回想の松島正儀(二) : ある評伝の試み
著者 遠藤 興一
雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji
Gakuin sociology and social welfare review
巻 134
ページ 1‑112
発行年 2011‑02
その他のタイトル Looking Back upon Masanori MATUSIMA's Days(2) URL http://hdl.handle.net/10723/764
回想の松島正儀(二)
回想の松島正儀(二)
──ある評伝の試み
遠 藤 興 一四 自立する青年社会事業家 五 法制化と民間性の狭間にあって 六 経営の苦悩と思想的課題 七 戦時体制の強化と抵抗
(以下 次号)
回想の松島正儀(二)
四 自立する青年社会事業家 昼間は青山の本部で事務をとり、夜は神田駿河台にある明治大学夜間部に通う彼のもとに、大正一四
(一九二五)年六月六日、徴兵検査甲種合格の通知が届く。翌一五年一月、正月明け早々麻布の近衛歩兵第一連隊に入営した。このことは既に触れたが、兵営が近かったこともあり、日曜の外出許可日には短剣をさげ、軍装をした正儀が駒沢の玄関先に立つと、園児はこぞって出迎えた。座間勝平は『月報』(第二二四号)で、入営前後における園内はどのような難しい状況にあったか、職員の中核的存在であった松島を失ない、運営上の打撃がいかに大きかったかということに触れている。いずれ本部を全て分園に移し、組織の一元化を図る計画を持っていた北川としては、ここにきて早期実施を迫られることになった。入営後の松島はまもなく身体をこわし、立川にある陸軍衛戍病院に入院、快癒後も除隊とならず、引き続き衛戍病院付き看護卒として兵役を続けた。結局、陸軍三等看護卒は衛生伍長となった一年後の七月に除隊となる。『園報』(第二二五、二二六号)で短文ながら、その間の様子を園児の作文にかい間見ることができる。病気になった松島を「お母さん(北川波津)とワシリー兄さん(役者、山田蔵太郎)が汽車に乗って立川へ見舞いに行きました。私は毎晩神さまに早くよくなるやうにお祈りしました」とある。
園役者として東京育成園の事務一切を處理してゐた松島正儀君は昨大正十三年六月六日徴兵甲種合格の通知を受けました。本
回想の松島正儀(二) 年一月看護卒として近衛第一聯隊に入營し、今立川の衛戍病院に勤務してゐます。松島君は本園の出身者で入營前まで育成園の事務を執る傍ら明治大學に通學してゐたのです。育成園に取って松島君の入營は大打撃である。殊に北川園主に取っては本統に片腕をもぎ取られたやうな感じがするのです。併し徴兵は國民の義務である。同時に靑年の名譽であります。松島君は勇んで入營し、園母は喜んで之を送りました。從來松島君は靑山の本部に居って事務を執ってゐたのです。諸官衙の事業報告から、東京各方面の同情者より電話で御申込みの件々に對する應答處置など園務の一切に亘って心をくばって働いて居りました。松島君は幼稚園時代から園にゐて園母の膝下で育てられて來たもので小學校卒業の頃から旣に園の事務をも手傳って來たものですから、年は若くも園の事務員としては立派なものであったのです。今度東京育成園が本部を駒澤分園に移轉するやうになったのも慥かに松島君の入營といふことが、その理由の一部分を爲すものであることと思ひます。園主は老體にも拘らず園児の教育から園内外の庶務一切を見て居られました。松島君が立派に國家に奉公の兵役を終へて除隊となり、歸園の日を一日千秋の思ひで待って居られます (1)。
