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斎 嚢獣鎌の形能∵讃糠題つい…

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(1)

外人居留地に関する若干の長崎古地図について︵ニ︶

 目  次一︑序言

二︑古地図の編年

三︑大浦の水域と番所

四︑居留地の変貌と古十

五︑馬渕家の二種の古葉

嚢獣鎌の形能∵讃糠題つい⁝

四︑造成途上に於ける居留地の変貌と古図

 長崎に於ける外人居留地の﹁設定と完成﹂は安政六年置六月︑開国と

共に一挙にして成立したものではなく︑当初の居留地設定は︑彼我の関

係上に我国の対外的無知から開国には間に会わなかったから一半︑投入

の外人を﹁内浦﹂周辺に仮泊する事を許し︑其間に漸く萬延元年の秋に

竣工を見た第一期の大浦居留地の設定を手初めとして爾後︑投入外人の

増大に伴ひ︑外人側の負愚な要求に押されてその地域を漸次拡大して行ったが︑盲点に乗って活躍した支那人が新しい日清条約を結んで列国と

同じ貿易競争線上に並ぶ直前ーホぐ明治三年頃に至って︑それが固定化

した様である︒明治三年に渡辺忠章が刊行した銅板の﹁長崎港全図﹂に

は︑その図面の上部に於いて外人居留地に触れて﹁外人居留地一〇万

坪︑支那人居留地一万坪余︑上︑中︑下三等の差あり﹂と註して居り詳

しくは同時に刊行された﹁外人居留地図﹂に拠る可き事が附記されて居 る︒此の明治三年版の﹁長崎港全図﹂は現在︑比較的に数多く市内に残って居るが今此処に問題になって居る同時刊行のH外人居留地﹂の明細な古地図は刊行の数でも少くなかったのか市内には絶無で︑遺憾ながら未だ管見に及んで居ない︒ 今右の﹁長崎港全図﹂の附記に記された上︑中︑下三等に分けられた外人居留地一〇万坪︑支那人居留地一万坪を明確にする革めに明治八年調査の﹁外人居留地官民有地明細帳﹂に依って分類︑整理すると次の表eの如くになる︒此の資料は時元がいさ\かズレて居るので極手となる可き﹁地積﹂に於いて支那人居留地には異同が見られるが︑此は旧い唐       へ舘から脱皮して新しい居留地への移動関係が生ずる経過を示す資料であり︑既に固定化した外人居留地に於いては地積はホぐ一致して居る︒今支那人居留地の問題は直接此処に関係は無いので外人居留地に焦点を絞って見ると本来︑外人居留地は海面埋立を中心とする﹁平地﹂の大浦地区︑下り松地区︑梅ケ崎地区︑出島地区と背後の﹁山手﹂を笹折して造成した北︵東︶︑南両山手から成り立って居り︑而もその平地々区もその地の利に依って一等地︑二等地とに区分評価され背後地の山手の三等地と共に上︑中︑下三等の差等を生じて居るが︑それが借り方との関係から一般的には芝彗霞時8鐙鴨一〇什︵百坪につき年三七弗︶園$旨ひqΦ一〇け︵二八弗︶田一=o什︵一二弗︶と呼ばれ︑他の居留地に見られる様な・﹁競貸法﹂を用ひないで括弧内の全額で貸与して居る︒ 如斯︑年次を追って逐次地域を拡大︑完備して行く居留地の造成に伴う﹁変貌﹂が如何なる経過︑推移を辿って行くか︑先づ最初に展望して       ム ハ       へ なみハ  置く必要があらう︒安政六年の後半から着手にか\り翌濡雪元年の秋に

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外人居留地に関する若干の長崎古地図について口

(2)

外人居留地に関する若千の長崎古地図について口

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竣工を見泥初発の第一期居留地設定としての大浦居留地を﹁核心体﹂と

しで南方は下り松地区︑北方は梅ケ崎地区の埋築工事︑Uoω一目餌聞碧8曙

のUΦω巨帥ωΦ什二①日︒算 への組入に依って完成されて行く長崎外人居

留地の﹁設定と完成﹂のプロセスを如実に而も端的に示して呉れるもの

      は此処に取り上げ

      た図e﹁長崎港

      外国人居留地沿革

      図﹂であらう︒此

      の古図は内閣文庫

      所蔵に係るもので

沿

あり︑図面の左下の所に 田図は明治十四

年一月廿八日付

 ニテ長崎県堀一

 等属ヨリ本省清

 田二等属へ送り

 来シモノナリ

  但条約改正二

  付去十三年十

  二月廿八日付

  ニテ初発図面

  指越セシ追送

  ナリル附記してある︒

居留地完成後僅かに一〇年而も現

地︑長崎から本省

2

(3)

宛の条約改正に伴う調査報告の一部であるとするならば多少の疑問の点       註一﹁はあっても大体の推移については信を置いて良いであらう︒

 尤も此の﹁沿革図﹂は色別けに依って居留地の地域的造成を示して居

るが︑それが掲載図では表現出来ない上に︑その序列も年次を追って居

ないので便宜︑それを補う編めに左表口を作って見た︒但し表中の﹁事

項﹂欄の文字丈けが図中の色尽の説明であり︑ ﹁年次﹂欄は﹁事項﹂の

不統一を年次的に整理して順位を示し︑ ﹁神別﹂は九つの繁雑な色で分けてあるので便宜イーへの六つを以て地図上に明示し﹁内容﹂欄はその事項の旦ハ体的内容を示し﹁備考﹂欄に埋立坪数︑御入用高等を記して参

