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翻訳 「長崎原爆の青い目の語り部」 - ポール コブレットのインタービュー -

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Academic year: 2021

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(1)

〈論 文〉

翻 訳 「長 崎 原 爆 の青 い目 の語 り部 」

1

― ポール コブレットのインタービュー ―

The Paul Couvret Story

Survivor of a Japanese POW Camp and Nagasaki A-Bomb

ク リ ス  フ リ ン

Chris Flynn

【 要 約】 [Abstract]

In 1999 Paul Couvret visited Fukuoka as a member of the international exchange group “The Friendship Force”. The group from Australia was made up of couples in their 40s and 50s, so the single Couvret aged in his 70s, and his experience as a Prisoner of War in Nagasaki was unusual for the group, let alone an Australian visiting Japan. An interview with Couvret was conducted by the author and the interview was broadcast in Northern Kyushu (LOVE FM) over four weeks in 1999. The following translation is an attempt to bring the unique war and hibakusha experiences of Couvret to the non-English speaking Japanese community.

平 成 11 年 に 「 フ レ ン ド シ ッ プ フ ォ ー ス 」 と い う 国 際 交 流 団 体 の 一 員 と し て ポ ー ル  コ ブ レ ッ ト 氏 は オ ー ス ト ラ リ ア か ら 福 岡 を 訪 れ た 。 そ の 団 体 は 主 に 40・ 50 代 の 夫 婦 で 構 成 さ れ て い た が 、70 代 の コ ブ レ ッ ト 氏 は 異 例 な 存 在 だ っ た 。 彼 は 日 本 帝 国 軍 の 捕 虜 と 長 崎 原 爆 の 被 爆 の 経 験 を 持 ち な が ら 訪 日 し た オ ー ス ト ラ リ ア 人 だ っ た の だ 。 当 翻 訳 の 筆 者 は 本 人 の イ ン タ ー ビ ュ ー を 録 音 し 、 そ の 話 は 1999 年 に 九 州 北 部 の ラ ジ オ ( LOVE FM) で 4 週 間 に 渡 っ て 放 送 さ れ た 。 こ の 翻 訳 は 英 語 が 堪 能 で は な い 日 本 人 に コ ブ レ ッ ト 氏 の 戦 時 中 、 被 爆 、 そ し て 戦 後 の 体 験 を 伝 え る た め の 取 り 組 み で あ る 。 キ ー ワ ー ド: 原 爆 捕 虜 、 語 り 部 被 爆 者 

(Key words: Atomic Bomb, Prisoner of War, WW2 storyteller, hibakusha )

インタービュー

私はオランダ人で、戦争が始まる前は、東イ ンド諸島に住んでいました。戦争が始まって、 オランダ海軍航空隊に入隊しました。パイロット になりたかったからです。ジャワ島が日本軍に占 領される直前、飛行訓練生は貨物船に乗って、 オーストラリアへ撤退するはずだったのですが、 フリーマンテルから2日間航海したところで、日 本海軍に捕らえられました。セレベスのマカッサ ③ダンドリ力が皆無に近い ④積極的な報告・連絡・相談がない ⑤文章力がない(報告書・レポート提出状況を みて) ●学生自身の多くの性向について ⑥プライドが高いが、心(メンタル)が弱い ⑦ライフプランニング力(将来を考える力)が ない など 上記のような問題がとくに目立ったように思われ る。 また、これからの目標としては、 ①他大学&専門学校(クリエイター)との連携を はかり、より学生同士の交流をすすめること。 たとえば、昨年、博多どんたくでの博多女子高 校放送部との連携作業(You Tube 掲載動画撮 影&公開:昨年 5 月 3 日、4日実施)のような 他学との交流を積極的にすすめる。 ②アクティブラーニングとの関わり。 来年度の実践目標の明確化し、目標は、継続性 のある「学内ベンチャー企業」まで育てられたら、 本当の「事業型」になるであろう。 そして、最後に ③医療分野などから浸透してきている概念の「セ ルフマネジメント」をできる力「セルフブラン ディング力」などをつける力を育てないといけな いことが明確になった。  以上3点に絞って説明したが、今後も上記のこ とにも限らず、従来の問題を踏まえつつ、新たな 学生の問題点が出てきた場合の即座に対応できる ようなシステム作りが必要ではないかと思われる。

