• 検索結果がありません。

原爆被爆26年後の長崎−原爆アンケートの暫定的集約−

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "原爆被爆26年後の長崎−原爆アンケートの暫定的集約−"

Copied!
45
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

原爆被爆26年後の長崎

−原爆アンケートの暫定的集約−

岩松繁俊

1

広島と長崎とが、アメリカの原爆によって、凄惨無比の屍の街と化したの は、いまからおよそ26年まえの、1945年8月のことであった。

それは、いうまでもなく、1931年にはじまるわが国の中国大陸および東南 ァジア諸国にたいする15年戦争の末期のことであった。占領支配地城の寸皇 軍卓は惨敗をかさね(阜玉砕や、寸転進やおよび遊兵化)、とくに、1944年夏 以降、戦局の帰趨はもはや決定的となっていた。戦争継続は多数の生命の無 意味な犠牲を民衆に強要したにすぎなかった。しかし、政府と軍部の首脳は

「1億鉄石の団結の下必勝を確信し、皇土を護持して飽迄戦争の完遂を期 す」と宣して、いたずらに、絶望的抗戦と寸1億玉砕寸を人民に強要し、竹 槍をも云て内地決戦に備えさせた。1)

このような状況のもとで、広島・長崎の数十万の人民は、アメリカの原爆 によって、残虐無差別に、殺傷されたのである。

原爆の威力の絶大さ、それによる生命抹殺のむどたらしさ、については、

いまさらそれを論ずるまでなく、すでに、多くのひとびとによって、報告さ れている。2)

また、原爆製造にからむアメリカ側の研究上、軍事上、政治上の諸事情に っいても、すでにいくつかの研究報告が発表されており、さらには、また、

原爆投下の決定と実行にいたる経過についても、われわれは詳細に知ること ができる。3)

とりわけ、われわれにとって重要な問題は、アメリカの広島・長崎にたい する原爆攻撃が、広島・長崎の原爆犠牲者(殺された被爆者と生き残った被

(2)

1 0 4  

経 営 と 経 済 爆者)にたいしてもつ意味は何か、ということであり、のみならず、人類全 体にたいしてもつ意味は何か、ということである

C

もちろん、この問題の解 明にあたっては、広島、長崎の住民が1

5

年にわたる侵略戦争の京‑任当事国日 本の国民として、その侵略に加担したという中国・東南アジアにたいする加 害者の面と同時に、天皇制イデオロギーを基礎として侵略戦争を開始し指導 した政府・軍部および独占資本によって、強制的に(批判や選択をゆるされ ず)その侵略に加担させられたという

2

重の被害者としての面が、じゅうぶ ん考慮されなければならない。

アメリカの原爆攻撃のもつ問題点は、つとに、全人類的な規校と深刻さを もって注目され、原爆反対の戸は、原水禁の迩動となって、世界各地で組織 され、また、地道な学問的研究も個別的につづけられてきた口

ところが、被爆都市長崎に所在する長崎大学においては、原爆被爆の問題 を、直接、機構的に、研究機関本来の問題としてとりあげたことは、いまだ かつてなかった口わたし個人は、学の内外において、多年にわたり、この問 題ととりくんできたが、いかなる学部の教授会も、ましてや評議会も、大学

自体のとりくむべき固有の重要課題として、原爆被爆と平和の問題をとりあ げたことは、一度だになかったD このような事情は、広島大学においても、

同様である

o 4 )  

わたしが被爆したのは、爆心地から約1

3 0 0

メートノレはなれた三菱兵器製作 所大橋工場においてであったG そこは、敗戦後、数年たって、長崎大学の敷 地となり、現在では、教養部、教育、水産、薬学、工学の各学部、および本部 事務局が所在しているところである口そこで

9

死に

1

生をえたわたしは、そ ののち、長崎大学につとめるようになってから、大多数の大学関係者の冷淡な 無関心をよそに、ひとりの個人として、人間として、そして被爆者として、

微力ながらも、原水禁と反戦のために、活動してきた

o 5 )  

昨年

7

月、わたしは、長崎大学の教員1

0

数名とともに、ひとつのク

V

レープ をつくった。そのグノレーフ。の名称を「原水禁と反戦のための長崎大学教員の 会」という

o

その結成のもっとも重要な理由は、上述のところから明らかな ように、大学一般の「世界平和と人類の福祉に貢献」すべき普通的責任にく

(3)

わえて、とりわけ、被爆都市長崎に所在する大学として課されている原爆問 題ととりくむべき独自の責任という

2

重の課題にもかかわらず、わが長崎大 学がこれらの責任をないがしろにしてきたことへの批判であるD そして、個 別グループとしての微力を自覚しつつ、あえて、この結成にふみきった他の 主要なる理由は、大学への批判が、っきつめれば、結局は、大学構成員たる 自己自身への批判にほかならないからであり、みずからそれととりくむこと 以外に、社会的責任にこたえるすべはありえないからである。

「原水禁と反戦のための長崎大学教員の会」の活動は、たんに原水爆に反 対することだけでなく、通常兵器や

B C

兵器その他一切の兵器に反対するこ と、そして、兵器を装備し使用する軍隊に反対すること、そして、より根源 的には、武力の増強を要請する国際間の緊張と侵略と収容、国内における権 力の人民や少数民族にたいする収奪と弾圧と強制に反対すること、ー一一こう

して、結局は、 「世界平和と人類の福祉に貢献

J

(教育基本法)することを 目標とするものである

o

まず、討議、被爆者訪問、原爆問題も活動家、訪問、外国人旅行者への街 頭アンケート、原水禁大会への出席、長崎県・市の関係者訪問、を通じて、

原爆被爆の実態にできるだけ接近し、また、原爆問題にとりくんでこられた キ活動家、の経験と苦心に学ぷということからはじめた「教員の会」は、

10

月末より今年(1

9 7 1

年)

