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回想の松島正儀(二) : ある評伝の試み

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回想の松島正儀(二) : ある評伝の試み

著者 遠藤 興一

雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji

Gakuin sociology and social welfare review

巻 134

ページ 1‑112

発行年 2011‑02

その他のタイトル Looking Back upon Masanori MATUSIMA's Days(2) URL http://hdl.handle.net/10723/764

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回想の松島正儀(二)

回想の松島正儀(二)

──ある評伝の試み

遠  藤  興  一 

          自立する青年社会事業家           法制化と民間性の狭間にあって           経営の苦悩と思想的課題           戦時体制の強化と抵抗

  (以下   次号)

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回想の松島正儀(二)

  自立する青年社会事業家   り、駿に、

日、く。月、隊に入営した。このことは既に触れたが、兵営が近かったこともあり、日曜の外出許可日には短剣をさげ、軍装をした正儀が駒沢の玄関先に立つと、園児はこぞって出迎えた。座間勝平は『月報』(第二二四号)で、入営前後における園内はどのような難しい状況にあったか、職員の中核的存在であった松島を失ない、運営上の打撃がいかに大きかったかということに触れている。いずれ本部を全て分園に移し、組織の一元化を図る計画を持っていた北川としては、ここにきて早期実施を迫られることになった。入営後の松島はまもなく身体をこわし、立川にある陸軍衛戍病院に入院、快癒後も除隊とならず、引き続き衛戍病院付き看護卒として兵役を続けた。結局、陸る。五、ら、る。を「者、た。りしました」とある。

  た。

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回想の松島正儀(二) し、す。す。る。す。る。す。し、た。す。ら、た。ら、す。が、す。た。り、居られま

  せ、は、が、ば、に、園主事として就職しました。男性は私一人しかおらず、今でいう指導員的な仕事をしていました。あとは全部保母でし 」。此の頃保母として採用され、その後長く勤めた職員の一人、亀井美代に触れておこう。周囲から「亀れ、年、た。後、縁、貞吉から洗礼を受け、その紹介もあって育成園に勤めるようになった。没後は松島夫妻と同様、都下北多摩郡多摩霊園にある育成園共同墓地に葬られた。一方、主事となった時の心境は「仕事の上で……本当の親にはなれま

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回想の松島正儀(二)

せんが、できるだけこの子の親に近い、心の親に自分はなりたい」という覚悟にみることができる。

  り、使る。使か、え、が、に、た。

  社会事業界の若きホープとして徐々にその頭角を現わしていく様子は、社会事業懇話会等で、留岡幸助、山室軍平、野口幽香、生江孝之、原胤昭、渡辺海旭といった錚々たるメンバーに交って意見を交換、そうしたなかで長、て、さ、き、いへん勉強になっ 」という。此の頃の育成園は地番変更により、世田谷区上馬町一丁目七五四番地となり、昭和八(一九三三)年六月現在、男子三〇名、女子一八名の児童を収容している。基本財産は一〇〇、〇二二円、の他一一、七五一円あり、土地は二、三九〇坪である。

  り、と、い。で、社会事業の仲間どうし「放談会をしようじゃないか、各自言いたいことがある筈だ、それから思っていることをか、 」。は、いうことで、互いの手帳をみたら皆、火曜日が空いていたので、月一回、第三火曜日に集まろうということになった。会の名もそれにちなんで、“三火会”とした。名の由来については、もう少し理屈めいた話も伝わっており、と、う。ば、

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回想の松島正儀(二) 録もとれないじゃないか、そういうような冗談もあって」三つの火という意味が出てくる。それを重田信一は「三は、う。ば、す。松島正儀さんなどは、もうひとつの火でなかったの 」と解釈する。他にも名称に関する発言はあるが、由来についてはこれで良いように思う。当時、つまり昭和四年から七年にかけて、世界恐慌とその後の深刻な長期不況せ、た。に、り、時には主義を論じ、時には政策動向を批判し、さらには実践行動に打って出るという一幕もあった。

