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回想の松島正儀(三) : ある評伝の試み

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回想の松島正儀(三) : ある評伝の試み

著者 遠藤 興一

雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji

Gakuin sociology and social welfare review

巻 135

ページ 33‑132

発行年 2011‑03

その他のタイトル Looking Back upon Masanori MATUSIMA's Days(3)

URL http://hdl.handle.net/10723/766

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回想の松島正儀(三) 回想の松島正儀(三)

──ある評伝の試み

遠   藤   興   一  

       八   新たな児童福祉を目指して

         間奏   ホスピタリズム論争をめぐって

       九   民間社会福祉の育成

      

一〇

  施設の社会化を推進する

      

一一

  思想と実践の間にあるもの

         むすびに代えて

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回想の松島正儀(三)

  新たな児童福祉を目指して   戦前の児童保護事業界、さらには民間社会事業界で活躍した松島は、太平洋戦争が終ったのもつかの間、戦後 の混乱、 荒廃した世相を前に休む間もなく、 戦災孤児をはじめとする様ざまな児童問題に取り組んだ。その一方、 新たな民主憲法体制下、政治、経済の在り方から庶民の日常生活レベルに至るまで、戦前と全く異なる社会情勢 が生まれ、日々新たな社会問題が多発することで事態は深刻化する。従って、絶え間のない努力と様ざまな試み を重ねなければならなかった。とりわけ民間社会福祉の再生と復興は至上命題であり、周囲が松島に期待すると こ ろ も 大 き か っ た。 と り わ け 福 祉 関 連 諸 立 法 の 創 設、 改 編 と い っ た 作 業 は 困 難 が 多 く、 苦 し い 経 験 を 強 い た が、 あえてそれを担い、極力責務を果そうとした。公私にわたる各種団体、機関の委員を引き受けたのもそうした現 われのひとつ。 特に民間社会福祉事業の特徴を生かすために、 全国養護施設協議会を結成した際の役割は重要で、 そ の 後 の 児 童 福 祉 界 に 方 向 づ け を 与 え る も の と な っ た。 又、 若 き 日 に 学 究 の 途 を 志 し な が ら 断 念 せ ざ る を 得 な かったにがい思いもあり、社会福祉の研究、教育にはことさら熱心で、若く、優秀な指導者、研究者を多く育て ることに繋がった。激動期にあって、時代の要請に即応しつつ、向うべき方向性を指し示す努力を貫き、同時に 北川波津をはじめ、戦前から諸先達に学んだ遺産を受け継ぎ、自らのものとした理念や思想、また処遇原則、専 門的な方法といった様ざまな面において、積極的な取り組みをみせた。

  終戦を境にして、巷に戦災孤児、浮浪児がどっと溢れた。混乱期であるから正確な実数など分かりようもない

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回想の松島正儀(三) が、 昭和二一 (一九四六) 年八月末現在の調査によると、 戦災孤児の概数は二、 八三七人、 内訳は乳幼児が四三三 人、 学 童 が 二、 四 〇 四 人 で、 こ れ ら は い ず れ も 親 類 縁 者 に 引 き 取 ら れ た か、 施 設 に 入 所 中 の 孤 児 で あ る。 そ の 外 辺 に ど れ ほ ど の 浮 浪 孤 児 が い た の か、 今 日 で は も は や 知 り よ う も な い。 『 日 本 社 会 事 業 年 鑑 』 ( 昭 和 二 二 年 版 ) に よ る と、 「 浮 浪 児 は 戦 後 に 於 て 大 都 市 に 多 く 発 生 し た。 戦 災 に 依 っ て 家 を 失 っ た 彼 等 は、 孤 児 で も あ り、 又 両 親 があっても家出したものであった」とい う

。つまり、両親との関係についていえば生別、死別を経て孤児になっ た両方の場合がある。行政的立場からみて施設に入所させる、させない判断には「鑑別」が必要であり、分類操 作が介在した。施設入所児童はこのプロセスを経てうなぎ上りに増加、 昭和二二 (一九四七) 年六月一五日現在、 孤児は四、 五九六人、浮浪児は四、 〇八〇人とな り

、巷間この数倍の孤児、浮浪児がいたと推測される。当時、調 査 を し た 竹 田 俊 雄 に よ れ ば、 「 一 言 に 浮 浪 児 と い わ れ る が、 浮 浪 児 が そ の 精 神 的 な 素 質 に お い て も、 既 往 の 環 境 においても、さらに浮浪の動機においても、実に種々異なるものを包含してい る

」事実が明らかになった。戦時 中から家庭崩壊、育児環境の劣悪化が進行し、児童問題はことさら戦後になって生れたものではなかった。竹田 に よ る と、 一 般 的 な 意 味 の 家 出 児 童 は 調 査 の 四 〇 % に 上 り、 理 由 も 大 抵 は 家 庭 環 境 の 不 備 に あ っ た。 と は い え、 緊 急 的 な 必 要 か ら 児 童 収 容 は 積 極 的 に 推 進 し な け れ ば な ら ず、 G H Q の 指 導 も 徹 底 し た 対 策 を 関 係 機 関 に 要 請、 厳しく通達した。

  浮 浪 児 を 収 容 す る 施 設 は、 一 方 に お い て は 戦 後 急 速 に こ れ を 保 護 す る 必 要 に 迫 ら れ て、 既 存 の 育 児 施 設、 虐 待 児 施 設、 精 神 弱 児 施 設、 少 年 救 護 施 設 そ の 他 不 良 児 施 設 な ど を 利 用 し て、 こ れ に あ ら ゆ る 浮 浪 児 を 混 合 収 容 す る 手 段 を と り、 新 設 の も の も、 浮 浪 児 の 分 類 収 容 に つ い て 明 確 な 目 標 を も つ 場 合 は 例 外 的 で あ り、 官 公 の 施 設 は 予 算、 経 営 の 面 か ら い た ず ら に 収 容 員 数 を 大

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回想の松島正儀(三)

しようとし、私設のものは社会事業デパート的企業心から、あらゆる浮浪児を収容しようとする傾向をもつものが少くな い

。   当時、こうした孤児、浮浪児の救済に東奔西走した人びとのなかにカトリック修道士、ゼノ・ゼブロウスキー がいた。マスコミにもしばしば登場した知名人であるが、その活動は竹田が指摘した収容環境をちょうど裏返し にした対応を示したもので、彼は無差別、無限定な施設送りを繰り返した。

そしてそれを何度でもくり返す 子 。

も な い。 一 度 に 七 人 つ れ て 来 て、 七 人 と も 翌 日 逃 げ て し ま っ た こ と も あ っ た。 役 所 の 手 続 き が や っ と 済 ん だ 頃 に は い な く な る 子、 べ る 長 い ヒ ゲ の 外 人。 と に か く 面 白 い し、 優 し そ う だ か ら、 子 ど も た ち は 喜 ん で つ い て く る。 だ が 一 夜 あ け る と、 翌 朝 は 影 も 形   「 お ー い、 坊 や、 み ん な よ い 子、 お じ い さ ん、 ア メ あ げ る、 マ リ ア 様 よ ろ こ ぶ 」、 黒 服 に 白 い 紐 を ぶ ら さ げ て 妙 な 日 本 語 を し ゃ

  こ う し た 恣 意 的 と も と れ る 対 応 に 巻 き 込 ま れ、 困 惑 し た 施 設 の ひ と つ が 東 京 育 成 園 で あ っ た。 「 マ ツ シ マ セ ン セー、コノコタノミマス」と言いながら、ゼノ修道士が時々子供を連れて育成園にやってきた。それが四人、五 人と続くようになると、育成園としても困って、とうとうゼノさんと喧嘩をし、彼との関係はそれっきり終った と 語 る の は 当 時 の 新 任 職 員、 長 谷 川 重 夫 で あ る。 や が て 施 策 も 徐 々 に 整 備 さ れ、 昭 和 二 三 ( 一 九 四 八 ) 年 二 月、 厚生省が孤児の一斉調査を行なったところによると、終戦直後八六あった児童施設は二七〇施設へ三倍の増加を み せ、 孤 児 数 は 二 一、 〇 〇 〇 人 を 数 え た。 さ て、 本 稿 の 舞 台 で あ る 東 京 育 成 園 は こ う し た 状 況 下 に お い て、 ど の ような問題に直面し、どのような対応を図ったであろうか。まず最初は食糧の確保が最大の課題となり、要する

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回想の松島正儀(三) に日々飢えとの闘いが続いた。

  子 ど も の 数 が ど ん ど ん 増 え て、 経 済 的 に 全 く 遍 迫 し て し ま っ た 時 が 何 度 も あ り ま し た。 松 島( 正 儀 ) 先 生 が 野 菜 を 買 う お 金 な い の で 野 菜 市 場 に 野 菜 く ず を 毎 日 拾 い に 行 か れ た と い う こ と。 あ る い は 薪 を 買 う お 金 が な い の で、 美 枝 子 夫 人 が 子 ど も 達 と 緒に毎朝、多摩川通りに馬糞を拾いに行って、それを乾かして風呂を沸かす燃料にし た