考として置いた︒ ﹁目安﹂であり︑厳密に言って︑その間に時間的な﹁断層﹂ ﹁時差﹂があるわけではなく︑居留地の造成︑建設は約一〇ヶ年の間を通じて﹁継続﹂の推移を辿って完成に跨ったと見るのが妥当であらう︒従って今此処に︑その﹁目安﹂に基づいて長崎外人居留地の﹁設定と完成﹂を大観展望し︑その裏付け資料としての当該居留地図乃至その部分図︑計画図の類につき︑その﹁在り方﹂を解説して置き度い︒ 註一 表eの重馬場下等地が表口の⑥元唐舘の中に在る事は言う迄もない︒明    治八年の﹁外人居留地官民有地明細帳﹂には唐舘の名称が消えて広馬場    の最後の所に下等地として記載されて居る︒

 註二 先年内閣文庫に行って此の沿革図を始めて見たが図中鉛筆書で﹁や︑疑

1 一八六〇

2 一八六一

3 一八六三

4 一八六六

5 一八六七

6 一八七〇

萬延元申年 埋  立

文久元酉年 埋  立

埋  立

文久三亥一 色  立

埋  立

慶応二寅年縮細碗

慶応三長年 埋  立

明治三頃年 支那人居留地借渡

埋  立 色 別︵標識︶

大浦海面埋立

下り松海面埋立

梅ケ崎山手埋立

大浦海岸五闇築足

梅ケ崎海面埋立

出島居留地編入

出島波戸側築増

新地蔵所一一一九広馬場一一一六元三舘一i 三新 地 築 増

埋立平坪 一九︑九七七坪御入用高 一二︑〇六五両

埋立平坪  五︑七九一坪御入用高 四︑九一二両

埋立平坪    五〇九坪御入用高︵三九貫一二〇匁︶

埋立平坪  一︑〇九〇坪御入用高  四︑〇五五両

埋立平坪  三︑八○○坪御入用高  三︑九二五両

国餌08蔓から    ω①什菖OヨO昌叶へ

埋立平坪御入用高 二〇一坪三六八両

唐舘から支那人居留地へ

埋立平坪   九三七坪御入用高  二︑二〇〇両

年次欄に記入してある一︑2⁝は長崎に於ける居留地造成経緯を示す

外人居留地に関する若干の長崎古地図について口 かにした上で旧稿に於いて 問﹂と記して在った︒恐らく一見の専門家の感想がそのま\残って居ると感じ小生もや\その感なきにしもあらずである︒

 1 初発大浦居留地の設定と平準

 長崎外人居留地の﹁核心体﹂を為して居る初発

の雄叫の埋立に依る大浦居留地設定の問題は︑そ

れが我国に於ける対外的最初の試錬であった丈け

に我国も極めて慎重に事を運んで居り︑一見表面

づらは﹁開国に間に合はない﹂と言ういさ\か

﹁間の延び﹂が感じられるが事実は﹁深遠な前

提﹂を持って居り︑頂点の乗る底辺は意外に広い

のである︒彼我虚々実々の交渉の中に数次に及ぶ

計画変更が行われ︑終局は彼に押されながら居留

地設定の方向が決定されて居る︒此の問題については既に再度に及んで私見を述べる所があったの

で此際は重複を避けて先づ関係古図の性格を明ら

  ﹁後日を約した﹂様に︑当時の現地資料﹁埋

3

(4)

外人居留地に関する若干の長崎古地図について口

    註凶地日記﹂を中心に今迄触れなかった大浦築立経緯の具体像を明らかにし

度い︒ 急きに掲載した図e﹁沿革図﹂の附記に見える﹁明治十三年十二月廿

八日付指導﹂の﹁初発図﹂とは現在︑同じく内閣文庫に保存されて居る

﹁長崎港外国人居留初発取極図﹂に外ならないが︑同図には

 但し同港居留地沿革図は明治十四年一月群論日付ニテ同量県令が送り

 越スと附記があり︑此の蔵書が条約改正の詰めの調査書類の附属として﹁密

接不離﹂である事は明らかであるから恐らく此の﹁初発取極図﹂を手初

めとして﹁沿革﹂を展望し適うとして居る様である︒然し此の.﹁初発

図﹂の二元は少くとも文久元標五月以降同一〇月以前である可き事は図

面に見える番地と借地人名を居留地々代元金一件に収められた﹁外国人

居留場貸地料請取方骨儀跡付申上意書付﹂と﹁浪ノ平山手外国人借地料      ニ請取候儀墨付申上覆書付﹂とを対照して見ると明らかであるから﹁初発﹂

の地図としては寧ろ前号の拙稿に掲載の﹁長崎古地図編年﹂の中に記入

して置いた日本世心﹁萬延元申十月落成御見分済図﹂と英領事草野図

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ド︒︒OO﹂を基準として取るか乃至はその計画図と見徹される日本古年﹁安

政六未進月華ケ出羽立略図﹂と英領事舘古図﹁℃壷口oh宮εoω①ユ

凍雲809旨ω簿二①ヨ①愚母Z餌ひqoω鋤臨120︿﹂︒︒切O﹂に黒棚るべきであら

う︒ 一〇年前︑私は市博物舘に於いて﹁大浦方面埋立略図﹂と題した前記

二葉の日本博図と当該地域埋立に関する四枚の古文書を一楽章表装した

軸物を見て︵何れも浜武家所蔵の物であり古図︑古文書を一応浜武古

図︑浜武文書に仮称す︶長崎に於ける居留地造成の研究に興味を覚えた

のであるが︑特にその両県の所謂﹁計画図﹂と﹁竣工図﹂に於いて大浦

川の水路の方向の取り方を中心に︑著しい相異のある点を指摘して拙稿

﹁外人居留地埋立に関する浜武古図﹂の中で︑本来日本側が抱いて居た       註三居留地構想とその崩壊して行く経緯を論じた.其後︑℃9ω閃060目論7の

﹁零︒ω件Φ≡bd母冨二きωぎ冒醤旨餌口α国︒﹃日︒ω餌舞↓o督轟餌≦四

一)X団ω﹂に収録されて居る前記英領事軍書図二葉を見る機会を得︑幸ひ

日英両懸共に作成の時期が同じであるので此を比較対照すると日本側の

居留地造成構想の挫折には英国の指導性が強大に働いて居る事が明らか

になった︒拙稿﹁長崎に於ける外人居留地の成立と外人の動向﹂の二章

﹁長崎居留地設定に関する二種の古図﹂は日英両古図の対照に依って予

想外にゆさぶられながら初発の大浦居留地が設定されて行く経緯を恥し       お たつもりである︐今その詳論は避けねばならないが︑日本古図に於いて      ぬり計画図が雄浦の埋立に当り﹁川﹂ ︵下り松︑大浦︶を是岸即ち梅ケ崎︑

