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脳死・臓器移植における身体の私的所有権に関する考察

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脳死・臓器移植における身体の私的所有権に関する考察

西 田 晃 一

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NIgFImAKoiChi

Abgtract

Thepurposeofthispaperistoconsidertherightofthebodyasprivateproperty inregardstoorgantransplantsandbraindeath・FYrstly;Iwillpresentthree criticismstotherightofthebodyasprivatepropertyregardingbody5Secondl乳Iwill

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andbereavedfamiliesmayexerclseorgantransplantrightsintheplaceofabrain

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は じ め に

現代の日本において、私的所有というテーマは規範的課題の一つと見なすことができる。

「私のものをどのように扱うかは私の意志決定の対象である」という認識は多くの社会構 成員に共有されており、「私のもの」に自らの身体や生命が含まれうると考えられている現 状がある。たとえば、生命倫理学の文脈においてはインフォームド・コンセント、死の自

己決定権、あるいは脳死・臓器提供に関する意思表示などを挙げることができる。

身体の私的所有概念は、19世紀の哲学者・経済学者である』.S・ミル(1806‐1873)

が著したOnLjbeI力'(1859)〔邦語訳書名『自由論』〕において次のように端的に示され

ている。

「いかなる人の行為でも、そのひとが社会に対して責を負わねばならぬ唯一の部分は、

他人に関係する部分である。単に彼自身だけに関する部分においては、彼の独立は、

当然絶対的である。個人(mdividual)は彼自身に対して、すなわち彼自身の肉体(body)

と精神(mind)とに対しては、その主権者(sovereign)なのである。」’

-17‐

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OnLjber”という著作名に示されているように、個人の意思決定の問題は「自由」の問

題として論じられることが多い。しかし、本稿では意思決定の対象となるもの、すなわち 処分に関して意思決定可能な所有対象とは何かという点に焦点をあて、「所有」の問題とし て論じる立場を取る。

本稿の目的は、脳死・臓器移植における身体の私的所有権の正当化を試みることである。

具体的にはまず、身体の私的所有概念とそれに対する三つの批判を概観する。次に、ジョ ン・ロックの所有権思想、および一ノ瀬正樹によるperson概念の解釈を参照する。最後 に、一ノ瀬による「死の所有」の観念を参照したうえで、脳死・臓器移植における身体の 私的所有権の正当化を試みる。それではまず、身体の私的所有概念について見てみよう。

1身体の私的所有概念とそれに対する批判 1.1私的所有概念と問題の所在

倫理学者の大庭健によれば、彼はまず、所有が法・経済で語られるときの基本事項を挙 げる。ある人Pさんがあるものxを「所有している」とは、「どのようにxを用益あるい は処分するかを、Pさんが一人で排他的に決定することを、xに関心をもつ他者たちが承 認する」2という事である。

この規定において重要なことは、「排他的決定とそれに関する他者による承認」である。

このような所有形態は一般的に「私的所有」と表現され、近代を特徴づけるものとされる。

私的所有とは、所有者による排他的決定権が他者によって承認されている所有形態として 捉えることができる。

この前提を踏まえ、大庭は所有という概念について「(1)他者による承認を前提とし、(2)

『私』であることと『排他的』であることの関係に関わる、人間的な概念である」3と規定 する。さらに大庭は続けて、「(3)私たちは、自分が生きている.自分がいるという『存在』

の事実を、自分『の』生命・能力等々をもっている、という形で『所有』の事実に回収し てしまう思考回路から、いまだ自由ではない」4と述べ、現代における「存在」と「所有」

に関する私たちの思考のあり方を批判している。

大庭はまた、私たちの思考習慣について次のようにも批判する。

「生を構成している身体、生命、特性・能力を、自分『の』身体、生命、能力と解し、

そこで使われている『の』を、文字どおりの所有格と解し、それらと自分との関係を

『所有一用益』という概念で理解する。こうした思考習慣に、私たちは悲しいまでに

『取りつかれて』いる。」5

大庭によるこれらの批判については、具体例がすぐに思い浮かぶ。たとえば、他者との 差異を意識したファッションや携帯電話のアクセサリーで自分らしさをアピールする行為 は、自分の所有物によって自分のアイデンティティを確認する営みと捉えることが可能で

‐18‐

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ある。また、自己管理、自己PR、自己ブランディングなど、私たちは日常生活において 自分「の」身体、特性・能力を磨き、自分に対する他者6からの評価を得たいと考え、行動 しているのではないか。あるいは、社会がそのような評価の枠組みにもとづき、各個人に 対して自分「の」身体、特性・能力を磨くことを奨励しているようにも思われる。大庭は このような事態について、次のように述べている。

「こうして『私だけが所有するもの』を確保することが、私が私でありうるための根 本的な条件となる。(中略)しかし、唯一の私であるということは、いまや『他の誰と も違う個性』の持ち主だ、つまり『他の誰ももっていないもの』の所有者だ、という ことに還元されてしまう。(中略)とりかえのきかない唯一の私である、ということは、

私にのみ固有の能力・特性・資質・財産等々を所有している、つまり排他的に用益・

処分できる、ということに回収される。(中略)各人はみな、『他の人のもたない、何 を所有しているか』という一点でのみ、他者との差異化に腐心する。」7

以上、私的所有という考え方が、私たちの日常生活にいかに密接な関係を有しているか が分かる。そこで次に、本稿の主題である身体の私的所有概念について考えることにした い。身体の私的所有概念とは、端的にいえば「私のものである私の身体について、それを どのように扱うかは私の意思決定の対象である」という考え方である。この考え方に対す る批判を見てみよう。

1.2大庭健による批判

大庭の議論の中で身体の私的所有概念に対する批判と見なせるものは、心身二元論的見 解に対する批判である。大庭は二次のように述べる。

「デカルト的二元論によれば、まともな意味で存在していると言えるのは、空間のう ちに位置を占める物体と、それらについて思惟している、おのが精神だけである。し たがって、もはや亡きものにかんしては言うまでもなく、現存する他者についてです ら、まともな意味で存在していると言えるのは、その身体だけである。亡き者のだろ うが、現存のであろうが、他人の心などといったものは、しょせん身体の振舞いをも とに推論され、想像されるにすぎない。しかし、『この』(と我が身を指して語られる)