  子 ど も 達 に 食 事 を 与 え る た め、 闇 米 を 買 い、 そ れ が 分 か っ て、 世 田 谷 警 察 署 に 留 置 さ れ た こ と は 一 再 な ら ず あった。戦時中から園内の敷地を畑に代えてサツマイモ、カボチャ等を栽培、主食の代りにした。長谷川も「戦 後 一 番 苦 労 し た の は、 何 と い っ て も 食 糧 問 題 で す。 米 穀 の 遅 配、 欠 配 が 多 か っ た の で、 困 る と サ ツ マ イ モ の 茎 や 葉 を 乾 燥 し、 そ れ を 石 臼 で ひ い て お じ や に 入 れ て 食 べ ま し た 」 と 思 い 出 を 語 る

。 そ れ で も 子 ど も と 職 員 に 食 べ さ せ る 食 糧 は と う て い 賄 え ず、 リ ュ ッ ク を し ょ っ て 埼 玉 県 の 狭 山、 神 奈 川 県 の 藤 沢 辺 り ま で 農 家 を 一 軒 ず つ 巡 り、 買 い 出 し を し た。 買 い 出 し の 経 験 者 が、 多 く 語 る よ う に ど の 農 家 で も な か な か 分 け て は く れ ず、 着 物、 払 い 下 げ 軍 服 と 交 換 し、 よ う や く わ ず か な 米 穀 に あ

食糧危機には乾した野草を石臼で粉にして食べた

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回想の松島正儀(三)

りついた。育成園には常時五〇〜六〇人の児童が生活していたから、そのサツマイモを蒸して新聞紙に包み、新 橋 駅 前 の「 松 田 組 に テ ラ 銭 を 払 っ て、 “ う ま い よ、 う ま い よ ” と 大 声 を は り 上 げ 」 た こ と も あ っ た。 さ す が に、 ここには児童を参加させることはしなかったが、事態はそれほどに深刻さを加えつつあった。施設ぐるみ、全員 で食糧を確保しないことには、もはやなすすべがなかったということである。

  私 ど も、 は じ め て 植 物 学 を 研 究 し て、 う ど ん 粉 に 野 菜 を 入 れ た り、 方 面 隊 七 班 を 編 成 し て、 山 野 に つ み 草 に 行 っ た り、 も ち ろ んヤミの買い出しにも行きました。途中で何度も警察につかまりまし た

  松 島 の 語 る と こ ろ に よ れ ば、 「 施 設 が 一 番 苦 し か っ た の は 昭 和 二 一 年 の 五 月 ご ろ ま で、 つ ま り 食 糧 が も っ と も 不 足 し て き て、 そ れ こ そ 三、 〇 〇 〇 万 人 の 餓 死 が 予 想 さ れ る な ん て い う ふ う な 新 聞 報 道 が あ っ た

」 頃。 ひ と 握 り のうどん粉に食べられる草や雑穀を混ぜ、可能な限り増やし、それを皆で分けて啜った。 おじや 、 、 、 などはまだ良い ほ う で、 薄 く て 水 の よ う な す い と ん 、 、 、 、 を 口 に し な が ら、 子 ど も た ち の 世 話 を し た。 や が て 育 成 園 に は 戦 災 孤 児 に、 海外からの引き揚げ孤児が加わり、中国東北部、旧満州からの引き揚げ孤児を積極的に受け入れる。昭和二一年 九月一三日、第一陣が満州から九州博多に上陸した。奉天方面から三〇数名の孤児が到着した知らせを受けた厚 生省は、愛隣団の谷川貞夫、興望館の吉見静江、そして松島にその取り扱いを要請した。そこで瀬川和雄、亀井 美代が迎えに行き、小児結核に罹っていた二〇数名を救世軍杉並療養所に収容、残りの一〇数名は全員育成園が 引き受けた。長谷川重夫が彼らをオート三輪に載せ、途中玉川電車に乗り替えて、ようやく連れ帰った。

  さて、もうひとつ、この頃の東京育成園について忘れられない出来事があった。それは東大生の一群がここに

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回想の松島正儀(三) 集まるようになったこと。戦争末期、多西分園のあった都下西多摩郡福生には海軍航空隊基地があり、終戦近く になると、特攻の志願兵が近辺の民家に分宿した。そのなかの数人が偶たま多西分園を訪れ、子ども達の勉強を みたり、一緒に遊んだことについては既に触れた。戦後、復員した彼等は再び育成園に顔を見せると、やがて定 期的にやってきて“おたのしみ会”を園舎の日本間を使って催すなど、日常活動に参加した。なかでも、後に三 菱化成工業の会長になった長野和吉、大東文化大学の学長になった穂積重行、朝日新聞記者として大成した大田 信男、自身が児童養護施設を経営することになった近松良之等がその中心的なメンバーである。ヤミ米の買い出 しや、野菜の栽培作業に従事した。なかでも大谷嘉朗は大学卒業後、育成園に就職し、主事となった。自身の語 る と こ ろ に よ れ ば、 「 一 九 四 七 年 三 月、 自 分 の 持 ち 物 一 切 合 財 を 大 八 車 に 積 み 込 ん で、 本 郷 西 片 町 の 下 宿 先 か ら 世 田 谷 上 馬 の 東 京 育 成 園 へ、 戦 災 で 焼 野 原 同 然 の 東 京 を 北 か ら 西 に ガ ラ ガ ラ と 道 を た ど っ た 」。 受 け 容 れ た 松 島 の応えは次の様であった。

  男 子 職 員 と し て は 園 長 の 自 分 が 居 る だ け だ か ら、 君 が 来 て 手 伝 っ て く れ る の は 嬉 し い が、 こ こ で は 大 人 も 子 供 も 何 と か 食 べ い く こ と に 精 一 杯 で、 君 に 給 料 が 払 え る か ど う か 分 か ら な い。 君 の 仕 事 は、 食 糧 確 保 の 為 の 買 い 出 し か ら 始 ま っ て、 営 繕 か ら か ら 何 迄、 自 分 と 一 緒 に な っ て 子 供 の 逃 亡 を 防 ぐ た め の 生 活 防 衛 が 最 大 の 任 務 だ か ら、 何 で も 屋 の つ も り で や っ て く れ、 先 ず 論 よ り も 実 践 だ。 徒 弟 修 行 と 思 っ て 理 屈 を 言 わ ず に 一 年、 三 六 五 日、 春 夏 秋 冬 一 巡 し て み て く れ。 そ う す れ ば、 何 と か こ の 仕 がどういうものか検討がついてくるだろ う

((

  大 谷 は 三 年 後 の 昭 和 二 五 ( 一 九 五 〇 ) 年 八 月、 ボ ス ト ン 大 学 大 学 院 に 留 学、 彼 の 地 で 二 年 間 社 会 福 祉 を 学 ん で 帰国する。本格的なソーシャルワークを学んだ大谷は、やがて明治学院大学文学部に教員籍を置き、学究として

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回想の松島正儀(三)

努力を重ね、キリスト教児童福祉界に在って指導的な役割を務めることになった。育成園の主事時代に「若き世 代の辯」と題する文章を残 し

((

、園の生活を紹介している。子供たちについて、ボランティア学生の一人がこう言 う。 「 園 の 子 供 達 は 恵 ま れ て い る な あ。 普 通 の 家 庭 の 子 供 は、 今 の 日 本 の 現 状 で は 仲 々 あ あ い う 豊 か な 生 活 は、 内容は持てまい」と当惑気につぶやく。事実、松島の持論である「子供達の生活態度は中流家庭の中のあたりを 目 標 に 」 と い う 方 針 か ら す れ ば、 当 時 の 一 般 家 庭 で は 望 め な い 生 活 が こ こ で は 営 ま れ て い た。 そ れ は 次 の エ ピ ソードによって示される。