常盤崎寄りに作って居るのに対し英領事舘の計画図では逆に﹁川﹂を対

岸即ち下り松寄りに作って居り︑而も竣工図では日本罪業は右同様に変って来て居ること︒更に日英両竣工図の比較に於いて︑日本早旦が完全

に対岸の下り松地域を無視して︑其処の問題に触れて居ないのに対して英領事舘古意は用意周到に下り松地域に触れて同地域の埋立計画を点線

で示し︑其処に﹁旨葺吋︒胃︒冨9ぎσq﹂と記入して他日の伏線と為して

居る事は注目に値しよう︒

 現在︑大日本古文書の幕末外国関係文書は安政六年末迄が整理刊行さ

れて居り︑その中に長崎居留地設定に関する奉行上申書の類が可成り収

録されて居るが惜しい哉何れも添付の附図面を失って居る︒幸ひ新地南

手の大浦居留地設定に関し︑安政六年三月一八日付で長崎奉行︑岡部駿

河守の老中へ具陳︑指示を仰いだ上申書丈けは完全に残されて附図面を      伴って居り︑此を前記の浜武古図に照合して見ると記載の文字に多少の

相異はあるが︑明らかに﹁安政六年未五月梅ケ崎新地場立略図﹂と一致

して居る︒此点について拙稿に於いて

 当該﹁略図﹂の貼紙に﹁当年三月初而江府江訴置乃大浦勲爵分⁝新商

 法御掛内流し写﹂ ﹁七月十九日見分二中業図面通り御定り福井金平殿

 御立合此御下図単字認御中相成因県単二日此図面二瀬御選届相成候﹂

4

(5)

 とある所から見ると奉行上申書附添の絵図面が原図として奉行下の新

 商法掛に保管され︑それを築立の現場責任者︑浜武治兵衛が借り写し

 取ったものであり︑七月一九日築立の最高責任者︑福井金平が実地見

 分︑着手の思懸に入った事を意味すると言って良い︒

と述べて置いたのである︒右翼図は何れも総埋立坪数︑二三・六一八坪と

あるが記載事項には相違が見られるが︑その異同を吟味し更に此等の地

図の原型と思われる吉田家所蔵の﹁幕末大浦地域図﹂︵仮称︑前号拙稿

に掲載︶と対照すれば当該地域についての理解が深められるであらう︒

 此の福井金平の実地見分に依る﹁着手段階﹂に至った構想は我国の一

方的独断のもので︑鰭て外交団の来朝に依る現地交渉と中畑指令との

﹁歪﹂の中に水泡と化する︒現地交渉に基づく奉行の上申が中央で評議

され老中指令が附されて現地に下げ渡されるには相当な日数を要し︑事

態の急に即応した地元奉行の上申に対し老中の指令は歩調を合せ得ず︑

一つの方針が中央で決定して現地に流された時は既に現地には新しい事

態が起って居る始末で︑中央指令に支えられ︑外人の強圧に戦ひながら

外人居留地の造成構想は﹁猫の目﹂の様に次々と絵図面の書き替えの裡

       に漸次固定化して行ったと見て良い︒即ち所謂

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三月計画案︑五月計画案︑九月計画案と言うのは言はゾ居留地完成へ辿り着く為めの計画変更の﹁山なみ﹂であり︑三野元年秋に現出した初発の大浦居留の総坪数は表日﹁英国出居留場反     別仕別﹂の様に四七・〇三三坪で︑それは三月計画案の二三・六一八坪の約二倍にふくれ上って居る︒然してその構想と内容は全く一変して居り︑三月案が︑総坪数殆んど海面埋立計画であったものが現出した居留地に於いては海面埋立に多少の減少を見せて居るに対し大幅な宅地

造成と山手添増が目立って居り︑我国が当初抱

外人居留地に関する若干の長崎古地図について口 いて居た希望の﹁構想﹂が無視されて先方の要求が意のま\に実現して居る感が深い︒ 斯うした計画変更にゆすぶられながらも同時的に逸早くそれを実施に移さねばならないと言う切実感︑切迫感が責任者の胸中を去来した︒安政六年五月一五日付長崎奉行︑岡部駿河守の老中伺書の中に 港内新地為所南手海岸二千三百弐拾坪余並大浦海岸新地築出場儀市郷 之内望之者江申付悪処新地南端は此節商人土ハ之内築立之立願出候二付 坪数相増凡三千七百坪余願之通下立申付候得共大浦之方は坪数多分に て失費も不学未だ望のものも不レ聞然る処追々御条約取始期限差迫り 候買付⁝とあるのは︑その心境を窺う資料であらう︒新地南手の築立は順調に進み坪増して実施に移すことになったが︑大浦海岸の選録は至難の大事業であった為め此を引き受ける請負人も現われず渋滞して居る事が明らかであらう︒此の新地遊手の築立願出は前記達書文書及福井金平の伺書に    モ依って︑五ケ所商人︑野田屋喜次郎︑藤屋彌三等三人である事は明らかであるが︑此は比較的に小坪数の小規模のものであるに対し大浦海岸の築立は出費も莫大な大規模の事業書けに引き受け手がなく︑事態の急を察知して浜武治兵衛外違名の長崎宿老が連名で﹁大浦築地之儀二付願候  な 書付﹂を奉行に提出して此の難事業の促進を計って居る︒ 従って開港期を前に︑長崎奉行は苦境に立った︒たまたま米国のハリ

