大
伝
法
院
襲
撃
事
件
と
不
動
化
現
説
話
覚
鑁
の
伝
記
を
め
ぐ
って
苫
米
地
誠
一 大伝 法 院襲 撃事件 と不動 化現 説話は
じ
め
に
興教
大 師覚
鑁
聖 人 ( 一 〇 九 五 〜=
四 三 ) の 伝 記 を め ぐ る疑
問 点 の 幾 つ か に つ い て は 、 前 稿ハ , に 少 し ば か り 述 べ た所
で あ る が 、 そ こ で触
れ ら れ な か っ た 問 題 の中
で 、 今 回 は 、 保 延 六 年 (=
四 〇 ) 十 二 月 に 起 こ っ た と さ れ る 金 剛 峰寺
方 悪僧
に よ る 大伝
法
院 ・密
厳 院襲
撃事
件
を取
り 上 げ た い 。覚
鑁 が 高 野山
上 に 大 伝法
院 と 密 厳 院 を建
立 し た後
、 鳥 羽 上 皇 の威
信 の 下 に覚
鑁11
大
伝 法 院 方 に よ る 高 野 山 の 】 山支
配 が 進 め ら れ 、 そ れ に反
発 す る 金 剛 峰 寺 方 と 大伝
法
院方
と の 間 に 不 和 を 生 じ た 。 そ の 中 で 金 剛峰
寺
方 に よ る覚
鑁
・大
伝
法 院方
に対
す
る 反 感 ・排
斥 行 動 の 頂 点 に あ る も の と し て 、 こ の事
件
は 知 ら れ て い る 。而
し 関 係 す る 諸 史 料 を 比較
し て み る と 、実
際 に 在 っ た事
件 で あ る か 否 か 、甚
だ 大 き な疑
問 が 存す
る 。 結 論 か ら 言う
な ら ば 、 こ の保
延 六年
十 二 月 の 大伝
法 院 ・密
厳
院 襲撃
事
件 は 起 こ っ て い な か っ た と い う こ と で あ り 、本
論
は、 こ の 記 事 が 、 ど の よ う な 過 程 を経
て 覚鑁
伝 中 に 成 立 し 、 展開
し て い っ た か を 明 ら か に し よ う とす
る も の であ
る 。NII-Electronic Library Service 智 山学報 第四十九輯
二
、現
在
ま
で
の研
究
状
況
先
づ こ の 事件
に 関 連 す る事
柄 を、 現 在 一 般 的 に 知 ら れ て い る と 思 わ れ る 内 容 に つ い て 、 そ の各
要素
・ 項 目 に 分 け て 列挙
し て み る 。1
、 保 延 年 間 、覚
鑁 、 密 厳 院 に 籠 居 し て 無 言 行 を 修 す 。 ( 『 覚 鑁 上 人 事 』 『 霊 瑞 縁 起 』 ) こ の 間 、 し ば し ば 入定
中
の 覚 鑁 は 不 動 の姿
に 変 ず る 。 ( 『 上 人 縁 起 』 。 以 下 『 行 状 記 』 『 結 網 集 』 『 本 朝 高 僧 伝 』 な ど は 『 上 人 縁 起 』 と 全 同 な の で 省 略 )2
、 金 剛 峰 寺 衆徒
、 籠 居 中 の 覚 鑁 が 既 に 死去
し た も の と 疑 い 、 こ れ を 確 か め よ う と密
厳
院 へ の 乱 入 を 企 て る 。 ( 『 覚 鑁 上 人 事 』 『 霊 瑞 縁 起 』 『 上 人 縁 起 』)3
、 覚鑁
、 兼 海 の諌
言 に よ り 無 言行
を 結 願 し 、 手 書 を 上 皇 に 捧 げ 、伝
法 会 に 出 る 。 ( 『 覚 鑁 上 人 事 』 『 霊 瑞 縁 起 』 『 上 人 縁 起 』 )4
、 保 延 六年
十 二 月、 密厳
院 領荘
園 相 賀 の荘
と 金 剛峰
寺 領 荘 園 と の 問 に境
界
争 い が起
き る 。 ( 『 上 人 縁 起 』 『 高 野 春 秋 』 )5
、 十 二 月 八 日、 金 剛峰
寺
悪 僧、荘
園 の 境 界争
い を 口 実 に 兵 士 を集
め 、大
伝 法 院 ・ 密 厳 院 を襲
撃 す る 。 ( 『 上 人 縁 起 』 『 高 野 春 秋 」 )6
、 襲撃
さ れ た 覚 鑁 を め ぐ る 不 動 化 現 説 話 ( 錐 鑽 不 動 の 伝 説 ) ( 『 上 人 縁 起 』 。 『 撰 集 抄 』 は 年 次 を 示 さ ず 。 『 高 野 春 秋 』 『 太 平 記 』 は 内 容 が 少 し 異 な る 。 ) イ、 金 剛峰
寺 悪 僧 が 密厳
院 内 に 乱 入す
る 。 ロ 、 密 厳院
内 に お い て 入 定 し て い る覚
鑁 が、 本尊
の 不 動 明 王 と 同 じ 姿 を 現 ず る 。 ハ 、 二 体 の 不 動 を 見 て 、 ど ち ら が 覚 鑁 で あ る か 不明
と な っ た 金 剛峰
寺
悪 僧 が 、 鏃 を も っ て 不 動 像 の膝
を 揉 み 一 32 一 N工工一Electronlc Llbrary大伝 法 院襲撃事 件と不動化現 説話
7
、1098
、 、 、12
11
、 、14
13
、 、15
、 刺 す 。 二 、木
造 の 本尊
不
動 像 が 血 を 流 す 。 ホ 、 こ れ を 見 た覚
鑁 は、 本 尊 が身
代 わ り に な っ た こ と を 悲 し ん で定
よ り 起 ち、 本身
に 復 す 。 へ 、驚
い た 金 剛部
寺 僧 達 が 、 そ の 場 か ら 逃 げ る 。 金剛
峰
寺 衆 徒 は 、高
野 山 上 の 大 伝 法 院 ・ 密厳
院 他 百余
坊 を 切 り 払 い 、 大伝
法
院 衆 徒 を 高 野 山 よ り 追 い払
う
。 ( 『 上 人 縁 起 』 『 高 野 春 秋 』 )覚
鑁
、 高 野 山 を 去 り 、 根 来 円 明 寺 へ 移 る 。 ( 『 上 人 縁 起 』 『 高 野 春 秋 』 )弟
子
達 も覚
鑁 に 従 っ て 根 来 へ 移 る 。襲
筆
件 の張
本 で あ る宗
質
玄信
覚
賢等
が 遠 流 に 処 せ ら れ 、善
等 は あ 、 心 状 . 起 請 を 差 し 出す
。 ( 大伝
法
院 を 破却
せ る 金剛
峰
寺
悪 僧 の 中 、 張 本 を 遠 流 に 処 し 、 ま た 怠 状 起 請 を も っ て 、 大 伝 法 院 僧徒
を 帰 山 せ し め 、 元 のご と く 大 伝
法
院 ・ 密厳
院 ・ 菩提
心 院 の 御 願 を 修 行 せ し め る 院 宣 が 下 る 。 ) ( 『 上 人 縁 起 』 )鳥
羽 上皇
よ り 高 野 帰 山 の 院宣
が あ る も 、覚
鑁 は 帰 山 せ ず 。 ( 『 上 入 縁 起 』 )覚
鑁 の弟
子
で あ る兼
海 等 か ら 金 剛 峰 寺方
へ 和 平 ・ 高 野帰
山 の申
し 入 れ が あ る も 、 金 剛 峰寺
方
は 許 さ ず 。 ( 『 高 野 春 秋 』 )康
治
二年
、 覚 鑁 入 滅 す る 。 久 安 三年
、 改 め て 大 伝 法 院 座 主 隆 海 ・ 密 厳 院 主兼
海 等 よ り 高 野 帰 山 の申
し 入 れ が あり
、 上皇
より
院 宣 が 下 さ れ る 。 ( 『 本 寺 與 伝 法 院 相 論 文 書 写 』 『 高 野 春 秋 』 ) 金 剛 峰 寺方
、兼
海 ・ 隆海
等 よ り 、今
後 一 切本
寺
( 金 剛峰
寺
) の 命 に背
か ず、 違 背 す る こ とあ
れ ば 擯 出 せ し む と の誓
状 ・ 起 請 を 出 さ せ 、帰
山 を許
