印 刷 漢 文 大 蔵 経 の 歴 史
―中国麗篇―
シ リ ー ズ
・ 高タ ラ ク シ ア 3 ・ ア
印刷漢文大蔵経の歴史
―中国 ・ 高麗篇―
野沢 佳美
【目次】
立正大学品川図書館 蔵書簡介
1
はじめに
29
一 開宝蔵の開板―印刷漢文大蔵経の誕生―
31
二 契丹(遼)時代の大蔵経
35
三 宋
・ 元時代の江南系大蔵経
38
四 金
・ 元時代の華北系大蔵経
60
五 明
・ 清時代の大蔵経
66
六 高麗版大蔵経―初雕本と再雕本―
85
付
・ 印刷漢文大蔵経の基礎情報
95
1.印刷漢文大蔵経系統図
97
2.中国
・ 高麗の印刷漢文大蔵経印造時期略年表
98
3.用語解説
99
4.版式解説
109
主要参考文献一覧
116
あとがき
121
印刷漢文大蔵経の歴史
―中国 ・ 高麗篇―
立 正 大 学 品川図書館 蔵 書 簡 介
立正大学品川図書館 蔵書簡介
立正大学品川図書館 蔵書簡介
〈①〉明州王公祠堂本―東禅寺蔵―
とう
東 禅
ぜん
寺
じ
蔵
ぞう
の遺 品の なか で「
明
めい
州
しゅう
王
おう
公
こう
祠
し
堂
どう
本
ぼん
」と 呼ば れる
『大
だい
般
はん
若
にゃ
経
きょう
』
がある。もとは、鹿児島県志
し
布
ぶ
志
し
市の大
だい
慈
じ
寺
じ
の所蔵といわれ、多くの帖
末に福
ふっ
建
けん
路
ろ
按
あん
撫
ぶ
司
し
参議官の王
おう
伯
はく
序
じょ
が明州(浙江省寧
ニン
波
ポー
)奉化県忠義郷の
父の祠堂に納めた「大蔵経」であることをしるした、紹
しょう
興
こう
壬午(三二、
一一六二)年の施入記が添付(別印)されていることが特徴である。
大慈寺に「明州王公祠堂本」が将来されたのは十四世紀後半という。
その後流失・ 散佚し、現在わが国を始め中国
・台湾
・アメリカ
・ドイツ
・
スウェーデン等に所蔵・ 保管され、現在およそ五三帖の所在が確認され
てい る。刻 工名 が東 禅寺 蔵の それ に一 致す るこ とか ら、 「明 州王 公祠 堂
本」は紹興三二年に印造された東禅寺蔵本である。
同じ施入記が添付された他の東禅寺蔵仏典が確認されていないことか ら、王伯序が施入した当時から『大般若経』のみであった可能性もある
が、わが国に伝存する東禅寺蔵としては最も早期の印造にかかる遺品の
一つで、その資料的価値は極めて高い。
本館には「巻第八一」および「巻第五一七」の二帖が所蔵され、巻第 八一の帖末には特徴をしめす別印の施入記が添付されている。
両帖とも、裏打補修
・前後の表紙は改装。
立正大学品川図書館 蔵書簡介
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● 『大般若波羅蜜多経』巻第八一
一巻一帖 「大般若波羅蜜多経巻第八十一 首題(千字文) :
日」
法量:
縦二九・
八㎝、横十一・
三㎝、界高二四・
九㎝
状態:
破損・
虫損あり。前後表紙は新装。裏打補修。
紙数:
十三紙 「日 版心:
八十一巻 (紙数)
(刻工名)
」
刻工名:
俊、正刀、志、満、葉通、丁紹、平、元、林受
印造者印: 張華造(単郭・
黒印)
「紹興壬午(三二、一一六二年)五月」王伯序題 施入記:
● 『大般若波羅蜜多経』巻第五一七
一巻一帖 破損(大般若波羅蜜多経巻第五百十七 首題(千字文) :
闕)
法量:
縦二九・
八㎝、横十一・
二㎝。界高二四・
七㎝
状態:
破損・
虫損あり。巻首・
巻末は虫損による欠損。前後表紙は新装。
裏打補修。
紙数:
十四紙 「闕 版心:
七巻 (紙数)
(刻工名)
」
刻工名:
郭寧、鄭球、宗、盛、懋、住
印造者印: 鄭保印造(単郭・
黒印)
施入記:
なし
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〈②〉金沢文庫旧蔵の開元寺蔵
神 奈川 県立 金沢 文庫 には
「宋版 一切 経」 (国 重要 文化 財)が 所蔵 され て
いる
。こ の「宋 版一 切経」
は弘
こう
長
ちょう
元(一 二六 一)年 に北 条実 時が 称
しょう
名
みょう
寺
じ
に寄 進し たも ので ある
。北 条実 時は 常
ひた ち
陸清 涼院 僧・定 の住
じょう
舜
しゅん
を南
宋に 西 派遣し二蔵を求めさせた。うち一蔵は奈良・
さい
大
だい
寺
じ
に施入している。
金沢文庫所蔵の「宋版一切経」は、東禅寺蔵九七八帖、
開
かい
元
げん
寺
じ
蔵
ぞう
二一
一六 帖の ほか
、 思
し
渓
けい
蔵
・和 ぞう
版・
写本 によ る混 合蔵 であ り、「音 釈」帖
も含 改装が施された。 め三四八六帖が現存する。江戸時代後期に裏打補修・
早く から 寺外 に流 失し た帖 も多 く、
本館 所蔵 の『
宗
す
鏡
ぎょう
録
ろく
』巻 第十 七も そ
の一帖である。
● 『宗鏡録』巻第十七
一巻一帖 「宗鏡録巻第十七 首題(千字文) :
侈」
法量:
縦二八・
五㎝、横十一・
一㎝、界高二三・
三㎝
状態:
紺帙表紙(後補改装) 。小虫損。
紙数:
十四紙 「侈 版心:
十七巻 (紙数)
(刻工名)
」
刻工名:
・陳 王浩
生・
・添 林通
・陳演・
・李 鄭大
廣・
・潘 孚順
老・
・王 郭正
任・
才 刊記: 印造者印・
なし
その他:
巻首 三行 分空 白。一 板五 面な し。
金沢 文庫 旧蔵 本。帙 表紙、
左上 部
に朱字で「十七」とあり。
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〈③〉普寧寺蔵
本館に所蔵されている 普
ふ
寧
ねい
寺
じ
蔵
ぞう
は『大威徳陀羅尼経』巻第十六および
『正法念處経』巻第四十三の二帖。いずれも朱色の原表紙であるが、 『正
法念處経』には原題
だい
簽
せん
も残る。
二 帖と も裏 打補 修が 施さ れる
。 『大 威徳 陀羅 尼経』
には 伝来 をし めす
印 三顆 には 處経』 法念 が、『正 ない 等は 込み 書き 記・