兵役を済ませ、昭和三(一九二八)年三月に大学専門部を卒業した松島は、いよいよ育児事業家として本格的な活動を開始するわけであるが、後に自身が語ったところによれば、「昭和三年に大学卒業と同時に、東京育成園主事として就職しました。男性は私一人しかおらず、今でいう指導員的な仕事をしていました。あとは全部保母でした (2)」。此の頃保母として採用され、その後長く勤めた職員の一人、亀井美代に触れておこう。周囲から「亀井のおばちゃん」の愛称で慕われた彼女は明治三五(一九〇二)年八月生まれ、昭和四年、二七歳で育成園に就職した。高等女学校卒業後、結婚して家庭に入ったもののまもなく離縁、その後メソジスト教会の牧師、河辺貞吉から洗礼を受け、その紹介もあって育成園に勤めるようになった。没後は松島夫妻と同様、都下北多摩郡多摩霊園にある育成園共同墓地に葬られた。一方、主事となった時の心境は「仕事の上で……本当の親にはなれま
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せんが、できるだけこの子の親に近い、心の親に自分はなりたい」という覚悟にみることができる。
職業につくというより、私自身としては神によって私に与えられた使命である。あるいは使命観といいますか、神に仕え、人に仕えるという考え方が、及ばずながら子どもたちと共に、生涯をいっしょに暮すことに決めました。人生航路を一転したのです (3)。
社会事業界の若きホープとして徐々にその頭角を現わしていく様子は、社会事業懇話会等で、留岡幸助、山室軍平、野口幽香、生江孝之、原胤昭、渡辺海旭といった錚々たるメンバーに交って意見を交換、そうしたなかで「当方園長、北川先生にお伴して陪席していて、談話の中味の輪郭の大きさ、各先生の声の大きいのに驚き、たいへん勉強になった (4)」という。此の頃の育成園は地番変更により、世田谷区上馬町一丁目七五四番地となり、昭和八(一九三三)年六月現在、男子三〇名、女子一八名の児童を収容している。基本財産は一〇〇、〇二二円、その他一一、七五一円あり、土地は二、三九〇坪である。
次に若き社会事業家の集まり、三火会の成り立ちと、松島の活躍に触れてみたい。きっかけは単純なことで、社会事業の仲間どうし「放談会をしようじゃないか、各自言いたいことがある筈だ、それから思っていることを言い合ってみなければわからないじゃないか、それでグループをつくろうということになった (5)」。それでは、ということで、互いの手帳をみたら皆、火曜日が空いていたので、月一回、第三火曜日に集まろうということになった。会の名もそれにちなんで、“三火会”とした。名の由来については、もう少し理屈めいた話も伝わっており、松島によると、「二つの火では戦はしたままで右左になってしまう。そこでもう一つ入れなければ、まとめて記
回想の松島正儀(二) 録もとれないじゃないか、そういうような冗談もあって」三つの火という意味が出てくる。それを重田信一は「三つとは、観念論とマルクシズムだけでは二つの火になってしまう。もう一つの火がなければ、ということです。松島正儀さんなどは、もうひとつの火でなかったのか (6)」と解釈する。他にも名称に関する発言はあるが、由来についてはこれで良いように思う。当時、つまり昭和四年から七年にかけて、世界恐慌とその後の深刻な長期不況が世相を揺がせ、思想運動や労働運動も激動期を迎えた。こうした時に、若き社会事業家達がグループを作り、時には主義を論じ、時には政策動向を批判し、さらには実践行動に打って出るという一幕もあった。
社会事業思想を貫くものは、無産、有産または労資階級間の問題を強調し、いかに解決すべきであるかを思想的、理論的に求めようとする動向にあった。そして、これらの解明を論究する雑誌や研究会は都市を中心に華々しく生まれてきていた。東京におけるこれら関係者の研究クラブとして生まれた三火会もそのひとつである (7)。