身体という物体だけは、唯一無二の特別のあり方をしている。それは、私=精神の『意 のまま』になるという意味で、『の』という所有格で私とつながっている、唯一の物体 なのである。」8

続けて大庭は、「デカルト的な私=魂は、物体のみの世界と一人向かい合い、世界内の『こ の』体を所有し、意のままに動かす自由な主体となる」9と述べ、近代的な個人の誕生経緯

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について指摘する。

彼はさらに、「自己の生命・能力を『所有』し、自己の生命・能力を『自ら律し』、それ らを用益して作ったものを『所有』するデカルト的な自我」について、「版籍(領地・領民)

を意のままに用益・処分する領主」に例える'0.領主としての自我は、私の身体・能力と いう版籍を制御し用益し、その果実を享受するのである。また、そのような自我は領主と 同様に、「自分『の』身体・能力の用益の仕方について他人が口出しするならば」、「それを

『内政干渉』として斥けていい」''と考える。大庭はこのような自我をミニ領主と名付け、

以下のように結論づける。

「デカルト的な自我は、“物的対象の世界に内在しない私”という観念に『取りつかれ る』ことによって、生命・身体・能力を『所有』する主体、すなわち自己『の』生命・

身体・能力と言うときの『の』を文字どおりの所有格と解し、それらを意のままに用 益・処分するミニ領主としての私、となった。」’2

この結論における「取りつかれる」という表現は1.1の引用文中にも見られるが、要する に大庭は、主体である「私」(=自己)の精神的側面のみを重視し、「私」から身体的側面 を切り離す捉え方を批判していると解釈できる。身体の私的所有という発想は、「私」から 身体的側面を切り離し、所有物と見なすことによってはじめて成立するのである。

以上の大庭による批判の意義は、主体概念について問題提起していることである。「身 体」は「私」すなわち主体と不可分に結びついており、主体の所有対象とはなりえない、

というのが彼の主張である。次に小松美彦による身体の私的所有概念に対する批判を見て みよう。

1.3小松美彦による批判

小松は、脳死・臓器移植に対する著名な批判者の一人である。彼が展開する議論のうち、

身体の私的所有概念に対する批判と見なせるものは「死の自己決定権」に対する批判であ る。以下、彼の有名な著書である『死は共鳴する』(1996)をもとに、その批判の概要を見 ることにしたい'3.

小松は「死の自己決定権」の見えざる立脚基盤について探求する中で、現代では生命や 死が「所有格つきの生命・死」として語られることに着目する。「所有格つきの生命・死」

として語られていることには、生命や死に対する私たちのある種の把握のしかたが隠され ているのではないかと彼は指摘する。

小松によれば、現代の生命や死に関する語られ方には二つの観念が前提されている。一 つは、「自分の生命や死は自分の所有の対象である」(「死の個人所有性」、死の代理不可能 性)という観念である。小松はハイデガーの『存在と時間』における死をめぐる議論を参 照しつつ、死の代理不可能性について言及する。「現存在は、自身の死に向かって先駆的に

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かかわることで、本来性・固有性・個別性を回復」し、「死に向かう限りにおいて、私は他 者ではない私を生きることになる」。すなわち、「死の個人所有性」とは誰もが自らの死を 引き受けざるをえず、その意味で死は各人に所有されている、という事である。

もう一つは、「死は個々人に内在・内属している」(「死の個人内属‘性」)という観念で ある。人間を構成する必須条件として身体があり、それゆえ人間は生理学的に必ず死を迎 える。その意味で、死は各人に内在しているといえる。

小松は、ハイデガーの論理構成においては死の代理不可能‘性が死の個人内属性に置きか えられてしまい、さらに、その置き換えに気づかぬことに問題があると指摘する。このよ うな置き換えには、それ以前にもうひとつの置き換えがあると小松は考える。それは、死 (Tbd)と死亡(Sterben)の置き換えである。

小松によれば、死とは死者と看取る者との関係のもとに成立する非知覚的な差異化的統 一態であるのに対し、死亡とはある一定の状態、ないしはある状態からある状態への移行 過程を指す知覚的なものとされる。死と死亡の置き換えがなされているため、死の代理不 可能性を根拠に死の個人内属性が捉えられてしまうと小松は指摘する。さらに、この二者 は、死の個人内属性が土台として死の代理不可能性(死の個人所有‘性)を支える関係にあ るとされる。

以上をもとに、「死を死亡に還元し、死を個々人に内属するものとするこの基本的了解 こそが、『死の自己決定権』を根底から支え、その太刀打ち“不能''の説得力を生み出して いるのではないだろうか」’4と小松は結論づける。彼はまた、「死が個人に内属していると いうイメージ、すなわち死が個人の身体内に閉塞しているというイメージ」を私たちが共 有していることに触れ、「各々の死が独立自存するものとして捉えられるのは死の個人閉 塞性に起因する」と指摘する。そして、先述の基本的了解における死のイメージを「個人 閉塞した死」と名付け、批判対象と見なす'5.

小松はさらに、「個人閉塞した死」とは異質なものとして「共鳴する死」を挙げる。こ の「共鳴する死」について、彼はこと西欧中世に伺い知ることができると述べ、次のよう に説明する。

「それは、死が点ではなく時間的な流れであり、そして範囲の差はあれ他者をも包摂 しており、それゆえ死が死亡へと還元されていない死である。人々はひとつの死をと もに生きており、死はひとつながりの紐帯となっているのである。あたかも、振動数 を同じくする発音体がつぎつぎと共鳴りをおこしてひとつの音をなすように、ある者 の死亡は周囲の者と分かち合われ、ひとつの死を形づくるのである。」’6

この説明を見れば分かる通り、小松は死を個人に還元せず、関係性の中でつくられるもの と捉えている。また、小松は「決して死は『もの』ではなく、『こと』の領域に属している」

'7とも述べている。

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小松によるこのような批判の意義は、本来は関係性の中で「こと」として捉えられるべ き「死」が、「死亡」という生物学的現象に還元されることにより、個人に内属する「もの」

として捉えられていると指摘したことだと思われる。本来は他者との関係性の中で受容さ れていた死が、現代では個人の意思決定の枠内にあることが前提とされており、小松はそ れを問題視している。

