奈良教育大学学術リポジトリNEAR
内村鑑三の教育思想と実学、とくに水産学
著者 石井 正司
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 15
ページ 29‑38
発行年 1979‑03‑23
その他のタイトル On the Educational Thought of K.Uchimura and Modern Science, Especially Fishery Science.
URL http://hdl.handle.net/10105/6413
内村鑑三の教育思想と実学、とくに水産学*
石 井 正 司㍑
(教育学教室)
I.教育者、教育思想家としての内村
内村鑑三(文久元年一昭和5年、1861−1930)は普通宗教家とみられている。しかし彼の腫 大な著作を検討してみると彼は単に宗教家だけではなく、すぐれた教育者、教育思想家であるこ とが判明する。このことはすでに幾人かの人に気づかれているが、その研究は必ずしも多くはな
11〕
い。本稿は内村の教育思想、とりわけその形成を実学とくに水産学研究者の側面から究明していこ 12〕
うとしている。この側面からの接近が彼の教育思想、その形成の究明にもっとも効果的であると 思われるからである。
内村は明治10年数え年17才で札幌農学校に第2期生として入学、あのクラーク博士の残していっ たプロテスタント系キリスト教に入信した。その入信はけっして積極的はものではなく、むしろ
「強制され」「意志に反し」「いくぶん良心にも反して」であった。しかし入信するやたちまち熱心 制
な信者になった。明治17年11月破鏡の憂愁を秘め渡米、白痴院に働き、アマスト大学に学んだ。
刻苦勉励、求道精進、真のキリスト者に回心、日本的キリスト者(Christo−nationa1)となり、明 ω
治2ユ年5月、「教育者」たらんと決心して帰国した。同年11月25日にはアメリカの親友D・C・
ペル宛書簡で「私は説教はしません。講義をします」と報じている。実際彼は教育者としてつき ⑤
の各学校で教えている。明治21年新潟、北越学館、22年東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女 学校、23年第一高等中学校、25年大阪、泰西学館、26年熊本英和学校、29年名古屋英和学校、32 年東京、女子独立学校。彼はどこでも有能な教育者であり、多くの青年に深い感銘を与えている。
例えば明治23年夏房州白浜で水産イ云留所第2期生田岡嶺雲(のち社会評論家)らの魚類解剖実習 の折である。田岡は内村から「偽善者たるな」と云われた。田岡は「この一語をr水産伝習所の一 年半中に於ける最大の獲物』と感じ、終生この歳言を服鷹して忘れなかった」といわれている。
16〕
しかしそれにしても各学校での内村の勤務千数が短いのに注目せざるをえない。世俗的は意味 でいえば彼は各学校で円満成功した教育者とはいえない。いやそれどころか彼は「学校破り」と 17〕
いわれ、どこでも失敗、挫折し、そのため窮乏貧苦のどん底におちいっている。新潟北越学館で は外人宣教師と衝突し、わずか3ケ月で辞任した。第一高等中学校(一高)では日本教育史上で 有名な教育勅語不敬事件をおこし、ここもわずか6ケ月で辞任した。この不敬事件の混乱窮乏の
‡ On the Educational Thought of K.Uchimura and Modem Science,
Esp㏄ially Fishery Science.