1

月末までのあいだに、

4 0

項目にわたる詳細なアン ケート調査をおこなったD

このアンケート調査の目的は、長崎市内に現在居住する市民(被爆者・非 被爆者をとわない)が26年まえのあの原爆をどのように把握し認識している かを、直接に知り、とりわけ、被爆者からは、その体験と苦悩の実態をじか に教えてもらうことであった

o

この作業は、文献による抽象的知識だけで は、原爆被爆の実態と本質の解明は不可能である、との認識にもとづいてい

O

これまでに発表された文献には表現されたこともない、かくされた、そ して具体的な事実は、みずからの眼と耳と口と足と一一全身一一ーをつかった 調査によってのみ、たしかな手ごたえをもって発掘されうるであろうO

(4)

1 0 6  

経 営 と 経 済

1 ) 1 5

年戦争の赤裸々で恥ずべき実態と本質をあかるみにつかみだした文献・史料 は、汗牛充棟もただならぬほど、多量に存在する。また、これらの戦争のまっ ただなかで、指導し、命令し、虐殺し、逃避し、責任転嫁して、いまなお、生 きている生き証人、他方には、支配され、命令され、強姦され、拷問され、ぬ れ衣を着せられ、ザド国民争あつかいされ、肉親を殺され、強制労働させられ た生き証人が、日本のみならず、中国、朝鮮、束南アジア諸国に無数に生きて いる。

26

年の歳月のあいだに、戦争にまつわる欺蹴と虚偽、野心と残酷の数々が、

ますます明確にばくろされたが、他面、同時に、記憶と感情が時間とともに

F l . j

められてきたことを、傾向として否定することはできない。

ここでは、文献として、ただ、家永三郎『太平洋戦争~

1 9 6 8 .

をあげるにと どめる。

2 )  

原爆の残虐無比な反人類性の事実については、多くの個人やグループηによっ て、すでに詳細に報告されている。それは、ただ、単行本や雑誌・パンフレッ ト、個人的な手記にのせられているだけでなく、多くの原水禁大会や平和集会 での発言、新聞、ラジオ、テレビ、文学、演劇、などで表現され、さらには、

写真や資料の展示をとおして、明確・具体的にしめされている。これらの資料 は、枚挙

l

こいとまがないほど、多量に存在するので、その目録を総合的体系的 に作成する乙とさえ、非常に困難なことである。

広島の原爆にかんする資料の目録としては、原爆被災資料広応研究会編『原 爆被災資料総目録』第

1

集および第

2i

長がもっとも詳細である。これは、原燥 慰霊碑、原爆遺跡、物品資料、遺品、放送、美術、文学、官公庁文書、泌刷、

バレエ、映画、音楽の各分野にわたる資料を制維し、しかもそれに解説を付し た貴重な目録である。

長崎の被爆資料の目録としては、原爆資料協議会編『長崎市原爆資料目録 一一あの日の爪あと一一~

1 9 7 0 .

があるが、非売品であって、ごく少数のひと に寄贈されたにすぎないために、この存在さえ知るひとはすくない。しかも、

乙れは、長崎市国際文化会館原爆資料室に所蔵する資料のみについての目録で あって、他

l

と収蔵されている資料についての目録は公表されていない。

なお、ついでながら、外人観光客は、みな長崎の原爆を知っているものの、

原爆資料室の存在については知らないものが多い。

(5)

3 )   たとえば、ステファーヌ・グ l レーエフ著・中村誠太郎訳『マンハッタン計画』、

L  ・ギオワニティ. F ・フリード共著、堀江芳孝訳『原爆投下決定』参照。

4 )  

金井利博『核権力一一ヒ口、ンマの告発一一~

263 ページ参照。なお、本舎は、

巨大な核戦力をもった国家権力の実態と問題を摘発するとともに、それに抵抗 し反対する人民の側の努力について、卒直な批判的提言をおこなっている。

5 )   わたしが、航空機に塔載する魚雷を製造する軍需工場=三菱兵器製作所大橋工 場で被爆したのは、長崎工業経営専門学校(長崎高等商業学校は、いわゆる太 平洋戦争の最中に、国策にもとづいて、経済専門学校と改称・改組され、さら に 、 1 9 4 4 年 3 月 29 日、工業経営専門学校へ転換・改称された o )の学生とし て 、 1 9 4 5 年 1 月から、同工場へ、勤労動員されていたからである。

i

政局の不利 にともない、政府は、旧制高等学校・大学予科・専門学校、旧制中等学校の修 業年限をそれぞれ l 年短縮し(1 943 年 1 月 2 1 日〉、戦争遂行を科学研究の唯一 絶対の目標とし(同年 8 月)、文科系学生の徴兵猶余停止・入学定員の減少、

理科系への転換(周年 1 0 月)をおこなうとともに、軍需生産への勤労動員を、

しだいに強化していった。 1944 年 3 月からは、学生、生徒は、学校へではな く、もっぱら工場ヘキ通学+することとなったのである。

アンケートは、被爆都市長崎の 26 年 後 の 実 態 を 、 概 略 的 で は あ れ 、 と も

かく、具体的に知るという目的をもって、おこなわれた o したがって、アン

ケートの対象とされるク勺レープは、被爆者だけに限定されず、非被爆者にも

拡大された。また、われわれが、大学関係者であるというところから、いま

まで実施されたことのなかった大学の学生、教職員にまで、対象をひろげる

のが、必須かつ有意義であるとかんがえられた o われわれが大学において研

究 に 従 事 す る も の で あ る 以 上 、 大 学 関 係 者 の 原 爆 に た い す る 認 識 と 思 想 と

を、具体的に把握し、また、それを社会にむかつて発表する乙とは、ひとつ

の重要な義務であるとかんがえられたのである

D

それは、われわれが住んで

いるもっとも身近かな社会一一「深く専門の学芸を教授研究」している「学

術 の 中 心 J (学校教育法)として、世間的にはある程度の尊敬をうけている

(6)

