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中世讃岐における法華宗の伝播について

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中世讃岐における法華宗の伝播について

教科・領域教育専攻 社会系コース 盤 崎 美 香

はじめに

日蓮によっておされた法華宗は東国の地j或が 地盤であり、時代と共に西国へと発展していっ た。中世讃岐における法華宗の伝播は、本門寺・

本妙寺の二寺を中心に展開していったO 本門寺 については和田正夫氏、本妙寺については唐木 裕志氏の研究がすでにある。しかし、本門寺と 本妙寺の相違や比較を検討した研究はされてい ない。そこで、材高において、両氏の研究を参 考にしながら、どのように法華宗が伝播してい ったのかを比較しながら検討する。東国におけ る教団成立期の法華宗は、領主的な武士を有力 な外護者として東国では発展したと言われるが、

西国における隆盛は如何なるもので、あったのか を考察する。

第一章本門寺における法華宗

本章では「秋山由緒書JI日高置文JI本円寺 文書」を使って、どのように法華宗が讃岐に伝 播し、本門寺が創建されたのか、また本門寺は 秋山氏にとって如何なる寺で、あるのかlこついて 検討した。そして、本門寺の系断裁はどのような 発展を遂げていったのかを考察した。

「秋山由緒書」により秋山泰忠の時、正応2年

指 導 教 官 大 石 雅 章

(1289)に富士山北山本門寺開山日興上人 の弟子である日華を迎えてはじめて菩提所を建 て、高永山久遠院本門寺ゴ坊と称した。その後、

正中元年には高瀬郷に移り、故あって日華が富 士山北山本門寺に戻った口そして日興上人は百 貫坊日仙を遣わした。日仙は寺塔の再興に着手 し正中年間にほぼ完成した。以来秋山氏を根本 壇越として発展を遂げたことが記載されていた。

しかし、置文により応安7年 (1374)まで 秋山泰忠の存命が砺忍できることから、正応2 年の日華の建立は疑わしいと考える。「日高置 文」により、本門寺は秋山氏にとって個人の信 仰を満たすものとして創建した。しかしその寺 院の機能はそれだけにとどまらず、秋山氏一族 の精神的結合を計る寺として期待されたもので あることが確認できた。そして、「本門寺定書J からは、当時の本門寺寺院運営における規定に ついて知ることができる。はじめて秋山氏を筋 とする住持日門の入寺により本門寺の組織が大 きく変化したことが確かめることができた。各 条文により、秋山氏が入る住持坊 (jc坊)が諸 坊に

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齢、権限を持っており、秋山氏の強力な管 轄のもとで、本門寺があったことが分かる。本門

‑ 326一

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寺を維持していく上で、秋山泰忠の意向が泰忠 の死後も強く影響している。また、秋山泰忠の 本門寺に対する遺誠が守護にも保障されている

ことが知りえた。

第二章本妙寺における法華宗

本妙寺は、日隆における法華宗の伝播によっ て創建された。本章では「本妙寺文書」を使っ て、本寺である本興寺との本末関係について検 手jする。日隆は文安末年 (1447)から瀬戸 内諸国を布教し大覚の縁故をたどって教線を展 開した。日隆の瀬戸内伝道が尼崎・堺・牛窓・

宇多津・尾道と当時の内海交通の港町に次々と 教線をのばすことができたのは、日隆の伝道が 当時の商品流通手H織を把握していた商人層との 結合を基盤としていた。

「材少寺文書」より材少寺の寺│撤臓にっし、

て検討を行ったo 各条文から本興寺と末寺弘教 院の上下関係が伺え、弘初完の僧侶で、あっても 本寺の規則を守らなければならないことから、

弘初完は本寺の強力な支配下にあることが理解 できた。宇多津は中世讃岐における有力な港の 一つであり、また多くの海運業者及び商業者の 在住する地方都市である。従って、本妙寺の檀 那は当時の商品流通総織を把握していた商人層 から形成されたものと樹則できる。そして、日 隆の西国伝播の初来拡大と闘日の精神的なより どころや経済的活動の利害が合致して本妙寺の 創建に至ったので、はなし、かと考えられる。定書

により、本末関係が伺え、本寺(本興寺)によ って定められていることから末寺本妙寺に下さ れたものであることが分かる。更に各条文から 寺内運営について住持に大きな権限が与えられ、

僧衆を厳しく統制していたことが分かる。この ことからも強力な本末関係が形成されていたこ とを明らかにし千尋た。

おわりに

中世讃岐における法華宗の伝播について、本 門寺・材少寺の検討を行ってきたが、同じ法華 宗寺院でも、伝播の仕方・寺院の運営が全く異 なっていることを確認することができた。本門 寺においては、根本壇越秋山氏が置文や定書を 制定して、寺僧並びに秋山氏一族に対して後代 に至るまで堅く戒めおき、秋山泰忠、の死後も本 門寺の運営に強く影響を与えた。本妙寺におい て、秋山氏のような檀越は相生せず、本寺から の定書により強力な本寺の支配下にあったO こ のように本門寺においては檀起訴火山氏、材少寺 は本寺の本興寺が寺院運営の実権を握り、両寺 ともそれぞれ定書を発給して権限を行使してい ることが、史料により具体的に検討することが できた。

尚、本門寺が14世紀初頭、持少寺が15世 紀半ばに成立していることから150年の時間 的差異が見られる。そのことから、本門寺の寺 院運営形態は東国の法華宗による形態を引き継 いだものと思われる。

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