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旅 その断想

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昭和63年10月 図書館報附録

∃詮

第31号 奈良教育大学附属図書館

旅 その断想

佐  藤  七  郎 第2話 フライブルクのモロ・ノコ人

はじめてドイツのフライブルクを訪ねたのは、今 から数えると20年以上も前の2月のことだった。ま だ冬ではあったが、さすがに南ドイツのこととて日 差しは明るく、この季節、くる日もくる日も太陽の 光を仰ぐことのない北欧スエーデンから訪れた者に とっては、春を迎えたような楽しさがあった。アル プスから降りてくる空気は、冷たいがすがすがしい ものを感じさせていた。

フライブルク大学理学部植物学教室のある植物園 の斜め向かいのホテル・ローマに宿を定めて、夕食 をとりに外へ出た足は、自ずから名高いゴシップ風 の大聖堂の方向に向いていた。辺りはもう薄暗く、

巨大なチャペルの塔が無気味に辺りの雰囲気を圧し ていた。

すると、どこからとなく、一人の小柄な若い男が 現れて、低い声で話しかけてきた。フランス語だっ た。「英語で・・・」というと「話せない」という。

それではどうにもならない。と、ふつうならここで 別れるところだが、かれはその態度を示さない。み るとその日差しには何かを訴えるような、そして不 安げな感情があふれていた。それを見てつい、「で

はドイツ語ではどうか」と聞くと「フランス語とア ラビア語以外はだめ。ドイツ語はほんの少しなら」

といった。しかたなく「ではドイツ語で」というと、

かれはフランス語まじりのたどたどしいドイツ語で 語りはじめた。

「自分はモロッコからきた外国人労働者だが、こ のごろドイツの労働力移入の制限が厳しくて、モロ ッコに帰らなければならない。けれども金がないd

そこまで言って横を向いて、遠慮げに左手の手首 を振った。すると暗闇のなかから、やはり小柄な人 影が音もなく近づいてきた。かれは「これはフラウ だ」と指さした。いかにも質素な身なりの、20才に 達しているともみえない、奥さんと紹介されたその 女性は、なにかに怯えているかのような暗い表情を 隠そうとするかのように、うつむきかげんに背をま るめてかれの側に寄添って半身をかくした。

「モロッコに帰る費用の足し前に、わずかでも恵 んでくれまいか」

とかれは訴えて腰を低めた。彼女もいっしょに頭 を垂れた。

一瞬、私は迷った。よく聞くゆすり、たかりの類 ではないようにみえる。脅しをかけるつもりなら、

わざわざ彼女を呼び寄せたりはしないだろう。ほん とうに困っているのなら、気の毒だからいくらかで もカンパしてあげようか。

だが待てよ、もしかしたら、それがゆすりの手か もしれない。安っぽい同情心にもとずく偽善行為は かえって為にならないかもしれない。

私は迷った。辺りはすでにかなり暗くなり、人通 りはとだえていた。夜空に高くそびえる聖堂の黒い 影が3人のいる空間をいまにも飲み込むかのように

見下していた。

私は不安を感じた。一刻も早くこの関わりから抜 けだしたい気持ちにかられた。無意識のうちに右手

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を上着のポケットにさしこんで、そこにあるコイン の数をかぞえていた。私は思いきって、そのコイン のひとつかみをポケットからだして彼の前にさしだ した。かれは日本人とそっくりのしぐさで「申し訳 ありません」という感情を現してそれを掌に取け取 って、彼女に手渡した。彼女は黙って丁重に頭を垂 れた。私は「これだけだ」といって、足早にその場 から遠ざかりながら、レストランの明かりを求めた。