か
の朱 印が 捺さ れる
。盛
せい
宣
せん
懐
かい
旧蔵本である。
盛宣懐(号は 愚
ぐ
斎
さい
)は、 清末の洋務運動を推進した 李
り
鴻
こう
章
しょう
の幕僚とな り、西洋式学校の設立や鉄道事業に関わったが、辛亥革命がおきると日
本へ亡命。帰国後、海運・ 鉄鋼業に携わった。一九一六年没。
な お「愚 斎/
図書
/館
・「
蔵」
愚斎
/審 定/
善本
」の 両印 は、天 理大 学
附属 天理 図書 館所 蔵の
『増入 名儒 講義 続資 治通 鑑宋 季朝 事実』
(明初 覆元
建刊本)にもみえる。
● 『大威徳陀羅尼経』巻第十六
一巻一帖 「大威徳陀羅尼経巻第十六 首題(千字文) :
恃六」
表紙:
朱色 原表 紙。原 題簽 なし。
添付 題簽「
元槧 版/
大威 徳陀 羅尼 経巻 十
六」の墨書紙片。
法量:
縦三〇・
〇㎝、横十一・
一㎝、界高二四・
三㎝
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状態:
虫損。裏打補修。
紙数:
十五紙 「恃六 (紙数) 版心:
(刻工名)
」
刻工名:
明永刊 刊記(題記) : なし
音釈:
あり
● 『正法念處経』巻第四十三
一巻一帖 「正法念處経巻第四十三 首題(千字文) :
慎三」
表紙:
朱色 原表 紙。原 題簽「
正法 念處 経巻 第四 十三 七・ 」 (十
六㎝
・一 ×三
㎝)
法量:
縦三〇・
一㎝、横十一・
一㎝。界高二四・
二㎝。
状態:
虫損。裏打補修。
紙数:
十六紙 「慎三 (紙数) 版心:
(刻工名)
」
刻工名:
何・
何建 刊記(題記) : なし
音釈:
あり その他:
巻首 に「愚 斎/図書/館
蔵」 (朱
・「愚 方印)
斎/審定/善 本」 (朱
方
印) 、巻末に「武進/盛氏/所蔵」
(朱方印)あり。
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〈④〉万暦十八年印造の永楽南蔵
わが国において、まとまった 永
えい
楽
らく
南
なん
蔵
ぞう
の現存は極めて少ない。万
ばん
暦
れき
年
間印造本が本館(五五八帖)に、 清初の 順
じゅん
治
ち
年間印造本が山口県快
かい
友
ゆう
寺
じ
(五四〇〇余帖)に所蔵されるのみである。
本館所蔵の永楽南蔵(以下、本館本と略)は本来の一割にも満たない 現存数ではあるが、明末とはいえ、まとまった明代印造の唯一の遺品で
ある。 その存在が改めて確認されて以降、
悉
しっ
皆
かい
調査がおこなわれ、その報告
書と して
『立正 大学 図書 館所 蔵明 代南 蔵目 録』 (一 九八 八年)
が刊 行さ れ
ている。現在本館本は裏打補修が施され、新たに帙
ちつ
が作製され収蔵され フィルム化され、閲覧に供せられて ている。補修前の状況はマイクロ・
いる。 本館本の版式等については、前記の『目録』を参照されたいが、ここ では 特に 注目 すべ き点 を二 つ挙 げる
。ま ず、
本館 本は 五つ の「
経
きょう
鋪
ほ
」 (民
間印 刷業 者)が 分担 で印 造し たも ので ある
。永 楽南 蔵は 明代 前期 から
「経 鋪」が印造に参画しており、おおよそ一つの「経鋪」が担当しているの が通例である。万暦年間半ばの永楽南蔵が複数の「経鋪」によって分担 印造さていた事実を示す例として貴重である。次に、本館本に確認され る刻工名には、元朝末期から明朝初期(十四世紀半ば)の江南で活動し ていた刻工と共通する三〇名弱が確認される。従来南蔵は、明初の永楽 年間に一度焼失して再刻したとされてきたが、本館本のなかのこれら刻 工名は、すべての板木が焼失していなかったことを証明する重要な情報
である。
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〈⑤〉嘉興蔵
本館所蔵の 嘉
か
興
こう
蔵
ぞう
は十二冊である。うち正蔵部が一部三冊、続蔵部が
九部八冊、又
ゆう
続蔵部が一部一冊である。
正 蔵部
『入楞 伽経』
一〇 巻(為 函)は
裏打
・改
補修
装が 施さ れて おり
、 題簽も新たに添付されたものである。巻首に三種の朱方印が捺されてい るが、旧蔵者は不明。巻末に「東京北郷/□二/森江画房」の黒方印あ
り。 続
・又
蔵部
続蔵 部九 冊は
、 巻 首に
「肥前 長崎/延 命密
寺」 (四
・八㎝×
二・
五㎝)の双郭朱方印が捺されている。長崎県寺町にある延
えん
命
めい
寺
じ
(元
げん
和
な
二、 一 六一 六年 創建)
の旧 蔵本 であ る。『長 崎市
史(上)
』 (清 文堂 出版
株式会社、一九三八)によれば、延命寺の嘉興蔵は元
げん
禄
ろく
九(一六九六)
年正月に長崎惣町の信者たちから寄進をえて購入したものであり、代銀 は「拾貮貫貮百五拾目」であったという。大蔵経購入時の金額がしられ るのは貴重である。その後『長崎市史』が編纂された大正十一~十二年 当時、わずか六四部、九〇一冊が現存するのみというから、大半が散佚
して しま ってい たよ うで ある
。延 命寺 の経
きょう
蔵
ぞう
は昭 和二
〇年 八月 の原
爆の 虫害を蒙ったため、後年やむなく焼 被害を受け、残った嘉興蔵は水害・
却したという。本館所蔵本は焼却される以前に寺外に流失した一部であ
ろう。
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各 冊の 表紙 には 墨書 があ り、「続」
また は「又 続」は
・又
続蔵
続蔵 をそ
れぞ れ示 し、「第 四十
三箱」
~「四 十九 箱」は 嘉興 蔵全 体の 箱数 を、
次の 又続蔵内での帙または套数を示し、最後の数字は同一函数 函数は続蔵・
内での冊次を示す。これらを嘉興蔵目録と照合してみるとすべて一致し ている。ただこの墨書が当初から存在したものか、延命寺に納入後に注 記されたかは不明である。嘉興蔵の正蔵部の各仏典には版心に千字文が