謝辞

 今回の研究ノート作成において、株式会社フラ ウの皆様のご協力を得て作成することができた。 厚く御礼申し上げたい。

参考文献

 秋吉浩志『産学連携型ゼミナール活動における キャリア形成に向けての取り組みⅡ― ソー シャルメディアを利用した「アクティブラーニ ング」への試みに向けて ―』九州情報大学研 究紀要、第巻、年。  荒井誠、野口孝文、草苅敏夫、高橋剛、 梶原秀一、千田和範、森太郎、大槻香子 『産学連携による実践型人材育成事業の成果と 今後』釧路工業高等専門学校紀要、、 年。  奥山雅則『実践的研究教育としてのインターン シ ッ プ の 取 り 組 み 』 大 阪 大 学 、 工 学 教 育 、   、、年。  河合塾『大学のアクティブラーニング調査報告 書』年度。  北岡康夫、森勇介、根岸和政『産学連携による 社会人基礎力の育成』工学、工業教育研究講演 会講演論文集、平成年度、、年。  新國三千代『社会情報学部によるプロジェクト タイプの実践型インターンシップの試み』社会 情報、巻号、、年。  末岡英利『大学教育と産学連携による人材育成  寄付講 座活動の果 たしてき た役割と これか ら 』 日 本 船 舶 海 洋 工 学 会 誌   、  、 年。  長谷博行、高橋謙三、鈴木敏男『産学連携に よる長期インターンシップの教育的効果福 井大学工学研究科における産学連携による実践 型人材育成事業』工学・工業教育研究講演会講 演論文集、年。  竹中啓之『インターンシップと大学教育』鹿児 島県立大学、商経論叢、第号、-、 年。         研究ノート         

(2)

