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3 小鹿野, 上福岡の教育の歩みにみる特色

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Academic year: 2021

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1. はじめに

日本の近代教育は, 明治以降の中央集権体制の中で, 全国画一的な取り組みのための施策が とられてきた。 しかし, その取り組みの実施主体者である各地方の行政や教育する方の受け方, 捉え方はそれぞれである。 その違いは捉える側の文化の違いである。 それは 「地域差」 である。

上福岡市と小鹿野町の両地域においても, 同じ施策を受けながら, それぞれに違った歴史を持 ち, 現在がある。

ここでは, 両地域における教育の特色を, 江戸時代以降の教育史をそれぞれ順にたどり, 特 徴的な出来事や流れを挙げることによって, 総合的に捉えてみたい。 ついては, 「上福岡市 史」1)と 「小鹿野町誌」2)のそれぞれの史誌をもとに, 「埼玉県教育史」3)を参考にしながら探っ ていく。

2. 小鹿野の教育

小鹿野には, 江戸から幕末にかけては計36の寺子屋が存在し, そのほとんどが 「自発的な発 生」 であったという。 この寺子屋の多さは, 小鹿野の教育の特徴の一つといえるであろう。 町 誌では, 人口からみても他地区に比べてその普及が高かったのではないかと述べている。 師匠 の身分は, 農民, 修験, 僧侶, 村吏, 医師, 神官であったことが明らかにされている。 小鹿野 町の寺子屋は明治5年で終わっている。

また, 小鹿野には郷学校が存在していた。 これは大変に大きな特徴であると思われる。 「郷 学校」 は, 埼玉県内の他の地区においてももちろん存在していた。 しかし小鹿野郷学校は, 明 治3年正月にその設立が立案され, 同年3月に開校されていることから, 町誌ではその存在は 県内他の学校にさきがけるものであったと評価している。 この小鹿野郷学校は, 小鹿野町上一 丁目の寺子屋で師匠をしていた山田源内と, 名主であり後に小鹿野町町長を務めている田 一とが, 田の別棟を借りて開いたとされている。 この郷学校が前身となり, 明治6年6月13 日には小鹿野小学校が創立されている。

小鹿野の学校史における次なる特徴は, 「町村合併」 と 「過疎化」 がキーワードといえる,

3 小鹿野, 上福岡の教育の歩みにみる特色

宮 田 まり子**

*The Outline of Educational History in Ogano and Kamifukuoka Region

**Mariko MIYATA (立正大学社会福祉学部人間福祉学科) キーワード:郷学校, 児童数の増加, 都市化, 過疎化

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小学校組織の変遷であろう。 まずは, 町村合併との関係である。 1886 (明治19) 年に小学校令 が出され一町村一校制が推進され, 小鹿野 (旧小鹿野町) では, 小鹿野小学校を町の小学校と して, 他の合併した村々の学校は分校や分教場とすることになった。 合併が進み, 町が現在の ような形になるにつれ, 学校の統合や分離も落ち着いたが, しかし, 昭和25年に頂点となった 町の人口が減少の一途をたどると, 今度は児童数の減少による統合が行なわれるようになった。

少子化による統合は全国的に見られる傾向ではあるが, こと小鹿野に関しては, 小鹿野の広く 山々の険しい土地柄から, 児童の通学などの様々な問題が生じたと思われる。

次に, 小鹿野の社会教育について, 特徴的なものの2つを挙げて見てみたい。

まず一つは, 小鹿野の町長も務めた加藤彰久が大学卒業後に, 自宅で開講した, 「黎明義塾」

という名の私的な学習塾である。 ここでは様々な学校 (体育学校, 外語学校など) を出た青年 たちがその講師にあたり, 町の青年たちへの指導を行なった。 幅広い年齢層で構成され, 制服 も作られた。 またこの塾は, 学習塾には留まらず, 様々な社会的な活動も行なった。 町民運動 会を開催したり, 塾生の歌謡演芸会を催し, 収益金を小鹿野小学校へ贈ったり, ボーイスカウ トを発起させたりしたのである。 この塾は, 講師らが町役場へ就職したことなどを機に, 役場 にその活動を移動させて続いた。

もう一つは, 旧長若村で1952 (昭和27) 年の4月に村条例を定め, 設立された 「長若高等学 園」 である。 これは, 1953 (昭和28) 年8月に 「青年学級振興法」 が公布されたのを受け, 町 に青年学級が設けられる以前の事であった。 その学園は, 長若中学校内に設置され, 課程は男 子夜間, 女子昼間午後, 農閑期の週二回各三時間の三年課程であり, 小中学校職員や村内学識 経験者を講師に, 「社公, 国語, 数学, 理科, 職業 (農業, 珠算), 英語, 習字, 音楽, その他」

を科目内容としていた。 入学資格者は 「新制中学校を卒業し上級学校に進学しない在村者」 で あり, 授業料は一切徴収しないというものであった。 学園の運営費は全て, 町費でまかなわれ たのである。 また, 終了後に就学することができる, 五ヵ年の研究科も創った。 この学園は, 1955 (昭和30) 年の町村合併により, 中止廃校となり, 青年学級へと移った。

