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障害者運動と法制度の現在 : 障害当事者の立ち上がりから障害者権利条約批准まで

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ご紹介いただきました DPI(障害者インターナショナ ル)日本会議の副議長をしております、尾上浩二と申し ます。よろしくお願いします。 今日は「障害者運動と法制度の現在」というテーマで、 「障害当事者の立ち上がりから障害者権利条約批准まで」 という約 40 数年という歴史について、私自身の関わりも 含めてお話をしてまいりたいというふうに思います。 私が属しております DPI という組織は、名前の通り障 害者運動の国際組織で、全世界 120 に支部がある、その 中の日本支部ですが、北海道から沖縄まで 97(2018 年 10 月現在)の障害当事者団体が加盟している、身体障害、知 的障害、精神障害、あるいは難病といった障害種別を越 えた団体のネットワークです。そういう障害当事者の活 動を軸にした形での歴史を今日これからお話したいと思 います。

■障害を持って生きてきた経験を元に

まず私自身の自己紹介をさせて頂きます。先ほど立岩 さんから、同じ 1960 年生まれだとのご紹介をいただきま したけど、私は大学に入ってすぐに障害者運動に飛び込 んだので 18 歳からずっとこんなことばっかりやってき ました。今日のような大学の講義には似つかわしくない 話ですが、学校の勉強なんかもうそっちのけで、障害者 運動ばっかりやって、今年でちょうど 40 年になります。 その 40 年の中でのトピックスをいくつかお話したいと 思います。この 40 年間、私の中では自分自身が障害を 持って生きてきた、その経験を元に、何としても社会を 変えていきたい、制度政策に反映させたいという思いで やってきたわけなのです。 私は大阪で 1960 年に生まれましたが、小さい時からあ わてん坊だったんですね。8 か月の仮死早産で生まれて しまいました。1,800 グラムぐらいというちっちゃい子ど もだったと聞いています。今だったら 1,000 グラムを切る 超未熟児というお子さんでも生きてこられるわけですな んですが、私の時代ですともう 2,000 グラムを切ったらな かなか難しい状況だったのです。すぐに市立病院に運び こまれて人工保育器に入れられました。鼻から栄養を入 れようとパイプを挿したらしいですが、小さすぎて栄養 を摂れないのですね。今も跡がありますが、喉に穴を開 けてそこからなんとか栄養を補給して生きのびたと聞い ています。なんとか生きのびたのですが、1 歳になって もつかまり立ちもしないなあということで、色んな病院 に診てもらって、大学病院で脳性マヒとの診断を受けた と聞いています。 その当時の医療状況からしたら仕方のないことかも分 かりませんが、子どもの時は、「20 歳になるまで生きの びれる可能性は 8 割、9 割ないと思ってくださいね」、と 親には言われてたらしいのです。当年とって 58 歳ですの で、20 歳どころかその 3 倍近くまで生きのびてきている わけで、「憎まれっ子世にはばかる」ということなのかな と思っています。 私の子どもの頃は障害のある子どもが保育所や幼稚園 に行くなんて到底考えられなくて、障害児の親の会が やっていた訓練事業に週何回か通って、その後、養護学 校(現在の特別支援学校)に行き、小学 5 年生からは障 害児施設に入所しました。その後、中学校から地域の学 校へ行きました。 大阪市立大学に進んだ時に、障害者運動の先輩と出会 い、以降、バリアフリー、駅のエレベーター設置とか、同 じ障害を持つ仲間の自立生活支援などに取り組んできま した。 2004 年から DPI の事務局長に選任され、全国組織の専 従として東京での活動が始まりました。2004 年ぐらいか らこの 10 年余りは障害者施策の激動の時期で忙しかっ たのですが、やりがいのある時期だったかと思います。国 のいくつかの委員会に関わって、2014 ∼ 2016 年まで内 閣府の政策企画調査官という肩書で、障害者権利条約批 准に向けた法律として作られた障害者差別解消法の施行 準備にあたりました。今は DPI の副議長と内閣府のアド 特集 2

障害者運動と法制度の現在

―障害当事者の立ち上がりから障害者権利条約批准まで

尾 上 浩 二 (認定 NPO 法人 DPI 日本会議/立命館大学生存学研究センター)

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バイザーをしております。

■障害者権利条約が求めるパラダイムシフト

これは今日お話しをする障害者権利条約の概要です (★図 1 外務省作成資料=スライド 3)。一番下のところ に、「2014 年 1 月 20 日に我が国は『障害者権利条約』の 締約国になりました。」とあります。資料の中段に、「条 約締結に先立ち、障害当事者の意見も聞きながら国内法 令の整備を推進してきました。」とあります。この「障害 当事者の意見も聞きながら…」、というところが肝心な点 です。障害当事者の意見を聞きながらつくった法律とし て、2011 年の障害者基本法改正、2012 年障害者総合支援 法、そして、2013 年に障害者差別解消法、並びに同趣旨 の障害者雇用促進法改正があります。この障害者差別解 消法が成立したから、権利条約が批准できた。障害者差 別解消法は、それだけ重要な法律なのです。 こういったプロセスが、この 2010 年の障害者制度改革 の開始から 2014 年の障害者権利条約批准までの間に あったわけです。ただ、それは、この 4、5 年急に始まっ たわけではなくて、1970 年から数えればもう半世紀近く に及ぶ取り組みがあったからだという点を看過してはな りません。 この障害者権利条約は、色々な物の見方、考え方、パ ラダイム、それを大きく変えるパラダイムシフトを求め ています。例えば天動説から地動説への転換について、今 ですと小学生でも「地球が回っている」というのは知っ ていますよね。でも、1600 年ぐらいまでは「地球が回っ ている」と言ったら裁判にかけられたわけです。でも今 の時代、だれもが地動説を知っている、いわば時代のパ ラダイムが変わったわけです。天動説から地動説への転 換と同じように、障害者問題に対する考え方、「障害とは 何か」ということに対する考え方を 180 度変えることを 求めています。 まず、障害の社会モデルへの転換です。これまでの医 学モデル、あるいは個人モデルから社会モデルへの転換 ということです。障害者が社会参加しにくい、生活がし づらい、その不利の原因を、社会のバリア、社会的障壁 との関係でとらえる捉え方です。こういう社会モデルへ の転換ということが一つ目のパラダイムシフトです。 二つ目がインクルーシブな社会への転換です。インク ルーシブという言葉は日本語に訳しにくいのですが、だ れも排除したり排除されたりしない、最初から一緒の社 会ととらえてもらったらいいと思います。障害者が区別 や排除、制限されずにありのまま受け入れられる社会と いうことです。私は大阪の人間なので、お好み焼きはい ろんな物が混ざっているから美味しいとの例えをしてい ます。いろんな多様性がある社会こそ本当の意味でのし なやかさや強さがあるのだと思います。そういうインク ルーシブな社会へ転換していこうということですね。 三つ目に、インクルーシブな社会をつくっていくため に、障害を理由とした差別をなくす。「無差別」、英語で non-discrimination です。権利条約で何度も出てくる言 葉があります、「他の者との平等」というフレーズです。 35 回ぐらい出てきます。「他の者」とは障害のない人、「障 害のない人との平等」ということなのです。障害のない 人が当たり前に享受している権利を障害者にも享受でき るようにしよう。そのためには、合理的配慮という調整 が必要な場面も出てくる。その合理的配慮をしないこと も差別ですよ、と権利条約は言っているわけです。 権利条約が国連で採択されたのは 2006 年ですが、なぜ これらのことが盛り込まれたかというと、世界中の障害 者運動のリーダーが国連に集まって、「私たち抜きに私た ちのことを決めないで!」(Nothing about us, Without us!)と粘り強く意見提起をしてきたからなのです。障害 者運動の主張がかなり取り入れられて権利条約はつくら れました。 日本では 1970 年代から、重度障害者の地域での自立生 活を目指す運動が始まります。半世紀近くに及ぶ取り組 みが目指してきたのは、地域で自立した生活を営み、共 に育ち、学び、働き、活動し、あるいは移動する。そう いったこと全てをひっくるめた、「共に生きる社会」です。 先ほど権利条約はパラダイムシフトの一つにインクルー シブな社会への転換を求めているということを言いまし た。これを障害者運動は 1970 年代からずっと言ってき た。それが国際的な規範になったのが障害者権利条約だ ととらえてもらっていいのではないかなと思います。

