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・・ 大正時代の小林多喜二の評論活動と彼の思想

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(1)

大正時代の小林多喜二の評論活動 と彼の思想

倉 田 稔

は じめ に

1 「リズムの問題」

2 修身 とサ ウシア リズム」

3 ス トリン ドベル グ論文

4 「『下女』 と 『循環小数』」,および 「ジュー ドとア リョー シャ」

5 『小樽新聞』での論争 おわ りに

はじめに

ここでは,小林多喜二の大正時代の評論を取 り上げる。彼の小説 よりも,彼 の思想が これ らによってよ く分かる。 これは多喜二伝記 (14)にあたる。

1 「リズムの問題」

小樽高商卒業直前 に,小林多喜二 は,論文 「リズムの問題」を書いた。 これ は トルソーで もある。 ここで リズムとは,実際は,俳句の五七五,短歌の五七 五七七の リズムを意味 している。 この リズムの問題を,彼 はつねづね考えてい た。友人 と議論 もしていた。 この論文のあとがさで,多喜二 はこの出来を控え 目に言 っているが,実際はこれをかな り自信作 と,彼は思 っている。

多喜二は,当時勃興 していた口語歌の問題 について も言及 している 彼は,

〔1〕

(2)

2 商 学 討 究 第46巻 第4

「口語 と古語 の区別 を もうけない」1)と して い るので, 口語歌運動 に同情 的 であ る。 しか し 「・・・短歌改革 は慎重 に行 われ るべ きで ある ・・」2)と結 論 してい る

全体 の結論 として は, 「自分 は リズム本然の姿を もって一つの詩 とす る自分 の前 には,所謂詩 も短歌 も俳句 も滅亡 さるべ きであ る ・・・・あ らゆる分野 を実質的に包括す る真の意味の 自由詩 あ るのみであ る 短歌家詩家の差別 はな く, もっと人間性 表現欲求 に根底 を置 いて,その点か らの詩人 あるのみ であ る。従 って,古語 口語,五七五七七,語尾の踏韻,頭音削ま問題外であ るO

・・

」3)

この議論 は,若 い。そ して余 り正 しい もので はない。

日本の短歌の系統 は, 1,万葉集,2,古今和歌集,3,新古今和歌集,の 系統があ る。近代 にいたって, 1を正岡子規が評価 した。彼 の歌論 として 「歌 よみに与ふ る書」があ る。子規 は,客観的写実主義 (写生主義)を となえた。

2を佐 々木信綱が評価 した。 3の立場 に,新詩社の与謝野鉄幹 ・晶子がいる。

彼 らは 『明星』を出 した。4)この派 に石川 啄木が加 わ った。ただ し啄木 はその 浪漫主義か ら決別 した。それ に,啄木の口語歌 に与 えた役割 は,間接的だが大

きか った。

『生活 と芸術』 を,土 岐哀巣 が5)1913年 (大正 2年) に創刊 して いた。土 岐 は,啄木の影響が強か った。『生活 と芸術』派 の歌人 を生活派 といい,それ

1) 『小林多喜二全集』新日本出版社 (以下, 『全集』と略)第五巻,22ページ。

2)同,24ページ。

3),25ページ。

4) 「日清戦争が終って日本の資本主義は急速に成長 し,それにともなって個人主義, 自由主義の精神の台頭を見,国民としてはこれまで長い間封建的な思想 ・感情に生 きていただけに,爆発的に近代的な自我の解放と確立をめざすようになり,そこで 主情的,個性的,英雄的,唯美的といった形容詞そのままの鉄幹,晶子の歌風のも

とに 『明星派』が形成され」た。(梅沢秀司筆 「付論 大熊信行と歌誌 『まるめら』

(『復刻 まるめら 同人歌集』論争社 1978254ページ))

5)後に,哀果。参考,荻野富士夫 『初期社会主義思想論』不二出版 1993年,第8 章。小樽の高田紅果 (既述)は,初め紅花だったが,哀巣の巣を真似する。

(3)

大正時代 の小林多喜二 の評論活動 と彼 の思想 31916年 まで続 いた。主な歌人に,大熊信行 (その後の小樽高商教授)6),西 村陽吉がいた。

正岡子規を開祖 とす るアララギ派が,大正中期か ら歌壇で支配権を確立 し た。 『アララギ』は, しか し主観的 ・観念的に発展 してゆき,宗匠主義が確立

していったので,批判がお こって来た。それ らは,『日光』 (1924年創刊)に集 まった北原 白秋,前 田夕暮,川田順,石原順,釈遥空,原阿佐緒 らである。彼 らは口語歌を主張 した。 これに並ぶ ものが 『芸術 と自由 (1925年,大正14年 創刊)であ り,口語歌その ものの雑誌 となった。アララギ派への批判で もあっ た。これを西村陽吉 らが主宰 した。かれ らは生活派 といわれた。『芸術 と自由』

に渡辺順三7)も短歌を発表 した 彼 らは口語歌 に傾 いた。 口語歌運動の全盛 であった。 これは, 『生活 と芸術』の後継誌的性質の もので,無産階級の短歌 を標梼 した