  は、産、調し、的、た。て、た。おけるこれら関係者の研究クラブとして生まれた三火会もそのひとつであ

  はじめは放談会であったかも知れないが、やがて「社会科学に立脚して、社会を客観的に観察し、現象を分析姿り、している過程のもの、あるいは実践の中で疑問を生じてきている問題を理論的にどう成立させ、確かめる 」が論題となった。側面的な理由としては、当時『社会事業研究』、『社会事業』、『社会福利』、『済生』、『連帯』といっり、は、が、頭の社会事業家や諸先輩を攻撃、まだ慈善事業的色彩の濃厚であった社会事業を新しい社会観の旗の下に社会科学的テコ入れをすべく、口に筆を、画期的な活動をし 」者が少なくなかった。つまり、個人的に見解を発表す

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回想の松島正儀(二)

るだけでなく、互いに集って議論をたたかわせる、そのほうが論点も明確となり、展望も開けると考えた。

  め、め、い、た。之、馬嶋僴は顧問となり、奥むめを、山高しげりもどちらかといえば客分に近かった。このように問題意識が共通で、は、り、た。は、人的交遊も極めて親密、何れもが親戚づき合いの睦まじさがあった」こと、具体的には「会員のうち栄転するとか、結婚するとか、冠婚葬祭、何かにつけて馳せ参じ、一堂に会して語り合うのを常とし ((

」交流に触れている。こうした親しさは外部からみると考えをひとつにする、同志的結合によってまとまっていると映ったかも知れない。て、れ、に、 ((

」。し、に、騰、論争の熱はいやがうえにも昂まった。松島は、その人柄から「主として現実はどうなっているかという面を担当 ((

」、調た。し、え、することはなく、塩せんべい一枚、渋茶一杯を啜りながら、いつ果てるともない議論を続けた。最初の「第一回は西窓学園セツルの一室、狭い部屋にムンムンする盛況で、唯物弁証法の立場をとる者と、人道主義的な立場をとる者と、活力あふれる会合となっ ((

」ことを松島は目撃している。重田は、三火会の集まりが関係者だけの例会的な論議の場でなく、より 公開討論的な性格を持ち、外部からもしばしば注目されたことにも触れている。

  き、り、

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回想の松島正儀(二) た。は、が、面、と、名講の権威にかかわるという心境も見逃せない。また、それほどこの研究会に世間の関心が向けられていたともいえよ ((

  当初六名で発足した議論の輪は、二年後に二五名、三年後に六〇名を超え、最盛期には東京を中心に一〇〇名を超える聴衆を集めた。今日、確定的な名簿が遺っていないので、関係者の記憶や、断片的な出席名簿をもとに判断するしかないが、顧問を含めておおよそ次の様な人びとが主要メンバーに名を連ねている。

  一、一、一、朗、夫、儀、昇、己、る、文、二、雄、相田良雄、朝原梅一、鵜飼俊成、小沢一、今井時郎、下松桂馬、松前福広、田尻俊介、三谷此治、井上哲男、高木武三郎、高島巌、郎、枝、郎、芳、吉、治、彦、茂、郎、ル、郎、郎、り、江、真、善、洲、到、明、治、僴、郎、道、大野木克彦、紀本参次郎、岡弘毅、生江孝之、船本数江、山本正男、栄木浦   三火会は同じメンバーによって社会事業研究会を組織、松島を編集兼発行人にして『社会事業批判』を発刊した。る。を、合、ら、をつくり、ひろく関係者にもわけることになり、その誌名を『社会事業批判』とし、毎月三〇〇部刷ることにした。編集責任者は、お前が民間で好都合だと、結局小生に押しつけられ、浅野研真が印刷所を世話して一号から四〇号くらいまで続刊し ((

」という。社会福祉思想史の面からみると、唯物弁証法的社会事業論者が多く集まっ村、り、は、

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回想の松島正儀(二)

理論が整然していたといってい ((

」点が注目される。吉田はここに集まる顔ぶれを分類、理論派範疇に磯村、牧、村松、浅野、鉄谷を入れ、現実派範疇に福山、松島を入れている。鉄谷が、三火会メンバーとしての松島を人物評の対象にしているので一部を引用しよう。