小松による批判の意義は、「死」に関する個人閉塞性の問題を指摘したことである。

「死」は「生」と連続していることから、「死」に関する個人閉塞性の問題は「生」につい てもあてはまると思われる。さらに、この問題を脳死・臓器移植という文脈で捉えるなら、

各人が日常生活を送っている時に、脳死状態になった場合は「脳死」を選択し、自己の希 望にもとづいて臓器移植を実施して欲しいと自己決定することは、「身体」に関する個人閉 塞性の問題として批判対象になりうる。次に、この「身体」という点に着目した鷲田清一 による批判を見ることにしたい。

1.4鷲田清一による批判

哲学者の鷲田はその編著書『所有のエチカ』において、ガプリエル・マルセルによる身 体論に言及した上で次のように述べている。

「身体がだれかの所有物ではないということは、その処遇の決定者が一生のあいだに 何度か変わる、という点からもうかがうことができる。(中略)だれか一人のひとがそ

へそ

の身体を終生生きるということは、ふつうありえない。ひとはじぷんで隅の緒を切る ことはできないし、じぶんで棺桶に入ることもできない。身体は主体の器官として生 きられもするが、他者との共同生活のなかで生きられもする。ひとは身体を所有する というよりもむしろ、当該人物を中心としてそのまわりのひとがその身体を世話を焼 く、お守りをする、いじる、いっしょに使う……と言ったほうが、だからまだ抵抗が 少ないかもしれない。要するに、自己の身体への自己の閉じられた関係、つまりは単 体のプライヴェートな存在という身体のあり方が、身体にとってはむしろ変則的な事 態なのではないだろうか。」’8

この引用で重要なのは、身体が生きられる仕方には二つの側面がある、という指摘である。

一つは「自己の身体への自己の閉じられた関係」という側面であり、単体のプライヴェー トな存在として身体がある。もう一つは「自己の身体が他者へ開かれた関係」という側面 であり、他者へ開かれたものとしての身体がある。鷲田による批判の意義は、後者の側面 を指摘したことであると見なすことができる。

以上、本節では身体の私的所有概念とそれに対する三つの批判を概観した。これらの批 判のそれぞれの意義を、ここでもう一度確認しておこう。大庭による批判の意義は、身体 は主体と不可分に結びついており、主体の所有対象とはなりえないという事であった。ま

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た、小松による批判の意義は、死に関する個人閉塞性の問題を指摘したことであり、それ を脳死・臓器移植という文脈で考えた場合、脳死・臓器移植に関する自己決定は身体に関 する個人閉塞性の問題として批判対象になりうるという事であった。最後に、鷲田による 批判の意義は、身体には他者に開かれた側面があることを指摘した点であった。

これらの批判には、各人の身体を各人の私的所有権の対象としてのみ見なすことには、

重要な倫理的問題があるのではないか、という論点が通底しているように思われる。この 論点について考察するにあたり、英国の哲学者・政治思想家であるジョン・ロック(1632

‐1704)の所有権思想をまず見ることにしたい。なぜなら、その思想は現代における私的 所有という発想の淵源と見なされることが多いからである。

彼の所有権思想で着目すべき点は、各人に対し、その私的所有権の起点として各人それ ぞれのpersonに対する私的所有権を認めていることである。このpersonとはいかなるも

のであるかについて考察することが、本節で取り上げた諸批判に通底する論点に関する考 察ともなりうる。したがって次節では、ロックの所有権思想をまず概観した上で、person

とはいかなる概念であるかについて考察することにしたい。

2.ジョン・ロックの所有権思想とperson概念 2.lジョン・ロックの所有権思想

ロックの所有権思想は?hmon1ea雄esQfGm"emmeI]t(1690)〔邦語訳書名『統治二論』〕

の第二論文(以下、第二論文と略)において述べられている。第二論文では、私的所有権 の正当化およびその制約条件について考察が展開されている。第二論文に関し、本稿の主 題との関連において着目すべき事項が二つある。

第一は自然状態・自然権・自然法である。自然状態とは人間が政治的共同体を構築する 前の状態を仮定したものである。この自然状態において、各人は自然権を有する。そして、

この自然権の行使および制約の根拠として、自然法が措定されている。自然法は神が与え たものであり、自然法が要請することを理解するためには理性のはたらきが必要とされる。

さらに、政治的共同体は自然法に合致するようなあり方を求められる。

このような前提を踏まえて考えると、私的所有権は自然法によって正当化されると同時 に制約される。つまり、私的所有権は自然法に即して行使されるべきものとされる。また、

政治的共同体が自然法に反する結果へ至った場合、その政治的共同体を革命によって廃し、

自然法に合致する政治的共同体を構築することが各人に求められる。

第二はpersonに対する私的所有権、その私的所有権の対象範囲を拡張する原理、およ び私的所有権に対する制約条件である。これらが最も明確に示されている箇所の一つは次 の第二十七節である。

「たとえ、大地と、すべての下級の被造物とが万人の共有物であるとしても、人(man)

ゾ ロ ハ ナ ・ ィ

は誰でも、自分自身のpersonに対する固有権(property)をもつ。これについては、本

-23‐

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人以外の誰もいかなる権利をももたない。彼の身体の労働Oabourofhisbody)と手の 働き(workofhishands)とは、彼に固有のものであると言ってよい。従って、自然が

供給し、自然が残しておいたものから彼が取りだすものは何であれ、彼はそれに自分 の労働(hislabour)を混合し、それに彼自身のものである何ものかを加えたのであって、

そのことにより、それを彼自身の所有物(property)とするのである。それは、自然が

設定した状態から彼によって取りだされたものであるから、それには、彼の労働 (labour)によって、他人の共有権を排除する何かが賦与されたことになる。というの

は、この労働(labour)は労働した人間の疑いえない所有物(property)であって、少なく

とも、共有物として他人にも十分な善きものが残されている場合には、ひとたび労働 が付け加えられたものに対する権利(arighttowhatthatisoncejoinedto)を、彼以外

の誰ももつことはできないからである。」’9

この節には、各人による各人自身のpersonに対する私的所有権が端的に語られている。

私的所有権の言明と見なせるのは最初の三文である。この箇所では、各人が自分自身の personに対し、排他的な権利を有していることが述べられている。

次に、私的所有権の対象範囲を拡張する原理として見なせるのは、上記の二文に続く残 りの文章のうち、「少なくとも~場合には」を除く箇所である。personに対する排他的な 権利(私的所有権)を前提とし、その権利の対象範囲を労働によって拡張することができ