青山霞村,西出朝風,鳴海要吉 は,口語歌運動の先駆者であった。特 に西出 朝風 の影響下 に,北海道では もっとも多 くの口語歌人が活動 していた。例え ば,伊東音次郎,並木凡平8),炭光任 などである。ただ し革新的 自覚があ っ たのではなか った。彼 らは 『短歌革命』を出す。

『種蒔 く人』が,土崎で出され,その後,東京版が出た。その再刊第 1号 は 発禁 とな り,第2号 は3ページ全部が削除,翌大正111月号 も発禁 とな り, 9・11月号 も発禁になった。発禁にな らない もの も,伏字 ・削除だ らけだ っ

6)大熊 については,拙稿 「小樽高商の先生 たち」(『商学討究』第45 1号,19948 月),および 「小樽高商の第 2期」 (同,第46巻第 3号)を参照。彼 は,昭和 2年

『まるめ ら』を創刊す る。それは,昭和16年休刊 となった。

7)プロレタ リア短歌の代表的歌人。

[自伝]渡辺順三 『烈風の中を』

伝記。椎 田のぼる 『手錠あ り 一 参考)渡辺 は,徳永直 と共著で 作品, 『日本の地図』1954 ; 渡辺順三研究 は,新 日本歌人』

三 における家系の研究 ・序論」, ど。

8)既述。拙稿 「小林多喜二伝一 文研究』88)参照。

1894年 (明治27年)富山市生 まれ。

東邦出版社 1973年。

‑」評伝 ・渡辺順三』青磁社 1895年。

『唯物弁証法読本』1932年を出す。

波動』戦後の歌集。

19892月号 に,3つあ り。椎田のぼる 「渡辺順 椎 田のぼ る 「渡辺服三執筆 年譜 (戦前編)」な

イJ林多喜二 と小樽 庁商時代,後半」(

(4)

4 46 4 た。

渡辺順三 は, この 『種蒔 く人』に興味を もち,投稿す る。渡辺 は,第 1歌集

『貧乏の歌』 (1924年)を 自分 の印刷屋で印刷 し,東華堂書院で発行 した。

これは啄木の影響が強い。そ して彼 は生活派の歌人 とみ られた。

以上,多喜二が この論文を書 くまでの動 きである。並木凡平たちの活躍で, 多喜二 は口語歌運動をよ く知 っていたであろう そ して彼 はその運動 に賛成 し

た。 この彼の考えは、ほぼ間違いではない。

さて,その後の話である。

『種蒔 く人』の後身 として,19246月 に 『文芸戦線』が創刊 された。『ア ララギ』に所属 していた松倉米吉 (明治28年 新潟〜大正11年)や山口好 (明 治28年 大牟 田〜大正9年)などが いて,かれ らは当時 は生粋の労働歌人で あった。

渡辺順三 は,花岡謙二 と共 に,口語の短歌誌 『短歌革命』を1926年か ら出 した。1926年 に口語歌人大会が開かれ,23名が参加 した。 ここで新短歌協会 が結成 された。口語歌運動の協会である。 『芸術 と自由』が機関誌になった。

だが形式 と内容について論争がは じまった。つまり定型 (三十一字) と非定型 との論争,何を歌 うべ きかの論争である。渡辺 は、歌集 『生活を歌ふ (192

7年 紅玉堂)を発行す る。

昭和 21月,『まるめ ら』が,山形県米沢市で発行 され,大熊信行がその 指導者だ った。佐 々木妙二 (小樽高商卒業生) も加わった。第 4号 に大熊が,

「無産派 口語運動‑の一瞥」を書 いた。そ こで彼 は,1926(大正15年)年発 行の浅野順一の 『戦いの唄』を推賞 した。そ して、 「口語歌運動が階級意識に 基 く文学上の一般的運動 と結合 されようとす る兆候あるを看取す るときに,我 等の注意 は改めて緊張せざるを得ない「口語歌 こそ,口語歌のみ,プロレタ

リアの もの,明日の大衆の ものだ」 と書いた。

翌月5月号の 『まるめ ら』に,大塚金之助の 「無産者短歌」が発表 された。

大塚金之助 (1892‑1977)は,経済学者 ・社会思想史家 としてまず有名で あるが,歌人 として も高名であった。大塚金之助 は,アララギ派の歌人 として

(5)

大正 時代 の小林多喜二 の評論活動 と彼 の思想 5 出発 した。初め島木赤彦に師事 した。長い留学か ら帰国 し,マル クス主義経済 学者 として高名にな った。歌人 として彼 は,ブル ジョア短歌か らプロレタ リア 短歌‑転身 した 9)さて大塚の この文章で, は じめて短歌の階級性が明 らか に論 じられた。そ して社会主義的芸術観の立場,無産階級の立場か らのみ,短 歌の表現形式,用語,格調,気塊,精神が根本的に変革 され,伝統有産者短歌 に対 して根本的に批判を与えると言 った。そ して全被圧迫無産階級解放の熱情 に基いて こそ,短歌の革命 は可能であることを主張 している10)。 この歌論 は, 大切な歴史的エポ ック ・メ‑キ ングな文献である.プロレタ リア短歌運動の出 発 にとって, きわめて重要 な役割を果たす もの とな った記念碑的論文であ っ た。 これは近年、『大塚金之助著作集』第9巻 に所収 された。 この1927年 に, 大塚金之助 は東京商大教授になった。