あってその仏典の位置をしることができるが、続蔵・ 又続蔵は嘉興蔵独
自の追加であるためか、千字文を付していない。おそらく保管整理の上 から、前表紙にかかる墨書をしるしたものと考えられる。なお、九冊に
は微妙な法量の差異が認められ、一定していない。
● 『入楞伽経』巻第一~第十
一〇巻三冊 「入楞伽経巻第(幾) (千字文なし) 首題(千字文) :
」
表紙:
改装。題簽(無記入)添付。
法量:
縦二六・
二㎝、横十七・
三㎝
版式:
四周双辺有界、半葉一〇行、毎行二〇字
「 版心:
経 入楞伽経巻(幾)
(紙数) 」 あり 校譌: 音釈・
刊記:
各巻にあり。万暦丙午(三四年)・万暦丁未(三五年)
その他:
冊首 に三 種の 朱印 あり
。巻 末に
「東京 北郷/■
二/森江 画房」
の黒
方印。
巻第 三に
・青 朱色
色の 割印 あり。
巻第 一〇 巻末 に「蒋 印/
分」黒方印。
立正大学品川図書館 蔵書簡介
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● 「嘉興蔵続蔵
・又続蔵」
零本九冊 二巻一冊(古呉沙門智旭随筆) 四十三箱之内第五十五函 闢邪集』 表紙墨書「続 1『見聞録・
八」
法量:
縦二六・
九㎝×横十七・
三㎝
(見聞録)四周単辺有界、半葉九行、毎行二〇字 版式:
(闢邪集)四周単辺無界、半葉八行、毎行二〇字 「 (魚尾)見聞録 版心:
(紙数)
」
「闢邪集 天学再徴
(紙数)
」
刊記:
なし 2『往生集』 三巻一冊(古杭雲棲寺沙門袾宏輯、万暦十二年袾宏序)
表紙墨書「続 四十三箱之内第五十五函
九」
法量:
縦二六・
八㎝×横十七・
三㎝
版式:
四周単辺有界、半葉一〇行、毎行二〇字
「往生集 (魚尾)巻(幾) 版心:
(紙数) 」
刊記:
なし 3『雲門匡真禅師語録』
三巻一冊 四十四箱之内第六十二函 表紙墨書「続
二」
法量:
縦二七・
二㎝×横十八・
三㎝
版式:
四周双辺有界、半葉九行、毎行十九字
「雲門語録(魚尾)巻(幾) (紙数) 版心:
」
刊記:
なし
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4『密菴和尚語録』上下 二巻一冊(住明州天童景徳寺十七世孫圓悟編)
表紙墨書「続 四十四箱之内第六十三函
五」
法量:
縦二七・
二㎝×横十八・
四㎝
版式:
四周双辺有界、半葉一〇行、毎行二〇字
「支那/撰述 版心:
密菴禅師語録巻(幾) (紙数)
」
刊記:
崇禎己卯(十二年) (巻下)
5『高峰大師語録』
一巻一冊(万暦二十七年袾宏序) 四十四箱之内第六十四函 表紙墨書「続
三」
法量:
縦二六・
九㎝×横十七・
九㎝
版式:
四周双辺有界、半葉一〇行、毎行二〇字
「 (黒釘)高峰語録(項目) 版心:
(紙数) 」
刊記:
康熙丁未(六年)十月
6『羅湖野録』上下
二巻一冊(宋江西沙門暁瑩集、紹興乙亥暁瑩序) 四十四箱之内第六十四函 表紙墨書「続
六了」
法量:
縦二七・
〇㎝×横十七・
八㎝
版式:
四周双辺有界、半葉一〇行、毎行二〇字
「支那/撰述 版心:
羅湖野録巻(幾) (紙数)
」
刊記:
万暦辛丑(二九年)夏仲月径山寂照庵識(巻下)
立正大学品川図書館 蔵書簡介
7『福源石屋珙禅師語録』上下・ 附塔銘 二巻一冊
二」 四十四箱之内第六十五函 表紙墨書「続 (参学門人至柔等編、洪武十五年来復序)
法量:
縦二六・
八㎝×横十七・
四㎝
版式:
四周双辺有界、半葉一〇行、毎行二〇字
「支那/撰述 版心:
福源石屋珙禅師語録巻之(幾) (紙数)
」
刊記:
天啓七年四月八日姑蘇兜率園識(塔銘末)
8『三山禅師語録』
五巻一冊(書記普定編、康熙七年序) 四十七箱之内第八十七函 表紙墨書「続
四」
法量:
縦二七・
三㎝×横十七・
七㎝
版式:
四周双辺有界、半葉一〇行、毎行二〇字
「支那/撰述 版心:
三山禅師語録巻(幾) (紙数)
」
「四川向化侯養元譚公諱詣捐俸刻」 (巻第二 刊記:
・四)
9『虚舟禅師八識規矩頌註』 一巻一冊
四十九箱之内第八函 表紙墨書「又続 (西湖留錫退居虚舟省道人、康煕十一年王庭序)
六了」
法量:
縦二七・
一㎝×横十七・
五㎝
版式:
四周双辺有界、半葉一〇行、毎行二〇字
「支那/撰述 版心:
八識規矩頌註(紙数) 」
刊記:
なし
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〈⑥〉高麗再雕本
本 館に 高
こう
麗
らい
版
ばん
大蔵 経の 再
さい
雕
ちょう
本
ぼん
が収 蔵さ れた のは、
昭和 五〇(
一九 七
五)年のことで、二〇世紀後半に新たに摺
す
られた一蔵である。昭和五〇
年の直前、韓国の海
かい
印
いん
寺
じ
において、その所蔵する板木から直接摺られた のは、一九五八~六一年の一〇部、および一九六三~六八年の十三部の
二回 とさ れて いる
。本 館所 蔵本 の購 入に 関わ った担 当者 の記 録に よれ ば、
前者の一〇部のうちの一部というが、確証はなく特定できない。いずれ にしても、上記二回のどちらかの新摺本であることは確かである。
本館所蔵本は、再雕本一三四一冊とともに、
「海印寺伝来諸版本」 (本
館独 自の 呼称)
であ る一
〇九 冊が 含ま れて いる
(合計 一四 五〇 冊) 。後 者
は従 来、 「雑 版」と
呼ば れた 再雕 本入 蔵外 の一 五〇 数種 の仏 典で
、 な かに
はハングルによる仏典も収録されている。
「雑版」と呼ばれる海印寺のこれら一群の板木調査およびその報告は、
すでにわが国の研究者も試みているが、その報告内容と本館所蔵の「雑
版」とのあいだに一致しない部分があるという。
このほか、装訂や大きさについても、一見して異なるところがある。 「雑版」
仏典 を再 雕本 本体 のそ れと 比べ ると
、 表 紙の 色が 異な るも の(微
妙な色の濃さの違い)があり、また法量が著しく小さい仏典もあって、 一定していない。また「雑版」の仏典の印面も高さや界線の有無・ 字体