1 0 8  

経 営 と 経 済 ようにみえる一ーで、われわれの「専門の学芸」が、ほんとうに「世界平和 と人類の福祉に貢献」するようにみがかれているのかどうか、をたしかめる ひとつのきわめて有力な判断素材を提供するとおもわれた

o

そこで、アンケートは、

( 1 )

被爆者、

( 2 )

非被爆者、

( 3 )

大学学生、

( 4 )

大学職

( 5 )

大学教員の

5

グループにわけで、おこなわれた

o

もちろん、大学の 教・職員のなかには、被爆者もあり、したがって、被爆者かいなか、の観点、

から分類すれば、すべて、

( 1 )

( 2 )

に分類されつくすのであるが、大学関係者 は、とくに区別して、

( 3 ) ( 4 ) ( 5 )

とした

o

乙れを逆にいえば、

( 1 )

は長崎市内に居 住し、しかも大学の学生でも教職員でもない・いわばキ市民、としての被』爆 者であり、

( 2 )

はおなじくも市民、としての非被爆者であるということができ

o

ところで、 「教員の会」は、会員数と活動資金のいずれもどく少なく、

ために、われわれがアンケートしうる対象数は

150

名のごく少数であり、し かも回収にあたっても困難に逢着せざるをえなかった

o

したがって、これら の集計から統計的結論を導出することは無理であるロ

まず、それぞれの対象者数は、つぎのとおりであった

o ( 1 ) 3 9

( 2 ) 5 0

( 3 ) 4 0

( 4

)1

0

( 5

)1

0

名。そして、それぞれの回収数は、つぎのとおりであ

った。

( 1 ) 3 1

(8096)

( 2 ) 1 1

(3496)

( 3

)1

7

名 (

4396)

( 4 ) 1

(1096)

(5)1 名 (10~の O

( 1 )

は、爆心地からの距離と男女の性別の観点から、かたよらないように配 慮しつつ、それぞれの小集団について、無作為に抽出した

o ( 2 )

については、

回収率が非常に劣っているが、しかし、非被爆者が、乙の数字にしめされる ほど、非協力的だったのではないD 非被爆者については、あらゆる職業種 (銀行、デパート、郵便局、交通機関、機械販売、本屋、電々公社、市役 所、県庁、医師、小料理屋、食料品商、三菱重工業など)を網羅し、それぞ れの業種について、性別と階層を配慮しつつ(政党活動家など、旗色鮮明な ひとを除外)対象者を選択した。ところが、依頼された対象者が、たまたま、

被爆者であったり、また、そのひとが他の被爆者である同僚に再依頼したり したケースがいくつかあったために、結局、本来、

( 2 )

の対象者に属すべき数

( 1 )

に移ったというケースが若干存在するわけである口こうして、結果に

(7)

おいて、

( 1 )

の回収数および率が上昇した

D

したがって、これら

( 1 )

( 2 )

の回収 率は、回収にかんする正確な実態をしめす数字とはなっていない。

( 1 )

( 2 )

両者を合計して、その総体的な回収率を算出する必要がある。対象者

8 9

回収者数4

8

名であるゆえに、総体的な回収率は54%となる

o

( 3 ) ( 4 ) ( 5 )

については、長崎大学、長崎造船大学、商業短期大学、活水女子短 大、県立女子短大、純心短大、玉木女子短大、長崎女子短大の学生、職員お よび教員が対象とされた。

アンケートは、

40

項目よりなる。乙れらの項目のなかには、被爆者だけに だされる質問がある

o

したがって、それらの質問については、非被爆者は回 答する必要がない

D

これらの質問の数は、

1 0

項目である

o

すなわち、

40

項目 のうち、

30

項目は、被爆・非被爆のいかんをとわず、全対象者に回答をもと めたものであるが、左足りの1

0

項目は、被爆者だけに回答をもとめたものであ る。前者に該当する項目番号は、 ( )をもってかこみ、後者に該当する項 目番号には、何も付さなかった

o

(1)  r

あなたがお生まれになった年は、つぎの年代区分のいずれに属し ますか。」

一 員 一 . 3 一 一 一 一 教 一 : : 一

;

i l

一 一 一 雄 被 一

1 0 0 0 0 0 0 0 一 1 一 一 引 一 ド 一 0 0 2

一 一 一 員 一 ゴ 一 一 一 一 睡

0

・ 目 一 一 一 耕 一 被 一

G o o

‑ 0 0 0 一 2 一 一 J 7 0 1 0

5 0 一 口 一

一 士

‑ U

‑AMi‑

一 吋 一

1 一 一 燥

ω 一

‑ W

凡 一

一 一 m 2 2 3 3 5 m

一 一 一 一 一 一 一 一 一 児 一 一 一

2 3 m m

不 一 一 一

a b c d e f g

(8)

経 営 と 経 済

110 

この年代区分は、通常のそれが

10

年きざみであるのと異なり、太平洋戦争 へのかかわりの年代的特徴に注目して、作成された。したがって、その年代 間隔は、均一ではなし) 0年代

c .

は、太平洋戦争において、兵士として戦場に かりだされ、もっとも多く戦死をしいられた年代(俗に戦中派と称される)で あるO 年代

d .