■戦後障害者政策と障害者運動の概要

運動の歴史に入る前に、戦後の障害者政策と障害者運 動について、日本の社会・制度は障害者にどういう態度 を取ってきたかの大枠を知ってもらうために、その概要 をお話します。 戦後から 1960 年代初頭には、傷痍軍人対策をベースに した政策が進められます。戦前は、傷痍軍人対策、すな

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わち戦争で障害者になった人だけを優遇した政策があっ たわけです。日本は敗戦国だったので、軍国主義の廃止 の一環として傷痍軍人対策も無くなる。そうすると、戦 争で障害者になった人たちが路頭に迷う状態になった。 しかし、傷痍軍人対策の復活は GHQ の占領政策との関係 でできない。それで、実質的には傷痍軍人対策を復活さ せるような形で、日本の戦後の障害者政策は始まってい きます。ですから例えば戦争で片手を失われた、失明さ れた、そういう人たちの職場復帰ということが念頭に あった。従って私のような脳性マヒとか、あるいは筋ジ ストロフィーとか、あるいは知的障害とか、そういう人 たちの政策は正直、何もなかったわけです。それが 1960 年代くらいから、いくつかの法律ができ政策が展開され てくるわけです。 1960 年代は高度経済成長の時期でした。高度経済成長 なので比較的財政的には今よりゆとりがあったはずです が。それが何に投資されたかというと、入所施設なので す。有り体に言えば、高速道路をつくるかのようにあっ ちこっちの山を切り開いて、障害者だけの居住区をつ くっていくわけですね。コロニーという名前でした。 私の住んでいた大阪では、金剛コロニーが 1970 年に開 設しています。1965 年に国の懇談会が「全国コロニー網 構想」についての答申を出しています。1960 年代からあ ちこちに障害児・者の施設がつくられていく。私が 10 歳 の時から入ることになった施設も、そういった施設整備 の一環でつくられた肢体不自由児施設でした。しかし、 「親亡き後のために」と鳴り物入りでつくられた施設です が、そこに入れられた障害者は外出もできない、様々な 制限を受ける、まさかこんな大変な生活が待っていると は思っていませんでした。これはおかしいと、いろんな 運動が巻き起こります。施設を飛び出して街に出よう、地 域で暮らそうという運動が始まっていきます。そして先 ほど立岩さんのお話にあった通り、優生保護法という法 律が 1996 年までずっと続いていたわけですが、そうした 中 1960 ∼ 70 年代、障害児殺しが頻繁に起きていた。「障 害児家庭の心中事件」とマスコミなどでは言われるので すが、障害のある子ども自身は納得して一緒に死のうと 言ってるわけではありません。私たちから見ればそれは 一方的な障害児殺人になるわけですが、そういう障害児 殺し事件があちこちで起きる。それはおかしい、それに 対する減刑ってのはおかしいじゃないか、一人の人間が 殺されたということをちゃんと社会は受けとめてほし い、という問題提起を 1970 年に神奈川青い芝の会が行い ます。 さらに優生保護法に関して言うと 1996 年に廃止され ますが、そこに至るまでの間、1973 年にはもっとひどい 形の改悪案が国会に上程されました。お腹にいる子ども に障害があると分かれば中絶してよろしいという「胎児 条項」を新設しようとした動きがありました。優生思想 を強化する形で、障害者なんて生まれて来るな、そうい う条項を盛り込もうとした時に、反対運動が起こりなん とか食い止めた。そういう障害児殺しの思想との闘いか ら障害者運動が始まり、地域での自立生活やまちづくり、 そして地域の保育所や学校へ行く、現在の言葉で言えば インクルーシブ教育、インクルーシブ保育を求める運動 が 1970 年代ぐらいから起きてきます。 国際障害者年が 1981 年にありましたが、この時に DPI が作られます。その後、日米障害者自立セミナーという 名称で、アメリカの障害者運動のリーダーを招いたセミ ナーが全国各地で開かれました。1986 年に DPI 日本会議 が結成されます。1981 年に障害当事者の国際組織として DPI ができて、その 5 年後に日本支部ができたわけです。 DPI 日本会議はその設立後、交通アクセス全国行動を毎 年全国の仲間に呼びかけて実施してきました。ある日に ちを決めて、北は北海道から沖縄まで一斉に集団で電車 に乗ったり、バスに乗ったり。そのことによってバリア の存在を社会に可視化しよう、という活動をやりました。 その結果、大阪や兵庫でバリアフリー条例ができました。 私自身、大阪のバリアフリー条例をつくる運動の事務局 長として中心的に進めました。2000 年に交通バリアフ リー法ができ、さらに 2002 年には DPI 世界会議が札幌 で開催され、世界各国から 3,000 名の参加を得て成功裏に 終えることができました。 2000 年代というのは障害者の地域生活に関する介護 サービスなどの闘いと、障害者権利条約に関する取り組 みの二つが軸になって進んでいきました。2002 年に国連 で権利条約の特別委員会ができて、毎回毎回、日本から もたくさん参加をいたしました。一方、2003 年には、重 度障害があっても月 125 時間まで、すなわち一日 4 時間 までしか介護サービスは認めないという方針を厚生労働 省が出そうとして大騒ぎになりました。私も毎日いまし たけども、2 週間、厚生労働省の建物を取り囲むという、 ホームヘルプ上限問題に反対する闘いがありました。そ の後、「介護保険の統合」や「障害者自立支援法」反対の 運動など、色々な形で 10 年以上にわたってこの闘いを