の相違など、変化に富んでいる。
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要するに高麗時代以降の各時代で開板された様々な板木の一群である ため、統一性はないが、様々な版式を一堂に会する「雑版」は非常に興
味深い存在である。なお、本館所蔵のこれら「雑版」の個々の詳細な目 録は、桐谷征一編「立正大学図書館新収『韓国海印寺伝来版本』目録な
らびに解説」 (『大崎学報』一三二、一九七九年)がある。
現在、わが国には十四世紀の印造本を始め、一〇数カ所の寺院等に再 雕本が現存している。本館所蔵本は、二〇世紀後半の新摺のうちの一蔵
ではあるが、 「世界遺産」に登録された再雕本の板木(
「雑版」の板木も 含め)による新たな印造は今後難しいと思われ、その意味でも貴重な一
蔵である。
● 『大般若波羅蜜多経』巻第一~五
五巻一冊 「大般若波羅蜜多経巻第(幾) 天」 首題(千字文) :
表紙:
題簽
「大般 若波 羅蜜 一之 多経
五」 (縦
・一㎝× 二七
・九㎝) 横五
あり
。
法量:
縦四〇・
九㎝、横二九・
一㎝、厚さ二・
三㎝
版式:
上下単辺、界高二二・ 二㎝、半葉十二行、行十四字
「大般若経第(幾)巻 柱刻:
第(幾)張 天」 (糊代部分)
音釈:
なし 開板刊記: あり。 「(干支)高麗国大蔵都監奉/勑雕造」
※ すべ ての 書誌 を挙 げる こと は困 難で ある ため
、 冒 頭の
『大般 若経』
のみ を
掲げた。
※ 「大崎キャンパス」の名称が平成
に名称変更となりました。 ア セ ン タ ー (大 崎 図 書 館) 」 は 、「同 (品 川 図 書 館) 」 キ ャ ン パ ス」 に 変 更 さ れ た こ と に 伴 い 、「情 報 メ デ ィ
26年度より「品川
※ 本文中、本学所蔵資料には「
▲」印を付しました。
はじめに
はじめに
中国において 大
だい蔵
ぞう経
きょう( 衆
しゅう経
きょう、 一
いっ切
さい経
きょうとも)という五○○○巻を超える仏教経典( 仏
ぶっ典
てん)の一大 叢
そう書
しょが木版 印刷によって刊行されたのは、一〇世紀後半に成立した 宋
そう朝に始まる。 開
かい宝
ほう五(九七二)年、 四
し川
せんの 成
せい都
とに対 し て 大 蔵 経 開 板 が 命 じ ら れ、 唐
・ 智
ち昇
しょう『 開
かい元
げん釈
しゃく教
きょう録
ろく』( 二 ○ 巻 ) に 基 づ い た 五 ○ 四 八 巻 は 太
たい平
へい興
こう国
こく二( 九 七 七) 年 に 完 成 し た 。 こ れ が 、「 開
かい宝
ほう蔵
ぞう」 と 呼 ば れ る 世 界 初 の 印 刷 漢 文大蔵経である。
開宝蔵以降、 中国歴代王朝下では多くの 勅
ちょく版
はん・ 私
し版
はんの漢文大蔵 経が、その版式( 巻
かん子
す本
ぼんから 折
おり本
ほん、さらには 方
ほう冊
さつ本
ぼんへ)を変え巻 数を増加させながら 開
かい板
はん・ 印
いん造
ぞうされている。これら歴代漢文大蔵 経の影響を受けた周辺諸国では、独自の漢文大蔵経が開板されて いる。また印刷大蔵経は漢文ばかりでなく、 元
げん代には 西
せい夏
か文字、 明
みん代 に は モ ン ゴ ル 文 字 ・ 清
しんベ ッ ト 文 字 ・ チ
が、それぞれ開板されている。 洲 文 字 の 大 蔵 経 ・ 満
まんしゅう印 刷 大 蔵 経 は 仏 典 の 叢 書 で あ る が 、 そ こ に は 経 文 と は 別 の 、 様々 な歴史情報が多く含まれている。たとえば勅版、私版を問わず、 開 板 に ま つ わ る 種々の 資 料 ( 題
だい記
きや 施
せ財
ざい記
き・ 刻
こっ工
こう名
めい)、 こ ん に ち ま で 伝 存 し た あ い だ に し る さ れ た 様々な 情 報 ( 施
せ入
にゅう記
きや わ が 国 の 訓
くん開城 開城 燕京 開城
(大都)燕京
(大都)燕京
(大都)
開封 開封 開封 解州
解州 解州
成都 成都 成都
平江 平江 杭州平江 杭州 湖州 杭州 湖州 湖州
福州 福州 福州
高麗蔵 契丹蔵
金蔵
開宝蔵
福州版
浙西版
はじめに
点
てん・ 角
かく筆
ひつ、僧俗の書き入れ、など)が含まれている。そうした資 料
・ 情報を活用することで、これまで見過ごされてきた新事実が
明らかにされる可能性がある。隣接する研究分野(歴史学
・ 国文
学
・ 美術史
・ 音
おん韻
いん学など)にとって印刷漢文大蔵経は有用な「歴 史研究資料」という側面を持つ、まさに「一大文化遺産」なので ある。
本書は、本学品川キャンパスの情報メディアセンター(品川図 書館)に所蔵されている中国および高麗で開板された印刷漢文大 蔵経の遺品および関連資料を紹介しつつ、あわせてそれら大蔵経 が開板
・ 印造された経緯や特徴について、地理的環境や歴史的背
景を踏まえながらその「軌跡」をたどることを目的としている。
なお、中国および周辺国における印刷漢文大蔵経の歴史につい ては、これまで多くの研究成果が刊行されている。とりわけ、版 式や千字文函号等により、印刷漢文大蔵経に三系統があることを指摘した 竺
ちく沙
さ雅
まさ章
あき氏の分類法はもっとも説得 力のある体系である。本書も基本的にその体系に基づいているが、分類法に関わる専門的な事項は最小限にと どめた。詳細は巻末の「主要参考文献一覧」にある同氏の研究成果を参照されたい。
嘉興 嘉興 嘉興
京都 京都 京都 江戸江戸江戸
南京 南京 南京 北京 北京 北京
黄檗版 龍蔵 天海版
北蔵
南蔵 嘉興蔵
一 開宝蔵の開板
一 開宝蔵の開板 ―印刷漢文大蔵経の誕生―
❖
蜀と大蔵経開板
蜀
しょくは現在の四川省の古名であるが、もとは四川盆地を中心とした地域の呼び名であった。亜熱帯モンスーン 気候に属する現在の四川省は、地形と季節風との影響により気候も複雑