は、主として、も銃後、にあって、学業を放棄し、軍需工場に 動員された世代である

o

なお、表中、被は被爆者、非は非被爆者をしめすD

「原爆投下のとき(昭2

0 . 8 .   9 )

、あなたはどこにいましたか。」

( 4 ) 5 ‑ )‑1 

( 3 )

ー ー ナ 一 一

i 1

1 :   = [ 1 :  

i  f

七ゴ

: t I 被 : ?I~

j J O   l o : 1 1 0 ( l l   2  1 7   0  :  0  I  0  0  I  5 0 ! o   :  1 

0  : 0 1   ( 2 )  

( 1 )  

長 崎 長崎以外の市町村 外 地 未 出 生 無 回 答

(2) 

1 7   1 7  

3 1  

「そのとき、あなたは何をしていましたか。」

i R U

‑ い に ' 一

一 一 ゴ 一

) 一 一

h u

4

i l l

1 1

1

i

E

l

10

一 一

│ 一

‑ イユ ノ

)

A せ

一 ; : : 了

1 1 1 1

(一

μ 正

一 斗

ι

可よ

T i n

( 3 )  

5  3  ( 2 )  

5  2  9 

平常工場で労働

職場で労働 軍 隊 自 宅 学 校 防 空 域 内 そ の 他 無 回 答

(3) 

1  1 6   2 

i q J V

  1 7   1 7   1  6 

の「その他」は、田畑にいた

(2

名)、近所で遊んでいた

(2

名)、

魚 釣 り (

1

名)、道路上にいた(

1

名)、不明

(3

名)、である。これらの ほとんどは、家庭にいた婦人か少年で、あった

o ( 1 )

の「自宅」にいたひとも、

( 1 )  

家庭婦人か、少年・幼児か、夜勤をすませて自宅で睡眠していた動員学徒で あったG

(9)

(4)  r

あなたの被害の状況はいかがでしたか。(非被爆者の場合は、戦 災にあったときの被害の状況)

ここでは、被爆者だけの被害状況をとりあえず要約的にしめしてみよう

o

( 1 )  

(4) (5)

やけど・裂傷

やけど・下敷

や け ど

打撲傷・意識不明

皮膚はがれ

?

f t 5  

脱毛・下痢

家屋被害

被害なし

1 3  

無 回 答

3 1   2 

この設聞にたいする回答は、いうまでもなく、各人のそれぞれの悲惨な体 験に応じて、千差万別であるが、本人の被害のほか、肉親や知人の不幸な被 害についての記述も多い。そして、この設問は、つぎの項目

5

6

, 

(7)

, 

(8 

),と関連がある

o

ところで、被爆者の被爆状況のうち、若干の被爆者の例を、その回答によ って、しめしてみよう。

(1)  立山町の長崎県庁水産課へ勤務中、被爆。竹の久保町の下宿先 の家族の安否をたしかめたところ、全員重傷のため、その看護をして、数日 間、防空或内ですごした。

(

n)

城山町で被爆。家の下敷となり、足をはさまれて動くことがで きず、火災は燃えひろがり、片腕を火傷して、ょうやく足がぬけた。

(

I I I )

爆心地から

1800

メートノレはなれた住吉の道路上を自転車で走行 中、被爆。爆風で

3

メートノレはねとばされ、伏せた

o 2

3

分後にたちあが って歩いたが、後半身火傷っ道の左は回、右には家があり、その家は、たお

(10)

1 1 2  

経 営 と 経 済

れているものもあり、火がでているものもあった。赤迫の兵器製作所のトン ネル工場まで歩いたが、そのあとは、自力でたつ乙とができなかった。その トンネノレ工場のひとが、山の上まで、背負ってつれていってくれた。山のな かの平の上で、食べるものは全然なしで、

2

腕すごした。寒さは感じなかっ 。 水は、

2

日目、山の下の家まではっていって、はじめてのんだ。

(例町) 尾の上町で被爆。顔、左手、左肘、左腰、左腿に火傷をおうO

顔は

4

期症状、他は

3

期症状であった。現在、

NHK

放送会館があるところ に、国鉄の防空壕があったが、

9

日夜は、そこですごした

D

(

V)

自宅は全壊、母は爆死、姉は負傷、わたしは防空壕にいてたす かっ

7

D

(

v I )

三菱兵器製作所に、学徒として動員され、その日は、ちょう ど、防空壕を掘る作業当番にあたり、純心女学校にむかつて左側の畑で、上 半身脱衣の姿で作業していた。周回20カ所ぐらいで、おなじように、防空壊 を掘る作業がおこなわれており、ーカ所の作業員数は

5

名ず、つだったとおも O ピカッとしてから、しばらくして気がついたときには、周囲に人影が見 えなかった。おどろいたわたしは、手にもった鍬をふり捨て、右手に流れる 浦上川を泳ぎわたって、その先の山へと逃げているひとびとのあとをおうよ うにして、走りつづけた。途中、道なき山をどうして登ったのか、記憶して いないが、頂上近くにたどりついたときは、すでに、多くの負傷者が、折り かさなるようにして、ころがっていた

D

わたしは、すこしの草むらをみつ け、腰をおろしたO 周囲を見渡すと、尽くこげてふくれあがった顔のひとた ち、全身が血lこそまって虫の息をしているひとたちなど、

100

人以上とおも われるさまざまな負傷者の群があった。夕方、ー兵隊の命令で、下山したD

5.  r

あなたが一応落着かれるまでのあなたの避難の経路と状、況はいかが でしたか。」

これについても、極々悲惨な体験がのべられているが、前問とおなじく、

若干の被爆者の例をしめしてみようO

(

1) 

竹の久保町の親戚は、全員爆死した。千々石町よりわたしをさ がしにきた父とともに、

1 4

日ごろ、死体を処置したあと、下宿先の家族(母

(11)

親と子供

2

名)をつれ、道の尾駅より、千々石町へ帰った。

(

l l ) 9

日夜一晩を近くの川のなかですごし、元気なときには1

0

分で いけるところを、途中で一泊野宿して、やっとたどりっき、城山小学校下で 仮ほうたいをしてもらい、大橋まで友人に背負われていき、大橋の防空壊で 幾晩かすごし、道ゆくひとに助けられて、山里小学校の避難救護所にいっ た。それから、現在の長崎大学経済学部(当時工業経営専門学校)が赤十字 派出所になっていて、そこに