既成歌壇の結社内にも,伝統短歌‑の不満,封建的な宗匠主義,閉鎖的な結 社制度への批判が11)台頭 してきた。『アララギ』の伊沢信平,『ポ トナム』の坪 野暫久 らが,短歌革命への動 きを示 した。 このような時期 に,大塚や大熊の文 章が発表 されて,短歌革新運動 にはっきりした方向を与えた。『まるめ ら』は, 当時の短歌革新運動の推進に大 きな役割を もつようになった。同第 6号に萱沼 が 「アララギズムの批判」,8号 に 「アララギ と静寂主義」をか き,茂吉,赤 彦 らの封建性,反時代性を批判 した。

『芸術 と自由』では,定型, 自由律の論争がはげ しくなった。渡辺,西村 は 定型派,石原純 らは自由律派であった。多 くが ここか ら脱退 した。

『短歌雑誌』に,昭和 32月か ら,石樽茂 (‑五島茂)が 「短歌革命の進 展」を連載 し,アララギなどを批判 した。それに対 して,アララギの斉藤茂吉

らが反撃 した。

9)大塚金之助歌集 は3つあ る。生前 出版 は,歌集 『朝 あけ』 (1947年)であ る。没 後 に,歌集 人民』(新評論 1979年)が出た。 3千部であ り, これは生前 に準備 していた。ついで 『大塚金之助著作集』第9巻 「歌集 ・歌論」(岩波書店 1981年) である。

10) 大塚金之助著作集』第9 391‑3ページ.

ll)渡辺,101ページ。

(6)

6 46 4

新興歌人連盟が,昭和 39月に結成 された。各結社か ら集まって,30人あ ま りが10月に創立大会を開 き,機関誌を 『短歌革命』 とした。土岐善麿,矢代 東村,大熊信行,大塚金之助,五島美代子,渡辺 らだ った。 しか し雑誌問題で す ぐ分裂 した。浅野,伊沢,坪野,渡辺,大塚金之助,浦野敬,土田秀雄 ら10 名が脱退 した。彼 らは無産者歌人連盟を作 り, 『短歌戦線』を機繭誌 とした。

編集発行人 は伊沢,印刷人 は渡辺で,渡辺の光文社で印刷 した。 これが初めて のプロレタ リア短歌運動の機関誌 とされ る

こうして新興歌人連盟 は解散 した。当時の新興歌人 は20才台の人が多かった。

渡辺 は,評論集 『階級戦の一隅か ら』 (1929年 紅玉堂)を出 した。無産者歌 人連盟が解散 して,プロレタ リア歌人同盟が結成 された。昭和 4年 7月であ り, 創立大会が11月だ った。委員長 は渡辺である。そこか ら出す 『プロレタ リア短 歌集』の編集委員 として,伊沢,五島,坪野,柳田,前川,浅野,渡辺がなっ た。 この同盟の機関誌 として 『短歌前衛』が出た。はじめは素人社か ら,昭和

53月か らマル クス書房が出 した。だが10月で中止 となった。

大会数 日後,渡辺 は捕まった。当時彼 は,三十一文字構成を無視 していた。

11月か ら 『プロレタ リア短歌』を出 した。短歌が当時,短詩 になっていた。昭 和71月,同盟が解散 し,ナ ップ[全 日本無産者芸術連盟]に合流 していき, その詩班に吸収 された。だが彼 らは,詩ではな く短歌を求め, 『短歌 クラブ』

を創刊 した。昭和 8年 4月か ら 『短歌評論』にな った。 しか しまだ短詩が多 か った。 ここに大塚金之助が加わ った。

石井光 (‑大塚金之助)や速水惣一郎の出現で,ようや く正 しい方向がつか めてきた。 『短歌評論』で,詩か ら短歌へ戻 っていった12)0

さて多喜二の説を限定づけたい。

一短歌形式についてである。短歌が口語歌であるべ きだ という説 は,全 く正 し い とい うものではない。古語で もよい。 この点 は多喜二 も承認 している。後 12)拙稿 「大塚金之助 と短歌」(大塚会会報』22,19955月)より。

(7)

大正 時代 の小林多喜二 の評 論活動 と彼 の思想 7 年,プロレタ リア短歌は口語歌でなければな らないと,人 は言 ったが,絶対で

はない。形式 として ヨリ好ま しいといえるにす ぎない。さて,多喜二 は自由詩 を主張 し,形式 としての短歌などを否定 している。だが,短歌 は短歌であるか ら原則的に定型詩であったほうがよい。つまり五七五七七である。ただ し,字 余 りも生ず る。多喜二 はつまり,短歌を否定す るのだ。問題 は、ある意味で簡 単である。短歌の否定か肯定かの問題 となる。短歌は五七五七七形式なので, これを破れば短歌ではな くなる この短歌を作 りた くない人 は,短歌を作 らな ければよい, というだけである。その人は、短詩, 自由律の歌を作ればよい。