ス︑英国のオールクックの脳内を契機に﹁倉庫は海岸平地に︑居宅は山

地に﹂一円に謹めて居留地を構成する方針に改あたので︵所謂五月案︶

三つから最初の日本構想から大幅な変化を生ずるに至った︒要するに此

の変更は事前に既定事実を作り得なかった我国の弱点に恥した外交団が

彼等の関心事一山手獲得に成功したものであり︑而も事態を更に悪化せ

しめた事は折角順調に捗取った新地早手−梅ケ崎地先の埋立が長崎在留      の唐船主団の抗議に依って行き悩んだ事である︒請負人は既に労力の供

給源であった天草表から多数の人夫を召連れて来て居りながら手を束ね

5

(6)

外人居留地に関する若干の長崎古地図について口

て居る有様であったから︑長崎奉行支配調役下役元締︑福井金平は老中

へ︑八月廿六日付で

 海岸築立候儀は少しも猶予難相成儀と奉存候二付梅ケ崎斜方は先差置

 き右同様御薄済届候儀二候得ば常盤崎三方早々引立信仰付註ハ︑・御都

 合可然奉存候    と伺を立て\居り︑此に基づいて同月廿九日に奉行より年番︑町年寄と

浜武治兵衛へ﹁常盤崎地先埋立の件﹂の達書が出されて居る︒その文面

は何れも同一のものであるが︑末尾の箇所が前者では﹁可申渡候﹂とあ

り後者では﹁可取計候﹂となって︑それが前記浜武文書の中に収められ

て居る︒ 梅ケ崎地先の埋立を見合せて同様に認可済の所として代って埋立に着

手する事になった常盤崎地先は梅ケ崎地先に南隣接する大浦湾口の北岸

に当って居り︑前記上申書附図や浜武製図に見える細長い埋立予定地で

ある事は言う迄もなく︑此に依って初期大浦居留地の埋立は先づ梅ケ崎

埋立の不可能からその南方︑常盤崎地先の三浦の掛り付の一角から窺っ

た事になるが︑勘甚な大幅の雄浦海面の埋立は請負人が現われず未だし

であった︒当時の老中への長崎奉行の上申書の一節に﹁萬一急速事出来不致候ハぐ両国官吏二而引受取計⁝不当見事筋斗募り時日押移候而は何       註二様談判差縫可能も難計と痛心仕官﹂とあるのは当時の長崎奉行の苦拶を

十分に暗示して居ると言え様う︒仮に両国官吏−英米共同の﹁居留地造

成﹂エ事が実現したと想定して見よ1事後に起る可き事態を想起すれば

正に﹁膚に粟﹂を生ずる思ひがあらう︒斯うした時態に際会して長崎商

人の良く為し得なかった此の大事業を請負ったのが天草の赤崎村庄屋︑

北野織部であった︒先に触れた埋地日記は此の北野織部が至難な大事業      を引き受けた安政六年九月から翌萬延元年の歳末︑本事業の外附帯事業

の完了迄の記録である︒此の大事業の発足に当り奉行所としては埋地

掛︑職方掛︑普請掛等の諸役が整備され︑北野織部も﹁御埋地御用被仰

付﹂てその組織の中に入っで居るが﹁日記﹂はその勤務日誌であり︑当 直氏名︑晴雨を始め簡単な個条書で﹁日々﹂の埋立進捗情況を記して居るにすぎないが︑唯その間にその日ノ\の出入の書類が丹念に収録されて居るので極めて貴重な参考資料となって居る︒ 天草の一庄屋︑北野織部と長崎に於ける外人居留地埋立工事との結び付きば一見︑表面づらは﹁突如﹂として起って居る様に見えるが︑実は      モハねその頂点の乗る底辺は広い︒埋地日記の安政六年一〇月二七日の条に︑同年七月付の本博多町︑荒木作兵衛が請人となり天草郡赤崎村の庄屋︑北野織部が本人となった連名の浜武治兵衛宛の﹁請負申一札隠事﹂の文書が収録されて居る︒所が此の請書は意外にも梅ケ崎地先の築立に関するものであって︑其の文面には 此度梅ケ三三立之儀藤屋三吉三三三三喜代助︑野田屋喜次郎より願立 御聞済二相成築立候平坪二審三千百三拾五坪壱合⁝此金弐千六百弐拾      む  む  む  む  む  む     む  む  む  む  む  む 八両壱歩三嘆余薫以割合築立方御請負仕右金之儀三人よ¢持出乍御面 倒御掛り之儀二心追々私江御渡被下望楼言辞とあるから名目は長崎の五ヶ所商人三人の願立になって居るが更に此を北野織部に下請負させ︑実質の請負が北野織部であった事は問違ひない︒従って北野織部は請人として荒木作兵衛を立て︑荒木作兵衛は      む 私所持の田地居村字その田より立山迄一円の内見五町四反五畝歩右田 地付左右畑畑町七反歩並田畑冠付松山地面弐拾町歩為引合差出置候二 付而者自然間違故障等有之節者作兵衛急度引請取斗候と保証に立って居るのである︒ 而もその梅ケ崎地先の埋立が見合わされ常盤崎地先埋立に肩代りされ      た時にも当然︑北野織部の実質請負は継続して居り埋地日記の安政六年九月廿八日置条には 此度常盤崎より大浦海岸埋立請負天草郡赤崎村庄屋︑北野織部江由付 無間場所埋立方之儀ハ凌方普請方乙名差図を請可申︑且此程常盤琴海       む  む    岸地先埋立地藤屋彌吉外弐心豪者共依頼築威儀右織部江申付       ヘコハ  ねと言う未九月付御手頭が収録されて居り︑翌翌延元年二月一七日の条に  へっ ゐハ ね