  施 設 の 明 る さ と 贅 澤 ─ 私 が 未 だ 學 友 仲 間 と 共 に Y 園 に 遊 び に 出 か け て い た 頃 の 或 日、 例 の 如 く 明 る く 人 懐 っ こ い 子 供 達 と 一 日 を 遊 び 暮 し て 皆 好 い 氣 持 に な っ た 私 達 が Y 園 を 辞 し て 歸 り の 電 車 を 待 っ て 居 た 時 の こ と で あ る。 仲 間 の 一 人 K が 誰 に 話 し 掛 け る で も な く「 園 の 子 供 達 は 恵 ま れ て い る な あ。 普 通 の 家 庭 の 子 供 で は、 今 の 日 本 の 現 状 で は 仲 々 あ あ 言 う 豊 か な 生 活 の 内 容 は 持 て ま い 」 と 獨 言 っ て 何 か 思 い 惑 っ た 様 な 顔 付 で あ る。 私 達 に は K の 複 雜 な 氣 持 が 直 に ぴ ん と 來 た。 そ れ は 我 々 一 同 が 暗 々 裡 に 感 じ 續 け て 來 た 共 通 の 感 情 だ か ら で あ る。 我 々 は K の 呟 き を 論 理 的 に は っ き り し た 結 論 に 迄 持 っ て 行 こ う と は 強 い て し な か っ た け れ ど も、 園 長 の 常 の 口 癖 の「 子 供 達 の 生 活 程 度 は 中 流 家 庭 の 中 の あ た り を 目 標 に 」 と 言 う 事 に 對 し て、 敗 戦 後 の 苦 し い 一 般 國 民 生 活 と 言 う 問 題 を 抜 き に し て 無 條 件 に そ れ に 同 調 す る こ と の 出 來 な か っ た 我 々 は、 K の 呟 き の 裏 に あ る「 Y 園 の 子 供 達 の 生 活 は 國 民生活一般を考へると少し豊かすぎるのではないか」と言う批判的な氣持を讀み取って、異口同音に肯いたものであっ た

((

  終戦後まもない頃の出来事をいくつか紹介してみよう。米軍兵士が飛び入りで訪問することがあり、そういう 時は大抵、食糧や玩具を持参した。或る日、ヘイズ曹長がトラック一台分の廃材を持ってきたが、これなどは燃 料用の薪として大いに調法した。クリスマス近くになると、プレゼントを持って訪問する米軍兵士が増えた。ま

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回想の松島正儀(三) た、 地域住民の動きとして、 戦時中に設立した児童図書館 (少国民図書館) の活動から、 六人の母親が中心となっ て「持ち帰り文庫」が始まった。昭和二三年一一月一九日、名称をマザーズ・ライブラリーと変え、誰でも自由 に利用できるようにした。戦前からあった東育印刷所も事業を再開、電気が使えず、輪転機が回らない時には謄 写版印刷を請け負った。子供たちの暮しには、こんなこともあった。当時は学校給食がないため、弁当持参で登 校 し な け れ ば な ら な い。 校 内 で は こ の 弁 当 を め ぐ っ て 盗 難 事 件 が し ば し ば 発 生、 そ ん な 時 は 大 抵、 「 育 成 園 の 子 が犯人だ」ということになり、いじめが起こった。すると、育成園付属のコドモの園幼稚園に通ったことのある 裕福な家庭の児童が陰に陽に園児をかばった。他の児童施設でも食糧事情はほぼ同様で、昭和二一年一一月の調 査によると、 現在の代用食を米食に代えたいとするところは全体の五五%になり、 翌二二年三月の調査によると、 なるべく速やかに学校に通わせたいとする希望が一四%から四九%に増えるなど、生活の落ち着き具合に少しず つ変化が見られるようになっ た

((

  このような食糧事情に苦しんでいる時期、救いの手を差し延べたのはGHQで、旧日本軍の軍需物資を大量に 放出、 航空糧食をはじめとする保存食が民間施設に配給された。 そうこうするうちに八月はサツマイモの収穫期、 一〇月は米の収穫期がやってきたため、餓死の恐怖はようやく遠のいた。やがて、昭和二一年一二月のクリスマ スから、突如ララ(

LicensedAgenciesforReliefinAsia

)の救援物資が配給となり、その詳細は『ララ記念誌』

( 厚 生 省、 昭 和 二 七 年 一 二 月 ) の 記 述 に 譲 る と し て、 育 成 園 に と っ て も こ れ は 恵 み の プ レ ゼ ン ト と な っ た。 一 二 月 二二日、ダンボールを満載した一台のトラックが育成園の門前に止まり、それらは次つぎと運び込まれた。その 後 も 数 次 に わ た っ て ラ ラ 物 資 の 配 給 が あ り、 大 い に 助 か っ た。 長 谷 川 重 夫 の 回 想 ( 録 音 イ ン タ ビ ュ ー) か ら、 一

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回想の松島正儀(三)

節を引用してみたい。

  敗 戦 後 の 荒 漠 た る 廃 虚 の 中、 食 糧 を 始 め 生 活 物 資 の 窮 乏 は 戦 後 生 ま れ の 人 々 に は 到 底 理 解 し 得 な い 程 に 深 刻 な も の で し た。 わ け て も 東 京 都 市 部 に あ っ た 当 養 護 施 設 で は、 疎 開 地 か ら 子 ど も 達 が 続 々 と 帰 園 す る 一 方 で、 新 ら た に 戦 災 孤 児、 浮 浪 児 が 次 々 に 委 託 さ れ、 そ の 食 糧、 衣 料 品 等 の 調 達 は 大 世 帯 で あ っ た だ け に 都 民 一 般 よ り も 更 に 深 刻 で し た。 昭 和 二 一 年 に 入 っ て か ら は 政 府 の 備 蓄 米 も 底 を つ き、 一 人 一 日 二 合 三 勺 ( 三 二 二 グ ラ ム ) の 配 給 米 も 遅 配、 欠 配 が 相 次 ぎ、 代 用 食 の 象 徴 で あ っ た さ つ ま 芋 も 入 手 困 難 と な り、 さ つ ま 芋 の 茎 や 葉、 野 草、 柿 の 葉 等、 喰 べ ら れ る も の は 何 で も 探 し 求 め て 飢 え を し の が な け れ ば な り ま せ ん で し た。 五 月 に は 旧 日 本 軍 の 携 帯 固 形 食 糧 や 粉 末 味 噌 の 特 別 配 給 が あ っ て ホ ッ と し た の も つ か の 間、 そ の 後 は 早 生 の 甘 藷 を 求 め て 買 い 出 し、 早 生 の 新 米 を 闇 購 入 等、 大 勢 の 子 ど も 達 を 栄 養 欠 調 か ら 悪 く さ せ な い よ う に と、 園 長 以 下 職 員 が 懸 命 の 努 力 を 払 っ た 日 々 で し た。 燃 料 も ( 当 時 は 木 炭、 石 炭 ) 不 足 が 深 刻 な 中、 寒 い 冬 に 入 っ て 飢 え と 寒 さ に お び え る よ う に な り ま し た。 一 二 月 中 旬、 突 然 ラ ラ 物 資 が 配 給 さ れ る と の 通 知 を 受 領、 半 信 半 疑 で い た ら 一 二 月 二 二 日、 ト ラ ッ ク で 段 ボ ー ル 詰 の 救 援 物 資 が 到 着、 夢 か と ば か り に 歓 声 を 挙 げ た。 特 に 七 ポ ン ド 缶 に 入 っ た ホ ー ル 粉 ミ ル ク の 有 難 か っ た こ と、 コ ン ビ ー フ や 小 麦 粉、 そ し て 沢 山 の 衣 料 品。 ど れ も が 子 ど も 達 の 生 命 を 救 う 物 資 で あ り、 正 に 戦 後

ララの代表,フェルセッカー神父と育成園の子どもたち

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回想の松島正儀(三) 最 大 の ク リ ス マ ス・ プ レ ゼ ン ト で、 終 生 忘 れ 得 な い 感 謝 で る。 そ の 後、 数 年 に 渉 っ て 続 い た ラ ラ 物 資 に よ っ て、 多 く 子 ど も 達 の 生 命 が 護 ら れ、 健 康 を 大 き く 恢 復 さ せ て い た だ た事実に、幾重にも感謝したいと思います。   戦 前 の 民 間 社 会 事 業 施 設 は、 皇 室、 政 府 を は じ め 様 ざ ま な 助 成 団 体 か ら 補 助 金 が 支 給 さ れ た。 経 営 上 の 苦 難 を 緩 和 す る 効 果 を 示 し た が、 戦 後、 G H Q は 全 て 廃 止、 公 私 分 離 の 原 則 を 立 て、 そ の 厳 守 を 求 め た。

  ( 昭 二一年一〇月三〇日)

  私 設 社 会 事 業 団 体 に 対 す る 政 府 の 財 政 的 援 助 に 関 す る 昭 二 一 年 二 月 二 七 日 の 日 本 政 府 に 対 す る 進 駐 軍 司 令 部 の 覚 書 第 一 項( ロ ) 項 は 次 の 如 く 解 釈 せ ら れ、 明 確 に さ れ ね ば な ぬ。 ( A ) 政 府 資 金 は 私 設 社 会 事 業 団 体 に 対 し、 以 下 の( C 項 に 述 べ る 場 合 を 除 い て 一 時 多 額 の 補 助 金 と し て 使 用 さ れ は な ら な い。 ( 中 略 ) ( C ) 国 庫 資 金 は 国、 府、 県、 市 町 村 い ず れ を 問 は ず、 次 の 場 合 に お い て の み、 生 活 困 窮 者 に 対 る 保 護 と し て 現 存 の 私 設 社 会 事 業 団 体 の 再 興、 修 理、 拡 張