‡‡
@Shoji Ishii (Department of Education,Nara University of Education,Nara)
中で自らは病に倒れ、そのうえ愛妻を亡くしさえしている。この二つの辞任は彼の教育者として の挫折を典型的に示すが、実際は彼の教育思想と近代日本の教育現実との衝突を象徴的に示すも のである。すはわち彼の日本的キリスト教的教育思想は日本的という点で北越学館外人宣教師と 衝突し、キリスト教的という点で教育勅語不敬事件を起すのである。これらの失敗、挫折によっ て彼の教育思想は一層尖鋭、形象化してくるのである。
皿.内村の教育思想
近世、近代日本においては自我の自覚は薄弱であり、それだけに教育的行為を対象化、科学化 し、教育思想を形成する力は弱かった。そのような中で「教育思想らしい」ものを形成したのは 福沢諭吉と内村鑑三の二人とみられている ところでこの両者に共通し、そしてまたちがってい 樹
るものはなにか。共通するものは実学と「独立の精神」である。ちがうものは「独立の精神」の 現象形態である。福沢一におけるそれは文明であり、経済的自立である。内村におけるそれは日本 的キリスト教である。日本的キリスト教とは簡潔にいえば「日本人が外国人の仲介をへず、直ち に神よりうけたキリスト教!。Fある。したがってそれは欧米既成宗派から独立的にして無教会主 義である(この形成についてはここでは立入らない)。 福沢、内村におけるこのちがいによって 両者はそれぞれ個有の教育思想を形成する。しかしそうはいっても内村は福沢ほど体系的、長文 の教育的論説(例えば「学問のすすめ」だけでも想起せよ)を残してはいない。だからといって 内村の思想の方が低いわけではない。内村の教育論説のうちで比較的まとまっているものといえ ば、明治28年1月、彼35才のときの論説「精神的教育とは何ぞ」である。短篇であるが彼の教育 思想の本質をよく示している。ここではこれを中心としその他の諸論説を参照し彼の教育思想の 核心にせまっていきたい。しかしその前にこの論説のでてくる背景、明治20年代の日本の教育思 潮を一瞥しておかねばなるまい。
明治初年、10年代の文明開化、欧化主義の波にのって外人宣教師の指導するキリスト教的諸学 校が続々と設立され、拾頭してくる国家主義と拮抗しながらも増加しつづけた。例えば明治初年 の神戸女学院、同志社、明治学院、10年代の青山学院、立教学院、そして明治15年から25年まで の11年間に22校のキリスト教的女学校の設立はどがそれである。当然のことこれら諸学校では聖 血⑪
書教育を重視し、宗派的キリスト教r精神」を「普及」しようとした。他方、この文明開化、欧 化主義の反動として明治20年代は国粋主義、国家主義の拾頭の時代であり、そしてそれは日清戦 争前後にますます高揚していった。明治23年王O月7日の小学校令改正、同月30日教育勅語族発、
変質ヘルバルト主義の普及もこの流れの中のできごとである。この国家主義的教育は儒教倫理を 基調とした尊王愛国、忠孝の「精神」を注入した。明治20年代はキリスト教的教育、国家主義的 教育ともに「精神的教育」を盛んに鼓吹した時代といえよう。
教育者内村はこの両者の精神的教育によって背腹から襲撃されて、 (北越学館追放、不敬事件)
4〜7年、そしてこの不敬事件に関連して不当な非難攻撃をしてきた井上哲次郎に対して「文学
博士井上哲次郎君に呈する公開状」(明26,3)を発表して2年、そしてまた最初は義戦、すぐに不
義戦とした日清戦争の末期、この「精神的教育とは何ぞ」を書くのである。したがってこの論説 は宗派的キリスト教的教育と国家王義的教育への批判、攻撃であり、それだけに舌鋒は鋭い。ま た「精神的教育」という教育の価値観、すなわち道徳教育そのものにかかわる論説だけに彼の教 育思想の核心を鮮明にしている。