ると述べられている。

そして、先ほど除外した「少なくとも~場合には」の箇所が私的所有権に対する制約条 件の言明と見なすことができる。本稿ではこの制約条件について「十分性の制約」と呼ぶ ことにする。私的所有権はどのような場合でも主張しうるものではなく、他者にも十分な 善きものが残されている場合のみ、有することのできる権利である。

また、私的所有権に対する制約条件は他にもある。それは、第二論文の第三一節におけ る下記の箇所に端的に示されている。

「しかし、神は、どの程度にまでわれわれに与え給うたのであろうか。それらを享受 する程度にまでである。つまり、人は誰でも、腐敗する前に、自分の生活の便益のた めに利用しうる限りのものについては自らの労働によって所有権を定めてもよい。し かし、それを越えるものはすべて彼の分け前以上のものであり、他者に属する。腐敗 させたり、破壊したりするために神が人間に向けて創造したものは何もない。」20

私的所有権の適用範囲として、「自分の生活の便益のために利用しうる限りのものについ て」という制約条件が設定されている。この制約条件を、本稿では「腐敗の制約」と呼ぶ ことにする。

これらの制約条件(「十分性の制約」、「腐敗の制約」)について、先行研究では「ロック

-24‐

(9)

的但し書き」と呼ばれることが多い。この但し書きは、私的所有権が無制限なものではな く、他者への配慮をともなう権利行使のあり方を要求するものと捉えることができる。

最後に、生命や身体に対する所有権について、ロックはどのような見解を有していたの だろうか。第二論文の第六節において、「人は、自分のpersonと自分の所有物とを処理す る何の制約も受けない自由をもっているにしても、彼は、自分自身を、また、自分が所有 するいかなる被造物をも、単にその保全ということが要求する以上のより高貴な用途があ る場合を除いて〔ほしいままに〕破壊する自由をもたない」、「各人は自分自身を保存すべ きであり、勝手にその立場を放棄してはならない」とロックは述べている21。また、他の 節でも同主旨の発言をしている。これらの箇所を見る限り、ロックは生命や身体に関し、

私的所有権を認めていないと理解することができる。

以上、ロックの所有権思想における私的所有概念、その私的所有権の対象範囲を拡張す る原理、および私的所有権に対する制約条件について概観したが、やはり問題となるのは person概念およびpersonに対する私的所有概念であると思われる。personという用語は

一般的に「人格」と訳され、道徳的行為主体としての機能を果たしうるもの、というイメ ージで語られることが多い。そのイメージからすると、本来は主体であるはずのperson が、なぜ所有対象として語られているのかが問題となる。そこで次に、これらの諸問題に ついて、一ノ瀬正樹の論考を参照しつつ、考察することにしたい。

2.2person概念に関する一ノ瀬正樹の解釈

ここでは、一ノ瀬の『死の所有』(2011)の主に第2章(「死ぬ権利」の欺職)および第 3章(生命倫理と死ぬ主体)をもとに、一ノ瀬が提示するperson概念を取り上げる22。な お、person概念の考察に入る前に、現代の生命倫理学においてperson概念と不可分に結

びついている「自律」あるいは「自己決定」に関する一ノ瀬の見解についてまず取り上げ る 。

彼は安楽死論争に焦点をあて、安楽死推進派がその根拠として挙げる自分の「生命への 権利」に対する「自律」あるいは「自己決定」、およびその拡張形としての「死ぬ権利」に 着目する。「生命への権利」は「身体」への権利として現われ、その権利が近代以降の先進 諸国において最も基本的な権利として認められてきたとされる。「死ぬ権利」はその流れの 延長上に、身体を自由に処分する権利として捉えられる。この意味で、身体への権利は所 有権の一つと見なすことができると一ノ瀬は考える。こうして、近代以降の先進諸国では、

自分の身体や生命は自分が所有しているのだから、自律的な自己決定によって自分の生命 の扱いを決められるのであり、場合によっては自発的安楽死を求めることができるとする 論理が成立する。

この論理に関し、一ノ瀬は「自分だけの考慮によって自己責任のもとで自分のことを決 定する、といった自律なるものは端的に不可能である」23と主張する。私たちが何かを決 定するときに依拠するさまざまな価値観が、社会およびその構成員からの影響を受けて形

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成されることを考えれば、文字通りの意味での自己決定は不可能であることが誰にでも理 解できるはずである。「自律」概念は自由の概念を介して「責任」概念と結びついており、

何層もの他律的背景のもとでの「責任」が語りうるような仕方での、当人のあり方である と一ノ瀬は規定する。

次に、一ノ瀬が提示するperson概念(以下、『死の所有』の当該箇所における一ノ瀬の 表記に合わせ、ここではpersonを「人格」と表記する)について見てみよう。彼は「自 己決定」をめぐる係争状況を整理し道筋をつける決め手は、「人格」概念それ自体にあると 考える。

現代の生命倫理学では、「人格」概念について「自律的な個人として自由に自己決定でき る存在」という定型的な見方がなされているが、それは伝統的な「人格」概念であるのか、

と一ノ瀬は問題提起する。現代の生命倫理学における「人格」概念も伝統的な「人格」概 念も自己意識に立脚するものの、「意識」をいかに捉えるかに根本的な相違があると彼は指 摘する。

彼は「意識」について、前者は一人称の心理的事実に還元してしまうのに対し、後者は

「他者の三人称的視点を媒介することによって、規範的に、そう意識するべきである、と いう形で課せられてくるもの」24と捉える。この点から、一ノ瀬は現代の生命倫理学にお ける「人格」概念が、一人称の心理的事実に閉塞した形で議論が立てられていると批判す る 。

この点について、「人格」すなわちperson(パーソン)という語の原義に着目し、掘り 下げて考えてみよう。personという語はラテン語persona(ペルソナ)に淵源をもち、

personaと同様に「仮面」という原義を有する。「仮面」とは、俳優が古典劇でつけていた ものを示している。俳優は劇において何らかの「役割」を果たすのであり、その「役割」

を象徴するものとして「仮面」が使用されていたと考えられる。また、personは「(劇.