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やってきたのが一つの軸です。もう一つが 2006 年の権利 条約の採択以降、国内でこれを批准させるための取り組 みをずっとやってきました。それらが合流するような形 で、2010 年代から権利条約批准に向けた障害者制度改革 が始まるわけです。先ほど申しました通り、障障害者基 本法改正や障害者差別解消法が制定され、2014 年に権利 条約が批准されるという経過をたどります。権利条約の 批准に向けた法制度ということだと 2010 年からのほん の 4、5 年の動きに見えるかも分かりませんが、そこに至 るまでの延々とした闘いがある。そうしたプロセスの最 後の 4、5 年と捉えてもらえればいいなと思います。

■社会モデルと DPI の特徴

権利条約で社会モデルが採用されたと話しましたが、 その社会モデルをいち早く提唱したのが DPI なのです ね。「問題は私たちの心身の状態ではなくて社会や環境の 側にある」と捉える社会モデルの考えで、障害者問題に 取り組んできた。この社会モデルはイギリスの障害学が 発祥なのですね。こちらの立命館におられる長瀬修さん が著作でそのことについて紹介されています。 DPI の特徴の一つ目は当事者主体ということです。DPI は医者や教師、そういう専門家といわれる人たちが私た ちの人生を決めるのではなくて、私たち障害者自身が決 めるという当事者主体という考え方に立っています。二 つ目は、クロスディスアビリティです。社会の障壁を無 くしていくためには、障害種別を越えて取り組んでいく。 三つ目は、社会モデルです。社会モデルということは、障 害者問題を人権問題として取り組んでいくということで もあります。

■医学モデルに基づく入所施設を原体験として

ここから私自身の目から見た障害者運動の歴史につい てお話をしたいと思います。 先ほどお話した通り、私は子どもの時から障害を持っ て生まれ育ちました。小学校は養護学校、施設で過ごし たのですが、その時に過ごした入所施設での体験、その 時に理不尽に感じたできごとが障害者運動を 40 年間続 けてきた原動力だと思います。私は小学校 5 年からその 施設に入ることになりました。優生保護法や強制不妊手 術ときくと、なんとおどろおどろしい、なんとひどいこ とをと思われるかもわかりません。でも、率直にいえば、 その優生思想につながる考え方は、日本の社会の結構す みずみに蔓延していました。障害児者の施設は障害を治 すためだったらどんな苦労や犠牲も甘んじて受けなけれ ばならない。そういう考え方が支配をしていたように思 われます。 私が入った施設は特にひどい施設というわけではなく て、私がこれからお話をすることは同世代の障害者だっ たら、だいたい同じような経験をしています。私は子ど もの時から本が好きでしたが、私が入ることになった施 設は、当時、お盆とお正月と春休み、年 3 回ぐらい、4、 5 日家に帰れるぐらいでした。大阪市内の交通の便がい い所にあるのですが、一歩も施設から出られないので、自 分の好きな本も買いにも行けない。それで、自分の好き な本を 4、50 冊段ボールに詰めて持って行こうとしたの ですが、「私物は持ち込めません」ということで持って帰 らされた。親が持って帰った。「そうか、ここは自分の宝 物のような本も持ち込めないんだな」と思いました。さ らに、その施設のベッドサイドに、病院のベッドサイド に、上にテレビがあって下にロッカーがあるようなワゴ ンテーブルがありますね。それと同じようなものがある。 そこのロッカーに着替えを整理しようと開けて、びっく りしました。上着からパンツ、靴下に至るまで、結構大 きいマジックで、「51 番尾上浩二」と書かれているので す。「ああ、そうか、ここにいると 51 番なのか」と思い ました。「51 番」と番号で呼ばれたことはさすがにない ですけれども、わざわざ 51 番と大きく書いている。「51 番尾上浩二」、そのことはずっと忘れられない記憶となっ ています。 施設について、優生思想との関係で言うと、私は 2 年 間施設にいたのですが、その間に合計 8 ヵ所手術をしま した。両腰、両膝、アキレス伳と、8 ヵ所手術をしまし た。手術をすればするほど、歩けなくなりました。私た ちより 15 年ぐらい後の世代では私の受けさせられたよ うな手術はしないのです。つまり私たちの世代は頻繁に 手術をされて、この手術をすればかえって障害が重くな るということが分かって、その 15 年後ぐらいからはしな くなってるんですね。私たちが施設に入る時に、親は念 書を取られています。「入所期間中の医療行為その他一切 の行為の責任は問いません」という一筆を入れて入所を する。だから 1 回 1 回手術の時に、どういった手術でど ういう副作用があるか、そういった説明を受けた覚えが ない。毎週水曜日が回診日でしたが、私はその日が大嫌 いでした。水曜日の午前中、ベッドにみんな下着だけで 待たされるのですね。ガラガラガラとワゴンが引っ張ら れて来て、ピタッと止まれば、次の週には手術台送りに

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なる。今、ペラペラしゃべっている私などは、よほど抵 抗したのではと思われるかも分かりませんが、そうでは ありません。そういう環境で唯一できるのは、「ワゴンよ、 自分のベッドの前で止まらないでくれ」と祈るだけなの です。その時の無力感はたまりません。他人によって自 分の身体をコントロールされる、切り刻まれるわけです。 その時のどうしようもない無力感は、今思い出してもヒ リヒリします。医学モデルというのは、こういう問題を 現実にもたらしてきたわけです。「医学モデルから社会モ デル」というのは単に観念的に、偉い学者がこねくり回 して作った言葉ではなくて、こんな医学モデルで支配さ れる世界を我々は変えなければいけないとした障害者運 動の主張を、理論的に整理したのが社会モデルであると 思うのです。 優生思想の怖さというのは、「こいつを虐めてやろう」 と思ってやってるんじゃないところに逆に怖さがある。 私が施設に入ったのは小学校 5 年でしたが、小学校低学 年や就学前の子どもいるわけです。幼児の部屋からは、毎 晩、「お母ちゃん、帰りたい!」との泣き声が聞こえてく るのです。その時に看護師たちは、「訓練頑張って、手術 頑張って、歩けるようになったら、出られるからね」と 励ますわけです。でも、実は歩けるようになることない んです。看護師は悪意なく励ますつもりだけども、それ は「障害がある限りは一生出られないない」ということ を結果として言ってるのですね。優生思想の怖さという のは、こういう点にあるのです。「何々できるようになっ たら、障害が治ったら何とかなるから…」という考え方 がやっぱり、怖いのですね。 私のいた施設の中で、障害児だけが集められた環境は やっぱり子供の成長に良くないと思うスタッフが何人か いてて、その彼らの支えがあって、中学校から地域の学 校へ行くことになりました。今でこそ大阪は共に学び育 つ教育が盛んな地域としてて知られていますが、私の中 学時代は、地域の学校への就学運動が始まる前でした。入 学する時に「念書」を取られました。「階段の手すりなど 設備は求めません、先生の手は借りません、周りの生徒 の手は借りません」、この 3 つを約束するんだったら入れ てあげましょう、と本当にそう言われました。納得して いたわけではないですが、サインをしないと入れてもら えないので、母親がサインをして、何とか入学が認めら れました。