そのあと、薄暗いレストランの片隅で私は考えこ んでいた。かれらはどうやってモロッコまで帰りつ くのだろうか。どう考えても、ゆすりやたかりでは なかった。それなのに疑ったりして悪かった。いっ そ明るいレストランで食事を共にしてやるのがよか ったかもしれない。それにしても、ああやって小銭 を集めていても、モロッコまで帰れるだけのまとま った額がたまるとは思えない。どうするつもりなの だろうか。などなど、つぎからつぎへと、思いはつ ながるが、結論はでない。その思いはいままでつな がっている。だから私は、たびたびひとにこの経験 を話す。そして、どうしたらよかったのか、意見を 求める。それに対する答えはさまざまだ。

オーストリーから留学生としてきていたワイディ ンガー嬢は、ドイツの外国人労働者対策を調べてき て、説明してくれた。かれらはこれこれの手続きを とれば帰国できるのだといっていた。私のとった態 度の是非については一言もふれなかった。I書店の

U君に話したときは、かれはニヤニヤ笑って

「そんなこと、気にすることないですよ」

と、とりあってくれなかった。俗っぽいセンチメン タリズムですよと、からかいたげであった。

「品のない商売をしょうとしたのかもしれませんよd と知ったかぶりをする人もあった。

だが私は今はこう思っている。

思いきって100 マルクぐらいはずんで、それと

ともに名刺に「無事故郷に帰着して職がみつかり、

そしてもし余裕ができたら、そのとき返してくれ。

それまで無利子無期限に貸しておく」と日本語で書 き添えて、渡しておけばよかったのではないか。い つまでたっても便りがなければ、それで忘れていた だろう。しかしもしかしたら、今頃になって、突然 思いがけないフランス語かなにかの便りが舞い込ん で、懐かしい思い出を呼び起こしてくれたかもしれ

ない。そしたらこの迷いの思い出はもっと楽しい思 い出にかわっていたことだろう。

夏 山 に て

水  田  健  一

毎年、夏が近づくとガイド・ブックや山の地図を 取り出して、今年はどこの山に登ろうかと心落着か

なくなる。多少仕事を抱えていても、最低三日は山 を歩いてみたくなる。また今年のように天候不順が 続いても、八月のうちには多少の雨は覚悟して山に 出掛けることになる。特に去年の夏は都合でどこの 山にも出掛けることができなかったので、今年はま だいくつか片付けなければならない仕事を残しなが

らも、八月下旬に信州側から白馬岳に登り、黒部川 沿いの棒平に近い祖母谷(ばばだに)温泉に下山す る計画をたてた。実は最初、室堂から剣沢を経て剣 岳に登り、仙人池を経て棒平に下山する計画を立て たが、これだとどうしても三泊は必要となるので、

一泊少ない二泊で済む白馬岳のコースを選んだ。い ずれにしても黒部川の方に足を踏み入れるのはこれ が初めてなので、期待に胸が弾んだ。十年以上も前 に、爺ケ岳から後立山連峰を縦走して白馬岳から棒

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平に下山する計画を立てたことがあったが、このと きは悪天候のために黒部側に下山するのを諦めて蓮 華温泉を下山地に選んだ。また五年程前に白馬大池 から白馬岳に登った時も、雨のために黒部側に下山 する計画を変更して、鑓温泉を経て猿倉に下りたこ とが思い出される。したがって白馬岳から棒平に下

りるのにこれが三度目の挑戦ということになる。

八月二十四日の朝、夜行列車からバスに乗換えて 猿倉についたのが朝の七時過ぎ、ここから白馬岳の 頂上を目指す。白馬尻から二時間程は雪渓沿いの道 となるが、途中、昼前から雨が降り出し、午後には いよいよ本降りとなって雷も鳴りだした。雨に濡れ ながら、ようやく頂上直下の小屋にたどり着いたの は三時半近くになってからだった。小屋の受付の青 年に棒平への下山路の状況を聞く。「天気が良けれ ばどうということはありませんが、雨が降りつづく と途中の沢の水が増水して通行できなくなるおそれ がありますよ。明日の朝の天気の様子をみて、どち らに下りるか決められたらいかがですか。」との返 事だ。どうやら今回も黒部側へ下山することは諦め なければならなくなるかもしれない。