いましたが、あまった新聞紙をトイレに置いたま まにしていました。新聞には絵や地図が載ってい ました。地図に大戦の勝利や追撃した軍艦や戦闘 機の数や場所が詳しく記載されていました。私た ちは大平洋の地理に詳しかったので、戦地はよく 分かりました。最初はパプアニューギニア、次は ガダルカナル、北上してグアムとサイパン、硫黄 島、そして沖縄。連合軍が近付いてきているとい うことを察知していました。  そしてついに数多くの%29爆撃機が長崎の上 空に見られるようになったのです。  長崎原爆が投下された日は、爆心地から6キロ 離れた香焼島で働いていました。原爆の光を見て、 その直後爆風を受け、ビルが倒壊しました。その ときドックの底にいましたが、外へ防空壕へ逃げ ている途中空を見上げた時、巨大なきのこ雲を目 の当たりにして、この火山の噴火のようなものは 一体なんだろうと、目を疑いました。  その晩、収容所に戻って捕虜同士で「あの兵器 は何だったのだろう」という話をしました。当日 外で働いていた捕虜は、一機の爆撃機が投下した、 三つのパラシュートが付いた原爆を目撃していま した。私たちは、爆撃機がそれと一緒にいくつか の焼夷弾(しょういだん)を投下し、地下の弾薬 の備蓄室の通気坑に焼夷弾が入りこんで弾薬に引 火し、連鎖的にすべての弾薬が爆発したために、 町が破壊したのだと推定しました。  たったひとつの爆弾にそんな破壊力があるとは 夢には思いませんでしたから。  原爆についていつ分かったんですか。8月15 日まで捕虜でしたか?  はい、15日まで捕虜でした。原爆のことは全 く知りませんでした。15日すぎ仲間の何人かが 香焼島から長崎市内に行った時、町はなにもかも めちゃくちゃで、燃え果てた風景を見てびっくり した、という話を聞かされました。私たちは大規 模な火事でもあったのかと思いました。なにしろ 長崎市は壊滅状態で、1/3は原爆に破壊され、 残りの2/3は火の海に飲み込まれていたからで す。長崎市の被害は大火事のためだと思いました。  そして、月日になって初めてそれが「アト ミックボンブ」というものだったということを 知りました。その日3機のアメリカのミッチェ ル%25爆撃機が捕虜収容所の上空を飛んでいた ので、私たちは毛布をまるめて、広場に1(: 6?という文字に並べました。するとその中の1 機がフォーメーションから離れてぐるっと8ター ンをして収容所を低飛行し、窓からたばこの箱を 落としました。そのチェスタフィールドのたば この箱の中に手書きのノートが入っていてこう書 いてありました:   「アメリカが爆弾を投下  戦争は終わった  国に帰りなさい」  その時はじめて原爆のことを知ったのです。 放射能について何も知らなかったので、何人もの 捕虜が食料を探すために山手の方へ出かけていた のですが、爆心地を通ったために致命的な放射線 を浴びてしまいました。  ということは、終戦と降服については知らな かった?  いいえ、知っていました。15日でしたよ。 その日ちょっと意外なことに、私たちは仕事に行 きませんでした。なんでだろうと不思議に思いま した。すると福岡第2捕虜収容所の司令官が壇上 に上がり、捕虜全員に向かって、 「日本帝国軍とアメリカの軍司令官との対話に より戦争行為を中止することを決めた」と発表し ました。彼はそういう言い方をしました。   戦争に負けたとは認めなかったのですか?  ルで数カ月過ごした後、年月に軍艦あさま 丸で長崎へ移送され、終戦まで長崎で過ごしまし た。  最初は、日本海軍のもとで捕虜になったのです が、海軍の兵隊さんはフレンドリーでいい人たち でした。でも、マカッサルに到着して日本陸軍に 引き渡されると、状況は一変しました。陸軍の扱 いは海軍とは全く違っていた‥。残酷で、機会を 見つけては私たち捕虜をひどくぶったり、殴った りしました。本当に違っていました。陸軍の兵隊 は「捕虜を苦しめろ」という教えを受けていたん ですね。  そのあと長崎へ送られたわけですが、長崎のど こに着いたのですか?  軍艦が長崎の港に到着し、そこで船を降りたあ とフェリーに乗り換えて香焼島へ送られました。 香焼島にはカワミナミ造船場があり、1万トンの 貨物船が作られていました。  そこで働いていたのですか?  ええ、毎日。20日間連続で働いて、1日の休 み。休みの日に洋服を洗ったり、破れたところを 直したりしました。  仕事の日課は何ですか?  軍を先頭に兵舎から造船場まで行進させられて、 着いたら造船場の管理者に引き渡されました。捕 虜は皆チームに分けられ、日本人の労働者と一緒 に働きました。ひとチームは5、6、7、8人で、 半分は日本人、半分は捕虜でした。チームのボス はいつも日本人でした。ボスがいい人だったらそ れほど悪くはありませんでしたが、怒りっぽいボ スに当たれば、ひどい目にあわされました。ぶつ、 殴るなどの暴行は日常茶飯事でした。  日本の軍人たちは私たち捕虜に向かって、「お 前らは降服したからクズだ、価値のない人間だ」 と 繰 り 返 し言 い まし た。 両 手 を 上げ る ジェ ス チャーをしながら、「お前らは降服したんだ。」 とね。でも仕方がなかった。私は海のまん中で捕 われて、どうすることもできなかった‥‥。一部 の軍人たちは‥、彼らの扱いは‥、つまるとこ ろ日本の軍人は私たちに優しくすることはできな かったんです。捕虜に親切にすれば、同僚が上に 報告して罰を受けることになるので、みんな捕虜 につらくあたっていました。でも一緒に働いた日 本人の中にはいい人もいて、その人たちとは仲良 く協力して働きました。  ことばは通じましたか、または通訳か英語やオ ランダ語を話せるひとはいましたか?  いや、日本語だけでした。もし分からなければ 顔に平手打ちやパンチが飛んできました。おかげ で日本語の基礎を早く覚えました!  日本語の命令やことばを覚えていますか?  もちろん!悪いことばでしょう、いつも叫んで いましたが、放送禁止用語かもしれませんのでも しそうでしたら後で編集して下さい‥‥などです。 これ貴様、バカヤロ、さぼってさぼって!  一日の食料は小さな缶詰め3個でした。朝昼晩、 長方形の小さな缶に入ったトマトソース漬けのニ シン。なにしろ三食そればかりでした。それに米 としぼりかすの混ざったものもありました。しぼ りかすは牛の飼料でしたが、本当にまずかった。 実はこの飼料はタンパク質や栄養分がお米より豊 富でよかったかもしれないのですが。 とにかくみんな栄養失調がちで、特にビタミン %とビタミン&が不足していました。  戦争が長期化するにつれて日本は苦戦している という兆候はありましたか?   はい、もちろん。トイレットペーパーなど手に 入りませんでしたから、日本兵は新聞紙を使って