■ある自立障害者との出会いから

そういう状況の中で、特に高校生の時は色々な悩みか ら小説や哲学の本を読み漁ったりしましたが、悩みは深 くなるばかりでした。そんな中、大学に入って障害者運 動の先輩たちと出会うことになったのですね。私にとっ て何人もの影響を受けた人がいます。その中の一人に、坂 本博章さんという方がいました。もう 10 年ほど前に亡く なられた方ですが、その彼は重度の脳性まひのため上肢、 下肢、全身に障害があり、全面介護が必要でしたが、ア パートを借りて自立生活をしていました。彼は煙草を 1 日 2 箱ぐらい吸うヘビースモーカーで、「障害者と語ろう 会」という企画で 1 時間ぐらいしゃべっている間に、10 分ごとに「おい煙草!」と言って介護者の手を借りて、く わえ煙草をするんですね。それを見て驚きました。私は 施設にいて慣れていたから、自分より重度の障害者を見 て驚いたわけではないのです。18 歳で初々しかったので すね。「煙草吸うんや ? !」と一瞬思ったのですね。別に 障害者だから煙草吸ってはいけないという倫理観は持ち 合わせていませんが、なぜ驚いたのかと思ったら、「あ、 人の手を借りて煙草吸ってるんだ」、そこに驚いたので す。 これが、例えば食事やトイレだったら特に驚かなかっ たと思うのですね。「わざわざ人の手を借りて煙草を吸 う」、これが自分にとっての障害者の自立生活の原風景な のですね。つまり、自分が子どもの時代、周囲から「自 立しなさい」と言われ続けてきた。しかし、その自立は、 「自分で身の回りのことをできるようになりなさい、自分 で着替えができるようになりなさい、自分でおトイレで きるようになりなさい」、すなわち「人の手を借りないこ と」が自立だったのです。でも、そうではなくて、必要 であれば人の手を借りて、支援を得ながら自立する、そ れが自立なんだ、というのを、このくわえ煙草の姿で示 してくれたのが坂本さんだったなと思うのです。 その坂本さん達との出会いがきっかけで、障害者運動 にのめり込むことになります。私が、大学に入学した当 時は、障害児教育をめぐってすごい大論争があり、運動 が盛り上がっていた時でした。私たちは、障害があって も地域の学校に行けるようにすべきだという立場で、 ずっと取り組んできました。1978 年 4 月に大阪市立大に 入って、5 月に「今度大阪市の教育委員会と交渉するか ら 1 回参加してみろ」と坂本さんに誘われて、初めて交 渉事に参加をしました。交渉の折り合いがつかず、「この

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まま座り込むぞ」と言って、いきなり 20 時まで座り込み だったのですね。びっくりしましたけどもね。その頃ま だ携帯電話とかなかったですからね。高校時代の友だち と夜の 6 時に待ち合わせしていて、「待ち合わせに遅れ る!何時に座り込みは終わるんですか?」「そんなこと分 からへんわ!」と言って叱られた。それが初めての交渉 体験でした。そういう疾風怒涛みたいな感じで、私の運 動生活は始まりました。他にも大阪市交通局地下鉄のエ レベーター設置交渉などにも参加しました。 その坂本さんが、怒り上戸、絡み上戸で、普段はすご く愛想がよく、会議とかが終わったら「今日家に泊まっ て、飯食って帰れ」としばしば誘ってくれました。最初 は楽しくご版を食べるのですが、お酒が進んでくると目 がすわってね。「おい、尾上、お前は障害者としての開き 直りが足らん!」と言うのです。「足らんと言われてもな …。何でですか?」「犬も歩けば棒にあたるっていう言葉 知ってるやろ。障害者が、街に出れば、差別が向こうか らやってくるんや」と言うわけです。つまり、差別が向 こうからやってきた時に、「障害者としての開き直り方が 足らんかったら負けてまうぞ」と言われたのですね。そ の当時、社会モデルという言葉はなかったですよ。でも、 車いすで地下鉄に乗ろうと思うと、階段だらけだったり 駅員にすごく嫌な顔をされたりと言ったことが日常茶飯 でした。日常的に社会の壁にぶつかっていたわけです。そ のことで直感的に社会モデルをつかんでいたのだと思い ます。障害者が街に出れば差別がやって来るというのは 真理だと思いました。この、「障害者が街に出れば差別が やってくる」ということをもじって、『障害者が街を歩け ば差別に当たる ―当事者が作る差別解消ガイドライ ン』という本を、2017 年に DPI の編集で出しました。私 にとっては 40 年間、坂本さんに教えられてやってきた運 動に少し、ちょっと報いることができたかなとか思って います。 一方、いろいろな交渉の端っこで、記録係みたいな役 割につきます。それで、全国各地に知りあいができてき たりします。もともと私は哲学、認識論や美学とか、そ ういう方面に関心があったので、制度とかは苦手だった のです。にも関わらず書記係が回ってきたのには、当時 の状況があります。その時代、行政交渉では当時の行政 官は、言語障害のある障害者の声なんてまともに聞こう としない。「この人何て言ってるのですか。だれか通訳し てください」みたいな、言い方を平気でする。障害者の 生の声を聞こうとしない。だから交渉が始まると、介護 者を全部出してしまうのですね。自分たちの声を直接聞 かせるためです。ところが、全身に障害があったら、誰 も筆記係がいないのですよ。それで、一応、脳性まひ特 有の金釘文字だけれども何とか筆記ができる尾上に役割 が回ってきたわけです。それで、19 歳くらいから書記係 を続けている内に、制度にも多少は詳しくなっていった わけです。

■障害者実態調査への参加を通して

私自身、障害者運動を一生の仕事にしようと思ったの は、20 歳を過ぎた頃でした。生活要求一斉調査という、 大阪青い芝の会で取り組んでいた活動に参加したのが きっかけです。障害者の生活実態を障害者自身が調査を して明らかにしていこう取り組みでした。その中であら ためて施設や在宅にいる障害者の実態に触れる機会があ りました。養護学校や施設時代の名簿をもとに訪問して いくわけです。1980 年ですと、まだ座敷牢というか、家 の奥に障害者が隠されていたことが結構あった。「誰々君 いますか?」「いやそんな子いません」と言われるんです ね。「僕、養護学校の時の後輩なんですけど」「いやそん な子いません」でも、玄関からのぞくと奥に寝転がって る足先が見えるのですね。それで、3 度、4 度通ってやっ と会わせてもらえる。何度か通ってようやく、「こいつら、 のぞき見にきたんじゃないな、ちゃんと真剣に向き合お うとしてるんだな」、と思って会わせてくれたのですね。 訪問した中に、中学校から養護学校の中等部を途中で 辞めて就学免除で、親ひとり子ひとりで暮らしていた父 子家庭のお宅がありました。いろんな分野ごとの質問項 目があって、4、5 回行った時に交通のことについて聞か せてもらいました。当時エレベーターも何もない状況で した。それで、「なかなか外に出るって大変ですよね」「う ん。大変やなぁ」と、そのお父さんが言うのですね。「月 に何回か出られます?」「うーんなかなか大変やから、せ いぜい月に 1、2 回出たらええとこやわ」「そうですか、ち なみにどこまで行かれるのですか?」と尋ねたところ、 「ああそやなあ、大和高田までや」と答えられました。 そのお家は、堺にあったから、堺から天王寺に当時の 国鉄で出て、乗り換えて行くのだと私は受け取りました。 それで「そうですねえ。乗り換え大変ですよね」「いやい や違う、大和高田より先に行ったらその日のうちに帰ら れへんやろ」「へ?」…よく聞いたら、その親子からする と車いすで電車に乗るという発想すら持てないぐらいバ