外人宣教師の指導するキリスト教諸学校のr精神的教育」とはなにか。それは学生にr束縛的 礼拝堂出席を命じ山聖書を「学科的・義務的・圧制的」 こ課し・そして「しきりに改宗をすすめ
る」。それは古代のカトリック教が「拷問廷の制度をもって宗教をしい」たのと同類のものであ る。これが彼らの精神的教育である。これでは自宗派の教勢拡大のための宗派的宗教教育ではな いか。たしかに学生の礼拝堂出席、聖書暗君己は向上し、善人、熱心家にみられるようになっては
くる。しかしその実態はどうか。彼らは「もっとも無気力的、もっとも屈辱的」であり、「自欺 の極、誤謬の極」にある。これは精神的教育どころか「非精神的教育」である。
他方、文部省の国家王義的教育のいう精神的教育はどうか。それは一見キリスト教のとはちが うようにみえる。キリスト教が博愛、柔和、音楽会、讃美歌をもってすれば、国家主義は愛国、
剛強、剣舞、軍歌をもってする。しかし「その本質において相類似するところ、はなはだ多し」
である。国家主義的教育は「論語教育」、「忠臣孝子伝」を「束縛的、機械的」に課し、「兵隊的敵 悔心」「お国自慢的愛国心」を喚起し、それをもって精神的教育とみなしているのである。これで は前述の宗派的「宗教教育に類し、偽善者養成」をしているにすぎない。したがってキリスト教 であれ、国家主義であれ、いうところの「精神的教育」は実態においては「非精神的教育」であ り、極論すれば「外形的虚式」 「利欲的意向」の教育、「醜、粗、晒、卑、不実、浮虚」の教育 である。両者に対する内村の批判は峻烈であるといえよう。
では両者の精神的教育がかくも非精神的教育の堕落してしまうのはなぜか。それは彼らが「精 神」を誤解し、教育目的を童委小化しているからである。以下、国家主義的教育については云わず
もがなであるし、また内村自身キリスト教徒でもあるから、それと区別するため主として宗派的 キリスト教的教育と対置して内村の教育思想をみていくことにする。
キリスト教的教育は精神、教育目的を誤解、嬢小化している。そのため教材選択、教育方法は 不適切、教育結果は裏目に出てしまっているとみている。キリスト教的教育のみる「精神」とは
「悲歌僚慨、大言壮語して人の感情に訴える」のみである。これは「精神」のまったくの「誤解」
である。そして教育目的はキリスト教徒をつくるのではなく、なによりも自宗派の宗教教育、「宗 派伝播」をし、教勢を拡大するところにある。彼らは教材として聖書を採用する。しかし彼ら、
各宗派の職業的宣教師の手にかかれば、聖書はたちまち「停滞的道義」「媚俗的倫理」の書に堕 落してしまう。教材としては不適切なものになってしまうのである。彼らの教育方法は聖書を
「学科的」に暗記注入しようとする。「学科的に授けんと欲す、これ古来より今日に至るまで、
精神の美と善を知りてこれをおのれの有にせざる教育家が常に取り来りし方法」であり、もっと も拙劣なものである。したがって教育結果は一見すばらしくみえるが、その実態においては裏目 に出てしまっているのである。内村の教育思想はこれと全然ことなるものである。
内村にとって「精神」とは「神の聖旨」である。彼の教育目的はこの神の聖旨を感受体得した
人=宗派的キリスト教徒でなく、真のキリスト教徒=「人間」をつくることである。ところでこ の精神=神の聖旨は直接には聖書に啓示されている。しかしそれは間接的ではあるが具体的に、
目にみえるものとして自然、人事の法則として現象している すなわちこういう。「精神とは物 越
の霊なり。すなわち宇宙をつなぐ正気なり。すなわち物理(PhysicaHaw)として物質界に現れ、
生(Life)として動植物に働き、道として霊なる人を支配するものなり。」したがって精神はこ の自然、人事の法則を考究することによって直観、「感受される」ものである。ここから彼は聖 書それ自体を直接の教材とはしない。聖旨を示すに間接的ではあるが、具体的な自然(=「天然」)、