す 。 ( 『 本 寺 與 伝 法 院 相 論 文 書 写 』 『 高 野 春 秋 』 〉NII-Electronic Library Service 智 山 学 報第四 十九輯
16
、仁
安 三年
一月
八 日 、 裳 切 り 騒 動 (大
伝 法 院修
正 会 に 当 り 、大
伝 法 院 衆 徒 が 色 衣 を着
る こ と を 不 正 と し 、金
剛
峰
寺
衆 徒 が大
伝法
院 ・ 密 厳 院 を 襲 撃 し て 八 十 余 坊 を 切り
払 い 、 大伝
法 院 衆徒
を 高 野 山 上 か ら 追 い 払 う ) ( 『 根 来 要 書 』 『 兵 範 記 』 『 愚 昧 記 』 『 高 野 春 秋 』 )17
、 同年
二 月 、大
伝 法 院 衆 徒 、 金 剛峰
寺 衆 徒 の 悪 行 を 訴 え る 。 ( 『 根 来 要 書 』 『 兵 範 記 』 『 愚 昧 記 」 )18
、 同 年 五 月 三 日 、大
伝法
院 襲撃
の 悪 僧 の張
本 と し て 、 執 行 宗賢
、 玄信
、覚
賢
等 、遠
流 に 処 せ ら れ る 。 ( 「 根 来 要 書 』 『 兵 範 記 』 『 愚 昧 記 」 。 『 高 野 春 秋 』 は 処 罰 の 理 由 を 異 な る も の に す り 替 え る ) 以 上 、覚
鑁 伝 関 係 諸 資 料 か ら 現 在 一般
的 に 理 解 さ れ て い る と 思 わ れ る 、 密 厳 院 籠 居 か ら覚
鑁 滅後
の 裳 切 り 騒動
に 至 る 過程
を 十 八 項 目 に 分 け て 概 観 し て み た 。 こ こ で こ の 問 題 に関
す る 現 代 の覚
鑁 伝 研 究 の 状 況 を 見 る と 、 そ の殆
ど が 根 来 ( 新 義 派 ) の 系 統 に よ る も の であ
る だ け に 、 金 剛 峰 寺 方 の 史 料 に 見 ら れ る 主張
を そ の ま ま に取
り 上 げ て い る も の は無
い と い え よ う 。 し か し そ れ ら の史
料
に し か表
れ な い事
項
に 付 い て取
り 上 げ て い る も の は多
い 。 ま つ 不動
化
現 説 話 ( 錐 鑽 不 動 の伝
説 ) に つ い て は 、 ど の 伝 記 研究
も 同様
に 、 後 に取
り 上げ
る 『 撰 集 抄 』 の 記事
を 引 い て 、保
延
六 年 の襲
撃事
件 の時
と す る事
は 保留
し な が ら も 、 諸 説 の伝
え ら れ る こ と を 述 べ る 。 こ れ ら の伝
記 の 中 で 、 昭 和 九 年 に 中 野 達慧
氏
が 著 さ れ た 『 興 教 大 師 正伝
』 で は 、虎
関 師 錬撰
『 元 享 釈書
』 に お い て 既 に無
実
な こ と と し て 批 判 さ れ て い る と し て 、 こ れ を 取 り 上 げ る 『 上 人 縁 起 」 以 下 の諸
伝
記 を 批 判 す る 〔 、 ∀ 。 而 し 保 延 六年
十
二 月 の 襲撃
事件
と 、 こ れ に よ っ て覚
鑁 以 下 の 大伝
法
院 方衆
徒
が 根 来 へ 移住
し 、金
剛
峰 寺 方 が 大 伝法
院 方 の 坊 舎 を破
壊
し た こ と を事
実
と し て認
め ら れ て い る互
。 そ し て 大伝
法
院方
衆
徒 の 高 野 帰 山 問 題 に つ い て は、 騒動
後
の 帰 山 者も
居 た で あ ろ う と推
測 さ れ な が ら 、 『 高 野 春 秋 』 な ど に よ り な が ら 、 兼 海等
の 帰 山 は、 久 安 三年
に 帰 服 の 怠 状 を 差 し 出 し た 結 果 で あ る と し て い る 。 一34
一 N工工一Electronlc Llbrary大伝法院襲 撃事件と不動 化現 説話 次 に 、 昭 和 十 六
年
に 出 版 さ れ た 那 須 政 隆 博 士 の 『 興 教大
師 伝 』 ( 三 で は 、 主 と し て 『 上 人 縁起
』 に 従 い 、 錐鑽
不 動 の 伝 説 を紹
介
し 、保
延 六 年 十 二月
の大
伝法
院 襲 撃 を 認 め て お ら れ る 。 そ の 口実
と さ れ た 相賀
の 荘 の 西 堺 の争
論
に つ い て も 、 保 延 五年
七 月 の 院 宣 八箇
条
を 上 げ て 認 め て お ら れ る よう
で あ る 。 ま た覚
鑁 の高
野 離 山 ・根
来 移住
を こ の 時 と し 、 上人
に 随 従 し た 者 は数
名 であ
っ た ろ う が 、 や が て多
く の 弟 子 達 が根
来 へ 集 ま っ た の で あ ろう
と さ れ る 。 ま た 昭和
五 十 年 に 出 版 さ れ た櫛
田 良 洪博
士 の 『 覚 鑁 の研
究 』 ( 5 ) で は 、兼
海 の 「 覚 鑁 上 入事
』 に よ っ て 、 こ こ に 記 述 の無
い こ と か ら 、 保 延 六年
の大
伝法
院 襲撃
・密
厳院
乱 入 説 は 、 そ の拠
り所
が 明瞭
で な い か ら さ ほ ど 重 視 は 出 来 な い と し て 、否
定 的 で あ る 。 ま た 錐 鑽 不 動 の伝
説 に つ い て は 、 『 撰集
抄 』 の 逸話
は 、 保 延年
間 の 無 言行
中 に 、 金 剛峰
寺 悪僧
達
の 中 に 密厳
院 に 乱 入 し よう
と 企 て る者
が現
れ た と い う事
実 が 訛伝
さ れ て 生 じ た も の で あ ろう
と さ れ る 。 そ し て覚
鑁
の根
来 移住
に つ い て は 、 『打
聞集
』 の中
に 、 保 延 五 年 十 一月
五 日 に 「 聖 人 、当
山 へ参
着 す 。 」 ( 6 ) と あ る の を 根 来 と解
釈
し 、 ま た 『 保 延 六年
談
義
打 聞集
』 の 四 月 の談
義
に 、 「 密厳
院 に て護
身 法 の釈
は 」 (. 、 ) と あ る の を 、 こ の時
に は
最
早
高
野
の 密厳
院 に は 居 住 し て い な か っ た と解
釈 さ れ 、 保 延 五年
冬 の 移住
と さ れ て い る 。 但 し 、 こ の 『打
聞
集 』に 見 え る 「 当 山 」 は 高 野 山 大 伝 法 院 で あ る と 理
解
す べ き で あ る し 、 密 厳 院 は 高 野 山 上 に し か な く 、保
延
六 年 四 月 に 覚 鑁 が高
野
山 に 居住
し て い た こ と は 明 ら か で あ ろう
。 ま た 櫛 田博
士 は 、覚
鑁 の 移住
に 伴 っ て 弟 子 達 も根
来 へ 移住
し て い た も の と さ れ、 金 剛峰
寺 方 の史
料 に よ っ て 、覚
鑁 入滅
後 の久
安 三 年 に 、大
伝
法
院 座 主 隆 海 ・ 密厳
院 主 兼 海 ら の 起 請 と鳥
羽 上 皇 の 院 宣 に よ っ て伝
法
院衆
徒 が高
野 山 へ 帰 山 し た と さ れ る ( 8 ) 。 昭和
五 十 二 年 に 出 版 さ れ た 宮坂
宥
勝博
士 の 『 興 教 大師
撰
述集
』 下 巻 巻末
の 「 覚 鑁 小 伝 」 ( 9v は 簡 単 な 小 伝 で あ る が 錐 鑽 不動
の伝
説 は 『 上 人 縁 起 」 と 『 撰 集抄
』 を 紹介
し 、 保 延 六年
の 襲 撃 と そ れ に よ る覚