1

カ月ほどいた。それから、新興善小学校へ

1

カ月ほどおり、中新町に家をかりて

2

カ月、そのあと、母の郷里へいった

o

(

i l l ) 8

月1

1

日、諌早へ、

1 5

日、長与の小学校、

9

月なかば、新興菩 小学校、

1 1

1日、大村国立病院に入院、 1 9 4 9

3

月退院。この問、

1 9 4 7

5

月まで、うつぶせにねたきりであった。

1 9 5 1

年1

0

月、長崎大であごと顔面 の整形手術、

1 9 6 0

2

月、原爆病院で手術した。

(

I V ) 8

10

日、徒歩で、中心地をとおり、現在の音無町の踏み切り から汽車にのって、長与町へ帰った。

(

V) 1

年ほど、原爆孤児として流浪、長崎市内から五島方面をてん てんとしたD

6.  r

あなたの家の廃埴にたったときの周囲の状況はいかがでしたか。」

(I)  いうまでもなく、周囲一望焼野原で、惨慌たる状犯であった。

(竹の久保町)

(

l l )

見渡すかぎり何もなく、木も家もきれいになくなり、ずっとず っと遠くまで見えた。(城山町)

(

i l l )

すべて全壊、焼失口 (浦上町)

(7)  r

あなたのご家族の被害の状況はいかがでしたか。」

被爆者の多くは、本人のみならず、その肉親が被爆しているD 無差別みな ごろし兵器としての原爆の残虐性が如実にしめされている。非被爆者の場合 でも、父や妹をうしなったひとが若干あった。

(12)

ー ム

R u n o

‑ K

‑ ゴ

JY

)

‑ h u

ea

‑‑

IIlli‑‑‑eo‑‑:PIlli‑‑t'lil‑‑0

e::Il

一 い え 一 一

4 4 ι

i q

i 1 4

R d

‑ h

h B

)

‑ 一 一

4‑ 11 11 11 1

I

B J I l l i

‑ J j i l

‑ i l i l i

:lli

14

一 つ

ll

I‑

rt

fl

il

t‑

Li

ll

i‑

‑l

Il

li

t‑

lpilli‑‑Illi‑‑1111!i111111114Illi‑‑llTll

ー ム 刈 斗

L

4 Q V 7 可 よ

経 営 と 経 済

1 1 4  

( 3 )  

父母妾兄弟姉妹の全部ま たは一部の被爆死 おなじく負傷

原爆の影響による肉親の

肉親の被爆(程度不明)

2  2 

(2) 

1 4  

(1) 

全員被害なし

知らない そ の 他

無 回 答

計 1 

「全員被害なし」が

8

名もあったのは、長崎のいわゆる 被爆者のなかで、

旧市街に住むひとびとである。県庁・市役所がたちならぷ丘まで破壊し全焼 しつくした原爆も、その丘のむこうの地域までは、丘にさえぎられて、破壊

m

爆風,によって、ガラス窓や屋根瓦 もちろん、

することができなかったO

しかし、、放射 もっていたが。

をこわし、家をかたむかせるほどの威力は、

能グの危害は、べつであるO それは限にみえないものだけに、その影響がど

「全員被害なし」は、

ういう形で浸透しているのか、ほとんど不明である

O

そういう意味をもっている

O

「あなたの友人知人のなかに、原爆によって死亡したひとがいます

(8) 

か。一家全滅のひとはいませんか口それらのひとのお名前は、市の死没者名 簿にのっていますか口」

この間は、大別して、ふたつの設聞からなりたっているG 前者は、生きの こった被爆者にたいして、亡くなった被爆者にかんする情報をもとめ、後者 は、市の死没者名簿に記載されているかどうかというところまで確認してい るかいなか、別言すれば、その死亡した被爆者のことがどこまで気にかかっ ているか、を問うものであったG もっとも、市の死没者名簿を確認する作業 と被爆した肉親や友人・知人をとむらうこととは、別個のことだ、とかんが えているひとが大多数であって、この回答をもって、ただちに、死者への哀

(13)

悼と原爆への怒りいかんを判断することはできない。それよりも、むしろ、

政府や地方自治体の原爆対策のいちじるしいたちおくれが、死没者名簿の存 在やその重要性についての市民への訴えを、ほとんど無にひとしからしめて いる、ということの方が、重大である

O

まず、被爆死したひとについての認識は、つぎのとおりである

D

( 1 )   ( 2 )   ( 3 )

一 一 一 一 一

l ! 1 l (

! 被 : 非 ( 被イ);?

j

一家全滅

親戚の被爆死

友人・知人の被爆死

1 8

5  I  2  i  1 

友人

l

乙被爆死なし

!  9 i  9  1  j  2i  無 回 答 9 

3  I 

5 i  

3i 

1  :  3  3  3 4   1 7 7 2   5 1   1  6 

つぎに、死没者名簿にのっていることを知っているかどうか、について は、つぎのとおりである

O

!のっている

3 !   2 

i

のっていると思う

8  I 

のっていない

1 : 

わからない

5  l 

f R回 答 1 4   . 1   1 4 1 7 !   1  41 

! 計 3 1 I  1 7   1 7   !  5 I   1 6  

死没者名簿にのっていることまで確認しているひとは、予想以上にすくな い。政府や地方自治体の原爆対策にたいする不信のあらわれともうけとられ

ょう

D

(9) 

「長崎において原爆で死んだひとの数は

7

3 , 8 8 4

人、負傷したひと の数は

7

4, 909

人と発表されていますが、あなたは、これらの数を多すぎる と感じますか、少なすぎると感じますか、適当な数と感じますか。」

アンケートの平 fll~,土、わたしが起草し、会員による全体討議で、最終稿が 決定されたが、この設聞については、全会員に疑問や異議はなかった

o

とこ ろが、じっさいにアンケー卜してみて、おどろいたことは、この設問にたい

(14)