人事を教材とする。教育方法に即してみれば暗君己注入ではなく、具体的直観的である。だいいち
「神の徳を他に示さんと欲するにあたって、目に見ゆるの万有をもってせば、これを伝える者の 快楽、これを聞く者の便利いかばかりぞや」である。
l13
したがって物理学、動植物学、歴史学を事実に貝1」り、精密に学理的に考究すれば、もう少し正 確にいえば、単に「物のために物をきわめる」のでなく、「物によりて物の理をきわめ」れば、
そこに精神が直観、感受され、精神的教育がなされるのである。もしこうせず「精神」を把握し なければ、「聖経昼夜の講読も、もってその功徳を一学童に及ぼすあたわず」「万巻の聖書と神 童正統記と太平言己とは、一聖人と一愛国者とを造るあたわず」である。ファラディー(M,Faraday,
1791−1867)の理化学、リッテル(K,Ritter,1779−1859)の地理学、アガシ(J,L,R,A只assiz,
1807−1873)の動物学、これらすべて「精神的」である。これは「彼らが精神的教科書を用いし にあらずして、彼ら自身が精神的なりしゆえに、精神的教育がおこなわれた」のである。「精神 にみちみちた教師が学を授くる、これ精神的教育」なのである。そのような教師によって「木石 に声あり」「山河に心あり」という具合になってくるのである。「生は生を生む」は「生物学上 の単原理」であるが、これはまた「教育上の常則」でもある。なぜならこのようは教師によって のみ「精神、精神を生む」からである。
このようは見地から内村はとりわけ自然の教育、自然科学教育を重視し、教育上不同欠のもの とみはしてくる。そしてこういう。「学ぶべきものは天然である。人の編みし法律ではない。そ の作りし制度ではない。社会の習慣ではない。教会の教条ではない。ありのままの天然である。」
「天然を知らずして、何事も知ることはできない。天然は知識のイロハである。道徳の原理であ る。政治の基礎である。天然を学ぶは道楽では低い。義務である。天然教育の欠乏は、教育上最 大の欠乏であ制と用村は普通宗教家とみられているが・彼は「人間教育」(内村にとっての 真の日本人の教育)をするのに自然の教育、自然科学教育を大いに重視したのである。ここに内 村の「精神的教育」、すなわち彼の教育思想の最大特色がある。
内村のこの自然の教育、自然科学教育の重視は少くとも明治末期(ほぼ19世紀末)まで二つの 点で大きな意義をもっている。一つは世界教育思想史上、もう一つは日本教育史上においてである。
まず第一からみてみよう。19世紀後半の欧米教育思想、教授理論上の課題はベスタロッチーの直 観(=近代的主体)と急速に進歩する近代不斗学をどのように結合するかであっ悔この課題をそ れなりに解決し、最初に日本に紹介されたのはジョホノット(J,Johomot,1823−1888)の「Pri−
nciples and Practice of Teaching,1878」(高嶺秀夫訳「教育新論」、明治18・19年)であ乱
ジョノットは本書の第7−9章でペスタロッチ、フレーベル、アガシの三人教育業績を詳しく 紹介している。そして教授理論史上直観をもって一つの転回点をつくったベスタロッチー、それ れを幼児教育に具体化したフレーベル、そして「近代科学の内容と方法を教育に導入し、それを 軸に教育を意義づけたアガシの系譜の上に」ジョホノットは自身の教育思想、教授理論を確立し oo
た。内村は別段教育学者ではない。それにもかかわらず彼はアガシの動物学およびその教育業績
(ここでは立入らない)を知り、このジョホノットの教育思想に見事に接近しているのである。
第2は日本教育史上での意義である。明治13年改正教育令(これによって修身科が全教科中首 位になる)以来、近代日本の「臣民教育」の内実は「道徳」と「実用」の分裂的、二軸性構造を