小屋は最大千五百人収容の大きなものだが、雨模 様の平日だったこともあってスペースにかなり余裕 があるらしく、また到着順に相部屋を作っていくシ ステムにおいては遅れて到着したのがかえって幸い して、その夜は八畳程の部屋に私と二十代前半の青 年との二人での相部屋となった。混雑するときには 一畳当りのスペースが二人というような超過密状態 を経験したこともあるので、その意味では雨の日の 登山も捨てたものではないと思った。部屋にたどり ついて荷物を整理しおわって外を見ると、さっきま での雨がまるで嘘のように雲が消えてゆき、杓子岳 や鑓ケ岳が残照に照らされ、また黒部の谷を隔てて 剣岳や立山連峰が鮮かなシルエットをつくっている。

「このまま明日もこんな天気が続くとよいのだが…

…」。

その日私と同室となった青年は七月下旬から麓の 蓮華温泉の小屋で長期のアルバイトをしており、ア ルバイト先の主人から登山のために二日間だけ休み をもらって、その日は朝日岳を経由して白馬岳まで 登ってきたという。昭文社の登山地図に載っている 標準タイムでは、そのコースは登りで十三時間と記

されている。正味十三時間の道を一日で歩きとおし たというこの青年との年齢の開きをいやでも再認識 させられる。当初、この青年との年齢の開きもあっ て、私は下界での日常生活で身にまとった構えをそ のまま維持しょうとした。それに彼はなんといって も「シンジンルイ」である。シンジンルイとオジサ ンとは思考回路が違うのだ。今日は疲れているし、

文化的摩擦を引起こさないうちに、なるべく早く布 団を敷いて寝てしまおう……。だがそれは私の把憂に 過ぎなかった。この青年丁君は実に率直にいろいろ なことを話してくれた。彼は北陸地方の国立K大学 工学部の四回生で、化学工学を専攻しているという

「四回生の今頃になって就職活動もせず、山小屋で アルバイトしてるのは僕ぐらいのものでしょうねd とやや自嘲ぎみにT君は語った。「このまま就職し てサラリーマンになって、会社のために夜遅くまで 残業して、自分を振返る時間ももてなくなってしま うことにすごく不安を感じますね。だからもう一年 間大学に留まって、自分が将来何をやりたいのか、

また何がやれるのかを考えてみたいんです。」とT 君は語る。彼は三回生の半ばまで体育会系のあるク ラブに属し、その連盟の北信越地区のまとめ役をし ていたことや、彼が在籍する大学やそれをとりまく 社会の在り方に対して強い疑問を抱いたり不満に思

っていることの数々を話してくれた。数々の諦念、

そして数々の挫折……。T君の主張には、稚拙な論

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理の飛躍が無かったとは言切れぬが、その率直さに は心打たれるものを感じた。我々はすっかり会話に 無中にねってしまい、十時の消灯時間がきたのも忘 れてしまうほどであった。

翌朝、昌を覚ますと天気はすっかり回復していた。

黒部の谷を隔てて剣岳や立山連峰の稜線がくっきり と至近の距離に望まれる。朝食を済ませると、今夜 からまた小屋のアルバイトの仕事に就かなければな らないT君は一足先に下山していった。私も七時に 祖母谷温泉を目指して小屋を後にする。祖母谷温泉 までは八時間の行程である。下山路としては距離が 長いためか他に同じ方向に向かう登山者はいないよ うだ。だが極めて明瞭な道が稜線上を延びている。

早朝あんなに晴れていたのに、稜線沿いの道を歩 き始めて二時間程進んだ辺りから霧が出てきた。そ してとうとう朝の十時すぎからは小雨が降り出した。

結局その日も前日に劣らぬ雨模様の一日となり、雨 は夕方前まで数時間降り続いた。途中の避難小屋を 過ぎたあたりから道も悪くなり、雨のためすっかり ペースが落ちてしまった。なんとか日が暮れるまで には林道のあるところまで行き着かなければならな い。ようやく麓の林道にたどり着いたのは夕方の五 時をまわっていた。

