グルプダイナミツクス集團力學に關すろ一考察
津久井佐喜男
一二
三
四 序就会科学に於ける概念︑方法︑及び現実度に就いて
集團生活に於ける準定常的平衡及び杜会変動の問題
異集團生活に於ける準定常的平衡例に就いて
序
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集艦構造理論の科学的究明に實験肚会心理学的研究をゲシタルト心理学派の立場から果敢に試みていた目①詔言噂
昌・(HQ︒8〜μ逡司)の集團力学に關する理論艦系を彼の観①峯目δo蔓同昌の09三〇慶90昌8・目O賢●出葭℃豊を中心と
して一慮紹介し乍ら︑其方法論的槍討を試みてみたいと思う︒彼の理論は﹁人間關係論﹂に於ける實験心理学的基
底として︑蜜.同﹄・及び︑・︑シガン大学の集團力学研究所を中心に︑米國の心理学︑肚会学︑経濟学の各領域に於て既
に理論的槍誰段階を超えて︑實践的段階に迄一般化されている擬がある︒我國に於ても第二次大職後急速に︑同上各
領域に於ける夫々の追試が行はれたり︑或は無條件的にこれを就会管理の問題に探り入れている傾向がある様であ
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集團力學に關する一考察
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る︒
筆者の問題提起として特に張調したい鮎は︑集團力学そのもの㌧技術行動論としての科学的性格を検討することに
於て︑集膿構造の愛容理論に辮誰法的思惟の立場から矛盾の稜展過程の理論を長期的硯野に於てこれに導入すること
にょりピ〇三昌理論を乗り超える新な方向附けを企圓するものである︒
=肚會科学に於ける概念︑方法及び現實度に就いて
第二次大職を契機として米國を先進指導暦とする資本主義的民主々義圏に於ける就会科学の理論的︑實験的水準と
檬式とは大いに嚢展的攣貌を途げたと云えよう︒先す︑
田肚会科学系列に於ける心理学︑経濟学︑文化人類学などの各分野が共同活動して事實襲見や︑課題の實践的解
決えの方向が探られて來たこと︒
②肚会集艦の輩なる記述乃至読明から︑憂容される集團生活の力学的諸問題の實諮的解明え移行したこと︒特に
就会集艦の砒会学︑心理学的相面の測定技術の進歩︑及び就会調査の分析用具の稜展である︒
以上の二黙が特に顯著なものとして取學げうる︒一般に砒会科学に於いても︑諸他の物質科学に於けると同様に︑
適切な概念の稜展なくしては︑或段階を超えて其科学の濃展は不可能である︒一九四〇年前後から理論の爲めのより
良き概念の必要性と其のより高い水準えの嚢展の必要性が比較的廣般暦の確認を獲ち得る様になつて來たことは誠に
結構なこと玉思はれる︒
調査の計畏︑質施に當つては︑科学の現段階えの明確な洞察が必要とされるが︑一般に研究調査と稻せられるもの
は既知の事實から未知のジヤングルの段階乏の手績を意味するものであり︑科学的に有意味の目標や手績を選樫する
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の
爲には︑所與段階に有効な事實的知識に通曉している丈けでは充分ではない︒所與段階に典型的な科学的偏見からも
完全にフリーでなくてはならない︒科学者は︻科学の比較理論Lの磯見したものを利用することによつて︑常に科学
的細目から充分な距離を保持し乍ら︑其次の段階えの適切な見透しを樹てることが出來よう︒
エルンスト︒カ︒シラーは科学的進歩というものは屡々﹁現實的﹂芳くは﹁實在的﹂であると考えられるものに於
ける攣化の様式をとるものであると指摘している︒﹁實在﹂に關する論議は本來形而上学的であり從つて経験科学に
は持ち込まれ得ないものという風に考えられていた檬である︒然し乍ら實際に於ては︑實呑若くは非實在に關する意
見は経験科学に於ても全く共通であり︑或は肯定的に或は否定的な仕方で大いに科学の獲展に影響を與えたのであ
る︒或事物に就いてそれが非實在的であるというレツテルを貼ることは科学者にとつてそれは限界外であると断定す
るに等しい︒﹁實在﹂を一っの項に蹄属ぜしめることは︑自動的に科学者をして其項を調査封象と考える義務を形成
するのである︒即ちそれは理論の全照系の中で抹殺され得ない﹁事實﹂として其の性質を考慮することの必要性を含
んでいる︒途には其項に關係する名僻は(軍なる諺としてよりも寧ろ)科学的概念として受容されることを意味して
いる︒
就会科学に於ける﹁實在﹂に關する信念は︑﹁完全現實性﹂が心理的現象及び就会的現象に麟着せしめられる程度
に就いて攣化して來たし︑叉其の一暦深い力学的性質の現實性に關しても攣化して來た︒
此世紀當初には︑意志及び情緒に就いての實瞼心理学は意志︑情緒︑感情などを實在的と見徹しうる何らの封懸の