戦後の食事風景

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回想の松島正儀(三)

行 ふ 事 に 関 し て 使 用 し て よ ろ し い。 即 ち 或 る 地 方 に お け る 之 等 の 困 窮 者 に 対 し、 そ れ が 最 も 経 済 的 な 且 つ 実 行 し 易 き 方 法 で あ る と 認 め ら れ た と き の み 国 庫 資 金 の 使 用 が 可 能 で あ る。 他 の 公 設 又 は 私 設 社 会 事 業 団 体 で は 困 窮 者 に 対 し、 適 用 し 得 る も の が 存 在 する場合に政府資金は上述の目的の為に使用してはならない (下略) 。

  代りに委託費、措置費を公費から支出することになり、そこに人件 費

((

、事務費が付いて一段落したのは大分先 のことである。当初、民間社会福祉施設が受けた打撃は大きく、関係者は共同募金をはじめ財源確保の問題と取 り組んだ。松島によると、民間施設が抱える「赤字は元来国庫の負担に於て補填すべきもので、共同募金は施設 の強化、向上させるために使用さるべ き

((

」であるという。公的責任を明確にしたうえ、民間の寄付金募集を図る べ き だ と い う 主 張 を 行 い、 『 社 会 事 業 』 ( 第 三 五 巻 一 〇 ・ 一 一 号 ) で も「 民 間 施 設 に 於 け る 赤 字 補 填 の 問 題 」 を 取 り 上げて論じた。戦前に比べて「第二次大戦以後に於ける赤字は、赤字の発生事情が根本的に異ってい る

((

」ことを 知る必要がある。

  民 間 施 設 に 於 け る 特 質 は 赤 字 を 覚 悟 し て も そ の 許 さ れ る 最 大 限 に ま で、 対 象 者 の 福 祉 の 線 を 下 げ な い で 守 り ぬ か ん と す る 熱 意 を持ち続け、奮闘してい る

((

  社会福祉の施設経営にとって、従前からある“古くて新しい”問題が、慢性的赤字経営をどう克服するかとい う難問である。松島によれば「一口に赤字といっても、第二次大戦以後における赤字は、赤字の発生事情が根本 的 に 異 っ て い る こ と 」 (『 社 会 事 業 』、 第 三 五 巻 一 〇 号 ) に 眼 を つ け な く て は な ら な い。 制 度 的 に は 最 低 基 準 の 維 持 が公立、民間双方にとって義務づけられ、それが経営内容のミニマムとなり、やがて定着した。次に、施設数か

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回想の松島正儀(三) らいえば全国に約七、 〇〇〇ある施設のうち、約六〇%にあたる四、 〇〇〇余箇所は民間であること。それが社会 福祉の現場を日々支えているという、この意義を貶価してはならない。ところが現実は公立、公営施設の補完的 役割を担わされ、委託事業に象徴される下請化が日々進行しつつある。これこそ早急に改められなければならな い課題であると指摘した。それは内容豊かな民衆の福祉を考える面から、公設施設と併せ、民間施設活動がいか に重要視されなければならないか。松島は東京育成園における昭和二六年度の決算報告を事例として紹介しなが ら、公費の流入、支出のフローを確認し、加えて民間独自の財源をいかに確保したらよいか、つまり金融機関と の資金融通問題、振興資金の利用方法、募金活動の勧奨等、様ざまなテーマに触れながら、早急に社会事業金庫 を創設する必要があると結論した。さしあたり、公的事業の委託を受け入れ、収入を増加することは安易な方法 であり、可能ではあるが必ずしも適切なやり方ではない。次いで視点を変え、経営にまつわる世間の無知、無定 見を問題とし、市民向けの広報活動がいかに大切であるかを強調した。まずは戦前と比べ「第二次大戦以後に於 ける赤字は、赤字の発生事情が根本的に異ってい る

((

」ことを知る必要があるという。

  民 間 施 設 に 於 け る 特 質 は 赤 字 を 覚 悟 し て も そ の 許 さ れ る 最 大 限 に ま で、 対 象 者 の 福 祉 の 線 を 下 げ な い で 守 り ぬ か ん と す る 熱 を持ち続け、奮闘してい る

((

  吉田久一によると、戦後、民間社会事業論が活発に論じられた時期があり、論者として丹羽昇、谷川貞夫、更 井 良 夫、 三 谷 此 治 と と も に 松 島 の 名 が 挙 げ ら れ る。 昭 和 三 〇 ( 一 九 五 五 ) 年 一 一 月、 第 八 回 全 国 社 会 事 業 研 究 発 表 会 で 松 島 は 発 言 し、 そ れ を「 民 間 社 会 事 業 の 特 質 」 (『 社 会 事 業 』、 第 三 八 巻 八 号 ) に ま と め た。 戦 後 復 興 も 一 段

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回想の松島正儀(三)

落し、そろそろ高度経済成長が始まろうという昭和三〇年、松島は措置制度下の社会福祉事業が抱える問題とし て、公私関係の在り方をめぐる自説を展開した。戦前からこと有る毎に民間社会事業の独自性、固有性を主張す る こ と を 怠 ら な か っ た 松 島 で あ る。 「 官 」 な い し「 公 」 が 主 導、 か つ 牛 耳 る 社 会 事 業 の 現 状 に 終 始 批 判 的 で あ っ たことは、これまで取り上げた論文から窺うことはできるが、本論はそれを更に一歩進め、民間社会事業の持つ 実験性、 先駆性、 開拓性、 補完性といった特徴を、 本来持っている固有の特質と関わらせつつ、 その解説を行なっ た。憲法第二五条をはじめとする生存権保障をベースに、法制度の充実を図り、公的責任の明確化、定着化を前 提 に、 「 公 」 と「 民 」 に と っ て 在 る べ き 関 係 を 問 う 作 業 は、 松 島 の 研 究 経 歴 か ら 考 え る な ら、 避 け て 通 る こ と が できない。まず福祉三法が成立し、戦災対策に一応の答が出たことで、公的責任ははっきりしたが、では「民間 社 会 事 業 は 公 的 責 任 と 如 何 な る 関 係 に あ る か 」。 東 京 育 成 園 の 昭 和 二 九 年 度 予 算、 決 算 を 例 と し て、 経 営 実 態 か ら み た 民 間 性 の 特 徴 を 明 ら か に し、 そ れ が 世 間 一 般 の 経 営 概 念 と 比 べ て、 い か に「 甚 だ し く 時 代 離 れ し た も の 」 であるかを解説、公営の補完的役割を負ったままで良いのだろうか、あるいはその下での劣等処遇であって良い のかと糺す。要は措置制度にあり、民間側の努力目標としては先駆的、実験的役割の活発化が俟たれる。社会福 祉の特徴は、いつの時代も社会や経済の変化にさらされ、原則を貫ぬくことは難しい。しかし、そうであればこ そ 「絶えず研究的に、 鋭敏な感覚を働かせ、 要求の所在や、 程度を適確に把握する能力を持つことが必要である」 。

  この時、政府は最低生活保障を宣言したにもかかわらず、その実現に積極的な姿勢を示さないし、後退のきざ し さ え 見 せ る 現 状 に 対 し て、 「 民 間 社 会 事 業 の な す 分 担 は、 極 め て 正 当 に、 適 正 な 状 態 に お い て、 ま た 本 来 正 常 な 条 件 の 下 に 考 慮 せ ら れ な け れ ば な ら な い

((

」。 そ れ は、 公 的 責 任 の 明 確 化 に つ い て、 即 応 的 に 民 間 社 会 福 祉 事 業

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回想の松島正儀(三) はその補完的役割に変わったとする考えを批判した。 本来の 「民間社会事業は国の責任の外という解釈が妥当で、 従 来 任 意 活 動 と い う 考 え 方 の 下 は、 正 統 的、 正 当 的 に 今 日 に 至 っ て い る

((

」 こ と が 考 え ら れ る べ き で、 「 変 則 的 な 在り方ではあるが、補完的意味において、特質の一面を持ちつつあ る

((

」現状に、批判されるべき「依然として消 えない特質がある」ことを強調し、そのための条件改善を要請、改めて公的責任の徹底と民間的独自性の涵養を いかに両立させるべきかという課題を提起し た