小説などの)登場人物」という意味も有している。劇・小説における登場人物は、劇・小 説の筋書きにおける構成要素の一つである。

このように考えると、「役割」にはしかるべき役目があり、それを果たすことを要請さ れていると捉えることができる。したがって、personという語の原義に着目した場合も、

ある種の規範性が要求されるものとして「人格」概念を捉えうると思われる。

最後に、「人格」が所有対象として語られていることに関する一ノ瀬の見解を見てみよ う。「人格」という概念は一般的に、精神的実体としてイメージされることが多いように思 われる。魂のような精神的実体が身体とは独立に存在し、主体として自存するというイメ ージである。しかし、ロックはこのような「人格」概念の理解を批判したのだと一ノ瀬は 主張し、第二論文の第二十七節をもとに次のように述べている。

「人格とは所有権の起点あるいは母体であり、人格に属する労働によって所有権が拡 張されていくという考え方、いわゆる労働所有論、これがロック固有の所有権理解に

‐26‐

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他ならない。言い換えるならば、人格とは所有権の生成する場所であり、そのような 意味で、所有権は人格の要素となるとき発生する、という考え方である。ということ は、つまり、人格は、個々の要素としては所有される対象であり、同時に、総体とし ては所有の主体である、と述べることができるだろう。」25

上記引用で示されている議論は、一ノ瀬の別の著作である『人格知識論の生成』におい ても言及されている。彼はその著作で上記の議論を「人格要素説」と名づけ、人格を構成 する要素になるとはいかなることであるかについて次のように述べている。

「それは、ある人の人格概念が自己と他者の相互的な交流において出現してくるときの、

その交流を形成する営みや行為、あるいは言語行為、そうした実践の内実となるという ことであり、そのような実践内容のあり方がその人の所有権として抜き出されたと、そ のように述べることができよう。」26

このような解釈をもとに、一ノ瀬は「人格」概念を「自分自身」の存在様態としての概念 と捉え、「そのつど変容し生成消滅する実践的な動態として機能している概念である」27と 結論づける。

以上、本節ではロックの所有権思想を概観し、一ノ瀬の論考を手がかりにperson概念 について考察を行った。自己決定および「人格」に関する一ノ瀬の考察は、前節で取り上 げた三つの批判に通底する論点、すなわち、各人の身体を各人の私的所有権の対象として のみ見なすことには重要な倫理的問題があるのではないか、という論点につながりうるも のと見なすことができる。次節では、一ノ瀬による「死の所有」という観念を手がかりに、

脳死・臓器移植における身体の私的所有権の正当化を試みたい。

3脳死・臓器移植における身体の私的所有権の正当化 3.1一ノ瀬正樹が提起する「死の所有」の観念

前節で取り上げた『死の所有』の第2章および第3章をもとに、一ノ瀬が提示する「死 の所有」観念およびそれにもとづく脳死.臓器移植に対する一ノ瀬の見解を取り上げる28°

彼は死刑に関する考察を通し、「死の所有」の観念を提示する。私たちの日常的な感覚に おいて、死刑とは、他者の生命を奪った者に対し、その生命を差し出させるという刑罰と

して捉えられる。すなわち死刑制度とは、生命に対する他者の所有権を侵害したことによ り、侵害者自身の生命に対する所有権を喪失させる制度として捉えられる。しかし、一ノ 瀬はロックの所有権論をもとに、生命に対する所有権は成立しえないと述べる。生命に対 する所有権をもたない者に、生命を差し出すことなどできない。したがって、「生命を差し 出す」という捉え方は論理として破綻することになる。

ところが、死刑をはじめとして人が亡くなったとき、何かが差し出されたという実感が

-27‐

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あることを一ノ瀬は認める。その何かについて、「死の情景、死者への重い思いを誘引する 何か、というような形での『死』が差し出された」のではないかと彼は解釈する。その点 から、人は生きているうちから死を所有していることになると彼は述べる。

ただし、このような捉え方自体、虚想であると彼は指摘する。「差し出すということが 成立するには、差し出す主体が、つまり差し出した後でも存在する主体が、維持されてい なければならない」はずであり、そうなると死後の主体性を仮定せざるをえなくなる。現 在の法制度では死後の主体性を認めておらず、その意味で死の所有という観念は虚想であ ると言わざるをえない。

一ノ瀬はさらに、「死の所有」の観念との関連において、道徳や倫理、ひいては人間の相 互的交流、に関して、現在の私たちの言説空間では、二つの文脈あるいはモードがあると 主張する。一つは「現世視点モード」であり、もう一つは「彼岸視点モード」である。前 者は「死の所有」の観念を純然たる虚構として断固として排除するのに対し、後者は「死 の所有」の観念を虚構であるとわきまえつつも、それに寄り添い、その心理的リアリテイ を受容すると規定される。

また、「現世視点モード」は死んだら消滅する、ということが絶対の共通了解として機能 している文脈のことで、法、経済、政治などの領域に該当する。それに対し、「彼岸視点モ ード」は死者との対話といった表象のリアリティを一定程度尊重する場面であり、文化、

宗教、文学、芸術などの人文的な領域に該当する。

一ノ瀬は結論として、「この二つのモードは、つねに交錯し合い、交互に変換されながら、

私たちの交流のありようを構成している」と指摘し、今日の生命倫理にまつわる言説は、

「排除の現世視点モードに律せられるときがあるにしても、全体として受容の彼岸視点モ ードに色濃く染まっている」と主張する29・

一ノ瀬は以上の「死の所有」の観念を踏まえ、脳死・臓器移植の問題に関して次の見解 を提示している。

「基本的人権を基礎とする法的な思考によって表向き律せられる場面、すなわち通常 の医療現場や私たちの日常的な相互交流の場合、『死の所有』の観念は排除されており、

死んだらその人はいなくなる、という考え方が基本である。よって、死んだ者には意 思はない、よって自分の死体について自己決定権はないと判断されるはずである。け れど、『脳死』の場合、『死の所有』の受容のモードに容易に転換し、死んだ者の意思 という概念が意味を持ち始め、自分の死体への自己決定権という言説が立ち上がって くるのである。」30

以上の議論を踏まえるかぎり、一ノ瀬は、現実の法的権利としては、本来は脳死体に対 する当該者の私的所有権を認めることができないはずであると判断しながらも、人文的な 領域においては脳死体に対する当該者の私的所有権を認める余地がある、と考えているよ