とることになった。ベスタロッチー王義は明治初年導入され10年代未、20年代初めに普及する。
ヘルベルト主義は明治20年代導入され30年〜40年代に普及定着する。しかしそれが二軸性構造を もった日本教育へ導入される際には否応はく変質せざるをえない。「道徳」的側面は当然のこと、
「実用」的側面も変質する。実用的側面は本来ならば自然科学の内容、方法で構成されるべきで あろう。しかし実際は単に「事典的知識」の集積にすぎなかったのである。このような中で終止 oη
自然の教育、自然科学教育を王張した点、ここに内村の教育思想の進歩性がある。しかも彼の自 然の教育、自然科学教育は単にそれだけのものではなく、キリスト教倫理を前提したものである。
それゆえに彼は「臣民形成」の「道徳」 「実用」の分裂的、二軸性構造を克服し、それを統一し た、真に近代的な「人間教育」を構想しえたのである。ここに彼の日本教育史上における大きな 意義があるのである。
さて、ではこのような自然の教育、自然科学教育を核心とする内村の教育思想はどのように形 成されてきたのであろうか。
皿.教育思想の形成過程 ω 水産学研究
内村は文久元年(1861)上州高崎藩士内村宜之の長男として生れた。父宜之は有能な藩官僚、
立派な儒学者であった。したがって幼少期内村は儒教的感化をうけ、武士道的倫理を教えこまれ た。維新後、貧乏士族の父は鑑三に法律を学はせ政治家にしようとした。そのため明治6年3月 13才の少年内村は赤坂の私立英学校有馬学校に入学した。翌7年東京外国語学校(12月東京英語 学校、のち大学予備門、一高)に入学した。ここまでの内村は人文的教養への志向をもっている。
ところが一転して僻遠の実学系の学校、札幌農学校に入学した。東京英語学校第1級の教室で開 拓使出仕堀誠太郎の官費生募集の熱弁をきいたからとされている。生涯の親友となる宮部金吾は、
北海道開拓の希望もさることながら、「内村君や僕など」貧乏士族の子弟には官費待遇が魅力だ った、と記している
砥
たしかにこのような経済的理由もあったろう。しかし内村は元来人文的教養、抽象的学問研究
には興味もなく、不得手だったのではあるまいか。 (もちろん彼に人文的教養、抽象的学問がな
いなどといっているのではない。その方面への能力、成果は彼は十分にもっている。)それには
いくつかの証拠がある。例えば彼は文学(小説)と法律の本は読んだことがないといっている。
アママト大学ですべて成績優秀であるのに心理学、哲学で落第している。文学と文学者を好かな いし、信用しないといっている。ハートフォード神学校をわずか3ケ月で退学したのは他に種々 の理由はあるが、抽象的既成「神学」がきらいだったらしく思われる、などである
櫛
反面、彼は実学、今日の自然科学、なかでも水産学に大いに興味をもった。札幌農学校で農業 経済学のようは社会科学系の学問を専攻する途もあったのにそうはしていない。明治14年7月卒 業に際し、「漁業も学術の一はり」の卒業演説をし、将来の目的として第1志望動物学(魚類学)、
第2志望漁扮及水産養殖をあげている。そして実際卒業後ただちに開拓使(翌15年開拓使廃止、
⑫⑪
札幌県)勧業課漁猟科に勤務、水産の実務についている。
なぜ内村は水産を志望したのか。その動機についてはどの伝記もアイマイにしている。有力な 動機は札幌農学校入学の4,5年前、故郷上州高崎の経験ではあるまいか。明治32年回想してこ
う記している。「余の記憶すべき喜ばしき夏は余の12,3才の時に始まれり、余の家は時に上州 高崎にありて、余はいつしか殺生の快楽を悟りたれぱ、夏来るごとに余はその付近の山川に河魚 の捕獲に余念なかりき、余の父は余が読書を放棄し簗(ヤナ)、掬手(スクテ)、鈎(ツリバリ)