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いましたが、あまった新聞紙をトイレに置いたま まにしていました。新聞には絵や地図が載ってい ました。地図に大戦の勝利や追撃した軍艦や戦闘 機の数や場所が詳しく記載されていました。私た ちは大平洋の地理に詳しかったので、戦地はよく 分かりました。最初はパプアニューギニア、次は ガダルカナル、北上してグアムとサイパン、硫黄 島、そして沖縄。連合軍が近付いてきているとい うことを察知していました。  そしてついに数多くの%29爆撃機が長崎の上 空に見られるようになったのです。  長崎原爆が投下された日は、爆心地から6キロ 離れた香焼島で働いていました。原爆の光を見て、 その直後爆風を受け、ビルが倒壊しました。その ときドックの底にいましたが、外へ防空壕へ逃げ ている途中空を見上げた時、巨大なきのこ雲を目 の当たりにして、この火山の噴火のようなものは 一体なんだろうと、目を疑いました。  その晩、収容所に戻って捕虜同士で「あの兵器 は何だったのだろう」という話をしました。当日 外で働いていた捕虜は、一機の爆撃機が投下した、 三つのパラシュートが付いた原爆を目撃していま した。私たちは、爆撃機がそれと一緒にいくつか の焼夷弾(しょういだん)を投下し、地下の弾薬 の備蓄室の通気坑に焼夷弾が入りこんで弾薬に引 火し、連鎖的にすべての弾薬が爆発したために、 町が破壊したのだと推定しました。  たったひとつの爆弾にそんな破壊力があるとは 夢には思いませんでしたから。  原爆についていつ分かったんですか。8月15 日まで捕虜でしたか?  はい、15日まで捕虜でした。原爆のことは全 く知りませんでした。15日すぎ仲間の何人かが 香焼島から長崎市内に行った時、町はなにもかも めちゃくちゃで、燃え果てた風景を見てびっくり した、という話を聞かされました。私たちは大規 模な火事でもあったのかと思いました。なにしろ 長崎市は壊滅状態で、1/3は原爆に破壊され、 残りの2/3は火の海に飲み込まれていたからで す。長崎市の被害は大火事のためだと思いました。  そして、月日になって初めてそれが「アト ミックボンブ」というものだったということを 知りました。その日3機のアメリカのミッチェ ル%25爆撃機が捕虜収容所の上空を飛んでいた ので、私たちは毛布をまるめて、広場に1(: 6?という文字に並べました。するとその中の1 機がフォーメーションから離れてぐるっと8ター ンをして収容所を低飛行し、窓からたばこの箱を 落としました。そのチェスタフィールドのたば この箱の中に手書きのノートが入っていてこう書 いてありました:   「アメリカが爆弾を投下  戦争は終わった  国に帰りなさい」  その時はじめて原爆のことを知ったのです。 放射能について何も知らなかったので、何人もの 捕虜が食料を探すために山手の方へ出かけていた のですが、爆心地を通ったために致命的な放射線 を浴びてしまいました。  ということは、終戦と降服については知らな かった?  いいえ、知っていました。15日でしたよ。 その日ちょっと意外なことに、私たちは仕事に行 きませんでした。なんでだろうと不思議に思いま した。すると福岡第2捕虜収容所の司令官が壇上 に上がり、捕虜全員に向かって、 「日本帝国軍とアメリカの軍司令官との対話に より戦争行為を中止することを決めた」と発表し ました。