鑁及
び 大伝
法
院 方 衆 徒 の 根 来 移住
を認
め ら れ て い る 。 但 し 、高
野帰
山 の 問 題 に は触
れ ら れ て い な い 。 ま た そ の 後 平 成 九 年 に 出版
さ れ た 『 興 教 大 師覚
鑁写
本
集 成 』 第 四 巻 所 収 の 「 総 論興
教
大 師覚
鑁 の 生 涯 と 思 想 」 ( 田 ) も ほ ぼ 同 様 で あ る が 、 但 し覚
鑁 が根
来
へNII-Electronic Library Service 智 山 学 報 第 四 十 九 輯 移 住 し て 、 大 伝
法
院 を 根 来 へ 移 し 、 学徒
の 養 成 に身
命
を捧
げ た と さ れ て い る 。 こ れ は 『 霊瑞
縁 起 』 に 覚 鑁 が根
来
寺
に 入 っ て 、 「 即 ち伝
法 院 の寺
役等
を 根 来寺
に 移 し 修 せ ら る 。 」 と あ る の に よ ら れ た も の であ
ろう
。 但 し覚
鑁 の事
跡 と し て 、根
来
で は大
円 明寺
・神
宮 寺 を創
建
し た の み で 、 こ こ に大
伝 法 院 を 移 し た 事実
は 認 め ら れ な い 。 次 に 昭和
六 十 一年
に 出 さ れ た 岩 出 町根
来 山誌
編纂
委 員会
編
『 根 来 山 誌 』 ( 、 〉 で は 、 概 ね櫛
田説
を 踏 襲 し な が ら 、但
し 、 覚 鑁 の 根 来 移 住 を 保延
六年
十 二 月 と し 、 こ こ で は 『 高 野 春 秋 』 の襲
撃 記事
と 錐 鑽 不動
の 伝 説 を紹
介 す る ( 『 上 人 縁 起 』 に は 触 れ な い ) が 、 そ の 間 の事
情 は 明 確 で は な い と す る 。 ま た 弟 子 達 の 高 野 帰 山 に 関 し て も 、 櫛 田 博 士 と 同様
に 『高
野春
秋 』 の 説 を 認 め て い る 。 平成
二年
三 月 出版
の 福 田 亮 成博
士 「 興 教 大師
覚 鑁 上 人 入 門 』 ハ 2 は、 極 く 簡単
な 一 般 向 け の 入 門 書 で あ る が 、 錐 鑽 不 動 の伝
説
に つ い て 『 撰集
抄 』 の 記事
を 紹介
し 、高
野 山 上 に争
い の在
っ た こ と を 述 べ ら れ る の み で 、大
伝法
院 ・ 密厳
院 襲撃
事
件
に つ い て は 何 も 触 れ ら れ て い な い 。 ま た 覚 鑁 の 根来
移 住 に つ い て は 保延
六年
の 翌年
に 当 た る 永 治 元 年 と さ れ て い る が 、 論 拠 は 示 さ れ て い な い 。 ま た覚
鑁 滅後
の 弟 子達
の 高 野帰
山 問 題 に も 触 れ ら れ て い な い 。 平 成 二年
十 二 月 に 出 さ れ た 松崎
恵 水 師 の 『 興 教 大 師覚
鑁
上 人 伝 』 ( . ) で は 、 『 上 人 縁 起 』 に よ っ て 、 保 延 六 年 十 二 月 に 相賀
の荘
の 堺争
論
に こ と よ せ て 金 剛 峰 寺 衆徒
が 大 伝 法 院 ・ 密厳
院 を 襲 撃 し 、 そ れ に よ り 覚 鑁 并 び に大
伝 法 院 衆徒
が 根 来 に移
住 し た こ と を 述 べ ら れ て い る 。 但 し 一 説 と し て 櫛 田博
士 の 保 延 五年
十 】月
説
を 紹介
す る 。 錐 鑽 不動
の伝
説 に つ い て は 『 上 人 縁 起 』 『 撰 集 抄 』 を 紹介
し 、覚
鑁 の 不 動信
仰 の熱
烈 な こ と を 物 語 る も の と さ れ る 。 平 成 四年
九 月 発 行 の 勝 又 俊 教博
士 著 『 興 教 大師
の 生 涯 と 思 想 』 ( 国 ) で は 、 保 延 五年
十 一 月 に 密 厳 院 襲 撃 ・ 乱 入事
件
が有
り 、 そ れ に よ り覚
鑁 并 び に大
伝
法 院 方衆
徒 が 根 来 へ 移 住 し た と さ れ る 。 こ れ は 櫛 田博
士 の 提 唱 さ れ た 保 延 五年
十 一 月 の 日付
と 『 上 入 縁 起 』 の 襲 撃 記事
と を結
び つ け ら れ た も の で あ ろ う し 、 恐 ら く保
延
五 年 七 月 二 十 八 日 付 け の 院 宣 八 箇条
に、 高 野本
荘 の 荘 民 が 相賀
の 荘 を押
妨 す る の を 止 め て い る の を受
け た も の で あ ろう
が 、 典 拠 と な る 史料
36
N工工一Electronlc Llbrary大伝 法 院襲 撃事 件と不動化現 説話 が
存
在
し な い 。 ま た 覚鑁
入 滅 後 の伝
法 院方
衆徒
の 高 野帰
山
問 題 に つ い て は 、 何 も 触 れ ら れ て い な い 。平
成
四 年 三 月 出 版 の 口 Φ巳
ニ オ 〈 o 口 α 霞5
Φ お 師 『 内 〉 困 ¢ 闃曳
゜。 口01
冥2
同滞
= 審 碧 ユ 乏 ゜ 『 訂 。 h 内 α α。旨
∪ 巴 ゜・ 7 昌 ( 日本
語 訳 『 即身
成 仏 へ の 情 熱 』 ) ( . ) で は 、 ほ ぼ 那須
政 隆 博 士 と 同 様 に 『 上 人縁
起 』 の 説 を そ の ま ま紹
介 し て い る の み であ
る 。従
っ て覚
鑁 の根
来
移 住 を保
延 六年
十 二 月 と し 、弟
子
で あ る 大伝
法
院方
衆
徒 も そ れ に 付 き従
い 移 住 し た と さ れ る よう
で あ る 。 そ の 後 、 弟 子達
は 高 野 へ帰
山 し た と さ れ る が 、 そ の 間 の事
情 に つ い て は 何 も 触 れ ら れ て い な い 。平
成 五 年 に 出版
さ れ た 『 浄 土 仏 教 の 思 想 』第
七 巻 所収
の吉
田 宏 哲 博 士 「 覚鑁
ー
真
言 密 教 と 浄 土 教1
」 ( 幡 ) で は 、 や は り 『 上 人 縁 起 』 の 説 を簡
単
に 述 べ る の み であ
り、 保 延 六年
十 二 月 に 相賀
の 荘 の堺
争 い か ら 大 伝法
院 ・密
厳 院 が 襲 わ れ 、 覚 鑁并
び に 大 伝法
院
衆
徒
が 根来
へ 移 住 し た と さ れ る 。 錐 鑽 不 動 の伝
説 も 『 上 人縁
起 」 の 説 を簡
単 に 紹 介 さ れ て い る の み で あ る 。 ま た覚
鑁 入 滅後
の 弟子
達 の 高 野 帰 山 問 題 に は 触 れ ら れ て い な い 。一 般 に、 大
伝
法 院 方 (新
義
派
)系
統 で 作 ら れ た覚
鑁 伝 で は 、 覚 鑁 の 入 滅 ま で を 語 る の み で 、 そ の後
の 弟 子達
の 高 野 帰 山 問 題 に ま で は触
れ ら れ て い な い 。 こ れ を 殊 更 に取
り 上げ
る の は 、 金剛
峰 寺方
関
係 の 史料
で あ る 。 但 し 、 こ れ ま で見
て き た よ う に 、現
代
の 研究
で は、 こ の 金 剛 峰寺
方
の 史料
に よ っ て 、弟
子 達大
伝
法
院 方衆
徒 の 高 野 離 山 ・ 根 来移
住 と覚
鑁 入 滅後
の 高 野 帰 山 が 論 じ ら れ て い る と い え る 。.