加えて長若村では, 学園設立と同時期の1952 (昭和27) 年4月に, 「長若年寄倶楽部」 を発 会させている。 この老人クラブは, 合併後の町の全ての地区で作られていった。 この活動は現 在も続き, 小鹿野の福祉コミュニティを支える団体としても一役を担っている。

3. 上福岡の教育

上福岡市史によると, 筆子塚によって明らかになった寺子屋は11ヶ所であり, 僧侶や行者が 師匠となって行なわれていたようである。 これは特記するほどの多さではないが, 上福岡にも 寺子屋は存在していたということで書き留めておきたい。

というのも, 上福岡の教育史の特徴の一つに, その地に学校がなかったことが挙げられるか らである。 1873 (明治6) 年に, 国民全てに教育を受けさせたいとする政府の方針が, 上福岡 の地方にも伝えられた。 そして政府の意向を受けた入間県の通達を受け, 学校建設が始められ

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た。 そこで創られたのが 「渋井学校」 と呼ばれる学校である。 しかしその場所は光寺であり, 現在では川越市にあたる所であった。 また駒林地区に関しては, 来迎寺や護国寺という, 現在 の富士見市にある学校に児童たちは通っていた。 つまり創られた学校はみな, 現在の上福岡市 にはなかったのである。 そこで1878 (明治11) 年, 福岡村・中福岡村・福岡新田の三つの村に より, 「山福学校」 という学校が創られる。 川崎村では, 現在では川越市である古市場村と共 に, 「古我原学校」 が設立された。 しかしこの学校も, 後渋井学校と合併し, 渋井学校に吸収 される形で 「入東学校」 となった。 また1884 (明治19) 年には区画整理があり, 上福岡市は駒 林村を除き, 古市場村の連合区域に編入されたのを機に, 学校は連合内に一つとされ, 入東学 校は 「第十番宇知川学校」 と名を変え連合内における学校となった。 結果それまで上福岡市に あった三福学校はその分教場となり, またしても上福岡に学校は無くなってしまったのであっ た。 結局, 上福岡に学校ができるのは, 1889 (明治22) 年, 町村制の施行により, 宇知川学校 が廃校となった時であり, 分教場であった三福学校が 「尋常小学校福岡学校」 となったのであっ た。 1890 (明治23) 年に新小学校令が施行され, その2年後, 尋常小学校福岡学校は 「福岡村 立福岡尋常小学校」 となった。 同年には, 補習科も設置された。 けれども依然として高等小学 校は, 大井高等小学校 (1887年, 大井村に設置される) へ行かなければならなかった。 市史で は, 当時, 上福岡村に高等小学校がなかった原因として, ①村の財産に余裕がなかったこと,

②1910 (明治43) 年に大洪水があり, 建物や財政面に被害があったことを挙げている。 1917 (大正6) 年, 村の青年団の働きかけ等により, ようやく 「福岡尋常高等小学校」 が発足した。

これは, 入間郡内大井地区としては最も遅いものであった。

上福岡の, 学校史における今一つの特徴は戦後にある。 日本が戦争に入ったことにより, 上 福岡の街の様子も一変していく。 まず, 1927 (昭和2) 年には国際電気通信株式会社福岡受信 所が建設され, 1937 (昭和12) 年に造兵廠が操業した。 このことは, 当然街に様々な変化をも たらした。 その変化の一つに 「児童数の増加」 があった。 福岡国民学校 (前福岡尋常高等小学 校) では, それらの工場ができ, また拡張していく度に, 就学児童数が増えた。 戦後は, 引揚 児童の転入による児童数の増加があり, 1959 (昭和34) 年には霞ヶ丘団地, 1960 (昭和35) 年 には上野台団地と, 二つの大きな公団団地ができたことによる児童数の増加があった。 現在の 上福岡には, 小学校は1小から7小までの7校, 中学校は1中から3中, 高等学校は1校の公 立学校がある。 これらのものができた事には様々な背景があるようだが, その大きな要因の一 つとして, やはり児童数の増加が述べられている。 2小から7小の6校は, 昭和36年から昭和 56年までのたった20年の間に設立されている。 改めて児童が急増した様子がうかがえる。 また, 街が行なったその努力は大変なものであったに違いない。

次に, 上福岡の社会教育の変遷について見てみたい。

上福岡の最初の社会教育活動としては, ①図書館, ②村民の公衆道徳, ③青年の活動の三つ の活動がある。 この三つの活動の中で, 特に特徴的なものとしては, 青年の活動を挙げたい。