は安政七年申正月日付の﹁常盤崎地先埋立仕様書﹂が収録されて居るが

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(7)

その請負人は北野織部で︑野田屋喜次郎︑藤屋彌吉が﹁前書の通り私共       む  む  むより北野織部江下請負為致則仕様書奉差上候以上﹂と奥書した御奉行所

宛の文書である︒従って前にも触れた八月廿六日付の支配調役の福井金

平の老中伺書の中に見える       む 此度梅ケ崎埋地藤屋彌吉外二人のもの土ハ願に寄せ築立被仰付候二巴天

 む  む       む     む 図表より請負人︑人夫大勢召連罷越去廿日より築立取懸同処⁝

と言う意味も十分に諒解出来るであらう︒       埋地日記の安政六年一〇月四日の条に収録された未九月付の﹁常盤崎

並大浦地先無断仕様書﹂は日記所載の最初の北野織部が差出した文書で

あり又仕様書であるが︑此の﹁仕様書﹂の坪数と代銀は今後変化して行く﹁仕様﹂の基準であり又その文意には埋立計画の趣旨が十分に窺える

ので次にその大要を抜配する︒

 一︑中切合石垣 六百三拾七坪弐合

    ︵中略︶    代銀 弐拾九貫三百拾壱匁弐合

 一︑埋立平坪  壱万三千五百八拾坪

     立坪  弐万七千百六拾坪

    代銀 七百四拾六貫九百目

 合   七百七拾六貫弐百拾壱匁弐分

 右築地石垣土台之儀⁝中切合石垣築立替築込石有形石を取崩相用不足       の    之分新石を足︑埋土之儀早出書下並元俵物御役所下浜町彫川筋稲佐下

 浦上新田下等埋居候沼土為冥加堀凌持込可申⁝猶石工人夫船頭等者兼

 而遺ひ馴候もの土ハ天草郡より召連度石垣築石之儀者天草郡よの越可申

 候磁土ハ高波遠海之場所故石遣切り候瑚は戸素手佐村並近郷より世話仕

 相建築立度臨時不足人夫は御当所より頼入度奉存候

此に依って此の難事業が天草の指導者に依って天草の労力と資材の基盤

の上で行われた事が明らかであり︑此の事は銘記すべきである︒その

﹁御普請の日限之儀﹂については当時としては並外れた大規模な工事で

外人居留地に関する若干の長崎古地図について口 あった画けに凌土積船の新造︑感量の莫大の徴傭︑小屋掛等可成りの準       備期間を必要としたので一応翌年の萬延元年の三月を目途としながらも文面では漠然と﹁右仕様を以成丈出精御請負申心癖﹂と結んで居る︒ 従って御掛より﹁築立成就﹂の見込を再度問ひ正されると未十月付で

﹁御尋に順調上候書付﹂ ︵日記・安政六・一〇・二七条所収︶を提出しで居るが︑その中で北野織部は土稽船三〇〇艘︵内二三〇艘新造︶とそ

の船頭三〇〇人︑石工︑石持︑石割︑石積船頭共三〇人︑岡夫七〇人︑

計四〇〇人で一日昼夜兼業で二〇〇坪埋立︑総立坪三〇︑○○○坪を一

       ︵一八六〇︶      註一二五〇日で成就すると計算して遅延元年三月末の成就を約束して居る︒此

は当時投入外人を内浦沿岸地域に仮泊せしめて早急の居留地造成を焦っ

て居た当局の無言の強制︑圧力に依るものであらう︒然し事実は此の居

留地造成を期限内に完成する事は無理であり請負人の再三に及ぶ延期嘆  ニニ願と此をカバーする当局の配慮と援助に依って予想外の莫大の犠牲を払って︑漸く萬延元年の︸○月に至って一応の完成を見て居る︒ ﹁日数書

附﹂に依るとその期間は未八月廿七日から申一〇月一五日迄総日数四三

二日︑内一四二日が雨天及休業で全御普請日数つまり稼動日数は二九〇

日で︑ホぐ最初の予定日数の二倍に当り︑不稼動日数の意外に多いのに

驚く︒此は前者に於いては着手と共に逐次起った計画変更に伴う﹁坪

増﹂や予想外の﹁落入所﹂のやり直し等に依るものであらうが後者に於

いては要覧に依る作業の不能又人的構成に於いて天草人夫を中心に島原

人夫︑大村人夫等の臨時夫外は何れも外部からの徴傭であったから人別

御改︑年末年始等の出入が頻繁で稼動日数に支障を来した面も考える可

きであらう︒       黒地日記は萬延元年一〇月一五日の条に︑一応の居留地造成の完成に

当って此の事業の総締く︑りとして 日外国人居留場大浦海岸地先新地

埋立地出来形仕様書︑口御入用書信︑日掛名面雲量︑四日数書附の順に

記して居り︑先に引用した日数書斎が四のそれに当ることは言う迄もな

い︒e出来形仕様書の中に

7

(8)