三
、保
延
六
年
の密
厳
院
襲
撃
1
『 伝 法 院本
願
覚
鑁 上 人 縁 起 』 の 説覚
鑁 の 根 来 移 住 の 切 っ掛
け と な っ た と さ れ る 保延
六年
十 二 月 の 金 剛 峰寺
方
衆 徒 に よ る 大伝
法 院 ・ 密厳
院 の 襲撃
・焼
き 打 ち事
件
は 、 現在
一般
に 知 ら れ て い る よう
な 形 で の 話 は 、貞
治年
間 ( = 二 六 二 〜 = 二 六 七 ) 以 降 の成
立 と 推定
一 一NII-Electronic Library Service 智 山学報 第四 十 九輯 さ れ て い る 『
伝
法 院 本 願覚
鑁 上 人 縁 起 』 ( 以 下 『 上 人 縁 起 』 ) に お い て 初 め て 見 ら れ る も の で、 そ れ 以 前 の 伝 記 類 、 正 応 五 年 ( 一 二 八 八 )覚
満 撰 『高
野 山 大伝
法
院本
願 霊 瑞 并寺
家 縁 起 』 二 巻 ( 以 下 『 霊 瑞 縁 起 』 Y や 元亨
二 年 ( = 二 二 二 ) 成 立 の 虎 関 師 錬 撰 『 元享
釈
書 』 中 「覚
鑁 伝 」 、 正 中 二年
( 一 三 二 五 ) 六 月 三 十 日 成 立 の 栄 海 撰 『 真 言 伝 』 中 「 覚鑁
伝
」 な ど に は 見 る こ と が 出 来 な い 。 そ れ ら より
以 降 の成
立 で あ る 『 上 人 縁 起 』 に お い て 、 い わ ゆ る 「 錐 鑽 不 動 」 と し て 知 ら れ る 不動
化
現 説 話 ・伝
説 を伴
い 、 保延
六年
と い う 年 次 を 明 記 し た大
伝
法
院 ・ 密 厳 院襲
撃事
件
が 説 か れ る よ う に な る 。 『 上 人 縁 起 』 で は こ の 間 の 状況
を 次 の よう
に 描 写 す る 〔 卩 ) 。 (1
)覚
鑁
は 、 長 承 三 ・ 四 年頃
よ り 密厳
院 に 籠 居 し て 入 定 を 修 し た と し 、 こ の 時 、 昼 は覚
鑁 が本
尊 不 動 明 王 を 供養
し 、夜
は 不 動 三摩
地 に 住 す る覚
鑁 を本
尊
不 動 が供
養 し た と す る 。 (2
) こ の 間 、覚
鑁 は 門 を 出 る こ と も なく
、 他 門 の 衆 は 誰 も 入 れず
、 こ れ に よ り 金 剛 峰 寺 衆 徒 は 偏執
を な し て、 「高
野 山 に お い て 弘 法 大師
の御
入 定 は 天 下無
双 の 奇 特 、海
内無
二 の 勝事
な り 。 爰 に覚
鑁 上 人 、 大 伝法
院 を建
て て 金 剛 峰寺
に 竝 び 、 禅 堂 を 造 っ て奥
院 に 擬 す 。大
師 の 入定
、 竜華
の 三 庭 を待
ち た ま ふ に 、 覚 鑁 が座
禅
、 慈尊
の 下 生 を 期 す 。 事 毎 に大
師 に 竝 び 、 入 定 を修
す
に 擬 す 。 然 れ ば 早 く 大 勢 を率
て 密厳
院 に乱
入 し 、 上 人 を 引 き 出 し て 入定
を 妨 ぐ べ し 。 云 云 」 と 群 議 を し 、密
厳
院 に 乱 入 し て 入 定 を妨
げ ん と し た 。 (3
) こ れ に対
し 弟 子 達 の勧
め に よ り 、覚
鑁 は定
を 出 て 、 保 延 五年
四 月 二 日 に 伝法
大
会 の 開 白 を聴
聞
す る た め に參
堂 し 、 諸 衆 の前
に姿
を 現 し た 。 (4
)而
し そ の後
も ま た 籠 居 し て い た 間 に 、 相賀
の 荘 の 堺 争 論 が 起 き た 。 こ れ は 『 御手
印 縁起
』 を 改 め て 相賀
の堺
を 掠 め取
る も の と さ れ る 。 (5
) そ し て 保 延 六年
( 一 一 四 〇 ) 十 二 月 七 日 に 金 剛 峰寺
衆 徒 が 蜂起
を 企 て 、 翌 八 日 に密
厳院
に 乱 入 し た と こ ろ 、堂
内 に覚
鑁 の 姿 が見
え ず、壇
上 に 二 体 の不
動 尊 が 同座
し て い た 。 悪僧
ど も は ど ち ら が 覚 鑁 で あ る か を 見 分 け ら れ 一38
一 N工工一Electronlc Llbrary大 伝法 院襲撃 事件と 不動化現説話
ず
、 矢 の 根 を 以 て 膝 を鑽
た と こ ろ 、 二体
とも
に 血 を 流 し た 。 こ れ に よ り 悪 僧 達 は 力 及 ば ず に 退 去 し た と い う 錐 鑽 不 動 の伝
説
が 語 ら れ る 。 (6
) 覚鑁
は 過 無 き 本 尊 に こ の よう
な 憂 き 目 を 遭 わ せ る こ と は 悲 し い こ と だ と し て 、密
厳 院 を 出 て 直 ち に根
来 へ 入 っ た 。 (7
) そ し て こ の 不 動 の 霊 像 は弘
法
大 師 の 御作
で あ り 、 東寺
西 院 の 本 尊 で あ っ た が 、 美 福 門 院 の申
し 付 け に より
覚 鑁 が模
刻
を し 、 模刻
を 東寺
に 返 し 、弘
法 大 師御
作 の本
尊 を密
厳
院 に安
置 し た と さ れ 、後
に根
来 の密
厳 院 に移
し 、 今 に伝
え ら れ て い る と いう
根
来
密厳
院
の 不 動 像 の 縁 起 が 語 ら れ る 。 (8
) そ し て 金剛
峰
寺 の 悪僧
達 は 、覚
鑁 を 追 い 出 し た後
、大
伝法
院 方 の 坊 舎 二 百 余 坊 を 切 り伏
せ 、 仏具
・本
尊
等
を 奪 い 取 り 、 大伝
法 院 方衆
徒
七 百余
人 を追
放
し た 。 (9
) こ の こ と が大
伝法
院 方 よ り貫
首
へ 注 進 さ れ 、 貫首
よ り鳥
羽 上 皇 へ 伝 え ら れ 、張
本 であ
る 執 行 宗 賢 、 執 行 代玄
信
、覚
賢
等
が還
流
に 処 せ ら れ た 。 (0
璽 ) ま た こ こ で兼
賢
阿 闍 梨始
め多
く の 僧 が 起 請 ・怠
状
を 霪 げ た と し 、兼
賢 の長
承
三 年 (=
三 四 ) 八 月 五 日 の 起 請・ 怠状
を 引 用す
る 。 ま た長
承
・保
延年
中
の 起請
・ 怠状
を 進 め た 人数
を 上げ
る 。 (1i
) そ の 後 、 覚鑁
に高
野 由 帰 山 の 院 宣 が 下 さ れ る が 、帰
山 す る こ と な く 、根
来 寺 を建
立 し た と さ れ て い る 。 ま た こ こ で保
延 五年
七 月 二・ す 八 日 に 下 さ れ た 院 宣 八箇
条 状 の 一 部 が 引 用 さ れ る 。 こ の 『 上 入 縁 起 』 の 記事
に は 、多
く の 矛 盾 ・ 問題
が 存 在 す る 。先
づ 切 っ掛
け
と な っ た と さ れ る 保 延 六年
十 二 月 の相
賀
の荘
の 境 界争
い で あ る が 、 こ れ に つ い て は 『 上 人縁
起 』 の成
立 年次
の 問 題 と 合 わ せ て 、 別 に 論ず