等の製造修繕に従事するを見て、はははだ不興の面を示せしといえども、余の会心は碓氷、烏、
両川の水産物にありしことなれぱ、厳父の些少の叱責のごときは余の省みるところにあらざりし。
余は今日なおその当時捕獲せし魚類の名称ならびに常習ことごとく言己憶す。………余の天然学に 心を寄するに至りしは実にこの時における余の水族の観察に基づけり。」そして捕えた魚、アユ、
ハヤ、クキ(ウグイ)、ウナギ、ドジョウ、ナマズ、ギギ、その他コイ、フナの類の性情につい て詳しく言己述している。そしてこういっている。「ああ幸福なりし時よ。余の師と父とは余の遊 惰を責めたり。されども彼らは余がこの暗いかなる大学問をなしつつありしかを知らざりしなり。
博物学何ものぞ。これを書籍に学び教場に聞くのみが博物学にあらざるなり。米国の天然詩人ド ローいわく、「漁と猟とは直接に天然物を知るの最良法はり」と。ルイ・アガシの博物学的大知 識は、彼の故国なるスイスの渓流における採案箏察をもって始まりしという。」「真正の知識は実 験を李って始まる。余の天然物の愛は、鳥、竿氷剛11の天然物の観察をもって始まれり。」内村 磨山
が水産学を志向したのはこの経験であるとみてほぼまちがいあるまい。
内村は卒業にあたり卒業生代表として謝恩の辞をのべた。その中で彼は自分および同級生を成 しめ、励まして、こういっている。「今吾輩は本校の学科を卒業したりといえども決して温飽に 安ずるものに非らず。これより銀難の道に入りぬべし、今日は難難の途の門戸なり。諸君よ請う 安逸にせず・其屍を北海の浜に曇らずの素志を棄つる勿惚と用村g中に少年期の武士的艦 青年期の清教徒的キリスト教、そして科学的精神が潭然一体となってたちあらわれてくるのをみ てとれよう。かくて彼は水産学上の卓越しナこ業績をあげていくのである。
内村の水産学上の研究業績はつぎのようなものである。la〕、明治14年(21才)札幌県飽魚蕃殖
調復命書井に潜水器使用規則見込上申書(札幌県知事宛)、(b).明治15年(22才)北海道鱈漁業
の実況(大日本水産会報告、6月)、(c〕.明治17年(23才)鱈の発生(前回、2月)ld〕.同年漁
業と気象の関係(前回、2,3月)、le〕.同年鱈魚人工艀化法(前回、3月27日) lf〕.同年石
狩川鮮魚減少の原因(前回、5月別日)、lg).同年較魚に関する調査の成績(前回、6〜12月)、
lh〕.同年漁業と鉄道の関係(前回、7月26日)、川.同年瑞典国鱒漁廃絶の原因(前回、4月25
日も誠に多産的で狐
この研究の質について東京水産大学宇田道隆教授はこう評している。「日本で最初の水産調査 書はこの人の主張で生れ、わが国の水産業に関する科学的研究はこの調査書Oa〕のこと)にはじ
まった。……内村氏は明治15年上京した。大日本水産会でたびたびr人気アル講演者」として講 演し、寄稿文が同会報告にのっている。明治16年2月号「漁業と気象の関係」に漁船の海難防止 と漁業の科学的開発を説き、同17年7月号「漁業と鉄道の関係」に水産物の流通配給をとり上げ、
同年10月号に「鱈の発生」、同6月〜12月号に「鱗に関する調査成績」と学術報告をのせ、殊に 後者はノルウェーのザーヌ及びドイツのクッファーの錬発生研究を本邦学界に紹介した重要業績で 大日本水産会報告はそのため存在価値を高めた。明治16年11月農商務省嘱託として水産課に勤務、
日本産魚類目録を編輯して599種を記載した。また錬漁業調査に従事し博引分譲、理路井然とし て当時では完壁とされ学殖の深さは学界を驚かせナこ。」 科学史家岡邦雄氏はこういっている。
似
「内村が若い魚類学青、水産学者として一年(明冶17年)問に、これだけの報告を提出している ところを見ると、その科学的能力の高さと共に、その研究精力の卓れていることも察知せられる。