短歌形式を破ろうという議論 は,すでに述べたように,多喜二発言の後 に一 時発生 した。多喜二の議論 はそれに先駆 けているか ら,その点で面 白い。 しか しその議論 は,若い し,勇ましく,事実上誤 りである。若気の至 りとで も呼べ る。

こういう論点は,なぜか,既存の研究者,例 えば,津田孝などは取 り上げな いのは不思議である13)。現在の常識か ら見てす ぐ判断で きることである。

ただ し, この多喜二論説 は,多喜二がなぜ短歌を捨てて小説 に走 ったか とい う理 由の一半を説明 している, と見なせ る。

2 「修身 とサウシアリズム」

『クラルテ』第二韓に,多喜二 は,評論あるいは感想 「修身 とサウシア リズ ム」14)を載せた。

小学校の修身の先生の ところに, もと二人の卒業生が来 た とい う。多喜二 は、仮想 の話 を先ずおいて,説 き明かす。一人 は社会 に欺かれた人, もう‑

13)津田孝 『小林多喜二の世界』新 日本 出版社 1985 初版。 とくに,五の2。概 して,ある種の多喜二研究では,多喜二の弱点 は殆 ど取 り上げないことになってい るよ うに見え る。私 には,そ うい う態度 は全 く信 じられない。研究 とか学問の名に は値 しない。他方で,一方的に多喜二を非難す るもの もある。事実や常識や真実や 歴史的相対主義に立たない ものである。 これ も困る。

14) 全集』第五巻,26130ページ。

(8)

46 4

人 は社会主義者 にな った人である。多喜二 はこうい う評論 はうまい。その結論 は, こうである 最 も道徳的な人 こそ,最 も偉大な社会主義者であ らね ばな らない。小学校の修身の教え,つま り 「生存権の要求「平等「働かざる

ものは食ふべか らず」 と,社会主義の原理 とは,共通 している。 多喜二 は, 自分で考 えた ここで言 う社会主義 に, もちろん賛成 してい る。 この評論

手塚英孝 は 「感想」 と言 う は, きわめて興味あるものである。

1つの論点 は, こうだ。「自分 は先生の教 えに従 って社会主義者 にな りま し た。」 と言 った,二人 目の元生徒の ことである。 これは多喜二 その人の考 えで あろ うか。その可能性 は半分ある 多喜二が庁商の黒沼校長の教えどお りに生 きた とい う,安宅氏の指摘15)を思い起 こす ものである。多喜二が修身を正 しい と思い,それを積み重ねて社会主義に至 った とい うものである 他の考えはこ うである。多喜二が修身 にかかわ りな く社会主義思想 に到達 した。そ してその 級,社会主義思想 と修身の共通性をみつ けた,とい うものであ る。さ しあた り,

これ らの どち らか はわか らない。

もう一つの論点 は, こうだ。多喜二のいう 「単純 に して而 も絶対なる大真理

『生存権の要求『平等『働かざるものは食 うべか らず』 この社会主義 の原理」についてである。 これを多喜二 は本当にそ う思 っていただろ うか。小 生 は,違 うと思 う 社会主義の原理にはこれ ら以外の ものがある。搾取の廃止 などである。多喜二 は学習によ り,それを知 っていた。修身の原理 (A)‑社 会主義の原理 (B),ではな く, (A)(B)とは重なる領域があるが,同 じ ではない, と知 っていたはずである。

15)拙稿 「小林多喜二伝 多喜二,庁商‑ 」(人文研究』87,1994 3月)125ページ。

(9)

大 正 時代 の小 林多 喜二 の評 論活動 と彼 の思想 9

多喜二が (A)(B)との共通部分だけに賛成 していたのではな く, (ち) 全体に賛成 している。

この評論を,分析 して紹介す るのは,正 しくない。綜合的に紹介すべ きであ る。

多喜二の社会主義 に対す る知識 ・見識の総体が, ここで表明されているので はない。彼の社会主義への理解 は, ここで表明されているよりも,広 く深い。

そ う見 るべ きである 彼 はここで,教育的配慮 ・政治的配慮を している。社会 主義思想に市民権を与えようとしている。それにだけ限定 している。

当時は,修身の点か ら見 ると,社会主義思想 はとんで もない悪い思想であっ た。多喜二はそれを,そ うではないと主張 しているのである。その2つの共通 性にだけ焦点をあてている。その政治的配慮 は柔軟であり,知恵者 としては並 ではない。20才を越えたばか りの人物の論評 としては卓越 している。ただ し, 当時彼 は頭で,社会主義を正 しいと考えていたにす ぎない。

これは,さきの 「歴史的芸術 と革命」16)につづいて,彼の社会思想を知 る手 がか りになる文献である。

3 ス トリン ドベル グ論文

多喜二 は,論文 「ユ リイ嬢にあ らわれたるス トリン ドベルグの思想 とその態 度」17)を書いた。

ス トリン ドベル グは,JohanAugustStrindberg,現在,ス トリン ドベ リと言われ る。1849年生 まれの,スウェーデ ンの劇作家 ・小説家であ り,イ プセ ン (Henriklbsen,1828‑1906)と並ぶ近代劇の先駆者である 彼 は没 落商人 と同家の女中の問に生 まれた。 ウプサ ラ大学 を中退 した。 自伝的小説

『赤い部屋』(1879年)で認 め られた。1880年 に 『女 中の子』,1893年 に 『痴 16)全集』第 5,12‑17ページ.