-28‐

(13)

うに思われる。そこで次に、ここまでの議論を踏まえつつ、脳死・臓器移植における身体 の私的所有権の正当化を試みる。

3.2脳死・臓器移植における身体の私的所有権について

最後に、脳死・臓器移植における身体の私的所有権について考察してみよう。脳死状態 とは脳の機能が不可逆的に機能停止した状態であり、日本の現行法下で認められている死 の形態の一つである。したがって、脳死・臓器移植とは、脳死体から臓器を摘出し、生者 の身体へと移植する医療行為である。

脳死.臓器移植における身体の私的所有権に関し、私は次の二つの考察を行う。第一は 私的所有権の主体としての「人格」概念に関する考察であり、第二は脳死.臓器移植にお ける身体の私的所有権に関する考察である。

まず、私的所有権の主体としての「人格」概念について考えてみよう。2.2において、

「人格」概念に関しては「意識」をいかに捉えるかが重要であり、「他者の三人称的視点を 媒介することによって、規範的に、そう意識するべきである、という形で課せられてくる

もの」31と捉える一ノ瀬の見解を参照した。また、PerSOnの原義に着目した場合も、ある 種の規範性が要求されるものとして「人格」概念を捉えうることを確認した。

私はここで、「人格」、「身体」、および「自我」という三つの要素を用いて、「人格」概 念について考察する。理由は、私的所有という問題について考察するうえで、それら三つ の要素は不可分の関係にあると思われるからである。

一ノ瀬は現代の生命倫理学における「人格」概念は、「意識」を一人称の心理的事実に 還元してしまっていると批判しているが、心理的事実とは「自我」の欲求と見なすことが できる。「自我」の欲求は人間を構成する不可欠な要素であり、考察対象に含めるべきであ ると考えられる。

また、「身体」も人間を構成する不可欠な要素であり、人間は「身体」なしには人間た りえない。さらに、「身体」にもとづく様々な欲求が人間には生じる。これらの事実から、

「身体」も考察対象に含めるべきであると考えられる。では、「人格」、「身体」、および「自 我」は、どのような関係にあるのだろうか。まず、私が作成した次の図を見ていただきた

い。

-29‐

(14)

「身体」、「自我」、「人格」の相ド

まず、人間が生きていくうえでの基盤として「身体」がある。「身体」は母胎内で発生し、

この世に産み落とされた後、成長し、老い、消えゆく。その「身体」を土台とし、成長過 程において「自我」が形成されていく。「自我」は意識と欲求によって示される。「身体」

の状態が自我に影響を与え、自我のあり方が「身体」に影響を与える。両方向の矢印は影 響の相互‘性を示している。さらに、「身体」と「自我」は相互に影響を与えつつ、「環境」

への志向性を有する。白の太矢印はその志向性を示す。

また、黒の太矢印は他者や社会をはじめとする「環境」からの影響である。これをここ では外的影響と呼ぶ。外的影響は、「身体」と「自我」にもとづく「環境」への志向性と衝 突し、その衝突において自と他の境が絶えず確認される。その境が少しずつ積み重なり、

形成されていくことにより、衝突を受け止める型としての規範的はたらきが生じる。その 規範的はたらきを「人格」として私は捉えたい。すなわち、「人格(person)」とは「自我」

と「身体」を統制し統合し続ける規範的はたらきである。

結論として、生者において「自我」、「身体」、および「人格」は不可分な関係にある。ま た、生命体は自らの寿命という枠内で、自らの生命の存続を欲するという生物学的事実が あり、また、人間社会においても生命は最も根本的な価値の一つであり、それを保持する ことが根本的規範の一つとして共有されているといえる。したがって、生命保持に不可欠 な「身体」を、生者が自らの意思にもとづいていかなる扱いをしてもよく、場合によって は死を選択してもかまわないという捉え方は、原則として成立しえない。

ここで、本稿で取り上げた大庭、小松、鷲田、ロック、および一ノ瀬の議論と、私が提 示した議論の関係について述べることにしたい。私は’.4において、大庭、小松、鷲田 の三者には、各人の身体を各人の私的所有権の対象としてのみ見なすことには、重要な倫 理的問題があるのではないか、という論点が通底しているのではないかと指摘した。各人 の身体を各人の私的所有権の対象として見なす捉え方とは、主体としての自己意識と客体 としての身体を切り離して捉える二元論的な見解である。この見解を私の枠組みで捉えな おしてみよう。

-30-

(15)

二元論的な見解については、二つの問題があると思われる。第一の問題は身体の位置づ けである。自分の意思にもとづいて自分の身体を動かすことができること、また、社会に おいて各人の身体が各人に固有のものと見なされていること、これらについては事実とし て認めることができる。しかし、それらの事実から、各人が各人の身体をどのように扱っ てもよいという規範が認められているわけではない。また、生物学的事実として、自己意 識は身体内の生理学的活動に立脚しているのであり、その意味で自己意識と身体とを完全

に切り離して捉えようとする見解は、事実を軽視した見解であるといえる。

この問題に対応するのが、「基盤としての身体」という私の捉え方である。身体は自我 および人格の基盤である。自我は身体より生じ、人格は自我と身体を統制し統合し続ける 規範的はたらきである。したがって、身体を単純に客体と見なすことはできなくなる。

第二の問題は主体概念である。二元論的な見解における主体は自己意識であるが、それ を単に自分の欲求のみにもとづき行動を選択するものと捉えるなら、私の枠組みでは自我 に該当する。この自我は、環境との相互的影響を通して規範的なはたらきである人格によ って統制されるべきものである。したがって、私の枠組みでは、自己意識は主体たりえな

い。

次に、ロックの議論と私が提示した議論の関係について見てみよう。2.1で述べたが、

ロックの所有権思想では、各人は自然状態において自然権を有する。この自然権の行使お よび制約の根拠として、自然法が措定されている。自然法は神が与えたものであり、自然 法が要請することを理解するためには理性のはたらきが必要とされる。このロックの考え を私の枠組みにあてはめると、自然法が「環境」に含まれると考えられる。

また、その自然法が要求するものを理解する働きとしての理性を行使するのは人格であ り、理‘性によって人格が行為を制御すると捉えれば、ロックの思想における人格は私の議 論における「人格」に該当すると考えられる。