ない一領域︑美畔麗句の詩の領域に位置附けようとする優勢な態度に封する認識と闘はなければならなかつた︒即ち
科学的意味に於ける﹁事實﹂の領域から閉め出されていたので診る︒情緒は科学的分析乃至實験的手績によつて把捉
しようとするには余りにも流動的な漠たるものとされていた︒斯かる方法論的論議は現象に劃する實在を否定するも
集團力學に闘すち一考察﹂
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のでもないし︑論題を経瞼科学の領域の外側に保持すると同様の効果を有つものである︒科学的タブーが肚会的タブ
ーと同檬に科学者の理性的見解ではなく︑其の共通的態度によつて維持されていたといえよう︒
肚会科学者自身無論其の研究實艦の現實性に就いて強固な信念を有つているが︑これも慣熟した事象の生起する特
殊な鋏い範園に屡々限定されている︒例えば維濟学者は︑慣格其他の経演的データーに就いて賦與する檬な現實度を
心理学的︑人類学的,乃至法律的データーに樹し容認しようとはしない︒叉或心理学者は文化人類学者の取扱つてい
る文化的事實の現實性に疑念を抱く︒即ち個別的なもののみを現實的なものと見倣し︑重力の物理的場と同様に﹁集
團的環境﹂を現實的で而も可測的であると考慮する傾向がない︒﹁指導性﹂の如き概念もそれが全く可測的であり︑
指導行爲は可測的であり︑認定される丈けではないことが實鐙された後に於てさえ︑未だに紳秘主義の量を疫してい
る︒集團實在の否定乃至集團生活の或局面の否定は︑實在を或る大いさの翠位に封してのみ容認したり︑又は技術論
的︑方法論的問題或は概念的問題に關聯する論議に根提を置いている︒
カッシラーは物理学史の全期間を通じて︑原子︑エレクレ・ン︑乃至當峙物理的資料の最小部分と考えられたも
コ の玉實在に關して如何に活澄な議論が惹起されたかに就いて論じているが︑肚会科学に於ては︑それは通例部分では
なく其の存在が疑問を有たれる全艦に關してであつた︒
論理的には分子︑原子︑イオン叉はもつと一般的に全盤又は其部分の現實性の差別をする何らの理由もない︒分子
がそれを構成している原子とかイオンの性質とは異る性質を有つているという事實の背後以上に︑集團が其の下位集
團叉は個々の成員の性質とは異るそれ自艦の性質を有するという事實には何らの魔術もないのである︒(拙稿小樽商
大商学討究,第四巻第二號︑二三頁参照)
物理的場に於けると同様に肚会的場に於けるその力動的全鎧の構造的性質は下位部分の構造的性質とは異るもので
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みる︒双方の質が調査される必要がある︒如何なる場合に一方が︑そして如何なる場合に他方が重要かということは
回答されるべき問題に依るのであるが其間の現實性の差異はないのである︒此基本的主張が容認されるならば︑實在
ヨ の問題はその形而上学的様相を喪失するであろう︒我々は寧ろ此に代つて経験的諸問題に當面すること㌧なる︒即ち
所與の集艦が異る原子型の混成であるか︑叉はこれらの原子が或型の分子を構成していたかといケ化学的疑問に就い
ても同様である︒其回答は︑肚会科学に於ても化学に於ても同様に事例の可試的性質を経験的に吟味するという基底
への上に與えられなくてはならない︒一般に構造的性質なるものは部分乃至要素官膿によつてよりも︑寧ろ部分間の關
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ係によつて特微附けられよう︒カッシラーは数学︑物理学史を通じて要素の恒常よりも關係の恒常の問題が重要であ
ハユ り︑吹第に本質的なるもの﹂景観を攣化させて行つたことを力読している︒肚会科学も非常に類似の稜展を示すもの
玉様である︒
實禮存在の認知は此の實艘の指示する性質藩くは其の恒常性に依存するものとすれば︑何が現實的で︑何が非現實
的であるかという認定は枇会的性質を誰する可能性の攣化により影響されるであろう︒就会科学は小集團︑大集團の
構造或な集團生活の多様相を確實に記録する技術を相當に改良して來た︒即ち肚会測定技術︑集團親察︑面接の技術
などは集團の構造的性質や集團と其の下位集團︑一集團と其の個々成員の生活との關係に關する資料蒐集を一暦可能
なものたらしめた︒
肚会的實膿の存在に關するタブーは此實髄を實験的に操作することによつて打破しうるものであり︑科学者が例え
ば指導型に就いて記述している間は其庭に使用される範疇は主観的反映に過ぎない︒從つて考察現象の現實的性質と
劃慮しないという非難も受け易い︒此に反し︑指導性を實験し︑その型を攣化せしめることによつて初めて指導型
の概念を具鎧的手練に連結する﹁操作的定義﹂を信頼しうる檬になるのである︒概念が關聯を有つ現實性は眺めるこ
集團力學に關する一考察