・ 多様である。成都を中心とした四川
盆地は高温多湿で曇りや霧の日が多く、 そのため多種
・ 多様な樹木資源に恵まれているという。
「蜀の犬、 日に 吠ゆ」のことわざは唐宋八大家のひとり 柳
りゅう宗
そう元
げん(七七三~八一九年)の作品に由来するが、 当時から蜀は曇天 の日が多い地域であった。
成 都 の 卞
べん家 で 印 刷 さ れ た 『 陀
だ羅
ら尼
に経
きょう咒
じゅ』 が 四 川 省 図 書 館 に 所 蔵 さ れ て お り 、 八 世 紀 後 半 の 印 刷 と み ら れ て い る。 ま た、 唐 末 の 中
ちゅう和
わ二( 八 八 二 ) 年、 成 都 で 具
ぐ注
ちゅう暦
れきが 刊 行( 大 英 博 物 館 所 蔵 ) さ れ、 翌 中 和 三 年、 成 都 に 赴任していた 柳
りゅう玭
ひんは、 当地で医学
・ 卜
ぼく占
せん・ 星暦などに関連する印刷物が刊行されているが不鮮明であった、
と 報 告 し て い る( 『 柳
りゅう氏
し家
か訓
くん』 序 )。 唐 朝 が 滅 亡 し て 分 裂 期( 五
ご代
だい十
じっ国
こく時 代 ) に 入 る と、 四 川 に は 前
ぜん蜀
しょくお よ び 後
こう蜀
しょくの 地 方 政 権 が 前 後 し て た っ た。 後 蜀 期 の 成 都 で は 毋
ぶ昭
しょう裔
えいが 私 財 を 出 し て 学 館 を 建 て、 併 せ て「 九 経 」 の 刊 行 を 蜀 王 に 願 い 出 で、 許 さ れ て い る( 九 五 三 年 )。 こ の 直 後、 奇 し く も 華 北 で は 後
こう周
しゅうの 宰 相
蜀(四川)は、唐代後半期より印刷の技術 九五四)が 後 唐 期から進めていた「九経」の開板事業が完成している( 『 資 治 通 鑑 』巻第二九一) 。このように
こうとうしじつがん道 ( 八 八 二 ~ ・ 馮
ふうどう・ 環境が整っていた地域の一つであり、宋代に入ると印刷
・ 出版の
代表的な地となる。
一 開宝蔵の開板
最後の五代政権である後周から 禅
ぜん譲
じょうを受けた 趙
ちょう匡
きょう胤
いんは九六〇年、即位( 太
たい祖
そ、位九六〇~七六年)して宋 を 建 国 し た 。 全 国 が 宋 に よ って 再 統 一 さ れ る の は 第 二 代 太
たい宗
そう(位 九 七 六~九 七 年) の 時 で あ り (九 七 九 年) 、 実 に二〇年が費やされた。この間に宋は、 四川の地方政権である後蜀を滅ぼすと( 乾
けん徳
とく三、 九六五年) 、 太祖は成 都に大蔵経の開板を命じた。これが開宝蔵(勅版
・ 蜀版とも)と呼ばれる史上初の木版による印刷大蔵経であ
る。
開宝蔵以降、歴代中華王朝およびその周辺諸国では、いく種もの漢文大蔵経が開板されている。現存する開 宝蔵の遺品はわずか十二巻にすぎず(ほか断簡が数点) 、 また記録資料もごく限られていることから、 開板事業 のより具体的な復元は困難な状況にある。しかしながら、開宝蔵を基に開板した 高
こう麗
らい蔵
ぞうの存在や、わが国にも た ら さ れ た 開 宝 蔵 を 忠 実 に 書 写 し た 写 経 に よ って 、 開 宝 蔵 の 開 板
造 を め ぐ る 状 況 は お お よ そ 判 明 し て い る 。 ・ 印
唐
・ 智昇撰『開元釈教録』に基づ
く開宝蔵(四八〇函、五〇四八巻) の開板事業に関する記録史料はほとんどなく、 不明な点が多い。数少ない記録史料を総合する と、開宝蔵は開宝五(九七二)年に開板が始め られ、その事業は太平興国二(九七七)年に完 了している。
四八〇函、およそ十三万枚の 板
はん木
ぎがわずか六 年のうちに開板されたことになり、一日あたり
開宝蔵『開元釈教録』巻第十九(縮刷蔵本)
一 開宝蔵の開板
六〇枚との試算もある。刻工を始め資材等は現地調達であろうから、宋は極めて短期間の過酷な事業を成都に 要 求 し た こ と に な る 。 な お 、 開 宝 蔵 の 開 板 勅 命 が 出 さ れ る 直 前 の 開 宝 元 (九 六 八) 年 お よ び 同 四 (九 七 一) 年、 太祖は成都に対して金
・ 銀字による各一蔵の写本大蔵経を造らしめている。開宝蔵を含め、重ねての大蔵経作
製を太祖が命じたのは、四川に対する人心収攬のための占領政策の一環であったという。
開宝蔵の板木が首都 開
かい封
ほうの 太
たい平
へい興
こう国
こく寺
じに運ばれたのは、太平興国八(九八三)年のことであった。完成から 六年ものあいだ成都に板木が留め置かれたのは、皇室内の抗争があったからである。太祖が開宝九(九七六) 年十月に急死すると、 弟の 趙
ちょう匡
きょう義
ぎが即位した(太宗) 。太宗は異例の「年内改元」をしてその年を太平興国元 年とした。太宗は弟や甥(太祖の子)が自身の地位を脅かす存在とみて彼らを排除した。この問題が太平興国 七(九八二)年に解決されると、開宝蔵の受け入れが可能となり、翌八年に開封へ搬送させた。到着と同時に 太平興国寺内の 印
いん経
きょう院
いんで印造が開始された。
こ れ よ り 先、 太 宗 は 訳
やく経
きょう院
いん( の ち 伝
でん法
ぽう院
いんと 改 称 ) を 創 設( 太 平 興 国 七 年 六 月 ) し て 新 た な 仏 典 の 翻 訳 を 命 じ、翻訳された新訳仏典も印経院に送られ、 続
ぞく蔵
ぞうとして開宝蔵に逐次加えられていった。開宝蔵の印造はその 後 も 続 け ら れ た が 、 神
しん宗
そう朝 に お け る 王
おう安
あん石
せき(一 〇 二 一~八 六 年) の 新 法 改 革 の 実 施 に よ り 、 煕
き寧
ねい四 (一 〇 七 一) 年三月の神宗の詔によって印経院は廃止された。これに伴い開宝蔵の板木は開封城内の 顕
けん聖
しょう寺
じ聖
しょう寿
じゅ禅
ぜん院
いんに移 管された。確認される開宝蔵の最後の印刷 年次は 大
だい観
