徳・ご幸 百田一而川
ーカント倫理思想の一考察1
川村三千●雄
溢徳思想に於ける幸幅概念
純粋理性批判の先験的方法論第二章カノン(e謬國欝昌Oβ伽霞目o冒①βく霞昌ββ津)第二節の冒頭に我女の理性の關
心の総てとして次の三個の設問が掲げられている︒,︑,一︑︑私は何を知ることが出來るか︒
二︑︑私は何をなすべきであるか︒
ハ 三︑私は何を望んでい玉か︒,
というのがそれである︒カントに依ると︑第一問は專ら思辮的理論的であつて︑それに樹する凡ゆる可能的な答は既
に甕くされたという︒蓋し︑そのことは形而上学の可能にかかわる理性批判の成果を指すであろう︒第二は全く實践
的であゆ︑儲つて︑問題自膿は純粋理性に属しているが理性批側自身の聞題ではない︒更に第三問は第二の問題を葡
提とするものであつて︑﹁若し今や︑私がなすべきであることをなすならば︑それから私は何を望んでい玉か︒﹂と
遣徳と幸︑薩
人丈研究第六輯
いう命題で示される︒しかも此の問題は軍に實践的である許りではなくて︑更に理論的であると言われるのである︒
ヤところで︑﹁凡ゆる希求国o凍①督は幸稿に關わる﹂という言葉よりすれば︑第三の設問は幸編の概念が中心である
ことが知られる︒随つて︑我々は幸幅の問題は理性の關心の封象として知及び道徳と相並んでカントの思想に於ての
重要な問題であつたことを認めなければならないだろう︒然し︑カントに於いての幸幅概念の膿系的地位及びその意
味は必すしも明瞭であるとは言い難いように思う︒●
カノンの幸輻思想を簡軍に要約すると次のようになる︒幸縞に就いての實践的法則は實用的法則と道徳前法則に匿
別される︒前者は幸輻への意欲を動機とする實践的法則で︑つまり幸幅になる爲には何をなす可きかを敏える塵世の
法則屠ξσqげ巴宏器σqobに他ならない︒それに覇し後者は︑直接に幸幅になろうとするので抵なくて︑むしろ幸編に値
いするということ丈けを動機どすゐ︒随つて︑こ玉では唯︑幸幅に値いするようになるには如何に行爲すべきである
かを命するということになる︒前者の實用的法則は経鹸的原理に基づくが︑後者の道徳的法則は純粋理性の理念に基
づき先天的に認識され得るという︒.
ハヨ このような幸輻概念の道徳的導入によつて純粋理性の第二間は﹁汝が幸輻たるのに値いするように行爲せよ﹂と答
えられ︑それから直ちに第三の問は﹁蕩し今や︑自己が幸編に値いしないことのないように行爲するならば︑その上
る それによつて幸輻に與り得る之とを望んでい玉か﹂といケ形で示される︒この間に樹する解答は︑先天的な法則を與
克る純粋理性の原理が必然的にこのような希求と結び付き得るかどうかにかかつていることになるのであるが︑カン
トの與える答は攻のようなものである︒﹁各人は︑彼の行爲に於て幸輻に値いするように行爲したと同程度に幸幅を
希求しなければならない︒このようにして︑純粋理性の理念の中に於てビのみあるが︑道徳の艦系と幸幅の膿系とは
不可分的に結び付いている﹂・
一26一
ところで︑最高善の理想を主題とする實騰理性批判の辮澄論の思想は上述のカノンの思想と極めて類似している︑
そのことは例之ぱ.道徳も亦︑本來︑如何にして我々は自己を幸幅になすべきかの教ではなくて︑如何にして我等が・
(6)︑幸幅に値いするようにならなければならぬかという教である﹂と言うような叙述によつても知られよう︒或は叉︑
へ ﹁道徳は唯幸幅の必要條件8β舞寓o︒・言①ρ暴βoβのみを論すべきものである﹂と迄︑語られるのである︒このよ
㌧うな叙述よりすれば︑畿理性批判の思想は全くカノあ偲想と同一であり︑随3・︑こえカントの思碧賓性.