彼もし自家の専門に専念したならば、はやく本邦一流の水産学者、水産界の大先輩となり、その 方面に著大な貢献がなされたであろうことは明らかである。」 またこれらの業績は100年後の今 囲
日の水産業を予見した研究であるとの評価もある。内村自身は昭和3年9月北海道帝国大学生二 ㈱
千人の前で講演したとき、同窓、同級の碩学佐藤昌介、宮部金吾、南鷹次郎、新渡戸稲造とはら べ、こう自負している。「これ(魚類学)を今日まで持続しておったならぱ、あるいは当大学の 水産学の講座を受け持つようになっておったかも知れません」と。この研究業績が自他ともに高 ㎝
く評価されているのを知ることができよう。
しかし問題はそのことでははい。この研究を通して内村が感受、把握したものである。同の研 究中のことについてはこう記している。「書中、蔵するところの飽魚の卵子を初めて顕微鏡下に 発見せし時のごとき、余は歓懐おくあたわず、感涙、湧花として下り、直ちに祝津村の西方にそ びゆる赤岩山の頂に登り、びょうびょうたる日本海に臨み、ひとり万物の造り主なる真の神に感 謝の祈祷をささげたりき」と。lb〕の研究中のことについてはこう記している。「これ、わが国に
おける組織的水産調査の鴨矢たりしなり。彼(内村自身のこと)はかくのごとくにして、神と人 と天然とについて学びしなり。回顧す、彼がこの調査に従事しつつありし間に、ある日曜日の朝、
ひとり深雪を冒して祝津村の西方、赤岩山の頂に登り、北方、日本海に面して、声高らかに神に 祈りしことを。彼はそのとき、顔と顔を合して、海と山との造り主なる彼の霊魂の父に接したり き」と。内村は聖書だけでなく、水産の科学的研究を通して宇宙、自然、世界の支配者たる神を
⑫副
実感、感受し、信仰をふかめたのである。
明治24年31才のとき(教育勅語不敬事件で一高辞任直後)、 「わが信仰の表白」の中でこのこ
とをもっとはっきりこういっている。「北海道に在留中は、余の宗教心を養いしものは、おもに
山川風月と草木鳥獣等、すべて自然物なりし。余は博物学の研究に従事しおりたれば、余をして
万有の神に近づけしめしものは実に北海の自然物と云わざ一るを得ず。余は東京に来たりで以来、
また米国に在学中、有名なる宗教家に接せざりしにはあらざれども、これらの人士が余の霊魂に 及ぼせしところの勢力は.聖経一冊をふところにして、ひとり石狩の平原に漂泊し、また北海の 浜に漁夫の疾苦をおとない、水産動物上に現わるる神の光栄より得しところの効力に比すれば、
実に僅少なるものと云わざるを得留と
彼の従事した実学、とくに水産学の研究体験は彼の信仰を深めた。そしてそのことを通して彼 は自然の教育、自然科学教育を核心とする教育思想をつくりだしてきたことはもうあきらかであ ろう。これ以上の説明の要はあるまい。あとこの思想を精錬したのはアマスト大学の体験である。
これについて若干言及しておきたい。
121アマスト大学の体職
内村はアメリカでペンシルバニヤ大学医学部かアマスト大学がと迷ったが、結局アマスト大学 を選び、入学した。アマスト大学は風光明媚、東部の有名大学であった。しかし選んだ理由は「こ れにとどまらざりしなり」であ宙主たる理由は学長シーリー(凪S・・1・・)の人格であ糺内 村は渡米前シーリーの人格識見について知っていたと思われる。明治5年(1872)シーリーは
「米国全権公使」森有礼(初代文相)に日本の教育に関する意見圭を呈した。内村はこの意見に 尼1〕
「同情」している。そのため「この人に会しこの人の薫陶にあずからんと欲するの念は、余がい まだ石狩の支流に釣を垂れし時に起こりし余の願望なりき」といっている。したがってこの大学 でシーリー学長から大きな感銘をうけ、信仰上の回心をしている。
しかし抽象的、思弁的学問に不向きであった内村はこの大学で哲学、心理学で落第した。倫理 学には「あまり興味をもたず」、また「実益は少なく」「実徳の養成は望むべからず」と悟った のである。この倫理学にとって代り,その役割を果すのは自然科学である。彼はこういっている。