さらに、2.1で見た通り、ロックは生命や身体に関し、私的所有権を認めない趣旨の記 述をいくつかの箇所で行っている。もう一度、第二論文の第六節における当該箇所を取り 上げてみると、「人は、自分のpersonと自分の所有物とを処理する何の制約も受けない自 由をもっているにしても、彼は、自分自身を、また、自分が所有するいかなる被造物をも、

単にその保全ということが要求する以上のより高貴な用途がある場合を除いて〔ほしいま まに〕破壊する自由をもたない」、「各人は自分自身を保存すべきであり、勝手にその立場 を放棄してはならない」とロックは述べている32・彼のこのような主張は、私の枠組みと 同じ構造を有していると思われる。

それでは最後に、一ノ瀬の議論と私が提示した議論の関係について見てみよう。2.2で 見たように、一ノ瀬は現代の生命倫理学における「人格」概念も伝統的な「人格」概念も 自己意識に立脚するものの、「意識」をいかに捉えるかに根本的な相違があると指摘する。

彼は「意識」について、前者は一人称の心理的事実に還元してしまうのに対し、後者は「他 者の三人称的視点を媒介することによって、規範的に、そう意識するべきである、という

-31‐

(16)

形で課せられてくるもの」33と捉える。私の枠組みにおける「自我」概念が「一人称の心 理的事実」に該当し、私の枠組みにおける「人格」概念が、伝統的な「人格」概念と接点 を有すると思われる。また、一ノ瀬はロックの所有権思想を土台として自らの論を展開し ており、それゆえに生者に対しては、身体に対する各人の私的所有権を認めていない。

次に、脳死・臓器移植における身体の私的所有権について考えてみよう。3.1では、一 ノ瀬が、現実の法的権利としては脳死体に対する当該者の私的所有権を認めることが本来 できないはずであると判断しながらも、人文的な領域においては脳死体に対する当該脳死 者の私的所有権を認める余地がある、と考えているのではないかと私は解釈した。つまり、

脳死体に対する当該脳死者の私的所有権は、法的権利としては原理的に成立しえないにも かかわらず、人文的な領域における権利としては成立する余地が考えうると私は解釈した。

この人文的な領域における権利について、一ノ瀬の「死の所有」の観念を手がかりに考 察してみよう。脳死者は自分の遺族に対し、自らの「死」を差し出した。その「死」は遺 族にとって、当該脳死者への強い思いを誘引するものとなる。脳死者が生前、脳死にもと づく臓器移植を希望していた場合、遺族が有する強い思いの中には、脳死者の意思決定を 尊重したいという気持ちがあるのではないだろうか。臓器提供に関する脳死者の意思決定 を尊重することは、脳死体に対する当該脳死者の私的所有権を代理行使する、という構図 として把握できるように思われる。

ここには、二つの重要な問題がある。一つは、生前に容認されない身体34への私的所有 権が、なぜ脳死後に認められるのかという問題である。もう一つは、もし仮に脳死者の私 的所有権を認めるとして、なぜ遺族がその権利を代理行使できるのかという問題である。

まず、第一の問題について考えてみよう。生前になぜ身体への私的所有権が認められな いかといえば、原則として人間には自らの生死を決める権利がなく、自らの生存状態を一 定水準以上に保つべきだという規範が社会に共有されているからだといえる。しかし、そ のような規範は、「人格」が機能する生命を前提としている。脳死が死である以上、当該脳 死者からは「人格」機能が喪失された段階といえる。

「人格」機能の喪失は、身体への私的所有権に対する禁止という制約条件を弱めること になる。なぜなら、その身体は「死体」だからである。「死体」は生きていない身体といえ る。したがって、生命の侵害にならない以上、身体への私的所有権を絶対に禁止すること は困難であるように思われる。ただし、もちろん死体が生きていないとしても、その死体 が身体、すなわち基盤として構築してきた人格間の交流の蓄積によって形成された脳死者 の虚構の人格が、遺族の中には残る。

その虚構の人格は、生前、当該脳死者がその家族と共有してきた時間、経験、生きざま などである。そもそも、AさんがAさんであるという事は、Aさん自身のみが決めるので はなく、そのAさんとの相互作用の中で生きている他者たちによって決められるものでも ある。その意味で、人格とは関係概念であり、静的ではなく動的な概念であるといえる。

次に、第二の問題について考えてみよう。上記の流れを踏まえる限り、当該脳死者の私

-32‐

(17)

的所有権をその遺族が代理行使する根拠は、当該脳死者への強い思いであると考えられる。

なぜなら、強い思いは当該脳死者が生前、遺族と培った「人格」間の交流の蓄積にもとづ くからである。私の枠組みでは、「人格」は他者を含む「環境」との相互作用において形成 されるものである。その「環境」において最も強い要素の一つが家族であると思われる35°

したがって、脳死・臓器移植における身体の私的所有権は、人文的な領域における権利 として成立しうるのであり、その権利行使は、当該脳死者の遺族による代理行使という形 態を取るものと規定することができる。

なお、ここでの私的所有権については次の二点に留意すべきである。第一に、脳死・臓 器移植における身体の私的所有権の主体は脳死者であるが、その権利を実際に行使するの は当該脳死者の遺族である。第二に、脳死・臓器移植における身体の私的所有権は、生者 が行使する法的権利とはその背景が異なる。後者は権利主体の意思が原則であるが、前者 は脳死者に対するその遺族の思いが重視される。

お わ り に

本稿の目的は、脳死・臓器移植における身体の私的所有権の正当化を試みることであっ た。1では、身体の私的所有概念とそれに対する批判を概観した。具体的には、身体の私 的所有概念の規定を確認したうえで、大庭、小松、および鷲田による身体の私的所有権批 判を概観し、その批判から析出される論点を明らかにした。

2では、ロックの『統治二論』第二論文における所有権思想とperson概念について概 観した。具体的には、『統治二論』第二論文における私的所有概念、その私的所有権の対象 範囲を拡張する原理、および私的所有権に対する制約条件について概観した上で、そこで 問題となるperson概念について一ノ瀬の解釈を手がかりに考察した。

最後に3では、脳死・臓器移植における身体の私的所有権の正当化を試みた。まず、一 ノ瀬が提示する「死の所有」観念およびそれにもとづく脳死・臓器移植に対する彼の見解 を取り上げた。それにもとづき、脳死にもとづく心臓移植という具体例について検討し、