祖母谷温泉の小屋には六時過ぎに到着した。宿泊 者は三十人程であったが、私の他には登山者はなく、

家族連れの温治客がほとんどであった。だが車も通 わない山間の小さな温泉小屋である。温泉地特有の 浮ついた雰囲気など少しもない。谷川のほとりの露 天風呂で汗を流しながら今日一日を、そしてこれま で訪れた数々の山々を回想する。宿の主人は五十歳 代の婦人で時々富山で他の仕事をしているど主人と 一諸に登山道の改修をしたりしておられるという。

「最近の登山者はマナーが悪くなった」と語る彼女 を囲んで話の輪ができる。この宿でも山が好きだと

いういろいろな人との知己を得た。

これからも山をつうじていろいろな出会いがある だろう。高い山には高い山なりの、そして低い山に は低い山なりの良さがある。奈良に住まいを得て間 も無く一年になる。奈良の街とともに奈良の山の良 さも理解してゆきたいものである。

百年・六十年・十五年

赤  井  達  郎 大学が創立100年をむかえるということで、講堂 が建ち、ちかく『奈良教育大学百年史』も刊行され るようです。この11月18日の関学記念日には、創立 100年の式典があり、資料の展示も行なわれるとの ことです。例年の大学祭も、それにあわせてすこし 早めるようです。20日の日曜には、酒でも用意して おきますので、皆さん是非お集り下さい。研究室か らの眺めもずいぶん変りました。ギリシャの神殿の ような講堂でも見ながら、盃を上げましょう。

100年が101年でも、99年でも、どうということ はないのですが、竹に節があるように、ものどと50 年とか100年とかいう時には、なぜか自ら節を作る ようです。物事や人生にけじめをつけるという事は それなりにひとつの意味をみとめてもいいでしょう 1874年(明治7)6月、興福寺に創立された小学教 員伝習所は、「寧楽書院」というたいへんいい名前 でしたが、翌年には奈良(小学)師範学校となり、

ついで堺県師範学校分局奈良学校・大阪府立奈良師 範学校と名称も転々とし、1888年(明治21)7月よ

うやく奈良師範学校に落着きました。ここからが百 年というわけです。

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わが大学は(奈良学芸大学になるのが1949年、39 年前)寧楽書院以来、百十数年にわたって専心「教

員伝習」「教員養成」を行なってきましたし、学生 たちも教員をこころざし、教員になれると思ってき ました。Tさんのように、早くから教員以外の道を 選んだ方もありましたが、この研究室を出た皆さん の大部分も、「学校の先生」志望だったように思い ます。ところがここ数年来、児童・生徒数が減少し、

教員採用が落込んでその回復のみこみも薄いことが わかると、教育大学はいかにあるべきか、というよ うな論議がおこってきました。大阪教育や東京学芸 が教員免許をとらない。いわゆるゼロ免コースを作 ったことはど承知の通りです。

如何になすべきか、ということは、今までどうで あったか、という厳しい反省と表裏の問題のように 思います。改革・変革のもとめられている今、100 年をむかえ、わが100年の歴史を、近代日本の流れ

とともに考えてみたいと思います。

『百年史』のために作られた年表をみると、昭和 のはじめのところには、「完全武装」で校門を出て 行く奈良師範学校の先輩たちの写真があり、昭和2 年丁卯の年には附属幼稚園創立とあります。幼稚園

の園長センセイのころ、この幼稚嵐はわたくLと同 い年だといっていましたが、その暦が還って昨年が 丁卯の年。夏に入院し、碁まで病人でしたので、さ さやかな目視の意味もこめてまとめにかかった仕事 も中断し、ようやくこの暮に形になるよう漕ぎつけ たところです。病中、わがこし方をふりかえって、『謹 める年表』という余白の多い年表に私事を書き込み はじめました。動けるようになると、もうそんな暇 もなくはうり出してしまいましたが、大学へ提出し た業績一覧などの仕事のこともそこに書き入れ、い