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リアだらけな状況で、歩いて帰れる範囲ということで、大 和高田まで片道 5 時間ぐらいかけて行って帰るというこ とだったわけです。さすがに、この話を聞いた時に、こ ういう状況を変えるために自分たちの運動はあると思っ たのですね。 あまりにも無権利な状態にあれば、声を上げることす らできなくなってしまうのです。この親子にとってみれ ば、そもそも、もうバリアだらけの状況だから、電車で 移動するという発想すら奪われるのですね。今で言うエ ンパワメントの重要性に通じることです。それだけ抑圧 されている状況から当事者が立ち上がるためには、そこ に至るまでのプロセスが大切だということで、エンパワ メントという言葉が出てきたのだと思います。私は、こ のことをきっかけに障害者運動を一生の仕事にしようと 思ったわけです。 運動専従として活動に従事し始めますが、別に団体か らお金をもらっているわけではありません。当時の障害 者団体は本当にお金がない、今でもあるわけではないで すけど、関西で言う文化住宅、6 畳 +4 畳半の木造アパー トを、事務所として借りるので精いっぱいな状態だった わけです。一応専従と言っても、どこからか給料が出る わけではないから、テープ起こしをして生活の糧を得な がら活動をしていました。私と立岩さんとの間には 1960 年生まれという年齢以外に、もう一つ共通項があるので す。親指シフトユーザーということです。親指シフトは ワープロ時代に流行った、今では絶滅危惧種といわれる 入力方式ですが、結構早く入力できます。テープ起こし でお金を稼がないといけないので習得したのですね。 1980 年代、テープ起こしをしながら、一方で大阪市交渉 の事務方をやったりして、介護の制度を作ったり、交通 バリアフリーの運動をやったりしていました。

■差別禁止法、バリアフリー法、介護

∼様々な課題に

もう一つ、忘れられない出会いを紹介します。1980 年 ∼ 83 年にかけて国際的な障害者運動のリーダーが相次 いで来日したんですね。アメリカで自立生活運動の父と 言われたエド・ロバーツ、彼と一緒に世界で初めての自 立生活センターを立ち上げたジュディ・ヒューマン、そ して、その後を継いで自立生活センターを発展させたマ イケル・ウィンターといった人たちです。彼らの講演を 聞いて、私は初めて障害者差別禁止法のことを知ったの です。障害者差別禁止法というと、1990 年の ADA(障 害を持つアメリカ人法)がよく知られています。でも、 ADA も突然できたわけではなくて、その前身に、アメリ カのリハビリテーション法の 504 条項、「連邦政府から公 的資金を得ている機関においては、障害を理由にした差 別をしてはならない」という差別禁止条項が 1973 年にで きているのです。彼らが持って来たスライドの中に、リ フト付きのバスの写真がありびっくりしました。今です と珍しくありません。今日もこのキャンパスに来るのに も京都駅から京都市バスのノンステップバスに乗って やってきました。しかし、今から 25 年くらい前までは、 バリアフリーなタイプの路線バスは日本には 1 台もな かったのです。ですから 1981 年にリフト付きバスを見た 時はビックリしました。当時の日本はバリアフリーのバ ス車両はなく、乗車拒否が当たり前の時代でした。でも、 アメリカでは乗車拒否どころかリフトが展開して車いす での乗降をアシストしてくれる。この差は何なのだと思 いました。さらに、彼らの説明では、その背景に差別禁 止の法理がある。リハビリテーション法 504 条項では、 「連邦政府から公的資金を得ている機関で、障害を理由に した差別をしてはならない」とある。公共交通機関には 公的な資金が入っています。つまり、障害者が使えない バスを走らせるのは差別だ、差別禁止でこのバスが走っ たのだということでした。やはり、私たち障害者が乗れ ないことは、差別なのだな、恩恵でも何でもない。他の 人が使えているのに我々が使えないのは差別だ。こうい う差別禁止の法理に出会ったのがこの時初めてでした。 他にも色々な方々との出会いがありました。その内の お一人が定藤丈弘さんで、大阪府立大学の先生を務めら れた、ご自身頸椎損傷の障害で車いす生活をされていた 方です。また、私と 30 年以上にわたって一緒に運動し DPI 日本会議の議長を務めた三澤了さんなどとの出会い の中で、運動を進めてきました。 1990 年代にはバリアフリー運動、もう一つは自立生活 センターが広がっていきます。1990 年にアメリカで ADA が制定される。世界初の障害者差別禁止法ができたこと をきっかけにして、日本でもバリアフリーを進めようと 取り組みを始めるわけです。全国で集団乗車やバリア チェックの行動を呼びかけるのと合わせて、全国各地で バリアフリー条例制定の機運を高めていきました。私は 大阪府の条例制定運動の事務局長になりました。牧口 一二さんが代表、楠敏雄さんが副代表という体制で、色々