脳死・臓器移植における身体の私的所有権について考察した。結論として、この権利は、

人文的な領域における権利として成立しうるのであり、その権利行使は、当該脳死者の遺 族による代理行使という形態を取るものと規定することができた。

最後に、日本における「臓器の移植に関する法律」について一言しておきたい。同法は 1997年に成立・施行され、2009年7月に同法改正が参院本会議で可決、2010年7月17

日より改正法が施行された(以下、1997年成立・施行の同法を旧法、改正されたものを改 正法と呼ぶ)。この改正に関し、私は次の二点に着目した。

第一の点は、臓器提供における意思確認基準の変更である。旧法では脳死者の生前の意 思が前提であったのに対し、改正法では脳死者の家族による承諾のみでも臓器提供が可能 となった。第二の点は、臓器提供の意思決定条件の一部変更(すなわち、15歳以上のもの に限るという条件の撤廃)である。これにより、小児の意思決定の問題が生じ、脳死者の

-33‐

(18)

意思決定尊重という原則のみでは扱えない領域が生じた。

これら二点に着目したのは、脳死者の臓器提供についてその家族が決定する比重が高ま ったからである。脳死者の家族が、いかなる根拠にもとづいて脳死者の臓器提供に関する 意思決定を行いうるのかという問題は、社会的側面からも倫理学的側面からも考察すべき 重要な問題であると思われる。本稿はこの問題に対し、一ノ瀬の論考を手掛かりに一つの 応答を試みた。

しかし、脳死体をめぐる所有権のありようはもっと複雑であり、重層的であると思われ る。したがって、今後の課題として、本稿とは異なる観点から脳死体に対する所有権につ いて考察予定である。

参考文献 MarkGoldie(ed.),1993,ZWDneatisesQfGb肥mmeIzZEverymanPaperbacks.(加藤節

訳、二○一○年、『完訳統治二論』、岩波書店。)

CurrinVShields,01]LjbeIryf(ed.),1997,Prentice-HallInc.(塩尻公明・木村健康訳、

一九七一年、『自由論』、岩波書店。)

一ノ瀬正樹、一九九七年、『人格知識論の生成-ジョン・ロックの瞬間』、東京大学出版 会 。

-、二○一一年、『死の所有死刑・殺人・動物利用に向き合う哲学』、東京大学出版会。

大庭健、二○○四年、『所有という神話市場経済の倫理学』、岩波書店。

小松美彦、一九九六年、『死は共鳴する』、勤草書房。

鷲田清一・大庭健編、二○○○年、『所有のエチカ』、ナカニシヤ出版。

'JohnStuartMill(1859),O"LjberIt)z本稿では原書として、OnLjberlty:edited,with anintroduction,byCurrinVShields,1997,Prentice-Halllnc・を参照。邦訳引用は塩

尻公明・木村健康訳、一九七一年、『自由論』、岩波書店、二五頁。また、引用文中の 英単語は原書、p、13を参照し、西田が挿入した。

2大庭健、二○○四年、『所有という神話市場経済の倫理学』、岩波書店、九七頁。

3同書、九八頁。

4同上。

5同書、一三九頁。

6ここでの「他者」は、家族や友人などの身近な人から社会という巨大な評価システムま でを含む。

7大庭、上掲書、一○三~一○四頁。

8同書、一五二~一五三頁。

9同書、一五三頁。

'0同書、一五四頁。

-34‐

(19)

'’同書、一五五頁。

'2同上。

'3小松美彦、一九九六年、『死は共鳴する』、勤草書房。本稿での議論は同書「第四章死 の屍」(一四三~二二六頁)を対象としている。

'4同書、一六九~一七○頁。

'5同書、一七一頁。

'6同書、一八○頁。

'7同書、一六八頁。

'8鷲田清一・大庭健編、二○○○年、『所有のエチカ』、ナカニシヤ出版、二八頁。

19JohnLocke(169①,Zh月o乃eatjぢesQfGm月ammen晩本稿では原書として、汎”

2]1ea雄esof、GOWノα"ment:editedbyMarkGoldie,1993,EverymanPaperbacks・を参照。

(邦訳引用は加藤節訳、二○一○年、『完訳統治二論』、岩波書店、三二六頁。なお、同 訳における傍点強調は引用にあたって省略した。また、加藤はpersonについて「身体」

という訳語をあてているが、この点のみpersonに変えた。その理由は、personをいかな

る概念として捉えるかということ自体が、ロックの思想に関する研究においても本稿にお いても、きわめて重要な問題だからである。)また、引用文中の英語は原書、p、128を参照

し、西田が挿入した。

2o加藤節訳、前掲書、三三○頁。

21同書、二九八~二九九頁。なお、同訳における傍点強調は引用にあたって省略した。ま た、注19と同様に、personについてはpersonという英語表記に変えた。理由は注19で

述べたものと同様である。

22一ノ瀬正樹、二○一一年、『死の所有死刑・殺人・動物利用に向き合う哲学』、東京大 学出版会、第2章(七五~一○三頁)、第3章(一○五~一五七)を参照。

23同書、九一頁。

24同書、一三九頁。

25同書、三○頁。

26一ノ瀬正樹、一九九七年、『人格知識論の生成-ジョン・ロックの瞬間』、東京大学出 版会、二一二頁。

27一ノ瀬、二○一一年、前掲書、三一頁。

28同書、第2章(七五~一○三頁)、第3章(一○五~一五七)を参照。

29同書、一五五頁。

30同書、一五六頁。

31同書、一三九頁。

32加藤節訳、前掲書、二九八~二九九頁。なお、傍点強調省略とperson表記については 注19及び注21と同様である。

33一ノ瀬正樹、前掲書、一三九頁。

34ここでの「身体」は、ある人間がそれを奪われると生命を喪失してしまう臓器(心臓等)

や、それを奪われることで極端に生活の質が低下する臓器(角膜等)を念頭に置いている。

35もちろん、事例によって権利の代理行使者として家族がふさわしくない場合があるとい う問題が想定されるし、また、家族が複数名いる場合は誰に優先権を与えるのかという問 題も想定される。これらの問題については本稿で論じる紙幅がないため、別稿にて考察予 定である。

-35‐

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