かん二(一一〇八)年である。
靖
せい康
こう元(一一二六)年末の金国軍による 包囲のため開封城は陥落し、翌年四月金国 軍は 徽
き宗
そう・ 欽
きん宗
そう以下、皇族
・ 官僚ら約三〇
南禅寺所蔵 開宝蔵の復刻本
一 開宝蔵の開板
〇〇名および多くの略奪品をともなって引き揚げ、ここに宋は一旦滅亡し た ( 靖
せい康
こうの 変
へん)。 顕 聖 寺 の 開 宝 蔵 の 板 木 も こ の 時、 金 国 軍 に よ って 北 方 に 持 ち去られたという。
開宝蔵は国内のみならず、高麗
・ 西夏など諸国にもたびたび
下
か賜
しされて い る ( 断
だん簡
かんが ト ル フ ァ ン 〈吐 魯 番〉 か ら も 出 土 し て い る) 。 そ の 栄 誉 に 浴 し た 最 初 が 、 た ま た ま 入
にっ宋
そうし た 東 大 寺 の 僧 奝
ちょう然
ねん(九 三 八~一 〇 一 六 年) で あ る。 五
ご臺
だい山
さん巡礼を目的に 永
えい観
かん元(九八三)年に入宋した奝然は、太宗皇帝 から五臺山巡礼を許され、帰国の際、開宝蔵(四八一函)および新翻訳経 四一巻等を下賜されている。奝然将来の開宝蔵は、のち藤原道長(九六六 ~一 〇 二 七 年) に 献 上 さ れ て 法
ほう成
じょう寺
じに 納 め ら れ た が 、 天
てん喜
き六 (一 〇 五 八) 年の同寺火災の際、焼失したとされる。焼失前に書写された経巻がいまで も京都
・ 奈良等に伝存し、開宝蔵の開板事情を復元する上で重要な情報源
となっている。
【版式】 開宝蔵の版 はん式 しきは、一板一紙、一紙二三行、毎行十四字、天地
・ 行間無界の巻子本。
料 りょう紙 しは黄 おう麻 ま紙 しを使用。首題
・ 尾題の下に千 せん字 じ文 もん函 かん号 ごうを刻す。前紙との糊 のり代 しろ部分に「仏典名
数 ・ 巻
数(第某張) ・ 紙
これは唐代以降に成都に伝わっていた写本系大蔵経を底本としたためであるという。 そこぼん 巻末には印造の経緯をしるした印記(黒印)が捺されているものがある。開宝蔵は一行十四字という特徴を持つが、 し、巻末には「大宋開宝七年甲戌歳奉/勑雕造」など開板年を示す刊記、さらには印造者印などがある。現存本の かんき 字文函号(某字号)」を刻 ・ 千
奝然ゆかりの京都 ・ 嵯峨清涼寺
二 契丹(遼)時代の大蔵経 【影印】 開宝蔵の影 えい印 いんは、南 なん禅 ぜん寺 じ所蔵『 ▲仏 ぶっ本 ほん行 ぎょう集 しゅう経 きょう』巻第十九が昭和一〇(一九三五)年に原装復元本(大蔵出版社)として刊行されている。近年、中国からこの一巻を含めた伝存する十二巻すべての原装復元本が『 ▲開宝遺珍』(文物出版社、北京、二〇一〇年)として刊行されている。
二 契丹(遼)時代の大蔵経
❖
「征服王朝」契丹と大蔵経開板
隋唐時代、 遼
りょう河
が上流のシラ
・ ムレン一帯に遊牧していたモンゴル系の
契
キタイ(きったん)丹 族は、間接的ながら中国文化 の 影 響 を 受 け 、 次 第 に 勢 力 を 伸 張 し つ つ あ った 。 契 丹 八 部 族 の 一 つ で あ る 迭
てつ刺
らつ部
ぶ出 身 の 耶
や律
りつ阿
あ保
ぼ機
きは 九 〇 一 年、 の ち の 帝 国 の 原 型 と も い う べ き 小 型 の 政 治 組 織 を 形 成 し 、「大 キ タ イ 国」 の 君 主 に 即 位 し た 。 そ の 後 彼 は 九 一 六 年、改めて「天皇帝」と称し(太祖) 、年号を「 神
しん冊
さつ」とした。契丹帝国の成立である。
隣接する 渤
ぼっ海
かい国を滅ぼした契丹は、 第二代太宗( 耶
や律
りつ堯
ぎょう骨
こつ、 位九二七~四七年)の時、 五代政権の 後
こう晋
しんの建 国 を 援 助 し 、 そ の 見 返 り と し て 長 城 以 南 の 「 燕
えん雲
うん十 六 州」 の 地 を え た (九 三 六 年) 。 の ち 太 宗 は 南 下 し て 後 晋 を 滅ぼすと(九四七年) 、 直接華北一帯を支配し、 国号を中国風に「 遼
りょう」と改めた。しかし契丹(遼)の支配に対 する激しい漢人の抵抗にあい、また本国での反対派の動静が伝えられると太宗は、わずか三ヵ月間で華北支配 をあきらめ、北帰することとした。太宗はその途上、死去している。
こうして中華の一部(燕雲十六州)が北方民族王朝に編入された。北方民族が中華の地をも支配する政権を
二 契丹(遼)時代の大蔵経
「征服王朝」と呼んでいる。契丹は最初の本格的な征服王朝であり、 金
きん、 元
げんがこれに続く。
契丹は 聖
せい宗
そう(位九八二~一〇三一年)の 統
とう和
わ二二(宋の 景
けい徳
とく元、一〇〇四)年、宋との間に「 澶
せん淵
えんの 盟
めい」を 結んだ。以後契丹は、毎年宋から莫大な 歳
さい幣
へいをえるとともに、安定した対宋関係を背景として周辺諸国とくに は高麗への圧力を強め、しばしば高麗国内へ侵攻した。
契 丹 で は 歴 代 皇 帝 が 篤 く 仏 教 を 保 護 し 、 各 地 に 寺 院 を 建 立 し た 。 そ の 最 盛 期 は 聖 宗
宗 ・ 興
こうそう・ 道
どう宗
そうの 三 代 で あ っ た。聖宗は 房
ぼう山
ざん雲
うん居
ご寺
じの 石
せき経
きょう(房山石経)の続刻を開始し、 続く興宗(位一〇三一~五五年)の時に「独自」 の漢文大蔵経の開板が着手され、道宗(位一〇五五~一一〇一年)の時に完成をみている。この新たな大蔵経 すなわち 契
きっ丹
たん蔵
ぞう( 遼
りょう蔵
ぞう、 丹
たん本
ぽんとも)は高麗にもたびたび下賜され、 義
ぎ天
てん版
ばんや 再
さい雕
ちょう本
ぼんに影響を与えている。
契丹蔵はわずかな記録史料によってその存在が指摘されていたが、現物が確認されず「幻の大蔵経」とされ てきた。しかし一九七四年、 山
さん西
せい省 応
おう県にて契丹蔵の 零
れい巻
かんを含む多数の 文
ぶん物