外人居留地に関する若干の長崎古地図について口

  内 一、恚辮迢纒S七拾七坪 埋立地総坪

 壱万七千四百七坪 御入用二而埋立裾分

弐千吾七拾坪騰市中商人雪濠願埋立候分

      藤屋彌吉外      願請埋立地

とあるが︑此を先に掲げた最初の﹁常盤崎並大浦地先築立仕様書﹂及び

表日と対照すれば自つからその間の推移が窺えるであらう︒尚御入用書

記に於いて

 外国人居留場大浦海岸地先新規埋立並石垣御入用

 一︑金 壱万弐千六拾五両

   同野手海岸落入所百拾間之場所捨石並石垣御入用

 一凡金 弐百五拾両

 右翼通り御座候と弓鋸︶の内︑前の一塁妊ハ拾五両が大浦埋立の請負金であり︑それ蝶㌦月二九呈初度に申三月迄に七回に渡霊活支払われて居

るが︑後の凡弐百五拾両は別途の請負になって居る申一一月付﹁外国人

居留場埋立地之内落入所新規石垣聴聞御入用仕立金高﹂ ︵日記●︵激購三〇ル

年二月二五日の条所収︶の中の

 高金弐百五拾三両弐歩     海岸通り落入所

    百拾壱文壱歩      百拾間拾石並

      石垣土ハ仕上入用と言う記録に一致するから右御入用書附には記載の不備があり﹁同沖手

海岸落入所⁝﹂の文は次の﹁凡二百五拾両﹂に係る﹁別ロ﹂と解釈すべ

きであらう︒

 次に請負人︑北野織部については先稿に於いては唯一種の﹁貿易商

人﹂と言うに留めて置いたので此際一応その性格を明らかにして置く必

要があらう︒本来斯うした幕府の事業の請負に当っては本人の身元調及 び保証人を立て︑居るが既に北野織部が梅ケ崎地先の埋立計画に当って本博多町の荒木屋作兵衛を請人に立て㌧居る事は指摘した︒今回それ以上の大事業を請負うに当って如何なる請書を提出して居るかは極めて興       ︵一八五九︶味深い問題であらう︒臨地日記の安政六年一〇月八日の条に﹁大浦御築       む  む立方天草郡北野織部江寸寸付候同人親族並当地請負人より根証文相差出候書付﹂と言う浜武治兵衛小乱のある一件書類が収録されて居るので此      む  む     む   処にその全文を転記するが︑赤崎村の庄屋でありながら﹁当地請負人﹂とある所に彼の幅広い生活が窺えよう︒  御請申上候一札之事 此度大浦御築地方私儀江御用被仰付難有奉存三三而仕様之儀者別紙書 面を以申上候通仕度愚存候三二大造之御普請御陵二一上候二二付於御 当地兼而本博多町荒木屋作兵衛儀証人相立置為意皆成就三下御見当私 実家御領村之内大島小山清四郎跡私実弟小山良輔所持田畑山林大道村 之内字大作山一円別紙二而反別絵図面通リ為引当差上候自然間違故障 等有之節は作兵衛良輔両人二而引受取斗三儀ハ勿論右田畑山七回引上 相成候共済而異議不申上請書後証一札差出申処如件  未九月

御掛 浜武治兵衛殿 長崎本博多町証 人  荒木屋 作兵衛㊥天草郡御領村大島請 人  小 山 良 輔㊥同筆赤崎村庄屋本 人  北 野 織 部㊥

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(9)

 その後に別紙で小山家の大作山の田畑山林六町七段六二一五歩の明細       書が附してあるが︑荒木屋作兵衛の分については何等の記述もない︒恐らくそれは既に梅ケ崎埋立︵堕ち常盤崎埋立に肩代り︶に当っての請書

に私財を提供して居る為めであらうが︑此際彼が追加分として所有の家

屋敷を投げ出して居る事は同じ九月付﹁差上申御斎文之事﹂︵日記萬延

元年上丹一七日野所収︶の中に

 織部身元之箆棒小山良輔荒木屋作平引請人二相立候筈奉願無二津田者

 右御普請中織部身分押付何様の異変有之候共右両人引請御普請珈御差

 支不相成様急度取計可嘉日依之為証拠地同人並織部所持之田畑山林一

 筆限り箇所高反別取調別紙親類村役人加印之質地証文一冊作平所持之

 箇所地面沽券状一通戦勢上置軒間⁝

とあり︑織部自身所持之田畑山林に関する﹁別紙﹂は遺憾ながら無いが

荒木屋作兵衛の分は﹁差上申一札世事﹂として収録されで居るから明ら

かであらう︒

 右請書の文面に於いて﹁実弟小山良輔所持の田畑山林﹂とあるのは一見

如何にも奇異に感じられるが︑本来天草郡の上島︑赤崎村庄屋︑北野織部

は同憂の下島︑御領村大島の小山清三郎の三男であり︑赤崎庄屋︑北野記      ︵﹂八四二︶       註貼一山ハ一郎の養子となって天保=二寅年︑三二才で庄屋御役を被仰付て居る︐コ    弘化元積年︑記一郎の死去に依って九代目の家督を継いで居るが間もな     モ く同月未年に当郡一円に蜂起した﹁打壊し﹂に当っては庄屋とし﹁銀主﹂と      して︑つぶさに其対策に善処苦心した事が同家所蔵の﹁未七月付の〃奉