つか完成してみたいと思っています。

職もなく、河出の『日本歴史大辞典』の編集のアル

バイトと、その無署名の用語解説などの原稿書きを しながら所帯をかまえたのが30年前、奈良教育大学 に採用されたのは、昭和48年11月1日という中途半 端な時ですが、ともかくもうすぐ満15年ということ

になります。

就任してまもなく。井上学長のころ、部落解放同 盟から礼弾をうけたことがあります。そのある軋弾 の場で、女子学生のひとりが「先生は山水河原者など を教えてくれるが、それは被差別民の解放とどのよ うにかかわるのか、先生の研究にとってそれは何で あるのか」という意味の厳しい問いかけがあり、先 生、研究者というカクレミノの中に眠っていたもの をたたき起される思いでした。今年も総合講座「部 落問題」で声聞師や絵解や山水河原者の話をしてい

ますが、甘い甘いと反省しています。

昭和54年の春、卒業判定会議のころだったと思い ます。′ト林学長によばれて幼稚園長になれといわれ、

学長室で数時間断りつづけたのですが、遂に引受け てしまいました。それから6年間、研究室と幼稚園 の森との往復で、研究室の皆さんにもいろいろど迷惑 をかけました。幼稚園をやめる時の手紙がのこって います。

先日、自重寺へ行ってきました。半世紀もろくな ことをしてこなかったのですから、冥途の裁きで 地獄落ちは必定でしょう。いま大学院の講議で、

地獄絵の絵解きをやっていますが、よくみると、ほ んとうにこわくなってきます。『蜘蛛の糸』ではあり ませんが、こんなわたくLでも万が一、すくいの 糸が降りてくることがあるとしたら、この六年間 のうち、ほんの一瞬でしょうが、無心に子供とあ そんだことかもしれない、などとあっかましいこ とを考えています。

妙な文章ですが、人生の十分の一をすごした幼稚 園は、わたくしの心に響くのがたくさんありました

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退任の手紙にも書きましたように、昭和58年の春、

大学院ができました。わが大学100年の歴史にとっ て、大きな画期でした(実質的な画期とするには、

いますこし時間がかかりますが)。いつだったか酔 っぱらった勢いもあって、理科のある先生に「わが 大学に研究はあるのか」とからみ、厳しい反論をう けたことがあります。大学院の施置によりわが大学 に教員養成という目的に加え、「研究」ということ が明確に義務づけられたともいえましょう。大学院 はわたくLにとっても、たいへん嬉しい事ですが、

あと数年、現役の研究者であることは、いささかし んどいことです。はじめにも書いたように、大学院 で日本絵画鑑賞史として講義した『絵解きの系譜』

をこの薯に出し、明年夏までには、京都の美術史に かかわるもの形にし、ここをやめるころまでには、書き 散らした浮世絵をまとめたい、などと出来ることは、

たばねることばかりで、種をまき、刈り取ることは 至難のわざです。

それでもと思い、9月の教育実習期間中、女房氏 に三脚とテープレコーダーを持ってもらい、農民た ちへの布教に専念していたころの、ラジカルな親鸞 の寺々をまわってきました。茨城県笠間のある寺で は、年のはじめの「初お講」とよぶ農家での講のと き、坊さんが親鸞の御絵伝を一幅持ってきて、絵解 きしていた、といいます。また、そんない古いもの ではありませんが、親鸞の妻の恵信尼の絵解きに用 いた絵もあり、たいへん感動しました。絵解きは、