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な取り組みをして、全国初のバリアフリー条例ができま した。こうした運動を進めていた 1990 年代にはエレベー ターはほとんどなく、長いエスカレーターを人手で斜め になって上がったり下りたりするんですね。本当に怖い んです。エスカレーターって最初はフラットでしょ、だ んだん傾いていき奈落の底に落ちるんじゃないかといっ た恐怖が伴います。エスカレーターを使ったり、人手で 階段を担ぎ上げてもらったりして、どれだけ今の駅やま ちが、私たち障害者を排除した構造になっているか、バ リアがあるか、それを社会に知ってもらう、可視化する 取り組みをしてきたのです。1990 年から 2000 年まで 10 年間、バリアフリーを求める行動を続けた結果、2000 年 にバリアフリー法ができました。 一方、自立生活センターに関しては、私は自立生活セ ンター・ナビという障害を持つ仲間の自立支援をするセ ンターを立ち上げて活動をしてきました。平行して全身 性障害者介護人派遣事業という重度の障害者が地域で暮 らせるための介護制度を大阪市でつくり、派遣時間数を 増やしていく運動をやりました。 2002 年に DPI の第 6 回世界会議を札幌で開催し、よう やく一段落と思ったところに、ホームヘルプ上限問題が 起きたりで、障害者運動には終わりがないことを、我が 身を持って知りました。先ほども言いましたが、ホーム ヘルプの上限問題、介護保険との統合問題に対する反対 運動がずっと取り組まれてきたのです。 2002 年の DPI 世界会議札幌大会では全世界から 3,000 人の参加者を得て、非常に高い評価を頂きました。その 3 ヶ月後、2003 年 1 月、正月明けに、まさか厚労省のロ ビーで座り込みしてるとは予想もしませんでした。 ホームヘルプ上限問題が大きな問題になったのも、手 のひら返しとも言うべき厚労省の対応があったからで す。障害分野ではどんなに重度の障害があっても地域で 暮らせるようにすることが基本方向だ。これは長年の運 動の結果、1990 年代初頭から政府も言い出すようになっ てきました。ところが 2003 年から支援費が始まる。しか し、十分な予算を確保していなかったから、予算が足り なくなる。だから、ホームヘルプの派遣時間について 1 日 4 時間を上限とするとの方針を厚労省は打ち出したの です。そうすると、ようやく施設や親元離れて自立して いた障害者が、再び施設生活に戻らなければならなくな る。明日からの介護が得られず生活できなくなる状態に なるから、もう皆命がけです。文字通り命がけの闘いが 始まったのですね。連日、夜中の 10 時まで毎晩座り込み をしました。1 月 8 日から 24 日ぐらいまでなので、雪や 雹も降ってきました。その 2 週間に及ぶ座り込みでホー ムヘルプの上限は何とか撤回されたわけです。 この時に撤回されていなかったら、多くの人がもう 1 回自立生活を断念せざるを得なかった。そこまではいっ たん押し戻したのですが、2004 年になって再び「介護保 険との統合問題」が出て来た。それで、「介護保険統合反 対!」を掲げて、連日、集会とデモを展開しました。身 体障害のみならず、知的障害や精神障害など、障害種別 を越えた仲間が参加してくれました。さらに 2004 年 10 月には台風直撃の天候にも関わらず、開催したデモ行進 には 2000 人も参加しました。その時に参加した人工呼吸 器をつけた女性は、「この闘いは私たちの命に関わってい ますから、ここで負けたら私たちは地域で生きられなく なるんです。」とアピールされ、大きな感銘を呼び起こし ました。 その後も、「障害者自立支援法」と一見良さそうな名前 ですが、その実は介護保険に統合しやすくするために、コ ンピュータ判定や応益負担を障害者分野に持ち込んだ法 律が進められようとして、反対運動がさらに広がります。 ホームヘルプ上限問題から介護保険統合問題、「障害者 自立支援法」をテーマにした一連の闘いを 2009 年まで やってきたわけです。

■幻の批准事件と障害者制度改革

一方で、国連の特別委員会への傍聴団の派遣など、障 害者権利条約に対する取り組みがあり、他方で障害者の 地域生活支援に関する闘いを 10 年間やってきました。そ の二つが合流する形で、障害者制度改革が始まるわけで す。障害者制度改革推進会議が 2010 年 1 月に設置されま した。 障害者権利条約は 2014 年に批准されましたが、2009 年 に一度、「幻の批准事件」があったのです。「障害者基本 法を一部手直しすることで、障害者権利条約は批准でき る」という政府の解釈で、水面下で批准の動きがあった のですね。「日本では障害者差別を禁止する法律は全然な い。差別禁止法を制定した上で、批准をしてほしい」と いうのが、障害者運動の立場でした。 2009 年 3 月にある政党のヒヤリングにお招きを頂きま した。「かねてから申し上げている通り、まずは障害者基 本法を改正し、障害者差別禁止法を制定した上で、権利 条約批准をしていただきたい」と意見陳述しました。会 議終了後、座長を務めておられた方が私の席までやって

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来られて、「尾上さん聞いてないですか?」「何がです か?」「外務省が説明に来て、この 3 月に閣議決定をして、 今国会で権利条約を批准したいというので、もちろん権 利条約の批准は大事なことだけど障害者団体に評価され ないとダメと釘を刺した。障害者団体にちゃんと説明に 行ってくださいよと指示しました」と言われました。障 害者団体に何ら説明していないことが分かると、その議 員が慌てて部屋を飛び出して、別の部屋でやっていた会 議に乗り込んでストップをかけたという顛末がありまし た。もし、そこで止まっていなかったら、2009 年 6 月ぐ らいには批准し、差別解消法の姿もない、そういう可能 性があった。そういうタイミングに私は居合わせたわけ です。本当にギリギリ、首の皮一枚でつながった。 そこから 2010 年障害者制度改革推進会議が発足し、そ の下で障害者基本法の改正、そして障害者差別解消法な どを経て、2014 年の 1 月に条約批准に至ったわけです。 2011 年の障害者基本法改正(★図 2 内閣府作成資料= スライド 21)では、「障害の有無によって分け隔てられ ることのない共生社会」という、権利条約が求めている 「インクルーシブな社会」が、その目的に謳われた。そし て、障害者の定義に、「障害及び社会的障壁により日常生 活・社会生活に制限を受けている人」といった社会モデ ルの考え方が採り入れられました。 2011 年に障害者総合支援法(★図 3 厚生労働省作成資 料=スライド 22)が成立し、さらに 2013 年障害者差別 解消法(★図 4 内閣府作成資料=スライド 23)ができた。 特に障害者差別解消法は権利条約批准にどうしても不可 欠な法律だったと私たちは思っているわけです。 2013 年 6 月 19 日、障害者差別解消法の採決の瞬間に 立ち会いましたが、「投票総数 206、賛成 206、反対 0。以 上、全会一致をもってこの法律が決したことをここに報 告します」と参議院議長が報告された時は本当に嬉し かったですね。 2013 年 6 月にこの法律が成立したのを一緒に見届けた DPI 議長(当時)の三澤は、その 3 ヶ月後に亡くなった のです。障害者差別解消法を見届けるようにして彼は 逝ったということなのです。障害者制度改革で、色々な 法律が成立したけれども、それらの法律をつくるために どれだけの障害者が人生をかけてきたか、闘い取ってき た、何とかもぎ取ってきたというのが実感です。 障害者差別解消法の制定を受けて 2014 年 1 月 20 日に 権利条約の批准ができた。障害者制度改革でできた法律 そのものが、権利条約の基本精神である、 Nothing about

us, Without us! 「私たち抜きに私たちのことを決めない で!」、というプロセスだった、ということを確認してお きたいと思います。

■インクルージョンと相模原事件・優生思想

最後にまとめの話をします。 これは障害者権利条約がどんな社会を目指しているか ということを分かりやすくまとめた図(★図 5 一木玲子 提供資料=スライド 24)です。権利条約の理解のために フランス政府がつくった資料です。インクルーシブ教育 を研究されている一木玲子さんから頂いたものですが、 権利条約が目指す社会のイメージがとても分かりやすく 示されています。 権利条約が目指しているのはこの右下のインクルー ジョンの図になります。一つの大きな円、すなわち一つ の社会の中で、車いすの人、伺をついている人、そうじゃ ない人、男性、女性、性的な多様性のある人、右を向い てる人、左を向いてる人、色々な人がいることが分かり ます。色々な人がごちゃまぜにいる。これが権利条約が 目指す社会のイメージです。 こういうインクルーシブな社会への転換を要請する権 利条約に日本も批准し、差別解消法も 2016 年 4 月に施行 された。でも、差別解消法を施行して 3 カ月後に、イン クルージョンとは真逆な出来事が日本で起きてしまっ た。2016 年 7 月 26 日に神奈川県・相模原で障害者殺傷 事件が起きました。「障害者は不幸しかつくらない、障害 者なんか社会からいなくなればいい」と容疑者は主張し ていると言います。インクルージョンと対極のエクスク ルージョン、排除を目的として起こされた事件だと思い ます。フランス政府の資料の左上の図に表されています。 このエクスクルージョン・排除という本質を見誤ってし まうと、「施設を元通り建て替えてあげたらいいじゃない か」と、そんなとんでもない話にどんどんなっていって しまうのです。 日本の社会は、「障害のある人とない人を分けること」、 フランス政府の資料で言うと右上のセグリゲーション、 隔離や分離に慣れ親しんできた社会、さらに言えば、現 在進行形においても慣れ親しんでいる社会と言えます。 障害のある人、ない人、障害のある子どもとない子ども が、別々に学ぶ、別々に働く、別々に暮らす。そのこと に日本の社会自身が慣れ親しんでしまっている。本当は 分けるのではなくて、最初から一緒に、ごちゃまぜにい るインクルージョンにしていかなければなりません。し