17),417‑139ページ。

(10)

10 46 4

人の告 白』などの 自伝的小説を書 く『父』(1887年),『令嬢 ジュ リー』(1888 年)で名を高めた。その他,小説 『ゴテイクの部屋』(1904年),『黒い旗』(19 04年),『島の農民』(翻訳,岩波文庫 昭和 8年)など,随筆集 『青い木』(19 07‑12年)がある。1912年 に亡 くなった。

多喜二 はその 『令嬢 ジュリー』を論評 したのである。ス トリン ドベ リは多喜 二 にとって,かつて小樽高商の時代か ら愛読 していた作家であり,一時は卒業 論文に取 り上げようとした作家である。

多喜二 は,1924年 (大正13年)11月21日の手紙 と共 に,その論文を,阿部 次郎に送 った。 この少 し前 に,小樽で阿部 は 「芸術の社会的地位」 という講演 会を した。多喜二 はそれに参加 した。話が終 って,主宰者が多喜二 に,阿部 と 話を して行 ってはどうか と,言 った。多喜二 は しか し, 「私のようなものが先 生 とお話す るなんて,何 とな く恐ろ しく思われ」 18),多喜二 らしくないことだ が,帰 った。

阿部次郎 (1883‑1859)は,山形生 まれ,東大哲学科卒で,軟石門下だ っ た。著作 『三太郎の 日記』で有名 となった。多喜二 もそれを読んでいた。阿部 の著作 として他 に,『世界文化 と日本文化』がある。1923年に,東北大学法文 学部に赴任 して,美学を担当 した。だか らこの翌年,多喜二 は論文を送 ったわ けである。1945年 に,定年 となった。『阿部次郎全集』全17巻 (角川書店)が ある。

阿部 は江馬修 とともに,ス トリン ドベ リの 『赤い部屋』を翻訳 していた。だ か ら多喜二が 自分の論文を送 った相手 と して は適 している。そ して,手紙で は,「もし,『思想』にで もお紹介 して下 さるな らば,幸甚の至 りです。」 と、

頼み込んでいる

多喜二 は、 『赤い部屋』を何度 も何度 も読んだ。 これは,新潮社か ら大正7 年 に翻訳出版 され,江馬修が英語版を訳 し,それに阿部が ドイツ語版を利用 し て改訳 した ものである。その大正9年版が小樽高商図書館にある。ただ しス ト 18) 全集』第 7巻,333ページ。

(11)

大正 時代 の小林多喜二 の評論活 動 と彼 の思想 ll リン ドベル ヒとされている。多喜二 はこれを読んだのだろうか。

この多喜二の手紙 と論文 は,阿部の死後,それ も1970年代 に,阿部の遺族 が遺品か ら発見 した。つまり,論文は日の目を見なか ったのである。阿部は, これが 『思想』(岩波書店)にのせ るほどの論文だ とは判定 しなか ったのか も しれない。 これは,勢いのあるかな りよい論文だが,学術性には欠 ける19)か も しれない。

4 「『下女』 と 『循環小数』」,および 「ジュー ドとア リョーシャ」

評論「『下女と 『循環小数』20)」21)は, 『新樹』第 9,19265月 に掲載 された。 この最後で, 「人が幸福 になるにはどうすればい 、んだろ う」 と書

これは多喜二生涯のテーマであった。

この中で,彼は幾っかの思想の断片をか きっけている。

初めに 「世界意識」である。幸福者 と,そ うでない人,の問題を扱 う。

次いで, この評論の一つの本 旨が出て来 る 下女は無限の労働を している

・社会改造家 も無限の努力を している。だか ら彼 らは似ているし,社会改造家は 下女の労働を理解す るだろう,軽蔑 しないだろう, というものである。

そ して, 「光栄の 日を信 じうる者 は幸福である。」 とも言 っている。

面白いのはこれだ。

「可愛いマルクスは 『共産党宣言』の最後で こう言 った 『万国の労働 者 よ団結せよ !』だか ら可愛 い。」22)ここで 「可愛 い」とい うのは, さ しあた り

これだけでは読者 は意味がわか らない。しか し同時期の評論「無題」(‑「ジュー ドとア リョ‑シャ」)を読む と分 る そ こで多喜二 は言 う。「『資本主義 は円 19)い くら大正時代だか らといって も,原文か らの研究 とか,注がない, とい うような

論文で は無理だろう。

20)循環小数 というのは,割 り切れない数,4割 る3,のような無限に小数が続 く数を 意味 している。

21)全集』第五巻,31‑33ページ。

22)32ページ。

(12)