申上御書付〃﹂に依って詳細が窺えるし又それは﹁天草近代年譜﹂にも顕

著な事実として記載されて居る︒彼が長崎に於ける大浦居留地築立の﹁大       む造の御普請﹂を引請けたのも同じく﹁未九月﹂の事であるが︑それは干

支一巡後の安政六年︑彼の四五才の時に当るのも奇妙の縁と言えよう︒

 此の北野織部の実家︑小山家の在所一大島部落は江戸時代に於ける

﹁海外密貿易﹂の基地として繁栄した所と言はれるが︑同家は三百年以

前に肥前国唐津から渡って来た﹁落武者﹂の跡と言はれ三代の清兵衛宗

外人居留地に関する若千の長崎古地図について口 慰の代に至って鎖国時の海外貿易−所謂﹁抜荷﹂に依って財を築き上げたと語られて居り︑爾来︑此を初代として世々﹁清四郎﹂を襲名し︑天草造船業の発祥地と言はれた三方山に囲まれて格好の入江を持って居る此の下島の御領村大島部落に定着し︑所謂﹁大島様﹂として強め豪族の隠然たる天草財閥を形作って居た様である︒織部は一一人兄弟の三番目に当り︑長男が小山家の家督を嗣いだ後︑兄弟何人かゴ準養子として小      山家の家督を継いだものらしく安政六畜年︑赤崎村庄屋︑北野織部が此の居留地造成の難事業を請負った時は恐らく弟の小山良輔が家督を嗣いで大道村の大作山を管理して居たものと見て良いであらう︒        而もその後︑明治一九年︑一一番目の末弟︑小山秀が八代目の家督を継いで居るが此代に至って此の華やかな天草財閥は解体した様である︒大島部落の小山家の菩提寺︑浄罪寺の下手︑部落の奥深い入江の丘に現在︑尚残されて居る小山家の旧墓地に見える格調の高い一族の墓石を菩提寺の上手の丘に移された小山家新墓地に﹁投げ込まれた﹂形で片隅に置かれて居る﹁自然石﹂の小型の小山秀の筆石と対照して見ると転々栄枯盛衰の無情を感ずる︒彼こそは幕末に﹁小山秀之進﹂として維新後は

﹁小山田﹂として︑其の活躍が長崎を舞台に記録的に散見するその人で

あるが︑後段転載した資料に窺える様に︑兄弟力を合せて北野織部の埋

立造成工事に妊力した中でも彼は文久二年号大浦居留地の海岸附一等地

故障補理に当って織部の代役を果して居り︑引継き慶応二年三月には同

地域の半揚一件を書入自身が請負って実施して居り︑同年七月には大浦

居留地の道敷の修覆や同時的に運上所の建築にも参劃して居り︑而も現

在︑赤崎村の北野家には慶応元年丑正月付の﹁子年長崎大浦出張所会計

目録﹂及び﹁今年より午薫習勘定覚﹂ ︵小山出張所より北野様︶等が保

存されて居るから居留地造成に当って彼が織部の片腕として活躍して居

た事は明白であらう︒而も﹁地揚一件﹂の工事は当然その上に乗る外人

の建物との関係を生ずるから彼の居留地内に於ける外人との接触は深め

られて行き︑大浦天主堂を中心とする建設の事業を始めとして多岐に渡

9

(10)

外人居留地に関する若干の長崎古地図について口

って幕末︑維新の長崎外人居留地に於いて彼が多彩の反映を投じて行っ

た事は自然の勢であったらうが︑それは現在余り知られて居ない︒

 思うに大島と赤崎とは下島︑上島とに分れては居るが図口﹁幕末の天

草行政図﹂に見える様に両島は相接して本渡海峡を作り︑北方は漏斗三

珍襲罪     端

有   /.層  ノ

      口ぞ・ρ

  

A驚 鰐渡一三

       /嫉   漁 島原半島

長鴨

 7劃 〆

天草下島

に開いて有明海の南方水域を抱え込んだ﹁ふところ﹂の形を作って居

り︑下島の御領大島と上島の赤崎は海を建て︑視近距離にあり︑其処に       織部を通しての血のつながりが生じて来る︒天草の蕃習に﹁島で長者は

大島様よ﹂と唄われて︑その絶大な富を誇った大島の小山家と北陸の銭

屋五平の九州版と噂された赤崎の北野家の結び付きが所謂﹁天草財閥﹂

として此の大浦居留地埋立と言う至難な事業の背景にある事を看過して

はなるまい︒事実︑此の理立の難事業に対し単に実弟小山良輔が保証に

立って居る丈けではない︒此の事業が小山︑北野両家の土ハ同の事業とし て兄弟一統して共力参加して居る事は埋地関係の記録に収録されて居る北野織部の文書の中に散見して居り︑その文面には埋立の実態に触れる面も多いので左にそれ等を抄録し貰い︒       ︑ω未一〇月一二日付﹁御願申上候書付﹂

      む  む  む  む  む     む 大浦御身地諸手当向弟芳三郎並団手下十善平十王聞先月晦渡海為致候 処昨今専荒打立人夫手当等仕候趣御座候得共遠方掛毛無心元奉存候付 明十三日より私儀帰郷被仰付候ハぐ相馬船等見詰十六日迄には出崎仕         む  む  む  む 度跡御請向妻琴は弟国之丞江申聞置柳無麓略様仕度奉存候付何卒願之 通り⁝       ㈲未一二月一七日付﹁奉申上候書付﹂

 大浦御築地夫方之儀者惣人数三百五拾四人御座候処当廿五日迄追々帰

 郷一致相滞越年仕候夫方凡百人之見込二奉存候⁝又来春手配仕候夫方

 之儀者先書奉窺候土場御治定御下知之上人夫多少手配り可仕尤来春取

 始之儀者御沙汰之通り七日後ず取掛候様可仕⁝      天草郡赤崎村      む  む  む  む      北野織部帰郷付代      む  む  ゆ       国之丞     ヰ ㈲申正月﹁以書付奉申上候覚﹂

 大浦御埋立御場所寒気之時節二而捗取兼候付先達而差上置候御日積通

 り御出来之程無断束被思召候間来春ハ人夫多分三雇入一際捗三盆様此

 節ず手当可仕丁御厳達之趣奉畏候⁝帰国仕り候三百五拾人余のもの共

 来正月八日♂罷越下様約定仕置子孫帰郷之瑚茂天草郡二県外一二二百人

 余雇方約定仕置候得共例年天草郡の旧習二半正月亡日脚祈祷伊勢講と

 唱親族其外相寄心祝仕十五日後♂他国出稼等二罷出層雲癖二御座候得

 黒塗以前黒髪人数相学認可申候尤外近国二出稼翌翌当帰村仕候もの共

  む  む  む 弟良輔雇入差誓書積手配仕置候間正月十五日前にも百人余罷出可申⁝        目申三月二三日付﹁悪霊御願申上候書付﹂

 私儀去年未九月中♂御占地御用承郷雲番所滞留罷在候処国元村方当春

 植付前大小百姓田畑質入地面差引証文私自筆の奥印不仕三相済不参名 10

(11)