女たちのために、女たちが演じた、女芸という一面がL 強い、と書いた『絵解きの系譜』の序に書き加えた

い発見でした。

峠の石に腰掛けてひとやすみしたり、時にはいそ いで歩きだしてみますが、日暮れて塗還し、の感慨 ひとしおであります。

それはそれとして、酒の方はほぼ元にもどりまし

たので、11月20日の日曜日には、是非とも研究室へ あそびにきて下さい。

一年が過ぎて……

岡  本  定  男 風物も人間関係も、そこに立つ自分がそれらとど のように関わっているかという次元や構造によって 千差万別だ。それらを目的意識的に変える という使 命感や課題を担ってそこに位置し属しているという 場合もあれば、全く旅人的利那的にそこを通り過ぎ るだけという接し方もある。どのような場合をとっ ても、客観的な時間・空間の共有という事象に於て 変わりないものの、主観的で情動的な心の領域に及 ぼす影響の差は限りなく大きい。即ち、風物や人間 関係にあうての己の心情的位置は、他者との比較の みならず、己の内にあっても絶えず揺れ動き新たな 気分を醸し出すものだ。時間的空間的に限定されて いる神ならぬ人間は、逆にその限定性を反動力とも バネともなして神の技へと近づくことだってできる 反対に、その限定性に自己解体を迫られ、人間性を も放棄し、獣の域へ足を踏み入れることだってして しまう。いずれにしても、人間にとっての時空の制 約は、絶対的な条件とはいえ、究極は己次第の極め て可塑的なフレキシビリティーを秘めた条件の一つ にすぎない。科学や技術を推し進める力は、ひとま ずその結果がもたらすかもしれない倫理的人間的社 会的影響を脇において、この極めて可塑的なフレキ シビリティーの縦横の探究的・法則的・創造的な発 茸によって支えられてきたといって良いだろう。

自然や人々と自分との関わりも、この自らを限定

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する制約に対する姿勢や観点によって、全く可塑的 な存在である。私が注目するのは、自然や人々との 事実としての相互依存関係が、可塑的な相互交渉関 係へと移行する契機となるのは何かということだ。

ここで話を具体的にしてみょう。私にとっての風 物(自然)や人間関係(人々)、それも日常的なそ れは、現臨点での生産的創造性という観点でみる限 りにおいて、職場としての奈良教育大学であり、そ れを構成する教職員・学生である。少くとも現在の 私にとって、地域は食・住・休息を物質的に保障す る空間的な存在以上ではない。私がそれ以上を求め ないのではなく、それ以上を求めずとも済んでいる からである。少くとも今の日本にあっては、人々に とっての地域が、この様なものとしてますます外在 化・機能主義化して行くのは避け難いように思われ る。家族という最小の生活基礎単位の存在さえ、日 々刻々と解消・崩壊の危機にさらされているような 今日にあって、曖昧模糊とした地域などというもの は、余程特別な事情でもない限り人々の日常意識に のぼるなどということは、あり得ないようにも思え るのである。これは余りに悲観的・独断的見方かも しれないが、今の私にとっての地域は、その段階に 留まっていることは確かである。

さて、私にとっての本学とそこでの人間関係はど うであろうか。憧れの地奈良へ債倖を得て赴任して から一年。15年近くに及ぶ大都会東京のど真申での 生活経験を経たこの地この大学での見聞は、一つ 一つどれをとっても新鮮なものだった。名刺や古い 街並の息づかいを嗅ぐようにして、しかもそこを歩 いて通勤できる贅沢さは何物にも替え難い喜びの実 感をいつも味わわせてくれる。雨上がりの朝、北門