福岡村では, 1901 (明治34) 年に川崎矯風会が, 1909 (明治42) 年に福岡村青年会が, 結成時

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期は不明である滝青年団がそれぞれ創立されている。 これら青年会は, 大洪水後の村の修繕や 小学校校舎の掃除等の他, 会報を発行し, 会員の詩や和歌を載せるなどの文化的活動も行なっ ていた。 大正時代においては, 上記した青年会や後の青年団とは別に, 村の青年たちによる文 化活動もあった。 さまざまな職業を持つ農村の若者たちが, 文芸や短歌などを創るグループを 結成し, 活動を行なっていたのである。 この活動は他の村々の青年たちも参加しての, 福岡村 という村を越えた活動であった。

また戦後の上福岡の社会教育については, 面白い報告が市史の記述の中にある。 それは1973 (昭和48) 年に入間東部地区社会教育振興懇談会が 入間東部地区における社会教育の現状と 問題点 として発表した報告である。 それによると社会教育の団体をA型 (趣味的) B型 (在来からあるもの) C型 (主張をもった学習グループ) D型 (研究会・同好会) の四つにわ けた場合, 上福岡にある団体はC型D型が非常に多くなりつつあるとのことであった。 市史で はこの傾向を 「農村から都市への変化, 人口の増加に伴う地域の変化」 が考えられるという。

加えて, 都市化することにより住民の主体的な 「学習の要求」 が増え, 市民の社会教育への 意識がより高まってきた と捉え述べている4)

4. おわりに

以上, 両地域の教育史を眺め, その中でも幾つか特徴的なものを挙げてみた。 ここではそれ を改めて見つめ, 若干比較することによってそれぞれを検討し, 考察してみたい。

上福岡は, まずその地に学校がなかったことが特徴的であった。 上福岡の人々は, 近隣地域 の学校に通うことによって, 学校教育を受けていたのである。 これは, その地区の就学率に関 係し, それは他と比して低かったようである。 時にいわゆる越境入学となるがため, 学校教育 への就学が, ゆとりのある家庭の児童に限られていたこともあった。 一方で小鹿野を見ると, 教育を望む高い意識と実行力とを感じる。 それは, やはり寺子屋の多さであり, 県下で最初に 郷学校が存在したことであり, 社会教育の面においても, 国の制度が実施されていく前にすで にその内容に同じた制度や学校が作られたことからである。 山深い町でありながら, 小鹿野の 人々が国の情勢に対し, いかに敏感であったかがうかがえる。 特に, 郷学校から小学校へとい う学校の変遷は, まさに学校史の典型的なもので, 郷学校は明治2年の政府の 「小学校ヲ設ル 事」 という命を実践したものであり, 小学校は明治5年の学制に従ったものであった。 小学校 を設立するにあたって, 国が立案したそのものを, 大変に速やかに実践したのであった。 加え てこの変遷において興味深いのは, 一般に 「寺子屋」 は 「私」 的なものと捉えられ, 「郷学校」

は 「公」 的なものと捉えられているものであるが, その 「私」 から 「公」 の変換が非常にスムー ズに行なわれているのである。 また小鹿野の寺子屋に関しては, その師匠に 「村吏」 がいる。

これは上福岡では見られなかったことである。 小鹿野については, 私塾の変遷過程といい, 何 か 「公」 と 「私」 の隔たりがあまりない地域のように感じられる。

しかし反面, 他の地区への学校に通っていた上福岡においては, その近隣地域の人々との交

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流も行なわれていたとも取れる。 もともと, 上福岡は新河岸川の水運業が盛んな地域であった。

これは, 埼玉県の特徴の一つであるが, 江戸との行き来が大変頻繁に行なわれていたことを意 味する。 大正期前後の, 青年の文化的活動も, 東京からの流行を強く受けているものと思われ る。 特に戦後については, 大きな団地が建設され, 人が流入し, 街が都市化していったことに よって教育に変化が起きている。 これについては, 小鹿野では見ることのできない動きである。

小鹿野については, 現在は埼玉県の 「へき地教育」 の一つとして, 問題が挙げられている。

「埼玉県教育史」 には, へき地校の実状として, 県立小鹿野高校のアンケート調査の結果が載 せられている。 そこには, 「通学の困難性」 や 「他校との接触がない」, 「若い教員が多すぎる」

といった問題点が出されている5)

小鹿野は, その地に在る教育への思いが, 特に戦前の教育に色濃く現れており面白い。 また 上福岡は, その地の, 特に戦後にあった急激な変化が教育を動かしている。 両地域における教 育の特色はそこにあるのではないかと思われる。

1) 上福岡市の歴史に関しては全て, 上福岡市教育委員会 上福岡市市編纂委員会編 「上福岡市史 通史 編下巻」 上福岡市 (2002年3月) を参照した。

2) 小鹿野町の歴史に関しては全て, 小鹿野町誌編集委員会編 「小鹿野町誌」 小鹿野町 (1976年3月) を 参照した。

3) 埼玉県教育委員会 「埼玉県教育史」 第1〜7巻 1968年〜1977年

4) 上福岡市教育委員会 上福岡市市編纂委員会編 「上福岡市史 通史編下巻」 2002年3月 pp.636〜637 5) 埼玉県教育委員会 「埼玉県教育史 第7巻」 1977年

参照

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