ぶつが発見された。その書影が刊行さ れ、ようやく契丹蔵の一端をうかがうことが可能となった。
契 丹(遼) に お い て 漢 文 大 蔵 経 が 刊 行 さ れ た こ と は 、わ ず か な 記 録 史 料 に よ っ て 指 摘 さ れ て い た 。 現 物が一巻も確認されない、 まさに 「幻の大蔵経」 であり、 記録史料を手掛かりに、 早くから日本
・ 中国
の研究者がその解明を試み、 論争が続けられてきた。 すなわち、 契丹蔵はすべて五七九函からなり、 開板は興宗 朝から道宗朝にかけておこなわれ、 千字文函号は開宝蔵
・ 高麗蔵とは一致せず、
一行十七字という 字
じ詰
づめも開宝蔵 と は 異 な って お り 、 し た が って テ キ ス ト と し て 長 安 の 唐 代 写 経 が 用 い ら れ て い る 、 な ど の 点 が 推 測 さ れ て い た 。
こうしたなかで一九七四年、山西省応県 仏
ぶつ宮
ぐう寺
じ木
もく塔
とうの第四層に安置された「 釈
しゃ迦
か牟
む尼
に仏
ぶつ」像の 胎
たい内
ないから仏典 な ど 多 数 の 文 物 が 発 見 さ れ た (文 物 の 総 計 は 一 六 〇 件) 。 注 目 さ れ る の は 、 発 見 さ れ た 仏 典 の う ち 十 二 巻 が 「幻
契丹蔵二 契丹(遼)時代の大蔵経
の大蔵経」である契丹蔵の零巻という点にある。この発見により、その後契丹蔵に関する研究が活発化し、と くには開板時期をめぐる論争がおこなわれた。すなわち、発見された仏典のなかに統和二一(一〇〇三)年の 題記があり、よって契丹蔵の開板は聖宗朝にまでさかのぼるとする見解が出された。しかし、統和二一年の題 記を持つ仏典は契丹蔵本ではなく「私刻本」であること、また当時の政治的情勢からみて聖宗朝の開板は考え 難 い こ と、 な ど の 疑 問 が 提 示 さ れ て い る。 と ま れ 現 在、 開 板 年 代 に つ い て は 興 宗 の 重
ちょう熙
き年 間( 一 〇 三 二 ~ 五 四)の初期から始められ、同二〇(一〇五一)年頃には主要部分が完成し、その後も作業は継続され、五七九 函の全蔵が完成したのは道宗の 咸
かん雍
よう四(一〇六八)年三月であったとみられている。加えて、聖宗期から房山 雲居寺石経の続刻が開始されているが、その後期以降の刻石の底本に契丹蔵が用いられていること、また契丹 蔵の開板地が 燕
えん京
けい(いまの北京) 弘
ぐ法
ほう寺
じであったらしいこと、なども指摘されている。弘法寺は後年、 金
きん蔵
ぞうの 板木が運び込まれた寺である。 契 丹 蔵 を 含 め 多 く の 印 刷 仏 典 が 応 県 木 塔 か ら 発 見 さ れ た が 、 こ れ ら の 版 本 刊 行 の 事 例 か ら み れ ば 、 契 丹 (遼) 時代における燕京の木版技術は宋代のそれに比して劣ってはいないとの指摘がある。なお、契丹蔵の断簡がト ルファン(吐魯番)やカラホト(黒水城)から出土している。
【版式】 契丹蔵の版式は、一板一紙、上下単辺、一紙二七~二八行、毎行十七字の巻子本を標準とし、硬 こう黄 ま紙 しを使用。前紙との糊代部分に「略経名
・ 巻数
・ 紙数
・ 千字文函号」を刻し、首題
・ 尾題の下に千字文函号を刻す。
【影印】 発見された契丹蔵の全容は、『 ▲応県木塔遼代秘蔵』(山西省文物局
・ 中国歴史博物館編、文物出版社、北京、一九 九一年)として刊行されている。なお聖宗期から再開された房山石経の続刻事業には、興宗期後半からその底本に契丹蔵本が用いられたが、その石経の書影が『 ▲房山石経―遼金刻経―』二二冊(中国仏教協会編、中国仏教図書文物館、北京、一九八六~九一年)として刊行されている。
三 宋・元時代の江南系大蔵経
応県仏宮寺の文物が発見されたあとの一九八七年、 河
か北
ほく省 豊
ほう潤
じゅん県 天
てん宮
ぐう寺
じ仏 塔 か ら 刊 本 の 仏 典 一 〇 点 が 発 見 さ れた。 冊
さっ子
し本
ぼん七点、 巻子本三点である。注目すべきは冊 子 本 仏 典 の う ち の 『 大
たい方
ほう広
こう仏
ぶつ花
け厳
ごん経
ぎょう』 八 〇 巻 で あ り 、 全 八 冊、 胡
こ蝶
ちょう包
ほう背
はい装
そう、 毎 半 葉
よう十 二 行、 行 三 〇 字 の 小 字 本 であり、 そこにみえる千字文函号の「平~伏」は契丹蔵 のそれと一致する。このことから、 小字本『大方広仏花 厳経』は冊子形式の契丹蔵であり、 したがって契丹蔵は 巻子本と冊子本との二種類が刊行されたという。 冊 子 形 式 の 印 刷 大 蔵 経 は 明 末 の 嘉
か興
こう蔵
ぞうか ら で あ る の で 、 こ れ が 事 実 と す れ ば 印 刷 大 蔵 経 史 上、 重 要 な 発 見 と な る 。 し か し 、 発 見 さ れ た の が 『大 方 広 仏 花 厳 経』 の み で あ り 、 こ の 仏 典 の み 契 丹 蔵 に 基 づ い て 閲 覧 に 至 便 な 冊 子 に よ っ て 開 板
ている。 当 否 は 、 い つ に 同 様 な 形 式 の 他 の 小 字 仏 典 の 発 見 に か か っ 造 さ れ た 感 を 否 め な い 。 冊 子 本 契 丹 蔵 刊 行 の
・ 印三 宋
・ 元時代の江南系大蔵経
❖
「仏国」福建と二つの大蔵経―福州版―
日本の三分の一ほどの面積を持つ 福
ふっ建
けん省は九割以上が山地
・ 丘陵で占められている。古来より
閩
びんと呼ばれた 福建省を流れる最大河川の閩江は、 武
ぶ夷
い山脈より発したいくつかの支流が 南
なん平
ぺい市で合流し、東流して沿岸部に 位 置 す る 省 都
州 市 内 を へ て 東 シ ナ 海 に 注 ぐ 。 福 建 は 雨 量 も 多 く 気 温 も 比 較 的 高 い た め 、 樹 木 の 生 育 も 早 く 、 ・ 福
冊子本の契丹蔵?
