方にスポットライトが当たるのではないだろうか︒
?田中和生﹁定型としての﹃私小説﹄﹂車谷﹃武蔵丸﹄新潮社︿文庫﹀︑二00
四年︑二六六頁︒
(8 )
車谷︑前掲書︵註5)︑九三ー九四頁︒
(9 )
同書︑七九頁︒
(1 0)
車谷︑前掲書︵註3
︶︑
一︱
‑︱
‑︱
│二
三︱
二頁
︒
(1 1)
﹁ 対 談
◆ 玄 侑 宗 久 文 学 で 人 は 救 わ れ る か
﹂ 車 谷
﹃ 晶 息 山 房 よ り 車 谷
長吉遣稿集﹄新書館︑二0一五年︑一五六ー一五七頁︒
(1 2)
車谷︑前掲書︵註5)︱10│‑︱︱頁︒
(1 3)
車谷︑前掲書︵註
2)
︑一六︱︱六︱︱頁︒
(1 4)
同書︑一六二頁︒
(1 5)
短篇集﹃金輪際﹄所収の﹁変﹂︵車谷︑前掲書︿註1
﹀︑
二四
九ー
︱一
七三
頁︶
など参照されたい︒
(1 6)
短篇集﹃謡風﹄所収の講演録﹁私の小説論﹂︵車谷﹃颯風﹄文藝春秋︿文
二00九年︑一六九ーニ︱︱︱頁︶など参照されたい︒
庫 ﹀ ︑