から一歩足を踏み入れ仰ぐ春日山原始林に、霧が一 面覆っている様には、ハッと胸をつかれる感激を覚 えざるを得ない。時に鹿がキャンパスの草を食む光

景を目にしたときなど、心の中で叫び出したいよう な衝動にさえ駆られる。広い青空、低く間合いを保

った建物と草木の豊かな緑と彩。光景そのものとし てはそれに慣れたとはいえ、慣れきってしまうには 余りに瑞々しく素暗しい自然環境だと常に感謝とと

もに幸せ感を新たにしている。

一任経てば学内の様子も大方見えてくる。初めは 自分の専攻に溶けこみ、大学からはぼ他律的に課さ れる仕事をこなし、担当の授業やゼミに臨み、殆ど それと関わる限りの学生や院生と接することに意識 を集中させてきた。それはそれで、どれも目新しい 出会いや感銘を得る場となっている。東京の大規模 私大で多人数の講義を担当してきた身には、学生と の日常的で密接な関わりの可能な本学での仕事は、

とりわけやり甲斐と充実に満ちたものである。赴任 当初の私の心境は、この点、まるで教育実習中の学 生の様に真剣かつ新鮮で、感覚の触手を四方にめぐ

らせていた。実際、20数年前の自らの学生時代に戻 った気分で、学生達との語らいには特に熱が入った 専攻の学生はもとより、多少とも自然なきっかけさ えあれば、他専攻の学生達も進んで研究室に招き、

主として私が議論をふっかけたり自説を述べたてた そんな私の姿が学生達にどう映っていたかは別にし て、自らの内にたぎる抱負の念が強かった分だけ、

彼らに求めるものも広く深かった。自らの学生時代 の志向や活動を出来る限り具体的に示したり語るこ とを通して、時代や状況を越えて彼らの内に共振共 鳴する嘘の種類に瞳をこらすようにして見入ってき た。いくら話しても話し足りず、うらめしい思いで 家路につくことも一再ならずあった。そして、こう

した姿勢の基本は、一年経とうとする今も基調とな って続いている。

しかし、このところの私の先端的関心は、一通り かなりの教職員の方々の顔や名前が覚わってきた段

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階と上述した様な学生達との接触の仕方から、除々 にかつ確実に移りつつあるのを感じる。この契機と なったのは、思いがけず参加することになった本学 の伝統的行事、臨海水泳実習であった。4泊5[]と いう長期間を学生達や教職員の方々と寝食をともに して得たものは全く大きかった。例伍にない冷夏で、

肝心の水泳実習の成果の程は分らないが、私にとっ てここで感じ考え話し合ったことは、10ケ月間自分 の中だけで模索してきた本学での自分のあり方に一 つの示唆を与えてくれたのである。もし、参加しな かったら恐らくこの先ずっと挨拶以上の、心を込め た話し合いの出来る関わりをつくることはなかった であろうような人々と知り合えたこと、これが何よ りの収護であった。部屋でロビーで喫茶のカウンタ ーで、実習と関わって真剣に語り合えたこと、それ は内容のそれなりの大切さ以上に私に喜びと感銘を 与えてくれたのだ。

本学には、「学芸談話会」なる不定期開催(?)

の専攻を越えた教官の研究交流の場があるし、外で もなく本誌『書想』は、私見によれば、教職員にと って唯一のカレッジコミュニティー誌的性格をもつ 紙上の人柄交流の場である。特に後者は、どういう 順番か分らぬが、筆者にも投稿の依頼があって、改 めて前2〜3号分を熟読して初めてこうした感を深 くすることができた。この場を借りて、本誌がます ますこうした得難い役割を担い発展させてくれるこ とを、関係者の御努力への感謝の念とともにお願い

しておきたい。

しかし、いずれにしても、これらはフォーマルな 域を脱することは難しいだろう。臨海水泳実習で得 た貴重な心の交流の機会を今後どう多面的・発展的 に具体化するかということ、これが目下のところ私 の密かで楽しみな ≠悩みが(?)の一つである。そ してこの稿を終えつつ、その友の一人が私の研究室

に初めて訪れてくる喜びに、一度も触ったことのな いコーヒーメーカーの豆買いに、いそいそと出かけ ようとしている私なのである。

投 稿 歓 迎

○教職員のみなさんの原稿を募集しています。

○字数1500〜1600字程度

参照

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