る こ と と し璽
、 た だ こ の記
事
が 『 上 人 縁 起 』 以 前 の覚
鑁伝
関 係諸
史
料
中 に 見 ら れ な い こ と と 、 そ こ に結
び つ け ら れ た 『 御手
印
縁
趨 』 を領
有
権 の根
拠 と す る 問題
の 生 じ て く る の が 、大
侮
法
院 が高
野 山 上 か ら無
く な っ た後
の事
柄 で あ る こ と だ け を指
摘
し て お き た い 。 一 39 一NII-Electronic Library Service 智 山学 報第四十九輯
次
に (9
) の 張 本 で あ る 執 行宗
賢 、 執 行代
玄 信 、覚
賢等
が 遠 流 に 処 せ ら れ た と いう
記 事 であ
る が 、 こ れ は 『 高 野 春 秋 』 ( . ) な ど が 指摘
す る よ う に、 仁安
三 年 ( 一 一 六 八 ) 正 月 八 日 の い わ ゆ る 「 裳 切 り 騒動
」 に お い て 、 金 剛 峰 寺方
衆 徒 が 大 伝法
院 を 襲 撃 し 、 諸 院 房舎
を 破 却 し、 什 物 を 奪 い 、 こ れ に よ り 大 伝 法 院 方 衆 徒 等 が 逃散
し た 。 こ れ に 対 し 五 月 三 日 に悪
僧
の 張 本 と し て執
行 宗 賢 、 玄 信 、覚
賢等
が遠
流 に 処 せ ら れ る 、 と いう
時 の も の で 、保
延 六 年 、 明 け て 翌 永 治 元 年 の も の で は な い 。 ま た (8
) の 金 剛 峰寺
の 悪僧
達 が 大伝
法 院 方 の 坊舎
二百
余
坊 を 切 り伏
せ 、 仏 旦 ハ ・ 本尊
等 を 奪 い取
り 、 大 伝法
院方
衆 徒 七 百 余 人 を 追 放 し た 、 と いう
記事
は 、 「覚
鑁 を 追 出 し た 」 と いう
以 外 は 、 こ の 「 裳 切 り 騒 動 」 の 記 録 と 全 く . 致 し て い る 。 「 裳 切 り 騒 動 」 の 切 っ 掛 け は 、高
野 に 隠 遁 し て い た 入 道 教 長 ( 、。 ) の 命 に よ り 、 正 月 の 修 正会
に お い て大
伝法
院
方 衆 徒 が 色 衣 を被
着
し た こ と で あ り 、高
野 の 定 め で は黒
衣 を著
す
こ と が 高 祖 空 海 の 起 請 で あ る と し て 金 剛 峰 寺 衆 徒 が 非 難 を し 、 こ れ を 無 理 に 制 止 し よ う と し て 騒 動 と なり
、 金剛
峰 寺衆
徒
の 中 に 死 亡 す る も の が あ り ( こ の 時、 大 伝 法 院 方 は武
器
を 持 た ず と す る か ら( . ) 、 こ れ が 大伝
法 院 方 の 抵抗
に 遭 っ て 死 亡 し た も の か 、 騒 乱 の 中 で仲
間 の手
に よ っ て 誤 っ て 死 亡 し た も の か 不 明 で あ る 。 ) 、 勢 い を 増 し た 金 剛峰
寺 衆徒
が 大 伝法
院 方 の 坊舎
を 切 り伏
せ 、 財物
を奪
い 、 衆 徒 を追
い 払 っ た も の で あ る 。 左 大 臣 三 条 実 房 ( 一 一 四 七 〜 一 二 二 五 ) の 日 記 で あ る 『 愚昧
記
』 ( 怨 に よ れ ば ( こ の時
実 房 は 中 納 言 ) 、張
本 で あ る 入 道 教 長 は夜
のう
ち に 逃げ
去 っ た と いう
。 ま た 両寺
の 僧 侶 を 召 し て対
決 さ せ た 上 、 院 宣 に よ り 本 寺 ( 金 剛 峰寺
方 )衆
徒 を厳
禁 に 処 し た た め 、種
種 の宝
物
を 盗 み取
っ て 逃 げ 去 っ た と さ れ て い る 。或
い は 鳥 羽 上 皇 の 院 司 で あ っ た 兵部
卿 平信
範
( 一=
二 〜 一 一 八 七 ) の 日 記 で あ る 『 兵 範記
』 ( 怨 で は 、更
に 執 行 宗 賢等
の 処 分 の 内 容 が 詳 し く 記録
さ れ て い る 。 勿 論 、 こ れ に 関 わ る大
伝法
院 方 の奏
状 や 院 宣 な ど も 残 さ れ て い る 。 こ れ に 対 し 保 延 六年
、 又 は 翌 永 治 元 年 の大
伝 法院
方
の奏
状 と いう
も の は そ の 記 録 が 無 く 、 処罰
に 関 す る 院 宣 の記
録 も 『 上 人 縁 起 』 に 引 か れ る も の だ け で あ る 。 そ も そ も執
行
宗 賢等
の 処 分自
体 が 仁安
三年
の も の で あ り 、永
治 元年
一40
一 N工工一Electronlc Llbrary大伝 法院襲 撃事件と不動化現説話 の も の で は な い 。 永 治 元
年
の金
剛
峰
寺執
行 検校
は 琳 賢 で あ り 、 琳賢
は 後 の 久安
五 年 ( 一 一 四 九 ) 五月
に 大 塔 が雷
火 に よ っ て 焼失
し た 責任
を と っ て辞
任 す る聾
ま で 、執
行検
校 職 を無
事
に 勤 め て お り 、 そ の 間 に 金 剛 峰 寺 方衆
徒
が 、 大 伝 法 院 方 と の争
論 に 関 わ っ て 何等
か の 処 罰 を受
け た と い う 記 録 は 全 く 見 ら れ な い 。当
然 、 執 行 は 『 上 人 縁 起 』 が 述 べ る宗
賢 で は な い 。 こ れ は 実 際 に こ の時
に 、 金剛
峰
寺
方僧
侶 に 対 し て 何等
の 処罰
も行
わ れ な か っ た と考
え る べ き で あ る 。 ま た (10
) で兼
賢 阿 闍 梨 を初
め と す る多
く の 僧 が 起 請 ・ 怠 状 を捧
げ た と し 、兼
賢
の 起 請 ・ 怠 状 を 引 用 す る が 、 こ こ に文
面 を 上 げ て い る の は 長 承 三年
(=
三 四 ) 八 月 五 日 の も の で あ り 、 。 ま た他
の 長 承・保
延 年 中 の 起 請 ・ 怠 状 を 進 め た 人 数 を 上 げ る が 、 こ れ ら も 全 て 保 延 六年
よ り 以 前 で あ る 。 従 っ て こ れ ら の 起 請 ・ 怠 状 が 保延
⊥ ハ年
の 襲撃
事
件 や そ の後
の 処 罰 に よ る も の で な い こ と は 明白
で あ る 。 ま た (H
) の 帰 山 の 院 宣 と 云 わ れ る も の は 、 そ の 本文
が 示 さ れず
、 金剛
峰
寺
方
の 張 本 を 遠 流 に 処 し 、 そ の 他 は 怠 状 ・ 起請
を 捧 げ た の で 、 早 く帰
山 し て 御 願 の 勤 め をす
る よ う に と いう
も の で あ る が 、 な ぜ 本 文 を 上 げ る こ と が で き な い の か 。 こ の 中 で 怠状
・ 起 請 の 問 題 を 除 け ば 、 内 容 的 に は 仁 安 三年
の 裳 切 り 騒 動 の 時 の も の と 一 致 す る の で あ り、 永 治 元年