三 宋・元時代の江南系大蔵経
印刷に必要な板木や紙の原材料を豊富に入手しえた。こうした地理的背景を有する福建では、閩江上流に位置 する 建
けん安
あん・ 建
けん陽
ようが宋代以降印刷業
・ 製紙業の中心地となった(
『 石
せき林
りん燕
えん語
ご』、ほか) 。 福 建 は ま た、 「 仏
ぶっ国
こく」 と も 称 さ れ る ほ ど 仏 教 の 盛 ん な 地 で あ っ た。 中
ちゅう原
げんか ら 遠 く 離 れ た 福 建 地 方 が 開 発 さ れ たのは唐の中期以降のことであり、 それにあわせて仏教も徐々に広まった。唐末の福建では 王
おう潮
ちょうが全域を支配 し て 威
い武
ぶ軍
ぐん節
せつ度
ど使
しと な り、 そ れ を 継 い だ 弟 の 王
おう審
しん知
ちが 唐 滅 亡 後、 五 代 政 権 の 後
こう梁
りょうか ら 冊
さく封
ほうさ れ て「 閩 王 」 と な っ た( 九 〇 九 年 )。 閩 国 の も と で 福 建 は さ ら に 開 発 が 進 ん だ が、 王 審 知 と そ の 子 た ち は 熱 心 な 仏 教 信 者 で あ り、このためより一層仏教が盛んとなり、北接する 呉
ご越
えつにも比肩する仏教王国となった。
印刷業
・ 製紙業の中心地であり仏教王国でもある福建の福州では、北宋後半期から南宋前半期にかけて二つ の大蔵経( 東
とう禅
ぜん寺
じ蔵
ぞう・ 開
かい元
げん寺
じ蔵
ぞう)が相前後して開板されている。これら福州版( 閩
びん本
ぽんとも)に共通する最大の 特徴は 折
おり本
ほん( 折
おり帖
じょう)形式を採用したこと、 各帖の巻首に三~六行の「 題
だい記
き」を持つこと、 である。また、 中国 にはまとまった福州版は現存していないが、わが国に伝存する各所の福州版のいずれもが東禅寺蔵と開元寺蔵 とで混合された状態にあり(混合蔵) 、 しかもその混合状況は各所ごとに異なっている。さらに、 東禅寺蔵の一 帖のなかに開元寺蔵の数紙が混配された事例(混合帖)も存在している。このようにわが国の福州版両蔵は、 なぜか「混合」されている不思議な大蔵経である。
十一世紀後半、福州城外の 白
はく馬
ば山
さん東禅等覚院において、官僚
・ 僧俗らの施財を仰いで東禅寺蔵 の 開 板 が 始 め ら れ た 。 後 年、 徽 宗 皇 帝 (位 一 一 〇 〇~二 五 年) か ら 「 崇
すう寧
ねい万
まん寿
じゅ大 蔵」 の 名 を 賜 わ り 、 同時に 寺
じ格
かくも東禅等覚禅寺に昇ったことから、崇寧蔵または東禅寺版とも呼ばれる。
東禅寺蔵の各帖の巻首には、おおむね数行の題記が付刻されている。題記のなかで最も早期の年次が 元
げん豊
ぽう三
東禅寺蔵三 宋・元時代の江南系大蔵経
(一 〇 八 〇) 年 で あ る こ と か ら 、 こ の 年 か ら 開 板 が 始 ま った と 理 解 さ れ て き た 。 し か し 、 東禅寺蔵の冒頭に置かれる『大般若経』六 〇〇巻と、それに続く数種の仏典に題記は な い 。 東 禅 寺 蔵 の 開 板 事 業 は 中 心 人 物 で あ っ た 元
げん絳
こう(?~一〇八〇年)が 参
さん知
ち政
せい事
じに在 職していた「煕寧末
・ 元豊初」間に着手さ れていたとみられる。東禅寺蔵に突如とし て題記が登場しているが、これは元絳の死 (元 豊 三 年) を 機 と し て 、 事 業 継 続 の た め 広 く民間から 施
せ財
ざいを募るための策として急遽 考案されたからである。
題記の記載によれば、募縁活動は広く一 万 家 の 衆 縁 を 結 ぶ こ と を 目 標 と し 、 官 僚 や 東 禅 寺 の 歴 代 住 持 が 都 勧 首 (事 業 推 進 責 任 者) と な って 施 財 を 募 り 、 そのもとで詳対経弟子
・ 詳対経沙門などの役職が実務にあたるという事業組織が整備されていた。
崇寧二(一一〇三)年、徽宗から「崇寧万寿大蔵」の名を賜ったことで、東禅寺蔵は勅版大蔵経に準ずる地 位 を 与 え ら れ 、 全 国 各 州 の 崇 寧 寺 な ど に 頒 布 さ れ た 。 東 禅 寺 蔵 の 題 記 は 政
せい和
わ二 (一 一 一 二) 年 二 月 を 最 後 と し 、 この頃におよそ四〇年をかけて五六四函、 一四三○余部、 五七〇〇余巻の全蔵が完成した。その後、 乾
けん道
どう淳 ・
じゅん熙
き年間(一一六五~八九)にいくつかの仏典の 追
つい雕
ちょうがあった。
東禅寺蔵本『大般若経』巻首