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かし、日本の現在の障害者施策というのは、セグリゲー ションとインテグレーションの間をうろちょろしたとこ ろにある。セグリゲーションとインテグレーションの両 方をミックスしたような仕組みが、現在の日本の障害者 政策の特徴として指摘できます。フランス政府資料の左 下の図を見て頂くとインテグレーション、統合というの は、一見すると一つの円の中にいるように見えるけれど も、分けた上での統合なので、やはり見えないベールが できてしまうのですね。一つの円の中にあるように見え て、障害のある人だけ見えないベールに囲まれた状態に 置かれてしまうのです。 相模原の事件が起きた後、「大変悲惨な事件が起きた、 だからこそ事件に屈しないために、160 名規模の施設を 建て替える」との方針を神奈川県は示しました。それは、 実質的な意味合いで言うと、「セグリゲーションに戻す」 と言っていることになります。その後、障害当事者から の強い反対の意見もあり、神奈川県も方針を変えていき ましたが、「エクスクルージョンに対抗するためにはイン クルージョンでないといけない」ということ分かってい なかったのが、神奈川県の最初の誤りだったのだろうな と思います。 事件そのものの衝撃は言うまでもありませんが、その 後の社会の対応をみると、まだまだ日本の社会はインク ルージョンではない、いつでもセグリゲーションに戻っ てしまうのだなと思うことがありました。「障害者の世界 で起きた事件」との矮小化した見方がされた上で、すぐ に忘れられていってしまいました。年末のテレビ番組の 「今年の 10 大ニュース」の中ですらこの事件が振り返ら れることがなかったですね。東京新聞などが取り上げた ぐらいだったのではないかと思います。「風化」というか、 何ごとも大したことはなかったかのような社会の反応の 一方、私をはじめ障害当事者や関係者は一生忘れること のできない衝撃と傷跡が残っている。この落差は何なの だろうと思わずにはいられません。 さらに、「薬物依存、あるいは精神障害を持っている人 がやったのだ」という偏見を るようにして、措置入院 を強化する法案が上程されたり、あるいは施設を外から 出入りしかねない防犯対策が打ち出されたりと、「障害者 排除」を目指した容疑者の意図に沿って、社会がセグリ ゲーション、 隔離の方向に進んでいるような感がありま す。 この事件の捉え方について、忘れられないことがあり ます。あるマスコミの記者が事件後電話をかけて、質問 をしてきました。「知的障害の方と精神障害の人権を両立 させるのは難しいですね、尾上さんはどうお考えですか」 と尋ねるのです。最初、質問の意味が分かりませんでし た。その記者の捉え方は、「入所施設で平穏に暮らしてい た知的障害者を、精神障害の疑いがある人が殺めたとい う事件」ということでした。 私は、「全く的外れな捉え方です。これは優生思想に基 づく事件です。優生思想が一番の問題です」と強く反論 しました。その記者の捉え方からすれば、その入所施設 に障害者が多数暮らしていたのか、暮らさざるを得な かったのか、そこに全然想像力が働いていないわけです。 さらに、匿名報道になりましたが、障害者の名前を出せ ば色んな差別にあうという、地域の差別、排除する力は 厳然としてあるということの証左です。 差別解消法ができていい気になったわけではありませ んが、40 年間運動を続けて少しずつは社会は変わってき たかなとの思いもあったわけですが、相模原事件で全否 定された、打ちのめされるような感覚におそわれました。 一皮剥いた時の実相、社会の根底はどこまで変わって来 たのだろうか、そういう思いに囚われました。 相模原事件での優生思想の問題、あるいはその前提に ある貧弱な障害者観がとても大きな問題です。容疑者が 犯行計画を記した衆議院議長宛の手紙の中には、「車いす に縛りつけられて一生暮らすしかない存在」と書かれて いる。私も今は二次障害が重くなり、寝る時以外はほと んど丸一日、14 時間車いすの上で生活しています。それ で不幸だとはこれっぽちも思っていません。そうではな くて、入所施設の中で、車いすに移乗させて最低限の介 護しかしない中で暮らす、そんなことが常態化していた のではないかとの疑念が生じます。容疑者は障害者とど んな出会い方をしたのか、どういう様子を見ていたのか と思わずにはおれません。 さらに最近、「我が事丸ごと地域共生社会」といったこ とを厚労省が打ち出し、官民上げて「住民も一緒に地域 共生社会を創りましょう」といったことがブームのよう に進められています。しかし、そのためにはこれまでの 歴史を反省、総括してもらわないとダメだというのが私 たち障害当事者の立場、思いです。 官民一体となった取り組みについて、障害者にはいい 思い出はないのです。優生保護法の裁判で訴えられた方 は、養護学校の教員の勧めで手術を受けさせられること になった。仙台で二人目に訴えられた方は、民生委員が、 彼女が働いていた里親の所に何度も来て手術を受けま

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しょうと勧めた。本人が拒否したところ、だますような 状態で連れられて行ったのが優生保護法の機関だった。 それで手術を受けさせられることになった。だまして連 れて行ったのが民生委員だったりする歴史があります。 同じように、1930 年から 60 年ぐらいにかけて、「無ら い県運動」が地域ぐるみで進められた歴史がある。その、 「我が村からハンセン病の人を出さないようにしよう、見 つけたらすぐに通報して収容所に送ろう」、ということ を、行政だけでなくて、その頃の地域住民組織、ある宗 教組織なんかはそのための会をつくって取り組んだ。官 民一体でハンセン病の人たちを地域から排除する運動を やったわけです。 さらに、兵庫県での「不幸な子どもの生まれない県民 運動」は 1974 年まで続きました。障害のある子を不幸な 子として決めつけた上で、羊水チェックを受けた、障害 の出生を防止しましたみたいな、成果発表みたいなこと を報告する県民大会が開催されたり、「啓発活動」が繰り 広げられたりしました。冒頭に立岩さんが話された通り、 「本邦では初めてのユニークな県民運動となった『不幸な 子供の生まれない施策』を展開した」と称賛するように 当時の関係者は記しており、未だに反省していない。 優生思想は、当事者から見たら明らかな差別なのだが、 障害者以外の多数派から見たら、「地域社会のため」「皆 の幸せのため」「多数派の幸せのため」といったことを掲 げて展開される。優生思想批判を含まない官民地域運動 は、ともすればある属性をもった人たちを排除する傾向 に傾く、歴史はそういう事実を私たちに教えている。そ のことを、どう総括できるのか、優生保護法裁判は日本 のこれからの社会、地域社会のあり方を併せて問う裁判 だと私は思います。 「共生」というのは言葉だけのきれいごとではなくて、 優生思想と向き合い、克服する努力が不可欠です。その ことを内在しない官民一体運動は危ないということを強 調しておきたいです。