 寄帳名前切替等差支之趣申越候二溶明廿四日浸往返六日之間帰村被仰

       む  む  む  む     り  む  つ 付候様奉願上候薄着今小潮二選御普詫之億者手代夜商手抜様申談署候

 二付⁝ ︵文久二年︶困戌一二月﹁奉申上巻口上之覚﹂ 大浦居留場御埋地近来減ゆ込相見候添付転出之場所江御添築地御仕立

 二茂相成候ハぐ落入並減込之吉相許可申哉見込申上面様御達相成奉畏

 候右斎場所之埋立御請負申上呂瑚唐手之方深二二而玩二出来立二至り

 数度落入仕候芝付後而聖母御座様種々手を定丈夫二仕立置点間最早落

 入之義有御座間敷尤減り込之分は全地所締り三二も可有之併当時八︑

 九︑一〇掌篇之前通り石垣下♂汐水格別出入致七二相見え右ハ其時々

 土砂も流出夫貫け自然と減込も相成可申重藤存候直島出之場所へ御築

 地御仕立被害付議ハぐ−

      天草       む     む     む       織 部 代       む     む     む       秀 之 進㊥

 右の五つの文書の中でω@ωは﹂埋地日記﹂に㈲は﹁北野織部差出候     書付﹂に困は﹁諸申上留﹂に収録されて居るものでω回㈲㊥は何れも宛

名は書証治兵衛困は居留場御役場となって居る︒今此等の文章の内容を

史的に究明して行く余裕はないが@に於ける差出人︑織部帰郡代︑国之

丞が実弟である事はωに依って明らかであるが目の﹁御普請之儀者手代

に⁝﹂とある手代が如何なる性格のものであったかは不明である︒㈲は

年次的に少しく後になるが同じ大浦居留地埋立工事の事後処理であり︑

此文書には前提として田口牧三郎外二名の連名で出されて居る﹁大浦居

留場埋立地減り込相見豊田付孕出之場所江添築地御仕立相成候ハ寸将来      同 所落入並減り込防止早起血相蟻壁見込取調申上候無論沙汰二付元⁝肉浦⁝埋

      む  む  む  む  む  む  む  む       コ そ 立請負被仰付候天草郡赤崎村庄屋 北野織部弟秀之進と申者江見込相尋

候処﹂と言う文書があり︑その後処理として矢嶋清兵衛の名で﹁居留地

む  む  む  り  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む上等五番地所前より拾壱番半地所前迄御埋立仕様見込書﹂が絵図面と土ハ

外人居留地に関する若干の長崎古地図について⇔ に提出されて居るものであるが︑此の﹁減り込み孕み出場所江添築地﹂の計画企図はその後に尾を引いて居り元治元年の後述の大浦海岸中間築足工事完成後にも尚継続して居る事は慶応二年三月の請負人小山秀之進︐      む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  むの﹁大浦海岸六番ヨリ拾壱番半迄地揚一件﹂書類に依って明らかであら     う︒此等諸文書の中に見える北野織部の兄弟達が何れも小山姓で︑その      ニ 兄弟順が如何なる序列にあるか現在︑明確になし得ないが︑此の大事業が天草の﹁労働力﹂と﹁資材﹂を背景として︑上下両島の兄弟一門の北野・小山の二大財閥の協力⊥言はゾ﹁天草財閥﹂に依って達成されて居る事実は銘記すべきである︒ ﹁唐行さん﹂としての天草女は物語的に一般化されて居るが文化地域に隣接しながら﹁階級差の顕著な而も民度の低い﹂島南帯は天草に﹁労力供給源﹂の性格を与え﹁出稼の島﹂天草を浮彫にして居る︒此の問題       註一二については曽って中村正夫氏が﹁徳川期天草に於ける出稼の諸相﹂に於いて論じられて居るが︑現在赤崎村の北野家には文久二年壬戌十月付﹁出職出稼奉公人取締書﹂が残って居る︒此は富岡町庄屋︑同町年寄︑及各組大庄屋一〇人の連名で富岡御役所へ差出した﹁乍恐奉願上候書付﹂でその一節に 長崎江奉公人多出間敷筑前書明和年中御達請候所往来弁利之故二而御 座候哉連々出職︑出稼︑奉公等罷出前もの多人数二相百首野点而右の もの宗門入江御三之節者一同帰嶋可仕儀置所左候而者失費不少儀⁝前 々御支配♂引続是迄数年来同所江御出役二而御覧被仰付来期程之儀とあり︑長崎と天草の特別の関係が窺えるであらう︒赤崎村の庄屋︑北野織部が居留地造成の最初の計画﹁梅ケ崎地先﹂﹁常盤崎地先﹂埋立を

む  む  む  む  む  む  む  む  む  む五ケ所商人から下請負をして居り︑大浦海岸埋立を請負うに当って埋地

      む  む  む  む  む日記は此を﹁当地講負人﹂と本人の在所を示して居り本人は﹁大造之御普

       む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  む  ご  ゆ  り  む  む  む  む請御請負申上岩蓼につき於当地兼而本博多町荒木屋作兵衛愚意人相立﹂

と請書を出して居る所を見ると彼が天草郡の一庄屋であると土ハに他面長

崎に於ける活躍を暗示するものがあり︑それを裏書するものが天草には 11

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