彼はそういう言い方をしました。   戦争に負けたとは認めなかったのですか?  ルで数カ月過ごした後、年月に軍艦あさま 丸で長崎へ移送され、終戦まで長崎で過ごしまし た。  最初は、日本海軍のもとで捕虜になったのです が、海軍の兵隊さんはフレンドリーでいい人たち でした。でも、マカッサルに到着して日本陸軍に 引き渡されると、状況は一変しました。陸軍の扱 いは海軍とは全く違っていた‥。残酷で、機会を 見つけては私たち捕虜をひどくぶったり、殴った りしました。本当に違っていました。陸軍の兵隊 は「捕虜を苦しめろ」という教えを受けていたん ですね。  そのあと長崎へ送られたわけですが、長崎のど こに着いたのですか?  軍艦が長崎の港に到着し、そこで船を降りたあ とフェリーに乗り換えて香焼島へ送られました。 香焼島にはカワミナミ造船場があり、1万トンの 貨物船が作られていました。  そこで働いていたのですか?  ええ、毎日。20日間連続で働いて、1日の休 み。休みの日に洋服を洗ったり、破れたところを 直したりしました。  仕事の日課は何ですか?  軍を先頭に兵舎から造船場まで行進させられて、 着いたら造船場の管理者に引き渡されました。捕 虜は皆チームに分けられ、日本人の労働者と一緒 に働きました。ひとチームは5、6、7、8人で、 半分は日本人、半分は捕虜でした。チームのボス はいつも日本人でした。ボスがいい人だったらそ れほど悪くはありませんでしたが、怒りっぽいボ スに当たれば、ひどい目にあわされました。ぶつ、 殴るなどの暴行は日常茶飯事でした。  日本の軍人たちは私たち捕虜に向かって、「お 前らは降服したからクズだ、価値のない人間だ」 と 繰 り 返 し言 い まし た。 両 手 を 上げ る ジェ ス チャーをしながら、「お前らは降服したんだ。」 とね。でも仕方がなかった。私は海のまん中で捕 われて、どうすることもできなかった‥‥。一部 の軍人たちは‥、彼らの扱いは‥、つまるとこ ろ日本の軍人は私たちに優しくすることはできな かったんです。捕虜に親切にすれば、同僚が上に 報告して罰を受けることになるので、みんな捕虜 につらくあたっていました。でも一緒に働いた日 本人の中にはいい人もいて、その人たちとは仲良 く協力して働きました。  ことばは通じましたか、または通訳か英語やオ ランダ語を話せるひとはいましたか?  いや、日本語だけでした。もし分からなければ 顔に平手打ちやパンチが飛んできました。おかげ で日本語の基礎を早く覚えました!  日本語の命令やことばを覚えていますか?  もちろん!悪いことばでしょう、いつも叫んで いましたが、放送禁止用語かもしれませんのでも しそうでしたら後で編集して下さい‥‥などです。 これ貴様、バカヤロ、さぼってさぼって!  一日の食料は小さな缶詰め3個でした。朝昼晩、 長方形の小さな缶に入ったトマトソース漬けのニ シン。なにしろ三食そればかりでした。それに米 としぼりかすの混ざったものもありました。しぼ りかすは牛の飼料でしたが、本当にまずかった。 実はこの飼料はタンパク質や栄養分がお米より豊 富でよかったかもしれないのですが。 とにかくみんな栄養失調がちで、特にビタミン %とビタミン&が不足していました。  戦争が長期化するにつれて日本は苦戦している という兆候はありましたか?   はい、もちろん。トイレットペーパーなど手に 入りませんでしたから、日本兵は新聞紙を使って