r余にとりては、植物学または金石学は倫理哲学にまさりて数倍の倫理的価値を有せり。…・・・…
有名ナよる教育家フレーベルは云えり、『水晶学は余に人たるの道とその法則とを示し,声なきも 感じ得べき言語をもって、人類の真正なる生涯を余に教えたり』と。しかしてこれまた余が教授
エマソン氏の金石室における経験なりと云わざるべからず」と。
シーリー学長はさておき、この大学で内村にもっとも影響をあたえたのはこのエマソン教授で ある。彼は地質学、鉱物学を教えていた。彼は独特の自然科学教育によって人間教育をしたので ある。内村はそれを感得していったのである。彼の教育方法は独特といったが、それはかつてハ ーバード大学の博物学教授だったアガシのそれと同じものである。エマソンは教科書を指定はし たが、実際には全然用いなかった。まず彼のやったことは「自然そのものについてインタレスト を起こす」ことであった。彼はそれを「自然学を教える最捷路」であると信じていたのである。
したがって「書物教育」、「教場教育」を排し、もっぱら「標本教育」、「野外教育」をしたのであ る。それ「ゆえに彼はすべての機会に乗じて余輩を近隣の山野に引き出したり。」 したがって
「アマスト近郊、万十マイルの地にして地質学的に趣味ある場所は余輩の政渉せざ るは少なし」とい う具合であった。地質学、鉱物学の教授でありながらエマソンはこのような教育方津で内村に
「哲人プラトーの精神、詩人ゲーテの精神、すなわち真理を恋慕して身をその探求にゆだぬる精
神」「真理のために真理を愛する人」たることを教えたのである。これでは「金石学」が倫理学 より数倍の倫理的価値があったといわれるのは当然であろう。
内村はまず水産学研究を通して教育思想を形成した。ついでアマスト大学の地質学、鉱物学教 授エマソンを通してその教育思想をさらに精錬していったといえよ㍉
11〕近代日本教育史上教育勅語不敬事件(明24・1)に関連して内村の名は必ずあげられる。
しかし内村について教育学的専攻研究はほとんどない。めぼしいものとしては千住克己「内 村鑑三の教育思想史的意義」(「日本の教育史学」第6集)がある位のものである。
12〕明治期、儒学、歌学に対し実用の字ほどの意味で用いられた。ここでは「近代科学」「自 然科学」と理解しておきたい。正確には丸山真男「福沢における「実学」の転回」 (東洋 文化研究、第3号)
13〕 「余はいかにしてキりヌト信徒となりしか」、内村鑑三信仰著作全集(以下略、「信著全」)
2,P.12,
14」 「ユ888,6,20,D.C.ベル宛書簡」、内村鑑三全集(以下略、「全集」)20,P.191,
15〕 「目的の進歩」、「信著全」19,P.104−105、「1888,11,25,D.C.・ベル宛書簡」、
「全集」20,P.194、
16〕
171
⑧
19〕
α⑪
lll〕
α2〕
l13)
ω
115〕
皿6j
(17〕
家永三郎、「数奇なる思想家の生涯、出濁嶺雲の人と思想」、P.25、
「信著全」20,P.344、
中内敏夫、「近代日本教育思想史」、P.17−36、
「日本的キリスト教」 「信著全」24,P.205、
「明治文化史・3、教育・道徳篇」、P,230〜233、「明治文化史・6、宗教篇」、P.310−
312、「日本近代教育史事典」、P.432、
「精神的教育とは何ぞ」、 「信著全」20,P.7!−74、以下宿ホのない「 」はすべてこれ
による。「神と天然」、「信書生」9,P.63−65、「近代における科学的思想の変遷」、「信書生」
22,P.228−240、
「理想的伝導師」、「信著全」1,P.205、
「読むべきもの、学ぶべきもの、なすべきこと」、「信著全」19,P.24、
稲垣忠彦、「明治教授理論史」、P.58、
同上、P.62、