はじめは放談会であったかも知れないが、やがて「社会科学に立脚して、社会を客観的に観察し、現象を分析するのでなければ基本的姿勢とはいえないのではないかという考え」が共通の認識となり、「お互いに現在研究している過程のもの、あるいは実践の中で疑問を生じてきている問題を理論的にどう成立させ、確かめるか (8)」が論題となった。側面的な理由としては、当時『社会事業研究』、『社会事業』、『社会福利』、『済生』、『連帯』といった月刊誌が複数発行されており、三火会メンバーは、「これ等の雑誌に毎月誰かが、堂々の論陣を張って古い石頭の社会事業家や諸先輩を攻撃、まだ慈善事業的色彩の濃厚であった社会事業を新しい社会観の旗の下に社会科学的テコ入れをすべく、口に筆を、画期的な活動をした (9)」者が少なくなかった。つまり、個人的に見解を発表す
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るだけでなく、互いに集って議論をたたかわせる、そのほうが論点も明確となり、展望も開けると考えた。
かくして会則を定め、入会資格を四〇歳未満と決め、年長者は顧問になってもらい、別途扱った。生江孝之、馬嶋僴は顧問となり、奥むめを、山高しげりもどちらかといえば客分に近かった。このように問題意識が共通で、世代も近い若き論客の集まりは、必然的に議論も活発となり、規模も拡大した。鉄谷長太郎は、「会員一同の個人的交遊も極めて親密、何れもが親戚づき合いの睦まじさがあった」こと、具体的には「会員のうち栄転するとか、結婚するとか、冠婚葬祭、何かにつけて馳せ参じ、一堂に会して語り合うのを常とした )((
(」交流に触れている。こうした親しさは外部からみると考えをひとつにする、同志的結合によってまとまっていると映ったかも知れない。時として、「一部の人たちからは左翼だと非難され、殊に京都の海野幸徳より十把ひとからげに、三火会の赤青年共と咬みつかれたこともあった )((
(」。しかし、内部に入ってみればこうした親しさとは別に、議論は沸騰、論争の熱はいやがうえにも昂まった。松島は、その人柄から「主として現実はどうなっているかという面を担当し )((
(」、調整役を買って出ることが少なくなかった。しかし、三火会の議論は最終的にひとつの考え、立場に収斂することはなく、塩せんべい一枚、渋茶一杯を啜りながら、いつ果てるともない議論を続けた。最初の「第一回は西窓学園セツルの一室、狭い部屋にムンムンする盛況で、唯物弁証法の立場をとる者と、人道主義的な立場をとる者と、活力あふれる会合となった )((
(」ことを松島は目撃している。重田は、三火会の集まりが関係者だけの例会的な論議の場でなく、より 、、公開討論的な性格を持ち、外部からもしばしば注目されたことにも触れている。
三火会では有名な大学教授を招いて講演をきき、それを中心に全員の討論に移り、時の経過も忘れるほど熱中することがしば
回想の松島正儀(二) しばであった。したがって研究会に講師として招かれることは、ある意味ではきびしいが、他面、この集会に招かれないと、有名講師の権威にかかわるという心境も見逃せない。また、それほどこの研究会に世間の関心が向けられていたともいえよう )((
(。
当初六名で発足した議論の輪は、二年後に二五名、三年後に六〇名を超え、最盛期には東京を中心に一〇〇名を超える聴衆を集めた。今日、確定的な名簿が遺っていないので、関係者の記憶や、断片的な出席名簿をもとに判断するしかないが、顧問を含めておおよそ次の様な人びとが主要メンバーに名を連ねている。