12 46 4

熟すれば必然的に崩壊す ることによって,社会主義組織‑移 ってゆ く』 とマル クスが云 っている。然 し, 自分 はこ 、でマルクスとい う人 は随分お 目出度 く出 来ていると思 った。何故 って, とうとう 『万国の労働者 よ,団結せよ』 と云 っ ているで はないか」23)だか ら, ここで 「可愛 い」 とい うの は,「お 目出度 い」

とい うことなのである。多喜二 によるこの指摘 は,社会的生産様式の変革の際 の,必然 と人間の 自由意志 とい う一見矛盾す る重要問題であ った。 この問題 に 気がついた多喜二の頭脳 は鋭 い。だが多喜二 は, この時 この問題を解決 してい ない, と見え る。

もちろん, これを多喜二が解決 していないとい って も,無理な話である。マ ル クス主義の素人であれ,専門家であれ,.す ぐれた人な らば、 この問題 は気が 付 く点であるが, この問題の解決 は簡単ではない。御本尊のマル クスもこの問 題を十分 に論 じていない。 レーニ ンは, 『なにをなすべ きか』で,独 自の立場 を主張 した。それは,マル クス も言 っていなか った観点で,革命派ナロー ドニ キ的な,主意主義的な ものである。

最後に多喜二 は,腹が減 った時の意識 と,腹が一杯の時の意識を比較す る。

そ して進む。「プロ レタ リアが待 ち望んでいた革命が来,社会組織の変革が行 われ ると,彼 らもブル ジ ョアジらしい気持 ちに変わ って行 くのではないか, と 云ふ意味ではない。」 と限定 している。 しか しこれは,20世紀現代社会主義に とって重大な問題である。多喜二が言 うような簡単 な ものではない。彼が除外

した問題 は、大 きい もの とな った。

この評論が載 った 『新樹』 は,小樽の同人誌である。『新樹』第一号 に,義 紙絵を木 田金次郎24)が寄せた。執筆者 は,第 1号では,例えば,小 田観蛍であ る。蒔田が訳を寄せている。佐 々木妙二が 1つ,片岡亮一が2つ,戸塚新太郎 23) 全集』第五巻。

24)木 田金次郎 は,1893年 (明治26年)716日生 まれで,有 島武郎 の 「生れ出づ る 悩 み」のモデル画家であ る。岩 内で生 まれ,1962年 に死んだ。現在,北海道 の岩

内に,木 田金次郎美術館がある。

研]佐藤友哉 『木 田金次郎』北海道新聞社。

著]木 田金次郎 生 まれ出づ る悩 み」 と私』北海道新聞社。

(13)

大正時代の小林多喜二の評論活動 と彼の思想 132つ,書 いて いる。その他の寄稿者 は,小川郁栄25),西丘 は くあ,西 岡徳蔵,

らである。

この ころ,1926年 6月,小樽合 同労働組合がで きた。

「ジュ‑ ドとア リョ‑ シャ」26),あ るいは 『全集』で い う 「無題」 は, ジュー ドとア リョ‑シャを論ず るものだ った。 ア リョ‑シャは, ドス トエ フスキーの 小説 『カラマーゾフの兄弟』の主人公であ る。ただ し多喜二 はそれを一般的人 物 と して いる。 ジュー ドは, トマス ・‑ ‑ディの小説 の人物である。多喜二 は 両者 を対比 している。‑ ‑デ ィの存在 は小樽高商の英語の授業で知 ったのであ ろ う これ は,19266月17日の脱稿 であ る。 613日の多喜二 の 日記で は、

「『ジュー ドとア リョ‑ シャ』の ほ ヾ大体 の骨組 だ けを書 いた」 とあ る。 し たが って,それ は この 「無題 」だろ う

『小樽新 聞』 19267月20日の 「文芸消息」欄 に,「『縁丘』 (第十一号)小 樽高商の毎月一回発行の新 聞で 本号 は七月十二 日発行 内容 は高商内の出来 事 催 しの報道か ら 「ヂ ュウ ドとア リヨーシャ」小林多喜二氏 ・・・」 とい う 記事があ る27)。 この多喜二の評価 は、 『縁丘』第11号 (大正157月12日号)

に発表 されたわけであ る。ただ し,復刻 『緑丘』 (不二 出版)の同号 には, 1

‑2ペー ジが脱落 とあ り,3‑4ペ ージしかない。そ こには多喜二のその文が ない。だか ら多喜二 の稿 は, 1‑ 2ペー ジに載 ったのか もしれない。

5 『小樽新聞』での論争

『小樽新聞』で小 さな論争が起 こった。

多喜二 は,「シェークス ピアよ りマル クスを」28)を, 『小樽新聞』1926年11月 25)かつて片岡が好きで,多喜二も好きになった女性である。既出。

26) 『全集』第五巻,443‑450ページ。

27) 『小樽新聞』同日 第三面。現代漢字にした。誤字 1字を改めた。;『全集』第5495ページも見よ。

28) 『全集』第五巻,33134ページ。

(14)