((

  戦後児童福祉立法の制定過程をたどると、松島は民間人の立場でここに深く関わっている。では、基本立法と い う べ き 児 童 福 祉 法 の 制 定 に 関 わ る 過 程 に お い て、 ど の よ う な 動 き 方 を し た だ ろ う か。 昭 和 二 一 ( 一 九 四 六 ) 年 一 二 月 一 一 日、 厚 生 大 臣 は 中 央 社 会 事 業 委 員 会 ( 委 員 長、 赤 木 朝 治 ) に 児 童 保 護 法 案 の 検 討 を 諮 問、 松 島 も 委 員 の一人として参加、 「要綱を検討する時に、今日でいう児童福祉法の原理の検討に大半の時間を使っ た

((

」。戦後の 社会福祉は、どのような基本理念にもとづき、いかに実施したら良いか、その原則課題から出発しなければなら な い。 松 島 は こ の 点 で 憲 法 の 意 義 を 重 視、 と り わ け「 第 九 条 の 戦 争 放 棄、 否 認、 第 一 三 条 の 基 本 的 人 権 の 尊 重、 第二五条の健康で文化的な生存権保障を真剣に学ん だ

((

」ことから、それを児童福祉にどう生かしたらよいかとい う課題意識を抱いた。この基本的な「考え方が決まれば、後は法律技術屋さんにお任せしてもいいんです」と考 え、 そ の た め の 議 論 に つ な げ た。 と い う の も、 「 児 童 の 福 祉 増 進 を 目 的 と し て 制 定 せ ら れ た 児 童 福 祉 法 は 最 も 高 い 精 神 を 盛 り 込 み、 再 建 日 本 の 将 来 に 明 る い 希 望 を 与 え ら れ て い る 」 今 日、 「 憲 法 と 合 は せ、 児 童 福 祉 法 は 吾 国 児 童 の 将 来 に ま こ と に 明 朗 な る 見 透 し を 与 へ、 そ の 将 来 を 約 束 す る

((

」。 夜 遅 く 委 員 会 か ら 帰 宅 し た 松 島 は、 育 成 園の職員を前に「厚生省はお茶が出るだけで、おなかが減ってねぇ、でもこの法律は福祉という名を冠し、すべ

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回想の松島正儀(三)

ての子供を対象とする事、子供は歴史の希望なのだという。賀川豊彦さんなどは机をたたいて、茶のみ茶碗が床 に落ちるくらいだった よ

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」と語った。

  原 理 の 位 置 づ け と、 原 理 の 基 本 の 考 え 方 に 非 常 に た く さ ん の 時 間 を 使 い、 考 え 方 が ま と ま っ た と こ ろ で、 総 則 に あ た る 部 分 の 考え方が変わったら後のところはどうなるかということを、事前に検討を願うというようなことで、すぐに検討に着手し た

((

  新法の制定に向けた作業のなか、当初戦前から続く児童「保護」事業の延長線上に立法の趣旨を置く動きが見 られたが、それが中途から一転して児童「福祉」法の制定に切り変わった。その根拠、理由を松島は憲法第九条 の存在に求める。

  第 九 条 の こ れ か ら の 日 本 は 戦 争 を し な い、 武 器 も 持 た な い、 平 和 国 家 に な る と い う こ と、 そ れ じ ゃ 何 を す る の か と い う と き に、 期 せ ず し て 皆 さ ん が 子 供 の 将 来 に、 大 き い、 そ し て 明 る い 希 望 を 持 と う じ ゃ な い か と、 こ れ が 出 て き た ん で す。 発 想 の 原 点 は そ こにあると思うんで す

((

  翌二二年一月二五日、 児童福祉法要綱案の答申となり、 厚生省担当課長で要綱案を成案とした松崎芳伸が、 「食 糧難と、インフレと、道義の頽廃にあえぐ敗戦日本に、生きる光明を与えるものがあるとすれば、それはやはり この『歴史の希望』としての児童にほかならない」と述べたことを、松島は後のちまで記憶した。そして、本法 作 成 は「 子 供 た ち に 日 本 の 未 来 を 託 す と い う 情 熱 的 な も の で あ っ た 」 と 述 べ る。 国 会 審 議 を 経 て 二 二 年 一 二 月 一二日公布、翌二三年四月一日実施となった。その後、社会情勢の変化や新規事業の追加等があって幾度か法改

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回想の松島正儀(三) 正 が 行 な わ れ た が、 な か に 松 島 に と っ て 生 涯 忘 れ ら れ な い 出 来 事 が ひ と つ あ っ た。 昭 和 二 六 ( 一 九 五 一 ) 年 一 月 一 〇 日、 児 童 福 祉 法 改 正 問 題 研 究 会 の 席 上、 そ れ ま で 施 設 長 が 持 っ て い た 親 権 代 行 権 ( 第 四 七 条 ) を 削 除 し た い という厚生省案が提出された。それに対し、施設長側は反対、猛烈な抗議となり、大きく紛糾しかねない状態に な っ た。 最 後 は 川 嶋 企 画 課 長 か ら、 「 省 案 の 施 設 長 の 親 権 削 除 案 は、 過 般 の 中 児 審( 中 央 児 童 福 祉 審 議 会 ) に お ける松島委員長等の反対発言と、全養協の反対意向を慎重に考慮の結果、同省案は自発的に撤回す る

((

」という発 言 が あ っ て よ う や く 治 っ た。 松 島 は 後 に 川 嶋 三 郎、 内 藤 誠 夫、 辻 村 泰 男 と い っ た 担 当 官 名 を 挙 げ、 「 非 常 に よ く 流れを研究していました。行政官の中にも、そういう優れた人材がおっ た

((

」と回想している。

  松島にはもうひとつ、戦後の法制定に関わった経験がある。それは中央児童福祉審議会の委員長として、児童 憲章の起草に携ったことである。児童福祉に関する諸施策は矢継ぎ早に打ち出されたものの、その基本的な発想 や価値観のなかに、戦前からの児童保護思想が根強く残っていた。とくに憲法第二五条の生存権は児童福祉にど う権利意識として定着できるかという課題が、ほとんど放置されたままであった。そこで関係者のなかから原則 を明記した規範立法が必要であるという声が上がり、 宣言、 憲章としてまとめる動きに発展、 政府もこれを認め、 昭和二四年六月二八日、中央児童福祉審議会に対し、児童憲章の制定に関する諮問を行なった。二年後の二六年 五月五日、吉田茂首相が児童憲章制定会議を招集、宣言を発表、同日をして国民の祝日と定めた。いわゆる「こ どもの日」である。この間、松島は制定準備委員会に属して終始、論議に参加し、二五年一一月開催の全国社会 事 業 大 会 を 通 し て 現 場 の 声 を こ こ に 反 映 さ せ る ル ー ト を 設 け た。 政 府 側 か ら は 灘 尾 弘 吉 が、 「 憲 法 と 法 律 の 真 ん 中 あ た り の 児 童 憲 章 と い う よ う な も の を、 こ の 児 童 福 祉 法 に 入 れ た ら ど う な ん だ

((

」 と い う 示 唆 を 松 島 に 伝 え た。

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回想の松島正儀(三)

松島の考えは「法律を作ってその原理を確立しても、すべての国民に理解していただくには、今後何年もかかっ てしまう。国民の多数が早くわかる方法はないかというので考えたのが児童憲章で す

((

」。

  さ ら に 別 の 問 題 で、 松 島 が 深 く 関 わ っ た「 児 童 福 祉 施 設 最 低 基 準 」 の 制 定、 公 布 に 触 れ て み た い。 昭 和 二 三

( 一 九 四 八 ) 年 一 二 月 二 九 日、 こ れ は 省 令 と し て 公 布 さ れ た が、 そ こ に は 他 分 野 に 比 べ、 児 童 福 祉 は 施 設 運 営 の 基準が領域毎に複雑、あるいは不整合な面が多いこと、格差や不平等も生じやすいことから、そうした事態を防 ぐ必要があった。あるいはミニマム保障を明確化することによって、実施責任の確定を図る意図を持った。昭和 二三年五月一日開催の中央児童福祉委員会の席上、ようやく「努力して今日の如くなっているが、終戦後、新し い施設をつくるには又、問題が多い。共同募金の問題を考慮、基準に関しては人的基準と物的基準を分けて考う べ き で あ る 」 と 発 言 し て い る。 「 児 童 福 祉 施 設 は 経 費 の 点 で ゆ き づ ま っ て い る 」 近 年 の 状 況 を 見 渡 す と、 施 設 処 遇 の 条 件 設 定 は、 各 個 バ ラ バ ラ に な り、 慾 意 的 に ナ ン デ モ ア リ と い っ た 状 況 が 生 じ て い る。 そ う し な い た め に、 最 低 基 準 を 法 制 面 か ら 明 確 に す る こ と が 必 要 と な っ た。 加 え て、 「 児 童 福 祉 施 設 は、 最 低 基 準 を 越 え て 常 に そ の 設備、及び運営を向上させなければならな い