牧賢一、磯村英一、福山政一、村松義朗、谷川貞夫、松島正儀、丹羽昇、三浦克己、植山つる、村山文、松本征二、早田正雄、相田良雄、朝原梅一、鵜飼俊成、小沢一、今井時郎、下松桂馬、松前福広、田尻俊介、三谷此治、井上哲男、高木武三郎、高島巌、木田徹郎、中島千枝、柴田敬次郎、中川幽芳、鈴木僊吉、村山益治、大久保満彦、江草茂、磯鐐太郎、坂巻テル、横田忠郎、原新太郎、山高しげり、小栗将江、浅野研真、田中法善、早崎八洲、岸田到、金熙明、小島幸治、馬嶋僴、鉄谷長太郎、木立義道、大野木克彦、紀本参次郎、岡弘毅、生江孝之、船本数江、山本正男、栄木浦 三火会は同じメンバーによって社会事業研究会を組織、松島を編集兼発行人にして『社会事業批判』を発刊した。昭和四年五月のことである。松島はその間の事情を、「欠席した場合、前回の議論がわからないから、記録をつくり、ひろく関係者にもわけることになり、その誌名を『社会事業批判』とし、毎月三〇〇部刷ることにした。編集責任者は、お前が民間で好都合だと、結局小生に押しつけられ、浅野研真が印刷所を世話して一号から四〇号くらいまで続刊した )((
(」という。社会福祉思想史の面からみると、唯物弁証法的社会事業論者が多く集まった三火会の中心人物に磯村、牧がおり、マルクス主義を立場としない松島は、「浅野の主張が三火会中もっとも
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理論が整然していたといっている )((
(」点が注目される。吉田はここに集まる顔ぶれを分類、理論派範疇に磯村、牧、村松、浅野、鉄谷を入れ、現実派範疇に福山、松島を入れている。鉄谷が、三火会メンバーとしての松島を人物評の対象にしているので一部を引用しよう。
東京育成園の松島君はおとなしいクリスチャンで、私設社会事業家として申し分なき人格者である。殊に我邦に於ける育児事業の諸缺点をば、彼は身を以て事新に努力している第一人者として、そのあらゆる所に心を配った快適な施設を一度視た者には永久に忘れ難き感銘を与へずにはおかない。……収容児が小学校で多勢の子供達と共に勉強中、教師からうちの商売を聞かれて皆が夫れ夫れ答へる時、うちの子供達は、答へに迷って打伏せたのを見て、彼は今育成園の中に東育印刷所を建て、うちは印刷屋だよと常々子供に言わせている )((
(。
鉄谷は当時、松島の実践的姿勢にペスタロッチの人物像を重ね合わせたという。一方、松島とはつながらない人脈も存在した。唯物弁証法に立つマルクス主義者の系譜である。その中心人物、磯村は後に「地下運動とは別に──カムフラージュのためもあって──社会問題、社会事業を研究する組織をもった」が、これが三火会のもうひとつの顔となり、「漸く右に展開しようとしていた社会福祉の理論構築に、真っ向うから立ち向った )((
(」ことを明らかにし、川上貫一等共産党との関係をにおわせた。川上は関西を拠点に活動する左翼政治運動家、かつ社会事業の研究も行なう人物。結局、「社会事業行政と大衆運動とを結び合わせ、さらに非合法活動へと拡がる取り組みは、特高警察から注目されるところとなり、……一九三三年三月二六日、共産党シンパ )((
(」として検挙、起訴された。こうした時代の流れに対し、松島はただ超然と傍観していたわけではない。むしろ逆で、改革を含む、「社会事業界における批判は真剣でなければならない」としたうえ、次の様に主張する。
回想の松島正儀(二) 批判の上に、或は批判の中に立てられる基礎改革意識の進化、此の線上に吾々は吾々の意志、行動を進めねばならない。吾々は現在社会の中に於ける事業を総観し、その存する価値を取捨して、それが全体社会の進運に寄与する確信を持たねばならぬ。私は批判の役目を非常に重く視てゐる。そして、それが社会事業界に於て然るを痛感する )((
(。
やがて磯村、牧のマルクス主義社会事業理論に理解を示し、社会思想的な視点を涵養する。
最近、社会事業の理論界に於て、インテリの若き分子が客観的情勢、客観的視野、客観的何々と、此の語を頻りに使用するが、即ち之は近代社会事業理論界に於て、現実への認識がより具体化され、理論のための理論、理窟のための理窟、即ち超然的高理論遊戯の圏内を去って、実践的規範における価値吸 (ママ)出に意思する証左である )((
(。