の 院 宣 そ の も の は 伝 え ら れ て い な い と い え る 。 ま た大
伝
法 院 ・ 密 厳 院 は 鳥 羽法
皇 の 御 願 寺 で あ り 、 そ こ で は御
願 の 勤 め が為
さ れ な け れ ば な ら な か っ た 。若
し こ の 御 願寺
を破
却 し た と す れ ば 、 重大
な事
件
で あ っ て、 そ の 張本
で あ る執
行
を 初 め と す る 金 剛 峰寺
方
衆 徒 が 処 罰 を さ れ な い筈
が な い で あ ろう
し 、 そ れ に 対 す る 朝廷
・ 院 政 関係
の何
等 か の 記 録 が残
っ て い る筈
で あ る 。 実 際 、 仁 安 三年
の 「 裳 切 り 騒 動 」 が 大事
件
であ
っ た の は 、 鳥 羽 上 皇 ・ 美福
門 院御
願 の寺
を破
却
・ 焼 亡 し 、 そ こ に お け る 御 願 の 御修
法
を 中絶
さ せ た た め で あ り 、 そ の 早 急 な復
興 が 図 ら れ て い る芭
。 そ し て そ の事
件 の張
本 と し て 、時
の 執 行宗
賢
等
が 遠 流 に 処 せ ら れ 、 院宣
等
の 関 係 文 書 が 『 根 来 要書
』 に 収 録 さ れ、更
に 「 兵範
記 』 ・ 『 愚 昧記
』 な ど の 公 卿 の 日 記 にも
NII-Electronic Library Service 智山学報第四 十九輯 記 録 さ れ て い る 。 『 高 野 春 秋 』 で も こ の
執
行 検 校 達 の処
罰 ・ 交 代 は 記 録 さ れ て お り多
、决
し て 無 視 さ れ て は い な い ( 理由
付
け は 金 剛 峰 寺 方 に有
利
な も の に 改変
さ れ て い る が ) 。 そ れ に 対 し て 、 保 延 六年
十 二 月 の 大 伝 法 院 ・ 密厳
院 襲撃
事
件 も 、 全 く 同様
に ( 同 一 の )御
願 寺 の 破却
事 件 で あ り 、 院庁
・朝
廷 に と っ て も 重大
事
件
で あ っ た筈
で あ る 。 若 し こ れ が実
際 に 在 っ た こ と で あ れ ば 、 金 剛 峰 寺 方衆
徒 の 処 罰 は 勿 論 、 大伝
法 院 方 か ら の奏
状 、 そ れ に 対 す る 院宣
、 更 に は 第 三者
的 史 料 と し て の 公卿
の 日 記 類 等 に 何 等 か の 記 録 が残
さ れ て い る 筈 で あ る 。 し か し 『根
来
要 書 』 に も 、 『 扶 桑 略 記 』 や 公 卿 の 日 記 な ど の 当 時 の 他 の 記 録 類 に も 、 全 く そ の 記事
を 見 出 せ な い し 、 金剛
峰
寺 方 僧侶
の 処 罰 に 関 す る 記 録 も見
出 す こ と は 出 来 な い 。却
っ て 、 翌永
治 元年
以 降 も 引 き 続 い て 正 月 の朝
拝 を 初 め と す る執
行
検校
の職
務
を 、時
の 執 行琳
賢 が 無 事 に 勤 め て い る 。 仁安
三 年 に は 見 ら れ る大
伝
法 院 ・ 密 厳 院再
建 の 院 宣 に 関す
る 記 事 も 、 永 治 元年
以 降 の 時期
に は 見 出 せ な い 。 こ れ ら の 記 録 が 全 く 残 さ れ て い な い こ と 、 及 び 金 剛峰
寺
方 衆徒
の 処 罰 が 実 際 に は 全 く行
わ れ て い な い と考
え ら れ る こ と は 、 こ の 保 延 六 年 の 襲 撃 事件
そ の も の の事
実
性 に 重 大 な疑
問 が 存在
す る と いう
こ と で あ る 。 42N工工一Electronlc Llbrary Servlce
2
『 高 野 春 秋 編 年 輯録
』 の 説 『高
野 春 秋 』 〔 召 で は 『 上 人縁
起 』 の 伝 承 と 同 様 に 保 延 六 年 十 二月
の大
伝 法 院 ・ 密 厳 院襲
撃
事
件 を 記 録す
る が 、 そ の 内 容 は 十 二 月 七 ロ に本
寺 ( 金 剛 峰 寺 ) 方衆
徒 及 び 坊 人等
が 相 賀荘
の 争 論 に こ と よ せ て 諸 荘 の 兵 士 を 集 め 、伝
法 院 へ 駈 け よ せ よ う と し た 。 八 日 に本
寺
坊
人 が 兵 士 を 引率
し て伝
法
院 ・ 密 厳 院 を責
め る と 、 院 僧 ( 大 伝 法 院 方衆
徒 ) は 甲 冑 を 帯 し 、 番 士 を 組 み 入 れ て こ れ を 待 ち 受 け 応 戦 し た が 、終
に 退散
し た 。覚
鑁 は根
来 へ 出奔
し 、 本寺
方 衆徒
は 勝 ち に 乗 じ て 僧 房 八 十余
宇 を破
却
し た 。 此 れ は覚
鑁 の 門徒
の 僑慢
に よ る も の で 、本
寺 を 蔑 す み 、末
院 を高
挙
し た た め で 、 祖 神 ( 高 野 明 神 ) の神
意 であ
る と す る 。 ま た そ こ で注
記 の 中 に 「 山 史 に 云 く 」 と し て 、覚
鑁 は 密厳
院 を 追 い 立大伝法 院襲撃事件 と不動化 現 説話 て ら れ 、 院 の 前 の 蓮 池 に 入 り、
木
造 の 五輪
卒
塔婆
に 変 じ た が 、坊
人 が こ れ を 打 ち倒
そ う と し た の で 、 ま た 形 を 現 じ て 不 動 口 に 逃 げ 、 不 動 堂 に 入 っ て 不 動 に 化 け た 。 世 智 の者
が 試 み に錐
を も っ て尊
の膝
を 揉 む と 血 が 流 れ 、覚
鑁 は こ れ を 見 る に忍
び ず 、 堂外
へ飛
び 出 し て 直 ち に 根 来 に奔
っ た 、 と さ れ る 。 ま た こ の事
件 に 関 す る 私案
を 述 べ た終
に 、 「結
網
集 』 が宗
賢
等 の 配流
を 載 せ る の は 仁安
三 年 の 「裳
切 り 騒 動 」 の 誤 り で あ る こ と を 指 摘 す る 。 但 し こ こ で 、 こ の 保 延 六年
の 騒 動 に 対す
る 金 剛 峰寺
方
衆 徒 の 処罰
や 、院
庁
の 対 応 の 問 題 な ど は 一 切 触 れ ら れ て い な い 。 勿 論 こ れ は そ の よう
な 処 罰 が 無 か っ た か ら で あ ろう
し 、 保 延 五 年 に 補任
さ れ 、 こ の時
の 執行
検 校 で あ っ た琳
賢
が 永治
元年
正 月 の朝
拝 を勤
め る な ど 、 そ の 後 も 一貫
し て執
行
検校
職 に在
っ た こ と を 記録
し て い る 。 こ れ に対
し 仁安
三年
の 「 裳 切り
騒 動 」 に 関 す る 『 高 野春
秋 』 の 記事
( 弩 は 、 些 か 誤 謬 が 見 ら れ る 。 こ こ で は 正月
十 一 日 に本
寺
・末
院 僧 侶 が相
い 交 じ っ て伝
法院
の 修 正 会 を勤
め る 時 に 、 本 寺坊
人 が 末 院 衆 の 絹 の 裳 を 切 り 捨 て 、 こ れ に よ り末