((

」。議論の経過をたどると、 「最低基準の設定については、それが余 りに消極的ではないか」という批判が、松島の口から飛び出し、次の様に言う。

  我 が 国 の 保 護 施 設 が 悪 か っ た 原 因 の 一 つ は、 最 低 基 準 と し た 救 護 法 の 施 設 の 扶 助 費 を 設 定 し た か ら で あ る。 他 の 法 律 で い う 最 低基準の意味と社会事業のためのこの意味は全く異っている。この際新しく最低の生活の意義を定めてほし い

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  産業従事者の為には、曲がりなりにも労働基準法が制定され、しかし一方、福祉施設、設備に関する基準は無

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回想の松島正儀(三) きに等しい。松島は養護施設部会を代表する立場で「児童福祉施設最低基準   日本社会事業協会案」の作成に関 わり、さらに二三年四月「最低基準令案に対する松島委員の意見書」を提出した。一部を次に引用、関心の焦点 をさぐってみたい。

  一、 第 九 条 の 退 所 後 の 児 童 に 対 す る 適 当 な る 指 導 の 問 題 は、 主 と し て 孤 児 を 扱 ふ 場 合、 真 に 重 要 な る 問 題 と 思 は れ る が、 之 経費の裏付ありや否やは会案に明記なし。本条の意義を確認し、経費の考慮なさるべきと思ふ。

  二、福祉施設の職員に対する待遇は一般給与金に準ずる旨明記せられてはいかがか。

  三、 養 護 施 設 五 〇 人 収 容 程 度 以 上 の 場 合、 設 備 基 準 の 中 へ 左 記 を 加 へ て は い か が か。 遊 戯 室、 講 堂、 洗 濯 場、 調 理 場、 更 に 員に於て保母補は必要と考へる。

  児童福祉施設最低基準は昭和二三年一二月二九日施行と決ったが、審議には丸二年間を費した。遡れば、この テ ー マ は 大 正 一 五 ( 一 九 二 六 ) 年 一 二 月、 第 一 回 全 国 児 童 保 護 会 議 に お い て 既 に 提 出、 要 望 さ れ た こ と の あ る も の。 公 布、 施 行 後 の 問 題 点 と し て、 「 最 低 基 準 が 実 施 さ れ る と す る と、 行 政 的 処 置 の み が 残 り、 予 算 的 処 置 は 離 れてしまった。現場において、最低基準を延期して貰いた い

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」という声は多いと言う。更に最低基準をクリアし ている施設のなかには、遂に現状を最低基準に合わせるよう改訂しているところもあり、背景には事務、経理の 負 担 過 重 が あ る と 指 摘 し て い る。 後 の 動 き に 触 れ て み よ う。 最 低 基 準 の 見 直 し は 昭 和 三 五 年 か ら 三 七 年 に か け、 中央児童福祉審議会を中心に行われたが、 全養協も調査研究部を中心に討議、 現状の点検を通じて活動を行った。 昭 和 三 七 ( 一 九 六 二 ) 年 七 月、 同 審 議 会 は 最 低 基 準 の 改 善 に 関 す る 意 見 具 申 を 行 っ た。 こ れ は 二 年 前、 つ ま り 昭 和三五年八月四日に具申のあった児童福祉行政の刷新強化に続け、要保護児童対策の積極化、近代化を要望した

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回想の松島正儀(三)

ものである。

  要 保 護 児 童 の 収 容 施 設 に つ い て、 そ の 管 理 の 実 態 を 病 院 管 理 の そ れ と 比 べ て み る と、 そ の 職 員 の 勤 務 条 件、 被 収 容 者 の 処 遇 等 に は 相 当 の 格 差 が 見 ら れ る。 一 般 に 児 童 福 祉 施 設 の 処 遇 は 悪 く、 近 年 労 働 条 件 に 関 す る 紛 議 が 多 発 の 傾 向 に あ る こ と、 さ ら に 児 童 の 処 遇 水 準 は 一 般 に 低 く、 所 期 さ れ た よ う に そ の 福 祉 を 図 り、 健 全 な 形 で 社 会 に 復 帰 さ せ る こ と が 十 分 に 行 な わ れ て い る と は いい難いと考えられる。

  中央児童福祉審議会委員、東京都社会福祉協議会養護部会長であった松島が中心になって取り組んだ結果、進 展 し た 側 面 は 明 ら か に 存 在 す る。 他 に、 民 生 委 員 が 兼 務 す る 児 童 委 員 の 役 割、 機 能 に つ い て も 問 題 提 起 を し た。 児童委員はあくまでも単独に、しかも専門性を備えた者が就くべきであるというのが持論であった。

  戦 後 経 営 の 動 か す べ か ら ざ る 問 題 と し て、 次 代 を 担 う 児 童 の 問 題 が で て き た。 そ こ で、 児 童 委 員 が 必 要 に な っ た 訳 で、 こ の 仕 事 を 民 生 委 員 に お し つ け る こ と は、 原 則 的 に 無 理 で あ る と 私 は 思 う。 適 当 な 方 も あ り、 そ の よ う な 方 に は か ね て 頂 く こ と も よ い かもしれぬが、積極的に児童福祉の推進に役立たしめるためには、兼ねることはやはり無理で す

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  具 体 的 な 問 題( 事 例 ) を 通 じ て、 児 童 委 員 に 求 め ら れ る 役 割 期 待 に 相 当 す る も の は 何 か と い う 点 に つ い て も、 松島は発言したことがあった。それを持論から導けば、必然的に民生委員では難しいことになる。

  お ね が い し た い 点 は、 子 供 た ち の 明 る い 点 を の ば し た い こ と で、 児 童 委 員 の 活 用 法 に つ い て は こ れ ら の 点 を 児 童 委 員 に 徹 底 さ せ る 必 要 が あ る。 児 童 委 員 を も っ と 大 き く 取 扱 い た い。 東 京 都 の 会 合 で き い た の だ が、 新 し い 民 生 委 員 が 児 童 に つ い て 何 か や り た い と 思 う と き、 ど こ に き け ば よ い か 分 か ら な い と 言 ふ。 児 童 係 を 末 端 ま で 普 及 さ せ、 又 具 体 的 に 指 導 す る こ と も 必 要 で あ り、

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回想の松島正儀(三) 徹底すればもっと翕然とわき上るようになると思 う

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  その他松島委員は「一八歳にならぬ前に退所すると、施設をはなれて独立の生活に入るが、これの面倒もみる べ き 」 ( 昭 和 二 三 年 五 月 一 五 日 ) で あ る こ と、 処 遇 上 男 子 と 女 子 を 分 け る 年 齢 を「 満 八 歳 以 下 」 に す る こ と は、 家 庭 的 処 遇 に と っ て 利 点 が 損 な わ れ る。 つ ま り、 「 フ ァ ミ リ ー・ ホ ー ム の 推 進 を 妨 げ る 」 ( 昭 和 二 三 年 七 月 二 二 日 と い う。 さ ら に「 一 八 歳 で 入 所 を 打 ち 切 る 」 ( 昭 和 二 四 年 一 月 二 五 日 ) 点 に つ い て も、 よ り 柔 軟 な 対 応 が 望 ま れ る とした。フラナガン神父といえば、戦後間もないわが国の児童福祉界では知らない人はいない。しかしその滞日 期 間 は 昭 和 二 二 ( 一 九 四 七 ) 年 四 月 か ら 六 月 ま で、 わ ず か 二 か 月 余 に す ぎ な い。 駆 け 抜 け る よ う に し て、 各 地 の 施設を視察し指導、助言を行った。

  GHQとの関わりから松島が強いショックを受けたことがあった。公衆衛生福祉局、福祉課長ネフ中佐が育成 園を訪れ、やがてプライベートな意見交換ができるようになった時、ネフは児童福祉施設を全て国公立に移管し たいと言いはじめた。教護院については是非実施したいが、北海道遠軽の家庭学校と横浜の家庭学園だけは、創 立者が歴史的に著名なので残すつもりである。松島はこれに真っ向うから反対、民間施設の意義、長所を強調し て反論した。それが効を奏したというわけではないが、児童養護施設は従来どおりに据え置かれた。さて、GH Qが派遣を要請して実現したアメリカ、ネブラスカでボーイズ・タウンを創設、国際的に著名なフラナガン神父 に 言 及 し て み よ う。 仙 台 か ら 長 崎 ま で、 各 地 の 児 童 福 祉 施 設 を 視 察 し、 助 言 を 行 な っ た が、 二 一 年 五 月 二 二 日、 都内施設を巡回、やがて東京育成園にやってきた。

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回想の松島正儀(三)