さてこれ以前、若き社会事業家が、その研究成果を世に問うたことがある。昭和三年、東京市は第五回市民賞、公募論文の題目を「東京市に於ける社会事業の批判並に其改善策」とした。応募総数は二〇〇を優に超えたが、それらは「大体に於て、市民の社会事業に関する要求期待を代表的に吐露した )((
(」ものが多く、その点理論的な裏付けを持っていた牧、磯村の論文が上位入賞を果し、世間に公表され、刊行された。松島も応募したが、こちらは佳作にとどまった(資料2を参照のこと)。時代は徐々に戦時体制下に移っていく。三火会活動にも、左翼運動にも治安当局の監視が厳しくなり、結果的に三火会は改組し、日本社会事業研究会となり、性格も時局に合致するものに変わり、やがて戦時厚生事業の波に翻弄される。こうした動きを松島はなかば批判し、しかしなかば維持存在するための建て前として受容する。つまり、両義的で矛盾の跡を残すことになる。
回想の松島正儀(二)
三火会は昭和一二年、日中戦争の頃、社会事業が厚生事業などと呼ばれる頃から、発起人の牧兄も、磯村兄も、又福山兄も軍の圧力が加わる国政の方向とともに立場の変化が次第に表面化し、肩書きの上進もあって論調は変わった。そして、人的資源論の頃には、三火会も欠席がちの人が多くなり、国民体力法、妊産婦手帳制度実施の頃には事実上、三火会の火は消えた。
三火会解散の後、ほぼ同じメンバーで日本社会事業研究会を設立、翼賛的な理論活動や実務に収斂していく実際課題との取り組みに意欲を見せた。昭和一七年七月実施となった妊産婦手帳制度の頃までそうであった。やがてなしくずし 、、、、、的に「時代の変遷に即応する受け止め方に変わっていった )((
(」とみられる。ただし個人的な友情や、社会事業を大切にしようという共通認識は変わることがなく、互いに何くれとなく助け合い、励ましあった。松島に関する事柄でいうなら、次の様な出来事がここにあてはまる。
を誘って、ひろく知人多数にはたらきかけ、三日間で「救援会」を結成し、後顧の憂いのないように配慮した (((ママ)) が出征後の施設経営の困難さをおもうと後ろ髪を引かれる想いに日夜悩んだ。それを察知した牧賢一は横田忠郎(三井報恩会主事) (昭和)一六年のある日、松島正儀のもとに召集令状が届いた。当時、彼は戦争孤児等一〇〇名近くの児童を収容していた。彼
(。
話題を変えたい。松島に施設長として園の経営をまかすことを決めてから、北川としては松島の結婚問題は極めて重要となり、その女性はやがて園母として夫を支える人物でなければならない。日常業務も煩瑣である )((
(。当然、自身も同じ思いがあっただろう。しかし、そうした人物を捜す余裕など有りはしない。結局、周囲がこの件で配慮の跡を残すことになる。具体的に動き、結婚話をまとめたのは大賀一郎である。大賀の紹介で見合い話が進み、互いに相手を充分に知ることがないまま結婚したが、後に長女、真美子が「夫婦仲は大変良かったので
回想の松島正儀(二) す )((
(」と語っているように、俗にいう相性の良いカップルの誕生となった。北川が嫁の条件として求めた園母の資格条件もほどなくクリア、そのめがねにかない、ひと安心したエピソードが伝わっている。
嫁として迎えられた美枝子夫人にたいする期待は、大変大きかったのです。それが、最初の一週間でさすがの女史(北川波津)にも満足の喜びがあたえられたのです。それというのも、美枝子夫人が、まず第一にトイレの掃除から始められたと聞いたからです。さすがの北川女史も感心して、これなら育成園の将来も大丈夫だと話された )((
(。
結婚に至る経緯に触れてみよう。正儀は明治三七年八月一五日生まれ、美枝子は明治四〇(一九〇七)年三月二四日生まれで、三歳ちがいの夫婦になるが、美枝子は六四歳で病没、正儀は九二歳の長寿を得たから、正儀にとっては寡夫としての期間が長かった。
美枝子は父、森下庄三郎、母、たみがもうけた一男五女の末娘として、長崎に生まれた。学歴は地元の長崎県
1932年2月7日結婚 前列左・北川波津 右・中西田鶴子