が確鐙されるようにも見之る︒だが︑實は問題はそれ程簡軍ではない.︒というのは︑實践理性批判の第一部﹁純粋實
︑践の原理論﹂の中では辮讃論の前に﹁純粋實践理性の分析論﹂が置かれ︑しかも此の分析論が實践理惟批判の主題を
なしていると考えられるからである︒問題は分析論に於ける幸幡の思想と︑カノン及び溜鐙論に於けるそれとの關聯
にある︒
周知のように︑分析論の課題は普遍的な實践的法則(道徳律)の確立ということにあり︑此の課題は道徳律と幸幅
主義の峻別︑しかも後者の徹底的排撃を通じて塗行される︒ζxで確立されるのは所謂無上命法犀蓉㊦σ︒o目尻︒げΦ
H日喝霞暮ぞであつて︑こ﹂には幸幅概念の介入す可き余地は毫も残されていないように思われるのである︒ところ
が︑前に示したように︑カノンの思想によれ︑ぱ︑道徳法則とは幸幅に値払することのみをその動機となすものだと言う,それに懸じて︑カノンの第こ問は﹁幸幅に値いするように行爲せよ︒﹂と答えられる︒この問は︑少なくとも分
析論の思想からすれば︑當然無上命法によつて答えられる筈ではないか︒しかも︑幸輻は夢識Φβに關わるという
のであれば︑幸輻は﹁私は何を望んでい玉か﹂という第三の問いにのみ關聯する筈だひところが︑第二の設問に樹し
て既に幸輻概念が導入され︑その上に第三問の解答が興えられている︒随つて︑第二︑第三問は全く幸幅概念によつ27
て解決されていることが知られる・随つて・カノンの思想と分析論の思想との間には著しい飛躍と距離のあることを﹂
道徳︑と幸幅
人丈研究第宍輯
認めざるを得ないように思う︒
このようなことからして︑カノンの思想はなぼ著しく幸編主義的であつて︑こ玉では未だ道徳律がカント的な純粋
性に於いて確立されていないと考える他はないようだ︒言い換えれば︑こ玉では道徳は最初から幸幅との結合︑統一
に於いて捉えられているのであつて︑爾者の間には分析論で見られるような二律排反はなお明にされていない︒勿
論︑爾者,の結合は﹁値いする﹂という意味深い概念を通じてなされるのであり︑輩純な直接的綜合ではない然し,
それにも拘わらす︑カノンの思想は幸幅論的色彩が濃厚であることは否定し得ないように偲われる︒しかも此のよう
なカノレの慣向は︑亦︑明らかに報償的性格と結合する︒﹁随つて叉︑各人は道徳法則を命令と見徹すが︑道徳法則
が若しそ︑れに適合せる結果をその規則に結合せす︑随つて︑約束と威嚇とを伸わなければ︑命令たり得ないであろ
臥儲)約束と威嚇1このようなものばカントが分析論で繰り返充し強調する道徳意志の純粋性若しぐは人欄の道徳的
素質とぼ極めて疎遽なものと言わなければならないだろう︒
カノンの道徳思想と分析論のそれとの問に以上のような距離があるとすれば︑それは亦カノンの思想を再現する辮
誰論と分析論との拝格でもあることになろう︒随つて.﹁實践理性批判﹂はその全艦的思想の上から論理的齊合性を
訣いていると考えざるを得ない︒それは分析論と辮謹論の欄の矛盾拝格であり︑結局それは道徳と幸編の關係の問題
に餓せられるであろう︒亀
一28一
=幸幅論の体系的地位
さて︑實践理性批判の分析論の道徳思想は幸幅論の思想を嚴しく排斥する︒事實︑カントは幸幅読を徹底的に排撃
しそれと樹決することによつて純粋實践理性の倫理学を確立したといつてもい﹂であろう︒との点に於て︑純粋理性
批判に於いての猫断的思辮的形而上学の立場と實践理性批剰に於いての幸編論のそれとの間には意味深い鍋態が見雌
されるように思われる︒幸幅論の盟系的位置を示すために︑その劉懸的意味を考えて見よう︒︑
やリカントに依れば︑形而上学は理性にとつては不可避の自然素質に属し︑謂わぱ理性の寵兇蟹①び目βσq︒︒困昌qである
・と言われる︒随ヴて︑我々は理性的である限り︑それを噺念してしまうことは出來ない︒﹁人間の精神がいつか完全
に形而上学的探究を止めるであろう︑ということは︑我々が常に不潔な室氣を呼吸しないように呼吸を完全に中止す
るであろう︑というのと同様に︑期待す可からざることであゐ︒即ち︑形而上学は常に世界に存在するであろう︒の
みならす︑何人に於いても11特に思索的な人に於いてli存するであろう︒ところ噸︑從來形而上学と精されたも
のは探究的頭謄を満足させ得ない︒然七︑形而土単を全く噺念し去ることも全く不可能である︒随つて︑結局は純粋︑理性そのものの批判が企圖され︑若し批判が存するならばそれが攻究され︑其に一般的吟味が向けられなければなら
りない︒然らぜれば︑この軍なる知識以上のも.のである切實な要求を救う道は他にないからである﹂我々はカントの此の叙述の申に︑彼の入間理性の本性についての極めて深い桐察を見嵩すことが出來るように思う︒しかも︑此のよう
な形而上学についてのヵントの考え方は︑又同時に彼の幸稿論についてもその︑まΣ餐當するであろう︒おそらく︑上
の叙述の中の若干の語を攣更することによつで︑幸幅についてのヵントの思想を表現することも不可能6はあるま
ね い︒周知のように︑純粋理性の批判の成果は﹁純粋理性の絡℃の超験的判噺を避けるべき禁令﹂を與え,るのであつ
て︑こΣに思辮的猫断的形而志学の学的成立は完全に否定される︒然し︑凡ゆる形而上学が拒否されるのではなく︑
實践理性の立場か︑ら新に實践的形而上学が構想されるのである︒
註﹁その必然的な自然化せる軍なろ悟性的理性く︒村辺︑昌島︒ω︿..昌巷hけの自負錦全能は批到的に否定さろ可きであ・り︑それと共に他
のより深い理性概念に封して基礎が開かれ︑その基礎から新しい存在構造ω︒庁︒.σq⑦9自侮.が禺現し得る︒それは實践的濁断的形
遣徳必.幸題