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17日,第三面 「寓華鏡」の欄で書 いた。 「田口生」の名で投書 した ものであ る。田口とは,多喜二の恋人 ・田口瀧子 の姓である ここで多喜二 は,高 畠 素之29) (たかばたけ もとゆ き)の 『マル クス十二講』を絶賛 している そ して多喜二 は,「シェクス ピア,ゲ ェデを読む先 に マル クスを読んだ方がい いと」30)人に薦めている。「マルクスは専門の研究ではな く現代社会人の常識 でなければな らない。」31)と

多喜二が推薦 した高畠の 『マルクス十二講』は,マルクス思想の解説書であ り,当時よ く読 まれた。高 畠は,キ リス ト教か ら社会主義 にちかず き,1910 年に,堺利彦の売文社に入 った。マル クス 『資本論』全巻を翻訳 し,1919‑2 4年 に刊行 した。 これは日本で初めての全訳である。 これで高畠は有名 になっ た。後に,国家主義 ・右翼に転 じた。

多喜二の評論に対 して,朝野十二 (‑米山可津美)が 「田口氏‑」 (小樽新 聞』11月23日)で反論 した。同 じく 「寓華鏡」の欄で,である。

「 ◇

シェイクス ピアよりマル クス を見て 私 は未知の貴君に対 して 或 る種の反駁を試みた くなった。

本を読むにどれか ら先なんどと順序があるか マル クスがどういふ理 由 で シェクス ピアやゲーテより先にすべ きだのか 同種類の本を読むには多少難 易によって順序 は存在す るとして 全 く異った書,加之 (しか も),学術書 と 芸術書 との間に何故 に読む順序が必要であるか。

マル クス とシェクス ピア,エ ンゲルス とゲーテ,いづれ もモダ リテ‑

31a)の関係 にあるんではないか,それに,マル クス十二講 は 推挙すべ くあ まりに権威 もな く 又それを読んでマルクスを読んだ と思 った ら大間違いだ。

◇ まあ 翻訳資本論で も読んでか ら マルクスのブックレヴューで もした

29)高 畠素之。1886年 (明治19年)‑1928年 (昭和 3年)。群馬県 出身。同志社大 中退。

30) 全集』 第五巻,32ペ ー ジ 31)同,31ペ ー ジ0

31a)様相。 ドイツ哲学用語。

(15)

大正時代の小林多喜二の評論活動 と彼の思想 15 まい (朝野十二)」32)

米山‑朝野 は,多分,田口が多喜二であると知 っていると推定 される 米山 は小樽新聞の記者だか ら,多喜二が筆名を使 って も,投書の差 し出 し人 は分か る。それに, 『小樽新聞』は,寄贈 された書を選んで書評 させていた。高畠の

『マルクス十二講』 も寄贈 され33), これを同社の記者のだれかが多喜二 に書評 して もらったのか もしれない。 もしか した ら、その記者 は米山本人か もしれな いのだ。

米山‑朝野の言 っていることは,常識的には間違 いではない。また米山は, 多喜二がまだ 『資本論』を読んでいない ことを知 っていて書 いている0

多喜二 は,それ に対 して 「朝野十二氏へ」34)を 『小樽新 聞 (11月27日)で 書いて、反論 した。

「其 [朝野の]頭脳 は正 に中学生 あた りの高 さである。」

「文学科の中には社会学 も入 っている世の中である。」

「自分がマルクスの 『資本論』を紹介 しようとした ものでな く 『マル クス十 二講』を紹介 しようとしたのです。だか ら例え資本論を自分が読んでいて もい

な くて も恥にはな らない筈だ。」

「自分 は 本書 を カウツキーの 『資本論解説』,河上肇氏 『資本論略解』

よ りも ある意味で ピンと来 ると云 った迄である。」

さて余談であるが,多喜二 は早速、翌年か ら 『資本論』にとりかか ることに なる。

多喜二の反論 に対 し,朝野 は、 「再 び田口氏へ」(『小樽新聞』11月30日)で 反論 した。長 いけれ ども、仲 々見 られないので、全文を掲載 しよう

「◇ 田口氏 は シエクス ピアよりマル クス と超 した ことを記憶す るであ らう。氏 は マルクス十二講,資本論解説等の紹介書を読んで,直にシエクス 32)小樽商大所蔵マイクロフィルムでは,部分的に,とじ布に覆われていて読めない。

小樽市立図書館のマイクロフィルムによった。引用に際し,漢字は現代化 し,ふり がな‑ルビは省いた。

33)この本は,小樽市立図書館,小樽商大図書館にない。

34) 全集』第五巻,34‑34ページ。

(16)

16 46 4

ピアよ りマル クスを世の人 に推奨 Lや うとした傾 きはなかったか,私 は残念な が ら 未だ阿部氏の三太郎の 日記 は読んでゐないが,若 し人生観の相違 による のであるな らば 前に全 く客観化 して力説す る理 由はないではないか

◇ 私 は中学生の頭脳であるな らば 失礼なが ら氏 は講義録勉強家のそれで ある,又 文学科 中に社会学の存在を示 して, シエクス ピアよ りマル クスを強 調 しよ うとしてゐるが,それは全然無駄な ことである