1 1 6  

経 営 と 経 済

する理解・うけとりかたに、われわれの予忽外のものが相当多数あったとい う乙とである

o

被爆者であるわたしが、被爆者の意識から、作成したこの設 聞にたいして、非被爆者のなかの相当数が、意味とりちがえをおこなってい るのである

o

この意味とりちがえは、ひとつには、被爆者としてのわたし が、常識として疑わなかった問題意識を、その常識的な志識のままに吉:きな がした文章であることに由来するのであるが、同時に、これは、霊大なこと に、被爆者と非被爆者との根本的な怠識の差をしめしているのである

o

被爆 体験の有無は、原爆被害をかんがえるばあいにも、微妙な差となってあらわ れるということの、これは、その典型的な例であるO

設問の要点は、長崎市発表の死者・負傷者の数にたいする感覚を問うので あって、じっさいの死者・傷者の数が多いか少いか、という実数を問うてい るのではない。その実数は、いまだに一一いまだからこそ、ますます一一不 明であるO 人間ひとりの生命さえ、はかり知れぬほどに、重い

o

その重い人 間の生命が、

1 0

1 0 0

人のみか、何万人とうばわれたのであるが、そのう ばわれたひとの名前はおろか、その数さえ、不明なのである。だれにも知ら れることなく、とむらわれることもなく、殺されていったひとびとの価値 は、はかることのできない重大なものをもっている口その死者の名前さえ、

知られないということは、原爆の悪魔性を、いっそう重大なものとする

o

死者・傷者の数が不明であり、そしてこのことははかり知れないほどの重 大な原爆の犯罪性をしめしているにもかかわらず、長崎市は、その数を確定 したかのように発表している口ここに、すでに、市の原爆被爆者にたいする 胃潰的態度があらわれているO もちろん、市の態度については、背後にある 政府がその基本的最終的責任をとらなければならないことは、いうまでもな

O

この設問は、市や政府のこのような態度への反応し

1

かんを知るためのもの であった口また、同時に、原爆の犯罪的魔力を、どこまで真剣に認識しようと しているかを、とくに非被爆者についてたしかめようとするものであったQ

結果は、つぎのとおりであったD

(15)

一 面

少なすぎる

1 4   I  5  I  7  2  I 

l 妥 当

多すぎる

1  7 1  l   i  2J  8 

3  1 ; 1 J J l     1 

lぃ…そ の 他

2 5 1 !  

何 回 答

5 2 1  

i

一一一!一一一 1 7 1 7

2 5¥ 

~:

非被爆者のなかの、 「多すぎる

J 8

名が、市の発表数について、実数より も多すぎると感ずるのか、実数そのものを多すぎると感ずるのか、いずれで あるかは、にわかに判断することができないが、 しかし、いずれにしても、

被爆者に比して、 「多すぎる」との回答がいちじるしく多いことは、重要な 差である

O

かりに設問の意味とりちがえであるとしても、その「怠味とりち がえ」が多かったということ自体、原爆意識の差を如実にしめしている

D

学生のばあい、 「少なすぎる」についで、 「その他

J

が多いが、その内訳

( a )i

死者の実数が多すぎる

J 2

( b ) i

多い少ないといえるものではな

J 1

( c )i

質問に疑念をもっ

J 1

( d ) i

愚問

J 1

、であった

D

( a )

は、実数についてのべているわけであるが、市の発表数と実数との関係 について追及しようという姿勢を欠如し、もっと素朴に、発表数=実数とみ 、 その数の多きにおどろきおそれる、という初認識型をしめしている(い ずれも女手学生)士 (b)も女子学生であるが、その志味は、 乙の表現だけから ば、判断できない

o ( c )

(d)は、前述のような、 この設問の怠味を理解できて いないことをしめすもので、市の発表数にたいして全然疑問をさえいだかな いことは、政府や地方自治体の原爆対策にたいして疑問をさえいだかない乙 とに通じるであろう

o 1 )  

(0)  i i i

弐災によって、あなた(あなたの家庭)の生計はどのように変化 しましたか。もとの職場へ復帰できましたか。」

生計変化の内容や職場復帰については、和々の回答がよせられたが、変化 があったかいなかの点から要約すれば、つぎのようになる。

(16)

1 1 8   経?:?と経済

(4~( 5)-_._-!

(1) 

~I:.

!被;ゴ

.1:

変化した

1 5   5  I  3  1  I  1 

 1:

変化しない

l  8 !  5  l 

li  l 

ll 

わからない

3  I  1  I  1  I 

l  j ! H

… !  

3 1 1 7 口 7 │ 2 ; 5 [ 1 ; 6 !

日本全土が戦争による被害をうけ、それは、直接、家庭生活に影響をあた えたのであるが、この数字は、その被害が、なかでも、被爆者にたいして甚 大であったことをしめしている

D

1 1 .   1

原爆被爆者として、何らかの差別をうけたことがありますか。

a.

就職にさいし、

b.

結婚にさいし、

c .

その他の場合。」

( 1 ) 凶 ) 被 ( 5 ) 被

l

あ り o 0 

就 職 で の 差 別 一 一

な し

2 3 1 

あ り 2 0 0

結 婚 で の 先 月 ‑ ‑ ‑ . ‑ 1  

( な し

2 1

あ り 1 0 0

そ の 他 で の 差 別 卜 1 

な し

2 0 1 

無 回 答 7  0 

これは、被爆者にたいしてのみの設問であるが、ここでは、意想外に、差 別なし、の回答が圧倒的多数であった。

1 2 .   125

年聞に原爆症にかかりましたか。かかった場合、病名と時期は

?J 

これも、被爆者のみにたいする設問であるが、程々の病名と時期について の回答があった

o

ここでは、まず、かかったことがあるかどうか、の観点か ら、分類してみると、つぎのようになるO

(17)

│ 

凶 被

I  ( 5 )