■障害者権利条約の完全実施に向けて

∼制度改革の継続を

以上お話してきた通り、障害者権利条約批准に向けて いろんな法律をつくり権利条約の批准まで進みました。 しかし、批准して終わりではありません。批准は確かに 一つの大きなゴールでしたが、それが新しいスタートと なる、第 2 ラウンドが始まるわけです。批准後、国連の 審査が待っています。批准した国は条約の実施状況につ いての報告を国連に出すことが義務づけられています。 2014 年に批准した後、2016 年に日本政府は権利条約を踏 まえてこういう政策を実施しています、という最初の報 告を国連に提出しました。今後、2020 年ぐらいに、ジュ ネーブにある国連の障害者権利委員会による審査がなさ れて、勧告が出される見込みです(★図 6IDA 国際障害 同盟事務局長・ビクトリアリー作成資料=スライド 28)。 私たち日本の障害当事者からすれば、国内の法律制度を 変革するインパクトのある勧告がほしいわけです。次の 改善につながる、追い風になるような勧告がほしい。そ のために、障害者団体から日本の実情や課題を訴えるパ ラレルレポートが重要になってきます。今、JDF を軸に してパラレルレポートの準備をしています。 権利条約の実施に向けた課題として総括的には障害の 有無によって分け隔てられない共生社会、インクルーシ ブ社会の実現ということですが、いくつかトピックスを 紹介します。 差別禁止については、差別解消法をさらに拡充をして いく。例えば民間事業者の合理的配慮はまだ努力義務に 留まっており義務づけにすることが必要です。また、障 害者差別に関する救済の仕組みも求められます。 欠格条項の見直し・廃止も重要テーマです。例えば、大 阪の吹田市で 10 年近く公務員で働いておられた知的障 害者が、同居していた親御さんが亡くなられて、市のケー スワーカーの勧めで成年後見人制度を使った。そのため 失職に追い込まれてしまったのです。国家公務員法や地 方公務員法には、成年後見人制度の被後見、被補佐とい う類型に当たる人は自動的に失職してしまうという差別 条項が残っており、早急な見直しが求められます。 地域での自立生活、インクルージョンについては、介 護をめぐる運動を継続して取り組んでいることを今日お 話ししましたが、引き続きの課題です。 アクセシビリティについては、交通や建物に加えて、情 報のアクセシビリティが重要課題です。日本では、情報 アクセスに関して総合的に実効性を持って進めていく法 律がありません。オリパラ 2020 でバリアフリー法は改正 に動き始めましたが、一つ大きく抜けてるのが情報のバ リアフリーなのです。オリンピックの IOC にあたる、パ ラリンピックの IPC という委員会がありますが、この IPC が 2013 年にアクセシビリティ・ガイドをまとめてい る。その中には、聴覚障害者向けに電話リレーサービス を提供することも記載されている。電話リレーサービス というのは、聴覚障害があって音声電話が使えない場合、 文字チャット、動画チャットのようなもので、電話会社

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に連絡をします。「誰々さんからこういうふうなチャット での連絡があります」といって中継して連絡をするサー ビスです。日本では、電話リレーサービスを NTT やソ フトバンク、au といったキャリアは全く提供していない のが実情です。現在、日本財団が支援する NPO などが やっているだけなのですね。アメリカでは 24 時間 365 日、 追加料金なしで全国どこからでも使えるようにしなけれ ばいけない。聴覚障害者向けの電話リレーサービス、こ れがもう当たり前になっているのですね。日本はそれが 全然普及していない。こういった情報アクセシビリティ の課題がある。 法の前の平等については、支援付きの自己決定への転 換が大きなテーマです。先ほど成年後見の問題を言いま したが、成年後見というのは代理決定制度なのですね。代 理決定から、本人自身の自己決定を支援する仕組みに転 換していくことが求められます。 障害女性の複合的差別についてですが、この京都は全 国に誇れるものがあります。京都府の差別禁止条例は障 害女性の複合的差別に関する条文があるのですね。これ は、京都をはじめ全国の障害女性が、何としても障害女 性の複合差別に関する条項を入れてほしいと取り組んだ 結果、盛り込まれたのです。こうしたことを国レベルで も進めて行く必要があります。 教育については、原則インクルーシブ教育制度への転 換がまずもって必要です。特に何も希望しなければ当た り前に地域の学校に行ける。特別支援学校へ行きたいと いう人は申し出れば特別支援学校も選べる仕組みにす る。原則をインクルーシブ教育にする。地域で共に学び 育つことを基本とすること、そして、地域の学校へ行っ たら、当たり前に合理的配慮が得られる。最低限そこま で持って行かないと、権利条約の姿には近づいていかな いと思います。 労働については、雇用分野での差別禁止、合理的配慮 について、障害者雇用促進法改正で盛り込まれましたが、 実効性を持たせていくことが必要です。「福祉的就労」の 問題もあります。 優生保護法裁判が始まりましたが、強制手術を受けさ せられた人だけで 16,500 人、「同意」とされている人たち も含めて 25,000 人の被害者がいる。さらに、優生保護法 にすら反している違法な手術がありました。入所施設で、 生理が始まると、「その世話が大変よね、もうどうせ要ら ないんだから手術したらどう?」といった、やりとりが されていました。その 2 万 5 千人に加えて、優生保護法 下ですら違法な形の子宮摘出がなされてきた。そういう 実態がある。そのことも私たちはこのパラレルレポート で言っていかなければならないなと思っているんです。 権利条約の履行状況のモニタリングについては、障害 政策委員会の機能強化が必要です。 何とか障害者権利条約の批准までは進んだが、批准し て終わりではなくて、権利条約の内容を完全に実施をさ せていく、そういう継続的な制度改革が必要です。今、パ ラレルレポート提出に向けて、障害者団体は力を合わせ て取り組んでいます。これからも紆余曲折があるかも分 かりませんが、いついかなる時も障害者権利条約の基本 精 神 で あ る「 私 た ち 抜 き に 私 た ち の こ と を 決 め な い で!」、このことを忘れることのない取り組みを今後も続 けていきたいなと思っています。 本当にさわりのような話で、あっという間に持ち時間 が来てしまいました。さらに学びたいなと思われた方に、 私自身が関わった書籍を 2 点、紹介しておきます。『障害 者運動のバトンをつなぐ』(2014、生活書院)、『障害者が 街を歩けば差別に当たる㾗』(2017、現代書館)です。 ちょうど私の持ち時間が来ましたので、これで私の講 義とさせていただきます。どうもご清聴ありがとうござ いました。

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