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>翻訳者の注釈@   1「長崎原爆の青い目の語り部」というタイトル は翻訳ではない。なお、日本語には「語り部」と いうと戦争体験を伝える人という意味があるが、 英語にはそれにあたる表現はないので、タイトル の日本語と英語の意味は多少ずれがある。 インタービューは英語で行われたが、放送は日本 のラジオ局で放送するということで、先に日本語 のタイトルが決められ、番組の宣伝や新聞の紹介 に使われた。 2 コブレット氏はオランダ生まれ、ジャワ島育ち で、戦後オーストラリアへ移住し、オーストラリ アの国籍を取得したので、二重国籍である。 3 東インド諸島は現在インドネシアである。 4 斜字フォントは聞き手(翻訳者)の言葉を示す。 5 この部分はインタービューのなかでは日本語で した。コブレット氏は意味は多少わかったが、汚 い言葉にきこえたので、放送禁止用語であると心 配していた。しかし結局本人が思ったほど汚い言 葉ではなかった。 6 当時本人は原爆の存在は理解していないので 「アトミックボンブ」をカタカナ表記にした。 7 当時、コブレット氏はシドニーのワリンガー市 の市長で1993年に広島市と長崎市を訪れた。当日 のやりとりは西日本新聞が取材し、その写真を 1999年7月23日の放送番組の紹介記事「豪人元 虜が語る被爆」に載せた。 8 第三者の話を引用したのでそれを示すために太 字・括弧をかけた。 いいえ、実際はアメリカが求めていた無条件降 服でしたが、そういう話は出ませんでした。でも、 無条件かどうかはどうでもいいことでした。突然 自由になったということに気付いて、大の男たち が、涙を流しながら抱き合った光景は忘れられま せん。  原爆投下から年が経ちますが、もちろん被爆 体験によって大きく人生が変わったと思いますが、 年を振り返ってみて、長崎、日本、または日本 人は&2895(7さんにとってどういう存在ですか?  少しづつ、日本人に対する気持ちが変わりまし たが、もっとも大きな転換は年に訪れました。 その年、長崎、広島の市長、広岡市長と元島市長 にお招きいただいて、「世界の市長の平和の集 い」に参加することとなり、それぞれの都市で 分ほどのスピーチを頼まれました。その時に、い ろんな方とお会いしましたが、その中でももっと も劇的だったのは、長崎での市長歓迎会での出会 いでした。ある新聞記者が私にひとりの日本人女 性を紹介したのです。 その女性は、私に「私は造船場で学徒動員として 働いていました」と言いました。  私たち捕虜にとっては、学徒動員は敵の子供で したが、それでも、造船場で重労働をさせられて いる小さな子供たちを見て、かわいそうに思って いました。彼女は続けてこう言いました。「捕虜 の方々が、どんなにひどい生活を強いられている か、よくわかっていました。悪条件の中、ぼろぼ ろの服を着て、天気の悪い日も重労働をさせられ ているのを見て、ずっと罪悪感を感じていました。 今日やっと謝る機会に恵まれました。申し訳ない ことをしました、すみません、すみません」そう いって、彼女は深々と頭を下げました。  それは、私の人生にとって、非常に重要な瞬間 でした。この言葉によって、残っていたわずかの 恨みはどこかへ消えていきました。彼女にしても、 「すみません」という一言で、年間も心に持ち 続けた罪悪感を消すことができたのです。私には それがわかりました。  それから彼女は、ちょっと待ってください、と いって席をはずしました。まあ、日本人だから、 おみやげかちょっとしたプレゼントでも持ってく るのだろうと思っていると、彼女はなんとも意外 なものを手にして戻ってきました。  彼女が持って来たのは、小さなお盆のうえに のったフルーツでした。桃が2つにメロンが二切 れ、それにりんごとバイナップルがやはり二切れ。 そして彼女はこう言ったのです。  「捕虜の方は、食べるものがほとんどなく、いつ もおなかをひどく空かせていたことはわかってい ました。  私の母は、いつもたっぷり多めのお弁当をつ くってくれました。食べ切れなかった分をわけて あげたかったけれど、こわくてできなかった。そ んなことをして見張りにでも見つかったら、ひど く殴られるとわかっていたから。  でも、やっとこうしてあなたと同じものを分け 合って食べられる日がきたのですね。」  あの時の感動は一生わすれません。  最後になりましたが、一言いわせていただきた いと思います。  どこへ行ってもこのメッセージを伝えています。  恨みを忘れ、自分の心に平和な気持ちを抱き、 周りの人ともその平和を享有することです。そう することで世界に平和は訪れるのです。そしてこ れが平和への唯一の道です。戦争から世界を救う 唯一の手段です。  もし再びあのような戦争が始まり、核兵器が使 われたら、まちがいなく文明は滅びます。 長崎の原爆がこのことを教えてくれたのです。