  神 父 は 部 屋 に 靴 を 脱 い で 上 る の も 面 倒 臭 い そ ぶ り を 見 せ て い た。 子 供 た ち と 一 緒 に 拍 手 で 出 迎 え た 松 島 さ ん は、 神 父 の 膝 元 に すっとしゃがみ込むと、 雑巾で汚れた神父の靴を拭い、 「どうぞ、 そのままで結構です。お上がりください」と言った。その途端、 神 父 の 顔 色 が 変 わ っ た。 神 父 は 松 島 さ ん の 手 を 取 り、 疲 れ を 飛 ば す 勢 い で、 集 っ て い る 子 供 た ち の 輪 の 中 に 飛 び 込 ん で い っ た。 同行したGHQの軍政部のキャロル女史、同福祉部のネフ中佐もびっくりしてい た

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  長谷川重夫によると、視察を終えて帰る段になって、ふっと「わたしもこういう施設を作りたかった」と一言 も ら し た。 フ ラ ナ ガ ン の わ が 国 施 設 に 対 す る 批 評 に は 概 し て 厳 し い も の が あ っ た か ら、 こ の 一 言 は 貴 重 で あ る。 例えば次の様なコメントを残している。

  第 一 は 日 本 の 育 児 院 は 宗 教 教 育 を 忘 れ て 居 り ま す。 又 子 供 に 神 様 を 拒 絶 し て 居 り ま す。 日 曜 日 は 神 の 安 息 日 と し て あ る も の で すが、日本の育児院には日曜日はありません。この点は日本の施設は未分化で、収容者は少しも鑑別され、分類されていませ ん

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  この一週間前、五月一六日に都内の工業倶楽部で、児童福祉週間の行事として全国児童福祉施設代表者懇談会 が開催された。七〇名程の参加者のなかに松島がおり、講師としてフラナガンが招かれた。懇談会の席上、フラ ナガンと松島の間で、次の様な会話のやりとりがあった。

  問   施 設 に 収 容 す る 前 の 児 童 の 防

止 に つ い て、 ア メ リ カ は ど う し て い る か。 ア メ リ カ の 私 設 社 会 事 業 家 は ど ん な 働 き を し て い るか。

  答   思 慮 あ る 愛 に 満 ち た 家 庭 を 世 に 建 設 し て ゆ く 方 向 に も っ て い く 以 外 に 方 法 は な い。 そ こ で、 社 会 事 業 家 は 地 域 の な か に 専 門的な協力を授けることが必要であ る

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回想の松島正儀(三)   大谷嘉朗のフラナガン評は、 松島や長谷川と多少異なるもので、 そのエネルギッシュな行動に圧倒されながら、 世代交代の必要性に触れた。

  ど う 見 て も 四、 五 十 代 と し か 見 え な い 若 々 し い 輝 き と 風 姿 を 持 っ て い る 神 父 を 見 た 時 の 驚 き は 一 通 り で は な か っ た。 私 は 嘗 て 迄 に 出 席 し た 諸 会 合 其 の 他 の 場 で 拝 顔 の 栄 を 忝 う し た 斯 界 の 人 々 の 風 姿 を あ れ こ れ 思 ひ 浮 べ て 見 る け れ ど も、 誰 一 人 と し て 神 の若々しさに比し得るが如き人を想起することが出来ない。 否反って其等の人々は年令以上に老い込んでいるのが普通である。 (中 略 ) 此 の 様 な 神 父 に よ っ て 指 導 せ ら れ て い る ア メ リ カ の 社 会 事 業 殊 に 少 年 福 祉 事 業 の 如 何 に 若 々 し く 明 る い こ と で あ ろ う か を 想 て 羨 望 に 堪 え な か っ た 私 は、 そ れ に 引 換 え て 老 い 込 ん だ 暗 い 日 本 の 社 会 事 業 界 を 思 い 較 べ て 憂 鬱 に な ら ざ る を 得 な い。 神 父 の さ を 考 え る と、 世 代 の 古 い、 新 し い と 言 う こ と は 最 早 論 外 で あ る。 ( 中 略 ) 日 本 の 社 会 事 業 界、 殊 に 児 童 福 祉 施 設 に 働 く 人 々 は も二十も世代の若返りをする必要があるのではあるまい か

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  東京育成園の活動に注目した米軍関係者の一人にアリス・ケニヨン・キャロール女史がいた。後に松島が親愛 を込めて“ビヤ樽・キャロル”と呼んだ女性で、ケーキやチョコレートを持ってしばしば訪れた。同じ軍政部に いたラフ女史を紹介し、子供たちに英会話を教える配慮を示している。竹田俊雄は、当時浮浪児の扱いについて 要 点 を 示 し た が、 そ れ に よ る と、 「 浮 浪 児 を 施 設 に ひ き つ け る た め に は、 子 供 た ち を し て『 施 設 は い い な 』 と 思 わせるものをもたなければならない。施設の文化は子供の心理に適応し易いようにする一つの素地をつくるもの であるが、この施設への受け入れや、少なくとも初期の指導は、子供に強制力を感じないようにすることが肝要 であ る

((

」。

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回想の松島正儀(三)

  児 童 憲 章 に 手 を 付 け る 頃 に は、 G H Q の 方 に キ ャ ロ ル さ ん と い う 人 が い ま し た。 私 の と こ ろ の タ ケ シ ち ゃ ん と い う 子 が、 ビ ア 樽 キ ャ ロ ル と 言 っ て い ま し た。 タ ケ シ ち ゃ ん は G H Q に 一 六 回 捕 ま っ て、 一 六 回 石 神 井 学 園 を 逃 げ だ し た と い う 子 で す。 あ る 時、 キャロルさんが目を付けたんですね。ジープに乗って、 彼女自身巡回していますから。またあの子が出て来ていると。それで一六 回 目 の 時 に、 タ ケ シ ち ゃ ん が パ ン を 抱 え て、 片 方 に 肉 を 缶 に い っ ぱ い 入 れ て、 塀 を 出 よ う と し て い る と こ ろ を 捕 ま え て、 そ の ま ま 私 の と こ ろ へ 来 ち ゃ っ た ん で す よ。 石 神 井 学 園 脱 走 歴 一 六 回 で、 こ れ を た だ 繰 り 返 し て い る だ け で は 何 だ か ら、 プ ラ イ ベ ー ト の場合にあの子が定着できるかどうか、 実験ケースとして東京育成園が引き受けてくれと言うんです。 イヤとは言えないでしょう。 も う 見 る か ら に 凄 味 を 帯 び て い る ん で す よ、 そ の 子 は。 頭 は よ く 利 く ん で、 言 う こ と も よ く わ か る ん で す が、 小 学 校 四 年 生 ぐ ら い で し た ね。 ( そ れ は 何 年 頃 の 話 で す か ) 一 九 四 八 年 じ ゃ な い か な。 そ れ で、 一 週 間 た っ て も、 二 週 間 た っ て も、 一 ヶ 月 た っ て も 逃 げ 出 さ な い。 と う と う 学 校 に や る こ と に し た ん で す。 と こ ろ が、 小 学 校 に 入 っ た こ と は 覚 え て い る け ど、 後 は 全 然 行 っ て い な い で し ょ う。 困 り ま し た ね。 こ の 時、 私 の と こ ろ に 大 谷( 嘉 朗 ) 君 が い て、 ま さ に こ れ こ そ ケ ー ス 研 究 だ か ら、 立 派 に 彼 を 指 導 し て み ろ と 言 っ た ん で す。 結 局、 学 校 へ 行 っ て し ば ら く し て、 能 力 が 出 る よ う に な っ た ん で す よ。 キャロルさんが喜んで ね

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  昭 和 二 四 ( 一 九 四 九 ) 年 一 一 月 か ら 翌 二 五 年八月まで、 約九カ月間、 児童福祉顧問とし て 来 日 し た キ ャ ロ ー ル は 元 も と ベ テ ラ ン の ソーシャルワーカーであり、 日本では新設の 児童相談所をはじめ、 児童福祉施設の専門的 処 遇 の 方 法 に つ い て 指 導 に あ た っ た。 ス ー

アリス・キャロール女史

(26)

回想の松島正儀(三) パーバイズ、チームワーク、アドミニストレーションの重要性を強調、その成果は昭和二六年、厚生省児童局か ら『児童福祉マニュアル』と題する単行本にまとめて公刊された。これはその後、ケースワークを含む児童相談 所の事務内容を整備していくうえで有益なものとなり、 「児童相談所執務必携」の作成にも影響を与えた。

(1)