かかったことがある

1 1  

原爆症と思う

原因不明の症状がある

な し

1 3   1 

無 回 答

3  1 

三 3 1 2  I 

ここで、 「原爆症と思う」症状や「原因不明の症状」があるとの回答は、

原爆被爆特有のいちじるしい特徴であるといえるO たんなる外傷だけではな く、骨と肉、内臓をむしばむ放射能を身体にうけた被爆者が、限にみえぬ 勺史人光線グのために、身体の不調におちいっても、医師でさえ、それが原 爆放射能のためであるか否かについて、さだかには判定できない状況にあ O また、とくに、その判定が、直接、原爆の反人類性を糾弾する人民の側 に、利用グされることをおそれる保守的な医師は、明学者としての良心グの 名のもとに、可能なかぎり、その判定をくだすまいと努力する。これらのた めに、多くの被爆者は、自己の病気が「原爆症」ではないか、と疑心暗鬼の 状態で、ひとり悩み苦しむのである

o

かれらが、 「原因不明の症状」を「原 爆症ではないか」と疑うのは、自分とおなじ被爆者何万人の死をみずからの こととしてみつめてきた以上、けだし当然のことというべきであろう。

「かかったことがある」との回答をよせたひとの症状とはどういうもので あろうか。それは、つぎのような症状である

o ( a )

貧血

(3

名)、

( b )

下痢

( 2 )

(c)肝臓

( 2 )

(d)水晶体混濁、片眼失明

( 1 )

( e )

急性白血球減少症

( 1 )

( f )

寅胆

( 1 )

(g)脱毛・紫斑・化波・高熱

( 1 ) 、

(h)発熱

( 1 ) 、 ( i ) 日 J I

賢皮質機能障害

( 1 )2 )  

原爆症に苦しんでいるひとはいわずもがな、幸い、原爆症にかからなかっ たひと、あるいは、軽い急性原爆症にかかって回復できたひとも、いつ、自 分が不治の原爆症にとりつかれるかわからない、との不安と恐怖に、いつも さいなまれているD

そこで、被爆者にたいして、つぎのような聞を発したのである。

1 3 .   I

原爆症の恐怖にさいなまれるとき、それをどのように克服しようと

(18)

1 2 0  

経 常 と 経 済 しましたか。現在はいかがですか口」

乙の設問は、多くのひとにとって回答することが困難であったのか、恐怖 感にさいなまれるかどうか、についてのべた同答が大部分であったD この設 問のねらいは、恐怖感にさいなまれることを日明の前提として、その克服の 方法について問うたのであるが、この間いにたいする回答は、きわめて少な かっ

7

回答は、つぎのとおりであった

O

( 1 )   ( 4 )

1 1

'

( 5 )

恐怖感あり

が な し 気にしない 該当回答なし 無 回 答

つ J R U A

QU

3 1  

そして、恐怖感あり、と答えたひとのうち、何らかの克服方法をあげてい るひとは、つぎのとおりであった口

( a )

アメリカへの

i

曽しみ(1)

, ( b )

精神力でた たかう

( 1 ) , ( c )

克服困難

( 1 )

恐怖感あり、と答えたひとが、全体のほぼ

1/5

にすぎないということは、

恐怖感をもたないひとが予想以上に多いことをしめしているが、原爆被爆後 25年余ものあいだ、多少の差はあれ、恐怖をもちつづけてきて、結局は、生 活の維持のために、恐怖にばかりうちひしがれている余裕もないという、貧 しい日々のなりわいに追われた大衆の知恵のごときものが、はたらいている ともいえるかもしれない

D

そして、むしろ、

26

年たったいまもなお、恐怖に さいなまれる被爆者がまだ多数いるほどに、原爆はおそろしい残虐兵器であ るということの方が、より重大であろうD

1 4 .   I

子供を何人おもちですか。出産のとき、原爆症の遺伝を心配しまし たか。原爆症の遺伝が心配で、子供をつくるまいとおもわれたことがありま すか。」

子供が何人あるか、という問いは、じつは、つぎのふたつのねらいをひき だすための導入であった

D

ふたつのねらいとは、(1)原爆症による遺伝の心配

(19)

の有無、

( 2 )

心配があるばあい、 出産を断念したことの有無、を問うととで ある。

回答は、つぎのとおりであった。

< 遺 伝 の 心 配 >

心配した いま心配している

心配しなかった。心配しない 未 婚

f Ire回答

<出産の断念>

( 1 )  

断念した

断念したことなし 子供出産後、心配で断念

i Ire回答 2 1  

(4)  被 (5)  被

3 1  

2  1 

これらふたつの問題は、非常に主要な内容をもっている

D

親がみずからの 家系でも、みずからの身休的欠陥からでもないのに、子への追‑伝を心配しな ければならないということは、原爆被爆者のもつじつに悲惨で深刻な問題の 一端をしめしている。

ところで、この回答のなかに、出産当時は心配しなかったが、現在は心配 している、あるいは、出産後、 これ以上の子供を産むことを断念した、との 回答が

8

例あることは、とりわけ、注目されなければならない。この認識の もおくれ、は、 しかし、けっして、被爆者自身の怠慢でも無神経でもないO

「原爆のもたらす傷害諸効果の研究」

(アシュレイ・ W ・オウターソン大

佐提出の「覚書

J

)のためにアメリカの日本占領軍の発議によって設立され た「原爆傷害調査団」やその後身たる

ABCC

は、日本の医学者の貴重な研 究成果を守略奪ゃし、合戦利品として強奪やしたにもかかわらず、今日まで、

3 )  

原爆の遺伝におよぼす悪影響について、何らかの成果を発表したことを、わ

(20)

経 営 と 経 済

1 2 2  

れわれはきかない

o

日本の医学者も、遺伝については、その被爆者にあたえるところの人心の 動揺の大きさへの顧慮もあって、積続的

l

こ発表することを極力回避してき

た o

日米の医学者の欺目前や しかし、被爆者が、奇型児をうんだという事実が、

陰蔽やも学問的良心むのヴェーノレをはぎとって、真実を被爆者に啓、示したの である

o

認識がもおくれ、た乙とについては、このような占領者の絶対主義 的権力横暴と医学界の体質とが、重要な要因となっているのであるO

「原爆の原体験(原点)を非被爆者に理解してもらおうとおもいます

1 5 .  