院 の 悪 僧 が本
寺 の承
仕 僧 を 殺害
し 、 そ の後
合 戦 と な っ て 、学
頭
隆 海 ・座
主 日 禅 ( 釜 は 出奔
し 、 本 寺 方 は 力 を 励 ま し 、 院 僧 七百
余
輩 を 追 撥 し 、 院宇
二 百余
坊 を破
却
し た 。 こ れ は 久安
三 年 の 院 僧 帰住
の 誓 紙 ・ 院 宣 に 任 せ た も の で あ る と す る 。 こ の帰
住 問 題 に つ い て は後
に 触 れ る が 、 更 に 『高
野 春 秋 』 で は 二 十 日 に 、 日 禅 ・隆
海
等 (大
伝
法 院 方 衆徒
) の僑
恣
・ 非法
・ 濫行
、 特 に覚
鑁 の 大 師 号 奏請
の 趣 を 官 に 訴 え 、 五 月 三 日 に官
裁 が 下 り 、 騒 動 の 原 因 は 大伝
法 院方
の 非 法 ・濫
行
の た め で あ り 、 本寺
僧
殺 害 は 重 罪 で あ っ て 永 く帰
住 す べ か ら ず 、殺
害 人 は 禁 獄 と し 、 以後
は覚
鑁 の大
師
号 の 奏 上 は し て は な ら な い と い う こ と に な っ た 。 し か し 本寺
方 の 訴奏
は 私意
を 先 に し、 公 裁 を 後 に し た も の で 不義
で あ る か ら検
校宗
賢
・ 上 綱 玄信
等 が 配 流 さ れ る こ と に な っ た 、 と す る 。 こ の 『高
野春
秋 』 の記
事
は 、 『 兵範
記 』 『 愚昧
記 』 に 照 ら し て 明 ら か に 誤 り で あ り 、裳
切り
騒 動 の事
実 関 係 を 金剛
峰 寺方
に有
利
な も の にす
る た め に 歪 め て し ま っ たも
の で あ る 。 金 剛 峰 寺 方 僧 の 死 亡 に つ い て は 、 『 愚昧
記
』 に よ れ ば大
伝法
院 ・ 密 厳院
襲
撃
の 争 乱 の 中 で 起 き た も の で 、 実 際 に ど の よ う な 状 況 下 で 起 き た こ と か は 不 明 で あ る 。 こ の当
NII-Electronic Library Service 智 山学報第四十 九輯
時
の大
伝
法
院
方 の 主 張 に よ れ ば 甲 冑等
を備
え ず と す る 璽 。 ま た大
伝
法 院・ 密 厳院
の 再 建 、 大伝
法
院方
衆徒
の 帰山
に つ い て も院
宣
に よ っ て 促 さ れ て お り 、 『高
野 春秋
』 に 載 せ る官
裁 の マ 水 く帰
住す
べ か ら ず 」 と いう
よう
な も の で は な い 。宗
賢等
の 遠 流 と い っ た 処 罰 は 「裳
切 り 騒動
」 の も の で あ っ て 、 訴 奏 云 云 と い う よう
な も の で は な い 。 勿 論 、訴
訟 の 仕 方 だ け で 遠 流 に さ れ る こ と は考
え ら れ な い 。 こ れ は 金 剛 峰 寺方
の 訴 奏 が 正 し い も の で あ り 、官
に も 認 め ら れ た と 主 張 し な が ら 、 し か も 遠 流 の 処 罰 の事
実 は 誤 魔 化 せ な か っ た た め に 、 そ の 理由
を 作為
し た も の で あ ろう
。 ま た こ こ に 見 ら れ る 覚 鑁 大 師 号 奏 請 の 問 題 で あ る が、 櫛 田 博 士 は こ の 『 高 野春
秋 』 の記
述 を信
用 さ れ て い る よう
で あ る が羣
、 仁安
三 年 は覚
鑁
入 滅 か ら僅
か 二 十 五 年後
の こ と で あり
、 覚 鑁 の直
弟 子 達 が 生存
し て い る 。 入 滅 直後
に 大 師 号 を 下 賜 さ れ た 慈 覚 大 師 円 仁 の 例 な ど も あ る が、 こ れ は 特 殊 な も の で 、 真 言宗
で は 空 海 に 対す
る 弘法
大 師号
の 下 賜 も空
海
入 定 か ら 八 十 六年
後 の 延喜
二 十 }年
で あ っ た し 、 覚 鑁当
時 で は、 寛 助 ・厳
覚
等
が 先 師寛
朝 ( 九 一 六 〜 九 九 八 ) の 大 師 号 を 奏 請 し た の が寛
朝 入 滅 後 百 年 以 上 を 経 た 天 仁 二 年 ( 一 一 〇 九 ) で あ っ た 。覚
鑁 の 師 で あ る 寛助
は 勿 論 、 未 だ 益 信 ・ 聖 宝 な ど も 大 師 号 を 下賜
さ れ て い な い 時 に 、 如 何 に 鳥 羽 上 皇 の帰
依 を受
け て い た と は い え 、 入 滅 直後
の覚
鑁
の 大 師 号 奏 請 な ど が あ っ た と は 考 え が た い 。 大伝
法院
の 本 寺 (貫
首 ) で あ る 仁 和 寺 門 跡 、 ま た は そ の 政 所 が そ の よ う な 奏 請 を 認 め る筈
も な い し 、 院 庁 へ 取 り 次 ぐ こ と も あ り 得 な い であ
ろ う 。 な ぜ 『 高 野 春 秋 』 が 宗 賢 等 の遠
流 の 理 由 付 け と し て こ の よ う な 内容
を創
作
し た の か は 不 明 で あ る が 、覚
鑁 大師
号
奏 請 の記
事 は事
実 と は 認 め が た い し 、 こ こ に こ の よ う な記
事
が 挿 入 さ れ た こ と は 、 や は り 「 裳 切 り 騒 動 」 に お け る官
裁 の 理 由付
け の た め の 付 会 とす
べ き で あ ろう
。 一44
一N工工一Electronlc Llbrary Servlce
3
亠 咼 野 山 上 の 大伝
法 院 方 と 久 安 三年
高
野 帰 山 説 ま た 「高
野春
秋 』 で は 、 保延
六 年 の襲
撃
に よ っ て 大伝
法
院方
を 追 却 し た 後 、久
安
三年
の大
伝法
院 座 主 神覚
( 隆 海 ) ・大伝法院襲撃事件と不動化現説話 密 厳 院 主
兼
海 の 誓 状 と 院 宣 に よ っ て 帰 山 を 許す
羣 ま で 、 高 野 山 上 に は 大伝
法
院 方 衆徒
は 存 在 し な い も の と し て い る 。櫛
田 博 士 は 襲撃
事
件 そ の も の は 認 め ら れ な い よう
で あ る が 、 然 も こ の帰
山 の 院 宣 を 認 め て 、覚
鑁 の 根 来 移 住 に 伴 っ て弟
子
達 も 移 住 し て い た も の で あ り 、 そ の 間 に 高 野 へ 帰 山 す る こ と が で き な か っ た も の と さ れ て い る 。而
し 覚 鑁 が根
来 へ 移 住 し た後
も 、 高 野山
上 に 大 伝 法院
・ 密 厳院
は 存在
し 、 大 伝法
院
方
衆
徒 は 居 住 し て い た の で あ り 、 決 し て 覚 鑁 と と も に根
来 に移
り 、 高 野山
上 か ら そ の 跡 を 絶 っ た な ど と い う こ と は な い 。 先 づ こ の 時 期 の 大 伝法