  『日本社会事業年鑑』

(昭和二二年版) 、社会事業研究所、昭和二三年八月、二一〇頁。 (2)   辻村泰男「戦災孤児と浮浪児」 、厚生省児童局編『児童福祉』 、東洋書籍、昭和二三年六月、一五七頁。 (3)   竹田俊雄「浮浪児の問題」 、『社会事業』 、第三一巻一号、昭和二三年一月、一頁。 (4)   竹田俊雄、前掲書、二頁。 (5)   松居桃樓『ゼノ死ぬひまない』 、春秋社、昭和四一年三月、二〇〇頁。 (6)

  『基督教児童福祉』

、第一一号、平成九年九月、六頁。 (7)   長谷川重夫インタビュー録音、東京育成園所蔵。 (8)

  「座談会・養護施設のあゆみ」

、『児童養護』 、第二巻一号、昭和四六年五月、二六頁。 (9)

  『養護施設三〇年』

、全国養護施設協議会、昭和五一年九月、六五頁。 (

( 10 )  大谷嘉朗「私の歩いて来た戦後四五年」 、『テオロギア・ディアコニア』 、第二五号、一九九二年三月、四頁。

( 11 )  『社会事業』 、第三一巻三 ・ 四号、昭和二三年三 ・ 四月。

( 12 )  大谷嘉朗「若き世代の辯」 、『社会事業』 、第三一巻三 ・ 四号、昭和二三年三 ・ 四月、三〇頁。

( 13 )  辻村泰男、前掲書、一八六〜一八七頁。

14 )  そ の 実 態 に つ い て 松 島 い わ く、 「 第 一 に 従 事 者 の 待 遇 を 考 え な く て は い け な い。 現 在 は あ ま り に も 低 す ぎ て、 こ れ で 生 活

(27)

回想の松島正儀(三)

支えることは非常にむずかしい」 (「座談会 ・ 一九四八年の社会事業を顧みる」 、『社会事業』 、第三一巻一一 ・ 一二号、昭和二三 年一二月、五〇頁) 。 (

( 15 )  松島正儀「一九四八年の社会事業を顧みる」 、『社会事業』 、第三一巻一一 ・ 一二号、昭和二三年一二月、五〇頁。

( 16 )  松島正儀「民間施設に於ける赤字補填の問題」 、『社会事業』 、第三五巻一〇 ・ 一一号、昭和二七年一一月、四頁。

( 17 )  松島正儀、前掲書、九頁。

( 18 )  同書、四頁。

( 19   )  吉田久一『改訂増補 現代社会事業史研究』 、川島書店、一九九〇年八月、四八三頁。

( 20 )  松島正儀「民間社会事業の特質」 、『社会事業』 、第三八巻八号、昭和三〇年八月、八頁。

( 21 )  松島正儀、前掲書、九頁。

( 22 )  同書、一四頁。

( 駆的役割の点もきえてはいないとみている」 (吉田久一『昭和社会事業史』 、ミネルヴァ書房、昭和四六年六月、三一三頁) 。 は 民 間 社 会 事 業 の あ り 方 と し て は 補 完 的 で 変 則 的 で は あ る が、 し か し 民 間 施 設 は 合 理 性、 経 済 性、 科 学 性 等 の 社 会 事 業 の 先 23 )  「 民 間 社 会 事 業 に 対 す る 期 待、 批 判 と し て、 民 間 社 会 事 業 の 側 か ら 松 島 正 儀 は、 民 間 施 設 に お け る 委 託 費 は 八 〇 % で、 そ れ

( 24 )  「松島正儀先生に聞く」 、『児童福祉研究』 、第六号、一九九五年七月、三六頁。

( 〜五五頁。 25 )  松島正儀「児童福祉法と私」 、『児童福祉年報(一九八六〜一九八八年版) 』、 全国社会福祉協議会、 昭和六二年一一月、 五四

( 26 )  松島正儀『児童福祉要領』 、日本女子大学における講義資料、奥付なし、一頁。

( 27 )  長谷川重夫インタビュー録音、東京育成園所蔵。

( 28 )  「松島正儀先生に聞く」 、『児童福祉研究』 、第六号、一九九五年七月、三七頁。

( 29 )  『養護施設三〇年』 、全国養護施設協議会、一九七六年九月、五九頁。

( 30 )  福島一雄「全養協活動の足跡」 、『養護施設の四〇年』 、全国養護施設協議会、一九八六年一〇月、四七頁。

31 )  前掲書、二〇頁。

(28)

回想の松島正儀(三) (

( 32 )  『養護施設三〇年』 、全国養護施設協議会、一九七六年九月、五八頁。

( 33 )  松島正儀「社会福祉とわが人生」 、『一九八二年心配事相談事業年報』 、全国社会福祉協議会、昭和五八年三月、五四頁。

( 34 )  松島正儀『児童福祉要領』 、日本女子大学における講義資料、奥付なし、四〇頁。

( 35 )  寺脇隆夫編『続児童福祉法成立資料集成』 、ドメス出版、一九九六年一一月、七四二頁。

( 36 )  第一四回中央児童福祉審議会での発言(昭和二四年六月二八日) 。

( 37 )  「座談会・一九四八年の社会事業を顧みる」 、『社会事業』 、第三一巻一一 ・ 一二号、昭和二三年一二月、四二頁。

( 38 )  第四回中央児童福祉委員会での発言(昭和二三年六月一五日) 。

( 39 )  『名誉都民小伝』 、東京都、一九九六年三月、三〇頁。

( 40 )  「フラナガン神父は語る」 、『社会事業』 、第三〇巻六 ・ 七号、昭和二二年六 ・ 七月、二一頁。

( 41 )  前掲書、三一〜三二頁。

( 42 )  大谷嘉朗「若き世代の辯」 、『社会事業』 、第三一巻三 ・ 四号、昭和二三年三 ・ 四月、二九頁。

( 43 )  竹田俊雄「浮浪児の問題」 、『社会事業』 、第三一巻一号、昭和二三年一月、六頁。

44 )  『児童福祉研究』 、第六号、一九九五年七月、四一〜四二頁。

間奏   ホスピタリズム論争をめぐって

  里親制度とは児童福祉における社会的養護の一形態であり、家庭型の養護を実施するために設けられた民間委 託制度である。児童福祉法第二七条において都道府県知事が適当であると認めた里親を、あらかじめ登録してお き、施設側、里親、児童の三者が合意したうえで引き取って育てる。方法は民法にもとづいて養子縁組を前提と する場合と、児童福祉法にもとづいて養育里親になる場合がある。里親制度は起源を明治三〇年代に遡るほど歴

(29)

回想の松島正儀(三)

史は長いが、そのわりに児童福祉界で普及、発達することはなかった。その里親制度の実態を詳しく調査、検討 した。時期からいって戦災孤児、引き揚げ孤児が施設に数多く生活しており、後年の実態とは大分異なる特殊状 況があり、基本的には今日と共通する点がないわけではないが、異なる点も多く散見される。松島は「里親制度 の 現 状 分 析 」 (『 社 会 事 業 』、 第 三 三 巻 三 ・ 四 号、 昭 和 二 五 年 三 ・ 四 月 ) に お い て 登 録 里 親 の 分 布 状 況 に 触 れ、 実 数 か ら 浮び上る特徴について、東京都における場合を分析、ついで里親登録と里親審議会の関係、つまり制度の運用上 問題となる点を明らかにした。次に里親と里子のマッチングに見られる傾向や問題点を昭和二四年当時の実例を 紹介しながら委託後の処遇に言及、 最後は里親里子関係を解除する場合、 その理由、 原因をさぐる。結論として、 「 里 親 制 度 は、 前 掲 数 字 を 参 考 と し た う え で、 大 体 成 功 の 道 を 歩 ん で い る と 思 わ れ る 」 と 判 断、 将 来 に 制 度 の 発 展を予想するが、これは必ずしもそうはならなかった。最後に制度自身の要点をまとめている。基本的には「実 施 の 状 況 は 概 し て 順 調 で あ る 」 と い う が、 細 か く 見 て い く と、 「 里 親 と 里 子 を 結 ぶ 重 要 な 中 間 機 関 と し て、 児 童 相談所が各府県ともその人的配置に、物的設備に極めて不十分」であると捉え、児童相談所機能の現状には問題 が多い。当時は里子として引き取る場合、しばしば「労働搾取との関係」が問題になった。児童福祉法に違反す る年少労働の多い実態を考慮するなら、都市、農村を問わず、もっぱら児童の労働力のみを目当てに引き取る例 は跡を絶たない。そこで松島は、制度の運用にあたる立場から、経験と訓練を積んだ「人物」の配置こそが大切 であると強調する。

  世 に い う ホ ス ピ タ リ ズ ム 論 争 の 始 ま り は、 昭 和 二 五 ( 一 九 五 〇 ) 年 三 月、 雑 誌『 社 会 事 業 』 に 東 京 都 立 石 神 井 学園長であった堀文次が「養護理論確立への試み─ホスピタリズムの解明と対策」を発表した時からで、その後

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