  で、る。ば、て、い。……中、時、は、て、て、屋だよと常々子供に言わせてい ((

  鉄谷は当時、松島の実践的姿勢にペスタロッチの人物像を重ね合わせたという。一方、松島とはつながらない人脈も存在した。唯物弁証法に立つマルクス主義者の系譜である。その中心人物、磯村は後に「地下運動とは別に──カムフラージュのためもあって──社会問題、社会事業を研究する組織をもった」が、これが三火会のもり、に、 ((

を明らかにし、川上貫一等共産党との関係をにおわせた。川上は関西を拠点に活動する左翼政治運動家、かつ社物。局、せ、り組みは、特高警察から注目されるところとなり、……一九三三年三月二六日、共産党シン ((

」として検挙、起訴された。こうした時代の流れに対し、松島はただ超然と傍観していたわけではない。むしろ逆で、改革を含む、「社会事業界における批判は真剣でなければならない」としたうえ、次の様に主張する。

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回想の松島正儀(二)   に、化、志、い。し、て、ぬ。私は批判の役目を非常に重く視てゐる。そして、それが社会事業界に於て然るを痛感す ((

  やがて磯村、牧のマルクス主義社会事業理論に理解を示し、社会思想的な視点を涵養する。

  近、て、勢、野、と、使が、て、れ、論、窟、論遊戯の圏内を去って、実践的規範における価値 に意思する証左であ ((

  さてこれ以前、若き社会事業家が、その研究成果を世に問うたことがある。昭和三年、東京市は第五回市民賞、を「た。が、それらは「大体に於て、市民の社会事業に関する要求期待を代表的に吐露し ((

」ものが多く、その点理論的な裏付けを持っていた牧、磯村の論文が上位入賞を果し、世間に公表され、刊行された。松島も応募したが、こちらく。も、にも治安当局の監視が厳しくなり、結果的に三火会は改組し、日本社会事業研究会となり、性格も時局に合致するものに変わり、やがて戦時厚生事業の波に翻弄される。こうした動きを松島はなかば批判し、しかしなかば維持存在するための建て前として受容する。つまり、両義的で矛盾の跡を残すことになる。

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回想の松島正儀(二)

  年、頃、ら、も、も、し、調た。て、の頃には、三火会も欠席がちの人が多くなり、国民体力法、妊産婦手帳制度実施の頃には事実上、三火会の火は消えた。

  三火会解散の後、ほぼ同じメンバーで日本社会事業研究会を設立、翼賛的な理論活動や実務に収斂していく実際課題との取り組みに意欲を見せた。昭和一七年七月実施となった妊産婦手帳制度の頃までそうであった。やが に「 ((

る。や、社会事業を大切にしようという共通認識は変わることがなく、互いに何くれとなく助け合い、励ましあった。松島に関する事柄でいうなら、次の様な出来事がここにあてはまる。

を誘って、ひろく知人多数にはたらきかけ、三日間で「援会」を結成し、後顧の憂いのないように配慮し (( だ。   (日、た。時、た。

  話題を変えたい。松島に施設長として園の経営をまかすことを決めてから、北川としては松島の結婚問題は極めて重要となり、その女性はやがて園母として夫を支える人物でなければならない。日常業務も煩瑣であ ((

。当然、自身も同じ思いがあっただろう。しかし、そうした人物を捜す余裕など有りはしない。結局、周囲がこの件で配慮の跡を残すことになる。具体的に動き、結婚話をまとめたのは大賀一郎である。大賀の紹介で見合い話がみ、が、女、が「

(12)

回想の松島正儀(二) ((

」と語っているように、俗にいう相性の良いカップルの誕生となった。北川が嫁の条件として求めた園母の資格条件もほどなくクリア、そのめがねにかない、ひと安心したエピソードが伝わっている。

  は、す。が、す。も、が、す。て、来も大丈夫だと話され ((

  う。れ、二四日生まれで、三歳ちがいの夫婦になるが、美枝子は六四歳で病没、正儀は九二歳の長寿を得たから、正儀にとっては寡夫としての期間が長かった。

  美枝子は父、森下庄三郎、母、たみがもうけた一男五女の末娘として、長崎に生まれた。学歴は地元の長崎県

1932年2月7日結婚 前列左・北川波津 右・中西田鶴子

参照

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