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>翻訳者の注釈@   1「長崎原爆の青い目の語り部」というタイトル は翻訳ではない。なお、日本語には「語り部」と いうと戦争体験を伝える人という意味があるが、 英語にはそれにあたる表現はないので、タイトル の日本語と英語の意味は多少ずれがある。 インタービューは英語で行われたが、放送は日本 のラジオ局で放送するということで、先に日本語 のタイトルが決められ、番組の宣伝や新聞の紹介 に使われた。 2 コブレット氏はオランダ生まれ、ジャワ島育ち で、戦後オーストラリアへ移住し、オーストラリ アの国籍を取得したので、二重国籍である。 3 東インド諸島は現在インドネシアである。 4 斜字フォントは聞き手(翻訳者)の言葉を示す。 5 この部分はインタービューのなかでは日本語で した。コブレット氏は意味は多少わかったが、汚 い言葉にきこえたので、放送禁止用語であると心 配していた。しかし結局本人が思ったほど汚い言 葉ではなかった。 6 当時本人は原爆の存在は理解していないので 「アトミックボンブ」をカタカナ表記にした。 7 当時、コブレット氏はシドニーのワリンガー市 の市長で1993年に広島市と長崎市を訪れた。当日 のやりとりは西日本新聞が取材し、その写真を 1999年7月23日の放送番組の紹介記事「豪人元 虜が語る被爆」に載せた。 8 第三者の話を引用したのでそれを示すために太 字・括弧をかけた。 いいえ、実際はアメリカが求めていた無条件降 服でしたが、そういう話は出ませんでした。でも、 無条件かどうかはどうでもいいことでした。突然 自由になったということに気付いて、大の男たち が、涙を流しながら抱き合った光景は忘れられま せん。  原爆投下から年が経ちますが、もちろん被爆 体験によって大きく人生が変わったと思いますが、 年を振り返ってみて、長崎、日本、または日本 人は&2895(7さんにとってどういう存在ですか?  少しづつ、日本人に対する気持ちが変わりまし たが、もっとも大きな転換は年に訪れました。 その年、長崎、広島の市長、広岡市長と元島市長 にお招きいただいて、「世界の市長の平和の集 い」に参加することとなり、それぞれの都市で 分ほどのスピーチを頼まれました。その時に、い ろんな方とお会いしましたが、その中でももっと も劇的だったのは、長崎での市長歓迎会での出会 いでした。ある新聞記者が私にひとりの日本人女 性を紹介したのです。 その女性は、私に「私は造船場で学徒動員として 働いていました」と言いました。  私たち捕虜にとっては、学徒動員は敵の子供で したが、それでも、造船場で重労働をさせられて いる小さな子供たちを見て、かわいそうに思って いました。彼女は続けてこう言いました。「捕虜 の方々が、どんなにひどい生活を強いられている か、よくわかっていました。悪条件の中、ぼろぼ ろの服を着て、天気の悪い日も重労働をさせられ ているのを見て、ずっと罪悪感を感じていました。 今日やっと謝る機会に恵まれました。申し訳ない ことをしました、すみません、すみません」そう いって、彼女は深々と頭を下げました。  それは、私の人生にとって、非常に重要な瞬間 でした。この言葉によって、残っていたわずかの 恨みはどこかへ消えていきました。彼女にしても、 「すみません」という一言で、年間も心に持ち 続けた罪悪感を消すことができたのです。私には それがわかりました。  それから彼女は、ちょっと待ってください、と いって席をはずしました。まあ、日本人だから、 おみやげかちょっとしたプレゼントでも持ってく るのだろうと思っていると、彼女はなんとも意外 なものを手にして戻ってきました。  彼女が持って来たのは、小さなお盆のうえに のったフルーツでした。桃が2つにメロンが二切 れ、それにりんごとバイナップルがやはり二切れ。 そして彼女はこう言ったのです。  「捕虜の方は、食べるものがほとんどなく、いつ もおなかをひどく空かせていたことはわかってい ました。  私の母は、いつもたっぷり多めのお弁当をつ くってくれました。食べ切れなかった分をわけて あげたかったけれど、こわくてできなかった。そ んなことをして見張りにでも見つかったら、ひど く殴られるとわかっていたから。  でも、やっとこうしてあなたと同じものを分け 合って食べられる日がきたのですね。」  あの時の感動は一生わすれません。  最後になりましたが、一言いわせていただきた いと思います。  どこへ行ってもこのメッセージを伝えています。  恨みを忘れ、自分の心に平和な気持ちを抱き、 周りの人ともその平和を享有することです。そう することで世界に平和は訪れるのです。そしてこ れが平和への唯一の道です。戦争から世界を救う 唯一の手段です。  もし再びあのような戦争が始まり、核兵器が使 われたら、まちがいなく文明は滅びます。 長崎の原爆がこのことを教えてくれたのです。