◇ 氏が所謂文学科の文学なる概念 は リテラ トウル35)にあ らず して クル ツアヴイセ ンシャフ ト36)の意である,然 らば当然其一種である社会学がその中 に挙げ らる 、は勿論である。尚又大学の リテラ トウルの コースに於ては法文科 を除 く此社会学 は入 ってゐない

最 も具体的な例 は 早大専門部政経科 36a)に文学概論の講義が あ り,小 樽高商に於て も 簡単 な りといえども 哲学概論や,倫理の講義あるを 氏の 文学科中にも社会学 ある世の中に照合 して如何 に解す るや

◇ 社会学 はマル クス以前の ものである,純正社会学 とマルクス主義,即ち 科学 と人生論 とを誤 らん ことを望む

◇ 現代の社会科学 は 西洋中世のスコラ哲学が専 ら羅馬 (ローマ)致義の 裏付 としてア リス ト‑ トル以後の哲学を曲論 した ごとく 専 らマル クス主義の 擁護 としてあたか も社会科学部マルキシスムスの如 き観があ る。此点 スペ ン サー, コン ト37)以来の純正社会学を一個の科学 として確立す るを要す る マル

クス自らが,人生観 と科学 とを混清 したる失敗 は 大西氏 「囚れたる経済学」

について参照 された38)

◇ 私 は マル クス十二講が資本論解説や資本論略解 よ りピン ト来や うが来 まいが そんな ことはどうこう云ったのではない,単なる自我に期 (ご) した 人生の一角をあま りに拡大 して世人の前 に提供せん としたる田口氏の人生観の 35)文学。芸術 としての文学の意だろう。

36)文化科学。

36a)米山は,早大出である。

37)コン‑とあるが, コン トだろ う 38) 「い。」が抜 けているのだろ う。

(17)

大正時代の小林多喜二の評論活動と彼の思想 17 貧弱なる科学化,普遍化,抽象化を難 じたのである (朝野十二)」39)

素早 く書 いた らしい新聞の文なので,文がわか りに くい。

多喜二 はこれに対 して、「頭脳 の相違」40) (『小樽新聞』124日)で反論 し た。 「斯 うい う表現法の強意 と気塊が貴君 の如 き定規的頭脳 しか もっていな い人の理解 し得 る彼方 にある。」

これは論争ではな く,喧嘩腰の言 い合いになって しまい,決着 はつかなか っ た41)。多喜二 は、 くや しか っただろう ただ し、常識的に言えば、朝野の議論 の方 に少 し分があるだろ う

『全集』に収録 されている 「無題」42)は,出世 をテーマに,寓話風 に書 いた ものであ る。1220日に脱稿 した。 これ はあま りうま くはない。観念的であ る。

おわ リに

小林多喜二 は高商時代 に,マル クス主義やアナーキズムをよ く勉強 した。彼 は, これ らに同情 していた し,正 しい と思 っていたが,勉強 は本格的で はな か った。だが, クロボ トキ ンなどを除けば, ほとん ど二次文献の読書である。

銀行員 にな ってか らも,大正時代 はまだその状態である。彼 は学習 によ って 社会主義やマル クス主義 は正 しい と思 っていた。だが例えば,まだ 『資本論』

を読んではいない もちろん,『資本論』が全訳 され終 ったのが大正13年だか ら,それ は無理 もない。他 のマル クスの著書 も当時 は翻訳が少 なか った。だ か ら,彼がマル クスその もの (ドイツ語原文)を読 まなか った と して も,罪 難 にはあた らない。多喜二 は ドイツ語 をや っていなか ったか らであ る。ただ

39)28に同じ。朝野の文の ( )は,原文ではルビである。

40) 『全集』第五巻,35‑36ページ0

41)多喜二の文は, 『全集』で簡単に見られるので,ここでは殆ど引用しない。

42) 『全集』第七巻,245ページ以下。

(18)

78 46 4

し,「共産党宣言」 くらいは,やさしいので,翻訳を読んでいたか もしれない。

よ く多喜二が提出 ・紹介す るマルクスの史的唯物論の公式 『経済学批判 の序文にある も,どこかの書物で引用 された ものを彼が利用 していたの であろ う なぜな ら, 『経済学批判』が訳 されたのが,1926年 (大正15年) だか らである。なお,彼 はまだ実践活動 にも入 っていない。

多喜二 は、 「アナキズムかボルシェビキか と,激論ばか りしていた。多喜二 は銀行員 としてセ ビロを着てお り,小樽新聞にも書 き,同人誌 『クラルテ』 も 出 しているときであった。」43)

彼の社会主義理解が深 まるのは,昭和 に入 ってか らであ り,1927年 (昭和 2年)に仲間と勉強会 ‑社会科学研究会を行 う中で,であった。伊藤整 は,多 喜二 にとって小樽高商軍教事件 (大正14年)が運動へ入 るきっかけ とな った

と,言 うが,実際は,小樽港湾争議の ころである。

43)笠井清 「小林多喜二 と風間六三」45ぺ‑ジ。

訂 正

前号 『人文研究』90,97頁,注 7)の 山本薩夫 は,誤 り。今井正が正 しい。小西 真弥氏からご指摘戴いた。お礼とお詫びいたします。

参照

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