か。それを非被爆者に話したり、手記にまとめたりしたことがありますか。

原爆体験をおもいおこすことは苦痛で、なるべくおもいださないようにして この点にかんして、心境の いますか。被爆の時点から今日までのあいだに、

変化はありませんでしたか。変化したとすれば、それはどういうきっかけか らですか。」

盛りだくさんのこの設聞にたいする回答を整理すれば、つぎのとおりであ

)  一 l(4) 竺 一 一 ( 5 ) 竺

積極的に働きかける

│ 

理解は無理・どうしようとも思わぬ!

働きかけたことなし

思いだすのが苦痛

わからない

該当回答なし 無 回 答

3 1  

1/2 

!こちかいひとが、理解し 非被爆者にたいする被爆者の態度としては、

てもらいたいという積極的能動的な態度をもっているという乙とができる

「非被爆者にはどうせ理解してもらえないのだ。だか しかし、なお、

どうしようともかんがえたことはない

o J

という徹底的な非被爆者不信

「原爆を理解してもらおうと 型のひとが

3

名もある、ということ、および、

り、

(21)

いう乙とはおろか、自分自身、あの呪わしい原爆を思いだすこと自体、苦し くて苦しくて、たえられない

o J

との絶対的拒否反応型のひとが

6

例もあ る、ということは、注目にあたいする。さらに、後者のなかには、 「以前は 非被爆者に熱心に訴えていたが、いまは思いだすのもいやだ。」というひと がある

o

どういうきっかけからか、わからないが、おそらく、訴えかけにた いする非被爆者の無理解でかたくなな対応に、その被爆者のこころは、痛手 を負い、絶望して、とじてしまったのであろう

o

1 6 .  

1"原爆の原体験や被爆者の苦悩は、非被爆者にじゅうぶん理解された とおもいますか

o J 

( 1 )   I  ( 4 )

I ( 5 )

│ 

理解されたと思う

2  I 

(  理解されていないと思う

2 4   I 

理解されえないと思う

わからない 1  I 

1~ 回答

4  I  1  I 

3 1 i  2  I  1 

被爆者のかなりの部分が、非被爆者l乙理解してもらおうとの姿勢をもちつ づけてきたにもかかわず、現在まで、その苦悩や恐怖は、結局、理解されな いままである

O

すくなくとも、被爆者自身はそう感じている

o

それには、被 爆者自身の努力にもたりないところがあるであろうが、しかし、非被爆者の 側により大きな原因があるというべきであろう

o

(1

7 )  

1"日本映画社が扱影した原爆フィルムは、アメリカによって没収さ れて込まぼろしのフィノレム、といわれましたが、

2 2

年たってようやくそのコ ピーが日本政府にわたされました

o

ところが、日本政府はそのフィルムを

13

分間カットして公開しました口アメリカの態度についてどうおもいますか。

日本政府のカット上映についてどうおもいますか

o J 

乙の設問は、ふたつの部分からなる。

<1>

日本映画社撮影の原爆フィ ノレムをもまぼろしのフィノレムャとしたところのアメリカ軍の没収という行為

4 )  

をどうかんがえるか

o <  2 >  1 6

ミリのコピーをわたされても返還された、

(22)

経 営 と 経 済

と称した日本政府はも管理権令と称して、もっとも重要な「人体編」を

1 3

5 )  

カットして公開した。この日本政府の行為をどうかんがえるか。

1 2 4  

<1> 

6

k ド

二 h

υ 一

a i

一 二 一 被

1

A 4 ‑

一 1

: ; : 一

l

2

一 被 一 一 一 7 2 1 8 7

u

一 ウ

4

i 1 4

i 1 ょ 一

1 一 的 一

的 好 一

批 や

い カ カ 他 な 答 丁 川 パ の 一 円 回 悪 ア ア そ わ 無 落

2  1  1  2  4 

1:  5 

2  5  1  :  5 

J

一 わ 恥 し 一 計 一

一 い ノ で 他 な 答 答 丁 一 一 一 附 寸 の も 沼 田 一 一

一 h

a

ぃ 一

︐ 引

N U A

一 一 一 一

一 悪 条 カ そ わ 該 無 落 一 一

<2> 

「悪い」とする被爆者が全被爆者中で

3 5 9 6

にすぎず、そ れは、たとえば、非被爆者や学生における同回答の比率41%よりも低率であ

く 1 >

について、

るという事実に、おどろかざるをえないD 無回答がほぼ

5 0 9 6

に達している事 これは注目される

o

実とともに、

日本政府のカット公開の件になると、

54%

の被爆者が しかし、さすがに、

「悪い」と答えている

o

自分に身近かな乙とには敏感であるが、時間的空間 的に遠くはなれた問題となると、反応がいくらか鈍くなるようである。

「昭和

32

年制定の『原子爆弾被爆者の医療等に関する法律j](原爆医 どうおもいますか。」

療法と略称)に規定する原爆症認定疾患について、

(1

8 )  

参照

Outline

関連したドキュメント

被爆遺構の物性に関する調査は、眞武・崎山 (1970) 10 や眞武・崎山・高橋(1973)

1&#34;&#34;2km では 5 例で腺癌が大部分であった。被爆と

明治の後半以降にはさらなる需要が加わった。ひとつは日本の戦争と軍事行動であった。明治 27 年( 1894 年)の日清戦争、明治 37 年( 1905 年)の日露戦争、大正

本シンポジウムがその際着目したのは「朝鮮国

(5) 国交が再開された日本と中国の間で,友好関係 をすすめるために 1978 年に結ばれた条約は何 か。. (6)

1.あの日の広島

わち戦争で障害者になった人だけを優遇した政策があっ

 当然のことながら,レツルは自分の建築作品がのちに負の世界遺産にな