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ス ポ - ツ 施 設 に お け る 指 定 管 理 者

Designated manager in sports facilities

桑 野  裕 文

Hirofumi Kuwano

【 要 約】  ( 平 成 ) 年 月 の 地 方 自 治 法 の 改 正 を 受 け 、 「 指 定 管 理 者 制 度 」 が 導 入 さ れ た 。 こ の 改 正 に よ り 公 共 施 設 の 管 理 運 営 に お い て 、 地 方 公 共 団 体 及 び 地 方 公 共 団 体 の 出 資 法 人 ( 第 三 セ ク タ - ) も し く は 公 共 的 団 体 ( 社 会 福 祉 法 人 、 自 治 会 ・ 町 内 会 等 ) の み な ら ず 、 民 間 企 業 や N P O 法 人 な ど 多 様 な 事 業 者 が 参 入 で き る よ う に な っ た 。 さ ら に 旧 ・ 地 方 自 治 法  条 の に よ る 管 理 委 託 を 行 っ て き た 公 共 施 設 の 場 合 は 、 年 間 ( 経 過 措 置 ) の 間 に 指 定 管 理 者 制 度 に 移 行 す る こ と が 求 め ら れ た 。 結 果 、 公 共 施 設 の 管 理 運 営 は 、 個 別 法 の 規 定 の 範 囲 で 各 自 治 体 の 判 断 に よ り 、 団 体 で あ れ ば 法 人 の 資 格 の 有 無 に か か わ ら ず 民 間 事 業 者 か ら 市 民 団 体 ま で の 参 入 が 可 能 と な っ た 。 参 入 可 能 の 団 体 の 形 態 ・ 規 模 は 、 単 独 事 業 体 か ら 共 同 事 業 体 に 分 け ら れ 、 そ の う ち 共 同 事 業 体 が 管 理 運 営 す る 施 設 は 、 単 独 事 業 体 で は 困 難 な 大 規 模 な 施 設 や ス ポ - ツ 施 設 が 多 い 。 本 研 究 ノ - ト で は 、 地 方 自 治 体 に お け る 指 定 管 理 者 制 度 を め ぐ る 動 向 を 検 証 し つ つ 、 本 学 が 位 置 す る A 市 の 指 定 管 理 者 制 度 の 現 状 把 握 に 努 め た 。   <目次> 1.はじめに 2.指定管理者制度の現状 2-1政策マネジメントと施設マネジメント 2-2指定管理者団体の種類 2-3指定管理者の業務 2-4指定管理者の更新・継続 2-5指定管理者と共同事業体 2-6A市の現状 3.指定管理者制度の問題点  3-1指定管理者制度の問題点  3-2自治体から見た問題点  3-3指定管理者から見た問題点  3-4利用者から見た問題点  3-5PDCAサイクルから見た問題点 4.今後の指定管理者制度 5.まとめ 1.はじめに 1947(昭和 22)年施行の地方自治法では、公 共施設の管理運営は地方自治体の直営しか認めら れていなかったが、1963(昭和 38)年の同法改 正により「管理委託制度」が導入され地方自治体 の出資法人にまで拡大された。その後、2003(平 成15)年 9 月の同法改正を受け「指定管理者制 度」が導入された。この制度の導入により、経費 削減、経営効率化、住民サービスの向上などを目 的に、これまでは不可能であった民間事業者やN PO法人など多様な事業者が参入することが可能 となった。さらには、新規雇用の創出が期待され た。同制度も10数年を経過した。この間、管理 運営団体が公共団体から民間企業に代わりその後 また公共団体に戻った事例や、期間の更新により 1期目・2期目・3期目・4期目と継続して手掛 け、その間様々な仕組みを構築している事例など がある。一方、制度の問題点や課題も浮き彫りと なってきている。本研究ノ-トでは、スポ-ツ施

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○杉田委員長 ありがとうございました。.

ある架空のまちに見たてた地図があります。この地図には 10 ㎝角で区画があります。20

原則としてメール等にて,理由を明 記した上で返却いたします。内容を ご確認の上,再申込をお願いいた

○安井会長 ありがとうございました。.

○片谷審議会会長 ありがとうございました。.

学側からより、たくさんの情報 提供してほしいなあと感じて います。講議 まま に関して、うるさ すぎる学生、講議 まま