院 ・ 密厳
院
の 政所
が機
能
を 果 た し て い た こ と は 、 永治
二年
( 一 一 四 二 、 四月
二 十 八 日 に 改 元 し て康
治
元 年 ) 三 月 十 三 日 に 相賀
の 荘 河 北 の 下 司 職 に 関 す る 下 文( 冊 ) が 密厳
院 政 所 よ り出
さ れ 、 同康
治 元年
十 月 十 一 日 に は紀
伊 の 国 使 ・在
庁
官
人 達 が 大伝
法 院 領荘
園
を 押 妨 す る の を訴
え る 訴 状 が 大伝
法 院 三 綱 の署
名
に よ り 出 さ れ て い る 藝 こ と な ど か ら 明 ら か で あ る 。 ま た こ の 騒 動 の 償 い と し て紀
伊 国 司 か ら 渋 田 の 荘 が 大伝
法
院 に 寄 進 さ れ て い る羣
が 、 そ こ に 再 建 の 言 葉 は な い 。 ま た 康 治 二年
( 天養
元 年 ) に 日前
・ 国懸
両社
の 神 人 等 が大
伝
法 院 領 山 東荘
を 押妨
し た こ と を 訴 え た 天 養 二年
三 月 二 十 八 日 の 訴 状( 哲 で も 三綱
が 署名
を し て い る 。 若 し 保 延 六年
の 襲 撃 に よ っ て 大 伝法
院
・ 密厳
院 が破
却
さ れ 、 伝 法 院 方衆
徒
が根
来 に 移 住 し た ま ま高
野 に帰
山 し て い な か っ た とす
れ ば 、 即 ち 大伝
法
院 ・ 密 厳 院 が実
質 的 に存
在
し な く な っ て い た と す れ ば 、 政 所 の 僧 侶 達 は 根 来 に 住 し て い た で あ ろう
が 、 そ の 院務
は 実 効 で き な か っ た で あ ろ う 。 こ の こ と は高
野 山 上 の大
伝法
院 ・ 密 厳 院 に 何事
も な く 、 そ の 政 所 が機
能 し て い た こ と を 示す
も の と考
え ら れ る 。少
な く と も 、 設 え 襲 撃 が あ っ た と し て も 、康
治 元年
以前
に は 完 全 に再
建
さ れ て い た と い う こ と に な ろう
。 ま た 保延
七 年 ( 一 一 四 一 、 七月
十 日 に 改 元 し て 永 治 元年
) 三 月 二 十 三 日 に 、第
二 代大
伝法
院 学 頭 (官
符
以 降 の 初 代 ) で あ っ た 宝 生 房 教尋
が高
野 南 谷 住 房 に 入 滅 す る が 、 そ の 最 古 の 伝 が如
寂
( 〜 一 一 八 七 〜 )撰
『 高 野 山往
生伝
』 〔 . v に 見 ら れ 、師
弟 の故
に 委 曲 を 知 る と し て、 そ こ に 仏 厳 房 聖 心 が 随 従 し て い た こ と が 示 さ れ る 。 聖 心 も ま た第
十 一 .NII-Electronic Library Service 智 山学 報第四十九輯 十 八
代
の 大 伝 法 院 学 頭 墾 で あ り 、 九 条兼
実 の 帰 依 の師
と し て 、 ま た 『 十 念極
楽易
往 集 』 の 抄 出 者 璽 と し て知
ら れ る が、 久 安 六年
の 覚 法 法親
王 の 高 野 で の逆
修
法 要 に さ い し て 小 田 原 教 懐 聖 人 堂 に修
さ れ た 孟蘭
盆 講 を 、 浄 林房
兼
海 .性
蓮 房 . 大 乗 房 証印
・ 泉 勝房
・ 理 覚 房等
と 共 に 、散
華 の 役 を勤
め て い る璽
大伝
法
院 方 の 僧 侶 で あ る 。勿
論 、教
尋
も ま た 大 御 室 性 信 法 親 王 ⊃ ○ 〇 五 〜 一 〇 八 五 ) 付 法 の 仁 和寺
僧
で あ り 、 大伝
法 院 方 の住
侶
と いう
べ き で あ る 。教
尋
は 「 血脈
類
聚 記 弔 ) で は コ 咼 野往
生 院 阿 闍 梨 」 と 称 さ れ 、 『高
野 春 秋 』 で は 高 野 に 隠遁
し た 初 め に は 往 生 院 に住
し、後
に 南 谷 に 庵 室 を 作 っ て 移 り 住 ん だ と さ れ て い る 。 覚 鑁 が高
野 山 に 初 め て 登 っ た 時 に 寄 住 し た の が 往 生 院 で あ っ た し ( 覗 ) 、 こ の 時 既 に 教 尋 は 南 谷 に 移 っ て い た も の の 、 そ こ に 住 し て い た ( 覚 鑁 を 迎 え 入 れ た ) 阿 波 上 人 青 蓮 は 、 や は り仁
和 寺 僧 と さ れ る ( 輩 。 こ の 往 生 院 は 興 福寺
僧 で あ っ た 小 田 原 聖 迎 接 房 教 懐 ( 一 〇 〇 一 〜 一 〇 九 三 ) の 創 建 であ
る が、 『 霊瑞
縁 起 』 羣 で は 大伝
法 院 の 八 箇 所 僧 院 の 一 に 数 え ら れ て い る 。 こ れ ら の こ と か らす
れ ば 、 こ の時
期 に往
生 院 は 仁 和寺
別 所 と な っ て お り 、教
尋
も 、 覚 鑁 も 、仁
和 寺 僧 と し て 仁和
寺 別 所 に 入住
し た も の と す べ き で あ ろう
。 ま た そ れ が 大伝
法 院 の建
立 に 伴 っ て 、大
伝 法 院 方 の 僧 院 と な っ た と考
え ら れ る 。 保 延 六年
十 二 月 か ら 未 だ 三 ヶ 月 し か 経 て い な い 時 に 、 教 尋 ・ 聖 心 と い う 大 伝 法 院 方僧
が 高 野 山 上 に 住 し て い た の で あ る 。 『高
野 春 秋 』 で は 教尋
を本
寺
( 金剛
峰 寺 方 ) の 僧 であ
る か の よう
に 記 し 、 大伝
法 院学
頭 と な っ た こ と を 「 末 院 の 学 頭 に推
挙
し て末
徒 に 本寺
の法
門 を 写 し 学 ば し め る 」 も の と し て い る§
が 、 こ れ は 前 年 ( 保 延 六 年 ) に大
伝法
院 方衆
徒
を高
野 山 上 か ら 追却
し て誰
も い な い筈
の 所 を 、 『 高 野 山 往 生伝
』 に 教 尋 の 伝 が記
録 さ れ 、高
野 山 上 に 居 住 し て い た こ と が 明 白 で あ る た め に 、 こ れ を 本寺
僧
と し た も の で あ ろ う 。 或 い は康
治
二 年 に 覚 鑁 建 立 の根
来 の 円 明 寺・ 神宮
寺
の 落 慶 供 養 が 行 わ れ て い る が 、 『根
来
要 書 』 に よ れ ば康
治 二年
二 月 十 七 日 に 高 野 山 よ り 大 日 ( 本尊
像
) を 迎 え 、 閏 二 月 八 日 に鳥
羽 院 の 熊 野 詣 の 途 次 に 供 養 を修
せ ら れ た と さ れ る 埀 。 と す れ ば こ の 時 、 高 野 山 上 に 大伝
法
院 方 の 勢 力 が 存 在 し、 根 来 と の 問 を往
復 し て い た こ と に な ろ う 。 一46
一 N工工一Electronlc Llbrary大伝法院襲 撃事件 と不動 化現 説話 こ の よ